2018年1月10日のアーカイブ

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第28回目です。
  • 第28回目は、カオハガン島 オーナー崎山克彦様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第28回)■ ■ ■ 
カオハガン島
オーナー 崎山 克彦 様 
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[崎山克彦様 プロフィール]

崎山様

1935年福岡県生まれ。慶應義塾大学卒業。米国カリフォルニア大学バークレイ校の大学院でジャーナリズムを専攻。講談社、講談社インターナショナル取締役、マグロウヒル出版ジャパン社長など、30年のサラリーマン生活を送る。1987年、フィリピン、セブ島の沖合い10キロに浮かぶ、周囲2キロの小島、カオハガン島と出会う。島を買い、1991年、移り住む。2017年の6月まで、島の暮らしの改善、島の小さな宿泊施設「カオハガン・ハウス」の運営などに携わる。著書に『何もなくて豊かな島』(新潮社)、『小さな南の島のくらし』(絵本。福音館)他。著書の数冊が、台湾、中国、韓国で翻訳出版されている。

(写真は崎山克彦様 取材日撮影)

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 大河実業株式会社 代表取締役社長 何軍 様
  • 高島さつき(書記役として)

取材日 2017年10月12日(木)於 日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

崎山様は、カオハガン島での生活は何年になりますか。

 

崎山様

島に出会ったのは1987年、住み始めたのが1991年です。ですからカオハガン島での暮らしはもう27年になります。

 

高井

カオハガン島を購入された経緯を教えてください。

 

崎山様

私は出版社に勤め、英文で、日本の文化を海外に紹介する出版物の作成を仕事としていました。世界中を舞台にした、非常に楽しい、意義を感じた仕事だったのですが、私はある考え方を持っていたので、52歳になった1987年に仕事を辞めました。少し、のんびりとしてみよう。そして海が好きだったので、昔からやっていたダイビングをもう一度はじめたのです。

家の近くのダイビング・ショップが、海外でダイビングをしたい人をフィリピンのセブ島周辺の海に連れて行っていたので、私も、一緒にセブ島にダイビングに訪れるようになりました。そして、セブ島での、ダイビングの親玉のようなドドン・ペニャさんととても親しくなりました。ある日二人で海に出ているときに、ドドンさんは遠くに霞んで見える島を指差して、「私はこの辺の海域を知り尽くしているけれど、あの島が一番美しい島なんだ。行ってみないか」と言われたのです。それがカオハガン島でした。私は仕事で世界中を回っており、合間にたくさんの島々にも訪れていましたが、カオハガン島はほんとうに胸が躍るような美しい島でした。しばらく魅せられて呆然としていると、ドドンさんが「この島は今売りに出ているんだよ」と言ったのです。驚いてしまいました。しばらくして「いくらですか」と聞いたら、当時の日本円で一千万円くらいということでした。私も退職金をもらったばかりだったので、「じゃあ、お願いします」と言って、その場で、購入を決めてしまったのです。 美しい女性と出会って恋に落ちてしまった、そんな感覚でした。

カオハガン島

(写真は海に浮かぶカオハガン島)

高井

崎山様がカオハガン島のオーナーになった当時は、島民はどういう生活をしていたのですか。 

 

崎山様

当時、約30年前の島の人口は、330人くらいでした。潮が引いたときに家族総出で海に出て、魚や貝をその日に食べる分だけ採っていました。農業はやっていなかったので、辺りに生えている、食べられる草の葉っぱを採ってきて、スープや煮物などをつくって食べていました。主食はトウモロコシを挽いたものを食べていましたが、トウモロコシはカオハガン島にはありません。少し離れた大きなボホール島のひなびた港に、金曜の朝に交換の市が立つのです。そこへ付近の島々の人たちは魚を持っていって、野菜や果物や材木などと交換していました。ですから、狩漁と交換で、必要なものをすべて集めていたのです。

驚いたことに、フィリピンの第二の都会のセブから一時間も離れていないカオハガン島で、当時は、現金が使われていなかったのです。でも、皆がほんとうに幸せそうに暮らしていました。

 

高井

崎山様がオーナーとなり、島民と暮らすようになって、どういった変化がありましたか。

 

崎山様

はじめは、大きな自然の中で、島民と同じようにゆったりと暮らそうと思っていました。ところが島に来てくれた大学生のNGOの方と話をしていたら、人間はいくら幸せそうに暮らしていても、生活に最低限必要なもの「ニーズ」が満たされていなければならない。具体的には、教育、医療をきちんとしなければと言われたのです。学生さんに言われたんですが、なぜかその言葉が心に残りました。そうして実際に島で、教育と医療の援助をはじめたのです。

当時カオハガン島では、小学校の2年までの教育しか行われていなかったのです。そして3年になると、隣の島の小学校に行くことになっていました。しかし、当時は皆が教育にはあまり興味がなくて、ほとんどの人が教育を受けていなかったのです。それではまずいだろうと、政府に働きかけ、私たちも校舎を建てたりして協力し、6年制の小学校を創りました。今では年齢に達した子どもたち全員が小学校に通っています。

また、成績が優秀でやる気のある子どもたちに我々(NGO「南の島から」)が奨学金を出して、ハイスクール、大学で学ばせるようにしました。今では、20人以上の人が大学を卒業しています。 

医療は、島には、「マナナンバル」と呼ばれている民間のお医者さんのような人がいて、病気になると診てもらっていました。セブまで行けば良いお医者さんがたくさんいますが、現金がないのでかかれなかったのです。マナナンバルに診てもらってかなりの病気が治っていましたが、治せない病気も多く、当時は生まれた子どもの三分の一が3歳になるまでに亡くなっていたと言われていました。

それではまずいだろうと、島民が大きな病気にかかると、我々がセブの病院に連れて行って治療を受けさせることを始めました。費用は我々が負担していました。 

今では、奨学金でセブの大学を卒業し、医療関係の「ミド・ワイフ」という助産婦のような資格を取った島民が3人います。この3人が中心になり、政府からお薬をいただいて、島に「ヘルス・センター」をつくりました。また、島民全員が、国の健康保険、「フィルヘルス」に加盟し、大きな病気にかかっても、セブの公立の病院に行けば、ほとんど無料で、治療が受けられようになっています。

 

高井

島民の生活レベルは上がっているのでしょうか。現金収入は増えているのでしょうか。

 

崎山様

魚や貝を採り、足りないものは交換で得て、シンプルな暮らしを楽しんでいた島民たちの日々に、少しずついろいろな情報が入ってくるようになり、島民たちの欲望もだんだんと膨らんできたようです。良いかたちでの現金の収入の道を考えてあげなければ。 

私が島で暮らしはじめ、数年が経って、『何もなくて豊かな島』という本を出版し、それを読んで、ぜひカオハガンに行ってみたいという人が増えてきました。そして、その人たちを受け入れる、「カオハガン・ハウス」という宿泊の施設を創り、今では50人くらいの島民たちが働いて収入を得ています。その他にも、お客様相手にマッサージをしたり、島で採れる素材を使って、ココナツ・オイル、食塩、木工のお皿などを創ったり、「珊瑚礁保護区」をつくりその保全と、案内をしたりと、全部で120人くらいの人が現金の収入を得ています。

もう一つは、キルトです。日本でキルトの先生をしていた私の妻の順子が島民にキルト創りを教え、今ではユニークなアート「カオハガン・キルト」として、世界的な評判を得るまでになっています。100人以上の人がキルトの製作に携わっていて、けっこうな収入を得ています。 

今から6年ほど前に、カオハガン島民の一家族(平均7~8人)の月の平均収入を調べたのですが、4,000ペソ、そのときの日本円で約9、500円くらいだったのです。20数年前にはゼロだったので、私はずいぶん増えたなと思いました。

ところが調べてみると、世界銀行や国際連合では、世界の最も少ない収入のレベルの地域というのを公表していて、それによると、カオハガンの収入は、世界で最も少ない収入レベルの地域の、更に三分の一くらいだったのです。驚いてしまいました。

カオハガン島の海辺

(写真はカオハガン島の海で貝を捕る親子)

高井

カオハガン島の平均現金収入が、世界で最も収入が少ない地域の三分の一なのですか。

 

崎山様

そうです。現金の収入だけから見れば、カオハガンの暮らしは、世界で最も貧しい暮らしの、更に三分の一くらいの、最貧困の暮らしだったのです。ところが、島民たちは皆が、ほんとうに幸せそうに暮らしているのです。

なぜなのだろうか、島民を含めて皆で話し合いました。そしてその結論が、次のようなことだったのです。

カオハガン島は、ほんとうに手付かずの自然に囲まれていて、島民たちはそこからいろいろな恵みをいただいています。海からは、魚や貝。葉っぱを摘んで食べたり、薬になる草や木。島には水道はありませんから、飲み水以外の生活用水にすべて雨水を使っています。それから、太陽の光、爽やかな風。そのようなたくさんの自然の恵みをいただいて、その恵みに対して、島民は心からの感謝をしているのです。

私たち日本人が、ほしいものを買って手に入れたとしても、感謝の気持ちはありません。自分でお金を払って買ったのですから。でも、カオハガン島の皆はほんとうに感謝をしているのです。だからでしょう、それを皆で分けて暮らしています。例えば、潮の引いた海に出て自分の家族がその日に食べる分の魚や貝を採ってくるのですが、周囲に病気か何かで採りに行けなかった人がいれば、すぐにあげてしまう。年寄りの人にもあげてしまう。皆がシェアをして生きているのです。

ほんとうに大きな自然に包まれて、そこからたくさんの恵みをいただいて、それに心からの感謝をして、皆で分け合って暮らしている。これが、現金収入としては最低レベルなのだけれど、皆が心から幸せを感じて生きている秘密なのだということを理解しました。

それを今、私たちは、カオハガンの「誇るべき文化」なのだと思っているのです。

 

高井

恵みをシェアして幸せに生きる。それがカオハガンの文化ですね。 ところが、崎山様は、今年2017年の6月1日の誕生日に82歳になって、カオハガンの日常の運営から引退されたそうですね。今後は、どういった活動をされるのでしょうか。


崎山様

私は、まだ定年前の52歳のときに会社を辞めました。人生は四つの「期」から成っているという考え方が、インドには昔からあるようなのですが、その思想に影響を受けていたようです。

その四つの期。最初は「学生期」で、学ぶ時期。次が「家住期」で、働いて収入を得て、結婚をし家族を持つ。そして社会に貢献する。日本では、この二つの期を終えて、定年に達した後は何もすることがない。私は、そんなふうに感じていました。

しかし、インドの考え方では、この後に、まだ二つ期があるのです。次が「林住期」。昔の話ですから家族から少し離れて林に入って、また違う考え方で生きて、そこで学んだことを「家住期」に還元するというような考え方です。私にとっては、カオハガンの暮らしが、その三つ目の「林住期」だったのです。それが今終わって、これから、最後の期の「遊行期」に入るのです。 

現実には、「林住期」を終わってから、また「家住期」に戻ってしまう人が多いそうですが、少数の人だけが「遊行期」に入れるのだそうです。まだ私は「遊行期」の詳しい意味を理解していないのですが、完全に現実社会から離れて、解脱や涅槃といった悟りの生活に入るようなのです。

私は、これから、自分の「遊行期」の生き方をゆっくり、じっくりと考えていきます。 自然の中でできるだけ本を読んで、次の世代を平和で、すばらしいものにするためにはどうしたら良いのかを、しっかりと考えたいと思います。また、本を書いて、多くの方に伝えたいと考えています。 

カオハガンで、これから私の後を引き継いでくれる日本人女性、嘉恵さんと佑子さん。二人とも島の男性と結ばれて1歳前後の子どもがいます。彼女たちは、ほんとうに忙しく、しっかりと働いてくれています。その二人を見ていて強く感じたのですが、二人が子どもを連れて仕事をしていて、子どもが泣き出したりすると、すぐに、周りにいる島民の女の子たちが助けてくれるのです。カオハガン島では、家でも、家族や、親戚、周りの皆で助け合って子育てをしているようですね。ぜんぜん、たいへんではないようなのです。

今、日本では、皆が助け合って子育てをすることが少なくなって、一つの大きな社会問題になってきているようですね。カオハガンでのこの動きを、いろいろなかたちで広げていってみたいと考えています。家族や、親戚や、周りの人たちが皆で助け合って生きていくということが、すごく大切なことではないかと思うのです。

今では、いろいろな方々が考え、実践されているようですが、大都会から離れて、自然と共に暮らしていく、そこで、皆が助け合って、自然から得たもので生きていく。そういう暮らしが、世界中に広まって、それが結びついて、新しい平和を創造していけるのではないか。そんなことを考えています。そのようなコミュニティをカオハガンに創りたい。カオハガンを一つのモデルにできればと考えています。

カオハガン島の森

(写真はカオハガン島)

以上

 

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