2014年12月28日(日)7:03 東京都港区南麻布一丁目で撮影
ガーベラ(花言葉:「希望」)
※「髙井伸夫弁護士の<人事労務 散歩道>」(『労働新聞』2011年5月30日号より転載)
「ボスの条件」(3)ボスになれる者となれぬ者
ボスでない者がボスのように振る舞うと、「あの人はbossy(いばり散らす)だ」というように、bossの形容詞が否定的な意味で用いられることがしばしばある。
こうした陰口を言われないように、組織のリーダーたるボスは、魅力ある存在でなければならない。その究極は「カリスマ」あるいは「大御所」であるが、ボスはそれらに及ばぬ「大物・傑物・怪物」や「小物」の世界で展開される存在である。
私はリーダーやボスの魅力の根源は「人格・識見・手腕・力量・多芸多趣味」であると説いているが、ボスはこれらを磨き、部下や同僚等に受け容れられる魅力ある存在になることが必要である。カリスマは、人間として生来的な魅力やオーラが傑出した者のみへの呼称だが、ボス程度であれば、生まれながらの資質は二の次で、リーダーシップやマネジメント力を向上させる後天的な努力によって担い得る。
リーダーシップでは先見性が最も重要な要素である。これは時代の流れに関心をもって勉強していれば自然に備わってくる。そして、マネジメント力の真髄は、相手の心を理解することである。「相手が自分に対して何を望んでいるか」を探求し、納得できる回答を得たとき、それを目指して邁進することが肝要である。独りよがりでは決して組織はマネジメントできない。マネジメント力は、他者との間に、より広く深い合意を形成してゆく手続なのである。
しかし、いくら努力してもリーダーシップもマネジメント力も身につけられず、際立った存在になれない者もいる。そういう者は、ヒラ社員のまま終わるか、たとえ管理職・役員になったとしても存在感を発揮できず、その他大勢のなかのひとりとして、謙虚に生きなければならない。不満を募らせ、ボスになった者を批判するだけの人生はむなしい。ボスになれなかった者がすんなりと諦めの境地に達することは稀であり、多くは生きる気概を失ってしまう。生きる目的を失わず、多かれ少なかれ青雲の志(=徳を修めて聖賢の人になろうとする志)を持ち続けるためにも、現役時代はもとより定年後の第二の人生でも、趣味の世界でもよいから生きがいを求めて努力すべきである。
さて、組織には世代交代という大テーマもある。社長や役員等の若返りが進まない企業は発展しない。後継問題は、ボス自身に後継者育成の気持ちがあるか、そして後継指名された者が十分な心構えと資質(能力・自立心・向上心・連帯心)を持っているかによって決まる。経営者には、ボスたりうる人材を見いだし、ミッションをわかりやすく伝え、育てる任務がある。
ところで、後継問題には、ボス候補同士の葛藤も伴う。後継候補が複数存在すると「両雄並び立たず」となり組織が維持できないから、上司による選択がなされる。複数を同時に重用することは、よほど力のあるボスにしかできない。負けた者は出ていくか、趣味等々別の世界で生きるしかない。企業が子会社を作りそこに役員を配置する意味は、この点にもある。
サル山のボスの交代劇では命がけの激しいバトルが展開され、負けたボスは群れを抜けて、ハナレザルになるともいう。ヒトの社会でも、本質的にはこれと同様のことが、常に繰り広げられているのである。