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(2011年8月5日午後13時22分

北海道札幌市北海道大学内ポプラ並木に隣接したミックスフラワーを撮影)

 

 

 

(1)社団法人 日中協会 理事長 白西 紳一郎 様

 8月3日(水)午前8時30分から、社団法人日中協会(会長は衆議院議員の野田 毅様)の第59回理事会が東京都千代田区ホテルニューオータニで行われ、私も9時30分まで出席いたしました。

 

 同協会の理事長である白西紳一郎様は、1965年に京都大学文学部東洋史学科を卒業され、1967年から、日本国際貿易促進協会に勤められました。そして、1975年の日中協会設立に伴い、監事に就任され、2000年には理事長に就任されました。1967年以来中国には400回を超える訪問をなさったそうです。このご経歴からお分かりになるかと存じますが、日中友好にかける想いは青年時代から非常に強く「日中友好」に生涯をかけられてきており、また元来ムードメーカー、盛り上げ役と自負されておられます。そして、現在71歳でいらっしゃいますが、大変ゴルフがお好きな健康的な方です。

 

 私は白西様にお誘いをうけて2000年7月から日中協会の理事に就任しています。それは、私が中国の上海に日本高井・岡芹律師事務所上海代表処を1999年5月に設立していたからであります。ちなみに私はその後2006年、北京代表処も設立しております。

 

 さて、中国に進出した日本人・日本企業の多くが「中国人は信用できない」だとか「中国人にだまされた」などとぼやいていたり怨んだりしているのをよく耳にしますが、そのような認識をもつに至る理由は、日本人と中国人との思考が全く違うことを理解していないからだと思います。

 

 かつて孫文先生(1866~1925)は、『三民主義』(岩波文庫,1957)の中で、「中国人は一握りのバラバラな砂である」との論説を紹介されました。一方、日本人はまさに集団主義であります。日本最初の憲法である聖徳太子の17条憲法第1条には、「和を以って貴(たつと)しと為す。忤(さから)ふこと無きを宗とせよ」の一節がありますが、このことは日本人が集団主義を形成してきた根源となっています。ちなみに個人主義的な国民性は何も中国人に特有のものではなく、大陸国家、例えばヨーロッパ諸国の民族やアメリカ人等にも共通して言えることでしょう。

 

 しかし、文化の違う日中が交錯あるいは交流したとき、そこから新たな文化も生まれ得ることに、私たちは心を留めなければなりません。

 

 奈良時代の文人、阿倍仲麻呂は、8世紀初頭,西暦717年に、弱冠19歳にして遣唐使として入唐し、優れた才能を玄宗皇帝に認められ、王都・長安(現在は陝西省の省都・西安)で唐朝の要職を歴任し、ベトナム(越南)の支配人(安南都護府節度使)になりました。阿倍仲麻呂は彼の地で生涯を終えましたが、しかし、日本のことを忘れがたく、有名な和歌を残しています。それは、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」という詩です(753年,55歳の時に作られたとする説が有力です)。長きに渡り中国で仕事をしながら、そして重要な仕事を任されながらも、なお望郷の念が止みがたかったのでしょう。

 

 

 日中文化の懸け橋となった阿倍仲麻呂のお話をいたしましたが、上海と北京に事務所をもつ私は、彼の何十分の一でもいいから努力を重ね、日中文化、日中ビジネスの懸け橋となりたいと思っております。経営的には赤字が続いていますが、これを良しとせず、最善の努力をしながら、社会貢献活動という意味合いも充実させていきたいとして、私は本日に至るまで一生懸命努力しております。

 

 

 

(2)企画集団 知性コミュニケーションズ 代表 小石原昭先生

 

 8月3日(水)の18:30頃から21時まで、小石原昭先生と東京都新宿区神楽坂にあるL'Alliance(ラリアンス)にてお食事をしました。ラリアンスは、一店舗での年間売上が8億円(8000万円ではありません)にのぼり、フランス料理店として東京一・日本一の売上を誇っています。

 

 L'Alliance HP http://www.lalliance.jp/

 

 小石原先生は、1951年に河出書房に入社され、1954年に27歳の若さで若者向け新総合雑誌『知性』を企画、同誌の編集長となられました。1957年に河出書房が倒産後も、先生が中心となって同年に知性社(現・株式会社 知性アイディアセンター)を創立されました。爾来、日本最初のPRジャーナリズムを創造・発展させてこられ、文化人・知識人をシンクタンクとして新しい情報産業を創成されてきた方です。私は、先生とは1988年2月に初めてお会いし、爾来お付き合いをさせていただいております。

 

 先生は60年に亘る編集者人生の中で様々な人にお会いし、そしてその出会いに感謝の念を大いに持たれていたことに、大変感銘を受けました。いつもながらのお食事会では、色々な興味深いお話をお聞きしましたが、印象深かったお話を二、三、ご紹介させていただきます。

 

 第一に、小石原先生は84歳であるにも関わらず、何しろ大変な美食家でいらっしゃいます。様々な食事処にお出かけになられておられますが、何十年もの間昼食・夕食を外食なされておられます。そのような生活をされてきたにも関わらず、健康そのものです。勿論、健康には万全な気配りをされて いますが…。

 

 かつては、フランス料理が大好きでいらっしゃり、それは5年位続いたそうですが、今では99%といっていいほど、和食をお召し上がりになられているそうです。蕎麦、寿司、鰻等々美味しい料理をいただきながら、年中無休で働き続けていらっしゃるというお話をいつもながらお聞きしました。このお話は,7月26日付「2011年7月第4週<17日(日)~23日(土)>の交友録 その3」でご紹介した「自己欲するところの美味いものを食いつづけようとする意欲は、一概に贅沢などという平凡な一語に動かされてはならない。平凡な輩がいうところの『贅沢食い』をつづけ、心身の健康をつくり、人一倍優れた仕事が出来得るならば、美食は経済の本旨に逆らうものでないのではないか。」という魯山人の言葉の趣旨と同じであると思います。

 

 

 第二に、人は高齢になればなるほど、半ば当然と言っていいくらい物忘れが強くなるものですが、先生は正に頭脳明晰、記憶力抜群の方でいらっしゃいます。先生は昔の話を日時・場所・時間、その話から派生するエピソードまでもしっかり記憶されている驚くべき方です。私は往々にして、お話しさせて頂くのですが、昭和史・平成史の本を書かれたらどうですか、皆さんびっくりして感激なさると思いますよ、と何度もお勧めするのですが、頷いて下さいません。先生は名文家ですから、読者に感銘を与えるのは容易なことでしょう。

 

 例えば、ヤクルトの故・松園尚巳様についてのお話をしました。私も松園様とは2度ほどヤクルト社長室でお会いしたことがございますが、先生と松園様は松園様が他界された1994年まで、54年にわたるお付き合いをされていました。文藝春秋2011年3月特別号に、先生は松園様との思い出を「鰤」というタイトルのエッセイで発表されています。エッセイは、お正月に毎年鰤を送ってくださっていた松園様が他界された後も、秘書が『オーナー(松園様)のご遺志ですから』と鰤を贈り続けて下さるというエピソードで、松園様の「他界されてもなお発揮されるオーナーシップ」には感銘をうけました。

 

 私は、松園様からお聞きした当時のエピソードとして、ブラジルで丸ごと1軒の大邸宅を買って、また、「ブラジルのピカソ」と呼ばれたマナブ間部(マナブ・マベ)氏のことも松園様からお聞きしました。また、その大邸宅にあったステンドグラスだけを日本で売って元をとったというお話もお聞きしたと申し 上げたら、「丸ごと1軒だけではなく教会までも買った」とか、私のぼんやりした記憶を甦らせていただきました。要するに、私はステンドグラスを売って一軒家の代金の元をとったという話しか記憶していないのですが、小石原先生は詳細に覚えておられたのです。

 

 先生とともに、年に数回お食事をさせていただくことが楽しみであるのはいうまでもありません。私のワイフの高井孝子の弔辞も、先生に書いていただきました。先生が弔辞のなかで私に贈ってくださった言葉「愛する人を喪(うしな)っても、愛する幸せを知らないよりはいいと思います」(日野原重明先生)は、いまも私のささえです。

 

 知性コミュニケーションズHP http://www.chisei.co.jp/

 

 

 

(3)堺屋 太一 先生

 8月4日(木)14時45分から約30分程、堺屋太一先生に、先生の事務所でお会いさせていただきました。堺屋先生にお会いしたのは今回が初めてのことでしたが、先生は1935年生まれで、私は1937年生まれですから、ほぼ同年代で、同じく東京大学卒業でいらっしゃったこともあって、お話も弾みました。

 

 堺屋先生は東京大学経済学部卒業とともに通商産業省(現・経済産業省)に入省され、1978年に退官されるまでの間、1970年の大阪での日本万博博覧会の開催を実現され、また沖縄観光開発などを推進されました。その後はテレビ、雑誌等で幅広い執筆・講演活動をおこなわれ、また1998年から2000年まで小渕内閣、森内閣において経済企画庁長官を務められました。学者としても東京大学先端科学技術研究センター客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科客員教授などを歴任されています。小説家としても著名な方で、ご著作は、第一次ベビーブーム世代を「団塊の世代」と位置づけ、現代日本の社会学に影響を与えた『団塊の世代』(文藝春秋、1980)、1982年のNHK大河ドラマの原作となった歴史小説『峠の群像』等、多岐多数に上ります。私も少しは著作をしておりますが、小説を書く筆力はとてもなく、いつもながら感嘆しています。

 

 さて、堺屋先生の奥様は美術展覧会で数々の受賞歴がある画家の池口史子様です。先生の事務所には、各部屋にそれぞれ違った趣の絵画が飾られていますが、先生の書斎の先生が座る椅子の奥には奥さまの絵画が飾られていました。そして先生は絵画はこよなくお好きでいらっしゃるようでした。奥さまの絵はオーストラリアの風景を描いたものではないかと拝察したのは、私の知人で以前オーストラリアにお住まいで、現地の風景を描かれたことのある長野県飯山市にご自宅兼アトリエをお持ちの画家の山田真巳様の絵に通ずるものがあったからです。お二人の絵は、それぞれの個性があり、池口様の絵は鮮やかな色遣いによって大自然の「動」を、山田様は落ち着いたどこか寂しげな色合いで大自然の「静」を、それぞれ表現されているようにも思えました。

 

 さて、堺屋先生は大変な勉強家で、現在,公務員改革と地域主権の道州制の導入に熱心に取り組まれているというお話しを頂きました。私はかねてから、国家公務員、地方公務員あわせて100万人を削減すべきだと申し上げてきました。民営企業に勤める人の賃金はどんどん下がり、非常に貧しくなっているにも拘らず、公務員は非常に高い賃金を、年功序列型で今なお自然と昇給しながら受け取っているようなシステムでは、日本はとても持ちこたえられないと存じていましたが、堺屋先生はまさにこれを公務員の出身であるにもかかわらず、実現されようと意気込んでおられたのです。

 

 さて当日堺屋先生には、2つのことをお願いしました。 

 

 1つ目に、小生がこの3年間主催してきた「キャリア権研究会」についてお言葉を頂きたいということで、キャリア権研究会がこの6月に報告書を作成して、キャリア権の普及の段階になってきたということを踏まえ、堺屋先生にしかるべきときにご講演をお願いさせて頂くかもしれないということを申し上げました。(キャリア権研究会については、7月19日付「2011年7月第3週<10日(日)~16日(土)>の交友録 その2」をご覧ください)

 

 2つ目は、「貴水」についてです。これは当事務所発行の事務所報2011年新緑号と、5月20日付のブログ記事「原子力発電に代わる新発電方式の提案」を印刷したものをお渡しし、研究施設をご紹介いただきたいたい旨をお願いしたところ、「この紹介は大変難しく、日本の研究所では理解されず、適確な答えが見つからないでしょう」とのことでした。「私もそう思います」ということで、お願いは実現できませんでしたが、今後、何かしかるべき研究施設を思いつかれたら是非紹介して頂きたいとお願いしました。

 

 今後キャリア権と貴水を通じた新発電方式の研究などを通じて、今後何かと先生にご指導を頂ければと存じております。

 

 

 

 来週は、8月第2週(今週)にお会いした方々をご紹介したいと思います。

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