引き続き若手中国人の米留学生による米国所感を連載いたします。
第4回 アメリカの音楽
~90年代ヒップホップ文化とトミーヒルフィガー~
米国の音楽産業は黒人と白人、メインストリームとサブカルチャー、そして自由と弾圧など摩擦と対立によって築き上げられたものであることは言うまでもないだろう。白人のエリート社会の象徴だったマンハッタンから押し出され、その郊外にあるハーレムという小さな地域でブルースやジャズ、そしてヒップホップの人気に火が付いたのは米音楽史でも有名な話だ。今回はその黒人音楽ブーム中に起きたアパレル会社のトミーヒルフィガー社への影響について書いていこうと思う。
90年代のアメリカは英国出身のプロテスタントが経済界や政界でのエリート層を支配していた。ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの頭文字をとって、WASPという略称で呼ばれていた彼らは、集団内での結婚や縁故採用を推奨していたことから長年米国の支配層に君臨し続けていた。裕福な家庭で育った白人の若者は「プレパラトリー・スクール」というお金持ちの子息が通う名門私立校に通い、ラルフローレンやトミーヒルフィガーのような上質な服を着崩すスタイルが流行っていた。このスタイルはプレッピースタイルと呼ばれ、貧困層の子供たちからは羨望の目で見られていた。
そんな社会的背景の一方で、都市部の若者の間ではヒップホップブームに火が付いていた。Jay-ZやSnoop Doggなど、ヒップホップ業界からは白人の子供からも親しまれるスターが排出されていた。この時彼らは音楽のみにメッセージ性を持たせるだけでなく、着る服からでも何かメッセージを伝えられないかと模索していた。そして採用されたのが前述のプレッピースタイルであり、人気のラッパー達は凝り固まったブランドや見た目に対するイメージを崩すために、好んでトミーヒルフィガーの服を着てメディアへの露出を増やしていた。黒人のラッパーが富裕層の象徴ともいえる衣服を身に纏った姿は多くの者にとって刺激的だった。貧困層出身のラッパーでも裕福になれるアメリカンドリームを体現していた彼らは、多くの貧しい若者に夢を与え、ブランドの名が爆発的に広まっていく中、トミーヒルフィガーの売上は増加した。当然、白人エリート層からは批判的な声が多かったが、トミーヒルフィガーはブランドのルーツを捨て、ブームに乗ることを決意した。その後、トミーヒルフィガーは大胆に自社の広告に黒人のラッパーを起用した。結果として、90年代にトミーヒルフィガーは国際的にも知られるブランドとなり、ヒップホップブームのおかげでグローバルに展開する大企業となった。
注:トミーヒルフィガー…ニューヨーク州出身のファッションデザイナー、トミー・ヒルフィガーが興したファッションブランド。
注:Jay-Z…ニューヨーク州ブルックリン出身のラッパー・プロデューサー・起業家。グラミー賞の常連で、最も偉大なラッパーの一人と評される。妻は歌手のbeyonce。代表曲「Empire State of Mind」は米ビルボードのシングルチャートで5週連続1位となるなど、世界的なヒットを記録した。
注:Snoop Dogg…カリフォルニア州出身のラッパー。これまで発売した楽曲のセールスは全世界で3500万枚にも上る。俳優としても活動しており、数多くの映画に出演している。