【歴訪記その9】インド


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 (ウメイド・バワン・パレス・ホテルにて撮影)

 

私は、弊所の特別企画「21世紀の国 インド 社会・経済視察団」の団長として、11月19日(土)から11月27日(日)まで7泊8日で、インドへ赴きました。視察団にご参加していただいたのは、下記の皆さまです。

 

信州レジャー興業株式会社 代表取締役 新井 泰憲様

株式会社日本フランチャイズ総合研究所 代表取締役社長 内川 昭比古様

株式会社ユービー 代表取締役 内舘 健彦様

シナノア株式会社 専務取締役 釜谷 俊朗様

株式会社長野自動車センター 取締役会長 毛涯 宏一様

株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様、青木 明美様

JNC株式会社 取締役 最高顧問 後藤 舜吉様

株式会社ビジネスセンター 代表取締役 佐藤 啓策様、佐藤 弘子様

マナック株式会社 取締役社長 杉之原 祥二様

SECエレベーター株式会社 代表取締役 鈴木 孝夫様

デロイトトーマツコンサルティング株式会社 パートナー 土田 昭夫様

弊所顧問 知久 信義様

弊所客員弁護士 千種 秀夫様、千種 友子様

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰様

中央精工株式会社 取締役 相談役 中村 光次様

会社力研究所 代表 長谷川 和廣様

有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷 周史様

株式会社ワールドプランニングオフィス 代表取締役 椎葉 卓光様

 

今回の歴訪記は,前回の台湾歴訪記(11月22日付記事)に引き続き,中村 光次様に下記の通り御作成いただきました。中村様,どうもありがとうございました。

 

 

(1)11月19日(土)

2011年11月19日(土)小雨降る成田空港を午前11時30分発のAI(エア・インディア)307便による10時間のフライトで、日本との時差が3時間30分あるインドの首都デリーにあるインディラー・ガーンディー国際空港に、夕闇せまる現地時間の18時に到着しました。ちなみにデリーは「ニューデリー」と「オールドデリー」に分けられており、ニューデリーに連邦の首都機能があります。イギリスの設計と建設による新都市部分がニューデリー、古くからある町をオールドデリーと呼ばれているようです。ちなみに日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっているようですが、インド政府公式サイトや日本の外務省のサイトでは「ニューデリー」と表記されています。

 

インディラー・ガーンディー国際空港の名称は、第五代首相インディラー・ガーンディー(インド初代首相ジャワハルラール・ネルーの娘で、1984年、67歳の時にシーク教徒により暗殺されました。後任の長男ラジーブ・ガーンディー第六代首相も1991年に暗殺されました。)に由来しているそうです。2010年7月にターミナルがリニューアルされ、世界で8番目の広さになったそうです。大規模なハブ空港への拡張工事中であるチャトラバティ・シヴァージ国際空港(ムンバイー)ともに大変立派な空港で、このままいくと、インドが中国を追い越すのは時間の問題であるとも感じられました。

 

チャトラバティ・シヴァージ空港からホテルまでは23時という遅い時間であるにも関わらず、大変な混雑の中、バスでホテルに向かい、本来わずか10分程度でつくところを25分以上かけてようやく到着しました。深夜なのに交通渋滞が甚だしいインドの地域事情の初体験でした。等々力好泰様によれば、インドの自動車交通インフラは非常に悪く、中国より5年は遅れているということです。また道路の周辺はゴミだらけで甚だしく劣悪でした。私が10月26日(水)から29日(土)まで訪れた台湾が、いかに優れていたかを目の当たりにいたしました。インドが中国を越えるまでに発展するには、インド国民の公共的なマインドをはぐくむことが大切であると痛感しました。

 

インドの車は最も大衆的な乗用車「TATA」(日本の軽自動車を至極簡単版にした廉価車)で、10万インドルピーで問屋へ出し、一般市民には15万~16万インドルピーで問屋等の歩合を取られて売られているそうです。但し、エアコン付きの高級版は20万インドルピー、日本円で約30万3千円になるとも聞きました。空港のタクシーも、すべて「TATA」で普通はエアコンなしですが、エアコン付きはCOOL TAXIとして料金も割高です。この辺は盛夏には摂氏45度にもなるのですが…。

 

 

(2)11月20日(日)

朝9時にホテルを出発し午前中はムンバイー観光を楽しみました。ムンバイーはこの10年で経済的に大発展を遂げたそうです。バスの車窓から公園や運動場でたくさんの市民がクリケットをしているところを見かけました。日曜日という日柄か、街には至る所でクリケットのグッズが売られていました。インドでは、クリケットは最も人気のスポーツ競技とのことです。また、空港や市街の要所の至る所で、サブマシンガンを持つ警備兵を多々見かけることには、一見温和なインド人社会のもつ、複雑な政治・宗教情勢を考えさせられます。

 

10時20分頃に「インド門」へ行きました。第一次世界大戦で戦死した兵士(約8万5千人)を追悼する慰霊碑で、高さ42mのアーチには、ヨーロッパ戦線に英国軍として参戦し、戦死したインド人兵士の名が刻まれていました。

 

 

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インド門から道を隔てて隣接している、英領植民地時代の市街中心部に位置するタージ・マハル・ホテルに歩いて向かい、会議室で「TATA CAPITAL LIMITED」の関係者の皆さまをお迎えし、 法務コンプライアンス部 部長(Head of Legal & Compliance & Company Secretary)のシャイレシュ・ラジャデイヤクシャ(Shailesh H Rajadhyaksha)様により、インドで独自の成長路線にある「TATA」という巨大企業の経営理念についての貴重な講演をジャワラルハル・ネール大学(Jawaharlal Nehru University)プレム・モトワニ(Prem Motowani)教授の通訳で拝聴しました。(写真は講演の様子)

 

 

「TATA」は1868年創業、140年を超える歴史を持ち、様々な分野で世界のトップ企業となっています。既に英国植民地最盛期でもあった19世紀初頭(日露戦争の頃)には、はやくも製鉄に着手するほどの確固たる基盤がありました。常にインド民族の誇りを堅持しつつ、植民地途上国においてありがちな悪弊を徹底排除することを心がけてきたということです。また、明確な企業理念に基づく厳正な倫理規範を持つ事業経営によって、利益の社会還元を見事に発展させているそうです。貧しい人々の市場にマッチングさせ、廉価な製品を低所得者層に豊富に供給することを目指しており、利益の66%を社会還元することを社是としています。ちなみに街に溢れる大衆車「TATA」はグループ会社であるタタモーターズのもので、インド車の代表格です。

 

TATA HP http://www.tatacapital.com 

 

講演内容の一つとして、「TATA」は近く農村開発と銀行自由化に備えて1年以内に銀行事業を開始するということをお話しいただきました。「TATA」を見れば、インドという巨像の国の部分像がかなりはっきりと見えてくるようです。この講演によって、インド理解がさらに深まるという素晴らしい講演でした。

 

 

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昼食はタージ・マハル・ホテルで講師の皆様と交流しながらのビュフェスタイルでいただきました。タージ・マハル・ホテルは、「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様が、英国人によるインド人差別に怒り、インド人の設計による豪華ホテルを築きあげたものです。建物は西洋の新古典主義とインド伝統様式の折衷で、1903年に開業しました。 2008年11月26日におきた同時多発テロでは3日間テロリストに占拠され、多くの客の犠牲者がでました。現在は館内への出入り検査も厳重で、古典的な落ち着いた雰囲気は最高級のホテルです。100年を超える伝統あるホテルというだけあって、著名な人士の写真やサイン帳も展示されていました。(写真は「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様の胸像)

 

タージ・マハル・ホテル HP http://www.tajhotels.com/

 

さて、インド最大の都市である「ムンバイー」とは、英語名称はもともと「ボンベイ」といいました。1534年にポルトガルが「グジャラート」の土侯からこの地域を譲り受けたことに始まり、「ボンベイ」という名前の由来はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるそうです。1995年に、英語での公式名称は「ボンベイ」から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづく「ムンバイー」へと変更されたそうです。

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昼食の後、30分ほど車を走らせ、ボンベイの海岸線が一面に見えるところに赴き、景観を楽しみました。6年前に比べて、はるかに多い高層ビルが立ち並んでいました。その後、ホテルの傍にあるインド屈指の国立博物館の一つ「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」「ガーンディー博物館」を参観しました。最も価値あるものはロンドンへ持ち去られたのか、やや寂しい展示でした。翡翠の趣味が中国の緑とは異なり白玉のような白翡翠に価値観があるようで、半透明の白色翡翠で創られ、ルビーとエメラルドで装飾された短刀の柄は見事でした。博物館参観後再びムンバイーの空港にもどり、18時10分発9W−483(JET AIRWAYS)に搭乗し、一路南に向かい19時45分にベンガルール空港へ到着、今日も夜更けのホテル着でした。(写真は「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」にて、白翡翠の短剣)

 

(3)11月21日(月)

 

IMGL1239.jpgベンガルールではオベロイホテルのスタッフの皆さまが立ち並び手を合わせてお出迎えの挨拶をしてくださいました。インドではホテルのスタッフの皆様だけでなく、一般の方々にもそのような風習がありました。オベロイホテルは、大変に良く整えられたホテルで、英国の南インド植民地支配の中心地であった時代の最上級の雰囲気を伝えています。喧噪の街中にありながら、静かな室内と自然な演出の庭園があり、最近は疎かなレターセットなど基本的なアメニテイーも完璧で、お勧めの宿です。(写真はオベロイホテルにて撮影)

 

カルナータカ州ベンガルールは南インドの政治・経済の中心地で人口はインド第5位の720万人、標高920mの高原にあるために過ごしやすく、緑も豊かで「インドの庭園都市」とも呼ばれています。ベンガルールでは日本語で、共同通信社発行の「共同ニュース」(日曜日は「共同サンデーニュース」を発行)というささやかな日刊紙が発売されていました。ベンガルールには国営の重工業・航空産業・宇宙産業・防衛産業が置かれ、情報通信産業も発展し、インドのソフトウェア産業最大の地域へと発展しています。

 

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IT産業が入居するビルの密集する近代的な街並みを見学後、郊外の工業団地にあるガラス裁断専門企業のABCグループ南部製造工場を訪問いたしました。ABC グループは日本の旭ガラスの支援を受け、強化板ガラス裁断の技術導入により、南インド一の業績を誇っています。最新のラミネート強化板ガラス製作の全工程をつぶさに参観し、事業の経過やインドでの中小企業の実情についてABCグループ社長 ディーパック・マリク(Deepak Malik)様に経営についてお話を伺いました。マリク様のお話ではインドで急速にすすむ経済発展にともない、建設ラッシュが予測される場面での需要急増に対応するために、同社は手狭な工場の拡張について、外資導入も含む考えも示されました。しかしながら高度な成長を控えるインドにしては、市街地や工業団地など配電施設は、おしなべて余りにも旧式であり、電力インフラ整備の必要が急務であることが強く感じられました。また、工場現場には「5S」(整理<Seiri>、整頓<Seiton>、清掃<Seisou>、清潔<Seiketsu>、躾<Shitsuke>の頭文字のSをとった略称)の掲示もありますが、日本の現場経営指導を的確に行えば、桁違いの生産性が確保できるようにも見えました。(写真はABCグループ南部製造工場にて撮影)

 

インド滞在3日目にして、ニューデリー・ムンバイー・ベンガルールといろいろな都市を廻りましたが、都市部から牛がいなくなったということが、6年前とは大きく違った風景であると感じました。牛は篤志家が引き取り養うとのことです。また、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度は1950年に制定された憲法で全面禁止が明記されていました。仕事の上では問題は起きていないといわれているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いており、後30年は残るといわれているようです。

 

19時20分発の9W-812便でベンガルールを発ち、22時頃、再びインディーラー・ガーンディ国際空港に到着いたしました。今晩宿泊するホテルは空港からかなり離れた総合リゾート開発地区にあるホテル「ジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾート」で、到着したのは23時すぎでした。夜食は簡単な(インドならではの?)ビュフェスタイルでいただきました。10月末には、インドで初めてのF1コースでF1グランプリ(GP)が開催され、それに間に合わせてオープンしたホテルとのことですが、イベントのない当日は巨大なホテルも閑散としていて、端の方の部屋ではお湯が届かないという始末でした。周りには何もないので散歩もならず。朝はガスの臭いのするかなり濃い霧で、庭園も見通せないのは残念でした。

 

なお、デリーでは、ここ数年商社、金融会社が増加傾向にあり、加えて中堅企業、レストランの進出も目立ってきています。現在は第二波の進出期に当たるようで、政府は農業補助政策を重視しているそうです。

 

 

(4)11月22日(火)

ホテル内のレストランで朝食をいただいた後、郊外の丘陵地にあるジャワラルハル・ネール大学でプレム・モトワニ教授、及び日本語学部の学生たちとの交流を行いました。モトワニ教授はネール大学大学院日本語学科教授で、インドを代表する日本学と日本語の権威です。日本語の辞書を日本語で出版され、また学生達は、見事に日本語をマスターしております。ホテルには25歳以下は法により禁酒と注意書きがあったので、学生たちに聞いたところ、あれは守らなくてもよい法律とのことでした。また学生寮での「ノミ(飲み)ニケーション」は盛んなようです。大気汚染などについて学生たちはほとんど関心はないようでしたが、建物のあちこちにビラが貼られ、チェ・ゲバラ、マルクス、エンゲルス、レーニンの顔もみかけました。日本ではすでに懐かしの風景です。構内には牛ならぬ犬が多数いました。熱心な学生たちとの交流会は大変活発で中々終わりがたい雰囲気でした。これからの交流に期待します。

 

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11時に、主要大使館が並ぶチャーナキャプリー通りの日本大使館を訪問しました。在インド日本大使館特命全権大使、齋木 昭隆様は日本に帰国中だったため、次席公使である林肇様が臨時大使として、一等書記官 磯野 聡様に対応していただきました。日本的な雰囲気に仕立てられた建物と庭園、室内の調度はインドであることを、ふと忘れさせる雰囲気でした。庭園中央には天皇・皇后両陛下が皇太子ご夫妻のころ、1960 年12月1日に植えられたお手植えの溶樹 (ガジュマル)が見事に成長しています。(写真はその溶樹と高井)

 

林次席公使の、誠に要を得たインド日本関係事情のご説明と質疑応答のあと、多くの日本美術作品(その中には当訪問団をお世話して下さった山田真巳様の大きな屏風作品も飾られていました。)で飾られた、大使館内をご案内いただきました。

 

林次席公使よりご説明いただいたインドについての概略は、以下の通りです。

  1. インドは11月~2月が最適の気候で、4~6月は45度を超えることもしばしばあるようです。社会主義経済から開放政策で、10年前頃からその成果が出始め、国際的に注目されています。日本企業も増加傾向ながら在留日本人は、4000人が5000人と20%弱増えた程度で、タイの5万人とは未だ格段の差があります。
  2. インドは世界最大の民主国家ですが、地方色が大変強く、二大政党が特徴です。インドの最大与党・国民会議派の、後継の党総裁首相候補の選択が決まらず、不安定な状態で、2014年の選挙をどう迎えるかが注目されています。
  3. 外交では、パキスタンとの国境紛争が未解決のままの上、中国やカシミールとも国境での交戦問題と問題は山積みです。しかし日本はインドと直接の利害紛争には関わらないニュートラルな国なので、率直なお付き合いができているようです。
  4. 電力開発は多様化を計画しており、石炭は国産でまかなえているようですが、石油は全て輸入に頼っています。淡水は不足し、海水淡水化事業に日本の支援を活かしています。原子力発電は現在2%ですが、これから積極的に増加させていく方針だそうです。なぜなら、インドは2030年には13倍の電力需要を予測しているからであるとのことです。
  5. 核拡散防止条約に加盟していないため、条約に規制されず核兵器を保有出来ることになっています。インドは日本の核施設輸出に関する方針を改めて打診するため、外務大臣を日本に派遣しました。
  6. 2012年に日印国交樹立以来60周年記念行事を企画していて1~3月、9〜12月の2期にわたり、さまざまなイベントをインドと日本で開催する予定です。
  7. デリー周辺の日本企業は未だ300社余で増加傾向ですが他国に較べて少ないようです。最近の情勢下、中小規模企業のインド進出が増えつつあります。
  8. インド政界は銀幕政治ともいわれるほど映画TVの影響が大きいです。
  9. 第二次大戦後しばらくはロシアとの関連が深かったですが、今は全方位外交です。
  10. 多人口・多民族・多言語の複雑な社会で、英語が共通語になりつつあります。
  11. 最近、東京大学・立命館大学などがベンガルールなどインドに進出しつつあります。

 

 丁度正午に一時間の大使館訪問を終えて出発し、昼食は市内のタージ・マハル・ホテルで済ませました。

 

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その後は植民地時代に整備された、全て放射状に区画されロータリー形式で無停止で方向転回ができる、信号の無い都市中心部の街路をみながら、エロスコーポレートタワービル7階にある双日インド会社を訪問し、同社社長 川村 安宏様からインド事業の状況を伺いました。川村様は、2006年10月ニューデリー日本商工会初代会長をつとめ、146社が加盟する日本人会の理事でもいらっしゃいます。双日株式会社は、母体がニチメン(日綿實業)、日商岩井という、ともに「日」を頭文字とする商社2社であったことに由来して双日と命名されたそうです。(写真は双日インド会社社長 川村 安宏様と高井)

 

 双日 HP http://www.sojitz.com

 

訪問終了後、遙か郊外のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートへ戻りました。

 

(5)11月23日(水)

朝食後、前日訪問したビルにある独立行政法人 国際協力機構(Japan International Cooperation Agency 略称JICA)インド事務所を訪問し、所長の山中晋一様にインドでの活動状況、インドが抱えるさまざまな課題などに関するお話を伺いました。

 

 独立行政法人 国際協力機構 HP  http://www.jica.go.jp

 

山中所長は、1988年から1991年にかけてもインドに赴任されており、特に1991年は、湾岸戦争や政治混乱の影響を受け、インドが経済危機に見舞われた年だったそうです。当時は緊急財政支援により危機克服支援が主たる活動だったとのことですが、現在は、「公正な成長と貧困削減」「人間の安全保障の実現」などに取り組んでおられます。なお、日本の最大規模の供与先である政府開発援助(ODA)は、インド向け円借款事業円として、2003年以降、運輸、電力、上下水、森林開発などに毎年度2000億円、累計1.6兆円を供与、JICAはその事業全般を統括しています。2010年は、放送大学機材、病院建設のプロジェクトに無償資金協力10億円(2件)、技術協力に5億円(22件)、そのほかにも製造業技術幹部育成、高速道路開発、下水道維持管理などのプロジェクトを実施しています。その他ボランテイア事業として青年海外協力隊、NGO支援での農村支援・女性自立支援なども実施しています。

 

その後、14時にデリーより9W-721便で出発し、1時間でジョードプル空港に到着しました。ジョードブルは、ラージャスターン州タール砂漠の入り口にある街で、別名「ブルーシティ」と呼ばれているそうです。

 

ターンテーブルで荷物を受け取った後、添乗員、現地ガイドの方の誘導でバスに乗車して現在もマハラジャがお住まいのウメイド・バワン・パレス・ホテルに向かいました。インド有数の宮殿ホテルということで、やや赤みがかかった現地の砂岩の外壁と大理石で構成された内部は、大きな円形ドームのロビーを中心に放射状に多数の広い客室が配置された、とてもゴージャスな雰囲気のホテルで、まずは各部屋でゆったりとした時間を過ごし、広大な庭園を、階段上から見渡す夕映えのテラス、「サンセット パビリオン」で、インド古典楽器の演奏を聞きながら、マハラジャの気分で食事を楽しみました。また、Headland Media社が発行している「Good Morning JAPAN」なども読むことができました。

 

 

(6)11月24日(木)

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朝食後、ほとんど昔のままのジョードプルの市内を観光いたしました。垂直に切り立った崖の上に1459年に築かれた非常に堅固な「メヘランガール城塞」を見学しました。 現在もマハラジャ所有の博物館として一般公開され、内部には豪華な王宮や寺院が立ち並ぶ巨大な砦です。旧市街は城砦の麓にできた文字どおりの城下町で、途中から三輪の力車に分乗して市場へ向かいました。市場は古い時計台の塔を中心に様々な商いの店が蝟集(いしゅう)して、丁度「上野のアメ横」の路地を人や牛やバイクが通る雰囲気です。米屋では、日本の米とは全く異なる粟のように小粒な米や、細くて長い米などどれも粘りけの全く無い米が売られていました。買い物の女性たちは皆派手やかなサリー姿で、首飾りや腕かざりの金色も華やかに狭い通りに行き交っていました。貧しい人たちもたくさんいましたが、自給自足の食料事情の故か、あまり貧困にもとづく切迫感はなく、むしろ誰もが笑顔でフレンドリーなことは、ここが観光地だからという訳ではないようです。(写真はメヘラーンガル城塞の外観)

 

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昼食をホテル内レストラン「フォンテン コートヤード」にていただいた後、午後は宮殿内特別室にてジョードプルのマハラジャ ガジュシンク2世に謁見いたしました。この宮殿は、かつてこの地方で2年間一滴も雨が降らず、旱魃(かんばつ)に苦しむ領民を救う為に、毎日2千人の領民を交代で動員して、この宮殿を建設したとのことです。ちょうどエジプトのピラミッド建設がナイル河の洪水期の失業救済事業という説に通じるところがあり、日本の震災や放射能対策の政策をも考えさせられます。今は、宮殿の一部をホテルに賃貸し、地域の観光振興に役立てています。(写真はガジュシンク2世との謁見の様子)

 

 

IMGL2124.jpg夜は、一同生まれて初めてのターバンをかぶり、ホテル庭園の舞楽殿前にしつらえられた特設会場で、打ち上げ花火に始まり地域性豊かな古典舞踏を鑑賞しながらの、華やかなプライベートディナーパーティを楽しみました。(写真はターバンを巻いた株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様と高井)

 

 

(7)11月25日(金)

ホテルで朝食後、ベジタリアン達の村「ビシュノイ村」を訪問しました。

ベジタリアンの多いインドでも、厳密に殺生を避ける原理主義の特別保護区で、宗教上の規範で、木も切ってはならない、布を染める藍も使わない極度の禁欲の生活を護る村として特別保護区に指定されている場所だそうです。子どもやビシュノイ村に住む家族全員が快く受け入れていただきました。子ども達の中には、小声で「ルピーを」とせがむ子もあり、これからの経済発展の過程での先行きの厳しさを感じます。部外者の参観訪問も果たして意味があるか、いささか疑問を抱かされました。

 

見学後はホテルに戻り、昼食をとった後空港に向かい、JAW722便で16時30分頃に再びデリー空港に到着しました。ホテルは前回宿泊のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートでした。夕刻には、ホテル内バンケットルームにてホテルのオーナーでもある現地巨大企業ジェイピーグループの事業概況についてのプレゼンテーションがジェイピーホテル マーケティング販売部長のジョイント様(Sr.Joint)、同じくマーケティング部のアザマット様(S.M. Azmat )よりパワーポイントを使ったわかりやすい解説が行われました。

 

同グループはセメント事業を中核とする総合建設グループで、水力発電ダム建設と発電事業、高速道路建設と営業、ホテル近傍のインド初のF1GPコース開設を含む巨大なリゾート開発などを進めるインド屈指の企業グループです。公共インフラ投資の相当な部分を企業ベースで推進しつつあるインド的な様相が見える有益なプレゼンでした。

 

 ジェイピーグループ HP http://jaypeehotels.com/

 

終了後は 関係者の皆さまを交えてのレセプションが行われました。その後、「さよなら夕食会」が行われ、8日間の滞在を視察団全員がふりかえり、インド最後の夜を楽しみ、親睦を深めました。夕食会の途中、インド国会議員最年少議員で前観光相のOmak Apang様が、忙しい日程の合間をさいて来場され、ご挨拶をいただきました。その後もOmak Apang様は団員とともに阿波踊りに興じるなど、大変気さくにおつきあい下さいました。また、来年2012年が日本、インド国交60周年にあたり、様々な交流イベントとして四国の「阿波踊り」や青森の「ねぶた」への参加を要請されました。

 

 今回は、大変忙しい旅程で、肝心のゴルフやスパでのリゾート気分を味わう時間は全くありませんでした。

 

 

(8)11月26日(土)~27日(日)

今朝は朝4時起きて、帰国の荷物はバスで別送しました。私たちは、ホテルからバスで一時間程かけて、夜明け前にニューデリー駅荷に到着いたしました。ニューデリー駅は、首都駅にしては雑然としており、駅前広場では、地面に仮眠する人達などで足の踏み場も無い有様でした。乗車した列車は、外国人専用の観光列車ということで、こざっぱりした感じで、ほとんど満席でした。

 

駅からバスで15分ほどの、明け方の門前町は、もう車で一杯でした。リキシャに乗り換えて門前ゲート前まで行きました。高い城壁のような廟を護る楼門の彼方に、美しいドームが見えてきました。

 

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タージ・マハル廟は、1983年世界文化遺産に登録されています。1632年着工し、22年かけてインド中から最高の材料を集めて造られたのだそうです。純白の大理石で創られているタージ・マハル廟の建物は大気汚染の酸性雨により、本来の純白に輝く大理石がやや灰色に鈍く変色しているといわれます。大理石は酸に容易に犯されてしま うのでコーテイングなどの対策が必要です。完璧に左右対称型の壮麗なドームの構成は、四隅の塔ミナレットで引き締められ安定しているところが大変面白く感じました。完全対称の造形を助ける廟前面の池が整備中のため、水面に逆さに映る姿を見ることができませんでした。廟の裏手にはかなりの幅の河がゆったり流れ、穏やかな風情でした。学生や様々な国からの観光客に溢れる庭園では、写真のポイント順番待ちが大変でした。(写真はタージ・マハル)

 

この、タージ・マハル廟は、ムガール帝国第5代皇帝シャー・シャハーンが愛妃ムムスターズ・マハルを悼み建てられた廟です。また、ジョードプルの絶壁にまもられ、難攻不落のメハランガル城の唯一の弾着跡が残る立て籠もりの歴史は、没した王の后の帰趨を争う兄弟同士の戦争であったそうです。インドの最大の伝統的な価値観が、女性の美しさと魅力にあることを物語るようです。

 

ヒンドウー教寺院礼拝堂では、男性席が前、女性の席は後ろに厳しく区分されていますが、政治の世界では、早くからインデイラー・ガーンディーなど女性が首相も務め、自爆テロの標的にもされる程、日本より余程女性の地位は高いようです。

 

アーグラ市街中心のホテルで昼食後、市内の1983年登録の世界遺産アーグラ城塞を参観しました。ムガール帝国時代の1565年に着工された城は、赤い砂岩の城壁で「赤い城」とも言われるそうです。ムガール帝国の三代目が、タージ・マハルを建てたシャー・ジャハーン王です。主要な構造は砂岩ですが、内部は華麗な花木の唐草とアラベスクで色彩豊かに飾られた白大理石です。ほとんど内装は剥離していましたが、大理石の透かし欄間を通して、タージ・マハルを遠望できる高見の部屋に、復元と見られる遺構がありました。

 

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城塞の最高層にあり、ジャムナ河に接して、東面する王の間の白大理石の透かし窓からは、ほぼ正面に、約1Km先の河岸に佇む、真珠のようなタージ・マハル霊廟が望まれます。この方位と距離の関係は、誠に絶妙で、朝な夕な、そして月の光に、時とともにその姿をとおし、亡き妃を偲ぶ想いに、この世のものとは思えぬ姿を、シャー・ジャハーン王は現世に実現してしまったのです。つねに遷ろう光の反映を求め、それ故に、廟のドームは純白の大理石でなければならなかったということです。ですから、タージ・マハルの本来の心根は、このアーグラ城の透かし窓から臨むことでした。王が日夜、白く輝く廟を見つめ、后を偲びながら過ごした城は、やがては幽閉の場になったとのことです。河を隔て、相対する場に、自らの黒大理石の廟を設ける王の願いは、遂に叶わなかったということです。(写真はアーグラ城から遠望したタージ・マハル)

 

今回のツアーは、早朝から夜分に渡る相当な強行軍で、街の土産物屋など全く立ち寄る暇なしでしたが、タージ・マハルとアーグラ城を参観の後、大理石モザイクや織物など数店が入る公営の工芸品店で最後のチャンスがありました。タージ・マハル廟やアーグラ城塞を飾る見事な大理石と色彩豊かな貴石の花模様をモチーフとした、美しいモザイクはフィレンツエの細工ともよく似ています。

 

土産物店を後にして、帰国の手荷物を積みホテルから回送してきたバスで、インディラー・ガーンディー空港へ急ぎましたが、首都空港へ向かう夕闇の道は大渋滞でした。果たして間に合うかと心配しましたが、見事インド流のホーンを鳴らしながら互譲の道路マナーで、見事1時間前にデリー空港に到着しました。出発便は1時間遅延で、おかげさまで、現代的に整備された空港売店での束の間のお土産漁りも出来ました。実のところは、我が団の為に東京からの手回しで、1時間出発を調整されたとの内輪話もあるようですが…。

 

 AI306便にて出発し、約7時間20分のフライトの後、成田空港に日本時間の午前8時に到着いたしました。

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