2015年8月のアーカイブ

第8回 高井先生言行手控え


 

IMG_0188.JPG

2015年8月2日(日)8時5分 東京都新宿区若葉2にてエボルブルスを撮影
花言葉:「清潔、清涼感」 

 

 

 

築地双六館館長
公益社団法人全国求人情報協会 常務理事
吉田 修

 

 

■協調的・結合的・人格発展的関係が労働契約の本質

 

前回より、髙井先生のご著書「企業経営と労務管理」の中から、名言・至言、寸鉄・箴言を選りすぐってご紹介しています。労働契約及び集団的労働関係の本質について、髙井先生が以下のように述べておられます。

 

最高裁判所は、富士重工事件(昭和52年12月13日判決)において、「労働者は、労働契約を締結して企業に雇用されることによって、企業に対し、労働提供義務を負うとともに、これに付随して、企業秩序遵守義務その他の義務を負う」と説示している。これは、三菱樹脂事件において最高裁が示した、雇用関係が「単なる物理的労働力の提供の関係を超えて、一種の人間関係として相互信頼を要請する」(大法廷昭和48年12月12日判決)という実態論と軌を一にしたものと考えるべきだろう。(中略)私は労働契約を単に債権的な権利義務関係と見るならば、むしろ労働者の利益を制約することになること、換言すれば、労働契約の人格的な要素を承認してこそ組織法的な権利義務関係に労働契約関係が埋没する危険性を封じ、企業と労働者の利益の均衡が図れると同時に、より人間的な温かさのある関係が成立するものと考えるものである。契約を実効あるものとする上で、この人格的支配関係は対立的関係として規定されるべきではなく、協調的・結合的関係・人格発展的関係として規定されなければならないことは言うまでもないことである。労働裁判例においてしばしば「信頼関係」――相手を信じて頼ること――が論じられるが、この「信頼関係」こそが規範的に確立されなければならないのである。そして、この信頼関係は、命令する者において命令される者を陰日向なく保護する義務、命令される者において命令者の発する具体的なさらには抽象的な事柄に忠実に従う義務が確立されてこそ、円満に形成されるものである。

 

■職場の人間関係は労使コミュニケーションの重要事項

 

多くの労務問題の解決にあたってこられた髙井先生は、労働契約及び集団的労働関係の本質は、「信頼」「共感」にあると賢察され、数多くの著書の中で言及しておられます。このことは、厚生労働省の、『平成26年「労使コミュニケーション調査」』の結果にも表れています。

 

この調査は、労使間の意思の疎通を図るためにとられている方法、その運用状況等、事業所側の意識、労働者の意識等の実態を明らかにすることを目的に、5年ごとに行われています。

労使それぞれが重視するコミュニケーション事項(複数回答)として、

 

  • 事業所(企業)は、 「日常業務改善」75.3%が最も多く、 「作業環境改善」68.5%、 「職場の人間関係」65.1%など
  • 一方、労働者は、 「職場の人間関係」60.8%が最も多く、 「日常業務改善」51.7%、 「賃金、労働時間等労働条件」50.6%など

 

となっています。

 

今日においても、労働者は賃金などの労働条件以上に「職場の人間関係」を重視しています。それを個別雇用契約や就業規則上に、人間的な温かさをもって、表現することが人事部の役割であることがわかります。先生は、過去の書式をそのまま活用したりネット上のテンプレートをコピペするのではなく、脳漿を絞り出す思いで、真に協調的・結合的・人格発展的関係を書面化することの必要性を説いておられると思います。

 

■人格発展的関係

私は特に人格発展的関係性という言葉に惹かれます。これは、おそらく先生が独自で発想された造語ではないかと推察しています。私が、入社して3年目頃のことです。ROD(リクルート・オーガニゼーション・デベロップメントプログラム)という研修を上司(課長)が受講し、職場の部下に結果をフィードバックする場を設けられました。この研修とは、職場での日常行動について、自分自身(この場合は上司)の認識と、周囲からみた自分とのギャップから、仕事や周囲との関わりに表れる自分の特徴を把握し、行動を変えていこうというプログラムのことです。上司に対する部下のアンケートを踏まえ、通意性、要望性、信頼性、共感性の4つの指標が5点満点でデータ表示されます。この指標自体、奇しくも、髙井先生が強調する集団的労働関係の本質である信頼性と共感性を内包しています。さて、くだんの上司ですが、仕事はよく出来る人で、大変高いスコアでした。しかし、フィードバックの場では部下は今一つ不満げな顔つきでした。それは、フリースペースの助言欄に複数書かれた文章に反映されていました。要約すれば、「仕事の上だけではなく、人間的に成長したい。そのために幅広く指導してほしい。」というものでした。大卒や高卒の新入社員やアルバイトなど若い部下の組織の中で、この声を上司は驚きつつもしっかり受け止めて、こう言いました。「目標達成のためのビジネスライクのマネジメントのみならず、私に徳育も求めているのか。」と。人格発展的関係性を実践することは、現在からみれば、ハードルの高い日本的マネジメントですが、アングロサクソン系マネジメントに打ち勝つヒントがあるように思います。

ちなみに、先の4指標のうち管理者に最も必要とされるのは要望性です。要望性の強さは、いわゆるリクルート出身者の共通の因子であり、ある種の臭みでもあるとも言われています。

 

 

 

IMG_0240.JPG

2015年8月4日(火)7:54 ホテルニューオータニ庭園にて蓮を撮影
花言葉:「神聖」

IMG_0304.JPG

2015年8月10日(月)中目黒公園に行きましたところ、ススキが風にそよいでいました。
立秋を過ぎ、暑さまだ厳しいなかでも、少しずつ秋の花が咲いています。
秋の訪れと、季節のうつろいの早さを、しみじみと感じました。

 

 

 

7月24日(金)から、2011年5月~2012年4月にかけて、計12回、『月刊公論』(財界通信社)にて私が連載いたしました「高井伸夫のリーダーの条件」を転載しています。 

私の半世紀にわたる経営側の人事・労務問題の専門弁護士としての経験もふまえ、リーダーのあり方について述べた連載です。 

これからは、自分一人の信念で周囲をひっぱっていくというリーダーの時代ではありません。優れたリーダーには必ず、”股肱(ここう)の臣、頼れる参謀”が付いているものです。もはや”孤高の人”では、リーダーにはなり得ないのです。 

ブログ読者の皆さまに、現代におけるリーダーシップ論を考えていただく一助となれば幸いです。

 

 

 

「これからのリーダーシップ」
貧しくなる日本社会の中で新たな共同体経営を目指す
(『月刊公論』2011年7月号より転載) 


 

日本はこれから想像以上に貧しくなっていくと思います。人口減少はますます進み、国内市場は縮小し、国民の所得も、一世帯あたりの所得も減少の一途をたどらざるを得ないでしょう。まさに、「日本は国として美しく老いるべきだ」(経済評論家 故神崎倫一氏談『週刊新潮』1997年12月18日号掲載)という状況になってきます。こうした現実に、企業経営者そしてリーダーは、どのように向き合えばよいのでしょうか。日本の企業は今までのように個人の成果主義を旨とするだけでは立ちゆかなくなっているのであり、共同体を構成することの意義や必要性を自覚しなければなりません。私は、後輩弁護士たちに、こうした視点をも伝える努力をしていきたいと思います(髙井伸夫)。

 

 

「大義名分書の重要性」

いかに優秀なリーダーでも、自分ひとりの力だけでは、仕事の目的を達成することも、成果を上げることもできません。リーダーたる者は、役員・幹部(執行役員等)・幹部管理職・従業員等、組織全体を総動員してミッションを成し遂げる体制を、作り上げなければならないのです。

そのとき、彼ら彼女らにやる気を起こさせるための重要な方途のひとつが、「大義名文書」です。

「大義名分書」とは、文字通り物事の大義名分を書面化したものであり、経営側の人事・労務問題を専門とする弁護士として、私が実務の経験のなかから編み出したツールです。たとえば、裁判所は、整理解雇が解雇権の濫用とならないための要件・要素のひとつとして、「人員削減の必要性」を挙げますが、実際に紛争になった場合には、経営側としては「必要性」を述べるだけでは足りません。人員削減の断行によっていかに将来に展望が開けるかということについて、数字を含む裏付け資料を用いて「大義名分書」で明らかにし、さらに、「想定状況」「想定問題」「スケジューリング」等々の資料も精緻に作成することが、肝要なのです。そして、これらのツールは、あらゆる仕事の遂行の場面に応用できるものなのです。

リーダーは、「大義名分書」において、単に必要性を語るだけではなく、「この施策に展望あり」ということを、説得力をもって明示すべきです。いま取り組んでいる仕事は、本人のためだけでなく、同僚のため、組織全体のため、ひいては、世のため人のため、社会全体に貢献するものであるという将来に向けての大義名分を、書面で明らかにするのです。

リーダーからのこうしたアナウンスが為されることにより、各々が社会における自らの仕事の意義を再確認し、意欲的に取り組むことができるのです。日々の業務のなかでは、とかく目先の売上げや利益等に思考が偏りがちであるが、社会や共同体を意識することで、仕事の質は格段に向上するものです。

 

「契約社会から新たな共同体社会へ」

世界のほとんどの国は、異民族との激しい葛藤や紛争を経てきた長い歴史をもち、基本的に個人主義を旨としています。孫文(1866~1925)が、「外国の傍観者は、中国人はひとにぎりのバラバラな砂だという」(『三民主義』)と紹介したくだりは有名であるが、個人主義は中国に限ったことではありません。そして、個人主義の民族によって形成されるのは、厳然たる契約社会です。これに対して、日本は島国であるがゆえに他民族からの侵略を受けることなく現在に至り、集団主義となった稀な国である。まさに「和を以て貴(たっと)しと為す。忤(さから)ふこと無きを宗とせよ」(聖徳太子「十七条憲法」第一条)の精神が、日本人のDNAにすり込まれていると言ってよいでしょう。

契約社会は、権利義務関係を明確にして、そのうえで、契約関係により心の紐帯をはかり、無限の信頼ではなく、限界ある信頼を形成します。権利はとかく極大化し、義務は極小化する世界であるがゆえに、まず、権利と義務の明確化が必要になります。権利義務を明確にすることの本当の意味は、実は、責任転嫁を許さないことにあるのです。

日本の集団主義を旨とする契約書には、必ずと言ってよいほど「甲と乙は、信義に基づき誠実にこの契約を履行する。そしてこの契約に定めのない事項が生じたとき、又は、この契約各条項の解釈につき疑義の生じたときは、甲乙各誠意を以て協議し、解決する」の一条項を加えます。要は、何かのときには互いに歩み寄りましょうという基本姿勢です。ところが、たとえば個人主義の代表例である中国人の場合は、権利の極大化と義務の極小化を図ることがすべての局面における大前提ですから、契約で定めた代金を、何かと理由をつけて支払わないとしても、それは彼らが義務の極小化に努めた結果であり、民族性にかなった当然の言動なのです。

さて、契約書の本質は、このように契約における権利と義務の限界を明確にすることにありますが、日本に多く見受けられたいわゆる家族主義的な企業や家族的雇用関係は、信用から成り立ち、権利義務を規定せず、家族的な運営によって相互扶助を行い、ある種の共同体を構築していました。この共同体においては、無限の忠誠と保護とを、お互いに約束しあう関係が結ばれていたと言ってよいでしょう。つまり、権利義務が無限である点が、契約社会とは決定的に異なっていたのです。旧来の日本社会は、多かれ少なかれ、こうした傾向がありましたが、90年代後半から成果主義という考えが色濃くなるにつれ、契約社会へと転換する動きが主流になりつつありました。

ところが、日本経済が、発展しないどころか斜陽化し、沈没しつつあるなかでは、成果主義を旨とする経営もうまくいかなくなってきたのです。自国の経済の衰退を、日本人はなかなか認めようとしませんが、次のような統計をみれば、所得の激減は明々白々です。

日本の国民所得は、1997年には303万1千円であったが、09年には約266万円となり、この12年間で、97年のほぼ1・5カ月分の所得に匹敵する37万1千円も減少して、8分の7になりました(内閣府国民経済計算確報)。また、一世帯当たりの平均所得をみてみますと、94年には664万2千円であったが、08年には547万5千円となり、この14年間で、なんと116万7千円も減少して、6分の5に目減りしてしまったのです(厚生労働省国民生活基礎調査)。

こうした貧しくなりつつある社会では、まさに「貧すれば鈍する」で、信頼関係が失われてきます。ここに、日本において契約社会を超えて改めて相互扶助や共同体の意義が謳われる素地が出現したのです。

 

「人間関係尊重の視点」

これからは、経営においても敢えて人間関係尊重の強化をはかっていかなければならない時代となります。人間関係尊重の経営とは、構成員それぞれの希望・期待・成長を期することに、経営者、リーダーは配慮しなければならないということです。いま日本は、東日本大震災によって苦しんでいますが、それは、少子化という決定的な要因と相俟って、日本の将来を極めて危うくするものとして、心配されている。前述のとおり、国民所得及び一世帯あたりの平均所得が急減している現状では、これを回復させ、成長路線に戻すことは不可能に近い。この問題を解決するためにも、改めて共同体経営を意識しなければならないのです。

共同体では、子どもも、年寄りも、あるいは、失業した人等も、全体で扶養していくことが必要であって、個人の力ではなく集団の力によって乗り切る社会でなければ、日本を復旧・復興させることはできないでしょう。

これからますます貧しくなり、市場原理主義一辺倒では社会が立ちゆかなくなっている日本の現実をふまえれば、これからのリーダーシップは、より広義のリーダーシップにならざるを得ないことは、明らかです。言ってみれば、共同体をいかに円滑に展開していくかということですが、そのためには、これからのリーダーは、①組織や共同体の構成員それぞれの持つ「成長したいという希望」を的確に把握し、②リーダーが構成員それぞれを「成長させたいという期待」を具体的なビジョンとして描き、③さらには、構成員それぞれに応じた「成長」を実現することが必要になってきます。そして、構成員各々が自らの「成長」を実感できたとき、そこから、また新たな「希望」が生まれてくるのです。

こうした「希望」「期待」「成長」の好循環のプロセスを実現できるのは、より社会奉仕的かつ社会貢献的な共同体を構成することに熱心な経営者のみである。目先の利益だけにとらわれるようなガリガリ亡者は、これからの共同体の経営者としては全く機能しないでしょう。

現実に、ボランタリーのNPO組織がこの大震災で大活躍している所以は、この点にあると言ってよいのです。「極限的な状態で、人は、自分のためには頑張れないが、他者のためなら力を発揮できる」(木山啓子氏 認定NPO法人 特定非営利活動法人ジェン 理事・事務局長)という言葉の重さを、改めてかみしめたいと思います。

 

 

IMG_0159.JPG

2015年7月30日(木)7:14 東京都芝公園にてひまわりを撮影
花言葉:「崇拝、熱愛」 

 

社会が激しく変動する中で新しい時代に対応するには、「アイデア力」がなければ生き残ることはできない。言い換えれば、「発想の自在さ」ということだ。発想の自在さは、これまでの経験などに基づくこともあり人によって差があるが、往々にして単なる思い付きから始まるもので、本能によるものである。ただ、この思い付きを理論化しなければ、仕事として実行し得ない。つまりは、本能と理性を結合させるということだ。この力が「アイデア力」あり、以下(1)~(12)で述べるお客様の開拓にも繋がっていくのである。

 

(1)人脈の広げ方

人体図を見ると、血液が体全体をめぐっている血脈が存在する。この血脈は何によって流れているのかというと、心臓ではなく脳にある自律神経である。生まれたときから血液は全身を回っているのであるが、人間が血液を意識するのは、心臓の鼓動を感ずる時であり、手首の脈に指を当てて拍動を感ずる時である。この時に血液が全身に回っている瞬間を意識するが、それとは正反対に死の時は心肺が停止する。これは、先程述べたように、血液の流れを促している脳の自律神経が止まるということなのである。医者に、折々胸に聴診器を当てて鼓動を確認したり、脈診をしてもらったりすることがあるが、それは全身に血液がめぐっていることを意識するということが健康を保つ秘訣だからであり、血液を感じることは、本当に「生」を意識することができる。

さて、これを人との繋がりである人脈の形成に置き換えてみると、本来人間は生まれた時からたくさんの人に囲まれて生きている。しかし、人脈とは、誰しもが本来的に生まれ持っている人とのつながりや絆を意識して、それを活動させていくことで生まれるものなのだ。

「人間関係を深めていくのは畑を耕すのと同じである。畑において、何度も鍬や鋤を入れて耕していく作業は、一回やればそれで終わりという性質のものではなく、何度も何度も、繰り返し鍬や鋤を打ち込むことによって、盤根錯節(物事が複雑に入り組んで解決し難いこと)した木の根っこやら石やらを取り除いて深く掘り、土壌を柔らかくしていくものである。作物を作付けできる状態を保ち続けるためには、定期的に何度も何度も耕していく必要がある。

  そしてこれは人間関係においても同じで、一回会えばそれでおしまい、というものではなく、繰り返しの接触を心がけ、関係性を深く堀っていくことこそが肝要である。」これは、私の親しくしているあるビジネスパーソンの言葉である。人脈とは、地層が積み重なるように、あるいは年輪が刻まれていくのと同じように、長期間、時間をかけて、それこそ一生をかけて形成する、その人物の 生態系、「生きること」そのものであると思う。

そして、人脈を勝ち得るために人に人脈をつないでもらうには、まず自分の人脈を紹介することから始めなければならない。よく、他人の人脈ばかりあてにして、自分の人脈は教えない人がいるが、このような人はケチな人、こすっからい人と評価され、結果的に人脈が増えないこととなる。自分の人脈を教えるということは、結局は他人のために寄与するということである。相手がお客様であり、人脈を教えることでお客様の営業活動に資すれば、それが「顧客満足」に繋がることとなるだろう。

 

オリンピックをみていると、日本の選手は全員周りの人に「支えられて戦った」とか「勝利した」とコメントする。弁護士も同じく周りの人に支えられないといけない。しかし、支えてもらうことを期待するのではなくて、自分自身を磨かなくてはならないということである。血と汗と涙の結晶を求めてこそ、光り輝き、皆さんが応援してくださるのだ。

また、弁護士は自分の営業だけに関心を持つのではなくて、お客様の営業のことを思いやらなければ真の営業とはいえず、成果に繋がらない。ギブアンドテイクの世界であり良く言えば支え合い、絆の世界なのだから。

 

(2)友人、知人等の紹介

知人・友人の紹介で仕事を受けた場合、一番困るのは敗訴等、結果が思わしくなかった時である。知人・友人は紹介した責任から、面子がつぶれたと思い、また、こちら側は後味が悪く感じ、知人・友人関係が崩れてしまって修復できないことがある。知人・友人関係がその後に破綻することを予測しないで、軽率に仕事を引き受けると、長年培った関係が破綻に瀕してしまいかねないのである。だから、知人・友人からの紹介案件については、よく吟味してから引き受けるかどうかを検討しなければならない。

また、親族から紹介されて弁護士として案件を引き受けることがあるが、友人・知人から引き受ける時よりも慎重にならなければならない。特に、依頼者側は勝利するものと思っており、親族であるということから甘えもあって、敗訴した場合の反動が通常よりもきつくなる。敗訴によって親族関係が破綻するということもよくあることである。

恩師などのどうしても断りきれない人から仕事の依頼を受けた時には、正当な評価は期待できないであろう。そして、敗訴が濃厚な場合には、いよいよ引き受けることが難しくなる。そんな時には、親しい弁護士に依頼して共同受任することが一番良いであろう。一人で引き受けて敗訴してしまっては、面目が立たないからである。

 

(3) セカンドオピニオン、サードオピニオン

セカンドオピニオンという言葉は、医療診断の世界の言葉で、専門・聖域領域とされてきた医師の権威主義的・独占的判断への疑問を解消するひとつの手立てとして生まれたそうだ。患者側がもつ一種の医師不信のように受け取られがちだが、現在では、医学の専門分野の細分化が進んだ結果、医師の側もセカンドオピニオンを望むようになってきたそうである。私は、弁護士にもセカンドオピニオンが求められる時代になったということを10年ほど前から意識している。法律の細分化・専門化にともない弁護士も専門化が進み、特定の分野で高い見解・見識を示さないと、クライアントから信頼を得られない状況になってきたからである。たとえば、私はメンタルヘルス関連の案件を処理するにあたって産業医のみならず専門医である精神科医等の助言も極めて大切にしてきたが、いただいた医師の意見に敬意を払うことはいうまでもない。弁護士としての判断だけではいかんともしがたい状況ゆえに、専門家の力を借りているのだから当然であろう。

  医師や弁護士など専門的職業人の世界に限らず、ひろくビジネスの世界でも、同じことがいえるが、自分が専門の分野の新しい知識や情報を吸収することが重要なのはもちろんだが、それだけでは足りず、セカンドオピニオンをお願いできる人との縁を大切にすることも必要である

ただし、誤解してはいけないのは、肝心なのは、「自分自身の勉強」と「自分はファーストオピニオンである自覚」である。ファーストオピニオンという言葉はあまり使われないが、あくまで最初に下す判断の正確さ、適切さを確認するためにセカンドオピニオンがある。言いかえれば、セカンドオピニオンとは、ファーストオピニオンを充実させるためのものであるということだ。

なお、セカンドオピニオンの意見でも足りないと思った時には、さらにサードオピニオンを求めるのもよいだろう。複数の意見を比較検討して、自分なりの判断を下すことが大切だ。いずれにせよ、最も危険なことは、自己過信・自信過剰であるということである

 

以上

 

20150805.jpg

A '15.7.12(日)11:07東京都千代田区九段南3にてバラ(花言葉:純潔)
B '15.7.20(月)7:51東京都目黒区中目黒公園にて向日葵(花言葉:崇拝・熱愛)
C '15.7.20(月)7:53東京都目黒区中目黒公園にて芙蓉(花言葉:繊細な美)

 

 

前回から、2011年5月~2012年4月にかけて、計12回、『月刊公論』(財界通信社)にて私が連載いたしました「高井伸夫のリーダーの条件」を転載しています。

私の半世紀にわたる経営側の人事・労務問題の専門弁護士としての経験もふまえ、リーダーのあり方について述べた連載です。

これからは、自分一人の信念で周囲をひっぱっていくというリーダーの時代ではありません。優れたリーダーには必ず、”股肱(ここう)の臣、頼れる参謀”が付いているものです。もはや”孤高の人”では、リーダーにはなり得ないのです。

ブログ読者の皆さまに、現代におけるリーダーシップ論を考えていただく一助となれば幸いです。

 

 


「リーダーに不可欠 カリスマ性 全員を心服させる魅力」
(『月刊公論』2011年6月号より転載) 

 


■「好ましい不思議さ」を彩る人 人格、識見、手腕、力量が条件

 

今のような知的社会、そして、国内外の競争が激化している時代には、それぞれの分野で専門性を高めなければ生き残れません。専門性の最終的な目標は、その分野でのカリスマになることでしょう。私は、事務所の弁護士には意気込みだけでもカリスマを目指して欲しいと願い、日頃より専門性を高める指導しています。こうした各人の心掛けが、クライアントへのリーガルサービスに、より良く反映されると確信しています。

先日、「カリスマ性のある有名人は誰だと思いますか」と、事務所の数人の者に尋ねてみたところ、皆、首をかしげるばかりで、意見を出すのに四苦八苦していました。政治家の例を出すまでもなく、今の日本はカリスマなき時代なのでしょう。

リーダーシップとカリスマ性は全く違います。

たとえ指導者に優れたリーダーシップが備わっているとしても、全体の30%の者は絶えず不平不満を言うのが普通です。こうした状況では、その指導者は大物・怪物・傑物の域を出ず、カリスマではありません。不満分子に、不平を言う権利さえも意識させず、ほぼ全員を心服させる力が、カリスマ性なのです。人格・識見・手腕・力量を存分に発揮して、100人中99人が賛同し心服すれば、カリスマになります。そして、企業のトップが人を心服させる力を備えていれば、結果として、リーダーシップもマネジメント力も円滑に機能することになります。

ドラッカーは、企業のリーダーにカリスマ性は不要と説いているようですが(『プロフェッショナルの条件』183頁等)、私は、リーダーシップやマネジメント力が非常に弱体化している今の時代だからこそ、誰しもそれぞれの分野において、まして社長は、これからいよいよカリスマ性の体得を目指し、チャレンジしなければならないと思います。

 


■ 「あの人はいつ寝ているのか」

 

私の思うカリスマ性の要素をあえて挙げるとすれば、次のとおりです。

  1. 皆が憧れるような素晴らしい実績をあげていること。
    ―普通の人にはとてもできそうにないことを成し遂げていることは、心服させる大きな要素です。
  2. 決して平凡ではなく、好ましい「不思議さ」に彩られていること。
    ―「あの人はいったいいつ寝ているのか?」というような、素朴な不思議さでもよいのです。
  3. 人格・識見・手腕・力量・多芸多趣味に秀でていること。
    ―これは、「不思議さ」の源です。
  4. 人の話をよく聞き、当意即妙で自在な話ができること。
    ―社長は、メモを見ながらスピーチをするようではいけません。そして、話題が豊富で、その場の流れを的確にとらえた話ができなければなりません。自分の頭で考え、相手の話を咀嚼して、それをさらに一段と広く深く気づかせるひと言、あるいは相手をほめてさらにプラスアルファする独創性が求められるのです。
  5. 人の心を見抜く力と卓越した判断力があること。
    ―大衆の心を見抜く力は、天性のものといってよいでしょう。とすれば、天賦の才に恵まれない者は、カリスマたらんとしてチャレンジし続けても如何ともし難いことになりますが、この点は、心理学を学ぶことでいくぶん挽回できるでしょう。
  6. 実行力があること。
    ―判断力が備わっているだけではダメで、実行力がなければ、人は心服しません。
  7. 口頭でも書面でも、明確な方向性を示して意思表示できること。
    ―話すときは、大きな声で歯切れよく断言することが肝要です。
  8. 潔いこと。
    ―うまくいったときは全員の努力の賜物であり、うまくいかなかったときは「オレの責任だ」と言える潔さは、カリスマ性の原点でしょう。
  9. 美醜という意味ではなく、魅力的な外見で、華(=大衆を魅了する力)があること。
    ―これもカリスマ性のとても重要な要素でしょう。
  10. 悪役になったときに上手にしのぐこと。
    ―カリスマは目立つ存在ですから、時局の変化によって、一気に悪役に仕立てられることもあります。それをしのぎきれなかったら、カリスマ凋落ということになります。

 

 

私がカリスマ性を感じた人物は、3人いらっしゃいます。

実際にお会いしたことがある方では渡邉恒雄氏(読売新聞主筆)そして、間近でお見かけした方では、中曽根康弘氏(元内閣総理大臣)、テレビでお見かけしたなかでは、吉永小百合さんです。

脱線気味になりますが、渡邉恒雄氏のことからお話しましょう。

私は、この3月3日~5日、九州・佐賀市にある矢山クリニックに行きました(このクリニックの主宰者である矢山利彦先生は、日本の最高の医師としての実力の持ち主であるとも評されています)。その治療が終わった直後、佐賀にて、2000年に政界を引退された山下徳夫先生とお会いし、食事会となりました。

実は、佐賀に到着した3月3日、佐賀伊万里の山下先生に挨拶すべく、携帯電話にご連絡をしました。しかし、案に相違して、山下先生は東京にいらしたのですが、私が佐賀にいることがわかると、東京からとんぼ帰りされ、3月5日正午に、わざわざ矢山クリニックまで私を迎えにきてくださったのです。山下先生は御年91歳です。

今回の山下先生との久方ぶりの再会で思い出したのが、2006年4月24日、ホテルオークラの日本料理「山里」にて、山下先生が渡邉恒雄氏をご紹介くださったことでした。そのときの渡邉氏との話題はいろいろありましたが、もっとも鮮明に覚えているのは、渡邉氏が手帳をご覧になりながら、読売ジャイアンツの投手の勝ち星を予想して、たとえば「彼は13勝する」等、星勘定されながら、「今シーズンは優勝だ!」と、楽しそうにおっしゃったことです。しかし巨人はシーズン当初1位を走っていたものの、終わってみれば4位に沈んでしまいました。要するに、渡邉氏の予想は当たらなかったのです。

投手の勝ち星を手帳に書き込み胸算用されている姿は、見方によれば、児戯に類することかもしれません。しかし、巨人の会長として、プロ野球ファンとしては、当然のことです。渡邉氏は天真爛漫な方なのです。まさに、人格・識見・手腕・力量、そして、多芸多趣味の要素を、全て備えている方と言ってよいでしょう。山下先生ともども、また渡邉氏にお会いして、プロ野球談義や巨人の優勝の見込みなど楽しいお話をご一緒できれば、これほどうれしいことはありません。

中曽根康弘氏は、二度ほどお見かけしたことがあります。そのうち一度は、伊東のサザンクロスゴルフ場の朝食会場で、奥様ともどもご家族の皆さんで朝食をとられていたところでした。確か、中曽根氏が大勲位菊花大綬章を授章された1997年4月29日のあとのことです。

中曽根氏はスピーチが本当にお上手であるということが、第一の印象です。聞いていて、感心してうなってしまうほどの雄弁家・達弁家です。中曽根氏は、私が前に挙げたカリスマの要素「④人の話をよく聞き、当意即妙で自在な話ができること」を、難なく実行できてしまう方です。

そして、何より私が感銘を受けたのは、中曽根氏が、昭和42~43年頃か、学生運動の華やかなりし頃、新聞の一般読者からの投稿欄に、中曽根氏が投稿されたことです。確か、10~20行ほどの簡潔なものでしたが、学生運動の状況を踏まえて、「そのために政治家は雇われている」というような内容の名文だったことを覚えています。

吉永小百合さんは、女優さんという文化・芸術の分野で活躍されている方ですが、人間としての内面的な素晴らしさが外見に表出していると感じさせ、人を心服させる静かで強い力を持っていらっしゃるのではないかと想像します。吉永さんには、まだお目にかかったことはありません。私の事務所が顧客をお招きして300~400人規模で行う毎年恒例の「年末講演会」にご出講いただけないかと、東映アニメーション株式会社相談役泊懋様を通して何度かチャレンジしたのですが、まだ実現できていません。吉永さんに是非お引き受けいただきたいという願いを、私は持ち続けています。

今後、このお三方を凌駕するようなカリスマにお会いできればうれしいかぎりですが、残念ながら、今の時代ではそれは叶わぬ夢なのかもしれません。

 

 

ご利用案内

内容につきましては、私の雑感等も含まれますので、真実性や正確性を保証するものではない旨ご了解下さい。

→ リンクポリシー・著作権

カレンダー

2015年8月
« 7月   9月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

最近の投稿

カテゴリー

月別アーカイブ

プロフィール

高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
https://www.law-pro.jp/

Nobuo Takai

バナーを作成