2015年5月9日(土)11:45
長野県北佐久郡軽井沢町にてサクラソウを撮影
花言葉:「希望」「初恋」
2011年に刊行された『Lawyer’s MAGAZINE(ロイヤーズマガジン)』7月号の巻頭特集「Human History 弁護士の肖像」に、私のインタビュー記事が掲載されました。
このインタビュー記事のなかで、私は、これまでの弁護士人生を振り返り、二人の恩師、新人時代からの血沸き肉躍る労使紛争を経て学び取った信条、現代リーダーシップ論、そして、若手法曹への助言などの一端について述べております。
この記事をお読みいただければ、各位の中には、同時代人として生きられた当時の喜びや悩みを感慨深く思い出される方、あるいは、これから待ち受ける極めて困難な時代への心構えとして活かしていただける方がいらっしゃるのではないかと考え、ブログにも掲載することにいたしました。今回から3回にわけて転載します。
『Lawyer’s MAGAZINE(ロイヤーズマガジン)』2011年7月号
巻頭特集「Human History 弁護士の肖像」より転載
1960年代、高度経済成長期であったころ盛んだった労使紛争。この時会社側の弁護士として名を馳せたのが高井伸夫氏。高井氏は、近年の「弁護士ランキング(※1)」の労務部門でトップクラスにその名が挙がる。人事・労務問題専門弁護士の草分けであり、労働問題を入り口に経営改革・リストラ問題や経営者(リーダーシップ)論にもアプローチ、74歳の現在も精力的に活動を続ける高井氏の、“弁護士人生”を追った。
※1 「2009年に活躍した弁護士ランキング」日本経済新聞社。
弁護士人生の原点に二人の恩師あり
高井氏は1937年、名古屋市に生まれた。四人兄弟の長男で、幼いころは弟たちや近所の友だちと野山を駆け回る日々だったという。
「真夏には汗まみれになって野原でトンボを追い、木に登ってはセミをとり、冬は寒風にさらされて、霜柱を踏みながらたこ揚げもしました。疎開先の田んぼの用水路で、大きなカラス貝を取ったことも懐かしいですね」
教育熱心な両親の意向で、中学・高校は進学校へ入学した。
「私の父は、名古屋で弁護士をしておりました。いわゆるマチベンです。弁護士会活動に積極的で、後年は名古屋弁護士会(現:愛知県弁護士会)会長も務めました。その父の影響で、物心ついたときから弁護士以外の職業は選択肢になく、さほど迷うことなく東京大学へと進学したのです。大学では、旅行やマージャンもよくしました。私は一箇所にとどまるのが苦手で、ユネスコ研究会や、古曳正夫君や本林徹君も居た東京大学法律相談所に顔を出し、学生運動にも加わりました。講義は8割がたまじめに聞きましたが、決してガリ勉タイプではありませんでしたね。」
大学3年のとき、高井氏にとって、かけがえのない師との出会いがあった。
「来栖三郎先生(※2)というすばらしい先生の民法を受講し、その講義のレベルの高さ、思索の深さに大変な感銘を受けました。先生は多方面にわたる知識を駆使され、単なる法律学を超えて、人間観・人生観に及ぶ内容を、講義を通じて教えてくださいました。”労働の人格性(※3)”について学んだのも、来栖先生の講義でした。」
※ 2 民法解釈学で研究業績を残した法学者。東京大学名誉教授、日本学士院会員。戦後、親族法・相続法改正の起草委員を、我妻栄氏(日本民法学の第一人者)らと務めた。
※ 3 『契約法(法律学全集21)』(1974年9月初版)の「第六章 雇傭(412ページ以下)」参照。「人格と不可分に結びついている労働力」など。
大学卒業後、司法研修所を経て、孫田・高梨法律事務所へ入所。
「孫田秀春先生(※4)とのご縁は、父がきっかけです。私の父がドイツ留学を希望し、労働法を学びたいと、かつて先生のもとに書生として置いていただいたことがあったからです。父は当初、名古屋であとを継がせたかったのだと思います。しかし私は父の影響下を離れ、東京で弁護士をしてみたかった。そう父に話したところ妥協してくれて、『それなら小さくまとまるのではなく、立派な先生(孫田先生)に師事し、しっかり勉強すべき』と。そこで二代続けて孫田先生にお世話になることに。『弁護士になったからには何でもやる!』と考えていたのですが、孫田先生のもとでスタートしたことにより、おのずと労働事件に携わることが多くなり、労働法を学ぶ機会にも恵まれたというわけです。孫田先生は『労働法』という本を出されましたが、そこで説かれていた”労働の人格的価値”は、まさにかつて来栖先生の講義で学んだことでした。もともと、労働法に特別関心のなかった私が、人事・労務問題専門の弁護士としてこうして歩んでこられたのは、この二人の師のおかげなのです」
※4 法学者・弁護士。1924年、『労働法』という名称での講義を日本で初めて行った。我妻栄氏は義理の弟にあたる。
寝食を忘れて仕事に没頭した駆け出し時代
当時の孫田・高梨法律事務所は、「屋根裏部屋のような狭い場所でした」と髙井氏。しかし髙井氏が弁護士となった1960年代は、まさに高度経済成長期。組合運動もさかんな時期で、使用者側から事務所への依頼は、引きも切らずに押し寄せた。
「事務所に入り、出張の多いことにまず驚きました。各地方で、さまざまな労働事件があったのです。最初に担当したのは新日本窒素肥料(※5)の労使案件(※6)。相手は合化労連(※7)、指揮していたのは太田薫氏でした」
※ 5 1965年まで新日本窒素肥料(株)、1965年以降にチッソ(株)と改称。
※ 6 現・JNC(株)。高井氏が関与した事件の一つとして、新日本窒素肥料水俣工場配置転換事件:熊本地裁・1963年12月26日決定・労民集14巻6号1519ページ参照。
※ 7 合化労連=合成化学産業労働組合連合。太田薫氏は労働運動家。1950年に合化労連を結成。元日本労働組合総評議会議長。
団体交渉、ストライキ、ピケッティング……労使激突の渦中へ、文字通り飛び込んで行く日々だった。
「相手を説得し、納得のうえで合意させるためには、体を張るしか方法がなかった。もみくちゃになりながら、強大なピケを突破したことも何度もあります。現場へ行き、会社側の弁護士として現場を体感し、その実感を持って回答書を手直しし、想定問答を作る。机上だけでは仕事にならないと、新日本窒素肥料をはじめとする多くの労働事件で学びました」
また、東大闘争と並び学生運動の頂点たる日大紛争の収拾にも貢献。
「当時、全国各地の大学で学生紛争が見られましたが、日本大学での紛争が中でも大きく、弁護士だけで100人余りが関与していました。私に割り当てられたのは、コピー係。当時のコピー取りは”青焼き”といって、インクのアンモニア臭で目が痛くなるような地味で過酷な作業。それでも弁護団に加われたことがうれしかったですね。あるとき『理事学部長会があるので弁護団からも5~10人ほど出席せよ』と弁護団に要請があり、半ば人数あわせで私も呼ばれました。そこで私は末席ながら、日大の古田重二良会頭も居並ぶ中、『(この紛争を収束するには)理事は総退陣すべきである!』と発言したところ、古田氏はじめ理事たちは、当初ものすごく憤りましたが、最終的には古田氏ほか皆さんの信任を受け、大衆団交の回答書の作成が私に任されるに至ったわけです。そして、古田氏が私の書いた回答書を読み上げ、辞任して、この件は終結となりました。この日大紛争に関連し、”日本大学K専任講師事件(※8)”が起きました。その裁判で私は法廷に立ち、反対尋問を繰り返して勝ち抜きました。このときの反対尋問がすばらしかったと言って”反対尋問の名人”の呼び名を世間から頂戴しました(笑)」
※ 8 農獣医学部(当時)の専任講師を大学が不当解雇したとして起きた裁判:東京地裁・1976年1月28日判決。
弁護士のイロハを学び、父の言葉どおり”小さくまとまらず”仕事ができたのは、孫田氏の指導、そして「たまたま携わった労働法・人事労務の仕事が天職であったからだろう」と髙井氏。
「孫田先生には生き方に通じることを教えていただいた。『石にも目がある(※9)』『尽くすべきは尽くす(※10)』という先生の言葉は、弁護士としての座右の銘です。当時の労働分野には血湧き肉躍る駆け引きがあり、経営の中枢に弁護士が関われるという、仕事がダイナミックで楽しい時代でした。寝食を忘れ、心血を注ぎ、ぎりぎりまで働くことで人は初めて自分の限界を知ることができます。その体験こそが、どんなに苦しくとも、仕事と真正面から向き合う契機となり、人間としての成長につながる。身を持ってそれを体験できた駆け出し時代でした」
※ 9 “硬い石でも弱い点、筋目を突けば割れる”の意。剣聖・塚原卜伝が剣術の極意を悟ったエピソードから。「似たような話は、藤沢周平の『隠し剣 秋風抄』にも出てきます。自分の手に余る大きな仕事もどこかに必ず目(弱点・筋目)がある。そこを狙い突破口を開けば良いということ」(高井氏)
※ 10 あらゆる努力をして最善の問題解決を図る。「人事を尽くして天命を待つ」と同義。
以来、弁護士キャリア約半世紀にならんとする現在まで、「元旦の午前6時半からその年の大みそかの午後10時まで、一日も休みなく働き続けてきた。2年半ほど前に耳に故障が起こるまではずっとそのペースでした」と髙井氏。「こんな弁護士は他にいないですよ!」と破顔する。
続く