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2016年12月25日(日)8:15 須賀神社にて撮影


 

 

第18回「評価の真髄」
(平成28年6月20日)

 

 

かつて大宅壮一が一億層評論家時代と揶揄したように、当事者意識に欠ける第三者的発言をする者を「彼は所詮、評論家にすぎない」という場面は、よくみられるものだ。これらは評論家を名乗る人には失礼な言辞だろうが、一面の真理である。自分自身には経験も技量もないのに上から物をいうように論評を展開しても、説得力はなく、概ね共感を得られない。

あらゆる分野に評論家はたくさん存在する。しかし、実際に経験した者でなければ物事の真髄は分からない。プロ野球の例でいえば、野村克也氏は自分自身が秀でた捕手であり監督であったからこそ、優れた野球評論ができ、視聴者や読者を唸らせるのである。また野村氏は、愛のある非難・叱責であれば選手に愛が伝わるという発言をしているが、選手の成長を旨とするこうした視点も、評論に深みを与えているに違いない。

評論と似て非なる概念に、「評価」がある。私なりの理解では、評論とは対象物の世界を研究して丹念に論じながら本質に迫る努力であるのに対し、評価は一定の理由付け・基準の下に対象物の価値を相対的に定める行為である。いずれも、対象物の成長と社会の進歩に裨益するものでなければならないという使命を負う点では共通である。つまり、評論・評価される側が、第三者の見解を受け入れ、克服し、挑戦する意気込みを持ち得る内容であることが求められているのである。

企業における人事考課は、「評価」の代表例の1つである。成果主義人事制度・賃金制度は、従前の終身雇用に基づく年功給を見直し、仕事の「成果」をいかに評価して賃金に反映させるかに腐心してきた。裁判例は大要、基本的には使用者の総合的裁量的判断が尊重されるとして、当該制度の手続き・基準等が合理的であるか、これら手続き・基準による評価が適切に行われているかを判断している。つまり、公明・公正・公平が保たれ、恣意性が排除されているかということになるだろう。評価者は一定基準の下で判断するという点において裁量が認められ、また、格付けが念頭に置かれる以上、多かれ少なかれ評価は主観に基づかざるを得ない。

そもそも人間社会における「評価」の起源は、原始の動物としての人間の営みに求められるのではないか。生きるか死ぬかの食料をめぐる生存競争を繰り広げていた人間が、独力では勝てないときに信頼できる者・能力のある者を選んで仲間を形成し始めた。その過程で、協力し合えるか、信頼できるか、能力があるか等について判断し、「主観」による真剣な選別がなされた。ここに人間社会での「評価」が始まり、私たちのDNAに刷り込まれているのではないか。しかし、仲間が増えると、評価について皆を納得させる客観性も必要になってくる。そこで評価の「基準」が生まれたのではないか。つまり、組織を秩序立てるために評価という手法が生まれ、主観に加えて客観性を担保する基準が採用されたのであろう。

近未来はAIの発達もあって一層無機質なハイテクの時代になる。評価システムにもAIが活用されるだろう。だからこそ、私たちは、相手を尊重し愛情をもって互いに見つめ合い、謙虚な姿勢でハイタッチで評価することの意義を重視しなければならない。血の通った評価こそが、人間味のある付き合いを活性化させ、社会に落ち着きをもたらす。これこそが、これからの評価の真髄なのである。

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