2019年6月のアーカイブ

 

第6回 人の記憶はパラパラ漫画

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

このところ高齢者による悲惨な自動車事故が多発しています。こうした不幸に巻き込まれた人達の無念さを思うと心が痛みます。

高齢者の中には自動車がまだ一般に普及していない20才前後に早々と運転免許を取得した人も多いのではないでしょうか。当時はオートマではなくクラッチ付きのマニュアル車ばかりでした。私も18才になると廃車で引き取られたダットサンを貰い、車の整備士になっていた中学時代の友人達とで油まみれになりながら「解体・再生」して車検を取った楽しくも懐かしい想い出があります。あの頃は自動車学校も少なく運転免許を取るのも大変な時代でした。ですので高齢を理由に大事な免許を自主的に返納することには裏にある思い出の消去でもあり、相当な決断力と覚悟がいると思います。

しかし、高齢者は個人差が大きいので年齢基準で返納というのではなく安全運転ができる場所、健康、判断力、瞬発力そして技量があるかどうかで合否を判定する厳しい審査の導入が合理的ではないでしょうか。人の命がかかっているので多少のお金と面倒臭さはやむを得ないと思います。さらには審査結果の程度によって運転支援機能がついた車のみ可とかに限定したり、都市部は時間制限や運転禁止エリアを設けるなどの処置が考えられます。インフラ面でも高齢運転者の車の増加を前提に道路状況の改良やフェイルセーフの考え方にたっての安全対策などへの投資も併行してやってほしいものです。高齢者になっても生活に必要なかぎり安全運転がつづけられるように社会の配慮や工夫が求められているように思います。

 

  先月末、50年ぶりに大学の教養課程の同級生15人ほどの一泊二日のクラス会に初めて参加しました。幹事さんから「皆んな、何時お迎えが来てもおかしくない年になったんで、その前に一度みんなで母校に集まろう」と連絡があって気が向いた訳です。卒業後一度も母校に行ったことがなかったこともあり、ほぼすべて忘却の彼方にあったのですがみんなに会えば何か思い出すかな、という気持ちで行きました。いざ集合してみると、ほぼ全員の名前も顔もほぼ覚えていないのに我ながら驚きました。昼食時に自己紹介したあと、みんなで近くの寺社へと散策しながら話をしている裡に驚くほど記憶が戻ってきたのです。しかし共通の出来事の記憶でも人によって違っていることも多く、何が真実かわからなくなっているのを改めて皆んなで実感しました。宿での夕食時には一層打ち解け、遅くまで酒を飲みながら語り合い半世紀もの時間を巻き戻したように感じました。

 世間でも同窓会が盛んになってきているそうです。「おい、お前」で通じる同窓会特有の平等さを再現し、横一線だった社会へのスタートライン時代を懐かしく思い起こせるからではないでしょうか。「バック・ツー・ザ・パースト」も現役を卒業したものにとっては特にいいものです。

 

 では、改めて過去ってなんでしょうか。当たり前に言えば過ぎ去った時間といえますが、どこに行ったのでしょうか。前回までに述べてきた歴史と関連しますのでちょっと考えてみたいと思います。

 

 あるアメリカの人口問題研究機関の推計では、今現在、人類として生きているのは数百万年の間に人類として生まれた総計(約1000億人)の約7%ということです。あくまで推定の域を出ないでしょうが産業革命の頃から人口爆発が起きていて、それが加速度的にますます激しくなっているので、今後ますますこの比率が高くなることでしょう。平均寿命も急速に伸びているので、この先、文明社会は持ちこたえられるかどうかというレベルになっていくそうです。

 

 子供の頃、人は昔の誰かの生まれかわりである、というようなことを言われた記憶があります。悪いことをしていたら動物に生まれかわってくるので、良い子になりなさい、これが輪廻転生ということだと教わりました。勿論こんな単純なことではないでしょうが子供心にはなんとか分かったようでした。しかしその後「ボーっと生きて」大人になったために今もって本来の意味は良く解りません。

 

 最近、過去というのは、遙か昔のことでも、ついさっきのことでも同じではないかと思うようになりました。つまりこの世は「パラパラ漫画」みたいに瞬間の連続でできていて、そのごく一部が脳に記憶されていると言うわけです。時間が経つとそれらがトランプをシャッフルしたように前後も徐々に曖昧になっていきます。昨日おとといはまだしも、数ヶ月前位になると手帳か何かを参照しないと前後すら分からないほどディテールは消えていきます。

日頃みる映画、TV、動画などは一コマ一コマの静止画の連続でできているのですが、パラパラ記憶説にたつと、人間は周りの世界は連続したものと思い込んで錯覚をしているだけで脳のトリックから来ているのかもしれません。周りの情景の一コマ数コマが脳に記録され記憶になっているとすれば記憶の操作もなんとかできそうです。自分にとって都合の良いことだけを取捨選択して記憶ができれば悩みごとも減るのではないでしょうか。勿論反対側に行けば大変なことになりますが。

 

パラパラ画像の一コマは自分の五感をとおして作成記憶されたものですから、たとえ家族でも記憶されたコマの絵が異なるのは自然です。自分が蓄えたコマを基に家族や人に何かをアドバイスするとしても100%通じる保証はありません。ただ共通のコマを多数もっていることで通じ合う可能性がたかまるのは間違いないでしょうけど。

 

抽象的に思考でき、記憶と読み出しが高度にできるようになった人類だからこそ一人一人違う個性を持っているのでしょう。できるだけストレスをためずに現世でうまく生きていくためには過去の一コマ一コマを編集して、いらないものを忘却の彼方におくったり、良いものは記憶を強化したりすれば効果的です。そして、これから巡ってくる未来のコマをあらかじめうまく選択して記憶できるようになっていくと思います。信じるか信じないかですが楽天的で成功者になった人達は割と自然にこれができていて「成功例や失敗例から学ぶ」が身に付いている証明であり結果ではないでしょうか。

 

人口爆発がつづく現代、科学の加速度的進歩により膨大なデータが集められるようになりました。やがて人の人生を通じて心の奥まで覗けるようになっていくかもしれません。すべてを順序良く何でも記録・記憶ができるITにAIが取り込まれると、人のパラパラ記憶が太刀打ちできないのは明白です。人間にとって果たして良い時代がくるのかそうではないのか分かりませんが人間らしさの特性をどの辺に残していくのか考えどころです。輪廻転生でこの次は人口知能に生まれかわらないよう願いたいものです。

終わり

 

「明るい高齢者雇用」

第3回 包容力ある社会へ―企業にも重い責任―

(「週刊 労働新聞」第2149号・1997年4月21日掲載)

※当時の文章のまま掲載しております。

 

 アメリカ南フロリダ日本協会(非営利団体)専務理事をなさっている遠藤岐子さんにこのほどお話しをおうかがいする機会があった。

 南フロリダは避寒地としても有名であるが、マイアミの中心としてカリブ圏・中米・南米の経済の中心として位置付けられている。マイアミから車で約1時間のところにある“ボカラトン”という地域が著名であるが、南フロリダにはボカラトンを始めとする多数の「ハッピー・リタイアメント リゾート地」がある。

 遠藤さんはアメリカに移住され既に28年になるが、南フロリダ・マイアミには24年間にわたって生活されている。最初の17年間は個人で事業をなさり、1989年には商工会議所兼文化教育団体であるアメリカ南フロリダ日本協会を創立された方である。

 協会の仕事の一環で、種々の現地団体、企業との付き合いもあり、日本からの視察団や新聞記者を案内して回っているので、高齢者、アメリカの社会問題等とも日頃接しておられる。

 

Q、アメリカは高齢者であるとか、年齢を意識する社会ですか。

A、アメリカに来て指摘されたのが、歳を気にすることでした。日本のように、「△△歳のくせに」という表現は一切聞きませんし、「言うな」と言われたほどです。要は、“出来るか”“出来ないか”の違いだけなのです。言い換えれば“自分は自由に動けない・独立生活が出来ない”人は世間で別扱いを受けます。ですから、身障者も、年寄りで動けない人も同じ恩恵があり、同じに扱われます。

 

Q、そうするとアメリカでは高襟者も明るく生活していますか。

A、「明るい」「明るくない」の問題は、雇用問題ではなく、年齢を気にする社会かどうかではないでしょうか。

 日本の駅や公共施設を見ても、階段が多く歩く距離も長く、若者本位の国のように受け取れます。年寄りでも若者と同じように生活が楽しめる公共施設があるのがアメリカです。ニューヨークの市バスは老人が乗ろうとすると油圧で車体を下げて乗りやすくします。“ニーリング(ひざまずく)バス”というのですが、まさに老人に公共の乗り物であるバスがひざまずくのです。

 「若くない」と痛感させるようにできている社会と、年齢差を関係なく同じことができる社会。ここに何か重要な観点があるように感じます。

 

 高齢者になれば肉体的老化は避け難い。それゆえ力仕事ができなくなり、また敏捷さに欠けることになるが、それを包容してこそ今後は健全な社会が維持されるということであろう。

 企業の諸施設もそのようなものでなければならないということにつながる。モスクワの地下鉄のエスカレーターのスピードの早さに驚き、そこでは高齢者に対する思いやりがないと強く感じたこともあったが、アメリカから見れば日本社会も同様であろう。

 

 

高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~

【第6回】時短反対~労務管理のコツは忙しくすること(1993年11月17日)

 

 労働時間の短縮が正しいなら、労働時間ゼロが正義となる。人は労働によってつくられる、というのが私の考え方の基調だ。だから労働時間の短縮は間違いだ。

 人間が人間である所以の、手、足、口、頭を使って一番充実している時間は働いている時だ。働いている時間が一番人間的に機能しているわけだ。だから「責任ある仕事、厳しい仕事に耐えてきた人の顔は美しい」とか、同窓会で「各人の面貌に人生の軌跡を見る」などと言うのは、そのことに起因している。

 労働時間の短縮は人間的劣化を招く施策であると言ってよい。

 労務管理のコツは、忙しくすること。「小人閑居して不善を為す」というが、ヒマはろくなことがない。忙しく働くことによって、生産性向上という側面ばかりではなく、人間的な充実感を味あわせることが大切だ。

 企業としての適正な労働時間とは何か。これは、競争力を保持できることを原則として、各企業で考えなければならない。私は「中小企業では年間2,000時間」と言っている。再建会社だと2,400時間。

 私は、ある会社の再建の過程で社長代行を経験した。そのとき朝礼は朝7時からにした。労働時間の延長であるが、その努力を裁判所も認めてくれた。

 ほとんどの企業では土曜日・日曜日は休みが慣例化しているが、社長、幹部は土・日も働かなくてはいけない。また、有能な人材は早く管理職にして労働時間の拘束から解放する方向をとらないといけない。

 働くことは人間をつくるのだから、働き過ぎは悪いことではない。

 

 

「AIと私たち」 第8回

AIがAIをつくる未来

 

 AIは幾度かの「冬」を超えつつ(当連載第1回参照)も、着実に研究・発達・進化を遂げ続けている。四半世紀後に迫る「2045年問題」は現実となるのだろうか。

 

■2045年問題とは

 コンピューターチップの性能は18ヶ月(1.5年)毎に2倍になる、と予測した「ムーアの法則(1965年発表)」に基づいて計算すると、2045年にはコンピューターの性能が人間の脳を超える。これが2045年問題である。

 実際に、これまでコンピューターは「ムーアの法則」並みの速さで進化を続けており、「学習」が可能となったAIを備えればその進化は加速度的に進む。人類の知能を超えたAIが、更に自分よりも優秀な「AI」を開発すれば、AIは爆発的スピードでテクノロジーを自己進化させ、人間の頭脳ではもはや予測・解読が不可能な未来が訪れると予測されているのだ。文字認識や画像認識、フィンテックなど、既に特定の分野では人間を超えたAIが多々活躍しており、機械が独自の進化に踏み出す可能性を大いに感じさせる。

 コンピューターが人間を超え、人間にとって予測のつく限界の時点は「技術的特異点」と呼ばれており、これ以降の世界についてNASAとGoogleが協働で研究機関を作って議論しているが、コンピューター対人間の戦争が起きるとする説、私たちが現在いる宇宙とワームホールで行き来することができるもう一つの宇宙をコンピューターが創るとする説など、まるで映画や小説のような仮説ばかりである。この仮説こそが人間の脳の限界を示しているのかもしれない。

 

■AIは自発的な意思を抱くか

 AIが感情や意思を持つ可能性について、今のところ有識者の意見はまったく統一されていない。

 「人間の脳をそのまま再現できれば、AIも感情を持ち得る」との声や、「意識が生成されるカラクリが分かっていないのだから、AIが設計者の思惑を超えて原始的な意識を創発する可能性は0ではない」という声もある。

 一方で、「生命を持たないAIには生存本能がない。したがって、生存や増殖といった目的を自発的に持つこともない」として、それに伴う感情や意志も持ちえない、という声もある。肉体があるからこそ備わる感覚もあり、ロボットにセンサーを付けて感覚器を作っても完全に補えるとは言い難い。たとえば人間は赤ん坊でも「空腹になったら食べる」とか「動いているものに注目する」ということを知っている。これは人間が生物進化の長い歴史の中で、いわば遺伝子で獲得した常識である。生命があるがゆえのそういった基礎を持たないAIには、それを知識として学習することはできても本質的に身に付けることは難しいように思われる。

 しかし、冒頭で述べたとおり、AI技術は加速度的に進化しており、今日できなかったのだから明日もできない、というスタンスでの議論には意味がない。「人間がAIを作る」という固定観念を離れ、人間ならではの自由かつ豊かな発想で未来を描かねばならない。

 2019年時点において、生命の有無は人間とAIの最大にして決定的な違いである。しかし、「生命」あるいは「肉体」の定義は、50年後、100年後も変わらないだろうか。「生命」や「肉体」があるからこそ生まれ出るとされる目的を、AIが持つことはないと言い切れるだろうか。人間の意思によるものか、あるいはそうでないかは分からないが、「AIがAIを作る」とき、人間の推し量れないAIが生まれる可能性は否定のしようがない。

 誰かが課題を指摘し、解決したいという需要が出てくれば、その技術的限界はなくなっていく傾向にある。人間がより進化したAIを求め続ける限り、AIが、創造力・感情・本能といったものを備える可能性はあるといえよう。それを念頭に置いた上で、人間とAIとの共存を考えなければならないのである。

 

まとめ

・2045年にAIが人間を超えると予測されている

・AIが意思を持つ可能性は否定できない

・あらゆる可能性を視野にAIとの共存を検討せよ

(第8回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)

 

 

 

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