2019年7月のアーカイブ

 

第7回 「真善美」のバランスと働き方改革に思うこと 

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 7月になって去年の猛暑を覚悟していたところ梅雨寒がつづいているようで、わりと過ごしやすいので「ホット」しています。一方で農家にとっては日照不足による作物の被害が出ているので大変だそうです。さらに欧州の猛暑など地球規模で異常な気象にみまわれているのも心配です。日本列島はこれから昨年並みの猛暑になるとの予報がでているので身構えているところです。この拙文が高井先生のブログに載るころは果たしてどうなっているのか、気象庁のAIの実力の程が判明していることでしょう。

 

 さて、本職のコンサルに関連することですが、このところ優れた実績を上げている経営者はアートの心を重要視しているとクライアント先でも話題になるようになりました。 コーン・フェリー・ヘイグループ(8月からヘイの名が消えるそうです、一OBとしては少々さみしいですが)に所属し作家でもある山口周さんの好著 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』にも書かれていますが、「真善美」のバランスのとれた感性とリーダー能力がこれからの経営者に求められるということです。

 「真善美」と言えば、高井先生が昔から強調されてきたワードでもあり、いつの世でもどの地でもあてはまる不変の真理なのでトップリーダー達の訓示などにも再三とりあげられています。そんな中で昨今のITの進展の影響か論理や合理性、効率性、数値偏重に傾いた世の中にあって、人の倫理観と感性と共にバランスを取る必要性が再認識されてきているのでしょう。学歴偏重や没個性を過度に重視する社会の同調圧力から脱皮して、アートの世界のような個性あふれるマルチな価値観を尊重したいという現代のルネサンス運動が起こっているのかもしれません。

 

 この「美」について、高井先生はかつて数十年前にニューヨークで美術の仕事にも関わっておられたと伺ったことがあります。当時のJALのニューヨーク支配人室の駐在員と美術の関係で親しくされていて、偶々私の知人でもあった彼の話題で盛り上がったことを思い出しました。先生は昔から多方面に興味をもち果敢に人の輪を拡げておられたので、そうした縁が縁を呼ぶ姿に感嘆し続けています。

 法曹界の人は論理性を追い求めるので堅くて近づきにくい人達だと昔の私は固定観念をもっていました。しかし意外にも人の感性にも重きをおき芸術に造詣深い人も多い、ということを高井先生から教わりました。子供時代から美術には縁の遠かった私も西ドイツのフランクフルトに駐在していた折りに日本からのお客様の求めで同行した有名な「シュテーデル美術館」のコレクションをみて名画のパワーに目覚めたことを思い出します。今調べるとフェルメールの「地理学者」というのが当時もそこにあったようですが。全く記憶になくとても残念です。時間に余裕ができた今は上野界隈や、旅先、出張先の美術館や博物館に時折いくのですが、その端緒がドイツ時代にあるような気がしています。若い時からもっと真善美のバランスをとって美術や芸術にも親しんでいれば「優れた経営者」の一員になれていたのではないか、と自嘲的な言い訳を考えているところです。

 

 まもなく、参議院選挙です。(この拙文が高井先生のブログにアップされる頃には結果が判明していますが)世界はそれぞれの既存の価値観や固有の文化の大転換期を迎えているようであり、かつその変革スピードが衝撃波を伴う「超音速」レベルになっていると感じます。

 そんな中、政党や立候補者の主張を見聞きすると厳しい時代にイノベーションで挑む迫力と新鮮味に欠けるものや、現実離れした主張もみられ政治家志望者の資質に疑問を感じています。政治は現実対応的なところが目立つのですが、その中に深い先見性から来る方向が含まれているかどうかを見て判断していきたいと思っています。単なる理想理屈だけでは多くの人は動かされないことを選挙で示されればいいのですが。

 

 日本は法治国家と言われていますが果たしてどうでしょうか。元々国民の行為のすべてのケースをもとに法律として文章化するなんてことはできないのは自明です。法律にはこのような原理的条件があるので、裁判所が個別ケースを審議して裁定するような仕組みになっていると思います。その裁定も過去の判例にとらわれすぎると今の社会には合わない結果になるのも当然だと思います。

時の流れのパラパラ漫画で例えれば過去のとある時点の一枚の中で作られたのでしょうから、現在の世の中に必ずしもうまく整合しないのは明らかです。変化する国民の価値観と倫理感に対応しスピードをあげて常に見直し修正が不可欠です。議員には任期中はこれらメンテナンス作業にも、さらには、立法プロセスの無駄の排除にも没頭してもらいたいものです。子や孫の代に真の法治国家を引き継げるように法曹に関わる人達にお願いしたいと思います。

 

 心のバランスをとるためにちょっと明るい話題で締めくくりたいと思います。

 

 探査機「はやぶさ2」が地球から約2億キロと遠く離れた小惑星「リュウグウ」に二度目の着地に成功しました。関係者の輝くような笑顔と喜びようはTVを通じても伝わってきました。あとは地球に無事帰還するばかりです。

 小惑星への着地に向けては、あらゆるケースを想定したシミュレーションは10万回やったので自信はあった、と聞いて改めて感銘を受けました。プロジェクトチームやサポートチームの人達は計画段階から何年もそれこそ寝食を忘れて没頭されてきたことと思います。

一般世間では「働き方改革」で残業削減が叫ばれている中、彼らにはこの探査プロジェクトに参画する喜びと成功にむけての苦労をいとわない気概と努力があったと思います。きっと苦しみも喜びに替える強い達成指向性があったのでしょう。

私の想像ですが、もし労働時間に縛られていればプロジェクトの成功可能性は少なかったのではないかと思っています。

人は大きな目標をもてば好奇心と達成にむけての挑戦意識が活発になり時間を忘れて没頭するものです。平たく言えば楽しくて仕方がない状態です。

そういう意味で一律の残業削減では人間の特性からみて近視眼的なところがあり、それでうまく解決するとは思えません。さらには自由な時間が生まれることで別の問題を引き起こすかもしれません。働き方改革の目玉のひとつではあるでしょうが、状況をみながら多様な方法を見つけ出す必要があると思います。

 「はやぶさ2」の難しい着地成功と同時にその裏にあるメンバーのご苦労や働き方に少し思いを巡らせて、この回を終わりとします。

終わり

 

「明るい高齢者雇用」

第4回 絶えず向上心を―ボランティアの道も―

(「週刊 労働新聞」第2150号・1997年4月28日掲載)

※当時の文章に一部加筆補正の上掲載しております。

 

 南フロリダ日本協会専務理事の遠藤安岐子さんのインタビューを前回に引き続きご紹介する。

 

  Q、高齢者雇用は一般にはどのような傾向でしょうか。

  A、高齢者雇用に関しては政府が年齢差別を禁止していることもあり、仕事をしたい人は誰でも出来ますが、歳をとってもまだ上下関係の激しい企業で「使われること」を好みませんし、企業ではあまり雇用を考えません。40歳を過ぎて移民してきた人達は、年金も少ないので定職を探し生活をたてることを考えるようになります。この場合、年齢より移民に対する差別が有り、職探しは難しいのです。

 

 いまイギリスでは雇用における年齢差別禁止法制定につき活発に論議されており*、労働党では政権についた場合これを制定すると公約している。日本においても定年制が違法とされる余地があるか否かが一つの課題である。

*その後、1999年に「雇用における多様な年齢層に関する行動規範」を発表するも法的強制力はなかった。2000年11月のEU理事会における一般雇用均等指令採択を受け、2006年10月1日に「雇用均等(年齢)規則(Employment Equality (Age) Regulations 2006)」が施行された。

 

  Q、やりがいのある仕事とは何でしょう。

  A、高齢者で企業の社長まで務めた人の「やりがいのある職」は、非営利団体のためのボランティアです。例えばSmall Business Administrationという全国的な団体には何万人という「元…」が登録し、中小企業の若手の人の訓練、相談に当たっています。元コカコーラの副社長を務めた人に会ったこともありますが、この方は無給で創業したばかりの中小企業をまわり、相談に乗って歩いていました。彼によると、年金生活が始まった場合、「給料」としての収入があると年金から差し引かれる上、税金がややこしくなるからボランティアの方が有利なのだといっていました。そして「やりがいがある」とも…。

 

 収入はやりがいの1つではあるが、「人はパンのみに生きるに非ず」、人生の後半を迎えた高齢者だからこそ、仕事内容に心の時代のキーワード“やりがい”が重要な要素となる。ボランティアやコンサルタントの仕事には、「お世話する」「教える」「導く」といった心の要素が満ち溢れているのである。

 

  Q、高齢者のボランタリーの実像を紹介して頂けますか。

  A、ある高齢者の施設での話ですが、そこへ動けない人達の手伝いにボランティアで出掛けます。彼等曰く「これから年寄りの世話にいかなければ…」。その人自身が84歳と聞くと異様ですが、年寄り=動けない、の感覚です。動けなくなるまで皆「若い」のです。

 

 肉体的に80歳の者が20歳の青春を持ち続けることは不可能であるが、“若さ”即ち良心を核に自立心・連帯心・向上心がなお生命力を持ち続けている状態を絶えず意識することが必要である。サミュエル・ウルマンは若さの要素として、美・希望・喜悦・勇気・力を挙げるが、「本人が希望を持って満足感を得る」などは高齢者雇用に置いてことの外意識されるべきであろう。

 

 

高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~

【第7回】「とりあえず3連勝」で勝ち癖をつける(1994年2月2日)

 

 私がある会社の建て直しを手掛けたときのこと。「気がかりなことは何か」と聞いたら、「これだけ人数が減ったら、再建に必要な売上が達成できないのではないか」ということだった。倒産寸前会社だから、皆の士気が萎えているわけだ。挑戦への意欲を鼓舞するためには、まず勝つことの喜びを味合わないといけないと判断した。

 そこで「3連勝主義」というのを掲げた。勝てる目標だけ3つ立てて毎日3連勝、あるいは毎週3連勝する。期間はどのように設定してもいい。とにかく勝ち癖をつける。どこかで負けたら、その時点でまた3連勝3連勝、とつづける。

 目標は個人ではなく、チーム単位で立てて実践する。一番最初に3連勝した部・課・チームを賞賛するシステムをつくる。

 弁護士はクライアントに「難しい」と言うのが常で、私のように「大丈夫、大丈夫」と言っていたらありがた味がなくなるように思われる。しかし、それによって結局は元気が出て、競争相手を凌駕し、難局を克服していく。

 私は「大丈夫、大丈夫」とことさらに言う。クライアントが大丈夫と思っているときには言う必要はない。クライアントが、心配だ、危ないかもしれないと思っているときに言うわけだ。そう言われると出来るかもしれないな、と錯覚に陥る。それでいいのだ。だんだん本気になり、錯覚にとどまらないわけだ。

 兵は勢いなり、「勝ってますます強くなる。」まさに孫子の兵法にある通りだ。とりあえず3連勝。その勢いをもって本丸攻撃に移る。

 

「AIと私たち」 第9回

AIの責任能力~自動運転車

 

 AIが人と安全に共存していくためには一定のルールが必要である。しかしながらAIの発達の速度や規模に対し、AI周辺の法的課題の検討は遅れがちであり、新たな技術の導入の壁や足枷になっていることも少なくない。

 

■自動運転車による事故責任の所在

 身近な問題としてよく議論されているのが、AIによって自律稼働するロボット、機械、コンピューターが、人間や物に被害を与えた場合の責任は誰が負うのか、という問題である。たとえば、協調型ロボットが隣で働く人間の従業員を怪我させた場合や、自動運転車が事故を起こした場合、法的責任は誰が負うのか。自動運転技術の現状と共に取り上げてみる。

 

 現在、我が国では、東京五輪が開かれる2020年に向け、緊急時などシステムが対応できないときだけ運転者が操作する、「レベル3」の自動運転車の実用化をメーカー各社が急いでいる。

 2018年3月、限られた条件で運転を自動化するレベル(レベル4まで)においては一般自動車と同様に所有者に賠償責任を負わせ(参考:自動車損害賠償保障法3条)、メーカーの責任は車のシステムに明確な欠陥がある場合のみとする政府方針が示された(ハッキングによる事故の賠償は、盗難車による事故被害と同様に政府の救済制度を使用)。レベル5の「完全自動運転車」に達しない限りは「自動車の所有者、自動車運送事業者等に運行支配及び運行利益を認めることができ、運行供用に係る責任は変わらない」ことを理由として挙げている。この政府方針によってメーカーが過大な責任を負う懸念が薄れ、自動運転車の事業化の動きが加速したといえよう。

 

 レベル3以上の自動運転では運転主体が人間ではなくシステムになるため、これまでの道路交通法では想定外であるとして議論されてきたが、2019年5月、安全基準を定める改正道路運送車両法と、自動運転車の公道走行を可能にする改正道路交通法が可決、成立した。ただし、日本が批准している道路交通に関する条約、「ジュネーブ条約」は未だレベル3の自動運転は認めておらず、この改正に向け世界各国が主導権争いをしている状況にある。また、自動車の国際的な認証について話し合う国連欧州経済委員会(UN-ECE)の自動車基準調和世界フォーラム(WP29)もレベル3について認めていない。しかしこちらも2019年後半までにレベル3の国際基準案策定を目標としており、世界基準でレベル3が認められる日は近いと思われる。

 

■AIの判断に対する予見可能性

 こうしてみると自動運転周りの法改正や基準の策定は確実に進んでいるのだが、実は刑事責任についての議論は宙に浮いている。運転者は危険運転致死傷罪あるいは過失運転致死傷罪(自動車運転死傷行為処罰法2条3条5条)、メーカーは業務上過失致死傷罪(刑法第211条)に問われる可能性があるが、運転主体がシステムである状態で、運転者に予見可能性や結果回避義務はどこまで認められるのだろうか。

 

 事故原因がAI等の「故障」にあれば、メーカーが製造物責任を問われる。しかし、AIの「判断ミス」が原因である場合、どこまで製造物責任といえるか。すなわち、「AIの判断」のうちどこまでを「人間による製造物」と看做すのか、という問題だ。AIが人間を超えるシンギュラリティが訪れれば、人間の予測の限界を超える事象や問題が必ずや生じる。予見可能性のない事象に対して人間に責任が課せないとなれば、AIが責任を負えるのか、AIの責任の取り方とは、刑罰とは、といった点まで議論が及ぶことになるかもしれない。技術はあるのに運用できないということのないよう、先手先手で検討を進めなければならない。

 

 まとめ

 ・2020年を目処にシステム主体の自動運転車が実用化

 ・自動運転の事故賠償責任は原則、所有者にある

 ・刑事責任については検討が薄く、今後の課題である

 

(第9回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)

 

 

 

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