2011年12月のアーカイブ

 

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(2011年12月24日(土)朝6:54 
東京都新宿区早稲田 鶴巻南公園にて撮影)

 

 

さて、前回12月23日付記事では新潟大学大学院医歯学総合研究科教授 安保徹先生が提唱する病気の2つの原因、「低酸素」と「低体温」についてお話しいたしましたが、引き続き、安保先生についてご紹介いたします。

 

【「身体を温める」ことが病を遠ざける】

家族や友人が風邪をひいたときに「温かくして寝てね」と声をかけたり、けがをした人や病気で苦しむ人を「温かく見守る」といった、看護の世界で「温かい」という言葉を頻繁に使うのは、先人からの教えでもあります。これは、20億年前から私たちのエネルギー産生を手伝ってくれているミトコンドリアが、身体を「温めること」で活性化し、人の癒し・健康になることを、体内から私たちに情報として知らせてくれているのではないでしょうか。

 

また、2011年11月17日付読売新聞(夕刊)では、北海道で同月15日夕方、81歳の男性が、運転を誤って河川敷に転落してしまい、同乗していた孫の女の子(3歳)とその男性は車の中で一夜を過ごしましたが、翌日無事に助けられたと報じられていました。零下3度以下という厳しい冷え込みであったにもかかわらず、2人は足に凍傷を負っただけですんだそうですが、大変驚くべきことです。2人は、愛犬であるラブラドールレトリバーの「ジュニア」をしっかり抱き、ジュニアの体温で身体を温め、寒さをしのいだということです。まさに「愛犬の温かい体温」が2人を救ったということです。このニュースを聞いた時には、私の心の中までもがホッと温まりました。

 

「身体を温める」ことに関しては丹羽クリニック院長 丹羽正幸先生が丹羽式統合医療の一つの柱である「温熱免疫ルーム」でも実践されている治療法です(詳しくは11月4日(金)のブログ記事「丹羽式統合医療 その他の施設について」をご覧ください)。

 

人間の体温は36度といわれています。36度を超せば高い体温になりますし、36度を割れば低体温になります。人間の体温が36度と決まったのは、太陽が1分間に呼吸する回数を表す18(それに合わせて人間の呼吸も1分間に18回)の、その倍の36という数字が体温の基礎数値になっているからであるといわれています。

 

ところで、私が親しくさせていただいており、2008年の弊所主催の年末講演会にて、「薬のいらない健康法」というテーマでご講演いただきましたイシハラクリニック院長 石原結實先生は、「身体を温める」ことについて深く研究されている先生です。ご著書には、『「体を温める」と病気は必ず治る』(三笠書房、2003)などがあり、他にも健康に関する数多くの書籍を出版されています。年末講演会で石原先生は、50年前は、大人の平均体温は36.8度、子どもは37度ありましたが、今の日本人の体温は高い人で36.2度位、多くの人が35度台にまで下がっている、とお話しされました。石原先生によると、身体の体温が1度下がると、免疫力が30数パーセント落ち、身体はマイナスのダメージを受け、病気になる頻度が高くなるのだそうです。35.5度という状態が恒常的に続くと「排泄機能低下」や「自律神経失調症状」、「アレルギー症状」が出現し、さらに35.0度まで下がると、身体の中で、がん細胞が最も繁殖する温度となってしまうそうです。このようなことからわかるように、人間の身体は「一種の熱機関」として働いているわけですから、体温は人間の健康や生命にとって極めて重要であり、強い寒さに襲われると、体温が低下して死に至ることもあるということです。どんな屈強な若者でさえ、冬山で遭難すると体温が低下して死に至ることがあるのはそのためです。たった0.5度の違いでも身体に与えるダメージは大きく、「体を温めること」は、病気を遠ざけるために極めて重要なポイントであるということです。石原先生は食べ物、飲み物を上手に摂り、体を温める生活習慣を身につけることが大切だとお話しされました。

 

さて、体内に取り込まれた糖、アミノ酸、遊離脂肪酸などのエネルギー基質は、各細胞の中のミトコンドリアがそれらを酸化させて、エネルギー源とするのだそうです。ミトコンドリアを活性化させるには、身体をミトコンドリアが活動する37度~39度の環境へと温める必要があります。ミトコンドリア系が優位になれば、「解糖系」ががん細胞を分裂・繁殖させてしまうことも抑えられるのだそうです。安保先生によれば、「お風呂に入ってホッカイロを貼って湯たんぽを使って24時間身体を温めれば、1カ月のうちにがんの進行は止まるでしょう。」とのことです。また、がんの化学療法である「抗がん剤」を使うと低体温になり、顔色が悪くなります。これではがん細胞がますます分裂・増殖してしまうことにつながるそうで、安保先生は「抗がん剤なんて、『増がん剤』です」ともおっしゃっていました。

 

低酸素・低体温を治療する方法として何があるか、安保先生にお伺いしたところ、下記の通りお教えいただきました。

 

(1)低酸素を治療する方法

時々深呼吸をする(対症療法)

生き方の無理をやめる(根本療法)

(2)低体温を治療する方法

からだを温める(対症療法)

ストレスを除く、体操する、日光浴(根本療法)

 

上記のうち、対症療法は、日頃から簡単に実践できるものですので、ブログ読者の皆さまも、日常生活に取り入れてはいかがでしょうか。(なお、「生き方の無理をやめる」ことについては、次回のブログ記事にて詳細を述べたいと思います。)

 

 

【生命の世界の本質】

さてこのように、安保先生は、私たちの身体は60兆個の細胞で構成されており、その中に性質の異なる2つのエネルギー工場を持っているというのです。そして、それは絶妙なバランスで成り立っているそうです。このバランスが崩れることで病気になるのです。何も解糖系を全く使わない(まったくストレスを感じない)ことが良いわけではなく、解糖系、ミトコンドリア系両方のエネルギーのバランスが大事なのです。安保先生は、「ストレスのない生活がいいわけでなく、楽することばかり求めても生きたことにならない。(身体の)機能を使いこなすことが重要。いわゆる『中庸の世界の本質』である。」とおっしゃっています。まことに名言であると思います。

 

私がお世話になっている三井温熱株式会社東京施術所所長 岩間功先生は、「三井温熱療法」で、瞬間的に訪れる強烈な熱さ、時間をかけて徐々に感じる心地よい熱さ、温かさや気持ちよさを感じる絶妙な熱などを利用して、自律神経のリハビリテーションを行っていくという治療法を実践していらっしゃいます。瞬間的に感じる熱さは受け手にある種の恐怖感を与えて交感神経の強い緊張を促し、心地よい温熱の流しや徐々に感じる熱さは安心感を与え副交感神経を促すことになるそうです。このような療法で緊張とリラックスを繰り返すことにより、自律神経に刺激を加えてバランスをとっていくそうです。この治療法こそ、『中庸』の実践であるということではないでしょうか。

 

三井温熱株式会社HP  http://www.mitsui-onnetsu.co.jp/   

 

なお、「三井温熱療法」によると、熱を与えた皮膚が「熱い」と感じたところ(温熱反応)を分析して、治療を施します。「温熱反応」は、「関連痛」すなわち内臓の不調が脊髄にて感覚神経に反映され、皮膚の痛みとして現れることと似ています。「関連痛」は、一種の錯覚であり、内臓の不調が脊髄内で皮膚の痛みとして伝達され、どの位置に痛みが出るかによって、どの内臓に不調がでているかが分かるものであるそうです。「関連痛」はある程度症状が進行してからでないと自覚症状が出ませんので、「三井温熱療法」では熱刺激を加えて、治療点を判断し、その箇所に熱を与えることで、次第に血流をよくするという方法をとっています。将来的には、まだ病気になっていない人、痛みが出ていない人たちが、予防医学という観点からこの治療法を捉えてほしいと、岩間先生は述べられていました。

 

さて、話を戻しますと、酸素を使わないエネルギー産生方法である「解糖系」は、瞬発力のエネルギーですので、アクセル全開で危機に立ち向かうことができるそうです。その時、血管の末端は無酸素状態となり、赤血球同士がくっついてドロドロになります。このことについて安保先生は、「血液ドロドロもすばらしい。血液ドロドロは、『戦いの世界』に対する身体の対応に他ならないからです。」とおっしゃっています。大事なことは、アクセル全開で働いた後に血液サラサラ(ミトコンドリア系)へとしっかり切り替えることだということです。

 

私は1973年(昭和48年)1月に開業して以来、年末年始も含め、年中無休で一心不乱に仕事をしてまいりました。時には親しい知人と食事をご一緒したり、旅行等にも赴いてきましたが、その間でも常に仕事・執務を忘れたことがありませんでした。特に、私の専門とする労働問題という世界は、「戦いの世界」でもありました。切り替えが大事であるということを、常々認識はしておりましたが、それを疎かにしてきたのです。やはり人間にはバランスが必要であるということを、安保先生の病気の原因論に触れ、深く考えさせられました。

 

安保先生はこの絶妙なバランスについて、「そうした生命の世界の本質に触れることができれば誰もが感動し、生きることのすばらしさを体感するはずです。これまでの医学には、そうした視点がありませんでした。目の前の症状ばかりに着目し、肝心の生命の世界が置き去りにされていたのです。」とおっしゃっています。

 

人間の力には限界があります。なぜ人間の力に限界があるのかといえば、安保先生のおっしゃる通り、人間には2つのエネルギー工場がありますが、「解糖系」という瞬発力のエネルギーによってアクセル全開で活動することを続けることはできないからです。それに人間は、「調和」を欠いては健康ではいられないからであると思います。また、人間は宇宙の小さな構成物に過ぎず、気が遠くなるほど長い宇宙の歴史、それが積み上げてきた法則にさからって生きてはいけないのであると思います。宇宙が伸縮しながら膨張し続け、そして最後には消滅するというプロセスがあるといわれますが、伸縮すること、即ち調和が絶えず必要なのでしょう。

 

安保先生は、ご著書『免疫革命』(講談社、2003)の中で、「何もかもが、人間の力で対応したり、適応したりできるわけではありません。そのことを、現代人は忘れているような気がします。やはり、自然の力というのは偉大です。…深い悩みから体調をくずしてしまった場合、悩みさえとれれば交感神経緊張状態から脱却できて、病からも解放されるとわかっていても、現実には悩みにとらわれてしまってうまくいきません。日常的なレベルの心のあり方では、どうしても解決できないことがあるのです。そんなときは、人間本来のもっと深い祈りにたどりついたり、あるいは伝統的文化に立ち返ることで、楽になることがあるのではないでしょうか。…そういう儀式を経ることで、悲しみから脱却したり、あるいは未来の安泰を願う心構えをつくったりしているのだと思います。たとえ科学で証明できることでなくても脱却しがたい心の苦しみから真に逃れることが目的だとしたら、そのためにできることは、積極的にとりくんでいい」と述べられています。

 

私は、人間の力がおよばないところに別の力、宇宙にある力が働いていると思います。人間の身体、とりわけ病気を引き起こすさまざまな要因のなかに大きく影響を及ぼしているのは、この「宇宙の力」であると思います。人間を取り巻く宇宙の調和を乱すから「病気」になります。であるからこそ、病気になると、「神にすがる」(宇宙の力にすがる)という心境が生まれるのでしょう。2011年8月2日付日本経済新聞朝刊36面「夜の祈り」という神戸大学准教授 宮下規久朗先生によるコラム(7月20日から8月2日まで同紙文化面にて連載)では、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年~1890年)の『星月夜』について、宮下先生は「病への恐怖や孤独の中から神を求める感情が激しく渦巻いているようだ。」と表現しています。病気になったとき、人間は宇宙の「気」、「波動」、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」に頼らざるをえないのが人間の本来的な姿なのだと思います。

 

次回も引き続き安保先生の記事を投稿し、まとめとしたいと思います。

 

なお、この記事をもって、本ブログ2011年最後の記事とさせていただきます。

来年もブログ記事を投稿してまいりますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

ブログ読者の皆様におかれましては、健やかなる新年をお迎えになられますよう、心よりお祈り申し上げます。

【歴訪記】その10 高知


 

20111215 講演の様子.JPG12月15日(木)10時40分に羽田を発ち、12時10分に高知龍馬空港へ到着しました。高知に赴いたのは、今年9月23日(金)~25日(日)の旅行以来、3カ月弱ぶりでした。前回は観光で訪れましたが(詳しくは、10月4日付歴訪記その5をご覧ください)、今回は、18時から19時30分に、高知新阪急ホテル3階「蘭の間」にて、私の「リーダーシップセミナー」を開催するために訪れました。このリーダーシップセミナーは、トライアル版の第7回目にあたります(高知での開催は第1回目です)。今回のセミナーは、株式会社一秀 代表取締役 横畠秀一様と有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様が、開催に向けてご尽力くださいました。この場を借りてお礼申し上げます。私は風邪をひいていたため、声がとおりにくくて大変申し訳なかったのですが、48名のご出席者の皆様が大変熱心にご聴講くださいました。貴重なご意見もアンケートにて承り、今後のリーダーシップセミナーの改善のための資料とさせていただきたく存じております。ありがとうございました。(写真は講演の様子)

 

 

 

 

【岩崎弥太郎先生のご生家】

さて、リーダーシップセミナーの開催前、午後12時40分に、高知県安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎先生(1834年~1885年)のご生家にお邪魔しました。ご生家は、寛政7(1795)年に、岩崎家の第6代弥次右衛門の代に建てられた由緒ある建物でした。とても立派な家で、現在でもそ

のまま使えるがごとき状態で残っていました。ただし、昔の人は背丈が150㎝~160㎝ぐらいしかなかったので、出入り口等が非常に低い造りになっていました。かつて三菱では、各グループ会社の役員に就任した際には、創業者のご生家にお参りする、という恒例があったそうですが、今はその風習は残っているでしょうか。

 

 

ご生家には、立派な碑がたっており、その碑文は、漢字の研究者で、大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者として著名な諸橋轍次先生(1883年~1982年)によるものでした。諸橋轍次先生は、1919(大正8)年から2年間中国に留学し、各地で碩学に学んだそうですが、そのころから、三菱第4代社長、岩崎小彌太(1879年~1945年。岩崎弥太郎先生の弟、岩崎彌之助様<1851年~1908年>の長男)の援助を受けていたということです。最近三菱商事の社長(1986年~1992年)・会長(1992年~1998年)を歴任された、現財団法人静嘉堂文庫理事長 諸橋晋六様は、轍次先生の三男にあたります。(静嘉堂文庫は、東京都世田谷区岡本にある、岩崎彌之助様と岩崎小彌太様の父子二代によって設立された美術館です。国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6、500点の東洋古美術品を収蔵しています。)

 

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(ご生家前で撮影 右が成采準様、左が私

左手に諸橋轍次先生筆「岩崎弥太郎誕生之地」記念碑)

 

岩崎弥太郎様ご生家(2).JPG

(記念碑の説明文<クリックすると拡大します>)

 

さて、岩崎弥太郎先生は“東洋の海上王”と呼ばれ、日本の資本主義を大胆に導いた革命家の一人として評価すべき存在でした。ご生家前にあった「まる彌カフェ」にて弥太郎先生に関する書籍が多数販売されていましたので、いくつか購入しました。今回のブログを書くにあたっては、「龍馬と弥太郎 長崎風雲録」(編・発行 長崎新聞社、2010)を大いに参考にさせていただきました。

 

弥太郎先生は、1835(天保5)年に、最下級の武士でありながら農民であるという、地下浪人(じげろうにん)という身分の家の長男として現在の高知県安芸市に生まれました。21歳の時に学問で身を立てるべく、江戸へ出て、安積艮斎(1791年~1861年)の私塾「見山楼」に入りました。しかし、1855年、父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されたことを知り、江戸から高知へ帰郷し、弥次郎の冤罪を訴えたそうですが、弥太郎先生も投獄されてしまいました。この時、獄中で、同房の商人から算術や商法を学び、これが後に弥太郎先生が幕末から明治初めの動乱期に土佐藩の商業活動を担ってのしあがり、その後三菱を創業し政商を奮い海上王と呼ばれる人生を送る機縁となったそうです。

 

弥太郎先生は、出獄後は、出身の村を追放されてしまいますが、吉田東洋(1816年~1862年)が開いていた「少林塾」に入塾して、後藤象二郎らと知り合いました。その後、土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などに従事し、1867年には後藤象二郎に土佐藩の商務組織「土佐商会」の、長崎土佐商会責任者主任に抜擢され、藩の貿易に従事するようになりました。弥太郎先生と坂本龍馬は不仲であったという話があるそうですが、龍馬が長崎を離れ上洛する際には弥太郎先生が龍馬に餞別の乗馬はかまを送り、長崎港で涙を流して見送ったそうです。道筋に沿って先頭を切って走る行動力・先見力、豪胆な人となり等の共通点が多く、二人は意気投合していたそうです。

 

さて、幕末の動乱期を経て、廃藩置県後の1873(明治6)年に後藤象二郎より、船2隻を入手し(これは、土佐藩の負債を肩代わりする条件が付けられていたそうです)、海運業をはじめ、現在の大阪市西区堀江にあった土佐藩蔵屋敷に「三菱商会」を設立しました。三菱のマークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を併せて作ったものであるそうです。なお、この三菱のマークは、ご生家の屋根にも掲げられていました。

 

岩崎弥太郎様ご生家(三菱のマーク).JPG

 

弥太郎先生が巨利を得るきっかけとなったのは、今でいうインサイダー取引によるものであったそうです。新政府の高官となっていた後藤象二郎が、各藩が発行していた藩札を、新政府が買い上げる紙幣貨幣全国統一化の情報を事前に弥太郎先生に流して、これを受けて弥太郎先生は藩札を大量に買い占めて新政府に買い取らせ、莫大な利益を得たのだそうです。弥太郎先生は最初から「政商」として活動していたということを表すエピソードです。また、私の5月18日付ブログで述べた澁澤栄一は、「企業活動は単なる金儲けではあってはならない」として、道徳と経済の合一を説いた人物で、会社は共同出資で設立し、利益は出資者に還元すべきという「合本主義」を思想としていましたが、弥太郎先生は「才能のある社長による独裁経営が企業の発展に繋がる」という思想を持っていました。二人は一度、経営思想に関し激論を交わしたことがあるそうで、澁澤の回顧談によると、その激論からついに仲直りをすることはなかったそうです(のちに、澁澤の米寿の祝いは弥太郎先生の長男・久弥が発起人となったそうですが…)。

 

また、弥太郎先生は、企業経営にあたって実力主義、合理性を貫き、実力のある人材は抜擢し、幹部から一般社員まで、信賞必罰を重んじ(日本で初めてボーナスを出した人物でもあります)、「企業は人なり」の精神を貫きました。また、「士魂商才」という精神も貫きました。「士魂商才」とは「武士の精神と商人の才を兼備する」という意味です。強欲であこぎなイメージのある弥太郎先生ですが、ずば抜けたリーダーシップを兼ね備えた人物であったことは確かです。

 

私は、リーダーシップセミナーにて、リーダーシップとは、まずは、自ら示した方向性、道筋に沿って先頭を切って走ることであり、先頭をきって走るからこそ、勇気ある行動として評価される、と述べております。ご生家の表座敷に面した庭には、いくつかの庭石が置いてあり、それは日本列島の形をしていました。これは、「日本をひとにらみする」と、幼き頃の弥太郎先生が築いたものだそうです。また、米相場で大失敗をした際に、「これで投機の危険を知ったなら、安いもの」と笑ったというエピソードがあるそうです。大胆不敵な弥太郎先生の人となり、その開拓者精神(もともとは、特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神をさしていた。転じて、一般的剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする)は、「打たれ弱い」等の傾向にあるといわれている最近の青年諸君に、見習っていただきたいところも大いにあるものだと思います。

 

 

【アンパンマンランド】

さて、今回の高知でのリーダーシップセミナーでは、「高知県がいつまでも坂本龍馬に頼ってはいけない。」といったことを述べましたが、これについては受講者からアンケートにて「共感した」というコメントをいただきました。

 

確かに坂本龍馬は高知県の誇る歴史的人物であり、日本人のなかには龍馬ファンが多いのですが、広く海外からの観光客を呼び込むテーマではたり得ないと思います。高知県は、沖縄や九州と同様に、アジアに近いというメリットがありますから、このメリットを最大限生かすべきです。

 

私は、高知県の皆さまが自覚されていない「盛上げ上手、喜ばせ上手、歓待上手」な県民性を活かして、心底楽しい思いを持って帰ってもらい、リピートにつながるホスピタリティー産業を展開することが必要であると思います。「観光」の語源は『易経』の「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節によるもので、「観光」とは国の「光」を観ることですから、それぞれの地域の「光」るところをさらに磨き上げることが必要です。このことをお話ししたところ、ひとつの提案として、成様より「アンパンマンランド」建設という企画のお話をお聞きしました。

 

アンパンマンは、ご存じの通り、国民的キャラクターで、アンパンマンの作者のやなせたかし様は、高知県香美郡在所村(現・香美市)のご出身です。やなせたかし様は、1919年生まれの92歳です。2010年には、年齢が90歳を超えて、引退も考えられたそうですが、今年3月の東日本大震災を受けて思いとどまり、未だ現役で活動を続けているという現代に生きる高知県の偉人であります。

 

同行した鮒谷周史様が成様のアンパンマンランド構想をお聞きし、「そういう構想が実現したら、すごく大きな需要があるのではないでしょうか」と言われていました。鮒谷様の親戚で2歳半のお子様がいるそうですが、アンパンマンと聞くと、テレビにかじりついて喜ぶのだそうです。高知県には、香美市立やなせたかし記念館がありますが、遊戯施設であるアンパンマンランド(こども向けの施設として、仙台、横浜、名古屋に『アンパンマンこどもミュージアム&モール』がありますが、これよりもさらに大規模な、200万坪程度の家族全員で楽しめる、ディズニーランドのようなテーマパーク)を高知県に設ける方が、休日に全国から孫に引率されたお祖父さんお祖母さん等家族連れが集まるでしょうし、海外からもアンパンマンファンが押しかけるのではないかと思います。

 

アンパンマンランドは、旅行会社ももちろんですが、航空会社にも貢献するだろうし、地元の高知にも目玉施設ができたということで、活況を呈するでしょう。成様は、土地は県が提供することになるだろうから見通しは明るいとおっしゃっていました。それが実現できるかどうかわかりませんが、それに値する企画だと思われます。アンパンマンランド建設を推進することが高知へ、海外からの旅行者をも含めた観光客を誘因するための決定的な起爆剤となり、ひいては、高知県民の幸福と発展につながるという真摯な確信をもつべきでしょう。

 

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(2011年12月21日 朝9:25 千葉県富里市日吉台にて
ディッソディア(ダールベルグデージー)を撮影)

 

 

10月14日(金)より今まで計10回、「病気」をテーマにしたブログ記事を執筆しておりますが、このブログを執筆するにあたり、そもそもの「病気の原因」とはなにかを考えてみたいと思いました。

 

「病気の原因」については、私が日頃よりお世話になっている全国の病院、医者、治療家の方々に様々なご教授をいただいておりますが、先生方によって千差万別な考え方があります。どれもそれなりに頷くものばかりですが、特に私が関心を持ったのは、今回から3回にわたってご紹介する新潟大学大学院医歯学総合研究科教授 安保徹先生が提唱する病気の2つの原因、「低酸素」と「低体温」についてです。

 

安保先生は東北大学医学部を卒業され、米国アラバマ州立大学に留学中の1980年に「ヒトNK細胞抗原CD57に関するモノクロナール抗体」を作製され、更に「胸線外分化T細胞」の発見、「白血球自律神経支配のメカニズム」を解明されるなど、数多くの研究成果を発表されている方です。現在は新潟大学大学院医歯学総合研究科の教授として、免疫学の研究に全身全霊を注ぐ日々をお過ごしです。加えて「人が病気になるたった2つの原因」(講談社、2010)、「免疫革命」(講談社、2003)など数多くの本をご執筆されています。

 

私が初めて安保先生を存じ上げたのは、2006年10月に、当時、株式会社鵞湖書房 代表取締役であった小松茂生様のご紹介で、株式会社オピニオンパ―ク(長野県諏訪市沖田町)コンディショニングトレーナー熊谷清次様のところに治療にお邪魔した際に、安保先生のご著書をご紹介していただいたことがきっかけでした。爾来、安保先生の数々のご著書を見かけ、安保先生の研究内容に大変興味関心を持っておりました。そして今年9月7日(水)に新潟にて初めてお会いし、10月19日(水)、12月11日(日)と今まで3回お会いしました。安保先生は、分け隔てのないお人柄です。先生のお話しになる津軽弁が、先生が気さくな方であるとますます思わせるのかもしれません。

 

 

【ストレスが「低体温」「低酸素」を引き起こす】

安保先生は「免疫学」の権威です。「免疫」とは読んで字の如く「疫病(病気)を免れる」ことで、体内に侵入した細菌やウイルス、体内で発生した腫瘍など生命の存続に不利なものを排除する力のことですが、リンパ球などの白血球細胞がこれを担っているそうです。

 

そして、「ストレス」がたまって神経系の働きが乱れると、免疫力も徐々に低下していきます。安保先生によると、たとえば希望を持って治療に当たる人と、絶望感に苛まれながら治療を受ける人では病気の回復に大きな差が出てくるそうです。心と体は一体であり、物理的な治癒だけではありえず、患者が心の問題を抱えたまま(ストレス下にありながら)治療するのは不可能と言ってよいでしょう。

 

普段私たちが日常生活を送る上で、「ストレス」を抱えこむと、それによって、一時的にしろ血流障害が起きて体が冷えてしまうそうです。そして、「ストレス」が強ければ強い程、血流障害がひどくなり、「低酸素」「低体温」の状態が日常化し、人は病気になるのだそうです。

 

そもそもストレスとは何でしょうか。「ストレス」という言葉自体は、頻繁に使われる日常語として浸透しています。「ストレス」という言葉は1935年、ハンス・セリエというカナダの生理学者が唱え始めました。彼は、ストレスを「体外から加えられた要求に対する身体の非特異的な反応」と定義しました。つまり、ストレスとは、外部の何らかの刺激が体に加わった結果、体が示すゆがみや変調ということです。

 

「ストレス」は誰しも多かれ少なかれ必ず生じるものです。少しのストレスであれば日常生活を送るにも支障がありませんし、活力の基礎にもなります。しかし、ストレスが過剰になると、体はその状態に適応しようとします。もともと人間には、刻々と変化する外界の環境に対して生体を安定した状態に保とうとする働きがあり、これをホメオスタシス(生体の恒常性)と呼んでいるそうです。

 

その結果、体は「低酸素」「低体温」の状態が続くことになります。たとえば寝不足が重なると顔色が悪くなります。これは、寝不足により自然と体温が下がり、酸欠状態になってしまうからです。また心配事が重なると、例えば恐怖に晒されると顔が青ざめますが、これはまさに「血の気が引く」という表現通り、血管が収縮して血が流れなくなるのです。これらの状態は誰もが一度は経験があるでしょう。東洋医学では病気のことを「気滞」と書きますが、まさに血が流れなくなり、病気になってしまうのです。

 

安保先生によると、この「低酸素」「低体温」の状態に陥ることこそ、病気の原因であるとのことです。安保先生は、病気の原因を「働き過ぎや心の悩みなどによるストレスと、それによる血流障害、すなわち冷えが主な原因」とおっしゃっています。健康でいるためには、「低酸素」、「低体温」を防ぐことが必要ですが、これには、ミトコンドリアを活性化させる必要があるということです。

 

 

 

【「解糖系」と「ミトコンドリア系」】

地球と太陽との距離は、生命にとって不可欠な「水」が存在することのできる温度環境を生み出しました。約38億年前、最初の「生命」と呼ばれるものが生まれたと考えられているそうですが、最初の生命は、まだ地球には酸素が無いため、海の底で、メタンやアンモニアから硫化水素を還元してアミノ酸などの有機物を作り出したり、地熱といったエネルギーを得るなどして、酸素を使わずに「解糖系」によってエネルギーを得て、分裂をくり返しながら生きていました。こういった生命は、原核細胞と呼ばれます。しかし、藍藻(ランソウ)、藍色細菌などと呼ばれ、植物と同じように光合成を行い、酸素を発生させる原核生物である「シアノバクテリア」の出現により、大気中には酸素が放出されるようになり、このため、酸素による酸化の害によって、酸素の嫌いな原核細胞は生きづらくなっていったのです。そこに酸素の大好きな「ミトコンドリア生命体」が出現し、原核細胞と共生をはじめました。これが、ミトコンドリアの起源であり、原核細胞は「真核細胞」へと進化しました。地球上に存在する植物と動物は、すべて真核細胞によって出来ているのだそうです。

 

ミトコンドリアとはゾウリムシのような原始生命体で、人の細胞1個の中に、数百から数千個共生しているのだそうです。ミトコンドリアはブドウ糖を分解し、酸素を使ってエネルギーを作ります。人は、全身60兆もの細胞にエネルギーの原料を送り込むために、食べ物の栄養素や呼吸から得た酸素を細胞まで運び、「解糖系」と「ミトコンドリア系」という2つのエネルギー生成系(エネルギー工場)によって活動エネルギーに変えることになるのです。

 

さて、「解糖系」と「ミトコンドリア系」の違いは、「解糖系」は食べ物から得られる栄養素をエネルギーに変換するシステムで、ブドウ糖(糖質)すなわち食べ物の栄養素が原料となっており、糖を分解するだけなのですぐにエネルギーが作り出せるのが特徴です。解糖系でつくられたエネルギーは、「瞬発力」と「分裂」(成長)に使われます。「ミトコンドリア系」は食べ物の栄養素に加え、日光、呼吸によって得られた酸素を使ってエネルギーを作り出します。ミトコンドリア系でつくられたエネルギーは、「持続力」に使われています。

 

たとえば短距離走のように素早い動作を行うためには、「解糖系」エネルギーが必要になります。なぜなら人は全速力で走るとき、息を止めて走っていますので、その間は無酸素状態になっています。ですから、酸素を使わないエネルギー産生方法である「解糖系」を使うのです。またイライラした状態が続いたり、カッ!と興奮して怒るだけでも血管の末端は簡単に無酸素状態になり、「解糖系」のエネルギーが使われます。

 

しかし「解糖系」を使い過ぎると酸素欠乏になり、疲労感を招く乳酸がたまります。その時はゆったりと休息をとって、ミトコンドリア系に切り替える必要があるのです。貝原益軒の書いた「養生訓」にも、「心気を養うことが養生の術(方法)の第一歩である。心をおだやかにし、怒りと欲を抑制し、憂いや心配をすくなくして、心を苦しめず、気を傷めないことが、これこそ心気を養う大切な方法である」とあります。仏教では「怒り」がもっとも激しい煩悩の一つであるとされていることからも分かるように、苦悩、苦痛、苛立ち、怒りが病気の原因であるということは、古くから先人たちの教えとして伝わってきたことであると思います。

 

このように、私たちは本来ならば「解糖系」と「ミトコンドリア系」の2つのエネルギー経路を使い分けているのですが、ストレス社会では「解糖系」ばかりが使われてしまい、「ミトコンドリア系」とのバランスが崩れてしまいがちです。「解糖系」ばかりが稼働するようになったとき、がん細胞が生み出されやすくなるそうです。そして、「瞬発力」の母体である「解糖系」は細胞分裂の際にも働きますから、がん細胞をも分裂によって繁殖を繰り返させてしまいます。

 

長期間、酸素を必要としない解糖系が使われると、ミトコンドリアの働きが抑制されてしまいます。そして、低酸素・低体温の状態であることが日常化すると、病気になってしまいます。ミトコンドリアを活性化させるには、身体をミトコンドリアが活動する37度~39度の内部環境(深部体温)へと温める必要があります。

 

ちなみに、父親のミトコンドリアは受精時に受精卵の中で母親のミトコンドリアに食べられて消滅し、父親のミトコンドリアの遺伝子は次世代には伝わらないそうです(2011年10月14日付日経新聞夕刊)。なぜ父親のものが排除されるのかは現在では分かっていないそうですが、母親のミトコンドリアの遺伝子のみが子に伝わるということです。これについては、現生人類の祖先をたどっていくと、数十万年前のアフリカの女性に行きつくという説「ミトコンドリア・イブ」が知られています。また、成熟した一つの卵子には、実に10万個ものミトコンドリアが存在し、逆に精子はミトコンドリアが極端に少ない分裂を繰り返す解糖系細胞であるそうです。つまり、精子は解糖系優位で、卵子はミトコンドリア系優位であることから、安保先生は、「男性は冷やすことでたくましくなる」し、「女性は温めることで成熟する」と表現されています。陰嚢と卵巣の位置がそのようになっています(戦前・戦後通じて、女性は暖かい沖縄県が、男性は寒くて高地<低酸素>の長野県が長寿の1位を占めていることは非常に興味深いデータであると安保先生はお考えです)。また、「解糖系細胞=男性」は、有害な酸素に苦しんでいたところを、「酸素を好む好気性細菌=女性」に救ってもらい、自らが産生した栄養を分け与えるのと引き換えに、これまでになかった莫大なパワーを手に入れたわけですから、女性の存在なくして男性は生きていけないのである、とも述べられています。私は常日頃から女性のエネルギーは男性より強いと感じておりますので、安保先生の理論には納得させられました。

 

次回は体を温めることが病を遠ざけること等について、述べたいと思います。

【歴訪記その9】インド


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 (ウメイド・バワン・パレス・ホテルにて撮影)

 

私は、弊所の特別企画「21世紀の国 インド 社会・経済視察団」の団長として、11月19日(土)から11月27日(日)まで7泊8日で、インドへ赴きました。視察団にご参加していただいたのは、下記の皆さまです。

 

信州レジャー興業株式会社 代表取締役 新井 泰憲様

株式会社日本フランチャイズ総合研究所 代表取締役社長 内川 昭比古様

株式会社ユービー 代表取締役 内舘 健彦様

シナノア株式会社 専務取締役 釜谷 俊朗様

株式会社長野自動車センター 取締役会長 毛涯 宏一様

株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様、青木 明美様

JNC株式会社 取締役 最高顧問 後藤 舜吉様

株式会社ビジネスセンター 代表取締役 佐藤 啓策様、佐藤 弘子様

マナック株式会社 取締役社長 杉之原 祥二様

SECエレベーター株式会社 代表取締役 鈴木 孝夫様

デロイトトーマツコンサルティング株式会社 パートナー 土田 昭夫様

弊所顧問 知久 信義様

弊所客員弁護士 千種 秀夫様、千種 友子様

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰様

中央精工株式会社 取締役 相談役 中村 光次様

会社力研究所 代表 長谷川 和廣様

有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷 周史様

株式会社ワールドプランニングオフィス 代表取締役 椎葉 卓光様

 

今回の歴訪記は,前回の台湾歴訪記(11月22日付記事)に引き続き,中村 光次様に下記の通り御作成いただきました。中村様,どうもありがとうございました。

 

 

(1)11月19日(土)

2011年11月19日(土)小雨降る成田空港を午前11時30分発のAI(エア・インディア)307便による10時間のフライトで、日本との時差が3時間30分あるインドの首都デリーにあるインディラー・ガーンディー国際空港に、夕闇せまる現地時間の18時に到着しました。ちなみにデリーは「ニューデリー」と「オールドデリー」に分けられており、ニューデリーに連邦の首都機能があります。イギリスの設計と建設による新都市部分がニューデリー、古くからある町をオールドデリーと呼ばれているようです。ちなみに日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっているようですが、インド政府公式サイトや日本の外務省のサイトでは「ニューデリー」と表記されています。

 

インディラー・ガーンディー国際空港の名称は、第五代首相インディラー・ガーンディー(インド初代首相ジャワハルラール・ネルーの娘で、1984年、67歳の時にシーク教徒により暗殺されました。後任の長男ラジーブ・ガーンディー第六代首相も1991年に暗殺されました。)に由来しているそうです。2010年7月にターミナルがリニューアルされ、世界で8番目の広さになったそうです。大規模なハブ空港への拡張工事中であるチャトラバティ・シヴァージ国際空港(ムンバイー)ともに大変立派な空港で、このままいくと、インドが中国を追い越すのは時間の問題であるとも感じられました。

 

チャトラバティ・シヴァージ空港からホテルまでは23時という遅い時間であるにも関わらず、大変な混雑の中、バスでホテルに向かい、本来わずか10分程度でつくところを25分以上かけてようやく到着しました。深夜なのに交通渋滞が甚だしいインドの地域事情の初体験でした。等々力好泰様によれば、インドの自動車交通インフラは非常に悪く、中国より5年は遅れているということです。また道路の周辺はゴミだらけで甚だしく劣悪でした。私が10月26日(水)から29日(土)まで訪れた台湾が、いかに優れていたかを目の当たりにいたしました。インドが中国を越えるまでに発展するには、インド国民の公共的なマインドをはぐくむことが大切であると痛感しました。

 

インドの車は最も大衆的な乗用車「TATA」(日本の軽自動車を至極簡単版にした廉価車)で、10万インドルピーで問屋へ出し、一般市民には15万~16万インドルピーで問屋等の歩合を取られて売られているそうです。但し、エアコン付きの高級版は20万インドルピー、日本円で約30万3千円になるとも聞きました。空港のタクシーも、すべて「TATA」で普通はエアコンなしですが、エアコン付きはCOOL TAXIとして料金も割高です。この辺は盛夏には摂氏45度にもなるのですが…。

 

 

(2)11月20日(日)

朝9時にホテルを出発し午前中はムンバイー観光を楽しみました。ムンバイーはこの10年で経済的に大発展を遂げたそうです。バスの車窓から公園や運動場でたくさんの市民がクリケットをしているところを見かけました。日曜日という日柄か、街には至る所でクリケットのグッズが売られていました。インドでは、クリケットは最も人気のスポーツ競技とのことです。また、空港や市街の要所の至る所で、サブマシンガンを持つ警備兵を多々見かけることには、一見温和なインド人社会のもつ、複雑な政治・宗教情勢を考えさせられます。

 

10時20分頃に「インド門」へ行きました。第一次世界大戦で戦死した兵士(約8万5千人)を追悼する慰霊碑で、高さ42mのアーチには、ヨーロッパ戦線に英国軍として参戦し、戦死したインド人兵士の名が刻まれていました。

 

 

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インド門から道を隔てて隣接している、英領植民地時代の市街中心部に位置するタージ・マハル・ホテルに歩いて向かい、会議室で「TATA CAPITAL LIMITED」の関係者の皆さまをお迎えし、 法務コンプライアンス部 部長(Head of Legal & Compliance & Company Secretary)のシャイレシュ・ラジャデイヤクシャ(Shailesh H Rajadhyaksha)様により、インドで独自の成長路線にある「TATA」という巨大企業の経営理念についての貴重な講演をジャワラルハル・ネール大学(Jawaharlal Nehru University)プレム・モトワニ(Prem Motowani)教授の通訳で拝聴しました。(写真は講演の様子)

 

 

「TATA」は1868年創業、140年を超える歴史を持ち、様々な分野で世界のトップ企業となっています。既に英国植民地最盛期でもあった19世紀初頭(日露戦争の頃)には、はやくも製鉄に着手するほどの確固たる基盤がありました。常にインド民族の誇りを堅持しつつ、植民地途上国においてありがちな悪弊を徹底排除することを心がけてきたということです。また、明確な企業理念に基づく厳正な倫理規範を持つ事業経営によって、利益の社会還元を見事に発展させているそうです。貧しい人々の市場にマッチングさせ、廉価な製品を低所得者層に豊富に供給することを目指しており、利益の66%を社会還元することを社是としています。ちなみに街に溢れる大衆車「TATA」はグループ会社であるタタモーターズのもので、インド車の代表格です。

 

TATA HP http://www.tatacapital.com 

 

講演内容の一つとして、「TATA」は近く農村開発と銀行自由化に備えて1年以内に銀行事業を開始するということをお話しいただきました。「TATA」を見れば、インドという巨像の国の部分像がかなりはっきりと見えてくるようです。この講演によって、インド理解がさらに深まるという素晴らしい講演でした。

 

 

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昼食はタージ・マハル・ホテルで講師の皆様と交流しながらのビュフェスタイルでいただきました。タージ・マハル・ホテルは、「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様が、英国人によるインド人差別に怒り、インド人の設計による豪華ホテルを築きあげたものです。建物は西洋の新古典主義とインド伝統様式の折衷で、1903年に開業しました。 2008年11月26日におきた同時多発テロでは3日間テロリストに占拠され、多くの客の犠牲者がでました。現在は館内への出入り検査も厳重で、古典的な落ち着いた雰囲気は最高級のホテルです。100年を超える伝統あるホテルというだけあって、著名な人士の写真やサイン帳も展示されていました。(写真は「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様の胸像)

 

タージ・マハル・ホテル HP http://www.tajhotels.com/

 

さて、インド最大の都市である「ムンバイー」とは、英語名称はもともと「ボンベイ」といいました。1534年にポルトガルが「グジャラート」の土侯からこの地域を譲り受けたことに始まり、「ボンベイ」という名前の由来はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるそうです。1995年に、英語での公式名称は「ボンベイ」から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづく「ムンバイー」へと変更されたそうです。

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昼食の後、30分ほど車を走らせ、ボンベイの海岸線が一面に見えるところに赴き、景観を楽しみました。6年前に比べて、はるかに多い高層ビルが立ち並んでいました。その後、ホテルの傍にあるインド屈指の国立博物館の一つ「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」「ガーンディー博物館」を参観しました。最も価値あるものはロンドンへ持ち去られたのか、やや寂しい展示でした。翡翠の趣味が中国の緑とは異なり白玉のような白翡翠に価値観があるようで、半透明の白色翡翠で創られ、ルビーとエメラルドで装飾された短刀の柄は見事でした。博物館参観後再びムンバイーの空港にもどり、18時10分発9W−483(JET AIRWAYS)に搭乗し、一路南に向かい19時45分にベンガルール空港へ到着、今日も夜更けのホテル着でした。(写真は「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」にて、白翡翠の短剣)

 

(3)11月21日(月)

 

IMGL1239.jpgベンガルールではオベロイホテルのスタッフの皆さまが立ち並び手を合わせてお出迎えの挨拶をしてくださいました。インドではホテルのスタッフの皆様だけでなく、一般の方々にもそのような風習がありました。オベロイホテルは、大変に良く整えられたホテルで、英国の南インド植民地支配の中心地であった時代の最上級の雰囲気を伝えています。喧噪の街中にありながら、静かな室内と自然な演出の庭園があり、最近は疎かなレターセットなど基本的なアメニテイーも完璧で、お勧めの宿です。(写真はオベロイホテルにて撮影)

 

カルナータカ州ベンガルールは南インドの政治・経済の中心地で人口はインド第5位の720万人、標高920mの高原にあるために過ごしやすく、緑も豊かで「インドの庭園都市」とも呼ばれています。ベンガルールでは日本語で、共同通信社発行の「共同ニュース」(日曜日は「共同サンデーニュース」を発行)というささやかな日刊紙が発売されていました。ベンガルールには国営の重工業・航空産業・宇宙産業・防衛産業が置かれ、情報通信産業も発展し、インドのソフトウェア産業最大の地域へと発展しています。

 

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IT産業が入居するビルの密集する近代的な街並みを見学後、郊外の工業団地にあるガラス裁断専門企業のABCグループ南部製造工場を訪問いたしました。ABC グループは日本の旭ガラスの支援を受け、強化板ガラス裁断の技術導入により、南インド一の業績を誇っています。最新のラミネート強化板ガラス製作の全工程をつぶさに参観し、事業の経過やインドでの中小企業の実情についてABCグループ社長 ディーパック・マリク(Deepak Malik)様に経営についてお話を伺いました。マリク様のお話ではインドで急速にすすむ経済発展にともない、建設ラッシュが予測される場面での需要急増に対応するために、同社は手狭な工場の拡張について、外資導入も含む考えも示されました。しかしながら高度な成長を控えるインドにしては、市街地や工業団地など配電施設は、おしなべて余りにも旧式であり、電力インフラ整備の必要が急務であることが強く感じられました。また、工場現場には「5S」(整理<Seiri>、整頓<Seiton>、清掃<Seisou>、清潔<Seiketsu>、躾<Shitsuke>の頭文字のSをとった略称)の掲示もありますが、日本の現場経営指導を的確に行えば、桁違いの生産性が確保できるようにも見えました。(写真はABCグループ南部製造工場にて撮影)

 

インド滞在3日目にして、ニューデリー・ムンバイー・ベンガルールといろいろな都市を廻りましたが、都市部から牛がいなくなったということが、6年前とは大きく違った風景であると感じました。牛は篤志家が引き取り養うとのことです。また、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度は1950年に制定された憲法で全面禁止が明記されていました。仕事の上では問題は起きていないといわれているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いており、後30年は残るといわれているようです。

 

19時20分発の9W-812便でベンガルールを発ち、22時頃、再びインディーラー・ガーンディ国際空港に到着いたしました。今晩宿泊するホテルは空港からかなり離れた総合リゾート開発地区にあるホテル「ジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾート」で、到着したのは23時すぎでした。夜食は簡単な(インドならではの?)ビュフェスタイルでいただきました。10月末には、インドで初めてのF1コースでF1グランプリ(GP)が開催され、それに間に合わせてオープンしたホテルとのことですが、イベントのない当日は巨大なホテルも閑散としていて、端の方の部屋ではお湯が届かないという始末でした。周りには何もないので散歩もならず。朝はガスの臭いのするかなり濃い霧で、庭園も見通せないのは残念でした。

 

なお、デリーでは、ここ数年商社、金融会社が増加傾向にあり、加えて中堅企業、レストランの進出も目立ってきています。現在は第二波の進出期に当たるようで、政府は農業補助政策を重視しているそうです。

 

 

(4)11月22日(火)

ホテル内のレストランで朝食をいただいた後、郊外の丘陵地にあるジャワラルハル・ネール大学でプレム・モトワニ教授、及び日本語学部の学生たちとの交流を行いました。モトワニ教授はネール大学大学院日本語学科教授で、インドを代表する日本学と日本語の権威です。日本語の辞書を日本語で出版され、また学生達は、見事に日本語をマスターしております。ホテルには25歳以下は法により禁酒と注意書きがあったので、学生たちに聞いたところ、あれは守らなくてもよい法律とのことでした。また学生寮での「ノミ(飲み)ニケーション」は盛んなようです。大気汚染などについて学生たちはほとんど関心はないようでしたが、建物のあちこちにビラが貼られ、チェ・ゲバラ、マルクス、エンゲルス、レーニンの顔もみかけました。日本ではすでに懐かしの風景です。構内には牛ならぬ犬が多数いました。熱心な学生たちとの交流会は大変活発で中々終わりがたい雰囲気でした。これからの交流に期待します。

 

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11時に、主要大使館が並ぶチャーナキャプリー通りの日本大使館を訪問しました。在インド日本大使館特命全権大使、齋木 昭隆様は日本に帰国中だったため、次席公使である林肇様が臨時大使として、一等書記官 磯野 聡様に対応していただきました。日本的な雰囲気に仕立てられた建物と庭園、室内の調度はインドであることを、ふと忘れさせる雰囲気でした。庭園中央には天皇・皇后両陛下が皇太子ご夫妻のころ、1960 年12月1日に植えられたお手植えの溶樹 (ガジュマル)が見事に成長しています。(写真はその溶樹と高井)

 

林次席公使の、誠に要を得たインド日本関係事情のご説明と質疑応答のあと、多くの日本美術作品(その中には当訪問団をお世話して下さった山田真巳様の大きな屏風作品も飾られていました。)で飾られた、大使館内をご案内いただきました。

 

林次席公使よりご説明いただいたインドについての概略は、以下の通りです。

  1. インドは11月~2月が最適の気候で、4~6月は45度を超えることもしばしばあるようです。社会主義経済から開放政策で、10年前頃からその成果が出始め、国際的に注目されています。日本企業も増加傾向ながら在留日本人は、4000人が5000人と20%弱増えた程度で、タイの5万人とは未だ格段の差があります。
  2. インドは世界最大の民主国家ですが、地方色が大変強く、二大政党が特徴です。インドの最大与党・国民会議派の、後継の党総裁首相候補の選択が決まらず、不安定な状態で、2014年の選挙をどう迎えるかが注目されています。
  3. 外交では、パキスタンとの国境紛争が未解決のままの上、中国やカシミールとも国境での交戦問題と問題は山積みです。しかし日本はインドと直接の利害紛争には関わらないニュートラルな国なので、率直なお付き合いができているようです。
  4. 電力開発は多様化を計画しており、石炭は国産でまかなえているようですが、石油は全て輸入に頼っています。淡水は不足し、海水淡水化事業に日本の支援を活かしています。原子力発電は現在2%ですが、これから積極的に増加させていく方針だそうです。なぜなら、インドは2030年には13倍の電力需要を予測しているからであるとのことです。
  5. 核拡散防止条約に加盟していないため、条約に規制されず核兵器を保有出来ることになっています。インドは日本の核施設輸出に関する方針を改めて打診するため、外務大臣を日本に派遣しました。
  6. 2012年に日印国交樹立以来60周年記念行事を企画していて1~3月、9〜12月の2期にわたり、さまざまなイベントをインドと日本で開催する予定です。
  7. デリー周辺の日本企業は未だ300社余で増加傾向ですが他国に較べて少ないようです。最近の情勢下、中小規模企業のインド進出が増えつつあります。
  8. インド政界は銀幕政治ともいわれるほど映画TVの影響が大きいです。
  9. 第二次大戦後しばらくはロシアとの関連が深かったですが、今は全方位外交です。
  10. 多人口・多民族・多言語の複雑な社会で、英語が共通語になりつつあります。
  11. 最近、東京大学・立命館大学などがベンガルールなどインドに進出しつつあります。

 

 丁度正午に一時間の大使館訪問を終えて出発し、昼食は市内のタージ・マハル・ホテルで済ませました。

 

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その後は植民地時代に整備された、全て放射状に区画されロータリー形式で無停止で方向転回ができる、信号の無い都市中心部の街路をみながら、エロスコーポレートタワービル7階にある双日インド会社を訪問し、同社社長 川村 安宏様からインド事業の状況を伺いました。川村様は、2006年10月ニューデリー日本商工会初代会長をつとめ、146社が加盟する日本人会の理事でもいらっしゃいます。双日株式会社は、母体がニチメン(日綿實業)、日商岩井という、ともに「日」を頭文字とする商社2社であったことに由来して双日と命名されたそうです。(写真は双日インド会社社長 川村 安宏様と高井)

 

 双日 HP http://www.sojitz.com

 

訪問終了後、遙か郊外のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートへ戻りました。

 

(5)11月23日(水)

朝食後、前日訪問したビルにある独立行政法人 国際協力機構(Japan International Cooperation Agency 略称JICA)インド事務所を訪問し、所長の山中晋一様にインドでの活動状況、インドが抱えるさまざまな課題などに関するお話を伺いました。

 

 独立行政法人 国際協力機構 HP  http://www.jica.go.jp

 

山中所長は、1988年から1991年にかけてもインドに赴任されており、特に1991年は、湾岸戦争や政治混乱の影響を受け、インドが経済危機に見舞われた年だったそうです。当時は緊急財政支援により危機克服支援が主たる活動だったとのことですが、現在は、「公正な成長と貧困削減」「人間の安全保障の実現」などに取り組んでおられます。なお、日本の最大規模の供与先である政府開発援助(ODA)は、インド向け円借款事業円として、2003年以降、運輸、電力、上下水、森林開発などに毎年度2000億円、累計1.6兆円を供与、JICAはその事業全般を統括しています。2010年は、放送大学機材、病院建設のプロジェクトに無償資金協力10億円(2件)、技術協力に5億円(22件)、そのほかにも製造業技術幹部育成、高速道路開発、下水道維持管理などのプロジェクトを実施しています。その他ボランテイア事業として青年海外協力隊、NGO支援での農村支援・女性自立支援なども実施しています。

 

その後、14時にデリーより9W-721便で出発し、1時間でジョードプル空港に到着しました。ジョードブルは、ラージャスターン州タール砂漠の入り口にある街で、別名「ブルーシティ」と呼ばれているそうです。

 

ターンテーブルで荷物を受け取った後、添乗員、現地ガイドの方の誘導でバスに乗車して現在もマハラジャがお住まいのウメイド・バワン・パレス・ホテルに向かいました。インド有数の宮殿ホテルということで、やや赤みがかかった現地の砂岩の外壁と大理石で構成された内部は、大きな円形ドームのロビーを中心に放射状に多数の広い客室が配置された、とてもゴージャスな雰囲気のホテルで、まずは各部屋でゆったりとした時間を過ごし、広大な庭園を、階段上から見渡す夕映えのテラス、「サンセット パビリオン」で、インド古典楽器の演奏を聞きながら、マハラジャの気分で食事を楽しみました。また、Headland Media社が発行している「Good Morning JAPAN」なども読むことができました。

 

 

(6)11月24日(木)

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朝食後、ほとんど昔のままのジョードプルの市内を観光いたしました。垂直に切り立った崖の上に1459年に築かれた非常に堅固な「メヘランガール城塞」を見学しました。 現在もマハラジャ所有の博物館として一般公開され、内部には豪華な王宮や寺院が立ち並ぶ巨大な砦です。旧市街は城砦の麓にできた文字どおりの城下町で、途中から三輪の力車に分乗して市場へ向かいました。市場は古い時計台の塔を中心に様々な商いの店が蝟集(いしゅう)して、丁度「上野のアメ横」の路地を人や牛やバイクが通る雰囲気です。米屋では、日本の米とは全く異なる粟のように小粒な米や、細くて長い米などどれも粘りけの全く無い米が売られていました。買い物の女性たちは皆派手やかなサリー姿で、首飾りや腕かざりの金色も華やかに狭い通りに行き交っていました。貧しい人たちもたくさんいましたが、自給自足の食料事情の故か、あまり貧困にもとづく切迫感はなく、むしろ誰もが笑顔でフレンドリーなことは、ここが観光地だからという訳ではないようです。(写真はメヘラーンガル城塞の外観)

 

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昼食をホテル内レストラン「フォンテン コートヤード」にていただいた後、午後は宮殿内特別室にてジョードプルのマハラジャ ガジュシンク2世に謁見いたしました。この宮殿は、かつてこの地方で2年間一滴も雨が降らず、旱魃(かんばつ)に苦しむ領民を救う為に、毎日2千人の領民を交代で動員して、この宮殿を建設したとのことです。ちょうどエジプトのピラミッド建設がナイル河の洪水期の失業救済事業という説に通じるところがあり、日本の震災や放射能対策の政策をも考えさせられます。今は、宮殿の一部をホテルに賃貸し、地域の観光振興に役立てています。(写真はガジュシンク2世との謁見の様子)

 

 

IMGL2124.jpg夜は、一同生まれて初めてのターバンをかぶり、ホテル庭園の舞楽殿前にしつらえられた特設会場で、打ち上げ花火に始まり地域性豊かな古典舞踏を鑑賞しながらの、華やかなプライベートディナーパーティを楽しみました。(写真はターバンを巻いた株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様と高井)

 

 

(7)11月25日(金)

ホテルで朝食後、ベジタリアン達の村「ビシュノイ村」を訪問しました。

ベジタリアンの多いインドでも、厳密に殺生を避ける原理主義の特別保護区で、宗教上の規範で、木も切ってはならない、布を染める藍も使わない極度の禁欲の生活を護る村として特別保護区に指定されている場所だそうです。子どもやビシュノイ村に住む家族全員が快く受け入れていただきました。子ども達の中には、小声で「ルピーを」とせがむ子もあり、これからの経済発展の過程での先行きの厳しさを感じます。部外者の参観訪問も果たして意味があるか、いささか疑問を抱かされました。

 

見学後はホテルに戻り、昼食をとった後空港に向かい、JAW722便で16時30分頃に再びデリー空港に到着しました。ホテルは前回宿泊のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートでした。夕刻には、ホテル内バンケットルームにてホテルのオーナーでもある現地巨大企業ジェイピーグループの事業概況についてのプレゼンテーションがジェイピーホテル マーケティング販売部長のジョイント様(Sr.Joint)、同じくマーケティング部のアザマット様(S.M. Azmat )よりパワーポイントを使ったわかりやすい解説が行われました。

 

同グループはセメント事業を中核とする総合建設グループで、水力発電ダム建設と発電事業、高速道路建設と営業、ホテル近傍のインド初のF1GPコース開設を含む巨大なリゾート開発などを進めるインド屈指の企業グループです。公共インフラ投資の相当な部分を企業ベースで推進しつつあるインド的な様相が見える有益なプレゼンでした。

 

 ジェイピーグループ HP http://jaypeehotels.com/

 

終了後は 関係者の皆さまを交えてのレセプションが行われました。その後、「さよなら夕食会」が行われ、8日間の滞在を視察団全員がふりかえり、インド最後の夜を楽しみ、親睦を深めました。夕食会の途中、インド国会議員最年少議員で前観光相のOmak Apang様が、忙しい日程の合間をさいて来場され、ご挨拶をいただきました。その後もOmak Apang様は団員とともに阿波踊りに興じるなど、大変気さくにおつきあい下さいました。また、来年2012年が日本、インド国交60周年にあたり、様々な交流イベントとして四国の「阿波踊り」や青森の「ねぶた」への参加を要請されました。

 

 今回は、大変忙しい旅程で、肝心のゴルフやスパでのリゾート気分を味わう時間は全くありませんでした。

 

 

(8)11月26日(土)~27日(日)

今朝は朝4時起きて、帰国の荷物はバスで別送しました。私たちは、ホテルからバスで一時間程かけて、夜明け前にニューデリー駅荷に到着いたしました。ニューデリー駅は、首都駅にしては雑然としており、駅前広場では、地面に仮眠する人達などで足の踏み場も無い有様でした。乗車した列車は、外国人専用の観光列車ということで、こざっぱりした感じで、ほとんど満席でした。

 

駅からバスで15分ほどの、明け方の門前町は、もう車で一杯でした。リキシャに乗り換えて門前ゲート前まで行きました。高い城壁のような廟を護る楼門の彼方に、美しいドームが見えてきました。

 

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タージ・マハル廟は、1983年世界文化遺産に登録されています。1632年着工し、22年かけてインド中から最高の材料を集めて造られたのだそうです。純白の大理石で創られているタージ・マハル廟の建物は大気汚染の酸性雨により、本来の純白に輝く大理石がやや灰色に鈍く変色しているといわれます。大理石は酸に容易に犯されてしま うのでコーテイングなどの対策が必要です。完璧に左右対称型の壮麗なドームの構成は、四隅の塔ミナレットで引き締められ安定しているところが大変面白く感じました。完全対称の造形を助ける廟前面の池が整備中のため、水面に逆さに映る姿を見ることができませんでした。廟の裏手にはかなりの幅の河がゆったり流れ、穏やかな風情でした。学生や様々な国からの観光客に溢れる庭園では、写真のポイント順番待ちが大変でした。(写真はタージ・マハル)

 

この、タージ・マハル廟は、ムガール帝国第5代皇帝シャー・シャハーンが愛妃ムムスターズ・マハルを悼み建てられた廟です。また、ジョードプルの絶壁にまもられ、難攻不落のメハランガル城の唯一の弾着跡が残る立て籠もりの歴史は、没した王の后の帰趨を争う兄弟同士の戦争であったそうです。インドの最大の伝統的な価値観が、女性の美しさと魅力にあることを物語るようです。

 

ヒンドウー教寺院礼拝堂では、男性席が前、女性の席は後ろに厳しく区分されていますが、政治の世界では、早くからインデイラー・ガーンディーなど女性が首相も務め、自爆テロの標的にもされる程、日本より余程女性の地位は高いようです。

 

アーグラ市街中心のホテルで昼食後、市内の1983年登録の世界遺産アーグラ城塞を参観しました。ムガール帝国時代の1565年に着工された城は、赤い砂岩の城壁で「赤い城」とも言われるそうです。ムガール帝国の三代目が、タージ・マハルを建てたシャー・ジャハーン王です。主要な構造は砂岩ですが、内部は華麗な花木の唐草とアラベスクで色彩豊かに飾られた白大理石です。ほとんど内装は剥離していましたが、大理石の透かし欄間を通して、タージ・マハルを遠望できる高見の部屋に、復元と見られる遺構がありました。

 

IMGN2724.jpg

城塞の最高層にあり、ジャムナ河に接して、東面する王の間の白大理石の透かし窓からは、ほぼ正面に、約1Km先の河岸に佇む、真珠のようなタージ・マハル霊廟が望まれます。この方位と距離の関係は、誠に絶妙で、朝な夕な、そして月の光に、時とともにその姿をとおし、亡き妃を偲ぶ想いに、この世のものとは思えぬ姿を、シャー・ジャハーン王は現世に実現してしまったのです。つねに遷ろう光の反映を求め、それ故に、廟のドームは純白の大理石でなければならなかったということです。ですから、タージ・マハルの本来の心根は、このアーグラ城の透かし窓から臨むことでした。王が日夜、白く輝く廟を見つめ、后を偲びながら過ごした城は、やがては幽閉の場になったとのことです。河を隔て、相対する場に、自らの黒大理石の廟を設ける王の願いは、遂に叶わなかったということです。(写真はアーグラ城から遠望したタージ・マハル)

 

今回のツアーは、早朝から夜分に渡る相当な強行軍で、街の土産物屋など全く立ち寄る暇なしでしたが、タージ・マハルとアーグラ城を参観の後、大理石モザイクや織物など数店が入る公営の工芸品店で最後のチャンスがありました。タージ・マハル廟やアーグラ城塞を飾る見事な大理石と色彩豊かな貴石の花模様をモチーフとした、美しいモザイクはフィレンツエの細工ともよく似ています。

 

土産物店を後にして、帰国の手荷物を積みホテルから回送してきたバスで、インディラー・ガーンディー空港へ急ぎましたが、首都空港へ向かう夕闇の道は大渋滞でした。果たして間に合うかと心配しましたが、見事インド流のホーンを鳴らしながら互譲の道路マナーで、見事1時間前にデリー空港に到着しました。出発便は1時間遅延で、おかげさまで、現代的に整備された空港売店での束の間のお土産漁りも出来ました。実のところは、我が団の為に東京からの手回しで、1時間出発を調整されたとの内輪話もあるようですが…。

 

 AI306便にて出発し、約7時間20分のフライトの後、成田空港に日本時間の午前8時に到着いたしました。

「医」(3)


 

IMGP0580.JPG

(2011年12月11日(日)午前11:16
茨城県稲敷郡阿見町イーグルポイントにてナンテンを撮影
「ナンテン」という語感は「難(ナン)を転(テン)じる」に通じることから
縁起木としても親しまれています。)

 

 

 

前回、前々回のブログ記事にて、「医」の字体・字源について触れ、「心」「巫」「仁」「愛」等々は、一見、医学・医療とはかけ離れた世界のものであると感じられていますが、実は医学・医療の基本原則であると述べました。

 

しかし今、日本の医者・看護師等が、医学・医療が「巫」「仁」に通ずべきことを理解しているか、いささか疑問に感じるところがあります。

 

例えば2011年10月25日、先進医療(厚生労働大臣が定める高度の医療技術を用いた療養その他の療養であって、保険給付の対象とすべきものであるか否かについて、適正な医療の効率的な提供を図る観点から評価を行うことが必要な療養)などの保険外診療を通常の保険診療と併用する「混合診療」を受けると、保険診療分を含め全額が患者負担になるのは違法として、がん患者の男性が保険適用の確認を求めた訴訟の上告審で、最高裁判所は「混合診療の禁止は適法」、と判断して患者側の上告を棄却しました(事件番号・平成22(行ツ)第19号 健康保険受給権確認請求事件)。

 

最高裁は「医療技術や新薬の開発の発展は目覚ましく、海外で有効性や安全性が確認された新薬や医療技術は患者が切望している」といった補足意見を付しましたが、必要な医療は保険診療が原則だという考えのもと、患者側の訴えを退けたのです。この報道に関連して、読売新聞(朝刊)10月26日付38面の記事には「混合診療の拡大に努めるとともに患者側に疑問を抱かせない制度の構築に向けて議論を深める必要がある」と論じていますが、これが世論の一方の大きな声でしょう。要するに、混合診療の禁止の適法性を国は大きな声では必ずしも述べてはいけないということです。医学・医療ほど難しい学問はなく、それゆえ、未熟な学問と評価せざるを得ないからです。

 

映画化もされた小説「ある愛の詩」で有名なエリック・シーガルが1988年に発表し、ニューヨーク・タイムズが選ぶベストセラーとなった『Doctors』(邦題「ドクターズ」広瀬順弘訳、角川書店 1991)には、1958年9月に、ハーバード医科大学院院長が、新入生に向けた歓迎の挨拶の中で述べた「この世に何千という疾病があります。ところが、そのうち医学が経験的に治療法を確立できたのは、わずかに二十六に過ぎない」(3頁~7頁)という記述があります。26とは、なんと少ないことでしょうか。確かに未熟でありながらも医学は進んでいますが、難しい病気に悩む患者らが、希望する医療を受ける道が閉ざされるのは、なんとも遺憾なことであります。行政、立法、司法は混合診療の拡大に努めるとともに、制度の改革を速やかに行うよう、議論を進めていかなければなりません。

 

私は11月4日から25日まで4回に亘って、丹羽クリニック丹羽正幸先生についてブログでご紹介いたしましたが、その中で、西洋医学と伝統医学や代替医療などが融合したものが「統合医療」であるとお話しいたしました。「統合医療」は「健康な身体そのもの」や、人の身体が保有している「自然治癒力」「自己治癒能力」の向上を目標としています。今までは西洋医学が中心で「病気そのもの」を重視し、医学・医療は医師や看護師等と患者とが共同しあう営みであることをないがしろにする傾向がありました。しかし、今後医学・医療は「巫」の世界に立ち戻り、「仁」を兼ね備え、「礼・信・義・智」を実践することが必要とされる中で、「統合医療」はますます注目され、そして最終的には「統合医療」が日本の、そして世界の医療の中心になっていくことを祈念しております。

 

産経新聞11月30日付記事で、世界に先駆け日本で実施している「がんペプチドワクチン療法」の臨床試験(治験)が最終段階を迎えており、その結果が来年3月に明らかになる予定で、承認されれば、がんペプチドワクチン療法として世界初となる可能性が高いと報道されました。

 

実は、この報道よりも1ヵ月も前に、ペプチドががんに有効であるというお話を丹羽正幸先生にお聞きし、実際に、私も健康の為に飲み始めています。そして、12月3日(土)に丹羽先生にお会いした際、11月30日付の報道についてお話ししたところ、丹羽先生は報道される以前より、ペプチドに着目し、実際、患者さんの治療に取り入れていて、驚くほど良い結果が出ているそうです。医事法に抵触するかもしれないといった問題があり、具体的に丹羽先生はその研究結果を発表されてはいませんが、丹羽先生のように、現実に治療にあたっている先生は、この世に存在する数々の難病に対して、どうしたら克服できるかということを日々真剣に考えていらっしゃいます。大がかりな実験装置、研究施設がなくても、自らの治療行為の中で、難病を克服できる治療の確立を目指しチャレンジ精神を豊富に抱いている、丹羽先生をはじめとした医者・治療家は多く存在します。そういった「仁」の心を兼ね備えた先生方による成果を、単に「科学的でない」「エビデンスがない」ということで、否定するのは、極めてお粗末ということに他ならないと思います。「医』というものは、非人間的な、あるいは非宇宙的な、非霊感的な感覚で携わってはいけないということです。それゆえに、統合医療は大いに真剣に検討する余地があると思います。

 

 

【「医は仁術なり」を実践する制度・システム】

私は今から14年前の1997年に、シンガポールのマウントエリザベス病院(Mount Elizabeth Hospital)という、東南アジアで最大といわれる病院を訪問しました。

 

マウントエリザベス病院は最新医療機器の設備が揃っており、それに加えて心臓手術数ではアジア最大といわれていました。まず病院のボードを見てびっくりしたのは、医師の名前が書いてあるだけではなく、各医師が独立して営業していることが明瞭だったことでした。幹部のお医者様にお話を伺ったのですが、当病院ではいわゆる受診者に希望医師を募る方法をとっており、毎年医師の入れ替えをしているというお話でした。内科の○○先生、外科の△△先生と、自分で指名して医者を選ぶオープンシステムになっており、『医師のランキング、人気投票』を行っているのです。例えば内科医師が15人いるとすれば、希望者が少ない最後の2人は毎年雇い止めし、新しく雇用するという方式です。これはまことに理にかなった、「医は仁術なり」を実践する方法でしょう。日本の病院に同様のシステムがないのは、医者の切磋琢磨を制度的に阻害していると思えてなりません。これは何も医師だけではなく、看護師にも言えることでしょう。そうすれば競争が猛烈になるという面もありますが、「医は仁術である」という世界を具現化できるでしょう。

 

また、看護師について厚生労働省は、高齢化に伴う医療需要拡大への対応として、2013年を目途に「特定看護師(仮称)」制度という、現在は原則として医師にしか認められていない診療行為を担う看護師制度を創設するそうです。そうなると看護師もいよいよ「仁」を旨として業務を行わなければならないということでしょう。特定看護師については、よもぎ倶楽部 西岡由記先生は次のようにお話しされています。

 

〈医療の中心にいるのは医師のように見えますが、実は医療の現場で最も重要な役割を果たしているのは看護師です。看護師のいない医療の現場とは、あたかも母親不在の家庭のようなもので、患者さんはその家庭の子どもにあたります。中国の古い医学書には、病人の寒暖の環境を調え、適当な衣服と動静を調整し、消化しやすい食物を与えることが重要だと書かれています。

もし不適格な医療行為が行われていたとしても、看護師が患者さんをしっかり支えていたら、治癒に至ることもあるのです。それが「祈り」と通じるものかもしれませんが、それが看護の全体なのであり、その「仁」の心を天性として生かすことのできる人が本来の看護師なのです。〉

 

看護師は、患者の生活の面倒をみるという側面がありますから、「医は仁術である」、すなわち治癒へ貢献することは言うまでもないのです。それには看護師は仁術に徹するということが必要です。これは、一面倫理感を欠きがちといわれている医師への警告として受け取らなければならないわけです。すなわち、特定看護師に一定の医療行為を認めるというのは、正鵠を得た仁術の精神に基づいてのことだと理解しなくてはならないのです。

 

私自身様々な病気にかかり、医学・医療と向かいあってきた経緯からして、「医学・医療のありかた」というのは、大切なテーマであります。しかし、「混合診療の禁止は適法」との最高裁判所の判断や、現行の医事法をはじめとする「医」についての法律・制度の問題点などについては、専門外である私が語るには勉強不足の部分が多くあります。今後勉強をかさね、専門家に取材等をさせていただき、また再度改めて「未来の医学・医療のありかた」といったテーマで書きたいと思っています。

 

以前、高井先生から「リーダーシップ」について
教わったことがあります。
「リーダーシップ」について説かれた本は、
数多く、その書物の数だけ定義もあります。
しかしながら、私にとっては、
「リーダーシップは
背中で見せる(語る)」
といわれた(高井先生の)言葉が一番しっくり
くるようです。
いくら格好いいことを言っていても、
行動が伴っていなければ、見透かされます。
「誰がどう見ても、彼は(彼女は)文句なしに
やっている。成果を出している」
という評価を得て、初めてそこからリーダーシップが
生まれてくる。
このことは、文字通り、年中無休、盆・正月関係なく、
朝早くから夜遅くまで前進されている、そしてその分だけ
着実に実績・成果を積み上げられている高井先生の姿から
納得させられるのです。
(だから高井先生から至らぬ点を指摘されても
何も言い返すことができません。
そして高みを目指して、もっと成長しなければ、
と思わされます)
これこそ「リーダーシップのあるべき姿」といえるのでは
ないかと思われるのです。
そう考えると、周囲の人に良い影響をもたらし、
能動的、自律的、積極的に動いてもらうためには、
口先、小手先、手練手管ではなく、
全身全霊、事にあたっている(そして結果を出している)
姿を見せ続ける必要があるでしょう。
さらにいうと、ここでポイントとなるのは、
その姿を「周囲に見せる」ことではなく、
「周囲に見せ続ける」ことではないかと思います。
「全身全霊」「成果を出す」を「継続」して
いかなければリーダーシップは生まれない、
そんな風に思われるのです。
リーダーシップが発揮できない、と悩んでいる
経営者や管理職に就いている人があるとするならば、
「自分がいま、取り組んでいることに
全精力を傾けているかどうか」
「それを誰にも文句を言わせないくらいの
レベルで継続しているか」
「周囲からの期待をはるかに上回る
圧倒的なレベルで実績を上げているか」
自問自答しなければならないようです。
どこかで聞いてきたようなノウハウを使って
口先、小手先で、リーダーシップ(もどき)を
発揮しようとしてみても
「合わせてはくれる」
かもしれませんが、
「合わせてくれている」
に過ぎません。
どこかで逃げることを止め、
「楽をしようとするのではなく、
最も高い基準を設けて戦うのがリーダー」
と断固たる決意、覚悟を決める必要が
あるのでしょう。
私(鮒谷)もかくありたいと思います。

以前、高井先生から「リーダーシップ」について

教わったことがあります。

 

「リーダーシップ」について説かれた本は、

数多く、その書物の数だけ定義もあります。

 

しかしながら、私にとっては、

 

「リーダーシップは

背中で見せる(語る)」

 

といわれた(高井先生の)言葉が一番しっくり

くるようです。

 

 

いくら格好いいことを言っていても、

行動が伴っていなければ、見透かされます。

 

「誰がどう見ても、彼は(彼女は)文句なしに

やっている。成果を出している」

 

という評価を得て、初めてそこからリーダーシップが

生まれてくる。

 

このことは、文字通り、年中無休、盆・正月関係なく、

朝早くから夜遅くまで前進されている、そしてその分だけ

着実に実績・成果を積み上げられている高井先生の姿から

納得させられるのです。

 

(だから高井先生から至らぬ点を指摘されても

何も言い返すことができません。

 

そして高みを目指して、もっと成長しなければ、

と思わされます)

 

 

これこそ「リーダーシップのあるべき姿」といえるのでは

ないかと思われるのです。

 

そう考えると、周囲の人に良い影響をもたらし、

能動的、自律的、積極的に動いてもらうためには、

口先、小手先、手練手管ではなく、

全身全霊、事にあたっている(そして結果を出している)

姿を見せ続ける必要があるでしょう。

 

さらにいうと、ここでポイントとなるのは、

その姿を「周囲に見せる」ことではなく、

「周囲に見せ続ける」ことではないかと思います。

 

 

「全身全霊」「成果を出す」を「継続」して

いかなければリーダーシップは生まれない、

そんな風に思われるのです。

 

リーダーシップが発揮できない、と悩んでいる

経営者や管理職に就いている人があるとするならば、

 

 

「自分がいま、取り組んでいることに

全精力を傾けているかどうか」

 

「それを誰にも文句を言わせないくらいの

レベルで継続しているか」

 

「周囲からの期待をはるかに上回る

圧倒的なレベルで実績を上げているか」

 

 

自問自答しなければならないようです。

 

どこかで聞いてきたようなノウハウを使って

口先、小手先で、リーダーシップ(もどき)を

発揮しようとしてみても

 

「合わせてはくれる」

 

かもしれませんが、

 

「合わせてくれている」

 

に過ぎません。

 

 

どこかで逃げることを止め、

 

「楽をしようとするのではなく、

最も高い基準を設けて戦うのがリーダー」

 

と断固たる決意、覚悟を決める必要が

あるのでしょう。

 

私(鮒谷)もかくありたいと思います。

 

 

「医」(2)


 

IMGP0544.JPG

(2011年12月4日(日)朝6:54 東京都港区芝公園にて椿を撮影
椿の花ことば「気取らない優美さ」)

 

さて、前回12月1日付記事では、「医」の古い字体に「巫(ふ)」という字が入っていたことについてお話しいたしましたが、今回は、「医」の字源から私が思ったことを述べたいと思います。

 

 

【「仁」】

現代でも「巫」の心を有する人、すなわち「いのち」は大宇宙に存在するサムシンググレートの力により与えられるものであると直感的・霊的に感じられる人は、「天・地・人」の働きを網羅し、「人・自然界・宇宙」の全てに通ずるまさに輝ける人であると思われます。つまり、「巫」とは、慈愛の持ち主をも指しているのでしょう。そしてそれは「仁」に通ずることになるのでしょう。

 

「仁」を備えた人物とは、「真・善・美」を追求する姿勢と、「夢・愛・誠」を旨として取り組み、またそれだけではなく、「道義、道理、道徳」を負うという態度を持って志を立てる人、即ち良心そのものの人物であると思います。

 

「仁」とは、広辞苑によると、「愛情を他に及ぼすこと。慈しみ。思いやり。」という意味もあり、「慈しみの心」をも意味します。また、「医は仁術」という言葉があります。「医は仁術」とは、広辞苑では、「医は、人命を救う博愛の道である」と説明されており、唐の時代の紀元後800年頃に、唐の宰相を務めた陸宣公が述べた言葉「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。」が語源となっているそうです。

 

「医は以て人を活かす心なり」という言葉は、10月28日付ブログ記事にて齋藤博保先生の言葉として「鍛錬のみの手の技術は相手を心底から得心させることは出来ず、ただの組上げ作業でしかなくなってしまいます。手に『気』を入れ『心気』のこもった手技による患者さんへの治療反応ははっきり表われます。」とあるところと通ずるものです。要するに「人を活かすということは仁術である」という本然があるということなのです。人を活かすということが医学・医療の本質であることに気付かなければならないし、それは実は身体、肉体だけでなくて、「心」に及ぶ医療・医学でなければならないということを物語っているのでしょう。

 

 

【「医は仁術」】

 

日本での「医は仁術」という言葉は紀元後982年、丹羽康頼によってまとめられた日本最古の医書「医心方」にあります。

 

「大医の病いを治するや、必ずまさに神を安んじ志しを定め、欲することなく、求むることなく、先に大慈惻隠の心を發し、含霊の疾を普救せんことを誓願すべし」

 

「大慈」とは、仏教典に由来し、「仏・菩薩が衆生を慈しみ、苦しみを救う、その広大な慈悲」という意味です。「惻隠」とは、孟子(約紀元前372年~紀元前289年)とその弟子たちの言行録である『孟子』の「公孫丑章句(こうそんちゅうしょうく)」上巻の儒教倫理に由来します。「惻隠の心」とは、人の不幸や、人の危険に対して、いたましく思う心のことで、孟子は、「惻隠の心は仁の端なり」としています。


このように、日本ではこうした仏教と儒教の思想によって「医は仁術」と説かれてきたのだそうです。

 

【参考】http://takezawa.iza.ne.jp/blog/entry/1138693/

 

そして、この「医は仁術」は、江戸時代に「仁術論」としてさかんに論じられるようになったそうです。これは大方の医師の倫理的衰退が、一つの原因であったと考えられているのだそうです。私が治療を受けているよもぎ倶楽部(鍼灸治療を中心とするヒーリングスポット)の西岡由記先生は、岩手、宮城、福島、栃木の4県で、本年の臨床研修医の研修先がいずれも減少したことなどからも「現代もまさに医師の倫理的衰退の時代である」と評釈されています。

 

よもぎ倶楽部 http://www.k4.dion.ne.jp/~yomoclub/index.html


現在においても盛んに仁術が唱えられていなければならないのですが、まさに「医」という字の意味をしっかり理解して志さなければならないのでしょう。すなわち大方の医師は「金権医師」と社会に認識されているからです。本来、政治も医療も「民」の味方でなければなりません。しかし、政治家は「対症政治」を行い、医療家も保身の為に「対症療法」を行い、この行き詰まりが、過剰な医療設備投資の為の検査漬け、薬漬けであり、「金権医師」の末路ではないでしょうか。明治の開国後の西洋医学の渡来期に、野口英世(1876年~1928年)等医学研究者に「志」があった時代を思い出し、現代の医師の目覚めを期待するところであります。

 

さて、「医は仁術」について言えば、『孟子』の中の「梁恵王章句(りょうけいおうしょうく)」上巻七(その一)に、医に関するお話ではありませんが、真に納得感のあるお話があります。

 

この話はどういう話であるかというと、概略は以下のようです。

 

鐘を作った中国の人が牛を引いていました。王様はそれを見て、その理由を尋ねました。牛を引いていた人は、「鐘を完全にするために、牛の血をもって塗って隙間をふせぐのです」と答えました。それを聞いた王様は「羊の血をもってあてがいなさい」と指示しました。ところが鐘を作った人はこれに納得せず色々反論を加えました。つまり、「牛を犠牲にすることに代えて、羊を犠牲にするだけではないか」ということでした。

 

反論の趣旨はある意味では正当ですが、しかし王様の指示ももっともなことでした。まさに今、屠殺されようとする牛を目の前にみて、憐憫の情を持ってしまい、目の前にいない「羊の血をもって隙間を埋めなさい」と指示したということは、実は私にも納得感のあるお話でした。

 

私は弁護士として交渉事を請け負っております。悪い話はなるべく早く関係者にして、他人からその話が関係者の耳に届く前にするというのが交渉を上手にする手だてです。要するに、先に生の情報を知らせた者に、一定の同情あるいは憐憫の情をもって、その次の情報を検討・検証するのが人間の常だからです。それと同じことだと私は感じました。王様の指示も同様の意味であると納得したのでした。

 

このお話は要するに、そのものに直面したとき、そのものに憐憫の情を浮かべるのは人間として自然なことであって、見えないものに対してとかく憐憫の情が湧かないということはごく自然なことだからです。西岡由記先生は「『仁術』とは不幸な存在に対する『忍びない』という人間の本能に基づく哀しい心のようです」と註釈されています。もっともなことです。

 

貝原益軒先生(かいばらえきけん1630年~1714年)も、『養生訓』の中で「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以、志とすべし。わが身の利養を専に志すべからず。天地のうみそだて給へる人をすくひたすけ、万民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命と云、きはめて大事の職分なり」と述べています。貝原先生もまた、「仁」という慈しみの心と愛を持って医学・医療は行うべきだと述べています。

 

「医」を行う者(医者、看護師、治療家等)、その制度を作るもの(立法)、実践する者(行政)、判断する者(司法)は、「巫」の世界のもと「仁」を兼ね備え、「礼・信・義・智」を実践できなければならないのです。「医」を生業とする医者、看護師等は、「医」の基礎にある「巫」の世界から離れた医学に基づいた医療を施してはならないと思います。なぜなら、医学や医療は、さまざまな条件を背負った、いわば極めて個性的な病気で悩む患者に向けて施され、一つの医療は一人の患者のためになされるもので、医師や看護師等と患者とが共同しあう営みであるからです。パラケルスス(1493年~1541年。ルネサンス初期のスイスの医師)は「医学のもっとも基本的な原則は愛である」と述べたそうですが、まさに我が国では「仁」であると述べたことに通ずると思います。「愛」という字は人の心を受けるという字です。「心」「巫」「仁」「愛」等々は、一見、医学・医療とはかけ離れた世界のものであると感じられますが、これらは実は医学・医療の基本原則であるから、医学・医療はこれらを無視してはどだい成り立たないのです。

 

次回は、今の日本の「医」の問題点などについて述べたいと思います。

 

【歴訪記】その8 下村湖人先生の生家


先週11月30日(水)夕方5時近く、佐賀県神埼市千代田町崎村にある下村湖人先生(1884年~1955年)の生家を訪問いたしました。この生家は、2006年に神崎市重要文化財に指定され、2009年度には佐賀県遺産に認定されています。ご同行者は、佐藤学園西武文理大学創立者 理事長 学長 佐藤英樹先生でした。また、佐賀にお住まいの橋口電機株式会社常務取締役 橋口佳代子様がご案内してくださいました。3人とも興奮して、1時間程、閉館時間を遅らせて下さった館長である北川信幸先生のご説明を聞きながら、夕闇迫る中で、湖人先生(先生は内田夕闇<うちだゆうあん>という筆名で歌人としても活動されました。)はとても私は足下に及ぶことのできない大人物であったと改めて思い返しました。湖人先生は教育者であり、そして真の意味での思想家であり、ほんとうの学者でした。

 

・ 佐藤学園西武文理大学HP  http://www.bunri-c.ac.jp/

 

 

佐藤英樹先生.JPG 

 

(下村湖人先生生家前で撮影
佐藤学園西武文理大学 創立者 理事長 学長 佐藤英樹様)

 

 

 

屋内風景-2.JPG 

 

(生家の内覧)

 

私が、小学校6年生、12歳だった1949年(昭和24年)に、父からいただいたであろう湖人先生が書かれた『次郎物語』の第一巻を読み、それ以降『次郎物語』は私にとって愛読書となりました。爾来62年間、湖人先生の生家を訪れたいと願っており(1949年当時には、湖人先生はご存命でしたが、私はもう亡くなっていたと思っておりました)、ついにその夢がかない、感無量でした。

 

湖人先生については、語るべき事があまりにも多くて、とても今回のブログだけでは語りきれません。ですから、一つだけピックアップしてご紹介するとすれば、「道義、道理、道徳」の話を挙げたいと思います。

 

「道義、道理、道徳」とは、「義の上に道があり、理の上に道があり、徳の上に道がある。」という意味です。つまり、「大いなる道」「大いなるもの」の理想を求め、「人の歩き続ける道を究める」という世界が、『次郎物語』の主人公の姿勢でした。湖人先生のご子息である下村覚様が、東京都小金井市立「文化財センター」開所式で述べられたご挨拶文が、2階の一隅に飾ってあり、改めてこの言葉を拝見しました。(「文化財センター」は元々、1931年<昭和6年>に建てられた「浴恩館」という名の建物で、全国の青年団指導者養成のための青年団講習所でした。1933年<昭和8年>から1937年<昭和12年>までは、湖人先生が所長を勤めていました。「次郎物語」の第5部に登場する「友愛塾」のモデルとなったそうです。)

 

「親父が『道義』と『道理』と『道徳』という三つの単語を書きまして、『覚、これ何と読むんだ』と言いましたので、棒読みに、『道義であり、道理であり、、道徳である』と読みましたら、親父が『そう読むんではないんだ、これは我々日本人の祖先が未来永劫の教訓を与えたもので、『義の上に道あり、理の上に道あり、徳の上に道がある』ということを教えた日本古来の本当の文化の根源のこの三文字を祖先から与えられたんだ。これをようく見つめて、これからの人生を歩め』と教えられました。

<下村覚様のご挨拶文より抜粋>

 

『次郎物語』は、湖人先生の自伝的色彩が濃い作品で、湖人先生の上記の「道義、道理、道徳」の理想を求めて成長していく次郎に対して、私は小学6年生の頃から憧れ続けました。『次郎物語』は、自分の人生の一端を規律してくれた書籍ですから、湖人先生には感謝の念を抱いています。

 

宮本武蔵も、道を究める人であったでしょう。吉川英治先生(1892年~1962年)の、『宮本武蔵』にも私は少年時代から憧れつづけましたが、その本には「魚歌水心」という言葉があります。これは、最終章のタイトルになっていて、最後に「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」という文章で、物語は幕を閉じます(吉川英治歴史時代文庫21『宮本武蔵(八)』、講談社、1990、369頁)。私は結婚して間もなく、妻の孝子の故郷である広島県福山にて、現在、財団法人毎日書道会総務、毎日書道展審査会員、奎星会副会長等を務められている書道家、大楽華雪先生にその「魚歌水心」を書いていただいたという思い出があります。

 

また、徳冨蘆花先生(1868年~1927年)の『思出の記』という名著も、少年時代の私を規律した書籍です。『蘆花』という言葉は、蘆(あし)の花という意味であるそうです。ところで、下村湖人先生の生家の一隅には、「白鳥入蘆花」という碑が建っていました。これは、『碧巌録』(特に臨済宗において尊重される中国の仏教書で、宋時代<1125年>の圜悟克勤<えんごこくごん。1063年~1135年>の編。)の第十三則にある言葉「白馬入蘆花(白馬、蘆花に入る)」によるものです。しかし、湖人先生は「馬」より「鳥」の方が詩的であり、また湖人先生が幼いころにこの地にみられた白鷺と蘆の花の印象が鮮やかであったので、白鷺を白鳥と例えて、「白鳥入蘆花」へとアレンジを加えてこの言葉を愛用したといわれています。「白い蘆花が、辺り一面に咲いており、その中に白鳥が舞い込む。白鳥は姿を没するが、その羽ばたきで起こる花の波は無限に広がる」といった意味の言葉です。「善行とは目立つものではない」という意味で、湖人先生が生涯頻繁に口にされていたそうです。善行の在り方についての至言であり、とても素敵な言葉であると思いました。

 

さて、湖人先生は1925(大正14)年から1931(昭和6)年まで、台湾に居住されており、1926年に台北帝国大学の傘下にあった、当時台湾島内唯一の高等学校である台北高等学校の校長を務めるなど、台湾でも活躍されました。私は来年3月29日から4月1日まで、再び台湾を訪れる予定ですので、その折には湖人先生ゆかりの土地を訪ねたいと思っております。(前回10月26日~29日の台湾歴訪につきましては、11月22日付「歴訪記その7」をご覧ください。)

 

また、湖人先生は、歌人としても、素晴らしい業績を残されました。歌人としては、先にも述べた通り、内田夕闇という筆名で活動していました。湖人先生は1902年(明治35年)、18歳の時に、中央の雑誌に詩歌を投稿し始めました。おそらく、遠く佐賀から投稿されたのでしょう。例えば、新声社(現在の新潮社)発行の月刊誌「新声」1901(明治34)年1月号には『海べの朝』を、5月号には『哀傷』、7月号には『鐘楼』という詩が掲載されました。また、与謝野鉄幹が主宰していた1900(明治33)年4月から1908(明治41)年11月まで刊行された、詩歌を中心とする月刊文芸誌「明星」の1906(明治39)年2月号には、湖人先生の『孤独』という詩が載りました。その時の『明星』には、石川啄木と与謝野鉄幹の詩も掲載されていたのだそうです。湖人先生は、信じがたい程才能があり、まさに天才肌の人であったのだろうと思います。

 

さて、今回の記事では、下村湖人先生、吉川英治先生、徳冨蘆花先生についてご紹介しました。3先生に共通していることは、肥州(肥前国・肥後国)にご関係があるということが、まず一つ挙げられます。今回訪れた湖人先生のご生家は、佐賀県神埼市、つまり廃藩置県前でいう肥前国に位置しています。吉川英治先生の代表作『宮本武蔵』の宮本武蔵は、肥後国の千葉城(現在の熊本県熊本市)で他界しています。そして、徳富蘆花先生は、熊本県水俣市つまり肥後国のご出身です。

 

次に、3先生に共通していることとして、もう一つ挙げられることは、昭和の初年に活躍した人、すなわち明治に生まれた人であるということです。私は、この3先生のように、昭和の初年に活躍した人、すなわち明治に生まれた人は、私たちの世界とは別人のごとき大きな事業に挑まれ、足跡を残された方が多いと思います。今の青年諸君が、海外に赴かないという嘆かわしい状況を見るにつけ、まさに「ネズミの時間」になった日本人を、ひしひしと感じました。みなさんが、改めて「象の時間」を目指されることを期待してやみませんが、果たしてこれが可能でしょうか。「ネズミの時間」に生きている人は小さいことしか考えません。海外雄飛という言葉がまさに躍った明治、大正、昭和初年の日本人の心を想う時、現代の青年、さらには中年の日本人の心の萎縮した現状の有り様を、私は嘆いています。

 

ところで、『次郎物語』の映画化は、既に4回にわたって行われ、テレビドラマも2回放映されています。すなわち、国民的文学の代表であるということでしょう。

 

【映画】

1.  1941(昭和16)年12月11日 日活より公開
次郎:杉幸彦(幼年時代)、杉裕之(少年時代)
お浜:杉村春子

2.  1955(昭和30)年10月25日 新東宝より公開
次郎:大沢幸浩(幼年時代)市毛勝之(少年時代)
お浜:望月優子

3.  1960(昭和34)年 松竹より公開…3月4日公開の「次郎物語」と5月13日公開の「続次郎物語 若き日の怒り」の二部作。
次郎:中森康博(第1作)→山本豊三(第2作)

お浜:桜むつ子(第1・2作)

4.  1987(昭和62)年7月4日 東宝より公開
次郎:樋口剛嗣(6歳時)→伊勢将人(10歳時)

お浜:泉ピン子

 

【テレビドラマ】

  1. 1956(昭和31)年5月8日から8月28日まで 日本テレビ
    早川雪洲、宇野重吉等が出演
  2. 1964(昭和39)年4月7日から1966年(昭和41年)3月29日まで NHKにて
    池田秀一、加藤道子等が出演

 

『次郎物語』の次なるブームはいつくるのでしょうか。第5回目の映画化、次のテレビドラマ化はいつでしょうか。それは、青少年の覚醒が必要不可欠になるほど日本が追い込まれた時に、実現するのだと思います。

 

 

【橋口 佳代子様よりコメント】

 

11月30日は、佐賀の町がお天気に恵まれたとても気持ちの良い日でした。同郷の大先輩に誇るべき偉人がいたことをあらためて学び・感じるよい機会でした。

県道沿いにある素朴な二階建ての古い生家は、他の偉人のそれに比べると質素であり、 ガイドブックやインターネット情報では見過ごされる見栄えです。でも、屋内に一歩足を踏み入れ、北川館長さんの話をお聞きをしたら、とても清らかで懐かしい心持ちがし、帰り際には去りがたい気持ちでいっぱいになりました。

その理由をあげるときりがないのですが、高井先生が帰りの道中、「私がなぜ『次郎物語』に魅かれたのかがようやく分かった」という言葉に、理由のすべてが凝縮されています。

 

「医」(1)


 

IMGP0538.JPG 

 

(2011年11月28日(月)朝6:53 東京都港区芝公園にてカラーを撮影
花言葉『素敵な美しさ』)

 

【「医」の字源】

 

今回から3回にわたって、「医」という漢字の字源、主に「医」の古い字体にあった「巫」について、医学・医療が神の力と関連があることに大変興味をもち、私なりに思い・感じ・考えたことを述べていきたいと思います。

 

「医」の古い字体は「醫」と書くそうです。右上にある「殳」は矛(ほこ)を意味し、これは、古代中国においては、外科術は矛、槍のようなものを使って行われていたことに由来するそうです。下の部分にある「酉」は、瓶のような形をしていることから、薬を入れる瓶や酒つぼを意味していて、昔は、医術にお酒の力も加えられていたということを意味しています。

 

また、現在使われている左上の「医」という字は、「医」は「匚」と「矢」が組み合わさってできたものだそうです。『説文解字』(最古の部首別漢字字典で、後漢時代紀元100年に成立。)によると「『医』は弓弩(きゅうど。弓の総称。)の矢を盛る器なり」とあります。また、「匚」は「隠す」という意味があり、つまり「医」とは「矢をしまいこむ箱」という意味だそうです。古来より、「矢」には厄や悪霊を祓う神聖な力があるとされ、現代でも、正月に寺院・神社で、魔よけ、厄払いのお守りとして授与される矢(「破魔矢(はまや)」と呼ばれます)などが名残としてあります。「神聖」とは清らかで尊いことを意味し、悪(邪悪)、または俗(世俗)の対義語です。このように、「矢」には厄や悪霊を祓う、世俗から離れた世界による力があるとされてきました。

 

さて、「学研漢和大辞典(藤堂明保編、学習研究社)」よると、「醫」の異体字として上記の字があります。よく見てみると、「巫」(ふ)という字が入っています。「医者はもと、巫女と同じ仕事だったので、『醫』は巫を加えて『毉』とも書く。」(同)ということだそうです。そして、「毉」の「殹」の部分は「えい」と読み、これは巫女が「エイ!」と叫んで、邪気を吹き飛ばすという祈祷をしていたということを意味しているのだそうです。

 

「巫」(シャーマン、シャーマニズム)とは、超自然的存在と交信する人、それにより成立する宗教を指します。「巫」の漢字には、二人の「人」が表示されていますが、それは「複数の人が工を施す」ことから生まれたのでしょう。すなわち、複数の人が、身振り手振りをもって、全身全霊で祈り、神に信じられないぐらいの高度な技(工)を発揮させてほしいという願いが込められているのでしょう。「医」の古い字体に「巫」という字が入っているということは、もともと医学・医療は、神の「神癒(しんゆ)」によるものであると考えられていたということではないでしょうか。また、「医」に「巫」の概念があったことは、漢字が発祥した中国だけでなく、古代バビロニア、いわゆるメソポタニア(現在のイラク南部)を占める地域でも同じような現象がありました。つまり、何も中国だけでなく、世界各国でみられた現象だということです。これを「巫の医学」と呼ぶそうです。

 

このように、「医」という字を成り立ちからひも解いてみると、人間が病にかかったとき、医学、そして医療という行為による効果や、病が治癒するということは、人の手によってだけではなく、目に見えないものの何らかの力によるものであると考えられていたことがわかります。わたしたち人間の意識をはるかに超越したサムシンググレート、神の力を借りることによって、初めて完成するものであるという考え方であると思います。

 

私たちの生きるこの世界は、途方もないほどに神秘につつまれていると思います。現在においても、科学の進歩は目覚ましいとはいえ、私たち人間がこの世界について知っていることは非常に限られていると思います。ましてや、「『いのち』はどこからきてどこへいくのか」という基本的な謎さえ、解明されていません。人の「いのち」を扱う「医」という字に、「巫」や「神聖な力」といった意味が込められているのは、医学・医療は、「いのち」について机上で科学的に考えても解決することができず、「いのち」とはサムシンググレートの力によるものであると、人間が直感的に、霊感的に感受していることの表れではないでしょうか。そして、現代でもなお、「医」の根本は「目に見えないもの」として観念せざるをえず、その文字が生きつづけているのでしょう。

 

 


【真の「健康」とはなにか】

さて、西洋医学は、人間の「知性」をフル活用して、人の病気を治すために輝かしい成果を挙げてきました。しかし、「知性」のみを活用して進歩する西洋医学の方向性には、そもそも限界があるのではないでしょうか。「巫」すなわち「霊性」(敢えて言えば「霊性」とは「人間は宇宙の中に存在する、即ち宇宙の一部分である」ということ)を再認識し、再度西洋医学にも活用することが、「知性」のみをもってした西洋医学の限界を打破することに繋がると思います。人間が、知性に加えて霊的にも進化を遂げれば、より多くの病気の治癒を可能にすることができるでしょう。

 

「霊性」「霊的」については、1990年に、WHO(世界保健機関)執行理事会で討議された「健康の定義」の改正案として、従来の「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的にも満たされた状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」という定義から、「霊的(spiritual)」を加えた「Health is dynamic state of complete physical, mental, spiritual, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」へと定義を改める検討が行われたそうですが、現在は議長預かりとなっているそうです。


そこで、「霊的な健康」とは何かと考えてみると、「身体的」「心理的」「社会的因子」を包含して、そもそも人間の「生きること」に対する(生きることへの本質が判然としないが故に[※私見によれば宇宙に漂う存在であるにすぎない自分への自覚がないことを言うのでしょう。])苦悩、苦痛、苛立ち、怒り、そして不安のない状態であると思います。単純なメンタルヘルスとは思考活動の健全性をいい、spiritual healthとは心の健全性をいうとも解釈できます。そのspiritualな世界は、人間が宇宙に漂う存在に過ぎないと自覚することに始まるです。

 

「自分は何のために生きているのか」「なぜ自分がこんなに苦しむのか」と苦悩、苦痛、苛立ち、怒り、そして不安に感じることは、精神的なものであると同時に霊的なものでもあります。特に人生の終末に近づいた人にとっては、自らを許すこと、他の人々と「気が合うこと」等々と関連しているでしょう。私は9月9日に長女をがんで亡くしてしまいましたが、亡くなる前日の9月8日午後9時に、私は入院先で長女に「ありがとう。」と話しかけました。そのとき、長女がそれを理解して「ありがとう。」と返事をしてくれました。長女と私が霊的な健康を取り戻した瞬間でもあると思います。私の魂は、長女が宇宙へ旅立つ直前に、長女の魂によって癒され、慰めで満ち足りた気がいたしました。これは、お互いの魂が霊的な結合を取り戻した瞬間であると思いました。

 

また、愛する人を亡くした後、ふと近くに居るように感じることがあり、見守ってくれているよう感じることがありますが、これは、亡くなった人が戻っていった大宇宙との一体感を共に感じていることであると思います。霊的な健康とは、人間が「生きること」において不可欠なもの、人間の全体性に深く関わっているもの、自分と宇宙とのつながりをイメージできるようなものではないでしょうか。

 

私は9月22日付記事「祈りと気」において、「手術の名手も手術の直前に手を合わせて祈る」ということを述べた上で、「『祈り』という行為とは、純粋な人間的な行為である」と述べました。これはすなわち、人間の霊性に基づく「祈ること」という行為が、「生きることを求めること」そのものだと思うからです。

 

人間には4つのファクターがあり、身体的(フィジカル)、感情的(エモーショナル)、知性的(インテレクチュアル)、霊性(スピリチュアル)のそれぞれのファクターが調和することで、「自己免疫力」「自己治癒力」を発動させ、病気を治癒することができるという説があります(「ソマチッドと717Xの真実」ガストン・ネサーン寄稿、稲田芳弘著、ECOクリエイティブ、31頁)。目に見える科学に基盤を置いている西洋医学では、「霊性」のファクターを重視することなく治療が施されていきます。これは、「医」が「巫」という世界から離れてしまった例であると思います。私たちの「いのち」が与えられた元は宇宙である、との意識を欠いては「自己免疫力」「自己治癒力」を十分発動させることができないでしょう。

 

「医」の古い字体を見れば、「巫」という文字があります。この意味を再説すれば、「巫」の字には、二人の「人」が表示されていますが、これは、複数の人が、身振り手振りをもって、全身全霊で祈り、神に信じられないぐらいの高度な技(工)を発揮させてほしいという願いが込められているのでしょう。「医」という字の古い字体を改めて凝視し、尚、この意味を十分悟らなければならないほど、医学が今でも未熟な学問であることを改めて痛感した次第でございます。

 

 

【宇宙人に近づくか?】

さて、人間が、知性に加えて霊的にも進化を遂げれば、より多くの病気の治癒を可能にすることができると、先に述べましたが、齋藤博保先生は、人間の今後の進化について、次のように述べられています。

 

「地球上の生物が、サムシンググレートによって生かされるなか、私は現代社会においても『人間の心の支配』は『神の力に及ばない』ということを感じています。

真の『健康』とはなにかと考えた時、宇宙空間の宇宙の法則に従うことが『霊的な健康』を得ることであり、安らかなる適応力を得ることだと思います。たとえ『霊的な健康』から疎遠気味であっても、血は延々と受け継がれ、霊的結合が疎通され、心と心を結ぶことになるのではないでしょうか。

最近、私はこんなことを妄想します。『人類は、動物であったが人間となり、やがて、宇宙人となる。』

つまり、人間が他の生物と共栄、共存していた時代(動物の時代)から、現在は、人間だけの我欲の時代となりました。人間は、機械化あるいはロボット化に次第に頼るようになり、手足等を動かす脊髄神経が、次第に機能低下して退化していきます。そうすると、人間は脳ばかり発達し、つまり小生が子どもの頃漫画でみた、頭が大きく手足の細い火星人のような姿になるのではないでしょうか。」

 

人間社会のロボット化が進めば、それこそ「目配せ」だけでロボットが何でもしてくれるようになります。それに人間の『脳』が慣れていき、四肢を動かさなくても「目配せ」だけで活動できるようになり、それゆえ次第に四肢は細くなり、脳ばかりが発達する時代が来ます。この齋藤先生のお考えに触れて、古川聡宇宙飛行士が、2011年6月8日 から11月22日まで、宇宙に連続167日滞在した後地球に帰還した際、「気分は最高だが、体はまるで軟体動物のよう。立っていられない、歩けない。」と述べられたことを思い出しました。これは、わずかな力で脚を挙げることができた無重力環境に『脳』が慣れてしまったことが原因だそうです。ロボット化が進むことで、宇宙という無重力空間にいることと同じ現象を招く時代、人間が宇宙人に近づく時代が来るのだと思います。それが、千年後か、一万年後かは分かりませんが・・・。

 

石原慎太郎東京都知事は、オリンピックを東京でもう一度開催したいと招致に前向きな姿勢を示しています。これは色々と批判があるところではありますが、私は、オリンピックは、人間の身体的能力、心理的能力、あるいは動物性というものを確認し、再度チャレンジするために意味があることであると思います。オリンピックでは、人間の身体的、心理的能力の限界を極める各種のスポーツがありますが、世界新記録が出なくなった時、人間の身体的能力は限界に達し、さらに機能低下が始まるということを意味していると思います。つまり、人間が動物性から離れて、宇宙人へと近づく世界に突入する時代、ということであると思います。

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