2011年11月22日のアーカイブ

【歴訪記】その7 台湾


私は10月26日(水)、12時40分にBR-191便で羽田空港を発ち、台湾の台北松山空港に現地時間(日本との時差1時間)の15時5分に到着しました。

 

今回の台湾訪問は、「台湾視察団」として私が主催したもので、10月26日(水)午後から10月29日(土)早朝の羽田空港帰着までの短い旅程ではありましたが、多くの場所をお訪ねすることができ、大変満足なものとなりました。

 

ご一緒したのは、中央精工株式会社取締役相談役 中村光次様、丹治林業株式会社代表取締役 丹治敏男様、弊所上海代表処 兪浪瓊様、株式会社クレース・プランナーズ 代表取締役社長 正門律子様で、このメンバーの中で一番旅行慣れされているのは、丹治様でした。丹治様は、今までに海外は200回ぐらい赴いたことがあるとのことでした。また、中村様は100回以上海外に赴かれているそうです。私も数多くの国に赴いては参りましたが、流石にこのお二人にはかないません。

 

【兪浪瓊様のコメント】

私は学生時代に度々貧乏旅行をし、最後の一円まで使い切って、危うく家に帰れないこともありました。今回の視察旅行の快適さに大満足でした。

 

 

今回の「歴訪記」は、中村光次様にご寄稿いただきました。中村様、どうもありがとうございました。

 

 

 

(1)10月26日(水)

羽田空港12:40発BR-191便は定刻15:05に、台北市内中心部にある昔から至便な台北松山空港着。出迎えのバスでW Hotelに荷物を置き、早速16:30には台北市仁愛路四段376号ビルへ。

 

16時30分 「寰瀛法律事務所 Formosan Brothers、Attorneys-at-Law 」訪問

 

 

劉先生と.JPG

(事務所玄関で高井伸夫弁護士と代表パートナー弁護士劉志鵬律師)

 

【高井のコメント】

劉志鵬先生は1979年に国立台湾大学法学士を修了され、1982年に同大学で法学修士を修了されました。ドイツに留学された後、東京大学大学院法学政治学研究所に1985年から1988年まで留学され修士課程を修了されました。大学院では、菅野和夫先生に師事して労働法を勉強された方です。この間、当事務所にも、幾度もおいでになり、当時の弊所の所員とも親しくなられた方です。

 

晶華軒での晩宴

 

 

晶華軒にて.JPG

(晶華軒での晩宴)

 

 

仁愛路四段ビルの事務所を辞して、リージェント台北ホテルの三階にある、今、台北で最も人気の晶華軒での晩宴(正餐)は劉先生のご招待でした。

 

晶華軒(元蘭亭晶華軒)は、2008年伝統料理に新様式のメニューを加え新設し、最近は故宮博物院別館にも「故宮晶華餐廳」を出店したとのことです。東京・赤坂にある四川飯店の陳建一氏とも親しく交流。広東・四川・上海・香港・北京の様々な中国料理様式を現代的にアレンジした上品な仕立て。ガラスの透明感を基調に全く新たな宴席の雰囲気は日本人による設計とのこと。

 

席には、プラティアコンサルティング(保益橋顧問股份有限公司)董事兼総経理 陳 一先生他3名の方も参加され、陳先生からは東アジアに於ける合弁指導など日本から台湾を経由し中国本土への事業経路について貴重なご意見を伺った。陳先生は今年8月まで金沢大学大学院の教授を23年間、務められ、日本通でいらっしゃいます。

 

晶華軒HP GRAND REGENT TAIPEI http://www.grandformosa.com.tw

 

【高井のコメント】

陳先生には来年の春、当事務所において講演をしてくださることを引き受けて下さいました。

 

【正門様のコメント】

同席の皆様の知的レベルの高さに、はじめはやや気おくれしたものの、おいしい食事と教育・経済・文化・食べ物・時事ニュース多岐にわたる話題で、非常に有意義で楽しい会食となりました。

また、複数の国籍の方が参加している場においては英語でのコミュニケーションが主流となる場合が多いのですが、今回の会食の場では全員日本語が堪能で尊敬いたしました。

なお、こちらの様子は連載コラム(20~30代OL向け無料情報誌『シティリビング』http://cityliving.jp/ 7万部発行)に書かせていただきました。

 

【兪浪瓊様のコメント】

台湾の土地制度、食品衛生、就職状況、労働事情、投資環境等、日頃関心を持っているものに関して、大先生や先輩弁護士にいっぱい質問をし、新鮮な知識を仕入れ、大変得した気分です。ありがとうございます!

 

(2)10月27日(木) 

台湾高速鉄道 #115 台北07:54 発 台中08:43着 NT$1、000

(10、000円≒3、800NT$)

マイクロバスでの山登りは高速道路経由で快適でした。昔は泊りがけでした。

 

9時30分頃 景勝地「日月潭」訪問

 

日月譚.JPG

日月潭とは北側が太陽、南側が月と見立てられ、地勢風水も縁起がよいとのことで、現在では休閑保養地として国家風景区に指定され、様々な施設が完備し賑わっている。

 

日月譚(銀座通).JPG

(丁度昼時の日月潭随一の銀座通り。一見閑散としているが、団体の観光客はバスから店内に。)

 

 

日月譚(龍髭菜).JPG

(日月潭の銀座通りで地元料理の昼食)

 

 

看板・店構えは、至ってお粗末ながら、店内は中国人観光客で大賑わいでびっくり。

初見参の、龍髭菜なる、まさに「龍の髭」のごとく細く炒めた菜が歯触りよく、誠に美味でした。元来、日月潭は日本の台湾統治時代に幾多の困難を越え建設された水力発電用のダム湖で、台湾産業振興の基として重要な存在。水力発電ではいまでも最大です。

 

15時すぎ 「高雄国家体育場」訪問

 

高雄国家体育場(1).JPG

 

高雄国家体育場(2).JPG

(高雄国家体育場のメインスタジアム)

 

 

2009年1月14日に高雄市と民間の努力で完成したばかりの高雄国家体育場は、国際基準の台湾最大規模4万人収容、最大5万5千人に拡張可能。

 

伊東豊雄先生設計・竹中工務店他施工により、現地の気候風土に十分配慮された独特の開放式運動場は、建設に際し様々な国際会議を誘致、開催しました。観客席屋根は高雄市の象徴である昇龍を模した躍動的な構成が見事に実現されているが、複雑な三次元の屈曲した鋼管による工事は難しい工事であったことがうかがえます。

 

高雄国家体育場(3).JPG

(高雄国家体育場の屋根)

 

このように広大かつ複雑なうねりを持つ屋根全面に、隈なく「龍の鱗」さながらに110万Kwh/年の発電能力を持つソーラー発電パネルを配置したのは、おそらくは世界的にも初の事例。伊東先生は、「建築界の平和な時代の野武士」と呼ばれる世代の筆頭株と評され、訪れる様々な人に心地よく調和する持ち味の場を創る。

 

 

【高井のコメント】

伊東豊雄先生と私は1996年以来面識があります。私が評価するに日本で随一の建築家だと存じます。日本には今はモニュメントになるような建築対象物がないので、伊東先生は現在は主に台湾で仕事をされています。台湾にモニュメントの建物がなくなったら、新たに別の地域に進出されようとしています。

 

 

17時30分 「度小月」の鍋料理

地元料理、台南名物百年の歴史を誇る三代祖伝「度小月」の鍋料理での夕餐。

台湾料理で最も有名な小吃(シャオチー・店や屋台で食べる中華の一品料理のこと。)が担仔麺(タンツゥミェン)だが、もっとも有名なのが、総統も訪れるこの「度小月」。

台南市中正路101号店は本店が手狭になり男子相伝の原理を変革、孫娘が仕切る分店。擔仔麺(ターアー)とはそぼろ肉の煮込み麺で様々な具を面前で担ぎ、屋台の伝統を残す仕掛け。

 

 

度小月.JPG

 

(店頭で、女将の擔小麺工房:注目は天秤棒で担ぎ売り時代の名残の道具立て)

店の入口傍の擔小麺制作工房をつぶさに確認中の丹治代表。苫小牧名物の野生鹿を具にしてはいかがでしょう?

 

面前で調理するのは、江戸時代の夜泣きそばと全く同じ仕組み。店頭で看板の美人ママが愛想よくひと鍋毎に仕立てるのも人気の素。ご推奨です。

 

 

(3)10月28日(金)

9時30分 「烏山頭(ウザンドウ)ダム」訪問

台南から早朝バスで出発し、午前9時30分頃から鳥山頭ダムを表敬訪問しました。

 

元々、ここ嘉南平原は草も生えない不毛の地であった。

ここを巨大な食料産地に変えようと、日本台湾総督府は1920年から1930年に至る10年間の辛苦の大工事を見事に完成。今でも、東アジア最善の灌漑開発工事として誇れる存在。

烏山頭水庫周辺は「藍天緑地水藍有気の地」として国家風景區に指定されている。

ダムは、元々の曾文渓(そぶんけい。台湾南部を流れる河川)の支流である官田渓をせき止めるために、世界でも希な事例と言われる「半水力沖積式の土石ダム」で地勢風土を巧みに活かして構築された。ダム湖は山間に珊瑚のように枝分かれし、別名を珊瑚潭とも言う。


 

八田與一胸像.JPG

(記念館に置かれた八田與一技師の胸像)

 

八田與一技師は、1886年2月21日生、現在の金沢市今町の出身。第四高等学校を経て1910年東京帝国大学工学部土木科を卒業。台湾総督府に勤務。後藤新平初代民政長官のもとで、猖獗(しょうけつ)を極めたマラリアなど風土病の対策を担当し、嘉義・台南・高雄などの上下水道整備に従事。28歳で台湾北部桃園灌漑の大水利事業を指揮し、見事に成功を収めた。31歳で金沢の医家出身の外代樹(とよき)と結婚。

 

1918年台湾南部嘉南平野を調査。灌漑面積1000ha、有効貯水量1億5千万㎥の大貯水池の開発建設を開始。事業は半額を国費、残余を受益者負担の「官田渓埤圳組合」を結成して施行。與一自身は官職を辞し組合付き技師として、1930年の完成に至るまで工事を陣頭指揮。水路は16000kmに及び、不毛の嘉南平野を豊穣の地に変えました。

 

與一没後の1973年には、與一の設計に基づく曽文渓ダムも見事に完成している。與一のダム工法はセミ・ハイドロリックフィル工法と言われる、コンクリートを殆ど使用せずに粘土・砂・礫を使い水圧による自然な定着を図る仕組みにより、土砂堆積による不具合もなく、現在でもダムの機能を完全に維持している。1942年5月8日フィリピン調査へ赴任の途中、五島列島付近で大洋丸が雷撃沈没のため、戦没。遺骸は山口の漁船により収容され、遺骨は烏山頭に埋葬された。妻外代樹は、戦後1945年、ダム起工記念の日に放水路に覚悟の上入水、與一の後を追う。

 

 

【兪浪瓊様のコメント】

親日派として、中国も戦争の事ばかりではなく、日本人の貢献も事実通り宣伝すればよいと思います。

 

【高井のコメント】

八田與一技師記念公園は以前から訪問してみたいと思っていた場所でした。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に貢献し、世界一のダム建設に命を懸けた八田與一様は現在も地元民に慕われ続けています。毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百もの人が訪れ、今年の命日には馬英九統帥も献花に訪れたそうです。台湾で毎年このように政治家が参加するのは、八田様以外にはいないそうです。

 

中村光治様.jpg

中村光次様 八田夫妻の墓前で撮影)

 

前日27日、高雄から私どもが乗ったバスの運転手蔡水樹さんは28日の朝、ゆりの花束をもってバスの運転を開始しました。私は怪訝に思って何のための花かと思っていましたところ、鳥山頭ダムの八田夫妻の墓に着いたとき、彼は恭(うやうや)しく墓前にその花を捧げたのです。そしてそこで私が彼に聞いたところ、台湾において一番尊敬する日本人は八田様であると明言されたのでした。もちろん鳥山頭ダムの恩恵を高雄で受けているのではないのですが、八田様の功績は、広く台湾中に鳴り響いていることを感じ取ったのです。

 

 

蔡水樹さん.JPG

(八田夫妻のお墓に献花礼拝するバス運転手の蔡水樹さん。)

 

また、台湾には日本統治時代に日本語の教育を受けた世代を中心として今でも浪花節ファンが少なくないそうですが、「日本人技師、八田與一が台湾に築いたダムと水路を世界遺産にしようという動きもある。…台湾の人々の心に浪花節が残っていることと、決して無関係であるまい。」と11月16日付産経新聞1面の『産経抄』に記載がありました。台湾の対日感情は様々に報じられていますが、八田様に対して台湾の人々は「恩人」と慕い、今でも愛されているのです。それは、八田様が生涯をかけて情熱をかけてひたむきに治水事業を成し遂げたからであり、それは台湾の人々への「愛」「浪花節」ゆえであったのだと思います。

 

八田様について、私もご面識のある竹田恒泰殿下は「別冊正論16号」(日刊工業新聞社、2011年10月20日発行)にエッセイを寄稿されていて、次の様に述べられています。

 

「八田與一の意義は政治的意味合いに限るものではない。八田の人生には、大和心と、日本人のモノづくりの原点を見ることができると思う。…モノを造りながら周りの人が幸せになり、できあがったモノが人々を幸せにし、そして最後に自分が幸せを噛みしめる。これこそが、日本人のモノづくりであろう。八田イズムの根本には『愛』がある。私たちは八田の生きざまを通して、人を愛することの大切さと、人のために生きることの尊さを知ることができる。」

 

 

湖畔の展望台.JPG

湖畔の展望台から枝珊瑚のように分岐している珍しいダム湖を臨む。

湖の周辺は風景区として指定されて様々な施設が設営されている。

 

 

台中発 台湾高速鉄道で台北駅に帰着。すぐに国立台湾大学へ。

 

16時 「国立台湾大学」訪問

 

国立台湾大学.JPG

国立台湾大学西側にある正門。左手奥に「台北101」を遠望。ここにも昔の佇まいが。

 

国立台湾大学は、旧台北帝国大学として1927年名称決定。1928年3月設立。

初代学長は幣原坦(しではら たいら)。当初より総合大学として拡充。1936年には医学部設置。1945年中華民国政府が接収。現在では11学部学生3万人を超える。李登輝・陳水扁・馬英九他台湾立志伝の重要人物を輩出。

 

【高井のコメント】

国立台湾大学においても伊東豊雄先生は大活躍されております。国立台湾大学の現在建設中の社會科学院を設計されており、それが建築中の建物の外壁に表示されておりました。

 

 

国立台湾大学社會科学院.JPG

国立台湾大学社會科学院建設説明看板に伊東豊雄先生のお名前が。

 

 

圓山大飯店

 

円山大飯店.JPG

圓山大飯店の外観

 

金曜日の引け時の渋滞を縫い、一路故宮博物院への途中、今年で創設59年目と、だいぶ古くはなったがリニューアルもされ、堂々たる風格の「圓山大飯店」。

日本統治時代の台湾神宮跡地の台北を一望する小高い丘に建てられ、外賓を迎える迎賓館として使われていました。


 

17時頃 「国民革命忠烈祠」訪問

 

忠烈詞.JPG

国民革命忠烈祠の衛兵交代を参観

 

辛亥革命や戦争で没した将兵を祭る国民革命忠烈祠(即ち靖国神社に相当)の本日最終17時の衛兵交代に、見事に間に合い一部始終を参観。体格の揃った兵士達の一糸乱れぬ衛兵交代の靴の鋲と銃の台尻で奏でるリズムは耳に残る。

今回の台湾の旅の間、兵士の姿はこの衛兵達だけしか見かけなかった。武装警官の姿もなく、他の諸国と比べると非常に治安の良いことが感じられる。

 

 

17時過ぎ 「故宮博物院」訪問

故宮では撮影禁止で写真なし。18:30の閉館まで約一時間の駆け足参観は充実。

中国人観光客で大賑わい、例のごとくここも喧噪。国宝特別展で素晴らしいものが並ぶが、展示方法が時代系列による方法に変わり、いささか食い足らず。

 

【高井のコメント】

参観者は、大陸の中国人の方が圧倒的に多かったことが印象的でした。日本人の参観者は見かけませんでした。

 

 

(4)10月29日(土)

台北松山空港を7時45分に発ち、羽田空港に11時45分に到着し帰国いたしました。

 

(5)まとめ~台湾反芻 40年前から比べて~

1.  劉先生に伺ったところ、台湾で「官との裁判案件」が多いことは、日本より民主的な社会に移行しつつある証左であるかもしれないと感じました。そしてもちろん中国本土の民主化への底流にも大いに関わりを持つと思いました。また高雄国家体育場建設では、公開コンペにより日本人が設計、日本の建築会社が施工に関与しつつ、官民協調し「公開透明の原則」に従い大工事が実行されたのは刮目に価します。

 

2.  台湾社会は、秩序が自律的に護れる地域に見事に成長し、世界でも希有のことと思われます。今回の訪台中、衛兵と駐車管理を除いて、市中に警官・軍人の姿をほとんど見かけませんでした。また大陸では当たり前のように見受けられる、我先に押し合う姿や鉄格子で囲まれた牢屋のような住宅はありませんでした。これらの違いはなぜでしょうか?台湾は、町並みも人心も極めて整えられているような、落ち着いた、調和が感じられる国であり、心が和みました。

 

3.  台湾料理が穏やかな料理に進化した?

ことさらに台湾現地らしい料理店を歴訪した今回、昔と比べて全体的に意外と薄口傾向、塩分、調味料が控えめで、これは生活水準向上を反映していることであると感じました。

 

【正門様のコメント】

旅の道中、有名な台湾バナナ・マンゴーから普段あまり口にすることのないドラゴンフルーツ(火龍果)・シャカトゥー(釈迦頭)・ワックスアップル(蓮霧)・リュウガン(龍眼)など、丹治社長のご厚意により様々なフルーツをごちそうになりました。私の中で、台湾は「フルーツ天国」というイメージがつきました。

 

4. 1911年、清朝崩壊から現代中国発展に至る起点である辛亥革命100年を記念すべき年に訪台できたことは、感慨まことに新たでした。日本統治の善き遺産を承継しながら、大陸文化の伝統に培われる新台湾の更なる善き発展が、おおいに期待されます。

 

5. 故宮博物院の中国宮廷の文物、至宝の存在は、台湾市民の文化発展に自然に溶け込み、新たな文明の要素となりつつあるように感じました。

 

6. 高井は来年3月29日から4月1日に再び台湾を訪問する予定であり、陳先生との講演の打合せも行う予定です。

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