2011年10月のアーカイブ

 

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(2011年10月26日 朝6:54 東京都千代田区 日比谷公園にて撮影)

 

 

 

 

さて、今回も前回、前々回に引き続き匡正堂葛飾 齋藤整骨院院長齋藤博保先生についてご紹介いたします。

 

 

齋藤整骨院には、齋藤先生直筆の筆で書いた標語が5つあります。


・  【食動睡】
食べる動く眠る は人が健康に生きる上での大原則
バランスのとれた正しい食事でとりこまれた
エネルギーを完全燃焼する為の運動
疲れ切つた身体を癒し精神の疲労を取る睡眠
この三つのサイクルを正しく行い 元気な身体作りを心掛けましょう

前回述べた「コンピューター病」に関連して、齋藤先生は、田舎に暮らす人ほど、動物的感覚である【食動睡】の健康への原則が比較的守られ、身体全体に自然と柔らかさを感じる一方で、システム化された都会人に近くなるほどに動物的感覚が薄れ、身体も固く不自然さを感じるということをおっしゃっています。人が知恵を絞る目的の一つは、「便利」と「ゆとり」を追求することですが、コンピューター進化の時代に、「便利」と「ゆとり」が調和することが必要である、と説かれています。齋藤先生は、ゴルフがお好きですが(ゴルフについては後述します)、世界10数カ国をゴルフクラブをかついで旅をされてきました。その際、コンピューターとはまったく縁のない国に行って、人々の暮らしを垣間見た時、「不便」の中にも「ゆとり」と「平和」を感じられたそうです。

 

・  【元気で長生き 世の為 家族の為 我身の為】
元気であることは一番の幸せであり喜びである
元気であることは迷惑かけずお金をかけず手間かけず

齋藤先生の口癖は「『男は88歳まで、女は95歳まで』ぴんぴん元気でなければならない。一般的に寿命は男性が女性より少し短命のようですが、その年齢までは日頃の健康管理で十分元気で生きられます。元気で長生きは『世の為(国の予算が助かる)』『家族の為(介護する人が苦労しない)』『我が身の為(自分も楽しい)』」」ということを治療三楽として、標語にされています。最近は、この年齢を「『男は95歳、女は100歳までぴんぴん』に改めなければならない」とつぶやいておられます(これについては後述します)。

 

・  【膝は第二の命です】
足が悪くなってしまうと人体全ての機能が止まってしまいます
そして色々な臓器に病気が発生します
先づ足元から元気にしましょう

齋藤先生は、昨年独立開業40周年を迎えられた時、「健脚達磨」という達磨を作られました。これは、健脚作りの治療技術をさらに研鑽し、1人でも多くの患者さんに転んでも転んでも立ち上がれるような健脚となって幸せな老後を送っていただけるように、との齋藤先生の想いから作られたものです。
人間の脚は、およそ身長の2分の1を占めています。それらは人間という動物が生きる上で最も重要な部分として与えられ備わったものであり、移動、行動のほかに脚が止まるということは体内循環である基本的「流れ」がとまり、色々な諸病のもとになるそうです。 

 

・  【健康とは健全なる精神と健全なる肉体に宿る】
健康的な生命維持の自浄能力を発揮させる為には、強く正しい免疫力と自然治癒力を如何に引き出すかである

・  <頭が重い 首がこる 目がかすむ 肩肘手首が痛い 背中の一点がこる ストレスが溜っている 目が廻る 目にクマが出来る 片頭痛がする 涙目でうっとうしい 手がふるえる 目がいつも充血している いつも眠い 天井を見上げると手がシビレる 顔色が悪い>
これ等の症状はパソコン・携帯電話など長時間の操作による病的症状です。人間は所詮動物です
跳んだり走ったり新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んで生活をエンジョイすることが健康的に過ごす基本です
背筋の調整で症状改善を心掛けましょう 

 

齊籐先生の治療は、適応年齢も0歳~100歳迄と幅広く一事が万事、結果を出しつつ安全性の高い治療を行っておられます。葛飾 齋藤整骨院では、今までおそらく100万人を超える患者さんを見られてきたということですが、これまで失敗したご記憶は殆どないそうです。

 

齋藤整骨院は、原則水曜日と祝日のみがお休みです。齋藤先生は火曜日もお休みにされておられるので、火・水と、週休二日制を実施されています。お弟子さんが何人もお見えになりますが、来院者が多いので、齋藤先生直々の治療を受けられるのは、全体の約3分の1の来院者だけになってしまいます。1日の来院者数は平均実に100名前後ですが、時には驚くなかれ、150名を超えることがあります。まさに人気抜群で、前回述べたとおり、北は北海道、南は沖縄まで、全国各地から患者さんが来訪されるということです。

 

 

なお、自由診療で行われています。交通事故には保険医療も行われているのですが、一般には保健医療は行っておられません。そして、患者さんの負担額は大体初診6000円~8000円、再診2500円~3500円、80歳以上は2000円、高校生・中学生は1300円、小学生・幼児は700円と比較的安く治療を受けることが出来ます。

 

齋藤整骨院には、高齢者が沢山来院されていますが、それは、高齢者については治療費が極めて安価だからです。その結果として、齊藤先生は『男88歳、女は95歳』を『男は95歳、女は100歳までぴんぴん』に改めなければならない、と呟いておられることは先に述べた通りです。齋藤先生が『男95歳まで、女100歳まで元気である』というように、その年齢を上げた理由は、高齢化が進んでいるということが挙げられます。高齢化社会の為、寝たきり老人が増えてきているのが社会問題になっていますが、「自宅介護での家族の苦労は計り知れない」と、いち早く数年前から元気な老人づくりに取り組んでおられるのです。本当にありがたいことです。

 

高齢化社会についていえば、高齢者にかかる医療費の問題として、国の負担がどんどん増額されています。このことは、日本の「医学」が間違った方向に進んでいるのではないかと考えさせられます。日本の医学は「古典医学」とか「コテンコテン医学」とか揶揄されている状況にあります。また、「医学」のみならず、「医療」「治療」の在り方を本質的に見直さなければならないのではないでしょうか。また、「医学部」だけでなく「医療学部」「治療学部」を設立する必要があるのだと思います。

 

 

さて、齊藤先生の趣味は多彩です。特に一番はゴルフでしょう。68歳にもかかわらず、本年9月軽井沢で行われた東日本ミッドシニアパブリックアマチュアゴルフ選手権競技地区決勝にて8位の成績をおさめられ、全日本進出となり、今月10月19日、20日に開催された榛名の森カントリークラブ(群馬県高崎市)の「第8回全日本ミッドシニアパブリックアマチュアゴルフ選手権」に出場され、全日本で第20位の成績をあげられたということです。(※全日本大会の様子は,齋藤先生の「奮闘記」として,当ブログ内でご紹介する予定です。)

 

「自分は長患いするのではなく、突然ぽっくりいくのではないか」と、ときたま先生がお話しになられますが、まさに先生は心身ともに健康を旨としておられるということです。

 

齊藤先生直筆の標語にある通り、足腰を鍛え、エネルギーを完全燃焼するための運動に励まれ、そして夜分には早々と深い眠りにつかれるそうです。このように、極めて元気に治療に当たっておられます。


匡正堂葛飾HP http://匡正堂.jp/

匡正堂HP http://kyoseido.jp/(匡正堂のネットワークはアメリカハワイを含めて全国に20カ所あります)


 

【最後に】

齋藤先生に本ブログ記事を執筆するとのお話を申し上げたところ、下記のお言葉をくださいました。

 

〈小生は11人兄弟のほぼ真ん中として育ちました。大家族の真ん中ということであまり存在感はなかったと思いますが、そんな中でも幼少期のころから父の仕事に強くあこがれておりました。子どもながら上、下に気を使いつつの少年期を過ごしたことによって、私なりに常に真ん中の考え方、ハングリー精神が養われたように思います。11人兄弟の内男6人女1人が家伝を継承しておりますが、小生が兄弟の中心となりまとめ役を買っております。父、母、兄2人は他界いたしましたが、今でも独立開業している兄弟が弟子を引きつれ、総勢40名程でゴルフコンペを年2回和気藹々で行い親睦を計っております。

年を重ねて小生が思うに、大切なのは自分に課された役目を人の為に、そして今迄私を理解し、応援してくれた兄弟を大切にして参りたいと思う次第です。

 

最後にこの度名誉なことに高井先生をはじめ多くの方々に大変高評価をいただき有難いというよりは、まだまだ未熟なる自分にはお恥ずかしいと思っております。小生には、授けられた仕事以外なんの取り柄もない人間です。つくづく思うに自分に課せられた役目に生かされているように、自分に出来ることをただただ生涯やり抜き、悔いの残らないように生きられたら、と願っております。〉と、実力はさることながら、人間性も、謙虚で優れていらっしゃいます。

 

また、齋藤先生の「手にかかる」と病気が治る、その理由とは、先生の「手」に「気」がこもっていて、それが患者に伝わるということであると思います。齋藤先生に「手」についてどうお考えであるかお聞きしてみたところ、下記のようにご回答いただきました。

 

「人間の最大の特徴としての手の器用さはほかの動物の及ぶところではなく医療のあらゆる分野においてもその器用さは活用されています。痛み、苦しみの場所に無意識に手をあてがうことから『手当』と云うように、治療の第1歩が始まります。手は単なる治療道具としてでなく、五感(五官)に通じ人との触れ合いを通じて様々な相手の感情、異和感を感じとる。それと共に、『気』の交流となり、治療のもっとも大切な道具といえます。又、鍛錬のみの手の技術は相手を心底から得心させることは出来ず、ただの組上げ作業でしかなくなってしまいます。手に『気』を入れ『心気』のこもった手技による患者さんへの治療反応ははっきり表われます。」 

 

このように、齋藤先生はまさに研鑽、修行の方で、私は医学・医療に携わる人も皆、研鑽、修行を積まなければならないと思います。単なる知識の習得だけではだめだということです。研鑽、修行を積むことで、すなわち「気」を得ることで、初めて医学・医療を実践できるのではないかと思います。なぜなら、「気」というものは単に個人の体内のみに留まるのではなくて、体外に全方向へと発信されるエネルギーであり、また受信者との関係において双方向にも作用するものであるがゆえに、本来的に相手を意識してはじめて、機能するものです。ですから、医学・医療関係者に「気」がなければ、病気の患者、すなわち「気」が病んでいる人、弱まっている人の「気」「いのち」のエネルギーを高めていくことができないのではないでしょうか。

 

 

 齋藤先生より、「気」についてお聞きした所、下記のようにご回答いただきました。

 

〈私は、「気」なるものは森羅万象大宇宙全てに存在するもので、人間は勿論、全ての事物は「気」によって生かされ、それぞれに必ず「心」が存在していると信じています。心と心が通じ合うことが「気」のめぐり合いではないでしょうか。「気」の表現は日本民族特有のものと思われますが、平時において「気」に気付かず、「気」に関する言葉や表現を知らず知らずのうちに沢山使っているのです。 

 

私の場合も、患者さんに対して「気」を使うことは必然なことです。「気」とは、「心の使い方、心の置きどころ」と思うのです。「気」については色々な書物、達人の教えにもあります。いずれもお互いの「気」が交流し、シンクロ(同調)したときに通ずると解いています。良い「気」、悪い「気」など、自分の心の中での使い方によって善気にも邪気にもなります。 

 

これまで、私を訪ねて数え切れない人が来院されました。もしこれからも、私を必要とする人と巡り合えることが出来たら、その人の為に誠心誠意尽くしてまいるつもりであり、これこそ「『気』の巡り合いのパワーである」と感謝するところです。〉 

 


齋藤先生の治療を受けると「すっきりした」といった感想を持たれる方が多いそうですが、私は、29年に亘り先生のご治療を受けていますから、もう「すっきりした」とか「調子がよくなった」といった感想を持つこともなくなってしまいました。しかし、それは、先生の治療法、先生の「手」から出る「気」と私の「気」とが交流し、一体感を持つに至ったからであると思います。

 

私が66歳のとき、2003年4月に、一度目の脳梗塞を発症しましたが、それから8年、74歳になりましたが、こうして生きていることが出来ています。それは、齋藤先生をはじめとする医者・治療家の先生方のおかげでもあるし、10月14日付記事「齋藤先生(その1)」で述べた、「時も薬なり」という齋藤先生の名言の通り、私の長い闘病生活の中で、時間が解決してくれた部分もあるのかもしれません。


この「時も薬なり」の言葉の所以は、時の経過と共に細胞が「死滅と再生」を繰り返している、ということだと思います。そして、老化現象によって、この「死滅と再生」の時間が次第に長くなります。そして、再生のスピードが死滅のスピードよりはるかに劣ることになると死を迎えることになります。老化現象などについては、私の思うところを今後当ブログにて取り纏める予定ではありますが、私も74歳の高齢になりましたので、死滅のスピードよりも再生のスピードの方が遅れてきてしまっているのではないかと思います。しかし、私も今後も齋藤先生の治療を受けながら、先生の「気」と一体感を持ちながら、残された人生の中で仕事を続け、いささかなりとも社会に貢献していきたいと存じております。

2011年10月16日(日)、鹿児島県奄美群島の奄美大島へ初めて赴きました。

奄美群島へは、以前より、赴きたいと願っておりましたが、ついにお訪ねすることができて本当に嬉しかったです。その理由は、私は以前から田中一村<1908年~1977年>という画家に憧れ続けており、奄美空港から車で5分、奄美群島のまさに玄関口といえる奄美市笠利町節田の「奄美パーク」内にある「田中一村記念美術館」(2001年秋開館)を訪れたいと願っていたからです。今回は、午後3時50分頃から1時間余りに亘って観賞いたしました。

 

 

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(田中一村記念美術館の外観)

田中一村記念美術館は、いわゆるありふれた近代的な鉄筋の美術館ではなく、奄美に古くから伝わる高倉式の「倉」の形状をしており、木造のものでした。収蔵点数は約450点を数え、年に4度の展示替えをしながら、常時70点ほどを展示しています。美術館の周りには、田中一村が描いた奄美の亜熱帯植物が植えられた「一村の杜」が広がっていました。たいへん広々とした美術館で、奄美大島一番の建造物ではないかと思います。

 

今回ご同行してくださったのは、9月13日付記事「交友録その10」でご紹介した新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長等々力好泰様でした。多忙を極める等々力様が、田中一村の作品を観るためだけにわざわざ同行してくださったのでした。 

 

 

田中一村の生誕地・栃木県

田中一村は栃木県生まれの画家です。中央画壇とは無縁の方でしたが、死後に高い評価を得た「孤高の画家」と呼ばれている方です。「田中一村記念美術館」が奄美大島にある理由は、田中一村が1958年50歳の時に奄美大島に渡り、そして1977年に69歳でこの地に没したからです。過日、このことについては、8月23日付【歴訪記その2】記事でご紹介いたしました「足利文林75号」(2011年5月発行)の13頁にある彫刻家の中村宏先生による田中一村についてのエッセイを読んだ時、一村は1908年(明治41年)に、栃木県下都賀郡栃木町の生まれであるということを改めて承知しました。機会があれば、田中一村の出生地にも訪れたいと考えておりますが、もうそこには何も残っていないかもしれません。

 

その後1914年、田中一村が5歳の時に、一家は栃木から東京市麹町区(現東京都千代田区)三番町に引っ越したとのことです。

 

さて、私が田中一村に憧れを抱くようになったのは、今から27年ほど前の1984年12月16日のNHK教育テレビ「日本美術館」の「美と風土」というシリーズをたまたま私が観ていた時でした。「黒潮の画譜-異端の画家・田中一村」と題したこの番組を観たとき、一村の描く絵画もさることながら、なによりも一村の生きざまに深い感動を覚えました。

 

この番組を観たときと同様、今回「田中一村記念美術館」を訪れて感じたことは、田中一村の生きざまは、とても常人のおよぶところではないということです。

 

 

田中一村の生きざま

田中一村は、東京都芝区(港区)の芝中学校を卒業後、1926年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しました。そこでは、東山魁夷、橋本明治らと同窓であったということです。しかし、3か月足らずで中退し(理由は「家事都合」、父親の発病などからと伝えられていますが、定かではありません)、独学での画家人生を歩むことになります。教授たちが「教えるところなし」と評価、鬼才といわれたことが災いしたのか、負担になったのか、推測するしかありませんが、自身の画家としての確固たる「道」が美術学校というアカデミーの方針とは合わなかった、合わせようと思わなかったのかもしれません。

 

しばらくは南画を描いて一家の生計を立てていたそうですが、東山魁夷らの東京美術学校の同窓たちが卒業した1931年、これまでの南画とはまったく異なる「蕗の薹(ふきのとう)とめだかの図」などを描きました。

 

そして、1938年からは住まいを東京から千葉に移し、自然の写生に没頭し、写実をベースにした新しい絵画を模索し始めました。このころに描かれた作品で「千葉寺・浅春譜」がありますが、これは人物を描くことの極めて少ない田中一村の絵の中で大変珍しい,人物が点在している絵で,私はあこがれを持っています。

 

その後、田中一村は1947年、39歳の時に川端龍子主催の青龍社展に入選しました(「白い花」)。しかし、ほどなくして川端と意見を異にしてしまい、翌年、入選を辞退し、青龍社から離れました。その後、1953年~1958年まで幾度と日展や院展に出品しますが、全て落選してしまいました。

 

そして、田中一村は、1958年、中央画壇との接触を全て絶ち、奄美大島へと発ちました。1959年に千葉の知人あてに送った手紙で「自分の将来行くべき道をはっきり自覚しその本道と信ずる絵をかいたが、支持する皆さまに見せましたところ一人の賛成者もなく、その当時の支持者と全部絶縁した」と述べています。田中一村は、中央画壇で自分が全く受け入れられないという現実を受け入れて、ほんとうの意味で「ひとり」になることを実行したということです。これは、自身の画家としての確固たる「本道」、自身の「良心」のみに従って美術に打ち込んだ、修行したということだと思います。しかし、それほど挫折感が強烈であったことの証左でもあると思います。

 

当時の奄美群島といえば、沖縄本土返還前の日本の最南端の群島で、田中一村が移り住むわずか5年前の1953年に米軍の統治から奄美群島祖国復帰運動によって日本復帰を勝ち取ったばかりのいわば辺境の地でした。しかし、「絵かきは絵筆一本、飄然として旅にでるようでなければなりません」と、自らの「良心」を納得させる絵を描くために田中一村は奄美へと旅立ったのです。

 

そして、トタン葺きの借家くらしで、日給450円の染色工の仕事をしながら清貧な暮らしをするなかで、奄美の大自然という豊かな題材を、静謐なトーンで描き続けました。田中一村は、奄美の大自然、そしてその生命力を感じ取って、画家として心・魂がときめき、あこがれをさまざまにスケッチに描きこみ、いくつかの秀作を残したのだと思います。田中一村の作品からは、南海に面する生命力みなぎる奄美の動植物の「気」が溢れ出てくるようで、生き生きと目に映り、圧倒されます。

 

 

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(「田中一村作品集」田中 一村 (著), NHK出版 (編集)日本放送出版協会,2001)

 


また、南海の持つ底抜けな明るさ、あからさまな明るさを描くのではなく、強い陽光に照らされた光と、その光が作る影の暗さの明暗の鋭い対比も田中一村の世界の魅力であると思います。画家は、眼前に広がる情景をただ客観的に写生しているだけではなく、自分のフィルター、つまり自分の「心」を通して描写します。ですから、絵画はその画家の心理、心象風景を描写しているといってよいでしょう。私は、チェルノブイリ原子力発電所事故から5年後の1990年6月にソビエトを旅行した際、モスクワ市内の作家と画商のそれぞれの自宅へ訪れ、キエフの作家による絵画を見ました。その時、なにより印象的だったのは、絵の中の「空」がどの絵もとにかく黒っぽかったことです。チェルノブイリ原発事故により悄然とした自分の「心」を通すと、空が黒く描かれるということです。心象風景を描写することとは、風景の「気配」のみならず、画家自らの「気配」を描くということでもあると思います。(※チェルノブイリ原発事故についての記事は4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」内で述べましたのでそちらもお読みください。)

 

さて、「作品」と「画家の生きざま」は、表裏一体のものだと思います。そして、田中一村の、生涯妻を娶らず、「本道」、「良心」のみを信じ、清貧をものともしなかった気骨と志操の高い、すがすがしい、ストイックな精神・生きざまそのものが描かれるような絵画は、観る人の感動を呼び、感動をもたらす絵であると思います。こういった田中一村の魅力に魅せられた人を「一村病」と呼ぶそうです(画家たちの夏、大矢鞆音著、講談社)。

 

日本語には「理動」という言葉はなく「知動」という言葉もありませんが、「感動」という言葉があります。つまり、人は、「感」性によって「動」かされるものであると思います。

 

そして、絵画が描き出す奄美の青空のようなまっさおなすがすがしい彼の生きざまが、私の「感性」すなわち「心」、「魂」に訴え、東京からはるばる奄美大島まで引き寄せられたのであると思います。

 

田中一村は、画家・美術家としてあるべき姿をまっとうされた方であると思います。伊藤若冲<1716年~1800年>のように、未来に残る画家として、それを超えて評価されていくのではないかと思います。同窓である東山魁夷、橋本明治らの画壇の長老がいらっしゃいますが、その方々よりも、はるかに優れた評価を、後生に受けるのではないかと思いました。

 

私が今回「田中一村記念美術館」を訪問した際は、8月14日(日)に訪れた栃木県足利市駒場町にある栗田美術館と同様に、閑古鳥が鳴いていました。開館当初の2001年は大変な賑わいの人気の美術館であったそうです。栗田美術館の歴訪記にも書きましたが、このように日本人が「文化」を愛する気持ちを失いつつあるということは、日本全土から、文化が果ててしまう日、すなわち美意識を欠くに至る日、素敵な美しい日本が失われていくのではないかと心配になりました。

 

画商は、どんな画商であれ、一人の画家を愛する気持ちをもって、その画家の作品を「売る」ということを前提にするのではなく、その画家を「愛でる」「育てる」という気持ちで対処しなければならないと思います。「愛でる」「育てる」という気持ちの究極は、その画家の作品を自らで集めるという姿勢がなければならないということだと思います。画商だけに限らず、これからの時代は、どんな職業であろうと、「貢献・還元」ということを意識して生きていかなければならないと思います。「貢献・還元」ということを意識していかなければ、人として存在感をもつことはできなくなると思います。「田中一村記念美術館」を今回訪問し、改めてそのことを痛感したのでした。

 

田中一村記念美術館URL http://www.amamipark.com/isson/isson.html

 

 


 

 

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(2011年10月19日(水)朝7:01 東京都中央区 築地川祝橋公園にて撮影)

 

 

 

さて、今回も前回に引き続き匡正堂 葛飾齋藤整骨院院長齋藤博保先生についてご紹介いたします。

 

「匡正術(筋療法)」

齋藤先生の治療方法の根本は、「背筋をただす」「骨格を整える」ということであります。これは、柔術は殺すにあらず活かすにあり、活かすということは古来漢方に言われるところの経絡に活の術を与え、肉体に「気」即ち「活の気」を入れることであるとする匡正堂齋藤家秘伝の技「気絡流柔術」が、昭和8年、3代目の齋藤正先生(齋藤博保先生のお父上)へと継承され、「気絡流柔術」をさらに民間治療である柔道整復術に取り入れて、鍼やお灸を用いない、独自の脊椎及び筋を基本とした「匡正術(筋療法)」であります。

 

「匡正術(筋療法)」により「筋」(すじ)すなわち中枢神経系の脊髄神経が通る背筋の異常部位を、特殊な手技法で匡正すると、末梢にけがをしていても、その部分が良くなるそうです。背骨は32本~34本の椎骨(ついこつ)で構成されています。背骨の中を通る脊髄神経は椎骨の間から末梢神経に繋がっています。「匡正術(筋療法)」は、たとえば手の親指をけがした場合、胸椎の何番目を直すと親指が治る、という技術なのです。背骨から出るネットワークは、全ての器官へと通じているのだそうです。

 

さて、ぎっくり腰の場合だと、齊藤先生の手にかかれば、呆気なく快方に向かいます。ぎっくり腰が発生した直後であれば、瞬時に治すことができるといわれています。すなわち、先生に早期にかかればかかるほど、治療が早期に終わるということです。1回で治ってしまう人も沢山いるのだそうです。また、いわゆるむちうち病も同じで、齊藤先生が後に述べる「むちうち症についての分析」(※1)と「むちうち症の原傷部分」(※2)を見据えて、背中のある一点をバシっと押すと、首の障害が消失するのだそうです。私は幸か不幸か、ぎっくり腰になったことも、むちうち症になったこともありませんから、具体的な話はできません。しかし、これらの疾病で色々な障害をもっている人が齊藤先生の手にかかれば、甚だしければ一日で快方に向かうということです。そして、むちうち症の場合は、首に巻く装具をただちに外されてしまうということです。

 

 

(※1)齋藤先生のむちうち症についての分析

〈むち打ち症(傷)につきましては、事故の状況により、傷病パターンが違って参ります。一般的な事故(停車中に後部より追跡された状況)によるむち打ち症の分析はまず乗車中に姿勢から判断することが大事なことです。 

 

現在一般的治療法としては首のみの傷害として保険適用範囲内で治療が施され、完治されないまま社会復帰に至っているのが現状です。 

そんな中、当院には治療の後遺症に悩む患者さんの来院が後を断ちません。つまり完治されていないのです。 

又、整骨を生業とする我々は、整形外科医に劣ると評価されていることから、事故後初診で来院することはほとんどなく、保険会社もまず医師の診断からという偏見が原因であると考えます。つまり当院に来院する患者さんの殆どが自賠責保険も適用されない状況で来院され、治療費が自費となってしまいます。 

 

当院では278回の根本的治療をし、患者さんが納得され治癒に至ります。私は当初から保険システム(医療システム)に問題があると感じていました。対症療法によるその場かぎりの治療ではなく、むちうち症においても根本的治療の理念に基づかなければよい結果は得られません。 

人が車に乗っている状況、車と体との接点と衝突時の運動量の方向によっての人体への影響から考えなければなりません。まず乗車時の姿勢は椅子に腰掛けた状況となっています。椅子に接する部分は尻(瞖部)、腰、背中となり肩部、首、頭は宙に浮いた状態なのです。この状況の時に本人が身構える間もなく脱力(気が抜けた状態)の時、つまりダルマ落としの様な外力が加わったときがむちうち症の発生機序(ものごとが動いたり成り立っていたりすることの背景にある仕組み。機構。)となります。 

 

ダルマ落としのような衝撃を受けた座席は前方に押し出され、その時人体は宙に浮いた状態の頭部の重みによって腰は前方に引き上げられ、肩部、首、頭部は極端に後方へ振られます。この一連の動きの様相がむちを振られた時と同じ波動運動を呈することになります。 

この様に腰から振られたむちうち現象で一番負荷がかかるところは実は腰、首への可動椎に挟まれた胸椎であり、その部分に筋違い現象が発生することを突きとめたのです。むちうち症での損傷では首の怪我と決めつけられ、X線検査などでも頸椎を主体とした診断になっています。又、首の振り子運動からくる筋肉痛の極度の痛みの自覚症状も要因になっていると思われます。〉 

  

 

 

(※2)むちうち症の原傷部分

(1-2)「むちうち」の画像.JPG〈私の診断としては、腰部(2)は前方頭部(3)は後方に働く介達外力の中で不動椎に近い、胸椎中央部に強い圧力が加わり、胸椎47番に匡正治療で云う筋違いが発生するが、これがむち打ち症を引き起こす原傷となります。つまり早期治癒の根本治療は背筋の治療から始めることが肝要となります。又、治療熟達者においては、背筋の歪み具合で事故後の当たる角度まで判断できるのであります。〉

 

 


そんなことから、北は北海道から南は沖縄までの患者さんが遠路はるばる齊藤先生の治療を受けに来るそうです。極端に言えば、歩けない人が先生の治療後、即座に改善が確認され、そして治療を受ける度に歩く時間と距離が延びるということになるそうです。そして、歩けない人が歩き始めたとき、その本人が時に涙するというお話しを齊籐先生から度々お聞きします。当然のことでしょう。

 

齋藤先生は、末梢部で痛みが発生すると、末梢部からの神経の伝達で、末梢部位の根本にあたる中枢神経部にフィードバック現象が起こるとおっしゃっています。肝臓が悪いと脇腹が痛かったり、胃が悪いと背中が痛かったりするのと同じような症状だそうです。「匡正術(筋療法)」によって背筋を直し、背骨を直すと、間に通っている神経が解放され、自然治癒力が急速に働き、正常になるのだそうです。齋藤先生は、このことを好転反応として「麻痺」が「しびれ」にかわり、「しびれ」が「鈍痛」にかわり、「鈍痛」が「痛み」にかわり、「痛み」にかわったらつまり快方に向かっている、という治療法であると、説明されています。そして、この「痛み」は四肢の指先から次第に脱けていくと更に説明されています。

 

つまり、「匡正術(筋療法)」によって骨格が整えられると、神経が正常に働き、そして血液の循環が相対的によくなり、「気」がよくめぐる、ということではないかと思います。血液の循環が良くなるということは、酸素が細胞の隅々にまで行き渡るということではないでしょうか。そして、血液の流れが良くなるということは、身体の「気」が、滞ることなくよく流れるということでもあると思います。私が1週間に1度か2度背骨を匡正してもらうから骨格が整えられ神経が休まることにこそ、私の一応の健康が保持されている理由があるのではないかと思います。

 

「病は気から」とよく言いますが、東洋医学では、気が滞った状態を放っておくと、ストレスに弱くなり、ますます気が滞りやすくなり、気と一緒に体内をめぐっている血のめぐりまで悪くなることがあると言われているそうです。

 

齋藤先生は、「戸が外れたような状態で何の医療行為を行っても、スムーズに治らない。」ということをよくおっしゃいますが、この意味は、「まずは戸を正常にかけることが大事なことで、その『かける』作業が筋を治すということです。」とのことです。「つまり水の流れのように、汚れた川をきれいにするために、家の前に流れているところだけ掃除をしていても、上流から流れてくる汚れは取れません。まずは、最上流である源泉からきれいにすること、それが根本治療です。」ともおっしゃっています。

 

こういった齋藤先生のお言葉から分かることは、先生の治療に対する考え方は、滞った身体に何の治療をしても意味がなく、血流が良くなり気がよく巡ることで、病気が治るという考え方だと思います。「神は血気に宿る」という名言がありますが、齋藤先生はそれにそった治療法をされているのだと思います。血流を良くして、気の流れを良くすることが、結局、人間としてのエネルギーや自然治癒力を強めるのではないかと思います。そして、そのエネルギーが強まれば、健康へと近づくのではないかと思います。

 

 

齊籐先生は従来からの病気だけでなく、新しい現代病にも取り組んでおられ、その根本治療を推進されています。

 

具体的に一つご紹介申し上げれば、コンピューター病です。大型コンピューターがパソコン時代として世に廻り始めた時、すでにコンピュター病と命名し治療の必要性を感じ、治療科目に加えられていました。

 

コンピューター病については、2001年と2010年に弊所で発行している「Management Law Letter」(事務所発行の冊子です)にご寄稿いただきました。肩こり、腰痛などの「コンピューター病」も、すべて、先に述べたフィードバック現象によるものだそうです。目の使い過ぎ、不快な暑さ寒さ、様々な雑音、ストレス等が病気のもととなり、背筋のどこかに反応としてコリのような変性が起こるのだそうです。

 

長時間のパソコン操作姿勢による運動不足は、人間の動物的生体機能の基本的法則である「動と静」のバランスを崩し自然の体内循環の変調を来すことで、諸々の病を引き起こす原因になるそうです。

 

齋藤先生は、コンピューターによる時代変革は、無限とも思える進化をつづけており、その産業システムの速さに、本質的なヒト機能がついていけない現象が、コンピューター病であるとお考えになられています。コンピューター病は、30代を越えると症状が重傷化する傾向にあり、頭痛、眼病、ストレートネック、頸肩腕症候群、背腰痛、下肢循環不全症、不眠症、不元気症候群、ノイローゼ、コンピューターアレルギー、ストレス等その症状も様々です。またこれらの病はほとんどが慢性病的になっているのが特徴なのだそうです。

 

このように病症が急増する原因としては、30代以上になると会社業務に責任もあり、中間管理職等々の特有のストレスがかかる立場にあること、また体力的に回復力も低下し始め疲労が蓄積していることが原因と思われるとの見解を齊籐先生は持っておられます。

 

対策としては、コンピューター操作時間の二分の一は必ず運動するのが望ましく、時折大自然の中に身を浸して森林浴をすると樹木の香気やマイナスイオンを浴び精神的な安らぎと爽快な気分が得られ、ストレス解消に最適であると、対処方法を説示されておられます。

 

ヒトは動物であり、自ら動くことによってヒト本来の本質である生命体を維持することができるのです。そして、人体の生体機能は、コンピューター以上の情報機能を持っているとも言われます。反面、それだけにデリケートな面もあると言えます。コンピューターの持つ素晴らしい機能によって人の身体のバランスが損なわれることなく、健康的に操作でき、また地球全体にとってもバランスのとれた、平和な道具となって欲しいとの願望を抱きながら、日常的なこのコンピューター病の克服に齊籐先生は取り組んでおられ、根本治療を施されています。

 

齊籐先生はメンタルヘルスが必要である患者にも、もちろんチャレンジされ続けています。文藝春秋11月特別号に掲載されている、私の知人である田中辰巳氏の「社長がウツになりまして…その傾向と対策」という記事をお読み下さい。社長といえど、うつ病に罹る時代なのです。メンタルヘルス問題について以前齋藤先生にアドバイスを伺ったところ、「その人自身が抱えているプライバシーにも係わる悩みの全てを話してくれれば、心に青空を少し見させ、希望を持たせることが出来る。そして、背筋を匡正することで、直すことは可能です」と伺いました。この精神治療法は、心の内側の悩み・苦しみを全て語らせると言うことでありますが、それは心理カウンセラーの手法と同じであると私は感じました。ですが、心理カウンセラーでは、齋藤先生のように、背筋を匡正することは出来ないため、成果は不十分だとも思います。

 

また、齋藤先生の手にかかれば、不治の病といわれているがんさえも、軽快するのではないかと思っています。私の肉親ががんに冒され、亡くなった経緯からして齊藤先生に多いに期待しています。

 

来週も齋藤先生についての記事を投稿する予定です。

先日(10月12日号)の記事を続けます。

 

 

高井伸夫先生のブログに寄稿しているからといって、高井先生や高井先生の仕事術を無条件に礼賛することはいたしません。しかし、現実に感動したことは感動した、実際に驚嘆したことは驚嘆した、ということを素直に、そして率直に記していくつもりです。

 

 

高井先生と出会い、ご一緒させていただくと、毎日、どころか“時々刻々”「心が揺さぶられる体験」をさせられます。

 

先日の記事では、高井先生を元・某総理(大臣)ではありませんが、「コンピュータ付きブルドーザーのような」と形容いたしました。

 

そのような姿を目の当たりにして感じたこと、そして先の記事を通してただ一つ、お伝えしたかったことがあるとすれば、

 

「圧倒的に心を動かされるような存在に出会うことで、人生が変わる」

 

ということなのです。

 

 

私がまさにそうでした。

 

自身、ある時期、精一杯仕事を頑張ってきたつもりであり、相応の仕事量をこなしてきた自負もありましたが、高井先生を目の当たりにして、あっけなくその自信が崩れ去りました。

 

と同時に、あまりに強烈な仕事量ならびに仕事術を見て、感動すら覚えました。心地良い敗北感、というどころではなく、“唖然、呆然、打ちのめされ、完敗させられた後の清々しさ”、とでもいったような(今から考えると、井の中の蛙に過ぎなかったわけですが)。

 

そして、

 

「まだまだできる」

「もっと頑張れる」

「高井先生の仕事術をそのまま真似させていただこう」

 

といった、いろんな気持ちがこんこんと湧き上がってきたのです。

 

 

このような経験を通して私が感じた、感動こそが、自分自身のあり方、ひいては人生に変化をもたらす原動力となる、ということをお伝えしたかったのです。

 

生きていくうえで、仕事に取り組む上で、こうしたらいい、こうすべきということは皆、十分過ぎるほど分かっているはず。しかし、体が動かない。動けない人が多い。しかしどうやら、それは当たり前のことのようです。

 

高井先生から教わった言葉で「人間は知性や理性では動けない」というものがあります。「知動」「理動」といった言葉はなく、「感動」という言葉しかないのは、人は「感じて動く生き物だから」と。

 

 

感じることによって(心が震えて)、初めて人は動けるわけですから、理論や理屈の力で自分を動かそうと思っても、それには限度があるでしょう。反対に、自らの心を打ち、心を震わせてくれる人があれば、その人と間近に接する機会を持つだけで、自分自身が変わりはじめるはず。

 

なぜなら、ある人に対する憧れや感動や感激が生まれ、そこから目標が生まれ、将来のイメージが固まってくることによって、行動もまた変わってくるからです。そうやって自分の意識のありようが変わり始めることで、人生が変化し始めます。

 

まさに私がそうだったのです。高井先生と接して、心が揺さぶられ、再び人生が大きく変わり始めました。

 

人生においては「感動をもたらしてくれる人物との出会い」こそ、大切にしなければなりません。

 

次号に続けます。

 

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(2011年10月10日(月)11:57 
千葉県若葉区小間子町 風戸農園付近にて撮影)

 

 

 

風戸農園 風戸 章 様 

 

10月10日(月)昼12時半より、千葉県若葉区小間子町にある「風戸農園」の収穫祭へお邪魔しました。株式会社タウンサービス代表取締役常務浅田直煕様ご夫妻、こばとの森幼稚園園主小山嘉治様、あすか人事コンサルティング代表太田正孝様、弊所顧問知久正義様、同松本純孝様、秘書多田僚子さんとご一緒に訪れ、自然の中で新鮮な野菜を満喫・堪能いたしました。風戸農園は、私の知人である風戸章様が経営されている農園で、「自然農法」を実践して作られておられる数々の野菜の美味しさは特筆すべきものがございます。

 

 

集合写真.jpg

(2011年10月10日(月)12:41風戸農園にて収穫祭の様子
写真右から2,3番目が風戸様ご夫妻です。)

 

 

 

さて、風戸章様とは、今から11年前の2000年秋に、彼が第一生命保険相互会社の関係会社である株式会社第一生命キャリアサービスに所属していた時に初めてお会いしました。第一生命との関係は、私の大学時代の友人である宮本勵様が、常務取締役であった1991年3月までさかのぼります。風戸様は、第一生命保険相互会社で営業企画部(労使関係を扱う部門)部長、広報部部長、総合能力開発部部長を歴任された後、株式会社第一生命キャリアサービスで業務本部長を務められた方です。風戸様が1988年11月に知人から畑を購入され、無農薬の農園を開かれたということで(元々、農作業がお好きであったということです)それに興味を持った私は、この11年間に何度かお邪魔してきました。

 

風戸農園は、様々な作物にチャレンジされていますが、私も何度かお邪魔をしながら、私のサジェスチョンをいくらかして参りました。私が今回サジェスチョンしたのは、カシューナッツの木を植えることです。風戸様にご提案したところ、カシューナッツは植付けえる苗の大きさにもよりますが、通常実を付けるまでは10年を要するということでした。風戸様は、「自分が生きているうちは、カシューナッツの収穫は不可能かもしれない」とお話しされていましたが、「再来年に風戸農園が25周年を迎えるにあたって、チャレンジされたらどうですか」と私からお話したところ、風戸様は通販のカタログを取り寄せて、現在購入手続きを進めておられるそうです。

 

1988年に農園を開かれてからは、主に風戸様の部下の皆さん等を呼んで収穫祭を開催していらっしゃったそうですが、2003年5月に株式会社第一生命キャリアサービスをご退職後は、農園運営に専念され、「自然農法」を理想とされ、自然と共存しながら野菜を作られています。

 

「自然農法」とは、化学肥料や農薬を一切使わない農法のことで、虫がついたら1匹ずつ手で獲り(1日に100匹位を手で獲っている)、肥料は家庭から出る生ゴミのEM菌を施用したり、畑に生える草などを利用し、微生物を大切にされているとのことです。野菜の品質にこだわり、デパートやスーパーで商品として売られていない品種を種から育て、できるだけ原種に近いものを育てていらっしゃるそうです。

 

畑は800坪余りと家庭菜園レベルとはかけ離れた広大なもので、たくさん獲れた野菜は知り合いに配られたり、「収穫祭」と称して、ご友人とのバーベキューを楽しまれるそうです。季節ごとに年に30回ほどバーベキューを開催され、のべ200名ほどのご友人が参加してくださったそうです。小学校から大学までの同級生や、会社関係では労使交渉の相手方や労働組合の役員の方々、また、風戸様は、感性豊かな人物で学生時代から合唱に大いに馴染まれ、今でも合唱団に入られており、合唱団のお仲間もよくご参加されるとのことです。また、遠路は、転勤していた先の静岡支社の関係者やエジプト旅行で知り合ったご夫婦も泊りがけでいらしてくださるというように、そのお人柄からして風戸様の交友関係は非常に広くていらっしゃいます。そして、参加者それぞれが持ち込む様々なお魚・お肉などと共に、畑で獲れたての新鮮でしかも安全な野菜の数々を食すると、誰もがその美味しさに驚嘆するのです。

 

風戸様は、ご夫婦で、朝3時に起床され、遅くとも朝8時半には畑に出られ、畑仕事をされるという毎日を送られているそうですが、23年間に亘り毎日自然と向き合い続けるというのは、並大抵の努力ではありません。「自然農法」を実践するに当たり、風戸様は、いかにして野菜に「毎日水をやるか」に苦心されてきました。野菜を育てるということは、まさに自然と大いに接点を持つということです。水の確保のために井戸を掘るという話もありましたが、風戸様は井戸を掘らずに、タンクに水をためて、毎日毎日水やりを実践されてきました。

 

野菜というのは、水をあげないとたちまち枯れてしまいますので、海外に行くことは非常に難しいそうですが、合間合間を縫って、海外に何度か行かれておられます。実際、一昨年12月14日には、エジプトへ7泊8日の旅に行かれたそうです。また、合唱団で昨年の5月の連休にはチェコにお邪魔されたということでした。この間は、奥様とお嬢様が水遣りにあたられたそうです。しかし、5月のゴールデンウィーク中はちょうど苗の育苗期間にあたり、旅行中も心配で心配でたまらなかったそうです。そこで、現在では、冬だけは1週間程度水やりを休むことができるので、海外旅行は12月から1月の間に行くことに決められているそうです。

 

風戸様の楽しみは、「何といっても毎日野菜と顔を合わせ、会話をすること。」で、『水が欲しい!』『栄養が足りない!』『虫にかじられた!』といった声を聞きとるようにされているとのことです。これこそまさに野菜と向き合った「自然農法」の実践、まるで子どもを育てるように丁寧に丹精込めて野菜を育てられているのです。

 

そんな風戸様の理想の農園は、虫・鳥・ヘビ・トカゲ・ミミズ、草が集い、そして、友人が時々会いに来てくれるようなコミュニケーションの場になることだそうです。そして今後は、旬の野菜を無駄なく、野菜のもつ生命力を発揮させる土作りに力を入れていかれたいそうです。

 

私はいつも風戸様を激励しておりますが、今年私が提供した「貴水」によって、収穫量が増えたとおっしゃってくださったのは嬉しい限りです。

 

風戸様のつくる落花生は著名な八街ブランドで、その落花生は「貴水」によって、今年は3倍の収穫量があったということでした。また、きゅうり等も、良く実ったということです。詳細は、10月15日の「貴水研究会」にて、風戸様から発表していただきました。その内容は割愛します。

 

「貴水」の研究は遅々として進まなく、量子力学の世界の水であるだけに、量子力学をマスターした人が何名も集まってやっと研究の緒に就くことができるものです。しかし、農業においては、風戸様の研鑽と研究の結果で、「貴水」の効果が判明しつつあるということでしょう。農業に「貴水」が効果的であることは、書籍でも発表されているものではありますが、なかなか世間に認知されないことでありますので、風戸様が、「貴水」の成果を実証されたことは有意義なことであると思います。

 

今回、10月10日体育の日も、私の知人・友人たちと一緒に、風戸農園を訪れ、秋の収穫祭をさせていただきました。その日は天候にも恵まれ、私が持参した米沢牛(私が親しくさせていただいている山形県米沢市にある有限会社登起波牛肉店様から購入しました)と、風戸農園の新鮮な野菜に舌鼓をうち、ビールや日本酒がいつになく美味しいと、皆喜んでいました。風戸農園のお野菜を使った焼そばやお肉のバーベキュー、秋刀魚、サラダ、モロヘイヤのスープ、ゆで落花生など、自然の中で風に吹かれながらいただきましたが、どれも大変美味しく、また親しくしてくださっている皆様に囲まれてご歓談させていただいたことは、私の2011年の秋の思い出の一つになりました。

 

帰りには風戸様が、参加者全員に、畑にあるものをご自由にお持ち帰りくださいとおっしゃってくださり、参加者全員が子どものようにはしゃぎながら、柿、栗、落花生、大根、中国かぼちゃ、モロヘイヤ、四角豆(しかくまめ)などなど、持ちきれないほどお土産をいただき、風戸農園を後にしたのです。

 

風戸様、毎度ありがとうございます。

 

再来年は、風戸農園開墾以来25周年になるそうなので、何か特別なイベントを企画してお邪魔したいと思っています。

 

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(2011年10月9日(日)15:45 
静岡県田方郡函南町 南箱根ダイヤランドにて撮影)

 

 

 

今回から何回かにわたって、「病気」をテーマにブログ記事を執筆しようと考えております。私自身、ここ十年足らずの内に様々な病により苦しんでおりますが、全国の病院、医者、治療家にかかっている中で、多くの先生方が、検査や薬に頼るだけでなく、人間の自然治癒力、人間の持っている力を最大限に生かす方向で治療をしていくという考え方をお持ちであることを知り、大変感銘を受けています。そして、「病気」についてお教えいただいてきたこと、私が感じてきたこと、思ったこと、考えてきたことを本ブログにて取りまとめたいと思います。

 

さて、私が74歳の今でも健康そうに見えて仕事に励むことが出来ているのは、実は、匡正堂 葛飾齋藤整骨院院長齋藤博保先生の治療によるところが大きいと感じています。齋藤先生とは30年ほど前の私が45歳の1982年8月に初めてお会いして以来、空白期間もあるものの、治療を受け続けています。私は、週に1度か2度、背中を押して背筋を矯正し身体を整えるという根本的治療を受けていて、これによって、どうにかこうにか、肉体を維持しております。

 

齋藤博保先生についての交友録もご覧ください。

/weblog/2011/08/82878136.html

 

 

【私の病歴、後遺症(瘢痕)】

「どうにかこうにか」と申し上げる理由は、私の病歴をご紹介すればお分かりになるかと思います。私の病歴は、まず66歳のとき、2003年4月に、一度目の脳梗塞を発症しました。その際は、右半身が不随となりました。様々な治療を試みた結果、外見的には後遺症が残ったとは見えないまでに回復いたしました。2006年4月、二度目の脳梗塞を発症しました。この際は、言語障害となりました。ある程度は回復いたしましたが、いくらか語彙も減り、自分で歯がゆい思いをすることも間々ございます。3度目の発症を防ぐために、注意事項を守り、処方された薬を服用しながら、長年意識して生活を送っています。

 

現在では、脳梗塞を罹患していたとは誰にも思われないような身体にまで戻りましたが、これは、齋藤先生らのご指導のもと、健康を第一として生活をしているからではないかと思っています。

 

私の脳梗塞の後遺症が原因で起きた大きな病気は、何と言っても耳の病気です。2008年11月に左耳の突発性難聴を発症後、次第に悪化し、2010年5月には右耳の聴覚過敏症、2010年10月頃には同じく右耳の耳管開放症も相次いで発症しました。症状としては、左耳は聞こえなくなった上、右耳には音割れ・声割れが激しく、両耳に耳鳴り、閉塞感もあります。

 

これらの耳の病気が、脳梗塞の後遺症が影響した病気(齋藤先生は「瘢痕」と呼ばれます)であると診断して下さった最初の治療家が齋藤先生でした。「瘢痕」については、齋藤先生が持論として分かり易い説明をしてくださいました。

 

「真っ新な白紙の上(健康体)に黒いインク(病)を落としてしまいインク消し(治療)で一生懸命復元しようとしたものの黄ばみ、痕跡(後遺症)は多少なりとも残ってしまいます。ましては一度黒いインクを落とし汚した事実は変えることは出来ずまったく元の白紙には戻すことが出来ないと云うことです。」 

 

「しかしながらその後も後遺症を改善する余地はあります。まず第1の条件は、本人がなんとしてもこの病を克服したいという強い信念を持ち続けること、自分が治りたいという意思を強く持てば持つほど、アドレナリンがでて、自然治癒力が働くとのこと、そして、その人の年令、性別、性質、体質、生活環境、気候等さまざまな条件を見定め、その人本来のもつ自然治癒力への適正な助勢治療によって残された後遺症の更なる改善はみこまれ、更に人の自然治癒力という現象の一環として最大の力は、垣間なく行われている細胞の死滅と再生という循環が繰り返される中で後遺症の元となる組織も死滅と再生を繰り返しています。それは先に述べた諸条件に見合った治癒力となって症状は改善されていると信じています。」 

 

そして、結論として私の今日現在の症状は、その自然治癒力という現象の一環の過程にあるということで、私の難聴などの改善率は年令的、症状度合、体力、気候等の諸条件の中で現在約60%の改善だということで、最終的には15%の永久残留の可能性は覚悟しなければならないということでした。

 

齋藤先生はこのように、独特・判断力の嗅覚をもって、そして治療にも「アイディア」をもって治療して下さいます。齋藤先生が60歳を過ぎてからは、往診はしていただいていませんでしたが、私の聴覚過敏症が激しくなった昨年の春以降には、再び治療をお願いするようになりました。昨年の4月頃、私のその時の症状は回復段階であるとはいえ、脳梗塞特有の後遺症で、歩行困難というほどではないですが歩行に自信が持てず(階段を下りるときに不安感がつきまといました)、文字も上手に書けない、右耳は過敏反応で紙のこすれる音も敏感に感じるほどで、当然テレビは無声映画の状況という生活状態の時に、齋藤先生に往診をお願いしたのです。

 

治療第1日目から、「私が必ず治しますから私の治療方針に従ってください」といわれ、筋(すじ)治療が開始されました。齋藤先生はその時点で、今までのリハビリでの行き詰まりを見抜いていて、一刻も早く私の残された治癒力を引き出すためのアイディア(ひらめき)を感じていたようです。例えば、具体的には、早速、齋藤先生は私の左耳(突発性難聴を発症している方)のために、「聴診器」を用いて診断されました。すなわち、普通はお医者さんが音を聞くために耳に入れる部分を私の左右の耳に入れた上聴診器の集音部分を手でもって響かせて、私の耳が本当に聞こえなくなったのかをテストしたのです。そして、聞こえないとされた左耳もかすかに聞こえるということが分かったのでした。このように、齋藤先生は特異な治療法を工夫し、施しながら、患者を善導される方なのです。そして、齋藤先生の治療開始から1カ月後、毎日散歩を勧められ、公園めぐりが日課となり、今年の3月下旬からはこのブログにのせる花の写真を毎日撮影する等、病状の回復も目に見えて速くなってきました。

 

さて、本年9月にある病院をお訪ねし、色々な検査をしていただきました。

その病院の私の担当の先生は、都内の大学病院の神経内科でご勤務の後、現在は一般内科をされております。

その先生より私の検査結果をご報告いただきましたが、私の脳について以下のコメントを頂きました。

 

「今回の検査で私が一番驚いたのはこの脳CTです。左脳の側頭葉から前頭葉にかけての脳梗塞の跡が目立っているのですが、普通、高井先生ほどの脳梗塞を起こしたら現在も右片麻痺や言語障害が残存していても不思議ではないのですが、それが無いことに一番驚いています。あと、右の側頭葉の一部に中等度の脳梗塞の跡があります。恐らく高井先生の脳CTを見た医師はその脳の持ち主が高井先生とはわからないのではないでしょうか?私から見ると、高井先生はスーパーマンです。お仕事への熱意というのが残存した脳細胞をフル回転させているのでしょうか?凄いことだと思います。大変感激しました(私の医師人生で最も感動的な出来事のひとつに今回遭遇しました)。  

 

その後、追加のコメントが次のようにございました。

 

「大学病院の放射線の助教授の先生と脳外科の元助教授の先生に高井先生の脳CTを見ていただいたのですが、脳外科元助教授の先生のコメントとしては私の見解同様に言語障害などの後遺症があっても良いほどの脳梗塞があるとの見解でした。よって、現在先生が仕事をバリバリとこなしていることは本当に天に感謝しなくてはならないほど幸運なことだと思います。 

また、放射線の助教授の先生のコメントでは、高井先生の脳は海馬と呼ばれる部分が非常に良く残存しており、海馬は短期記憶などに重要な場所ですので、現在の高井先生の分析力などが高いレベルで維持されていることは、この海馬がきちんと残存していることによるものだということでした。」

 

私が2度の脳梗塞を乗り越え、ここまでどうにかこうにかやってこれたことも、上記のような検査結果を出せたことも、齋藤先生の治療のおかげがあってのことだと考えています。もっとも、齋藤先生はよく「時も薬なり」とおっしゃいますので、長い闘病生活の中で、時間が解決してくれた部分もあるのかもしれません。

 

次回以降は齋藤先生の理念、治療法等について具体的にご紹介します。

この度、当ブログに「鮒谷周史の『百聞は一見に如かず』」というタイトルで寄稿させて頂くこととなりました、有限会社セカンドステージ代表の鮒谷周史と申します。

 

自社の経営を行うと共に、現在、約20万人の読者さんが購読下さっている「平成進化論」というビジネスパーソン向けメールマガジンの発行もしております。

 

 

高井伸夫先生とは2004年4月に株式会社かんき出版最高顧問の境健一郎様(当時は代表取締役社長)にご紹介頂いて以来、大変お世話になってきました。

 

特にこの数カ月は、高井先生の国内・海外の出張に同行させて頂く機会(この2ヶ月では北海道、栃木、北京、上海、新潟、鹿児島、佐賀、愛知。そして東京でも多くの会合、会食に同席)も増え、より身近に接しさせて頂くようになりました。

 

その過程で、高井先生の書籍を読んだり、講演・セミナーを聞いたり、会食の場だけでは見えなかったブルドーザーのような仕事ぶりや、周囲の人への気配り心配り、システム化された仕事術などが日々、知らされてきたのです。

 

「百聞は一見に如かず」と言われますが、文字通り見て、触れて、接して、初めて分かることがある、そんな風に思わずにおれませんでした。

 

これから不定期で、そんな高井先生に身近に接し、学んだことをお伝えしていきたいと思っております。よろしくお願いいたします。

 

 

本日は第一回ということで「高井伸夫先生の仕事ぶり」について。

 

 

高井先生は、私より3回りほども上の世代の方でいらっしゃいますが、仕事に賭ける情熱やエネルギーには途方もないものがあります。私も少なからぬ人とのお付き合いをさせて頂いておりますが、高井先生ほど強烈なエネルギーを感じる方、そこから生まれる仕事量をこなされる方は見たことがありません。

74歳というご年齢を一切感じさせません。

 

早朝に起床されてから、夜遅くまで、一分、一秒をおろそかにせず、ひたすら人と会い、会食し、移動中は携帯電話を手放されず、ブルドーザーのように大量の仕事をこなす。

 

時々刻々に積み重なる案件を決済し、興味を持った情報を調べるように指示を出し、人を紹介し、人を紹介され、必要とする方には情報をおすそ分けし、アドバイスをし、聞きたいこと、依頼したいことは、その場で電話する。

 

決断は、その場で。(絶対に後回しにしない)

 

次々、新しい面会予定、出張予定、会食予定を入れていく。お世話になった人へのお礼状の手配も手抜かりはなく、感謝の念をプレゼントに代えてお送りする。

 

複数の会合や会食を同時にかけもちされることもあり、メディアに寄稿する原稿からブログの原稿、その他について、脳内から紡ぎ出される言葉をテープレコーダーや事務所の録音機を駆使しながら口頭で述べ、書面に落とされたものを改めて推敲し、この2、3回の繰り返しで完璧な原稿を作成する。

 

運転手さんは一人だと体が持たないので二人の方の交代制。朝6時~夜10時過ぎまで走り回る。

 

睡眠時間は3時間から4時間程度(のはず。ホテルや旅館ではいつも私が先に寝て、後に起きてしまうので、正確なことは分かりません…)。

 

十数名の秘書さんをフルに稼働させ、驚異的な記憶力を駆使しながら大量の業務を同時並行で進めていく姿は冒頭に記したとおり、その昔、そのように形容された総理(大臣)がいたそうですが、さながらコンピューター付きブルドーザーのよう。

 

話に聞くだけでも、へぇー、と思われるかもしれませんが、朝から晩まで密着しての、嘘偽りない、高井伸夫先生の日常の姿。まさに圧巻の一言。

 

しかし、今日の記事は、そんな高井先生の仕事術について云々、といったお話をするのが目的ではありません。

 

今日、一番お伝えしたかったことは、ある人と出会い、

 

「この人は凄い」

 

と心が震えることによって、自分の人生も作り変わる、ということをお伝えしたいのです。

 

 

長くなりました。次回に続けます。

 

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(2011年10月1日(土) 午前6:58 
東京都渋谷区 鍋島松濤公園付近にて撮影)

 

【美術における「気」】

 

前回9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」でも述べましたが、私は病気をきっかけに「気」について意識するようになり、少しずつ勉強をして来ておりますが、まだまだ「気」についての勉強、修行が足りません。

 

例えば、私は京都にある石庭あるいは苔寺に一度ならずお邪魔したことがありますが、残念ながらそこで「気」を感じることはまだありません。私が「気」を感じることができるのは美術の世界においてです。例えば、絵画展に行って、この絵は良い絵だとかこの絵は嫌いだとかという私なりの識別をすることができます。各企業の応接間等に掲げてある絵についても同様です。この絵は本当に良い絵であるとかこの絵はつまらない絵であるということが私なりに識別できるのです。

 

それは実は、私が30年か40年に亘って絵に親しんできたからだと思います。かつて「双伸」という池袋にあった古道具屋で私は再々絵を求めました。そして、双伸のご主人であった故仲畑憲一様から絵の見方について色々教えていただきました。故仲畑様は、西洋骨董も含め、映画の中で使われる美術品を評論されていた方でもありました。

 

また、1990年4月から1993年10月までは、「にっけいあーと」において「法律税金相談室」という連載を43回にわたって掲載させていただきました。その際に、美術のことを主力にして書いたことから、一層絵心・美術を理解する力ができたのではないかと思います。(※「にっけいあーと」については、4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」にも少し記載しておりますので、ぜひご覧ください。)

 

例えば、展覧会で絵を鑑賞するにあたって、一点一点をじっくり見ることは素人には不可能です。展覧会の一室の真ん中に立ち、グルッと周りを見渡して、この部屋でいただくならこの絵だという作品を決めるのです。それを3室か4室で繰り返し、見終わった後、改めてその3点または4点の絵を見比べて、全ての展示されている絵の中で、貰うならこの絵だと最終的に決めるのです。これが美術作品の鑑賞方法として適切だというのが30年40年かけて展覧会に通い続け、私なりに得た極意です。そして、この鑑賞方法を超える方法は未だ現れていないと私は感じます。

 

このブログでも実は絵のことを折々に書いてきました。例えば7月15日付ブログ記事「気を入れて」において、私が20年ほど前からささやかに支援させていただいている成田禎介先生とともに、東山魁夷先生の処女作とも言うべき『道』の現地に赴くため、青森県八戸市の種差海岸を訪ねたこと、その際、成田先生が「自然は、人間を乗り越えて創造されているものだ」という気配を感じて、それを発酵・熟成させることが絵の魅力に繋がるというお話をしてくださったことをご紹介しました。その「気配を感じる」ということが絵心ではないかと思います。「気配を感じ」ない絵を見るとき、私はその絵を駄作だとして無視してきました。「美の気配を感じる」ということは、実は「真・善・美」という魂にいささかなりとも響くのでしょう。それが故に、「美の気配を感じる」絵は私には好ましい絵という評価に落ち着きます。

 

実は、「気」というものは、何年も何十年も鍛錬し、修業しなければ悟れない世界のことではないでしょうか。

 

 

【気の毒】

「気の毒」(心の毒になることの意)とは「①自分が難儀な目に会って心をいため、苦しむこと。困ること。きまりがわるいこと。当惑。②他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情。③相手に迷惑をかけて、すまなく思うこと。」(広辞苑 第四版)という意味ですが、「気」が汚染されるということを表していると思います。分かりやすくいえば、それは「波動」が乱れるということであり、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」が一層微弱になるということでしょう。

 

要するに、「気」は生物だということです。「気が大きくなる」「気が小さくなる」という言葉がありますが、「気」は伸縮自在なのです。そして、人間は健全に生きているだけではなく、時には傷ついて、「気」自体が弱まりあるいは痛んでくることがあります。

「気の毒」なことをしたなあとよくいいますが、「気の毒」なことをしたとは、相手の「気」を削いだということでしょう。そのことについて同情する、あるいは詫びるというのが、「気の毒なことをした」ということになるわけです。

「気」は伸縮自在と述べましたが、それは実は人間が宇宙と交信するための一端を担っている「霊感」が伸縮自在であるということにもなります。7月1日付ブログ記事「胸騒ぎの解消法・・・『気づき』」で述べましたが、私は「霊感」とは、宇宙に存在する陽炎のごとき人間を、宇宙と結合させる、へその緒のようなものであると考えています。「気」「霊感」が弱まり、痛むということは、人間の「良心」が萎える、「本心」が萎えるということになります。要するに、「気の毒」なことをしたなあというのは、相手の「気」を削ぎ、人間の「良心」「本心」を萎えさせることによって、相手の人間としての存在意義を弱め、あるいは失わせてしまうことをいうのでしょう。人間として更に活躍できるチャンスを、いわば縮めたとか失わせたということが「気の毒」という言葉の本意でありましょう。

 

しかしながら、人間は相手の「気」を削いでしまうことができるのですが、逆に縮んでしまった相手の「気」を大きくすることができるのもまた人間であると思います。例えば、「触れ合い」「ぬくもり」によって、弱まりあるいは痛んでしまった「気」を癒すことができると思います。そうすることによって、「気の毒」な目にあった人間もまた、再び宇宙と結合することが可能となるでしょう。励まし、見舞い、看護も同じ世界のことです。

 

 

【宇宙の「気」】

 

人間の力には限界があります。なぜ人間の力に限界があるのでしょうか。いってみれば、人間の力がおよばないところに別の力が働いているからだと思います。では、別の力とは何なのでしょう。それは恐らく宇宙にある力です。その力は宇宙にある「波動」でもあるし、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」でもあるし、そしてそれが「気」という世界のものになるのでしょう。要するに、人間をとりまくさまざまな要因のなかに大きく囲んでいるのが「気」という世界なのです。「気」という世界が人間の思い通りにならないのは、それは人間の「気」だけではなく、人間を取り巻く宇宙にこそ「気」の根源があるからです。そこにこそ、神にすがるという心境が生まれるのでしょう。すなわち、宇宙の「気」、「波動」、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」に頼らざるをえないのが人間の本来的な姿なのです。

 

9月20日付ブログ【交友録 その11】9月第3週<9月11日(日)~9月17日(土)>でも少しふれましたが、私事ながら、先日9月9日に私の長女ががんにより43歳で他界しました。先にも述べたとおり人間には限界があり、人間の力ではどうにもできないこともあります。彼女はがんの告知を今年の4月に受けましたが、残された時間を幼な子や社会貢献のために何ができるかを必死に考え、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発して生き抜きました。親御さんをがんで亡くすという悲嘆の極みを体験してしまう幼い子どもの心の問題、グリーフケア(「グリーフ」は“悲嘆”という意味で、近しい人を亡くした人がその悲嘆を乗り越えようとする心のケア)の問題が、日本では認知されていないことを知り、代表者としてAIMS(エイムズ)という団体を立ち上げました(現在NPO法人の申請中です)。私は長女に残念ながらこの世で会うことはもう出来なくなってしまいましたが、告別式の日に空にとてもきれいな虹が出ていたのを見て、彼女の頑張りを天が認めて、天が「大地の気」を感じて「虹」という現象になって表れてくれたのではないかと思います。また、亡くなる前日の9月8日午後9時に私が長女の見舞いに行った時、彼女は瀕死ともいえる状態でありました。私は長女に「ダダ(彼女は幼児期に私のことをそう呼んでいました。)だよ。」と声をかけ、そして「ありがとう。」と話しかけました。すると、長女がそれを理解して「ありがとう。」と返事をしたとのことを、そばにいた義妹の真藤英子が聞いたと言っていました(私は定かに聞こえなかったのですが)。それを聞いて、長女と私との「気」が合ってよかったと思いました。「気」が合った上での別れならば、悲しいながらもそれは幸せな「別れ」であり、いい思い出になったといえるのではないでしょうか。

 

AIMSホームページ http://www.aims-japan.org/?page_id=34

 

グリーフケアとは

http://www.grief-care.org/about/index.html

 

私たちは、宇宙では吹けば飛ぶような儚い存在であり、宇宙がたどる「誕生」「成長」「成熟」「枯れる」「たそがれ」「終焉」から、そこに生きる生命体である私たちも、逃れることはできません。「死」というのは宇宙の「気」を受け取れなくなることではないでしょうか。それは、人工衛星を目指すロケットが推力不足により、宇宙速度を乗り越えられないなどの原因により、人工衛星が軌道に乗らないのと似たようなイメージなのではないでしょうか。

 

誰しもが、やがて迎える「終焉」から逃れることができないからこそ、私たちは、宇宙の本質とは何かを少しは考え、宇宙との結合をいくらかでも果たすべく、また、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発し、人間としてのあるべき姿として、社会に貢献していかなければならないのだと私は思います。

 

【「気」を知って人生を楽にしよう!】

 

7月19日付ブログ記事【交友録 その2】2011年7月第3週<10日(日)~16日(土)>にてご紹介させていただいたY.H.C.矢山クリニックに9月28日(水)に治療でお邪魔し、その一貫として、17時40分から30分ほど院長の矢山利彦先生から「気功」を何名かの皆さんと一緒に教えていただきました。「気功」とは、自分の「気」を捕える、感得するということらしいのですが、今回初めて「気功」に挑戦したということもあり、私は全然できませんでした。

 

翌29日朝6時に、散歩をしようと矢山クリニックの玄関に立っていたところ、樹木のさわやかな香りを非常に強く感じました。これは自然の現象、あるいは秋という季節のせいかもしれませんが、これまで感じたことがなかったことでした。

 

その後、多布施川河畔公園を散歩しました。小さな樹木の中を歩いたのですが、所々に鮮やかな彼岸花また、可憐なコスモスが咲いていました。それまでは特に意識することもなかったのですが、それらについて何となく存在感を感じたということは、ひょっとしたら、前日の「気功」で「気」を捕えることを練習した成果かもしれません。すなわち、花々の「気」をいささか感じたのではないかと思います。

 

動物にも「気」があり、人によっては犬や猫、魚等々と「気」の交流をはかることにより、癒されます。草花に話しかけることもありますが、それは草花の存在を認めるということです。そして、そのことは草花自体を元気にし、自分自身も癒されます。ただの草花といって無視していては、生き甲斐がないのです。公園の草花が生き生きしているのは、道行く人々がその存在に気付いて見てくれているからでしょう。

 

私は今後、「気功」に意欲的にチャレンジして自分の「気」を捕えることに試みたいと思っています。私も高齢で感覚が鈍っているため、習得するのは随分先になるかもしれませんが、何事も修行です。修行とはその道の「気」を捕らえる行為ではないでしょうか。「気」を捕らえる努力をする、重ねる、精進するという言葉に繋がっているのではないかと思います。

 

ところで、9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」で私は体力の衰えを「気力」で補ってきたと述べましたが、「気力」とはどのようなものでしょうか。

 

「気力」で生きるとは、「精神力」で生きるということ、「精神力」で生きるとは、ぶれない軸をもっていることだと私は考えます。ぶれない軸とは、「マインド」であり「志」のことです。要するに、何を意識すべきかを明確に意識していることをいうのです。これが大変大切であると思います。

 

そして、「気力」とは、確たる目標を設定した上で、それに向けた勇気・根気・本気を発揮することではないかと最近感じています。ただし、目標は何でもよいわけではありません。目標設定は自分の「良心」・「本心」に従ったものでなければならないのです。

 

人は、目標があるときに意気軒昂になり、目標を失うと、意気消沈になります。勇気・根気・本気も目標があってこそはじめて活性化します。ですから、他人の言葉にショックを受けて意気消沈するということは、実は目標を失うということに等しいといえるでしょう。

 

私にとっての当面の目標は、「事務所の永続性を図る」ということですが、終局的には私の「気」を伝えたいということです。私が2008年11月に耳を患って以来、依頼者から事務所に「覇気」等がなくなったと言われるようになった話をブログでも述べましたが、「覇気」、「活気」、「人気」をリカバーしていくには何が必要でしょうか。

 

それは、目標設定自体の正しさ、すなわち、その目標設定が「良心」・「本心」に基づいたものであることが第一の前提になると思います。そして、その実現に向けて真摯に努力しつづけることが勇気・根気・本気の原点にあるように思えてなりません。弁護士や秘書、所員一同が一丸となって、勇気・根気・本気

をもって営業体制を確立することの重要性、各人が正しく目標を設定し、勇気・根気・本気で仕事に取り組むことの重要性に気付いて欲しい、各人に伝えたいと願いながら私は日々活動に励んでいます。

 

私の人生の残りは必ずしも長くないですが、全力を挙げてチャレンジしていきたいと思います。そうすれば自ずから、「覇気」・「活気」・「人気」を従来以上に取り戻せる可能性があると信じているからです。それゆえ高齢化に伴い体力を維持することが難しい中で、私は「気力」で頑張っています。

 

さて、皆さんも日々の生活の中で「気」というものを意識してみてはいかがでしょうか。きっと人生が楽になり、しいては楽しくなると思います。

 

 

【結び】

ここまで全17回にわたって、「気」をテーマとした様々な記事を書いてきましたが、「気」の話を本格的にするとなると、無限大であり、それこそ「気長」に取り組まなければなりません。

 

このブログでも「気」という言葉が付く言葉をいくつか紹介して来ましたが、とても紹介しきれないほど「気」に関する言葉、「気」が付く言葉は多岐にわたっています。そのことからも、日本人が日常的に「気」をいかに意識して来たかが窺えるでしょう。

 

このブログを執筆していたところ、私のことをよく理解してくださっている株式会社かんき出版境健一郎様から「気と心を知れば人生が楽になり、楽しくなる」というテーマで本を書かないかという執筆依頼を受けました。

 

このブログにおいては、私の知識と勉強が不十分なるがゆえに、「気」については自分の職業上の知識等で書く以外ありませんでした。この本がいつ完成するかは分かりませんが、また、これから「気」なるものそのものを自分で少しずつでも捕えることができればと念じております。

 

追記:6月17日(金)より、全17回にわたって「気」をテーマとしたブログを投稿して参りましたが、今回10月7日(金)更新分記事をもちまして同テーマは一旦終了させていただきます。次回以降は「病気」をテーマとしたブログを少しずつ書いて参ります。

 

20111004.JPG

(2011年9月24日(土) 午前10:15
高知県幡多郡黒潮町上川口「朝鮮国女の墓」にて彼岸花とアゲハ蝶を撮影)

 

 

 

 

株式会社 升本フーズ 代表取締役社長 塚本 光伸 様 

 

9月26日(月)19:00から、東京都江東区亀戸にある「亀戸 升本」にお邪魔し、食事をいただきました。その際、同店を経営する株式会社升本フーズの代表取締役社長である塚本光伸様とお会いしました。私が塚本様と初めてお会いしたのは1996年7月ですが、以来親しくさせていただき、升本フーズが経営されている「亀戸 升本」は、折々利用させていただいております。

 

升本フーズでは、「亀戸 升本」以外にも新宿などにもお店を出しておられる等、色々なご事業を展開されておりますが、特筆すべきは「社員食堂の受託運営」事業です。

 

現在では、大和証券ビジネスセンターなど少数の事業所だけになりましたが、これはあまりにも企業が経費を節約し、社員のためにならないおおかたの社員食堂の経営に傾いていったため、升本フーズが社員食堂の経営から手を引かざるをえなくなったからです。

 

多くの企業では社員食堂を委託運営されていますが、升本フーズが受託運営される社員食堂は、他の社員食堂とは違い、私も拝見したことがありますが、社員食堂というよりちょっと洒落たレストランのようでした。これは、升本フーズの企業理念の内の一つである「お客様満足」を追求する姿勢の表れであり、「その企業の専用レストラン」として、社員等の利用者が仕事の忙しさからいっとき解放され、味も、サービスも、その時間も楽しんでいただけるようにと、徹底した思いやりの社員食堂を運営されているのです。

 

大和証券ビジネスセンターの社員の皆様の声としては、「こちらのビルに移る時、当時の社長が感動して、そのまま営業を頼んだのが、今も続いています。同じ条件で顧客満足度をこのレベルまで高い業者さんはなかなかいないですね。」という高評価も寄せられています。また、「週2回の特選ラーメン日が楽しみ」、「行列ができる店と遜色ない味が400円で食べられる」、「手造りのデザートやコロッケ等がおいしい」、「何よりも社員の希望にすぐ答えてくれる」などの声も寄せられているそうです。

 

しかし、日本が貧困になるにつれて、このような理念が理解されず影が薄れてきたことは、まことに残念なことといわざるをえません。

 

さて、「亀戸 升本」は、JR亀戸駅から歩いて約7分のところにあります。亀戸で江戸時代に自生していたといわれる幻の江戸野菜「亀戸大根」を、昔ながらの製法で丹精込めて育て、伝統の味を今につたえている名店としても知られています。

 

それにくわえて、昔ながらのアサリという貝をモチーフにして、料理をつくっておられます。「亀戸大根あさり鍋」というのが著名です。これは、他の具材と一緒になっても邪魔をせず、凛とした味わいを残す亀戸大根ならではの特徴を活かし、江戸前の新鮮なアサリと抜群の相性を醸し出している逸品です。

 

 

「亀戸大根」が「幻」といわれる所以は、江戸時代には亀戸周辺に自生していて、文久年間(1860~1864年)の頃、亀戸にある香取神社の周辺で栽培され始め、明治時代にかけて盛んに収穫されていたものの、宅地化が進み、畑が減り、大根作りがされなくなり廃れてしまったとの経緯から「幻」といわれているものです。しかし、「亀戸 升本」が、失われた亀戸大根をよみがえらせれば、地域の活性化にもつながると、働きかけ、町ぐるみで復活への機運を高め、ようやく現代に亀戸大根をよみがえらせるに至ったということです。現在、亀戸大根は、亀戸から5キロほど離れた葛飾区柴又で升本専属の亀戸大根農園で栽培されてます。

 

亀戸 升本 HP http://www.masumoto.co.jp

 

塚本様のご実家は明治38年から酒屋を営んでいた旧家でしたが、太平洋戦争の空襲で店が全焼したこともあり、塚本様のお父様とお母様は、夫婦で切り盛りするような小さな飲食店を経営されるに至ったそうです。塚本様は、その塚本家のご長男として1951年に生まれましたが、仕事に明け暮れるご両親を見て育たれ、飲食業に魅力を感じず、むしろ嫌気がさしてしまい、高等学校卒業と同時に家出したそうです。その後、お父様がご病気になったことから、ご実家へ戻られ、その後いったん独立し、不動産の仲介業などをはじめられましたが失敗してしまい、一時は倒産の危機もあったそうです。その後、飲食業をされている「うかいグループ」が経営されていた箱根の旅館や施設にたまたま訪れた際に、とても良い店ばかりであったので、感動され、「うかいグループ」の創始者・社長鵜飼貞男(うかい さだお)様にアプローチをし、八王子の本店まで出向き、お会いになったそうです。

 

その時、鵜飼貞男様から、自殺を決めていたある2人からの、「箱根のガラスの森美術館(うかいグループが経営している美術館)に行き、感動し、自殺を思いとどまった。けっして今も裕福ではないが、楽しく生きている。」といった内容の一通の手紙を見せていただいたそうです。その時、塚本様は、「飲食業は人を救うこともできるんだ。」との感を深くされ、改めて飲食業の良さを知り、家業であった割烹店を継がれたということです。それがいまの「亀戸 升本」の原点であるそうです。

 

箱根のガラスの森美術館HP http://www.ciao3.com/top.htm

 

【参考】 塚本様のインタビュー記事

http://www.in-shoku.info/foodfighters/vol92.html

 

 

塚本様の「食」に関する思い入れ・ご理念は非常に高くていらっしゃいます。例えば、今から38年前、1973年には、日本で初めて、代表的な飲食店の若手オーナーまたはその2代目が集まり、外食の地位と質の向上と発展を目的とした「フードサービス研究会」を設立されましたが、そこでリーダー的な役割を果たされました。そのときに、私は塚本様とお会いしたのです。2006年には理事長を、現在は理事を務められていますが、「フードサービス研究会」は、つばめグリル、グリーンハウス、三笠会館、人形町今半、船橋屋など、日本を代表する飲食店が現在計53社加盟しているとのことです。

 

升本の美味しさの源は、そもそも「われわれ自身が自分の大切な人に食べさせてあげたいものを作る」というお考えに始まっているそうです。「手間をかけてでも品質と安全を第一に優先することで、(升本フーズの)社員一人一人が自分の仕事に誇りを持つことができ、それによって一層おいしい料理が生まれ、人が集まり、それがそのまま顧客満足度に繋がる」という株式会社升本フーズの会社案内によせる塚本様のお言葉には、まさに「志」「魂」をもって食に取り組まれているお仕事への深い想い入れを感じることが出来ます。

 

この「交友録」を書くにあたって、塚本様に「食に対する理念、想い」を文章で送っていただきたい旨お願いしたところ、下記のような文章をいただきました。塚本様の、食に対する深い想いがよくお分かりになる文章だと思いますので、敢えて私の方で手を加えず、そのまま掲載させていただきたいと存じます。

 

レストラン等の飲食店経営に携わる者は、安全を心掛けるのはもちろんのこと、安心を与えることも必要ですし、さらに一歩進んで、お店を利用する顧客の皆さんに幸福感を抱いてもらうことが必要ですし、それには具体的には笑顔で来店してもらい、さらに笑顔を増してお店をあとにしてもらうことが大切だと思います。要するに「売らんかな」の姿勢では、いまの時代にはまったく受けないお店となることはいうまでもありません。東京都内のレストラン・飲食店すら閑古鳥が鳴き、廃れてきているのは、日本人の心が貧しくなったからでしょう。レストラン・飲食店の経営者が自分の目線で顧客のことを考えなくなり、心のデフレ状態に陥り、食事を提供する側としての心根が貧しくなっていることが根本原因であることを、改めて、升本フーズの塚本様をとおして私は知るのです。

 

 

【塚本様の「食に対する理念、想い」】

 

食に対する価値観は、人と動物とでは大きく異なります。生命維持の為の食事という点は動物と同じですが、「味覚」という、個人の「哲学」が入ったり、各個人の生い立ちや文化が違えば、食に対する価値観は人それぞれに変わります。これは、皆さんの日常生活で目にするところであります。 

 

話を戻しまして、生命維持を重点にした食の優先順位を申しますと、まず「利便性」が挙げられます。まず「空腹を満たす食物」が優先され、その次に、「必要な時に必要な栄養価のある食物」が適切な量で求められます。動物は、この点において、種の保存をかけて全てのエネルギーを注ぐと言っていいでしょう。 

 

しかし人間となると、食に関しては、動物と「生命維持」という点で最初の1歩までは同じですが、その後は厄介なくらい複雑になります。例をあげますと、戦場の兵士であっても戦いの最中に故郷の梅干しを食べ、涙を流したり、宇宙飛行士がおなじ味の流動食ばかりだと作業能力が56%落ちるデータもあります。コンビニ等で宇宙食に近いものが販売されています。これは、忙しいビジネスマンが仕事の合間にとるようですが、実はその場のシーンに合っているときに取るのです。つまり、仕事に追われ寸暇を惜しんで食をとるカッコ良さが、それを買う動機にもなっているのです。 

 

人は付加価値の為に命をかけます。終戦直後、飢餓状態のなか、わずかな食費をさらに削り、故人の為に一輪の花を買い陰膳に添える。こんな不合理なことは人間以外の動物は決してしません。付加価値に命をかける人間だけがなせる行為です。 

 

「俺はここに住みこんな食事をとれたら死んでもいい。」「一度でいいからこうなればいつ死んでもいい。」「あの人とあの場所で食べたおにぎりの味が忘れられない、もう一度それができたら何もいらない。」 

 

・・・よく耳にするセリフです。またそれは真実でもあります。自分の思いや感動、魂をゆするものに人は命すらかけます。そのことに他の者も共感すらします。断片的な意味合いのようですが、われわれは全て付加価値の為に、必死になり、生活し、進歩してきました。 

 

それが食文化、文明の進化だと思われます。 

 

人には幸せを求め生きる権利と義務があります。「しあわせは何か」…当社の定義は幸せの原点は健康が元であると定義付けております。健全な肉体、健全な精神。身体の健康に良いもの。身体に悪いと思われるものは提供しない、こころの健康によいものを考えるから美味しい味、空間、環境を提供する。人は人により幸せになる、だから善意を持ったヒトによるサービスができるようにする。それを食にたずさわる者として考えております。 

 

 

 

【自然食(和正食)】

 

升本フーズの色々なお料理の中で取り分け自然食(和正食)にこだわっているという特色を挙げなければいけません。「陰陽五行」に即した東洋的な食のバランスを踏まえた上で、添加物など余計なものを使わずに調理する食養料理に「マクロビオティック」があります。

 

【「陰陽五行」とは】

「陰陽五行」とは、2つの思想が組み合わさった古代中国から伝わる、宇宙から人事にいたる全ての現象を説明しようとする理論、考え方です。


2つの思想とは、1つ目は、「陰陽思想」という、古代中国神話に登場する帝王「伏羲」<紀元前3350年頃~紀元前3040年頃>が作り出したとされる、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想です。


2つ目は、「五行思想」という、万物は「木火土金水」という五つの要素により成り立つとする思想で、夏<紀元前2070年頃~紀元前1600年頃、中国最古と伝承される王朝>の創始者「禹」<紀元前2070年頃>が発案したとされています。

 

升本の和正食弁当はこの流儀にならい、食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を用い、肉、魚、乳、卵、精白糖、化学調味料、保存料を一切使用しないというこだわりぬいた弁当です。食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を活用されているのです。

 

それゆえ人気抜群で、升本フーズの売上の総額は18億円ですが、そのうちの6~7割が和正食をはじめとする各種の弁当で占められているそうです。大企業の経営者・幹部の昼の食事にこのお弁当を採用しているところも沢山あります。健康第一という新たなる食事のジャンルを目指す料理として、企業経営者の幹部等多くの方がこれに拍手喝采され、自らのお昼休みの食事に活用されているのです。伊勢丹新宿店という日本有数のお店がありますが、そこではオンリーワン部門で第1位の記録を得ています。

 

自然食の権威者としては、桜沢如一先生(1893年~1966年)、久司道夫先生(1926年~)が有名ですが、実践家としては、塚本様に勝る人はいないと私は確信しています。この自然食を追求するという姿勢が、升本フーズの様々な事業ジャンルに生きているというのが私の評価です。

 

私は塚本様のお陰で、専門家嫌いで著名だった株式会社うかいの鵜飼貞男様に起用され、株式会社うかいの顧問弁護士に2005年8月に就任しました。鵜飼様とは最初は銀座の「アスター」という中華料理屋、二度目は「八王子うかい鳥山」でした。そのお店を決めてくださったのは塚本様でした。鵜飼様は2006年6月19日にお亡くなりになられましたので、私が株式会社うかいの顧問弁護士に就任したのは、鵜飼様が他界されるわずか10カ月前のことでした。

 

塚本様は良き友人・知人を見つけられ、これと切磋琢磨し、よりよい料理を提供する心意気に溢れた方です。もっと、和正食を広めたいというお気持ちがありながら、新たに工場を建てるには仮工場にしろ、何億円という資金が必要だということで、なかなかこれを可能にする現実にないことに塚本様は歯ぎしりされていることと思います。

 

 

銀座アスターHP http://www.ginza-aster.co.jp/

八王子うかい鳥山HP http://www.ukai.co.jp/toriyama/

 

株式会社升本フーズの益々のご活躍を祈るとともに、私もできるだけ升本フーズのお店を利用させていただくことなどを通じて、ささやかなりとも貢献させていただきたいと思っております。

 

 

 9月23日(金)、羽田空港を11時に発ち、高知龍馬空港に12時半に到着しました。空港に到着する前に機内から海が見えましたが、まさに紺碧の海で、久し振りに緑がかった美しい海を見て心が洗われるような心持ちになりました。この日は快晴で、猛威をふるった台風15号が通り過ぎた後であったので、秋晴れのすがすがしい空気に包まれて高知に到着しました。

 

 

直近で高知を訪れたのは、3年前でした。その時も、今回も、高知の旅にお出迎えをして下さったのは、有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様です。成様はハンディゼロのゴルファーです。まだまだ大活躍されていらっしゃいますが、御歳61歳となられ、少し衰えてきたとおっしゃっていました。また、東京から同行して下さったのは長野県松本市にご在住の、在日本朝鮮人総聯合会 長野県本部常任委員会委員長 李光相様でした。今回も、楽しい2泊3日の旅になりました。様々な史跡等へご案内いただき、総走行距離はなんと470キロとなりました(全ての道を、成様が運転してくださいました。)。

 

さて、高知には、私が36歳のとき、今から38年ほど前の1973年(昭和48年)5月、農林省の地方事務所と統計事務所の人事院の案件でお邪魔したことが最初のことでした。その時20人前後の方が迎えてくださって、勉強して農林省の代理人になったのです。

 

その時は、昔の高知城の近くで合宿をしました。日曜市がたっていて、そこで色々な産物を売っていたのを覚えています。中でも一番珍しかったのは寒蘭でした。寒蘭を山奥から採ってきて、農家の人が売っていたのです。その話を成様にお話ししたら、寒蘭は高知の特産品になっているというお話でした。また寒蘭と共にゆずジュースを日曜市で試飲した懐かしい情景をふと思い出したのでした。

 

 

A 9月23日

(1)えび料理旅館富久美味で会食

 

午後1時ごろから桂浜のえび料理旅館富久美味(ふくみみ)で藤川昭一様とご歓談させていただきました。

富久美味.jpg

(2011年9月23日(金)13:08 桂浜を臨む富久美味にて撮影

左から成采準様、私、藤川昭一様)

 

富久美味HP http://www.fukumimi.tv/

 

藤川昭一様は、阪神タイガースの藤川球児選手のお父様です。球児様と全くそっくりの顔つきでいらっしゃいました。藤川球児選手は31歳で、昭一様は53歳ということで、大変爽やかな方でいらっしゃいました。

 

球児様の名前の由来をお聞きした所、昭一様が国体の野球の予選でピッチャーを務め、ノーヒット・ノーランを達成した翌日に球児様が生まれたからだそうです。球児様は、来年には大リーグを目指されるのでしょう。ご活躍を私も祈念しております。

 

さて、昭一様は、2003年に介護事業を興し、有料老人ホーム他、デイサービス、介護タクシー等を経営・運営されていらっしゃいます。そしてこの施設は西日本の民間企業では最大数の収容者数をもっておられるそうです。収容人数は147人だそうですが、今ご入居されている方は127人とのことです。

 

 

また、昭一様は、元々釣りの専門家で、現在は台湾の企業と提携して、リールと釣り竿を製造販売されているとのことです。色々と親しくお話をさせていただきましたが、大変夢のある方で、パラオの開発に協力したいというお話を伺いました。パラオは成田から4時間半の距離にありますが、年中27度、28度のからっとした天気、すなわち湿気はゼロと言って良いほど素敵なところとのことでした。私はかねてから一度赴きたいと願っていましたが、今後夢が実現するかも知れないと思うと胸がはずみます。ただし、耳の病気が軽快したらの話ではありますが…。

 

昭一様のお話では、ゴルフ場、ホテルの開発を中心としてパラオへ70億円を支援、投資する方を募っているとのお話しがありましたが、それには、それだけの器量のある企業でなければ成功しないと思いますが、私は、某社の会長と縁がありますので、その方にご相談してみたいということをお話しいたしました。

 

昭一様は女子のソフトボールのチームも保有されておられます。有料老人ホームを経営し、またそのソフトボールチームを運営するために2軒のうどん屋を経営されていますが、チームのメンバーはそれらの従業員になっておられるそうです。ソフトボールのチームの維持にはかなりの金額を要します。そのチームはそれらの女性が稼いだお金で運用されているということになるのです。まさに地域社会を元気にするために昭一様は大活躍されているのです。

 

(2)桂浜を散策

(2011年9月23日(金)14:00 桂浜を背に撮影)

 

午後2時に、富久美味から数百メートルのところにある、歩いて5分程度で到着できる桂浜へ赴きました。桂浜は、「♪月の名所は桂浜」とよさこい節でも唄われ、一帯は都市公園として整備されています。海がやはり紺碧であったことは言うまでもありませんが、苔も松も真っ青で、まさに白砂青松でした。ご案内してくださった成様も、こんなに美しい情景は久し振りだという感懐をもらされておられました。さわやかな、まさに秋の風で、ちょっとばかり生き返るような気分になりました。

 

桂浜について(高知市HPより)

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html

 

 

(3)高知県立 坂本龍馬記念館

午後2時15分に坂本龍馬記念館に赴きました。近代的な建物でちょっと違和感を感じました。

坂本龍馬記念館.jpg

(2011年9月23日(金)14:15 坂本龍馬記念館前で撮影

左から松本の李様、私)

 

坂本龍馬記念館HP http://www.ryoma-kinenkan.jp/

 

坂本龍馬(1836年~1867年)は、明治維新の、封建社会から資本主義社会へと時代が移り変わる際のリーダーの一人として活躍された方です。元々質屋(今でいう消費者金融)、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家に生まれましたが、それに甘んじることなく、歴史を切り開こうと活躍されました。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成し、また薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた人物で、日本人なら知らない人のいない国民的英雄でしょう。

 

大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺されてしまい、結局、彼は、明治維新を見届けることなく、志半ばにして31歳の時、命を落としてしまいますが、彼は彼の良心、志を持って、「使命」を果たしたのではないかと思います。「使命」とは、「命を使う」と書きます。彼は志を貫徹するために、命を捨てたのではないかと思います。

 

坂本龍馬記念館のHPにも、「刻々変貌する時代の中で、龍馬記念館の果たさねばならぬ使命は『龍馬の顕彰』、『龍馬思想の普及』に揺るぎはありません。いや、混沌の世相だからこそより使命の重さを感じるわけです。現に巷では『平成の龍馬、出でよ!』の声が切実です。…龍馬が目指した本当の意味の「自由・平等」の向こうにある「平和社会」の実現。」と記載されています。

 

 

(4)高知市立 自由民権記念館

午後2時45分、自由民権記念館を訪問しました。この記念館は、「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たし、高知市がこういった民主主義運動の高まりの中で誕生したという歴史を踏まえ、高知市制100周年を迎えた時(1990年)に、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために建設されたということです。自由民権のために土佐の人がいかに多く奮闘したかを初めて知りました。そしてそれに尽力したのが、板垣退助だけでないことがよく分かりました。

自由民権.jpg

(2011年9月23日(金)14:50 自由民権記念館内で撮影)

 

自由民権記念館HP http://www.i-minken.jp/

 

 

(5)浜田青果

午後3時10分過ぎに、いつも事務所から果物を注文している浜田青果(電話番号:088-882-3547)をお訪ねし、マスターにご挨拶しました。浜田青果では、「南国土佐から全国へ!!」との標語で、様々な果実を全国へ発送されており、フルーツトマトや土佐マンゴーなどは私の贈り物の品としても好評を博しています。今後も継続的に注文させていただきたいと思っています。

 浜田青果.jpg

(2011年9月23日(金)15:11 浜田青果にて撮影

左からマスター、成采準様、私)

 

 

(6)龍馬ふるさと博覧会

午後3時半過ぎ、高知駅前で龍馬ふるさと博覧会が行われていました。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家セットを再現しており、私も見学しました。かなりの人が見学に来ていました。高知は坂本龍馬しか売りものが無いような感じもしました。龍馬ふるさと博覧会は来年3月31日まで開催されているそうです。

 

龍馬ふるさと博覧会HP http://ryoma-furusato.jp/

 

龍馬ふるさと博覧会.jpg

(2011年9月23日(金)15:30

龍馬ふるさと博覧会の「坂本龍馬の生家セット」にて撮影

左から成采準様、私)

 

 

B.9月24日(土)

(1)スリーエフ佐賀店

午前9時45分頃、スリーエフ佐賀店を訪れました。何枚か写真をとりました。創業者の菊池瑞穂様が、四国の愛媛県八幡浜市ご出身とのことで、高知県でもこのように店舗を展開され発展されていることを知り嬉しく存じました。私は、スリーエフとは1995年10月以来一緒にお仕事をさせていただいています。

スリーエフ佐賀店.jpg

(2011年9月24日(土)9:45 スリーエフ佐賀店にて撮影)

 

 

(2)朝鮮国女の墓

午前10時ごろ、大方町上川口にある「朝鮮国女の墓」を訪れました。

 

これは、豊臣秀吉の時代、文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与 十郎が、帰国にあたって若い機織りの女性を2名連行しましたが、その女性の墓です。機織りの技術を近郷近在に広めた彼女たちは、土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられているそうです。

朝鮮への望郷の念を抱きながらも、日本で亡くなったこの女性たちは、小谷与十郎によって、上川口村にあった桂蔵寺の、小谷家の墓域に葬られたそうです(この当時は、女性はお墓に祀られなかったそうでしたので、異例なことだと思います)。

 

今回私が訪れた墓碑を建てたのは、与十郎の四代子孫小谷安次という人物だそうです。墓碑に「天正年中来」と刻んだのは、文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであるといわれているそうです。その後、土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から、移されて現在地にあるということでした。このお墓の移転は30年前の1981年7月7日に完了されたとのことですが、当時若き成様もこれに大いに関与されました。

朝鮮国女の墓.jpg

(2011年9月24日(土)10:01 朝鮮国女の墓にて撮影)

 

お墓の近くには白とピンクのムクゲの花が咲いておりました。ムクゲは、朝鮮の国花です。

 

ムクゲ①.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ムクゲ②.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考】

http://www2.netwave.or.jp/~kazecozo/town/history/tyosen.htm

 

 

【コラム 朝鮮と日本】

今回の旅に同行して下さった成様と私が成様と知り合ったいきさつは、成様のご家族の方と日本のある企業とが問題を抱えた時、私は相手方である企業の弁護士代理人になったということにさかのぼります。相手方の代理人であったにもかかわらず、私は成様とすぐに親しくなりました。

 

私は、朝鮮総連に属している企業は実は日本人にとっては意外なことだが、皆さん超真面目であり、これはこのブログをお読みになっている方には是非とも知らせたい事実です。日本で悪さをすれば、何はともあれ別件逮捕にもなりかねず、騒ぎになるから、本人達は自戒して毎日毎日を過ごしておられるのです。中国における日本企業と同じなのです。そういうことを念頭において、私はいつも朝鮮総連に所属している「同胞」と呼ばれる北朝鮮籍の方々と親しく交わっています。

 

今回の高知旅行では、「朝鮮と日本」の密接な関係、歴史を再考する旅ともなりました。例えば、(2)で述べた朝鮮国女の墓であったり、また、高知の地豆腐は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役のときに、朝鮮から連れてこられた朝鮮人が、高知において唐人町を与えられ、ここで朝鮮の豆腐を作り、商いとし、これを伝承したものです。連れてこられた朝鮮人は現在の韓国の慶尚南道の秋月という地域の出身であり、その子孫の方が現在でも高知におられます。

 

慶尚南道庁観光振興課による道内観光情報HP

http://japan.gntour.com/

 

また、天平文化が花開いた平城京への遷都から1300年となることを記念する祝典が、昨年2010年8月に奈良市の平城宮跡で開かれました。その際、開会のお言葉として、天皇陛下は「百済をはじめ、多くの国から渡来人が移住し文化や技術の発展に寄与してきました」とご挨拶され、朝鮮と日本が古くより関係が合ったことを述べられた上、平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし、「平城京での最後の天皇であった桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」と述べ、皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れられました。

 

また、9月7日(水)にお会いした新潟大学大学院 医歯学総合研究科 地域疾病制御医学専攻 国際感染医学教授 安保徹先生は、津軽のご出身ですが、津軽弁と朝鮮語は非常によく似ているとお話しされていました。そして、9月27日(火)にお会いした無量寺住職 青山俊董先生は「ヤマト」は百済語であり、「ヤマタイコク」は新羅語であって「ヤマト」という意味だそうです、というお話をされていました。いずれも、私にとっては初耳でしたので、非常に驚きましたが、私が長年日本の古代史に関心をもってきた経緯からしても、十分にあり得ることだと判断しました。

 

このように、朝鮮と日本とが、長い歴史の中で、深いかかわりを持ってきたにも拘らず、韓国と国交を回復しながらも、北朝鮮に対する偏見や反感を持つ人が多くまた国交正常化も果されていないことは残念なことです。私の来年4月の三度目の北朝鮮訪問では、日本人たる「誇り」「品格」を忘れず、しかも奢らず、日朝友好を実現するための一端を担うことができればと思っております。

 

(3) 四万十川 川下り・川上り

 四万十川(1).jpg

(2011年9月24日(土)11:07 四万十川と屋形船を背に撮影

左から成様、私、松本の李様)

 

11時すぎより、四万十川で屋形船に乗り、500メートル下り、1.5キロを上り、往復2キロの川下り・川上りをしました。

 

四万十川は堤防などの一切ない自然の川で、「日本最後の清流」といわれるそうです。高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流として、高知県中西部で逆S字を描きながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ川で、私が乗船した所からは30キロ下ると海、170キロ上ると源流に行きつくとのことで、四万十川は200キロ近くの川であるということでした。

 

川下り・川上りでは、素晴らしい景観を楽しみました。台風15号の過ぎた後、川の水が3割も増水しているとのことで、大変心地よく、水面の気温も丁度よく、まさに天然のクーラーといった感じでした。

四万十川(2).jpg

(2011年9月24日(土)11:10 屋形船でのお料理を撮影)

 

屋形船では、四万十川で採れた川エビ、青のり(天然青のりは、四万十川産が国内の90%以上の生産量だそうです)と、「ごり」(小魚。水がゆるむ3月から漁が始まり、四万十川に春を告げる魚として珍重されているそうです)の天ぷらを頂きました。また、四万十川で養殖をしているうなぎも頂きました。食事処は、屋形船・四万十川料理として営業しておられる「なっとく」でした。写真にある通り、私たちは屋形船の上で昼食をいただきました。

 

「なっとく」HP http://www.yakatabune-nattoku.com/

 

下船すると、もうすでにそこには100人くらいのお客さんが、次の乗船を待っていて、大変なにぎわいでした。「自然はビジネスになる」ということを感じました。これは環境保全というテーマを議論するに当たり、人間は自然を愛する存在であることを改めて考えなければいけない点であると思います。

 

 

(4) 幸徳秋水の史跡、展示会など

 

12時40分ごろ、高知県四万十市中村の正福寺跡(明治4年に廃寺になりました)にある幸徳秋水(1871年~1911年)の墓を訪問しました。幸徳秋水の誕生日は1871年9月23日ということで、丁度前日が誕生日だったということです。

 

本年8月1日(月)~8月31日(水)までの1か月間、日本経済新聞朝刊最終面「私の履歴書」にて、日本画家の小泉淳作様の連載が掲載されており、私も毎日愛読しておりました。8月3日(水)付第3回記事には、小泉淳作様のお父様である小泉三申様が、幸徳秋水と大変親しかった旨の記述がありました。

 

小泉三申様(1872年~1937年)は、1894年、自由新聞(板垣退助が党首を務めた自由党の日刊の党機関紙。1882年6月25日創刊)の記者となり、同社で記者をしていた幸徳秋水と親友になりました。その後、三申様は1904年には「金儲け虎の巻」の「経済新聞」を創刊され、また実業家としての地位を固めていきますが、秋水は同年に社会主義の「週刊 平民新聞」を創刊しましたが翌年に廃刊となり、2月に入獄、11月に米国へ亡命をするなど、全く別々の道を歩みました。

 

このように、思想・信条は異なるものの、友情は続き、三申様は、無政府主義運動に傾倒する秋水を常に案じていたそうです。例えば、三申様は、秋水に「通俗日本戦国史」の編纂を勧め、これを受けて秋水は1910年3月から、湯河原の老舗旅館「天野屋」に逗留し、逮捕される6月1日まで編纂を進めていたとのことです。「兆民先生」で伝記作家として才能を発揮した秋水が、これを完成させていれば、素晴らしい読み物になっていたのではないかと思います。また、三申様が「通俗日本戦国史」の編纂を秋水に勧めた理由は、「この編纂に本腰を入れているのだから、天皇暗殺など考えるわけがない」と、秋水の命を救う証拠物件になるのではないかと望みを持っていたからといわれているそうです。

 

これらのエピソードから、三申様の人格が優れていたことはいうまでもないですが、秋水も、世間一般が認識しているようなガチガチの社会主義者ではなく、常識人でもあったように見受けられます。

 

しかし、思想・信条は異なるものの、二人は誠に刎頚の友であり、私が訪れたこの秋水の墓の墓碑銘は、三申様が書かれたということです。三申様は秋水が処刑された翌年の1912年5月に衆議院議員に初当選され、以後は政界でご活躍されました。

幸徳秋水の墓.jpg

(2011年9月24日(土)12:40 幸徳秋水の墓を撮影)

 

 

その後、四万十市立中央公民館にて行われている「幸徳秋水展-伝次郎から秋水へ-」を見学しました。

四万十市立中央公民館.jpg

(2011年9月24日(土)13:04 四万十市立中央公民館前で撮影)

 

幸徳秋水展HP

http://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2011/0912/index.html

 

それから、為松公園(中村城跡)にある、秋水が死刑執行の直前、看守の依頼に応じて書き残したという絶筆の碑を見に行きました。

為松公園.jpg

(2011年9月24日(土)13:26 為松公園幸徳秋水絶筆の碑の前で撮影)

 

碑には、「区々成敗且休論 千古唯応意気存 如是而生如是死 罪人又覚布衣尊」という漢詩が書かれていました。この文意は「ささいな成敗は、しばらく論ずるのをやめよう。千古の歴史に光るのは、人間の意気だけである。自分はこのように生き、このように死ぬ。罪人になった今でも、仕官していない平民の自由をつくづく感じることである」という意味だそうです。

 

幸徳秋水は、無政府主義、社会主義といった先駆的な思想のもと活動された方です。日露戦争勃発時には、非戦論を声高に主張し、その後1911年、大逆事件の首謀者として死刑判決を受け、1911年1月24日に刑が執行され、40歳にして命を落としました。彼もまた、坂本龍馬と同様、志を持って良心に従いまっすぐに生き、自分の使命のために「命を使った」ということだと思います。

 

今年は刑死100周年ということで、四万十市が市を上げて記念事業を行っていました。1960年代頃より新資料などが発見されて以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家による捏造であるとされ、今や、名誉を回復し、郷土の英雄として、地元の人々に尊敬されているということでした。また、彼は著名な名文家としてもよく知られていますが、これを紹介することは省きます。

 

その後、四万十川の西岸を下りドライブしました。私が過ごした故郷である少年時代の三重県の川を思い出しました。しかし、四万十川は三重県の川よりはるかに美しい色でした。土佐清水に向かう途上で四万十川の川っぺりにいた売り子から久々にアイスクリームを購入し、いただきました。心地の良い昼下がりの日に当たりいただいた久しぶりのアイスクリームの味は格別でした。

 

 

(5) ジョン万次郎資料館

午後2時半過ぎに、土佐清水にあるジョン万次郎資料館を訪れました。

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(2011年9月24日(土)14:32 ジョン万次郎資料館の前で撮影)

 

ジョン万次郎資料館HP http://www.johnmung.info/house.htm

 

ジョン万次郎(1827年~1898年)は、本名は中濱 萬次郎で、1841年、14歳の時に、漁師として漁に出ていたところ、嵐に遭い遭難、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着しました。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、その船長であったホイットフィールドに気に入られ、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語はもちろん、測量・航海術・造船技術などを熱心に勉強し、首席となったそうです。

 

その後、1851年、彼が24歳の時に、捕鯨船に乗って日本の近くに戻り、捕鯨船と別れてアドベンチャー号という小舟で、薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られ帰国しました。

 

それ以降の彼の活躍は、様々な書籍で紹介されています。彼は初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人であり、ミシンとカメラを持ち込んだのも彼であるそうです。捕鯨船の船員として世界一周の航海にもでていました。そして特記すべきは1860年、彼が33歳の時、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡った時のことでしょう。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は裏の船長を務めたということです。その後も、日本の産業振興に貢献し、1869年、彼が42歳の時、明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の英語教授となり、最高学府の教壇に立たれました。

 

その後、1871年、彼が44歳の時に軽い脳溢血を起こして倒れ、ほどなく快復はされたものの、以後静かな晩年を送られ、1898年、71歳でなくなりました。

 

彼の青年期はまさに波乱万丈で、一人異国の地に飛ばされ、その後要人となり、44歳までは第一線でご活躍されていたことに比べると、晩年の人生は、あまりにも静かなものであったと思います。しかし、青年時代のわずかな間に、最初のコスモポリタンとしての日本人として、国際交流という使命を果たし、偉大な実績を残されたのだと思います。

 

 

(6) カニ・エビ・貝料理の浮橋にて夕食をいただく

 

夕食は成様が35年ご贔屓にされているカニ・エビ・貝料理の「浮橋」でいたしました。屋形船には、地元で穫れたカニ・エビ・貝などを生きたまま置いてあり、これらを焼くときも全て生きたまま焼くという、新鮮な海の幸を味うことができ、誠に美味でありました。もう一度ぜひともお邪魔したいと思っています。

 

浮橋.jpg

(2011年9月24日(土)18:04 浮舟にて撮影)

 

浮橋 食べログ

http://r.tabelog.com/kochi/A3903/A390301/39003509/

 

C.9月25日(日)

日曜市.jpg

(2011年9月25日(日)7:57 高知市「日曜市」にて撮影)

 

9月25日朝8時頃から30分程日曜市を見に行きました。昔と違ってもっと盛んになっていたような印象でした。高知城のすぐ下、追手門から東に伸びる高知市追手筋で約1.3キロにわたり、毎週日曜日に開催されているそうです。相変わらず寒蘭もあり、また、ゆずジュースも売ってましたが、その他の産品も沢山ありました。日曜日の朝に毎度このような市があることは市民あるいは観光客に大きな癒しを与えてくれるものと感じました。

 

日曜市について高知市HP

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/nichiyoichi-gairoichi.html

 

 

まとめ

 さて、今回の高知行きの歴訪記のまとめとして、高知を代表する坂本龍馬、幸徳秋水、それから中濱萬次郎(ジョン万次郎)の足跡を振り返るに、彼らは上士という山内家の枢要なポストを占めている人物ではなく、坂本龍馬は商家の出身で郷士という侍の身分ではありながらも上士との身分の隔たりは非常に大きく、また幸徳秋水は豪商という町の有力者を父に持ちながらも、平民の出であり、また中濱萬次郎は漁夫でありました。そのような方々が明治を迎える前後に活躍されたということは、高知県の置かれた地域からして、ハングリー精神がこれをなさしめたものと存じます。そしてそのハングリー精神がそれぞれの使命を果たした起爆剤になったと判断しました。

 

9月25日(日)朝10時10分発の飛行機で高知龍馬空港から東京・羽田に戻りました。

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