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(2011年10月1日(土) 午前6:58 
東京都渋谷区 鍋島松濤公園付近にて撮影)

 

【美術における「気」】

 

前回9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」でも述べましたが、私は病気をきっかけに「気」について意識するようになり、少しずつ勉強をして来ておりますが、まだまだ「気」についての勉強、修行が足りません。

 

例えば、私は京都にある石庭あるいは苔寺に一度ならずお邪魔したことがありますが、残念ながらそこで「気」を感じることはまだありません。私が「気」を感じることができるのは美術の世界においてです。例えば、絵画展に行って、この絵は良い絵だとかこの絵は嫌いだとかという私なりの識別をすることができます。各企業の応接間等に掲げてある絵についても同様です。この絵は本当に良い絵であるとかこの絵はつまらない絵であるということが私なりに識別できるのです。

 

それは実は、私が30年か40年に亘って絵に親しんできたからだと思います。かつて「双伸」という池袋にあった古道具屋で私は再々絵を求めました。そして、双伸のご主人であった故仲畑憲一様から絵の見方について色々教えていただきました。故仲畑様は、西洋骨董も含め、映画の中で使われる美術品を評論されていた方でもありました。

 

また、1990年4月から1993年10月までは、「にっけいあーと」において「法律税金相談室」という連載を43回にわたって掲載させていただきました。その際に、美術のことを主力にして書いたことから、一層絵心・美術を理解する力ができたのではないかと思います。(※「にっけいあーと」については、4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」にも少し記載しておりますので、ぜひご覧ください。)

 

例えば、展覧会で絵を鑑賞するにあたって、一点一点をじっくり見ることは素人には不可能です。展覧会の一室の真ん中に立ち、グルッと周りを見渡して、この部屋でいただくならこの絵だという作品を決めるのです。それを3室か4室で繰り返し、見終わった後、改めてその3点または4点の絵を見比べて、全ての展示されている絵の中で、貰うならこの絵だと最終的に決めるのです。これが美術作品の鑑賞方法として適切だというのが30年40年かけて展覧会に通い続け、私なりに得た極意です。そして、この鑑賞方法を超える方法は未だ現れていないと私は感じます。

 

このブログでも実は絵のことを折々に書いてきました。例えば7月15日付ブログ記事「気を入れて」において、私が20年ほど前からささやかに支援させていただいている成田禎介先生とともに、東山魁夷先生の処女作とも言うべき『道』の現地に赴くため、青森県八戸市の種差海岸を訪ねたこと、その際、成田先生が「自然は、人間を乗り越えて創造されているものだ」という気配を感じて、それを発酵・熟成させることが絵の魅力に繋がるというお話をしてくださったことをご紹介しました。その「気配を感じる」ということが絵心ではないかと思います。「気配を感じ」ない絵を見るとき、私はその絵を駄作だとして無視してきました。「美の気配を感じる」ということは、実は「真・善・美」という魂にいささかなりとも響くのでしょう。それが故に、「美の気配を感じる」絵は私には好ましい絵という評価に落ち着きます。

 

実は、「気」というものは、何年も何十年も鍛錬し、修業しなければ悟れない世界のことではないでしょうか。

 

 

【気の毒】

「気の毒」(心の毒になることの意)とは「①自分が難儀な目に会って心をいため、苦しむこと。困ること。きまりがわるいこと。当惑。②他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情。③相手に迷惑をかけて、すまなく思うこと。」(広辞苑 第四版)という意味ですが、「気」が汚染されるということを表していると思います。分かりやすくいえば、それは「波動」が乱れるということであり、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」が一層微弱になるということでしょう。

 

要するに、「気」は生物だということです。「気が大きくなる」「気が小さくなる」という言葉がありますが、「気」は伸縮自在なのです。そして、人間は健全に生きているだけではなく、時には傷ついて、「気」自体が弱まりあるいは痛んでくることがあります。

「気の毒」なことをしたなあとよくいいますが、「気の毒」なことをしたとは、相手の「気」を削いだということでしょう。そのことについて同情する、あるいは詫びるというのが、「気の毒なことをした」ということになるわけです。

「気」は伸縮自在と述べましたが、それは実は人間が宇宙と交信するための一端を担っている「霊感」が伸縮自在であるということにもなります。7月1日付ブログ記事「胸騒ぎの解消法・・・『気づき』」で述べましたが、私は「霊感」とは、宇宙に存在する陽炎のごとき人間を、宇宙と結合させる、へその緒のようなものであると考えています。「気」「霊感」が弱まり、痛むということは、人間の「良心」が萎える、「本心」が萎えるということになります。要するに、「気の毒」なことをしたなあというのは、相手の「気」を削ぎ、人間の「良心」「本心」を萎えさせることによって、相手の人間としての存在意義を弱め、あるいは失わせてしまうことをいうのでしょう。人間として更に活躍できるチャンスを、いわば縮めたとか失わせたということが「気の毒」という言葉の本意でありましょう。

 

しかしながら、人間は相手の「気」を削いでしまうことができるのですが、逆に縮んでしまった相手の「気」を大きくすることができるのもまた人間であると思います。例えば、「触れ合い」「ぬくもり」によって、弱まりあるいは痛んでしまった「気」を癒すことができると思います。そうすることによって、「気の毒」な目にあった人間もまた、再び宇宙と結合することが可能となるでしょう。励まし、見舞い、看護も同じ世界のことです。

 

 

【宇宙の「気」】

 

人間の力には限界があります。なぜ人間の力に限界があるのでしょうか。いってみれば、人間の力がおよばないところに別の力が働いているからだと思います。では、別の力とは何なのでしょう。それは恐らく宇宙にある力です。その力は宇宙にある「波動」でもあるし、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」でもあるし、そしてそれが「気」という世界のものになるのでしょう。要するに、人間をとりまくさまざまな要因のなかに大きく囲んでいるのが「気」という世界なのです。「気」という世界が人間の思い通りにならないのは、それは人間の「気」だけではなく、人間を取り巻く宇宙にこそ「気」の根源があるからです。そこにこそ、神にすがるという心境が生まれるのでしょう。すなわち、宇宙の「気」、「波動」、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」に頼らざるをえないのが人間の本来的な姿なのです。

 

9月20日付ブログ【交友録 その11】9月第3週<9月11日(日)~9月17日(土)>でも少しふれましたが、私事ながら、先日9月9日に私の長女ががんにより43歳で他界しました。先にも述べたとおり人間には限界があり、人間の力ではどうにもできないこともあります。彼女はがんの告知を今年の4月に受けましたが、残された時間を幼な子や社会貢献のために何ができるかを必死に考え、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発して生き抜きました。親御さんをがんで亡くすという悲嘆の極みを体験してしまう幼い子どもの心の問題、グリーフケア(「グリーフ」は“悲嘆”という意味で、近しい人を亡くした人がその悲嘆を乗り越えようとする心のケア)の問題が、日本では認知されていないことを知り、代表者としてAIMS(エイムズ)という団体を立ち上げました(現在NPO法人の申請中です)。私は長女に残念ながらこの世で会うことはもう出来なくなってしまいましたが、告別式の日に空にとてもきれいな虹が出ていたのを見て、彼女の頑張りを天が認めて、天が「大地の気」を感じて「虹」という現象になって表れてくれたのではないかと思います。また、亡くなる前日の9月8日午後9時に私が長女の見舞いに行った時、彼女は瀕死ともいえる状態でありました。私は長女に「ダダ(彼女は幼児期に私のことをそう呼んでいました。)だよ。」と声をかけ、そして「ありがとう。」と話しかけました。すると、長女がそれを理解して「ありがとう。」と返事をしたとのことを、そばにいた義妹の真藤英子が聞いたと言っていました(私は定かに聞こえなかったのですが)。それを聞いて、長女と私との「気」が合ってよかったと思いました。「気」が合った上での別れならば、悲しいながらもそれは幸せな「別れ」であり、いい思い出になったといえるのではないでしょうか。

 

AIMSホームページ http://www.aims-japan.org/?page_id=34

 

グリーフケアとは

http://www.grief-care.org/about/index.html

 

私たちは、宇宙では吹けば飛ぶような儚い存在であり、宇宙がたどる「誕生」「成長」「成熟」「枯れる」「たそがれ」「終焉」から、そこに生きる生命体である私たちも、逃れることはできません。「死」というのは宇宙の「気」を受け取れなくなることではないでしょうか。それは、人工衛星を目指すロケットが推力不足により、宇宙速度を乗り越えられないなどの原因により、人工衛星が軌道に乗らないのと似たようなイメージなのではないでしょうか。

 

誰しもが、やがて迎える「終焉」から逃れることができないからこそ、私たちは、宇宙の本質とは何かを少しは考え、宇宙との結合をいくらかでも果たすべく、また、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発し、人間としてのあるべき姿として、社会に貢献していかなければならないのだと私は思います。

 

【「気」を知って人生を楽にしよう!】

 

7月19日付ブログ記事【交友録 その2】2011年7月第3週<10日(日)~16日(土)>にてご紹介させていただいたY.H.C.矢山クリニックに9月28日(水)に治療でお邪魔し、その一貫として、17時40分から30分ほど院長の矢山利彦先生から「気功」を何名かの皆さんと一緒に教えていただきました。「気功」とは、自分の「気」を捕える、感得するということらしいのですが、今回初めて「気功」に挑戦したということもあり、私は全然できませんでした。

 

翌29日朝6時に、散歩をしようと矢山クリニックの玄関に立っていたところ、樹木のさわやかな香りを非常に強く感じました。これは自然の現象、あるいは秋という季節のせいかもしれませんが、これまで感じたことがなかったことでした。

 

その後、多布施川河畔公園を散歩しました。小さな樹木の中を歩いたのですが、所々に鮮やかな彼岸花また、可憐なコスモスが咲いていました。それまでは特に意識することもなかったのですが、それらについて何となく存在感を感じたということは、ひょっとしたら、前日の「気功」で「気」を捕えることを練習した成果かもしれません。すなわち、花々の「気」をいささか感じたのではないかと思います。

 

動物にも「気」があり、人によっては犬や猫、魚等々と「気」の交流をはかることにより、癒されます。草花に話しかけることもありますが、それは草花の存在を認めるということです。そして、そのことは草花自体を元気にし、自分自身も癒されます。ただの草花といって無視していては、生き甲斐がないのです。公園の草花が生き生きしているのは、道行く人々がその存在に気付いて見てくれているからでしょう。

 

私は今後、「気功」に意欲的にチャレンジして自分の「気」を捕えることに試みたいと思っています。私も高齢で感覚が鈍っているため、習得するのは随分先になるかもしれませんが、何事も修行です。修行とはその道の「気」を捕らえる行為ではないでしょうか。「気」を捕らえる努力をする、重ねる、精進するという言葉に繋がっているのではないかと思います。

 

ところで、9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」で私は体力の衰えを「気力」で補ってきたと述べましたが、「気力」とはどのようなものでしょうか。

 

「気力」で生きるとは、「精神力」で生きるということ、「精神力」で生きるとは、ぶれない軸をもっていることだと私は考えます。ぶれない軸とは、「マインド」であり「志」のことです。要するに、何を意識すべきかを明確に意識していることをいうのです。これが大変大切であると思います。

 

そして、「気力」とは、確たる目標を設定した上で、それに向けた勇気・根気・本気を発揮することではないかと最近感じています。ただし、目標は何でもよいわけではありません。目標設定は自分の「良心」・「本心」に従ったものでなければならないのです。

 

人は、目標があるときに意気軒昂になり、目標を失うと、意気消沈になります。勇気・根気・本気も目標があってこそはじめて活性化します。ですから、他人の言葉にショックを受けて意気消沈するということは、実は目標を失うということに等しいといえるでしょう。

 

私にとっての当面の目標は、「事務所の永続性を図る」ということですが、終局的には私の「気」を伝えたいということです。私が2008年11月に耳を患って以来、依頼者から事務所に「覇気」等がなくなったと言われるようになった話をブログでも述べましたが、「覇気」、「活気」、「人気」をリカバーしていくには何が必要でしょうか。

 

それは、目標設定自体の正しさ、すなわち、その目標設定が「良心」・「本心」に基づいたものであることが第一の前提になると思います。そして、その実現に向けて真摯に努力しつづけることが勇気・根気・本気の原点にあるように思えてなりません。弁護士や秘書、所員一同が一丸となって、勇気・根気・本気

をもって営業体制を確立することの重要性、各人が正しく目標を設定し、勇気・根気・本気で仕事に取り組むことの重要性に気付いて欲しい、各人に伝えたいと願いながら私は日々活動に励んでいます。

 

私の人生の残りは必ずしも長くないですが、全力を挙げてチャレンジしていきたいと思います。そうすれば自ずから、「覇気」・「活気」・「人気」を従来以上に取り戻せる可能性があると信じているからです。それゆえ高齢化に伴い体力を維持することが難しい中で、私は「気力」で頑張っています。

 

さて、皆さんも日々の生活の中で「気」というものを意識してみてはいかがでしょうか。きっと人生が楽になり、しいては楽しくなると思います。

 

 

【結び】

ここまで全17回にわたって、「気」をテーマとした様々な記事を書いてきましたが、「気」の話を本格的にするとなると、無限大であり、それこそ「気長」に取り組まなければなりません。

 

このブログでも「気」という言葉が付く言葉をいくつか紹介して来ましたが、とても紹介しきれないほど「気」に関する言葉、「気」が付く言葉は多岐にわたっています。そのことからも、日本人が日常的に「気」をいかに意識して来たかが窺えるでしょう。

 

このブログを執筆していたところ、私のことをよく理解してくださっている株式会社かんき出版境健一郎様から「気と心を知れば人生が楽になり、楽しくなる」というテーマで本を書かないかという執筆依頼を受けました。

 

このブログにおいては、私の知識と勉強が不十分なるがゆえに、「気」については自分の職業上の知識等で書く以外ありませんでした。この本がいつ完成するかは分かりませんが、また、これから「気」なるものそのものを自分で少しずつでも捕えることができればと念じております。

 

追記:6月17日(金)より、全17回にわたって「気」をテーマとしたブログを投稿して参りましたが、今回10月7日(金)更新分記事をもちまして同テーマは一旦終了させていただきます。次回以降は「病気」をテーマとしたブログを少しずつ書いて参ります。

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