2011年10月25日のアーカイブ

2011年10月16日(日)、鹿児島県奄美群島の奄美大島へ初めて赴きました。

奄美群島へは、以前より、赴きたいと願っておりましたが、ついにお訪ねすることができて本当に嬉しかったです。その理由は、私は以前から田中一村<1908年~1977年>という画家に憧れ続けており、奄美空港から車で5分、奄美群島のまさに玄関口といえる奄美市笠利町節田の「奄美パーク」内にある「田中一村記念美術館」(2001年秋開館)を訪れたいと願っていたからです。今回は、午後3時50分頃から1時間余りに亘って観賞いたしました。

 

 

田中一村記念美術館.jpg

(田中一村記念美術館の外観)

田中一村記念美術館は、いわゆるありふれた近代的な鉄筋の美術館ではなく、奄美に古くから伝わる高倉式の「倉」の形状をしており、木造のものでした。収蔵点数は約450点を数え、年に4度の展示替えをしながら、常時70点ほどを展示しています。美術館の周りには、田中一村が描いた奄美の亜熱帯植物が植えられた「一村の杜」が広がっていました。たいへん広々とした美術館で、奄美大島一番の建造物ではないかと思います。

 

今回ご同行してくださったのは、9月13日付記事「交友録その10」でご紹介した新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長等々力好泰様でした。多忙を極める等々力様が、田中一村の作品を観るためだけにわざわざ同行してくださったのでした。 

 

 

田中一村の生誕地・栃木県

田中一村は栃木県生まれの画家です。中央画壇とは無縁の方でしたが、死後に高い評価を得た「孤高の画家」と呼ばれている方です。「田中一村記念美術館」が奄美大島にある理由は、田中一村が1958年50歳の時に奄美大島に渡り、そして1977年に69歳でこの地に没したからです。過日、このことについては、8月23日付【歴訪記その2】記事でご紹介いたしました「足利文林75号」(2011年5月発行)の13頁にある彫刻家の中村宏先生による田中一村についてのエッセイを読んだ時、一村は1908年(明治41年)に、栃木県下都賀郡栃木町の生まれであるということを改めて承知しました。機会があれば、田中一村の出生地にも訪れたいと考えておりますが、もうそこには何も残っていないかもしれません。

 

その後1914年、田中一村が5歳の時に、一家は栃木から東京市麹町区(現東京都千代田区)三番町に引っ越したとのことです。

 

さて、私が田中一村に憧れを抱くようになったのは、今から27年ほど前の1984年12月16日のNHK教育テレビ「日本美術館」の「美と風土」というシリーズをたまたま私が観ていた時でした。「黒潮の画譜-異端の画家・田中一村」と題したこの番組を観たとき、一村の描く絵画もさることながら、なによりも一村の生きざまに深い感動を覚えました。

 

この番組を観たときと同様、今回「田中一村記念美術館」を訪れて感じたことは、田中一村の生きざまは、とても常人のおよぶところではないということです。

 

 

田中一村の生きざま

田中一村は、東京都芝区(港区)の芝中学校を卒業後、1926年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しました。そこでは、東山魁夷、橋本明治らと同窓であったということです。しかし、3か月足らずで中退し(理由は「家事都合」、父親の発病などからと伝えられていますが、定かではありません)、独学での画家人生を歩むことになります。教授たちが「教えるところなし」と評価、鬼才といわれたことが災いしたのか、負担になったのか、推測するしかありませんが、自身の画家としての確固たる「道」が美術学校というアカデミーの方針とは合わなかった、合わせようと思わなかったのかもしれません。

 

しばらくは南画を描いて一家の生計を立てていたそうですが、東山魁夷らの東京美術学校の同窓たちが卒業した1931年、これまでの南画とはまったく異なる「蕗の薹(ふきのとう)とめだかの図」などを描きました。

 

そして、1938年からは住まいを東京から千葉に移し、自然の写生に没頭し、写実をベースにした新しい絵画を模索し始めました。このころに描かれた作品で「千葉寺・浅春譜」がありますが、これは人物を描くことの極めて少ない田中一村の絵の中で大変珍しい,人物が点在している絵で,私はあこがれを持っています。

 

その後、田中一村は1947年、39歳の時に川端龍子主催の青龍社展に入選しました(「白い花」)。しかし、ほどなくして川端と意見を異にしてしまい、翌年、入選を辞退し、青龍社から離れました。その後、1953年~1958年まで幾度と日展や院展に出品しますが、全て落選してしまいました。

 

そして、田中一村は、1958年、中央画壇との接触を全て絶ち、奄美大島へと発ちました。1959年に千葉の知人あてに送った手紙で「自分の将来行くべき道をはっきり自覚しその本道と信ずる絵をかいたが、支持する皆さまに見せましたところ一人の賛成者もなく、その当時の支持者と全部絶縁した」と述べています。田中一村は、中央画壇で自分が全く受け入れられないという現実を受け入れて、ほんとうの意味で「ひとり」になることを実行したということです。これは、自身の画家としての確固たる「本道」、自身の「良心」のみに従って美術に打ち込んだ、修行したということだと思います。しかし、それほど挫折感が強烈であったことの証左でもあると思います。

 

当時の奄美群島といえば、沖縄本土返還前の日本の最南端の群島で、田中一村が移り住むわずか5年前の1953年に米軍の統治から奄美群島祖国復帰運動によって日本復帰を勝ち取ったばかりのいわば辺境の地でした。しかし、「絵かきは絵筆一本、飄然として旅にでるようでなければなりません」と、自らの「良心」を納得させる絵を描くために田中一村は奄美へと旅立ったのです。

 

そして、トタン葺きの借家くらしで、日給450円の染色工の仕事をしながら清貧な暮らしをするなかで、奄美の大自然という豊かな題材を、静謐なトーンで描き続けました。田中一村は、奄美の大自然、そしてその生命力を感じ取って、画家として心・魂がときめき、あこがれをさまざまにスケッチに描きこみ、いくつかの秀作を残したのだと思います。田中一村の作品からは、南海に面する生命力みなぎる奄美の動植物の「気」が溢れ出てくるようで、生き生きと目に映り、圧倒されます。

 

 

田中一村作品集.jpg

(「田中一村作品集」田中 一村 (著), NHK出版 (編集)日本放送出版協会,2001)

 


また、南海の持つ底抜けな明るさ、あからさまな明るさを描くのではなく、強い陽光に照らされた光と、その光が作る影の暗さの明暗の鋭い対比も田中一村の世界の魅力であると思います。画家は、眼前に広がる情景をただ客観的に写生しているだけではなく、自分のフィルター、つまり自分の「心」を通して描写します。ですから、絵画はその画家の心理、心象風景を描写しているといってよいでしょう。私は、チェルノブイリ原子力発電所事故から5年後の1990年6月にソビエトを旅行した際、モスクワ市内の作家と画商のそれぞれの自宅へ訪れ、キエフの作家による絵画を見ました。その時、なにより印象的だったのは、絵の中の「空」がどの絵もとにかく黒っぽかったことです。チェルノブイリ原発事故により悄然とした自分の「心」を通すと、空が黒く描かれるということです。心象風景を描写することとは、風景の「気配」のみならず、画家自らの「気配」を描くということでもあると思います。(※チェルノブイリ原発事故についての記事は4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」内で述べましたのでそちらもお読みください。)

 

さて、「作品」と「画家の生きざま」は、表裏一体のものだと思います。そして、田中一村の、生涯妻を娶らず、「本道」、「良心」のみを信じ、清貧をものともしなかった気骨と志操の高い、すがすがしい、ストイックな精神・生きざまそのものが描かれるような絵画は、観る人の感動を呼び、感動をもたらす絵であると思います。こういった田中一村の魅力に魅せられた人を「一村病」と呼ぶそうです(画家たちの夏、大矢鞆音著、講談社)。

 

日本語には「理動」という言葉はなく「知動」という言葉もありませんが、「感動」という言葉があります。つまり、人は、「感」性によって「動」かされるものであると思います。

 

そして、絵画が描き出す奄美の青空のようなまっさおなすがすがしい彼の生きざまが、私の「感性」すなわち「心」、「魂」に訴え、東京からはるばる奄美大島まで引き寄せられたのであると思います。

 

田中一村は、画家・美術家としてあるべき姿をまっとうされた方であると思います。伊藤若冲<1716年~1800年>のように、未来に残る画家として、それを超えて評価されていくのではないかと思います。同窓である東山魁夷、橋本明治らの画壇の長老がいらっしゃいますが、その方々よりも、はるかに優れた評価を、後生に受けるのではないかと思いました。

 

私が今回「田中一村記念美術館」を訪問した際は、8月14日(日)に訪れた栃木県足利市駒場町にある栗田美術館と同様に、閑古鳥が鳴いていました。開館当初の2001年は大変な賑わいの人気の美術館であったそうです。栗田美術館の歴訪記にも書きましたが、このように日本人が「文化」を愛する気持ちを失いつつあるということは、日本全土から、文化が果ててしまう日、すなわち美意識を欠くに至る日、素敵な美しい日本が失われていくのではないかと心配になりました。

 

画商は、どんな画商であれ、一人の画家を愛する気持ちをもって、その画家の作品を「売る」ということを前提にするのではなく、その画家を「愛でる」「育てる」という気持ちで対処しなければならないと思います。「愛でる」「育てる」という気持ちの究極は、その画家の作品を自らで集めるという姿勢がなければならないということだと思います。画商だけに限らず、これからの時代は、どんな職業であろうと、「貢献・還元」ということを意識して生きていかなければならないと思います。「貢献・還元」ということを意識していかなければ、人として存在感をもつことはできなくなると思います。「田中一村記念美術館」を今回訪問し、改めてそのことを痛感したのでした。

 

田中一村記念美術館URL http://www.amamipark.com/isson/isson.html

 

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