2011年9月2日のアーカイブ

良心と法律の「気」①


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(2011年8月31日(水) 午前11:13 千葉県富里市にて撮影)

 

【「良心」とは何か】

 「良心」の重要性については、ブログ等で何度もお話ししてきましたが、次第にその意義を充実させてきました。つまり、現段階では「真・善・美」「夢・愛・誠」そして「義理・人情」と「自己規律」の上にある「志(マインド)」であるということです。そしてさらに言えば、「魂」ということにいきつくでしょう。ほぼ50年の弁護士生活の中で、色々な激しい仕事をしてきた間、「良心」については全く考えたことがなかったのですが、改めて「気」について勉強するにつれ、このように解釈することに到達しつつあるのです。

 

 「良心」には「気」というエネルギーがあることはいうまでもありません。そして、「魂」は、「気」の最小の核であり、最高の核であります。英語で憲法をConstitutionと言いますが、この単語には、「気質、性質」という意味も含まれています。憲法には、「良心」という言葉が2度使われます。要するに、「良心」は、「心」すなわち「本心」「良心」ということを意識した法体系でなければならないということを、法律の骨格を定める、すなわち国の骨格を定める憲法でも明確に意識しているということなのです。

 

 すなわち憲法第19条【思想及び良心の自由】では、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」としていますが、法律も人間の所産である以上、これを蹂躙してはならないという意味です。

 

 また、第76条【司法権、裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立】第3項では、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と「良心」について述べています。

 

 この「良心」の解釈について、「良心に従ひ」という文言に特別な意味がないとすると解釈する学者の方もいるようですが、これは誤った見解であると思います。「良心」こそ裁判の核心であると私は考えるからです。

 

 例えば、清宮四郎「法律学全集」(1974年発行)では、

 

 「憲法には、『良心に従ひ』とあるが、この場合、『良心』を、裁判官個人の良心、すなわち、主観的な政治的・宗教的・道徳的・思想的信念や人生観・世界観などと解すると、裁判がまちまちになり、しかも、法を離れて行われるおそれがあるので妥当でない。右のような主観的良心は、裁判にあたっては、かえって抑制されなければならないのである。憲法で『良心』といわれるのは、裁判官が適用する法のうちに客観的に存在する心意・精神、いわゆる『裁判官としての良心』を意味する。したがって、裁判官個人としては、例えば、死刑廃止論者であっても、それを理由にして、刑法を無視した判決をくだすことは許されない。このように解すると、裁判官は、『憲法及び法律にのみ拘束され』、それらを忠実に守るにすぎないことになり、『良心に従ひ』という文言に特別の意味はなくなる。

 

と、「良心」につき断じていますが、これは「良心に従ひ」というところについてきわめて軽視した見解であるといえます。これは改めるべきは言うまでもないところだと思います。

 

 そして、清宮先生のいう「良心」とは、「実質的な判断を下す謙虚で良心的な態度で裁判をしなければならない」裁判官が、「適用する法のうちに客観的に存在する『心意・精神』を意味する」とされています。要するに、「心意・精神」という言葉は無私という言葉になりますが、これは実は「良心」を述べているだけであって、特段の要件事実を示したものではないと思います。すなわち、どんな要件を踏まえれば「良心」になるのかということを明記しなければならないでしょう。その意味に於いて、我々は「良心」の意味と要件を熱心に今後も見極めつづけなければならない必要に迫られているのです。

 

 そして、下級裁判所やその他の機関には覆すことが認められない判決を下す権限を有する最上級の裁判所である最高裁判所の裁判官は、まさに「良心」に目覚めた賢者であると、国民は信頼しています。司法の堕落(裁判所はもちろん、検察官・弁護士も含め)は最も忌み嫌われるのもこれゆえです。司法のあるべき姿とは、「良心」を担当する、すなわち「気」「波動」「微弱エネルギー」を担当する人たる裁判官一人ひとりが、さらには検察官も弁護士も法曹に関与する全ての人が、勉強をしつづけ、革新を図って新しい時代の「良心」を追及しなければならないのです。

 

 よく「良心に訴える」といいますが、これは相手の「良心」に迫ることです。すなわち「良心」は強い「良心」に押されるということです。当方が「良心」をもって臨まなければならない所以はここにあります。「良心」は「気」のエネルギーを持っていて、その「気」の核は「魂」ですから、つまりは、相手の「魂」を揺さぶるのです。揺さぶるとは、「魂」を強く感動させる、ということです。法曹の中でも弁護士について言えば、「良心」をもって裁判に関与する、弁護士として活動するということは、結局は依頼者にも相手方にも、裁判官にも検察官にも、当方の「気」を伝え、「気」が乗り移ると言うことなのです。また私は、「良心」があってこそ迫力が出ると思っています。迫力をもって相手に迫ると、相手に心が伝わりますが、それは何故かといいますと、「気」に力があるからです。「良心」を旨として生きることは、「気」を一層強めることから、波動となり、微弱エネルギーとなるので、その「気」が相手に乗り移って到達するのです。

 

 

 勿論、司法のみならず、立法、行政も新しい時代の「良心」を追求しなければならないことは言うまでもありません。英語で国のことをGovernmentといいますが、その動詞であるGovern(〈国・国民を〉治める、統治する)は、ラテン語で「舵をとる」という意味を持っています。法律や政治にかかわる者が舵取りを誤ると(すなわち「私心」「邪心」をもって舵取りをすると)、国家の「気」が乱れてしまうのです。

 

 

【法規全般に顕れる「良心」】

 

 「良心」については、最高法規である憲法で述べられているがゆえに、その下の法規全般にも言えることで、様々な所で「良心」は機能します。「公共の福祉」(日本国憲法第12条、13条、22条、29条、民法第1条第1項)にしろ、「信義誠実の原則」(民法第1条第2項)にしろ、「権利濫用の禁止」(民法第1条第3項)にしろ、「公序良俗」(民法第90条)にしろ、きわめて包括的で曖昧な概念ですが、その内容は、その時期・時期、時代・時代、人・人、それぞれの法的感覚にのっとって解釈され、運用されていくものでしょう。

 

 

  1. 「公共の福祉」
     「社会公共の利益」といった抽象的な価値です。すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼びます。
    【参考】http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html

  2. 「信義誠実の原則」
     権利の行使や義務の履行は、相手の信頼を裏切らないように誠実に行わなければならないという原則のことであり、民法全体の指導理念で、信義則ともいわれます。

  3. 「権利の濫用」
     権利本来の目的・内容を逸脱してその権利を不公正な方法で行使することであり、民法は、「権利の濫用は、これを許さない」と定め、そのような権利行使は無効とされています。
  4. 「公序良俗」

 公の秩序又は善良の風俗の略であり、社会の一般的秩序や倫理・道徳のことです。法律行為は原則として自由ですが、民法は公序良俗に反する事項を目的とした法律行為を無効としています。公序良俗違反の法律行為は、国家的・社会的にみて放置できないことによります。

 

    【参考】 法テラスHP http://www.houterasu.or.jp

 

 

 さて、これらを「気」という概念に当てはめて考えると、概略は以下の通りになると思われます。

 

 

  1. 「公共の福祉」
     公共の福祉を重んずることで、社会全体の利益を得ることになるかもしれませんが、基本的人権は損なわれる可能性があり、気苦労や気に病むこともあり得ます。ですから、公共の福祉という大義(大気)を重視しながらも、私的な小義(小気)をも考慮する必要があるのではないでしょうか。
  2. 「信義誠実の原則」

     個人や一部集団のエゴイズムによって、他の心(気)や社会全体の雰囲気という「気」を惑わすことはできない、という原則です。

  3. 「権利濫用の禁止」
     法的にある権利を得た者が、その力を利用して「司法」「行政」「立法」の任に携わると、社会全体の「気」を乱します。仁(思いやり)の心をもって、「気配り」することが大切です。
  4. 「公序良俗」
     公の秩序又は善良の風俗に反すると、社会全体の「気」を乱します。しかし、何が公の秩序又は善良の風俗であるのかは、その時代・時代の価値観によって変わり得るものです。つまり、「気」が変わるということです。
     また、一人ひとりが、気ままに成りすぎず、他者に気を配り、他と協調(気を合わせる)することが、社会全体の機運を上昇させることにも繋がるでしょう。

 

 

 この4つの法律の条項は、やり過ぎや逸脱を許さないとする条項ですが、この条項をしっかりと理解するためには、気を張りすぎず、気づまりすることもなく、かといって、気後れすることのない「中庸の精神」(かたよることのない「中」を以て「常」の道をなし、易(か)わらないことをいう)を養うことが肝要かと思います。

 

 つまり、「気」が強からず、弱からず、中庸の「気」すなわち平明な精神を養うことが必要で、中庸は、人間にとって、安定性こそが極めて大事であること、すなわちバランス感覚が大切であることを語っています。フランスの哲学者であったブレーズ・パスカル(1623年~1662年)も、「人間は考える葦である」という有名な一節「L'homme n'est qu'un roseau、 le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant.」がある随想録「パンセ」の中で、「中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである」と中庸の考え方に近い記述を残しています。

 

【法曹に必須なリーガルマインド】

 

 さて、個別具体的なあらゆる法律に精通し、各法律の細かい技術的な情報や詳しい知識・体験を有している法曹は、実際はほとんどいないと思います。しかし、法曹一般は、法律を取り扱う者として、一般人よりもずっと多くの情報を持っています。

 

 それは、法律の細部についての知識というよりも、倫理観・概括的かつ一般的な原理原則をもってする判断力を優秀な法曹が有しているからであると思います。そして、こういった判断力、法律家としての基礎的な素養は、一般に「リーガルマインド」と呼ばれています。

 

 先に、「信義誠実の原則」にしろ、「権利濫用の禁止」にしろ、「公序良俗」にしろ、きわめて包括的で曖昧な概念であり、一義的ではないと述べましたが、それは実はリーガルマインドに基づく「判断力」によって対処することが必要な所以です。

 

 「判断」とは「真偽・善悪・美醜などを考え定めること。ある物事について自分の考えをこうだときめること。」(広辞苑第4版、三省堂)をいいますが、「判断」というのは、いちいち細かく検討して「判断」する場合は極めて少なく、ほとんど直感的に一瞥して「判断」するのが「判断」の「判断」たる所以でしょう。いわば細部にわたる観察ではなく、ホリスティックな観察、すなわち全体的な知見、見方によって判断するということでしょう。あまり細部にわたって分析的であると全体を見失ってしまい、すなわち、「木を見て森を見ず」という状態になってしまいます。むしろ全体像を一瞥し捉えて判断するのがリーガルマインドなのです。 

 

 そして、リーガルマインドに基づく「判断力」とは、「良心」をもって、交渉相手の「気」と自分の「気」を交流させて、相手の諦念と執着の対象・程度等を察し、それを踏まえてその場に最もふさわしい、説得力ある話法を用いることなのです。

 

 「人を見て法を説け」という言葉があります。この格言は、ブッダ(釈尊)が相手の能力や性質に応じて理解できるように真理を説いたことによるもので、仏言では「対機説法」と言っています。ブッダが説法されるときは機をみて法(生きる道)を説いたといいます。「機」とは法を説く相手の「素質、能力」を指すそうです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをできるだけ知った上で、その人が理解できるように法を説いたのだそうです。

【参考】

http://homepage2.nifty.com/koudaiji/houwa/m17/houwa171.html

 

 対顧客、対部下、対相手方、対裁判官、どんな場面においても、相手の言動の中からその性向を感じ取り、その人の諦念と執着の対象・程度を見抜きながら、相手が理解できる説明方法を工夫することが大切です。

 

 

【経営判断における「気」のバランスによる「判断力」】

 今まで法曹について述べて参りましたが、「人を見て法を説く」ための、すなわち「気」のバランスによる「判断力」は、企業の労務管理において、千差万別の労働者を相手にする経営者陣にとっても極めて重要な能力です。しかも、それは労務関係だけではありません。ありとあらゆる経営判断において「気」のバランスによる判断力が必要とされることは言うまでもありません。

 

 一番分かりやすい具体例は、「経営判断の原則」ですが、これは「取締役の行った経営上の判断が合理的で適正なものである場合は、結果的に会社が損害を被ったとしても、裁判所は、取締役の経営事項については干渉せず、当該取締役も責任を負わない」という原則のことです。

 

 一例を挙げれば、平成4年(ワ)第5783号取締役損失補填責任追及請求事件【野村證券株主代表訴訟事件】(東京地判平成5年9月16日)は、損失補填を行った証券会社の取締役の行為が、経営判断上の裁量の範囲を逸脱したものとはいえないとされた事例であり、取締役の経営「判断」にスポットがあてられました。

 

 要するに社長を初めとした経営陣の「判断」、バランス感覚すなわち社長を初めとした経営陣の「気」の在り方つまり「良心」の在り方が優れていることが大切です。そしてこのバランス感覚は、前に進むスピードが速ければ速いほど、極めて強く要求されます。なぜならば、スピードが速い中でバランスをとることは大変難しいからです。そして、「気」は、法律家だけが保有すべきではなく、全ての人間が判断する以上、これを尊ぶことが必要なのです。

 

 さて、日本人は非常に安定志向が強いですので、「判断力」は正しいながら、進む力すなわち「前進力」が弱いと言われています。もちろん具体的には改革の立ち遅れ等様々ありますが、それは結局、日本人はスピードの中での「判断力」が弱いということを意味しているのではないでしょうか。すなわちスピードの中での「気」のバランスが弱いということを意味しているのではないでしょうか。だから、日本の社会では「気」を強める様々な試みが盛んなのではないでしょうか。たとえば、空手、合気道、剣道、柔道、弓道等々、日本武道は全てその一点にあるのではないかと思います。それはスピードの中での「気」を磨き、バランスを整えることの必要性を日本人は無意識にも感じ取っているのでしょう。しかし、それは定まった土俵の上でのことであって、日本人は飛躍する発想、新たな土俵を構築することに疎いということではないでしょうか。飛躍をしながらバランスをとるということに日本人は非常に劣る民族ではないでしょうか。そのことが実は日本人にはリーダーシップをとれる人材が少ない所以なのでしょう。そして、そこからあえてリーダーシップを勉強する必要があることになり、本屋さんに行くとリーダーシップの本が真に多く発刊されていることを知るのです。

 

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