高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~
<第39回>分配(シェア)の社会から競争(コンペティション)の社会へ
(1997年7月23日)
※本稿は1997年当時の講演を元に2004年に編集されたものです。
日本の社会で談合が続くのは日本の社会がシェア(分配)の世界だから。日本は非常に知的レベルは高く、組織性や社会の構造・秩序を保持する才能のある国だったが、基本的に貧しかったため、集団主義、富の分配で社会が成り立っていた。これが談合がなくならない理由である。
欧米ではシェアではなくコンペティション(競争)という概念で社会秩序が形成されている。競争社会で生死をかけて皆が戦うため、フェアという概念が早く成熟した。
アメリカではフェア・コンペティションといって、ルールの尊重が非常に厳しい。日本が不透明・不可解・怪しげな国だという印象を持たれるのは、日本がアンフェア・シェアになってしまっているから。欧米はフェア・コンペティションである。ここに概念の違いがある。
日本ではシェアという概念で秩序を大事にすると言いながら、アンフェア・シェアになってしまっている。それが国際化によって叩かれ、野村證券や第一勧銀の問題が起こってきたのである。しかし日本社会はフェア・シェアになり切れない。コンペティションという世界を経ずしてフェアという概念は成長しない。そういう意味で日本は三等国ぐらいで終わってしまうわけである。
1900年に16億人だった世界人口が2000年には60億人、2020年には80億人になる。インド人並みの食生活で地球が維持できるのが100億人。アメリカ人並みの食生活だと20億人。地球で維持できるのはせいぜい80億人が限界だろうといわれている。
そこで再びシェアという概念が登場する。一時、シェアという概念は共産主義国家として成長し、崩壊した。共産主義は考え方を単一化しなければ分配の公平があり得ないため、思想の自由、表現の自由が重要とされる世界では考えられず、結局崩壊するのだ。
しかし改めてシェアの世界が後10年ぐらいで登場する。その時に日本は残念ながら勝ち抜けない。世界のシェアはフェア・シェアであり、それに比べると日本のシェアは怪しげだからである。そこで太刀打ちできなくて、日本は二流国、三流国になっていくだろうというのが私の見通しである。