2017年7月25日のアーカイブ

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第17回目です。
  • 第17回目は、ナミHRネットワーク 代表 人事コンサルタント 川浪年子様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第17回)■ ■ ■ 
ナミHRネットワーク 代表
人事コンサルタント 川浪年子様
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[ナミHRネットワーク 代表 川浪年子様 プロフィール]

川浪様

1947年、東京下町生まれ。フジテレビ、外資系旅行代理店を経て21歳で結婚し、夫の転勤に伴いグァム島に転居。現地で女児を出産した後、香港系の免税店にてセールズクラーク兼在庫管理要員として勤務。 

帰国後1976年、米国デュポンの日本支社入社、同時に離婚。デュポンで総合職に抜擢され、1990年にはアジア太平洋地区初の女性情報システム部長に就任するも、米国留学の夢をあきらめきれず、デュポンを退職した翌1993年米国バーモント州SIT大学院に入学。 

1995年、異文化マネジメント修士号を取得。帰国後東京ベイヒルトン 人事部長、リーボックジャパン 人事総務部長、エース損害保険 取締役人事部長を歴任、エース保険米国フィラデルフィア本社 国際人事部、中国の華泰(フアタイ)保険北京本社人事シニア・アドバイザーを経て、2004年9月にエースを退職し帰国。翌2005年、駐日英国大使館人事マネジャーに就任。定年退職した2011年8月より人事コンサルタントとして独立。

一方、2010年より3年間にわたり、英国国立ウェールズ大学経営大学院 東京キャンパスにおいて 日本語MBAプログラム の一環として「リーダーシップ」コースの教鞭をとる。2013年より海外産業人材育成協会が主催する、スリランカで選抜された企業幹部向け二週間の「シニア・マネジメント・リーダーシップ・プログラム」のコースディレクターを務め、本年11月に5期目を担当する予定。 

人事分野に直接携わってきた直近の22年をはじめ、長年、組織の変革及びリーダーシップの開発に格別の情熱を注ぎ、幅広く関わってきた。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 株式会社開倫塾 代表取締役社長 林明夫様
  • 高井伸夫 
取材日:2017年5月18日(木)日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 

 


高井

川浪さんは今、どのようなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか。

 

川浪様

2011年に独立し、人事コンサルタントとして活動しています。2年前から、Xcendant(センダント)いう名前のスリランカのIT企業と、日本のIT企業である株式会社ウィザードの顧問として、両社のコミュニケーションのサポートをしています。また、その他にはリーダーシップ開発に関するセミナーのファシリテーターを頻繁に行っています。毎週、スカイプでの会議に参加し、両社のビジネスに関するやり取りのほとんどを把握した上で、サポートしています。

 

高井

スリランカの会社はどういったことを希望しているのでしょうか。

 

川浪様

日本からシステムの開発を請け負いたいんです。オフショア開発(注)と言われていますが、それがかなり盛んで、日本に進出したい、パートナーを見つけたいという会社が多いんです。センダントとは2年以上前に仕事を通して知り合いましたが、日本でパートナーを探してほしいと依頼され、ウィザードが、私が拙い力でようやく見つけた日本のパートナーです。

注:オフショア開発とは、情報システムやソフトウェアの開発業務を海外の事業者や海外子会社に委託・発注すること。営業や企画、設計、納品、サポートなど顧客に近い業務は本国で、実装やテストなどを海外で行なうといった形で分業することが多い。 

センダントが開発した他のシステムを、日本の社長にもスリランカに行って見ていただく機会があり、センダント社がインドの企業にも決して劣らないシステム開発力を持っていることがわかりました。それから双方で様々なプロジェクトが盛んに行われています。まだまだ決して成功していると言えるところまでは行ってはいませんが、必ずや上手く行くと信じています。

 

高井

ところで、川浪様の経歴について教えてください。かつて所属したことのある会社の数、仕事の内容をそれぞれ教えてください。

 

川浪様

今まで、わずかな期間でも籍を置いた、あるいは常駐した会社を含めると17社です。一番最初はフジテレビで1年8か月在籍し、人生最初の転職をしました。今はもう存在していないと思いますが、トラベルセンターオブジャパンというアメリカの旅行会社で、帝国ホテルのロビーにあるブースでした。その次がリオ・ティント・ジンクというオーストラリアの大きな鉱山会社の日本における連絡事務所です。

 

その次は、結婚して夫がグァムに転勤になったので、グァムの免税店で働きました。3年余り勤務し日本に帰国し、帰国後は、アンドリュース商会という、イギリスの会社でアシスタントをしました。娘が小さかったため、パートで働き、そのあとに、デュポンジャパンに入ったんです。デュポンには16年いました。

 

デュポンを辞めてから、アメリカのバーモントにある大学院に2年間留学しました。この大学院では、キャンパスでの授業が1年間フルにあり、そのあとどこかの組織でインターンを半年以上やらなければいけないという大学院でした。インターンを終えて、サンフランシスコへ移りました。大学院の卒業論文は、世界中どこで書いてもいいので、サンフランシスコでは卒論を書きながら、州立大学で自分の好きな人事関連の科目を受講しました。

 

高井

大学院とは別に、サンフランシスコ州立大学で社会人教育を受講されたんですか?

 

川浪様

はい、“生涯教育”と呼んでおり、ダウンタウンに教室がありました。私は、Legal Aspect of Human Resource Management”と言って、日本語に訳すと、“人事管理の法的側面”とでもいいましょうか、それと人材育成関連のコースを受講しました。大学院で修士号をとり、サンフランシスコでの生涯教育も終え、そのあと5週間くらい、第二外国語として英語を教える方法だけに特化している専門学校に行きました。英語を初めて学ぼうとする人達に、最初から限られた英語を使ってどうやって英語を教えて行くのかという授業です。

 

林様

第二言語習得理論というのがありますが、それに基づいた第二言語としての英語を教える特別な資格ですね。

 

高井

日本に戻られたのはいつ頃ですか。

 

川浪様

日本に帰ってきたのは、1995年9月です。そのあとすぐに、東京ベイヒルトンに就職いたしました。はじめての人事部長のポジションでしたが、仕事に対しては、ほとんど違和感がありませんでした。これは全くデュポンのおかげだと思います。

デュポンという会社には16年間在籍しましたが、当時リーダーを育成することに力を入れていました。部門にかかわらずどのリーダーも人事というものをかなり理解させられていたんです。ただ、ヒルトンで一番大変だったのが組合との折衝でした。情熱あふれる若者が数多くいる組合で、あっという間にいい関係を築くことができましたが、その反面、トップからの信頼よりも組合からの信頼の方が大きくなってしまい、一年もしないうちに辞めることになりました。

ありがたいことに、スニーカーのメーカーであるリーボックからヘッドハントされて、人事・総務のトップになりました。しばらくして昇格して香港転勤をオファーされました。最初はかなり喜びましたが、香港に行く直前になって、リーボックが全世界でリストラをやることになったから、日本でも終えてから行ってくれと言われました。リストラを無事に終えますと、今度はオフィスの引っ越しをするから、リロケーション・プロジェクトをやってから行って欲しいと言われたのですが、そうこうしているうちに、エース損害保険からヘッドハントされました。そこで高井先生と出会うわけです。

 

高井

リーボックで昇格して香港には行かずに、エースに転職されたのは何故ですか。

 

川浪様

一つはヘッドハントされて誘われたというのがありますが、実はずいぶん悩みました。鉛筆を倒して、香港に行こうか日本に残ろうかと・・・。が、香港ではやることが決まっていました。リストラです。日本から女性のマネジャーがきてリストラをやる、それが現地の人にとってどんなに嫌なことかと考え始めました。そんな嫌な役をやるよりも、日本でこれだけ求められている、大変かもしれないけどエースに入った方がいいのではないかと思い始め、転職の決意をいたしました。エースでは日本で4年、フィラデルフィアと北京で2年と、合計6年間在籍しました。

 

高井

エースで6年勤められて、その後、どちらへ転職されたのですか。

 

川浪様

エース保険が筆頭株主となった中国の華泰(フアタイ)保険北京本社に人事のシニア・アドバイザーとして出向していた際に、ハートフォード生命というアメリカの会社からヘッドハントされて日本に帰ってきたんです。残念ながらアメリカ人のCEOと考え方がまるで違いました。当時、ハートフォード生命は大成功していましたが、ビジネスの展開と組織の拡大とがそろっていなかったのです。こんな時こそ、新しいことを考えなければならないと思っていたのですが、トップは型にはまったままでとにかくやれ、と。それでいて毎晩、その日のリポートを提出させられました。結局、区切りとなる半年間だけ勤務して辞めることにいたしました。

そのあと直ぐに、英国大使館の募集を見て応募し、人事マネジャーになりました。

 

高井

英国大使館には何年勤務されたのですか。

 

川浪様

58歳から64歳までの6年です。英国大使館が日本に来て130年経っていたのですが、初めての人事マネジャーとなりました。あらゆる変化が求められている時期でした。私が手掛けた一番大きな変革は、年功序列からパフォーマンス・ペイシステムへの移行でしたが、多くの反対もあり、大変な苦労をしました。が、結果的にはかなり上手く行き、やりがいがありました。64歳になり、自分が作った就業規則に基づいて、私が定年退職者の第一号になりました。

 

高井

64歳で自身が作った就業規則に則って定年退職された。今まで川浪様が在籍された企業は外資系企業が多いようですが、一番働きやすかった企業はどこですか。

 

川浪様

この50年間、日本の企業はフジテレビだけで、あとは全部外資系でした。デュポンの16年をはじめとして、アメリカの企業が一番長かったことになります。一言で言いますと、アメリカの企業がもっとも働きやすかった印象はありますが、それよりも、人事をやるようになってから考えたことは、働きやすい、働きにくいというのは、上司、つまりトップがどういう人かにつきると思います。部下を信頼できずに、小さいところまで管理するような上司、トップのもとでは働きにくいとつくづく感じています。

 

高井

まさにトップ次第ですね。ご自身の定年は考えていますか。

 

川浪様

4月に70歳になりました。定年についてはよく考えますが、「ノー」というのが苦手なもので、次から次へと新しいお話をいただいているうちは、働き続ける・・・それが私の生き方かなと思うようになってきた今日この頃です。

以上

 

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