2011年9月9日のアーカイブ

良心と法律の「気」②


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(2011年9月8日(木)午前6:51 新潟市西蒲区 岩室温泉「著莪の里 ゆめや」にて彼岸花を撮影)

 

 前回のブログで、憲法にある「良心」を論じ、また法律条項の中には抽象的な概念に頼らざるを得ないこと、例えば公共の福祉、権利濫用、信義誠実の原則、公序良俗、といった概念について、「気」の世界から私の考えを述べました。そして、「抽象的概念」であるということは、結局は人間の「判断力」「バランス感覚」に頼らざるを得ない側面があること、人間の価値判断の基準作りには限界があるところから一見して合理的であるか否かについて割り切れないところがあることを意味しているというお話をいたしました。即ち、人間の合理性というものは、限界があるということで、それを補完するために、人間の「総合判断力」「バランス感覚」に敬意を表して、それに頼らざるを得ないということを意味しているのです。その判断力等の原点は何かと言えば、「気」であり、さかのぼれば「志」、「良心」であり、さらにさかのぼれば「魂」であるということでしょう。それらの根本は、「人間愛」、「人間尊重」ということになるのでしょう。

 

 「愛」、すなわち心をうけとるということですが、愛「情」という言葉にあるように、真っ青な心、すなわち純粋な心で相手に対応することが人間として求められているということなのでしょう。

 

 

【魂の変化と法律の変遷】

 

 さて、思想の発展、殊に、法思想の発展は、人間そのものをどのように見極めるかという感じ方、思い方、考え方の進展にほかなりません。そして、感じ方、思い方、考え方というものは、結局は人間が「良心」に支配されているものであり、さらに言えば「魂」に統御されているということになるでしょう。

 

 「魂」とは、広辞苑第4版(三省堂)によると、「(1)動物の肉体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの。(2)精神、気力、思慮分別、才略。(3)素質、天分。」とあります。漢和辞典を調べてみると、「人の生命のもとになる、もやもやとして、きまった形のないもの。」との説明があります。「魂」は、このように、ぼんやりとした概念ではありますが、人の「気」の核である「良心」の、更に核となっているもので、それは人間性そのものを問い、尊重する精神、ということになるのではないでしょうか。「霊性」という言葉と「魂」とは同義と思われますが、そのことからもそのようにいえるでしょう。

 

 さて、前回は主に憲法と民法のお話をいたしましたが、法律はこれだけでなく、沢山の法律でできていることは言うまでもありません。本年7月15日現在の法令データ(官報掲載法令)によると、憲法・法律あわせて1,848 の法令があり、政令・勅令、府令・省令を合わせると計7,592 の法令があります。

 

 そして、法律はどんどん進化し、細分化しています。これは、社会の変転とともに法律があるからです。それは、実は、国民のあるいは大衆の意識、「気」が多岐にわたり複雑化していることを意味するといってよいでしょう。ある期間持続する、やや漠然とした心身の状態を「気分」といいます。すなわち「気分」とは「気」の発露であるかと思いますが、「気・気分」が変われば法律も変わるということです。要するに、国民大衆の「気・気分」の変化が新しい法律を作成する源泉となっているといってよいでしょう。

 

 二宮尊徳の名言と言われている、「経済を忘れた文化は戯言である。文化を忘れた経済は罪悪である。」という言葉がありますが、この言葉は、経済の世界だけでなく、法律の世界でも、十分展開できるでしょう。即ち、「文化を忘れた法律は罪悪である。」ということになります。文化とは、その時代時代を築きあげた大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」そのものでありますが、これに反した法律は、時代遅れであります。また、「法律を離れた文化もありえない」ということになります。法律は世論(大衆)の支持によって成立し、それゆえに「気・気分」の変化によって変遷していくということで、最高裁判所判例すら応々変更されるのも、社会情勢・社会状況の変化、すなわち、大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」が変化していくからです。大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」は、文化(新たに誕生する文化と、時代遅れとして忘れられていく文化)にも直結し、法律にも直結すべきであるということでしょう。それゆえ法律は改正を繰り返し、新たに制定され、また細分化されていくのです。

 

 さて、憲法は、国家の骨格を定める法規です。法律は、憲法の条項を細分化したものであるといわなければなりません。そして、「気・気分」を意識することが、法律の在り方を決めることになるということでしょう。国民意識、更にいえば「気・気分」が変遷していくことに伴って、法律も変遷していくということなのです。

 

 人間にある「気・気分」というのは、ぼやっとした曖昧なものです。非常に浮動的な存在です。それだけに、何か骨格を定め、「気・気分」というものを具現化するものを作らないと、人間集団が成り立ちません。ここに「ルール」「基準作り」が生まれる所以があり、そのルールの中で最上位のものが憲法であり、それに次ぐものとして法律が生まれるのです。「気・気分」を具現化する、すなわち形にすることが大切なのです。

 

 

【刑罰は動的な性格】

 

 例えば、刑法では、応報刑主義だけでなく、教育刑主義という考え方も現れました。教育刑主義は、リスト(1851年~1919年)の目的刑主義(刑罰は、それ自体として意味があるものではなく、社会を防衛するなど一定の目的をもって科せられるものとする考え方)に始まり、リープマン(1869年~1928年)によって教育刑主義の考え方が主張されました。応報刑主義とは、刑罰の本質を犯罪という悪に対する応報と考える立場(例えば、ハンムラビ法典196・197条の「目には目を、歯には歯を」の考え方がその古典ではないでしょうか)ですが、教育刑主義とは、刑罰の目的を、犯罪人の社会復帰のための教育であるとする考え方です(有斐閣法律用語辞典第3版、2006)。つまり、刑罰は、犯罪に対する非難としてくわえられるという意味で応報であることだけではなく、刑罰は犯罪人の社会復帰を実現させるべきものでもあるという考え方が発展してきたということです。そして、教育刑主義は、かねてより議論の多い死刑廃止論の論拠の一つともされているところです。私が大学で教えを請うた団藤重光先生は、「刑法綱要総論 改訂版 付・第一追補」(創文社、1978)の中で、刑罰は、「本人の改悛状況や、社会情勢の変化などにより、仮釈放や恩赦などによる緩和が必要になって来ることがすくなくな」く、「根本的に動的な性格をもつものである」と述べられています。その意味で、刑罰の動的な性格に「もっとも不適切なのは死刑だといわなければならない」と、死刑廃止論に傾いた発言をされています。

 

 団藤先生の述べられる「刑罰が動的な性格」の所以は、国民意識、つまり大衆の「気・気分」が変化し、「良心」が変わり、「魂」が変化していくことにより刑罰の裏付けとなる事態も変化するからでしょう。それを、団藤先生は、「社会情勢の変化」という言葉を使って説明しているものでしょう。

 

 

【大衆の「気・気分」「良心」「魂」の変化を促す法律】

 

 さて、ダイバーシティ(diversity:多様性)という概念があります。この概念は、もともとアメリカで提唱されたものです。1964年に人種・宗教・性などによる差別を禁止する「公民権法」が成立しましたが、これを受けて、米企業や組織では差別で「提訴されないようにする」ことを目的とした消極的な姿勢で施策を行ってきました。しかし、女性やマイノリティ(社会的少数者。アメリカではヒスパニックの人々等)の職場進出が急速に進むことで、差別を禁止する施策は積極的な姿勢に変化していき、さらにその解釈が発展し、企業における人種・性別・年齢・国籍などの差別を解消し構成員に機会均等を保障し、個人差を認知し、資質の差異等を是認してこそ次なる進歩・発展に繋がると前向きに捉えようという「ダイバーシティ」という概念が生まれました。このような歴史的背景は、差別を禁止し人間を尊重する公民権法という、まさに人間性を発揮すべき法律により、大衆の「気・気分」「良心」「魂」の変化を一層促したことの一つの具体例であると思います。

 

【参考】http://www.jmam.co.jp/column/column09/1188147_1531.html

 

 

【信教の自由と「狂気」】

 

 さて、憲法第20条第1項前段には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあります。明治憲法下では、信教の自由は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」(第28条)保障されていましたが、実際には「神道は宗教に非ず」として、準国教化する動きがあるなど、信教の自由が制限される状態にありました。しかし、日本国憲法では、これを不可侵の権利として、一切の限定なしで国民に対して認めています。信仰とは人間の「気・気分」「良心」「魂」そのものであり、それは抑圧するべきものではないということが憲法によって保障されたものであるのだと思います。

 

 しかしながら、信教の自由にも限界が考えられ、すなわち制約が必要な場合があります。多くの判例が信教の自由の限界について判断していますが、事案の多くは、度の過ぎた信仰が引き起こしたものです。「狂信」、すなわち「狂『気』」が引き起こしたものです。「狂気」は、他者の「気」を乱し、社会全体の「気」を乱してしまうものですから、時として制約が必要になるということでしょう(もちろん、信教の自由という基本的人権、すなわち人間の「魂」そのものを制約するには、「やむにやまれぬ利益」を実現するための必要最小限のものでなければなりません。)。

 

 孔子(紀元前551年~紀元前479年)、釈迦(紀元前463年?~紀元前383年?)が紀元前500年頃に誕生し、そして紀元前後に即ち2011年前にキリストが登場したことに伴い、東西ともに精神革命をもたらしました。この革命は、人間の「気」「良心」「魂」等の変化でありました。法律の変遷も同じように、人間の「気」「良心」「魂」等が変化していることの表れだと私は考えています。

 

 さて、法の変遷と「気」との関係を、全ての分野について述べるだけの紙幅はありません。ですから、次回は、「良心と法律の『気』」第3回(最終回)として、私の専門である労働法の世界について述べようと思います。

 

 

【お知らせ】

 

 6月17日より、今回の「良心と法律の『気』(2)」を含めて、計13回、「気」をテーマにブログ記事を執筆して参りましたが、残すところあと3回または4回で本テーマはいったん終了する予定でございます。

 

 つきましては、6月17日から「気」ブログ記事最終回までの全記事につきまして、ご意見・ご感想等の評論をいただければ幸甚に存じます。

 いただきました評論は、本ブログ内で、ブログ開始6カ月記念と合わせて、発表させていただくこともございます。

 なお、今後本ブログで取り上げるべきテーマ等のご提案も歓迎しております。

 奮ってご意見をお寄せ下さいませ。

 

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