「医」(1)


 

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(2011年11月28日(月)朝6:53 東京都港区芝公園にてカラーを撮影
花言葉『素敵な美しさ』)

 

【「医」の字源】

 

今回から3回にわたって、「医」という漢字の字源、主に「医」の古い字体にあった「巫」について、医学・医療が神の力と関連があることに大変興味をもち、私なりに思い・感じ・考えたことを述べていきたいと思います。

 

「医」の古い字体は「醫」と書くそうです。右上にある「殳」は矛(ほこ)を意味し、これは、古代中国においては、外科術は矛、槍のようなものを使って行われていたことに由来するそうです。下の部分にある「酉」は、瓶のような形をしていることから、薬を入れる瓶や酒つぼを意味していて、昔は、医術にお酒の力も加えられていたということを意味しています。

 

また、現在使われている左上の「医」という字は、「医」は「匚」と「矢」が組み合わさってできたものだそうです。『説文解字』(最古の部首別漢字字典で、後漢時代紀元100年に成立。)によると「『医』は弓弩(きゅうど。弓の総称。)の矢を盛る器なり」とあります。また、「匚」は「隠す」という意味があり、つまり「医」とは「矢をしまいこむ箱」という意味だそうです。古来より、「矢」には厄や悪霊を祓う神聖な力があるとされ、現代でも、正月に寺院・神社で、魔よけ、厄払いのお守りとして授与される矢(「破魔矢(はまや)」と呼ばれます)などが名残としてあります。「神聖」とは清らかで尊いことを意味し、悪(邪悪)、または俗(世俗)の対義語です。このように、「矢」には厄や悪霊を祓う、世俗から離れた世界による力があるとされてきました。

 

さて、「学研漢和大辞典(藤堂明保編、学習研究社)」よると、「醫」の異体字として上記の字があります。よく見てみると、「巫」(ふ)という字が入っています。「医者はもと、巫女と同じ仕事だったので、『醫』は巫を加えて『毉』とも書く。」(同)ということだそうです。そして、「毉」の「殹」の部分は「えい」と読み、これは巫女が「エイ!」と叫んで、邪気を吹き飛ばすという祈祷をしていたということを意味しているのだそうです。

 

「巫」(シャーマン、シャーマニズム)とは、超自然的存在と交信する人、それにより成立する宗教を指します。「巫」の漢字には、二人の「人」が表示されていますが、それは「複数の人が工を施す」ことから生まれたのでしょう。すなわち、複数の人が、身振り手振りをもって、全身全霊で祈り、神に信じられないぐらいの高度な技(工)を発揮させてほしいという願いが込められているのでしょう。「医」の古い字体に「巫」という字が入っているということは、もともと医学・医療は、神の「神癒(しんゆ)」によるものであると考えられていたということではないでしょうか。また、「医」に「巫」の概念があったことは、漢字が発祥した中国だけでなく、古代バビロニア、いわゆるメソポタニア(現在のイラク南部)を占める地域でも同じような現象がありました。つまり、何も中国だけでなく、世界各国でみられた現象だということです。これを「巫の医学」と呼ぶそうです。

 

このように、「医」という字を成り立ちからひも解いてみると、人間が病にかかったとき、医学、そして医療という行為による効果や、病が治癒するということは、人の手によってだけではなく、目に見えないものの何らかの力によるものであると考えられていたことがわかります。わたしたち人間の意識をはるかに超越したサムシンググレート、神の力を借りることによって、初めて完成するものであるという考え方であると思います。

 

私たちの生きるこの世界は、途方もないほどに神秘につつまれていると思います。現在においても、科学の進歩は目覚ましいとはいえ、私たち人間がこの世界について知っていることは非常に限られていると思います。ましてや、「『いのち』はどこからきてどこへいくのか」という基本的な謎さえ、解明されていません。人の「いのち」を扱う「医」という字に、「巫」や「神聖な力」といった意味が込められているのは、医学・医療は、「いのち」について机上で科学的に考えても解決することができず、「いのち」とはサムシンググレートの力によるものであると、人間が直感的に、霊感的に感受していることの表れではないでしょうか。そして、現代でもなお、「医」の根本は「目に見えないもの」として観念せざるをえず、その文字が生きつづけているのでしょう。

 

 


【真の「健康」とはなにか】

さて、西洋医学は、人間の「知性」をフル活用して、人の病気を治すために輝かしい成果を挙げてきました。しかし、「知性」のみを活用して進歩する西洋医学の方向性には、そもそも限界があるのではないでしょうか。「巫」すなわち「霊性」(敢えて言えば「霊性」とは「人間は宇宙の中に存在する、即ち宇宙の一部分である」ということ)を再認識し、再度西洋医学にも活用することが、「知性」のみをもってした西洋医学の限界を打破することに繋がると思います。人間が、知性に加えて霊的にも進化を遂げれば、より多くの病気の治癒を可能にすることができるでしょう。

 

「霊性」「霊的」については、1990年に、WHO(世界保健機関)執行理事会で討議された「健康の定義」の改正案として、従来の「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的にも満たされた状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」という定義から、「霊的(spiritual)」を加えた「Health is dynamic state of complete physical, mental, spiritual, and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」へと定義を改める検討が行われたそうですが、現在は議長預かりとなっているそうです。


そこで、「霊的な健康」とは何かと考えてみると、「身体的」「心理的」「社会的因子」を包含して、そもそも人間の「生きること」に対する(生きることへの本質が判然としないが故に[※私見によれば宇宙に漂う存在であるにすぎない自分への自覚がないことを言うのでしょう。])苦悩、苦痛、苛立ち、怒り、そして不安のない状態であると思います。単純なメンタルヘルスとは思考活動の健全性をいい、spiritual healthとは心の健全性をいうとも解釈できます。そのspiritualな世界は、人間が宇宙に漂う存在に過ぎないと自覚することに始まるです。

 

「自分は何のために生きているのか」「なぜ自分がこんなに苦しむのか」と苦悩、苦痛、苛立ち、怒り、そして不安に感じることは、精神的なものであると同時に霊的なものでもあります。特に人生の終末に近づいた人にとっては、自らを許すこと、他の人々と「気が合うこと」等々と関連しているでしょう。私は9月9日に長女をがんで亡くしてしまいましたが、亡くなる前日の9月8日午後9時に、私は入院先で長女に「ありがとう。」と話しかけました。そのとき、長女がそれを理解して「ありがとう。」と返事をしてくれました。長女と私が霊的な健康を取り戻した瞬間でもあると思います。私の魂は、長女が宇宙へ旅立つ直前に、長女の魂によって癒され、慰めで満ち足りた気がいたしました。これは、お互いの魂が霊的な結合を取り戻した瞬間であると思いました。

 

また、愛する人を亡くした後、ふと近くに居るように感じることがあり、見守ってくれているよう感じることがありますが、これは、亡くなった人が戻っていった大宇宙との一体感を共に感じていることであると思います。霊的な健康とは、人間が「生きること」において不可欠なもの、人間の全体性に深く関わっているもの、自分と宇宙とのつながりをイメージできるようなものではないでしょうか。

 

私は9月22日付記事「祈りと気」において、「手術の名手も手術の直前に手を合わせて祈る」ということを述べた上で、「『祈り』という行為とは、純粋な人間的な行為である」と述べました。これはすなわち、人間の霊性に基づく「祈ること」という行為が、「生きることを求めること」そのものだと思うからです。

 

人間には4つのファクターがあり、身体的(フィジカル)、感情的(エモーショナル)、知性的(インテレクチュアル)、霊性(スピリチュアル)のそれぞれのファクターが調和することで、「自己免疫力」「自己治癒力」を発動させ、病気を治癒することができるという説があります(「ソマチッドと717Xの真実」ガストン・ネサーン寄稿、稲田芳弘著、ECOクリエイティブ、31頁)。目に見える科学に基盤を置いている西洋医学では、「霊性」のファクターを重視することなく治療が施されていきます。これは、「医」が「巫」という世界から離れてしまった例であると思います。私たちの「いのち」が与えられた元は宇宙である、との意識を欠いては「自己免疫力」「自己治癒力」を十分発動させることができないでしょう。

 

「医」の古い字体を見れば、「巫」という文字があります。この意味を再説すれば、「巫」の字には、二人の「人」が表示されていますが、これは、複数の人が、身振り手振りをもって、全身全霊で祈り、神に信じられないぐらいの高度な技(工)を発揮させてほしいという願いが込められているのでしょう。「医」という字の古い字体を改めて凝視し、尚、この意味を十分悟らなければならないほど、医学が今でも未熟な学問であることを改めて痛感した次第でございます。

 

 

【宇宙人に近づくか?】

さて、人間が、知性に加えて霊的にも進化を遂げれば、より多くの病気の治癒を可能にすることができると、先に述べましたが、齋藤博保先生は、人間の今後の進化について、次のように述べられています。

 

「地球上の生物が、サムシンググレートによって生かされるなか、私は現代社会においても『人間の心の支配』は『神の力に及ばない』ということを感じています。

真の『健康』とはなにかと考えた時、宇宙空間の宇宙の法則に従うことが『霊的な健康』を得ることであり、安らかなる適応力を得ることだと思います。たとえ『霊的な健康』から疎遠気味であっても、血は延々と受け継がれ、霊的結合が疎通され、心と心を結ぶことになるのではないでしょうか。

最近、私はこんなことを妄想します。『人類は、動物であったが人間となり、やがて、宇宙人となる。』

つまり、人間が他の生物と共栄、共存していた時代(動物の時代)から、現在は、人間だけの我欲の時代となりました。人間は、機械化あるいはロボット化に次第に頼るようになり、手足等を動かす脊髄神経が、次第に機能低下して退化していきます。そうすると、人間は脳ばかり発達し、つまり小生が子どもの頃漫画でみた、頭が大きく手足の細い火星人のような姿になるのではないでしょうか。」

 

人間社会のロボット化が進めば、それこそ「目配せ」だけでロボットが何でもしてくれるようになります。それに人間の『脳』が慣れていき、四肢を動かさなくても「目配せ」だけで活動できるようになり、それゆえ次第に四肢は細くなり、脳ばかりが発達する時代が来ます。この齋藤先生のお考えに触れて、古川聡宇宙飛行士が、2011年6月8日 から11月22日まで、宇宙に連続167日滞在した後地球に帰還した際、「気分は最高だが、体はまるで軟体動物のよう。立っていられない、歩けない。」と述べられたことを思い出しました。これは、わずかな力で脚を挙げることができた無重力環境に『脳』が慣れてしまったことが原因だそうです。ロボット化が進むことで、宇宙という無重力空間にいることと同じ現象を招く時代、人間が宇宙人に近づく時代が来るのだと思います。それが、千年後か、一万年後かは分かりませんが・・・。

 

石原慎太郎東京都知事は、オリンピックを東京でもう一度開催したいと招致に前向きな姿勢を示しています。これは色々と批判があるところではありますが、私は、オリンピックは、人間の身体的能力、心理的能力、あるいは動物性というものを確認し、再度チャレンジするために意味があることであると思います。オリンピックでは、人間の身体的、心理的能力の限界を極める各種のスポーツがありますが、世界新記録が出なくなった時、人間の身体的能力は限界に達し、さらに機能低下が始まるということを意味していると思います。つまり、人間が動物性から離れて、宇宙人へと近づく世界に突入する時代、ということであると思います。

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