2017年4月15日のアーカイブ

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第12回目です。
  • 第12回目は、大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社名誉会長 小林幸雄様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第12回)■ ■ ■ 

大鵬薬品工業株式会社特別相談役・ニチバン株式会社

名誉会長 小林幸雄様  

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[大鵬薬品工業株式会社 特別相談役・ニチバン株式会社  名誉会長

 小林幸雄様 プロフィール]

小林幸雄様のお写真

昭和38年6月大鵬薬品工業設立、代表取締役社長就任。ニチバン株式会社が倒産の危機に瀕した昭和51年より同社の再建に携わるニチバン再建の立役者。

昭和52年ニチバン株式会社取締役会長就任。現在、大鵬薬品工業株式会社特別相談役、ニチバン株式会社名誉会長。

 

 

 

[今回の同席者は以下の通りです]

  • 大鵬薬品工業株式会社 総務部副部長 兼 秘書室長 坂東康子様
  • 高井伸夫 

取材日:2017年1月31日(火) 於:東京 芝 とうふ屋うかい

 


 

高井

ニチバン株式会社再建に際して、会長には「販売即経営」というものを教えていただきました。この概念の意味について、今一度教えて下さい。

 

小林様

ニチバンに関わるようになった当時、ニチバンは組合が強く、ストライキがよく起こっていました。昭和51年、石油ショックが終わった後です。

メーカーであれば、販売即経営なんてものは唱えなくても販売するのが当たり前です。しかし、当時はストライキばかりで工場の稼働率が非常に悪く、数少ない商品を営業の連中に割り当てて売っているという、常識では考えられない状態でした。営業努力も何もありませんでした。ストライキが多いので、生産量も少ない。会社として立て直すには生産性を上げなければならないと思いました。当時ニチバンは7時間労働で土曜日は休みでした。そういうことで、まだまだ生産できるだろうと考え、営業時間延長をして、土曜日も稼働させました。これがまた組合との係争のもとになりましたが・・。

倒産の危機、会社の現状がそういうことでありましたので、販売しなければ会社そのものを維持できないんじゃないかという事情、背景があったということが、「販売即経営」ということになった次第です。

 

高井

ニチバンの再建を引き受けられた経緯について教えて下さい。

 

小林様

昭和47年以降の第一次石油ショックの時代、他の企業も色々と石油ショックの影響で経営が非常に苦しくなってきていました。ニチバンはもともと製薬会社で、我々(大鵬薬品工業)と同業ですので、業界の会合でお会いしており顔見知りでした。

昭和50年に、当時の歌橋均也社長からニチバンが苦しいということで、大阪工場を買ってくれないかという話がありました。詳しく聞けば、従業員500人を人員整理したとのことでその費用に10億円かかったそうです。10億円を銀行から借りて人員整理をしたものの、銀行から督促が厳しい。石油ショックで土地の値段が高騰していたこともあり、大阪工場は10億円近い価値がありましたので、これを売って返済したいということです。

藤井寺にある大阪工場へ行くと、人員整理した後でもまだ社員が働いていました。工場を売ると言っても、大阪工場で働いている従業員はどうするのか?と聞いたら、従業員のことは考えられない、とにかくはやく工場を売って10億円を返済したい、との話でした。

それならばと思って増資を勧めました。第三者割当をして、我々が引き受けるという形にすれば工場を売らなくても10億円という金を用立てできるのではないか、と提案しました。歌橋社長が一旦会社に持ち帰って検討したそうですが、役員会で非上場会社のよくわからんところの話なんて、ということで、剣もほろろに断られたそうです。

昭和50年の暮れにそういった話を提案しましたが、役員会で断られて話は流れてしまいました。

 

ニチバン再建の話は、いったんは流れていたのですね。

 

小林様

当時、ニチバンは11月が決算、2月が総会でした。昭和51年2月の総会が終わったあとに歌橋社長と再度お会いしました。経営不振で従来の役員を全員リタイヤさせて役員の平均年齢が70歳になりました、と言われ大変驚きました。

 

高井

平均年齢70歳というのは若返ったということですか?

 

小林様

そうです。設立以来の80歳近い年齢の方々がそれまで残っていたそうです。当時私は44歳でしたので、本当に驚きました。3月になって今度は歌橋社長とニチバンの経理担当常務であった茂手木秀一氏にお会いしました。歌橋社長と話をしていたら、茂手木氏から「何の話をしているのですか。明日ニチバンは壊れますよ。倒産しますよ。」という訴えがありました。そこで、「以前申し上げたとおり第三者割当をしたらどうですか。」という話をして、急速に話が進んで行きました。半額時価発行増資を行い、第三者割当によって増資発行株数1200万株をすべて大鵬薬品工業で引き受けることになりました。当時1株89円ですから、1200万株で9億6000万円です。

 

高井

1株89円。正式に支援をされた当時、昭和51年ですね。銀行とのお付き合いは良好だったのでしょうか。

 

小林様

資本参加と同時にニチバンの最高顧問に就任しました。

当時、興銀から招聘した役員の方がああでもないこうでもないと役員会で発言してまあ簡単に言いますとやりにくいのです。思い切って興銀にこの人を引き取ってくれと言いました。そうしたら、興銀の支店長に怒られました。興銀から招聘したのは、ニチバンのオーナーから直々に申し入れがあって派遣したのだと言うのです。私は知りませんでした。その人物を引き取ってくれとは何事かと、当時の東京支店長に怒鳴りつけられました。その時に「興銀を鵺と思えと、ニチバンを壊す!」と言われたのです。私も経営者の端くれです。黙ってはいられません。

当時、ニチバンは設備資金を興銀から7億円を借り入れていました。丁度その時に大鵬薬品工業の取引先に大和銀行があったので、大和銀行に行って、7億円現金で用意してくれと言いました。かくかく云々で興銀の支店長からひどく言われて、こっちも意地があるから7億円を返す、といいました。7億円なんて風呂敷に包んで持っていけるものじゃないと諭されました。しかし、意地があったので、現金で持っていくんだと意気込んで、「ニチバンの従業員20人を動員して持っていくから、とにかく用意してくれ。」と言いました。そしたら「よし、面白いからやるか。」ということで話が付いたわけです。

 

高井

それで、その後興銀とはどうなったのですか。

 

小林様

7億円の話がついたので、すぐに興銀に「今までお世話になりました。ニチバンを壊すなどと言われて穏やかではいられませんので、借金してでも7億円返します。」と伝えました。そうしたら、興銀の支店長が驚いて、ニチバンに飛んできました。「本当に返すのか。」と聞かれたので「明日には届けます。7億円現金で、お宅に運びこみますので、よろしく。」と言いました。そうしたら「待て」と言うのです。聞くと、行内手続の関係で不在にしている副頭取に指示を仰ぐ必要があるから、しばらくこの件は延期してくれ、と言われました。そこまで言うなら仕方がないと思い待つことにしました。

そして1週間後に興銀から電話がかかってきて、副頭取から会いたいので本店まで来てくれというのです。銀行に行くときにはいつも経理担当を連れて行きますが、その時は1人で来てくれということで、変だなと思いました。1人で興銀の本店へ行きましたところ、役員室に通されました。副頭取以下、専務、東京支店長であった常務、役員が7~8人がずらーと並んでいました。そして、副頭取が私の顔を見て、「ニチバンの小林さんはあなたですか?」と言うのです。「東京支店長である上田が興銀に入社して、32年、色々な経営者に会ったが、すごい経営者だ、今まで見たことのないような経営者だと言う。ニチバンの小林さんはあなたですか。」ということで手を握られました。副頭取にそう言われて、私はのぼせ上ってしまいました。

後から思えば、鼻息の荒いのが来るだろうから、ということで色々と打ち合わせをしたのだと思います。副頭取に手を握られて役員食堂に案内されました。役員食堂にホテルオークラのケータリングが入っていたのです。ケータリングのフランス料理を昼間から御馳走になってワインを飲んで、お土産にホテルオークラのクッキーをもらっちゃった。「この件はまあまあ穏やかにして、従来通り興銀とニチバンでやりましょうよ。言葉の行き違いもあったと思うのですが。」ということでおだてられちゃって、ワイン飲んでいい気分になっちゃって。(笑)

 

高井

それで興銀、大和銀行とはその後どうしたのですか。

 

小林様

それで大和銀行に行って、やっぱりお金は要らないといったら今度は大和銀行に怒られました。笑。本当に漫画みたいな話ですが、そういうことがありました。私もまだ若かったので、怖い者知らずで、銀行とやりあったわけです。そういったことで銀行とやりあって興銀と仲良くなりました。

 

高井

そんなやり取りがある一方で、組合との関係はどうだったのですか。

 

小林様

51年の暮れから52年の正月にかけて組合がストライキをやりました。1ヶ月以上続くストライキです。対立が激しくて全然組合と話にならず、もうニチバンはダメだなと思いました。組合自身があまりにも激しくて、この時ばかりは再建は無理だと感じました。そして再建から手を引くとういことを宣言しました。52年の1月20日です。そう宣言したら、経営者にも組合にも必至になって止められました。それで、会社が軌道に乗るまではストライキを辞めてくれということで、なんとか組合と再建協定を締結するに至ったのです。

 

高井

再建協定によってストライキがおさまり、経営は上向いたのでしょうか。

 

小林様

ストライキを辞めたら、今度は在庫が増えてしまいました。そういうことは予測ができましたので、そのうち資金繰りが苦しくなると当時のメインだった富士銀行に夏頃から根回しをしていました。

実際に在庫が増えて資金繰りが苦しくなってきたので、いよいよ実際に話をしようということで、富士銀行の支店長に会いに行ったのですが、なかなか会っていただけませんでした。アポイントが取れず、銀行が開店する前の7時半とかに通用門が開く時間から立って待っていても会えない。支店長が会ってくれないので、ついに富士銀行にも見捨てられたのか・・・と。見捨てられたとなれば対処しなければなりませんので、融資担当の役員の方にご挨拶しなければと思って、常務にアポイントを取りました。

それで、常務にお会いする当日になったら、なかなか会えなかった支店長が出てきて「会うのを辞めてくれ」というわけです。

そうはいっても、役員の方にアポをとっており会わないわけにもいかないので役員の方にご挨拶しました。かくかく云々で・・・ということを話しましたら、常務が支店長を怒りました。「何を考えてるんだ、富士銀行はそんな銀行じゃありません」と。常務が私に頭を下げて「申し訳ない、そんな態度をとった支店長はとんでもない奴だ。従来通り、ニチバンと富士銀行とお付き合いをしてください。」と言うのです。その後、支店長は群馬県の会社に転籍されました。随分厳しかったです。銀行とは不思議なご縁がありました。

 

高井

他にもエピソードはありますか。

 

小林様

実は、三菱銀行でもあります。昔ニチバンの工場が品川にあり、三菱銀行品川支店が当時のメインバンクでした。ニチバンの再建をするに当たり、岩崎寛弥さん、岩崎弥太郎の玄孫に当たりますが、この方にご縁があってご挨拶にいきました。

当時、銀行とは株の持ち合いをしていました。三菱に限らず他の銀行とも株を持ち合っていました。それが、三菱はニチバンの株を全部売ってしまっていたのです。なんだ、三菱はニチバンをもう見捨ててしまっているじゃないかと思いました。三菱銀行の当時の頭取から、それは申し訳ないので本店に来てくれ、と言われて本店に行きました。

銀行には、いつも昼ごろ呼ばれます。役員食堂で、また、ホテルオークラのケータリングでした。当時銀行はみんなホテルオークラのケータリングでした。フレンチです。三菱銀行に御馳走になって、お詫びをされました。その後、三菱銀行はニチバンの株を買い戻しました。80円程度の株価が400円とか、500円になってしまっていたのに買い戻したのです。

 

高井

銀行との話は面白いですね。組合との話より銀行との話の方が面白いですね。

 

小林様

面白い話といえば、私がニチバンの再建をするといったら、銀行は反対をしたんです。興銀が最初に反対しました。再建は難しいからやめろと。大和銀行なんかは潰してから行け、あそこは組合が厳しいから潰してから行けと言いました。そうだった、高井先生だってやめろっておっしゃいましたよ。

 

高井

当時のニチバンは組合が激しくて、再建は難しい状況でした。小林様を奮い立たせたものは何なのでしょうか。

 

小林様

考えてみれば銀行全てにやめておけと言われました。苦労するだけだと。逆にそういわれたことが1つの反発心でした。そこまで言われたら、何とかしなければならないという気持ち、それが大きかったです。

 

高井

ニチバンが軌道に乗るまでにどのくらいかかりましたか。

 

小林様

6年かかりました。私が行ってから、6年赤字が続いて、昭和57年にはじめて復配が出来ました。昭和47年から10年間無配でした。役員賞与も出ていませんでした。復配で役員賞与を出すことになったら、経理担当者が10年間も出していなかったから役員賞与の計算方法が分からないと言いました。そんなこともありました。

 

高井

復配になってからは無配に陥ったことはありませんか?

 

小林様

それからずっと配当は続いています。

 

高井

現在のニチバンには内部留保はあるのですか。

 

小林様

まだまだ少ないですが、セロハンの主力工場の三河安城に移す大阪工場の移設投資も自己資金でやっていますし、子会社ですが、九州にあるニチバンメディカル株式会社も自己資金で作っています。ニチバンそのものは内容のいい会社になっていますよ。

私がニチバンの会長を辞める時に株価が280円から300円くらいになっていました。私が辞める時の株主総会で、それでも株価が安いという意見があったのですが、ニチバンの内容からするとすぐに500円くらいになりますと言いました。そういう内容の会社になったのです。実際に今は、500円を超えて900円になり、1000円を突破しました。私も86歳になりました。

 

高井

本日は、貴重なお話をありがとうございました。

以上

 

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