「花」第11回:花ことば(1)+付録


20171017.JPG

2013年10月13日(日)10:35
ミャンマー・ネピドーにある
ミャンマー連邦共和国国家計画・経済開発省前にてプルメリアを撮影
花言葉:「気品」

 

 

2月1日(金)付記事より、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。

 

花にまつわる文化として「花ことば」があります。

ヨーロッパでは、花に想いを託して、花を贈り、同時に花ことばを相手に伝えるという習慣があったそうです。なかなか言いだせないような言葉を、あるいは、どんな言葉をもってしても伝えきれない愛しい人への想いを、花という存在に託して代弁してもらったのでしょう。

花ことばではないですが、日本においても、花に想いを代弁してもらう文化は和歌に多くみられます。「この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠れるおほろかにすな」(藤原広嗣、万葉集)という和歌がありますが、これは、ある男性が、桜の一枝を女性に渡して「この花(桜の花)の一枝には、私の想いがすべて秘されています。けっしておろそかにしないでください。」と詠んだ和歌だそうです。伝えたい想いを、ぐっと心の奥に秘めて、桜の花に置き換えて詠んだこの和歌は、まさに「秘すれば花なり」の世界でしょう。

 

フランスでは5月1日に、愛する人にスズラン(muguetミュゲ)を贈るという習慣があるそうです。この歴史は思いのほか古く、1561年5月1日に、シャルル9世が、幸福をもたらすとしてスズランの花束を贈られ、とてもお気に召し、それをきっかけに、毎年、宮廷のご婦人達に贈るようになったということです。

スズランを贈る習慣は19世紀末になると一般庶民にも広まり始め、20世紀にはパリ近郊の人々が森へスズランを探しに行くようになったということです。そして、摘んだスズランの花は、誰でも自由に販売して構わないというのですから驚きです。売るための特別な許可も要らず、さらに、所得の申請をせずとも大目に見られるのだそうです。

いまのフランスでも、5月1日になると街中でスズランの花束が売られるそうですが、インターネットに書かれていたある記事によりますと、今は多少の規制があり、①森で摘んだ根のついていないスズランであること、②花屋から100メートル以上離れた場所であること、が条件になっているそうです。また、赤十字では、この日のスズランの売り上げが2番目に大きな収入源であるのそうですから、いかにポピュラーなイベントになっているかを物語るエピソードです。

 

日本でも春になると、時々花屋の店先にスズランのブーケを見かけますが、切花として扱う店は決して多くはないように思います。スズランの花言葉は「意識しない美しさ」、「純粋」、「幸福の再来」「幸福が帰る」などです。来年の5月頃に、朝の散歩でスズランを見かけたときにはその繊細な香りを確かめたいと思います。

 

また、米国のバレンタイン・デイでは、老若男女を問わず誰からでも好きな人、愛しい人に対し、一輪の真紅のバラの花などを贈るそうです。それは、たとえば、夫婦や恋人同士では愛情表現のひとつとして、片思いの男女であれば愛の告白に、子や孫は大好きな両親や祖父母へ、生徒は学校の担任教師や校長先生へ、それぞれの立場で愛情や日頃の感謝の意を表すことのできる日なのでしょう。

 

20131017-01.JPGのサムネール画像

2013年5月6日 朝7:01
東京都渋谷区代々木公園にてバラを撮影

 

このように、花は、古来より、世界各国で、人々の想い、愛を、人々のかわりに伝えてきました。男性から女性、女性から男性、親子、友人・同僚同士でも、お祝い事や送迎会などの、なにかの折に、ブーケ・花束を手渡すことは多いでしょう。母の日には子どもから母親に日頃の感謝の気持ちを表すためにカーネーションが贈られます。結婚式の披露宴では、両親への御礼として花を贈る新郎新婦も多いです。誕生日祝い、出産祝い、古希祝い、快気祝い等のパーソナルな祝い花もあれば、ビジネスの場では開店・開業祝い、昇進祝い、退官祝い、出版記念等に花が贈られます。

祝い花には、胡蝶蘭が贈られることが多いそうです。その理由はいろいろとあるそうですが、環境がよければ3~5カ月以上、ときには3年から5年以上も咲き続けるという花持ちのよさが理由のひとつであるそうです。また、胡蝶蘭のたたずまいは、気品があり、格調高い凛とした印象を受けますから、お祝いの花としてふさわしいと考えられてきたのでしょう(胡蝶蘭については、2013年6月7日付け記事でも述べましましたので、ご覧ください)。

 

20131017-02.JPG

2013年3月9日(土)法政大学外濠校舎6階薩埵ホールにておこなわれた
諏訪康雄先生の最終講義に際して高井より諏訪先生にお贈りした胡蝶蘭

 

花の力を借りると、普段なかなか伝えにくい照れくさい言葉や思いを伝えられるものですし、受け取った人にパッと最高の笑顔がはじけるものです。花は、人と人との間の、心の壁を低くしたり、とりはらったりする力を持っていると思います。花は、花を受け取った人の心を明るく爽やかにし、人と人との交流に、潤いある彩りを添え、ぬくもりを与えてくれるように感じます。

さて、花ことばの発祥は、17世紀頃のトルコであるとされているそうです。花ことばについては、次回またお話します。

 

~今回の記事執筆にあたって、ホリスティックサロン Lily セラピスト 小田島 彩子様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様にご協力いただきました。ありがとうございました。

 

 

付録 竣工式
 

8月29日(木)に、長野県安曇野市にある株式会社安曇野ミネラルウォーター(http://azumino-mineralwater.jp/index.html)の工場を訪問しました。

今回の安曇野訪問は、同社の会長・新井喜源氏のご招待を受け、新工場の竣工式に参加するのが目的でした。

看板.JPGのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

 

同社の社長である新井泰憲氏は、2011年11月に、高井・岡芹法律事務所主催の「インド 社会・経済視察団」のメンバーとして、私と共にインドを訪問しました。

◎詳しくは、2011年12月20日 付【歴訪記その9】インドをご覧ください。/weblog/2011/12/9.html

同工場は、38,000平米という広大な敷地に建てられた第一工場で、現時点での生産能力は月産500万本(各2リットルボトル)だそうです。

同社の水ビジネスについては、私も構想段階からアドバイスをしています。構想から2年、生みの苦しみに悩まされたそうですが、この度、無事に竣工式を迎えました。

 

竣工式は、関係業者や販売先等、50名ほどの来賓を迎え行われました。竣工式での新井泰憲社長の挨拶を抜粋してご紹介いたします。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

弊社の親会社たる信州レジャー興業は、我がグループの創始者である新井清一が、旧穂高町の高山勇町長様の誘致を受け、穂高有明に50万平米の開発を請け負ったときに設立された会社でございます。当社グループでは、安曇野の恵まれた自然環境、美しい景観を守りながら、サンクラブ穂高を建設し、別荘・住宅地を造成するなど、秩序ある開発を進めて参りました。

この度も、安曇野市の宮澤宗弘(むねひろ)様をはじめとする市の担当者様のご指導を受けながら、「適正土地利用条例」「地下水保全涵養及び適正利用条例」を適切に順守しながら、開発を進めて参りました。

また、長野県の担当職員様とも入念な協議を重ねた結果、弊社事業は、県が承認する「経営革新計画」及び「企業立地計画促進」という2つの承認をいただくことが出来ました。

今後とも、地域の秩序ある発展のために、微力を尽くさせていただく所存でございます。工場竣工は、第1の関門であって、通過点であるととらえております。今、この瞬間から気持ちも新たに、次は初出荷に向けて、弊社社員一同、より一層の努力を重ねて業務に励んでまいる所存でございます。

販売の実現に向けては、まず、顧客の皆様が何を求められているのか、徹底的に考えることを最初の課題と考えております。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

数十年に渡り安曇野市で事業を展開出来たことの感謝の気持ちとして、安曇野ミネラルウォーター社から、安曇野市福祉課に金一封が贈呈されました。

 

 

安曇野風景.JPG

安曇野ミネラルウォーター工場より見える、有明山の風景
撮影:新井泰憲社長

 

聞くところによると、水を販売するにあたっては、背景の物語の良さも大きなポイントだそうです。その点、こちらの工場は、雄大かつ牧歌的な田園風景に恵まれているうえに、安曇野には安曇族(※)の言い伝えも人気があるそうで、物語には事欠かない立地であると感じました。

式の終了後には、新井泰憲社長自ら、来賓の皆様を工場内にお招きし、設備の説明をされました。

 

工場案内.JPG

今後は3~5ラインを増設予定とのこと。同社のますますのご発展を期待・祈念しつつ、会場を後にしました。

 

(※)安曇族とは 

安曇野市が海に面していない山国たる長野県の中央に位置しているにもかかわらず、この地に古くから伝わる山車の多くは、なんと船の形をしているそうです。このことから、安曇野に暮らす人々の祖先は、海人(あま)族(縄文から弥生時代にかけて、南方よりやってきた渡来人)であったとの言い伝えがあります。この祖先のルーツを巡る「安曇族サミット」という催し物も行われています。

安曇野の地を開拓したといわれている安曇氏(あづみし)について調べたところ、安曇氏はすぐれた航海術と稲作技術を持ち、海人族の中でも最も有力な氏族だったそうです。

そもそも安曇氏の発祥地は安曇野ではなく、安曇野から遠く離れた福岡県福岡市東区志賀島(同島はいわゆる金印が発見された所です)にある「志賀海神社(しかうみじんじゃ)」(=祭神は“大綿津見(おおわたつみ)神”つまり海神)とされているそうですが、代表的な定住の地は丹後、但馬、若狭であり、しだいに海岸だけでなく内陸へ勢力を広げ、その痕跡とも考えられる地名を各地に残しました。たとえば滋賀県の「安曇川」や愛知県の「渥美半島」、それにも増して明瞭なのが長野県の「安曇郡」となるわけです。(北上した目的は、おそらくは蝦夷(えぞ)族の征伐であったとのことです)。

◎ 参考:農林水産省HP
http://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/chushin/rekishi/01_1.html)

◎ 参考:安曇野市HP「安曇野のお船祭り」
https://www.city.azumino.nagano.jp/mizu_monogatari/story/matsuri/index.html

◎ 安曇野市観光協会http://www.azumino-e-tabi.net/modules/xpressme/?p=776

 

◆◆海部氏の系図 ―安曇族に因んで 

私は最近、古代史の研究と称して古代史関連の書物を紐解く時間を持つようにしていますが、先日『古代海部氏の系図<新版>』(金久与一著、学生社)を読む機会があり、安曇氏と繋がる記述があったのでご紹介します。 

――「海部家では多年、皇室に遠慮して丹波降臨説を銘記した系図、天皇系と親戚になる系図を固く秘蔵し、公開しなかったのである。」

その海部氏の「勘注系図」(「本系図」に細かく注記を施したもの)によれば、『丹波国造本記』(『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」:平安時代の編纂)には火闌命(ほのすせりのみこと=海幸彦)、彦火明命(ひこほあかりのみこと)、火明命(ほあかりのみこと=山幸彦)の3兄弟のことが記され、『古事記』上巻の最後では、火明命(山幸彦)の孫にあたる人物が神武天皇との記載があります。そして、「勘注系図」冒頭の記載に戻れば、海部氏の祖先は、古代の海洋系豪族の安曇氏と同一の祖先“建位起命(たけいたてのみこと)”なる人物をもつことが分かったのです。

ご利用案内

内容につきましては、私の雑感等も含まれますので、真実性や正確性を保証するものではない旨ご了解下さい。

→ リンクポリシー・著作権

カレンダー

2013年10月
« 9月   11月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  

最近の投稿

カテゴリー

月別アーカイブ

プロフィール

高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
https://www.law-pro.jp/

Nobuo Takai

バナーを作成