2011年10月4日のアーカイブ

 

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(2011年9月24日(土) 午前10:15
高知県幡多郡黒潮町上川口「朝鮮国女の墓」にて彼岸花とアゲハ蝶を撮影)

 

 

 

 

株式会社 升本フーズ 代表取締役社長 塚本 光伸 様 

 

9月26日(月)19:00から、東京都江東区亀戸にある「亀戸 升本」にお邪魔し、食事をいただきました。その際、同店を経営する株式会社升本フーズの代表取締役社長である塚本光伸様とお会いしました。私が塚本様と初めてお会いしたのは1996年7月ですが、以来親しくさせていただき、升本フーズが経営されている「亀戸 升本」は、折々利用させていただいております。

 

升本フーズでは、「亀戸 升本」以外にも新宿などにもお店を出しておられる等、色々なご事業を展開されておりますが、特筆すべきは「社員食堂の受託運営」事業です。

 

現在では、大和証券ビジネスセンターなど少数の事業所だけになりましたが、これはあまりにも企業が経費を節約し、社員のためにならないおおかたの社員食堂の経営に傾いていったため、升本フーズが社員食堂の経営から手を引かざるをえなくなったからです。

 

多くの企業では社員食堂を委託運営されていますが、升本フーズが受託運営される社員食堂は、他の社員食堂とは違い、私も拝見したことがありますが、社員食堂というよりちょっと洒落たレストランのようでした。これは、升本フーズの企業理念の内の一つである「お客様満足」を追求する姿勢の表れであり、「その企業の専用レストラン」として、社員等の利用者が仕事の忙しさからいっとき解放され、味も、サービスも、その時間も楽しんでいただけるようにと、徹底した思いやりの社員食堂を運営されているのです。

 

大和証券ビジネスセンターの社員の皆様の声としては、「こちらのビルに移る時、当時の社長が感動して、そのまま営業を頼んだのが、今も続いています。同じ条件で顧客満足度をこのレベルまで高い業者さんはなかなかいないですね。」という高評価も寄せられています。また、「週2回の特選ラーメン日が楽しみ」、「行列ができる店と遜色ない味が400円で食べられる」、「手造りのデザートやコロッケ等がおいしい」、「何よりも社員の希望にすぐ答えてくれる」などの声も寄せられているそうです。

 

しかし、日本が貧困になるにつれて、このような理念が理解されず影が薄れてきたことは、まことに残念なことといわざるをえません。

 

さて、「亀戸 升本」は、JR亀戸駅から歩いて約7分のところにあります。亀戸で江戸時代に自生していたといわれる幻の江戸野菜「亀戸大根」を、昔ながらの製法で丹精込めて育て、伝統の味を今につたえている名店としても知られています。

 

それにくわえて、昔ながらのアサリという貝をモチーフにして、料理をつくっておられます。「亀戸大根あさり鍋」というのが著名です。これは、他の具材と一緒になっても邪魔をせず、凛とした味わいを残す亀戸大根ならではの特徴を活かし、江戸前の新鮮なアサリと抜群の相性を醸し出している逸品です。

 

 

「亀戸大根」が「幻」といわれる所以は、江戸時代には亀戸周辺に自生していて、文久年間(1860~1864年)の頃、亀戸にある香取神社の周辺で栽培され始め、明治時代にかけて盛んに収穫されていたものの、宅地化が進み、畑が減り、大根作りがされなくなり廃れてしまったとの経緯から「幻」といわれているものです。しかし、「亀戸 升本」が、失われた亀戸大根をよみがえらせれば、地域の活性化にもつながると、働きかけ、町ぐるみで復活への機運を高め、ようやく現代に亀戸大根をよみがえらせるに至ったということです。現在、亀戸大根は、亀戸から5キロほど離れた葛飾区柴又で升本専属の亀戸大根農園で栽培されてます。

 

亀戸 升本 HP http://www.masumoto.co.jp

 

塚本様のご実家は明治38年から酒屋を営んでいた旧家でしたが、太平洋戦争の空襲で店が全焼したこともあり、塚本様のお父様とお母様は、夫婦で切り盛りするような小さな飲食店を経営されるに至ったそうです。塚本様は、その塚本家のご長男として1951年に生まれましたが、仕事に明け暮れるご両親を見て育たれ、飲食業に魅力を感じず、むしろ嫌気がさしてしまい、高等学校卒業と同時に家出したそうです。その後、お父様がご病気になったことから、ご実家へ戻られ、その後いったん独立し、不動産の仲介業などをはじめられましたが失敗してしまい、一時は倒産の危機もあったそうです。その後、飲食業をされている「うかいグループ」が経営されていた箱根の旅館や施設にたまたま訪れた際に、とても良い店ばかりであったので、感動され、「うかいグループ」の創始者・社長鵜飼貞男(うかい さだお)様にアプローチをし、八王子の本店まで出向き、お会いになったそうです。

 

その時、鵜飼貞男様から、自殺を決めていたある2人からの、「箱根のガラスの森美術館(うかいグループが経営している美術館)に行き、感動し、自殺を思いとどまった。けっして今も裕福ではないが、楽しく生きている。」といった内容の一通の手紙を見せていただいたそうです。その時、塚本様は、「飲食業は人を救うこともできるんだ。」との感を深くされ、改めて飲食業の良さを知り、家業であった割烹店を継がれたということです。それがいまの「亀戸 升本」の原点であるそうです。

 

箱根のガラスの森美術館HP http://www.ciao3.com/top.htm

 

【参考】 塚本様のインタビュー記事

http://www.in-shoku.info/foodfighters/vol92.html

 

 

塚本様の「食」に関する思い入れ・ご理念は非常に高くていらっしゃいます。例えば、今から38年前、1973年には、日本で初めて、代表的な飲食店の若手オーナーまたはその2代目が集まり、外食の地位と質の向上と発展を目的とした「フードサービス研究会」を設立されましたが、そこでリーダー的な役割を果たされました。そのときに、私は塚本様とお会いしたのです。2006年には理事長を、現在は理事を務められていますが、「フードサービス研究会」は、つばめグリル、グリーンハウス、三笠会館、人形町今半、船橋屋など、日本を代表する飲食店が現在計53社加盟しているとのことです。

 

升本の美味しさの源は、そもそも「われわれ自身が自分の大切な人に食べさせてあげたいものを作る」というお考えに始まっているそうです。「手間をかけてでも品質と安全を第一に優先することで、(升本フーズの)社員一人一人が自分の仕事に誇りを持つことができ、それによって一層おいしい料理が生まれ、人が集まり、それがそのまま顧客満足度に繋がる」という株式会社升本フーズの会社案内によせる塚本様のお言葉には、まさに「志」「魂」をもって食に取り組まれているお仕事への深い想い入れを感じることが出来ます。

 

この「交友録」を書くにあたって、塚本様に「食に対する理念、想い」を文章で送っていただきたい旨お願いしたところ、下記のような文章をいただきました。塚本様の、食に対する深い想いがよくお分かりになる文章だと思いますので、敢えて私の方で手を加えず、そのまま掲載させていただきたいと存じます。

 

レストラン等の飲食店経営に携わる者は、安全を心掛けるのはもちろんのこと、安心を与えることも必要ですし、さらに一歩進んで、お店を利用する顧客の皆さんに幸福感を抱いてもらうことが必要ですし、それには具体的には笑顔で来店してもらい、さらに笑顔を増してお店をあとにしてもらうことが大切だと思います。要するに「売らんかな」の姿勢では、いまの時代にはまったく受けないお店となることはいうまでもありません。東京都内のレストラン・飲食店すら閑古鳥が鳴き、廃れてきているのは、日本人の心が貧しくなったからでしょう。レストラン・飲食店の経営者が自分の目線で顧客のことを考えなくなり、心のデフレ状態に陥り、食事を提供する側としての心根が貧しくなっていることが根本原因であることを、改めて、升本フーズの塚本様をとおして私は知るのです。

 

 

【塚本様の「食に対する理念、想い」】

 

食に対する価値観は、人と動物とでは大きく異なります。生命維持の為の食事という点は動物と同じですが、「味覚」という、個人の「哲学」が入ったり、各個人の生い立ちや文化が違えば、食に対する価値観は人それぞれに変わります。これは、皆さんの日常生活で目にするところであります。 

 

話を戻しまして、生命維持を重点にした食の優先順位を申しますと、まず「利便性」が挙げられます。まず「空腹を満たす食物」が優先され、その次に、「必要な時に必要な栄養価のある食物」が適切な量で求められます。動物は、この点において、種の保存をかけて全てのエネルギーを注ぐと言っていいでしょう。 

 

しかし人間となると、食に関しては、動物と「生命維持」という点で最初の1歩までは同じですが、その後は厄介なくらい複雑になります。例をあげますと、戦場の兵士であっても戦いの最中に故郷の梅干しを食べ、涙を流したり、宇宙飛行士がおなじ味の流動食ばかりだと作業能力が56%落ちるデータもあります。コンビニ等で宇宙食に近いものが販売されています。これは、忙しいビジネスマンが仕事の合間にとるようですが、実はその場のシーンに合っているときに取るのです。つまり、仕事に追われ寸暇を惜しんで食をとるカッコ良さが、それを買う動機にもなっているのです。 

 

人は付加価値の為に命をかけます。終戦直後、飢餓状態のなか、わずかな食費をさらに削り、故人の為に一輪の花を買い陰膳に添える。こんな不合理なことは人間以外の動物は決してしません。付加価値に命をかける人間だけがなせる行為です。 

 

「俺はここに住みこんな食事をとれたら死んでもいい。」「一度でいいからこうなればいつ死んでもいい。」「あの人とあの場所で食べたおにぎりの味が忘れられない、もう一度それができたら何もいらない。」 

 

・・・よく耳にするセリフです。またそれは真実でもあります。自分の思いや感動、魂をゆするものに人は命すらかけます。そのことに他の者も共感すらします。断片的な意味合いのようですが、われわれは全て付加価値の為に、必死になり、生活し、進歩してきました。 

 

それが食文化、文明の進化だと思われます。 

 

人には幸せを求め生きる権利と義務があります。「しあわせは何か」…当社の定義は幸せの原点は健康が元であると定義付けております。健全な肉体、健全な精神。身体の健康に良いもの。身体に悪いと思われるものは提供しない、こころの健康によいものを考えるから美味しい味、空間、環境を提供する。人は人により幸せになる、だから善意を持ったヒトによるサービスができるようにする。それを食にたずさわる者として考えております。 

 

 

 

【自然食(和正食)】

 

升本フーズの色々なお料理の中で取り分け自然食(和正食)にこだわっているという特色を挙げなければいけません。「陰陽五行」に即した東洋的な食のバランスを踏まえた上で、添加物など余計なものを使わずに調理する食養料理に「マクロビオティック」があります。

 

【「陰陽五行」とは】

「陰陽五行」とは、2つの思想が組み合わさった古代中国から伝わる、宇宙から人事にいたる全ての現象を説明しようとする理論、考え方です。


2つの思想とは、1つ目は、「陰陽思想」という、古代中国神話に登場する帝王「伏羲」<紀元前3350年頃~紀元前3040年頃>が作り出したとされる、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想です。


2つ目は、「五行思想」という、万物は「木火土金水」という五つの要素により成り立つとする思想で、夏<紀元前2070年頃~紀元前1600年頃、中国最古と伝承される王朝>の創始者「禹」<紀元前2070年頃>が発案したとされています。

 

升本の和正食弁当はこの流儀にならい、食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を用い、肉、魚、乳、卵、精白糖、化学調味料、保存料を一切使用しないというこだわりぬいた弁当です。食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を活用されているのです。

 

それゆえ人気抜群で、升本フーズの売上の総額は18億円ですが、そのうちの6~7割が和正食をはじめとする各種の弁当で占められているそうです。大企業の経営者・幹部の昼の食事にこのお弁当を採用しているところも沢山あります。健康第一という新たなる食事のジャンルを目指す料理として、企業経営者の幹部等多くの方がこれに拍手喝采され、自らのお昼休みの食事に活用されているのです。伊勢丹新宿店という日本有数のお店がありますが、そこではオンリーワン部門で第1位の記録を得ています。

 

自然食の権威者としては、桜沢如一先生(1893年~1966年)、久司道夫先生(1926年~)が有名ですが、実践家としては、塚本様に勝る人はいないと私は確信しています。この自然食を追求するという姿勢が、升本フーズの様々な事業ジャンルに生きているというのが私の評価です。

 

私は塚本様のお陰で、専門家嫌いで著名だった株式会社うかいの鵜飼貞男様に起用され、株式会社うかいの顧問弁護士に2005年8月に就任しました。鵜飼様とは最初は銀座の「アスター」という中華料理屋、二度目は「八王子うかい鳥山」でした。そのお店を決めてくださったのは塚本様でした。鵜飼様は2006年6月19日にお亡くなりになられましたので、私が株式会社うかいの顧問弁護士に就任したのは、鵜飼様が他界されるわずか10カ月前のことでした。

 

塚本様は良き友人・知人を見つけられ、これと切磋琢磨し、よりよい料理を提供する心意気に溢れた方です。もっと、和正食を広めたいというお気持ちがありながら、新たに工場を建てるには仮工場にしろ、何億円という資金が必要だということで、なかなかこれを可能にする現実にないことに塚本様は歯ぎしりされていることと思います。

 

 

銀座アスターHP http://www.ginza-aster.co.jp/

八王子うかい鳥山HP http://www.ukai.co.jp/toriyama/

 

株式会社升本フーズの益々のご活躍を祈るとともに、私もできるだけ升本フーズのお店を利用させていただくことなどを通じて、ささやかなりとも貢献させていただきたいと思っております。

 

 

 9月23日(金)、羽田空港を11時に発ち、高知龍馬空港に12時半に到着しました。空港に到着する前に機内から海が見えましたが、まさに紺碧の海で、久し振りに緑がかった美しい海を見て心が洗われるような心持ちになりました。この日は快晴で、猛威をふるった台風15号が通り過ぎた後であったので、秋晴れのすがすがしい空気に包まれて高知に到着しました。

 

 

直近で高知を訪れたのは、3年前でした。その時も、今回も、高知の旅にお出迎えをして下さったのは、有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様です。成様はハンディゼロのゴルファーです。まだまだ大活躍されていらっしゃいますが、御歳61歳となられ、少し衰えてきたとおっしゃっていました。また、東京から同行して下さったのは長野県松本市にご在住の、在日本朝鮮人総聯合会 長野県本部常任委員会委員長 李光相様でした。今回も、楽しい2泊3日の旅になりました。様々な史跡等へご案内いただき、総走行距離はなんと470キロとなりました(全ての道を、成様が運転してくださいました。)。

 

さて、高知には、私が36歳のとき、今から38年ほど前の1973年(昭和48年)5月、農林省の地方事務所と統計事務所の人事院の案件でお邪魔したことが最初のことでした。その時20人前後の方が迎えてくださって、勉強して農林省の代理人になったのです。

 

その時は、昔の高知城の近くで合宿をしました。日曜市がたっていて、そこで色々な産物を売っていたのを覚えています。中でも一番珍しかったのは寒蘭でした。寒蘭を山奥から採ってきて、農家の人が売っていたのです。その話を成様にお話ししたら、寒蘭は高知の特産品になっているというお話でした。また寒蘭と共にゆずジュースを日曜市で試飲した懐かしい情景をふと思い出したのでした。

 

 

A 9月23日

(1)えび料理旅館富久美味で会食

 

午後1時ごろから桂浜のえび料理旅館富久美味(ふくみみ)で藤川昭一様とご歓談させていただきました。

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(2011年9月23日(金)13:08 桂浜を臨む富久美味にて撮影

左から成采準様、私、藤川昭一様)

 

富久美味HP http://www.fukumimi.tv/

 

藤川昭一様は、阪神タイガースの藤川球児選手のお父様です。球児様と全くそっくりの顔つきでいらっしゃいました。藤川球児選手は31歳で、昭一様は53歳ということで、大変爽やかな方でいらっしゃいました。

 

球児様の名前の由来をお聞きした所、昭一様が国体の野球の予選でピッチャーを務め、ノーヒット・ノーランを達成した翌日に球児様が生まれたからだそうです。球児様は、来年には大リーグを目指されるのでしょう。ご活躍を私も祈念しております。

 

さて、昭一様は、2003年に介護事業を興し、有料老人ホーム他、デイサービス、介護タクシー等を経営・運営されていらっしゃいます。そしてこの施設は西日本の民間企業では最大数の収容者数をもっておられるそうです。収容人数は147人だそうですが、今ご入居されている方は127人とのことです。

 

 

また、昭一様は、元々釣りの専門家で、現在は台湾の企業と提携して、リールと釣り竿を製造販売されているとのことです。色々と親しくお話をさせていただきましたが、大変夢のある方で、パラオの開発に協力したいというお話を伺いました。パラオは成田から4時間半の距離にありますが、年中27度、28度のからっとした天気、すなわち湿気はゼロと言って良いほど素敵なところとのことでした。私はかねてから一度赴きたいと願っていましたが、今後夢が実現するかも知れないと思うと胸がはずみます。ただし、耳の病気が軽快したらの話ではありますが…。

 

昭一様のお話では、ゴルフ場、ホテルの開発を中心としてパラオへ70億円を支援、投資する方を募っているとのお話しがありましたが、それには、それだけの器量のある企業でなければ成功しないと思いますが、私は、某社の会長と縁がありますので、その方にご相談してみたいということをお話しいたしました。

 

昭一様は女子のソフトボールのチームも保有されておられます。有料老人ホームを経営し、またそのソフトボールチームを運営するために2軒のうどん屋を経営されていますが、チームのメンバーはそれらの従業員になっておられるそうです。ソフトボールのチームの維持にはかなりの金額を要します。そのチームはそれらの女性が稼いだお金で運用されているということになるのです。まさに地域社会を元気にするために昭一様は大活躍されているのです。

 

(2)桂浜を散策

(2011年9月23日(金)14:00 桂浜を背に撮影)

 

午後2時に、富久美味から数百メートルのところにある、歩いて5分程度で到着できる桂浜へ赴きました。桂浜は、「♪月の名所は桂浜」とよさこい節でも唄われ、一帯は都市公園として整備されています。海がやはり紺碧であったことは言うまでもありませんが、苔も松も真っ青で、まさに白砂青松でした。ご案内してくださった成様も、こんなに美しい情景は久し振りだという感懐をもらされておられました。さわやかな、まさに秋の風で、ちょっとばかり生き返るような気分になりました。

 

桂浜について(高知市HPより)

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html

 

 

(3)高知県立 坂本龍馬記念館

午後2時15分に坂本龍馬記念館に赴きました。近代的な建物でちょっと違和感を感じました。

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(2011年9月23日(金)14:15 坂本龍馬記念館前で撮影

左から松本の李様、私)

 

坂本龍馬記念館HP http://www.ryoma-kinenkan.jp/

 

坂本龍馬(1836年~1867年)は、明治維新の、封建社会から資本主義社会へと時代が移り変わる際のリーダーの一人として活躍された方です。元々質屋(今でいう消費者金融)、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家に生まれましたが、それに甘んじることなく、歴史を切り開こうと活躍されました。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成し、また薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた人物で、日本人なら知らない人のいない国民的英雄でしょう。

 

大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺されてしまい、結局、彼は、明治維新を見届けることなく、志半ばにして31歳の時、命を落としてしまいますが、彼は彼の良心、志を持って、「使命」を果たしたのではないかと思います。「使命」とは、「命を使う」と書きます。彼は志を貫徹するために、命を捨てたのではないかと思います。

 

坂本龍馬記念館のHPにも、「刻々変貌する時代の中で、龍馬記念館の果たさねばならぬ使命は『龍馬の顕彰』、『龍馬思想の普及』に揺るぎはありません。いや、混沌の世相だからこそより使命の重さを感じるわけです。現に巷では『平成の龍馬、出でよ!』の声が切実です。…龍馬が目指した本当の意味の「自由・平等」の向こうにある「平和社会」の実現。」と記載されています。

 

 

(4)高知市立 自由民権記念館

午後2時45分、自由民権記念館を訪問しました。この記念館は、「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たし、高知市がこういった民主主義運動の高まりの中で誕生したという歴史を踏まえ、高知市制100周年を迎えた時(1990年)に、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために建設されたということです。自由民権のために土佐の人がいかに多く奮闘したかを初めて知りました。そしてそれに尽力したのが、板垣退助だけでないことがよく分かりました。

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(2011年9月23日(金)14:50 自由民権記念館内で撮影)

 

自由民権記念館HP http://www.i-minken.jp/

 

 

(5)浜田青果

午後3時10分過ぎに、いつも事務所から果物を注文している浜田青果(電話番号:088-882-3547)をお訪ねし、マスターにご挨拶しました。浜田青果では、「南国土佐から全国へ!!」との標語で、様々な果実を全国へ発送されており、フルーツトマトや土佐マンゴーなどは私の贈り物の品としても好評を博しています。今後も継続的に注文させていただきたいと思っています。

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(2011年9月23日(金)15:11 浜田青果にて撮影

左からマスター、成采準様、私)

 

 

(6)龍馬ふるさと博覧会

午後3時半過ぎ、高知駅前で龍馬ふるさと博覧会が行われていました。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家セットを再現しており、私も見学しました。かなりの人が見学に来ていました。高知は坂本龍馬しか売りものが無いような感じもしました。龍馬ふるさと博覧会は来年3月31日まで開催されているそうです。

 

龍馬ふるさと博覧会HP http://ryoma-furusato.jp/

 

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(2011年9月23日(金)15:30

龍馬ふるさと博覧会の「坂本龍馬の生家セット」にて撮影

左から成采準様、私)

 

 

B.9月24日(土)

(1)スリーエフ佐賀店

午前9時45分頃、スリーエフ佐賀店を訪れました。何枚か写真をとりました。創業者の菊池瑞穂様が、四国の愛媛県八幡浜市ご出身とのことで、高知県でもこのように店舗を展開され発展されていることを知り嬉しく存じました。私は、スリーエフとは1995年10月以来一緒にお仕事をさせていただいています。

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(2011年9月24日(土)9:45 スリーエフ佐賀店にて撮影)

 

 

(2)朝鮮国女の墓

午前10時ごろ、大方町上川口にある「朝鮮国女の墓」を訪れました。

 

これは、豊臣秀吉の時代、文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与 十郎が、帰国にあたって若い機織りの女性を2名連行しましたが、その女性の墓です。機織りの技術を近郷近在に広めた彼女たちは、土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられているそうです。

朝鮮への望郷の念を抱きながらも、日本で亡くなったこの女性たちは、小谷与十郎によって、上川口村にあった桂蔵寺の、小谷家の墓域に葬られたそうです(この当時は、女性はお墓に祀られなかったそうでしたので、異例なことだと思います)。

 

今回私が訪れた墓碑を建てたのは、与十郎の四代子孫小谷安次という人物だそうです。墓碑に「天正年中来」と刻んだのは、文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであるといわれているそうです。その後、土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から、移されて現在地にあるということでした。このお墓の移転は30年前の1981年7月7日に完了されたとのことですが、当時若き成様もこれに大いに関与されました。

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(2011年9月24日(土)10:01 朝鮮国女の墓にて撮影)

 

お墓の近くには白とピンクのムクゲの花が咲いておりました。ムクゲは、朝鮮の国花です。

 

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【参考】

http://www2.netwave.or.jp/~kazecozo/town/history/tyosen.htm

 

 

【コラム 朝鮮と日本】

今回の旅に同行して下さった成様と私が成様と知り合ったいきさつは、成様のご家族の方と日本のある企業とが問題を抱えた時、私は相手方である企業の弁護士代理人になったということにさかのぼります。相手方の代理人であったにもかかわらず、私は成様とすぐに親しくなりました。

 

私は、朝鮮総連に属している企業は実は日本人にとっては意外なことだが、皆さん超真面目であり、これはこのブログをお読みになっている方には是非とも知らせたい事実です。日本で悪さをすれば、何はともあれ別件逮捕にもなりかねず、騒ぎになるから、本人達は自戒して毎日毎日を過ごしておられるのです。中国における日本企業と同じなのです。そういうことを念頭において、私はいつも朝鮮総連に所属している「同胞」と呼ばれる北朝鮮籍の方々と親しく交わっています。

 

今回の高知旅行では、「朝鮮と日本」の密接な関係、歴史を再考する旅ともなりました。例えば、(2)で述べた朝鮮国女の墓であったり、また、高知の地豆腐は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役のときに、朝鮮から連れてこられた朝鮮人が、高知において唐人町を与えられ、ここで朝鮮の豆腐を作り、商いとし、これを伝承したものです。連れてこられた朝鮮人は現在の韓国の慶尚南道の秋月という地域の出身であり、その子孫の方が現在でも高知におられます。

 

慶尚南道庁観光振興課による道内観光情報HP

http://japan.gntour.com/

 

また、天平文化が花開いた平城京への遷都から1300年となることを記念する祝典が、昨年2010年8月に奈良市の平城宮跡で開かれました。その際、開会のお言葉として、天皇陛下は「百済をはじめ、多くの国から渡来人が移住し文化や技術の発展に寄与してきました」とご挨拶され、朝鮮と日本が古くより関係が合ったことを述べられた上、平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし、「平城京での最後の天皇であった桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」と述べ、皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れられました。

 

また、9月7日(水)にお会いした新潟大学大学院 医歯学総合研究科 地域疾病制御医学専攻 国際感染医学教授 安保徹先生は、津軽のご出身ですが、津軽弁と朝鮮語は非常によく似ているとお話しされていました。そして、9月27日(火)にお会いした無量寺住職 青山俊董先生は「ヤマト」は百済語であり、「ヤマタイコク」は新羅語であって「ヤマト」という意味だそうです、というお話をされていました。いずれも、私にとっては初耳でしたので、非常に驚きましたが、私が長年日本の古代史に関心をもってきた経緯からしても、十分にあり得ることだと判断しました。

 

このように、朝鮮と日本とが、長い歴史の中で、深いかかわりを持ってきたにも拘らず、韓国と国交を回復しながらも、北朝鮮に対する偏見や反感を持つ人が多くまた国交正常化も果されていないことは残念なことです。私の来年4月の三度目の北朝鮮訪問では、日本人たる「誇り」「品格」を忘れず、しかも奢らず、日朝友好を実現するための一端を担うことができればと思っております。

 

(3) 四万十川 川下り・川上り

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(2011年9月24日(土)11:07 四万十川と屋形船を背に撮影

左から成様、私、松本の李様)

 

11時すぎより、四万十川で屋形船に乗り、500メートル下り、1.5キロを上り、往復2キロの川下り・川上りをしました。

 

四万十川は堤防などの一切ない自然の川で、「日本最後の清流」といわれるそうです。高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流として、高知県中西部で逆S字を描きながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ川で、私が乗船した所からは30キロ下ると海、170キロ上ると源流に行きつくとのことで、四万十川は200キロ近くの川であるということでした。

 

川下り・川上りでは、素晴らしい景観を楽しみました。台風15号の過ぎた後、川の水が3割も増水しているとのことで、大変心地よく、水面の気温も丁度よく、まさに天然のクーラーといった感じでした。

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(2011年9月24日(土)11:10 屋形船でのお料理を撮影)

 

屋形船では、四万十川で採れた川エビ、青のり(天然青のりは、四万十川産が国内の90%以上の生産量だそうです)と、「ごり」(小魚。水がゆるむ3月から漁が始まり、四万十川に春を告げる魚として珍重されているそうです)の天ぷらを頂きました。また、四万十川で養殖をしているうなぎも頂きました。食事処は、屋形船・四万十川料理として営業しておられる「なっとく」でした。写真にある通り、私たちは屋形船の上で昼食をいただきました。

 

「なっとく」HP http://www.yakatabune-nattoku.com/

 

下船すると、もうすでにそこには100人くらいのお客さんが、次の乗船を待っていて、大変なにぎわいでした。「自然はビジネスになる」ということを感じました。これは環境保全というテーマを議論するに当たり、人間は自然を愛する存在であることを改めて考えなければいけない点であると思います。

 

 

(4) 幸徳秋水の史跡、展示会など

 

12時40分ごろ、高知県四万十市中村の正福寺跡(明治4年に廃寺になりました)にある幸徳秋水(1871年~1911年)の墓を訪問しました。幸徳秋水の誕生日は1871年9月23日ということで、丁度前日が誕生日だったということです。

 

本年8月1日(月)~8月31日(水)までの1か月間、日本経済新聞朝刊最終面「私の履歴書」にて、日本画家の小泉淳作様の連載が掲載されており、私も毎日愛読しておりました。8月3日(水)付第3回記事には、小泉淳作様のお父様である小泉三申様が、幸徳秋水と大変親しかった旨の記述がありました。

 

小泉三申様(1872年~1937年)は、1894年、自由新聞(板垣退助が党首を務めた自由党の日刊の党機関紙。1882年6月25日創刊)の記者となり、同社で記者をしていた幸徳秋水と親友になりました。その後、三申様は1904年には「金儲け虎の巻」の「経済新聞」を創刊され、また実業家としての地位を固めていきますが、秋水は同年に社会主義の「週刊 平民新聞」を創刊しましたが翌年に廃刊となり、2月に入獄、11月に米国へ亡命をするなど、全く別々の道を歩みました。

 

このように、思想・信条は異なるものの、友情は続き、三申様は、無政府主義運動に傾倒する秋水を常に案じていたそうです。例えば、三申様は、秋水に「通俗日本戦国史」の編纂を勧め、これを受けて秋水は1910年3月から、湯河原の老舗旅館「天野屋」に逗留し、逮捕される6月1日まで編纂を進めていたとのことです。「兆民先生」で伝記作家として才能を発揮した秋水が、これを完成させていれば、素晴らしい読み物になっていたのではないかと思います。また、三申様が「通俗日本戦国史」の編纂を秋水に勧めた理由は、「この編纂に本腰を入れているのだから、天皇暗殺など考えるわけがない」と、秋水の命を救う証拠物件になるのではないかと望みを持っていたからといわれているそうです。

 

これらのエピソードから、三申様の人格が優れていたことはいうまでもないですが、秋水も、世間一般が認識しているようなガチガチの社会主義者ではなく、常識人でもあったように見受けられます。

 

しかし、思想・信条は異なるものの、二人は誠に刎頚の友であり、私が訪れたこの秋水の墓の墓碑銘は、三申様が書かれたということです。三申様は秋水が処刑された翌年の1912年5月に衆議院議員に初当選され、以後は政界でご活躍されました。

幸徳秋水の墓.jpg

(2011年9月24日(土)12:40 幸徳秋水の墓を撮影)

 

 

その後、四万十市立中央公民館にて行われている「幸徳秋水展-伝次郎から秋水へ-」を見学しました。

四万十市立中央公民館.jpg

(2011年9月24日(土)13:04 四万十市立中央公民館前で撮影)

 

幸徳秋水展HP

http://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2011/0912/index.html

 

それから、為松公園(中村城跡)にある、秋水が死刑執行の直前、看守の依頼に応じて書き残したという絶筆の碑を見に行きました。

為松公園.jpg

(2011年9月24日(土)13:26 為松公園幸徳秋水絶筆の碑の前で撮影)

 

碑には、「区々成敗且休論 千古唯応意気存 如是而生如是死 罪人又覚布衣尊」という漢詩が書かれていました。この文意は「ささいな成敗は、しばらく論ずるのをやめよう。千古の歴史に光るのは、人間の意気だけである。自分はこのように生き、このように死ぬ。罪人になった今でも、仕官していない平民の自由をつくづく感じることである」という意味だそうです。

 

幸徳秋水は、無政府主義、社会主義といった先駆的な思想のもと活動された方です。日露戦争勃発時には、非戦論を声高に主張し、その後1911年、大逆事件の首謀者として死刑判決を受け、1911年1月24日に刑が執行され、40歳にして命を落としました。彼もまた、坂本龍馬と同様、志を持って良心に従いまっすぐに生き、自分の使命のために「命を使った」ということだと思います。

 

今年は刑死100周年ということで、四万十市が市を上げて記念事業を行っていました。1960年代頃より新資料などが発見されて以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家による捏造であるとされ、今や、名誉を回復し、郷土の英雄として、地元の人々に尊敬されているということでした。また、彼は著名な名文家としてもよく知られていますが、これを紹介することは省きます。

 

その後、四万十川の西岸を下りドライブしました。私が過ごした故郷である少年時代の三重県の川を思い出しました。しかし、四万十川は三重県の川よりはるかに美しい色でした。土佐清水に向かう途上で四万十川の川っぺりにいた売り子から久々にアイスクリームを購入し、いただきました。心地の良い昼下がりの日に当たりいただいた久しぶりのアイスクリームの味は格別でした。

 

 

(5) ジョン万次郎資料館

午後2時半過ぎに、土佐清水にあるジョン万次郎資料館を訪れました。

ジョン万次郎史料館.jpg

(2011年9月24日(土)14:32 ジョン万次郎資料館の前で撮影)

 

ジョン万次郎資料館HP http://www.johnmung.info/house.htm

 

ジョン万次郎(1827年~1898年)は、本名は中濱 萬次郎で、1841年、14歳の時に、漁師として漁に出ていたところ、嵐に遭い遭難、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着しました。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、その船長であったホイットフィールドに気に入られ、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語はもちろん、測量・航海術・造船技術などを熱心に勉強し、首席となったそうです。

 

その後、1851年、彼が24歳の時に、捕鯨船に乗って日本の近くに戻り、捕鯨船と別れてアドベンチャー号という小舟で、薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られ帰国しました。

 

それ以降の彼の活躍は、様々な書籍で紹介されています。彼は初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人であり、ミシンとカメラを持ち込んだのも彼であるそうです。捕鯨船の船員として世界一周の航海にもでていました。そして特記すべきは1860年、彼が33歳の時、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡った時のことでしょう。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は裏の船長を務めたということです。その後も、日本の産業振興に貢献し、1869年、彼が42歳の時、明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の英語教授となり、最高学府の教壇に立たれました。

 

その後、1871年、彼が44歳の時に軽い脳溢血を起こして倒れ、ほどなく快復はされたものの、以後静かな晩年を送られ、1898年、71歳でなくなりました。

 

彼の青年期はまさに波乱万丈で、一人異国の地に飛ばされ、その後要人となり、44歳までは第一線でご活躍されていたことに比べると、晩年の人生は、あまりにも静かなものであったと思います。しかし、青年時代のわずかな間に、最初のコスモポリタンとしての日本人として、国際交流という使命を果たし、偉大な実績を残されたのだと思います。

 

 

(6) カニ・エビ・貝料理の浮橋にて夕食をいただく

 

夕食は成様が35年ご贔屓にされているカニ・エビ・貝料理の「浮橋」でいたしました。屋形船には、地元で穫れたカニ・エビ・貝などを生きたまま置いてあり、これらを焼くときも全て生きたまま焼くという、新鮮な海の幸を味うことができ、誠に美味でありました。もう一度ぜひともお邪魔したいと思っています。

 

浮橋.jpg

(2011年9月24日(土)18:04 浮舟にて撮影)

 

浮橋 食べログ

http://r.tabelog.com/kochi/A3903/A390301/39003509/

 

C.9月25日(日)

日曜市.jpg

(2011年9月25日(日)7:57 高知市「日曜市」にて撮影)

 

9月25日朝8時頃から30分程日曜市を見に行きました。昔と違ってもっと盛んになっていたような印象でした。高知城のすぐ下、追手門から東に伸びる高知市追手筋で約1.3キロにわたり、毎週日曜日に開催されているそうです。相変わらず寒蘭もあり、また、ゆずジュースも売ってましたが、その他の産品も沢山ありました。日曜日の朝に毎度このような市があることは市民あるいは観光客に大きな癒しを与えてくれるものと感じました。

 

日曜市について高知市HP

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/nichiyoichi-gairoichi.html

 

 

まとめ

 さて、今回の高知行きの歴訪記のまとめとして、高知を代表する坂本龍馬、幸徳秋水、それから中濱萬次郎(ジョン万次郎)の足跡を振り返るに、彼らは上士という山内家の枢要なポストを占めている人物ではなく、坂本龍馬は商家の出身で郷士という侍の身分ではありながらも上士との身分の隔たりは非常に大きく、また幸徳秋水は豪商という町の有力者を父に持ちながらも、平民の出であり、また中濱萬次郎は漁夫でありました。そのような方々が明治を迎える前後に活躍されたということは、高知県の置かれた地域からして、ハングリー精神がこれをなさしめたものと存じます。そしてそのハングリー精神がそれぞれの使命を果たした起爆剤になったと判断しました。

 

9月25日(日)朝10時10分発の飛行機で高知龍馬空港から東京・羽田に戻りました。

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