時流を探る~高井伸夫の一問一答の最近のブログ記事

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第36回目です。
  • 第36回目は、山手通り鍼灸院  院長 川口博司先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答(第36回)■ ■ ■ 
山手通り鍼灸院  院長 川口博司先生 
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[山手通り鍼灸院  院長 川口博司先生 プロフィール]

1968年7月14日生まれ。地元名古屋の私立南山中学校・高等学校を経て、1987年4月、順天堂大学体育学部へ入学。卒業後、東急リバブル株式会社に入社し、トップセールスマンとして新人賞を獲得するも、2年で原点の名古屋へ戻る。

店舗設計やデザインという営業利益率の低い業界の営業を学び働く傍ら、鍼灸の見識を深め、中和鍼灸専門学校 (愛知県稲沢市、現・中和医療専門学校)へ入学。並行して治療院でインターンを経験し、2000年5月17日、中目黒に山手通り鍼灸院を開業。トレーニング関係に携わり30年、鍼灸師として20年。2009年10月にTBS特別番組「オールスター感謝祭」の駅伝・マラソン企画にゲスト出場した、五輪女子マラソン初代金メダリストのJoan Benoit-Samuelsonの治療にもあたるなど、海外でも鍼灸治療の第一人者として知られる。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫

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写真左が川口博司先生、右が高井伸夫 取材日撮影

(取材日 2018年12月22日(土)於:山手通り鍼灸院)

 


高井

順天堂大学で体育部を選ばれたのはなぜですか。

 

川口先生

食育、運動、ケアまで全部みられるスポーツ指導者・トレーナーになろうと思って進学しました。しかし、当時の日本ではトレーナーという職業が重視されておらず、学ぶにはアメリカに行かなくてはならなかった。かといって、アメリカに行って日本に帰ってきても仕事がない状態でした。大学3年生になる前の春休みに語学留学でアメリカへ2か月半ホームステイして、アメリカと日本との状況の乖離を知りました。

日本でトレーナーという職に就くのは時期尚早のようで、時代もバブルだったので、将来の自分の行く道はさて置き、社会勉強も含めてサラリーマンかつ営業の道を選び、東急リバブルに入社しました。自分で最初から最後まで全部一人でできる営業職というと不動産業が一番早いと思ったからです。

 

高井

鍼灸へチャレンジされ始めたのはいつですか。

 

川口先生

バブル崩壊もあり、一度リセットしようと名古屋に戻りました。店舗設計やデザインの営業として働く傍ら、開業出来るような資格を得て元来の「身体に携わる仕事」をしようと色々調べて鍼灸に辿り着きました。会社に勤めながら鍼灸の学校へ伺ったり鍼灸に携わるエピソードを読んだりして、3年が経つ頃、中和鍼灸専門学校(愛知県稲沢市。現在は改称し、中和医療専門学校)に入学し、鍼灸を学び始めたのがこの道のスタートラインですね。

 

高井

恩師について教えてください。

 

川口先生

誰かについて修行した事がないので、師匠と呼べる人はいませんが、名古屋に「将来こんな鍼灸師になりたい」と思う親子ほど歳の離れた先生がいまして、よくその先生の主催した勉強会に参加していました。

自身の怪我や鍼灸師としての経験は勿論、医療従事者に限らず人生で出会った方々から多くの事を学ばせて頂き、あらゆることを自分の中に取り組み、撹拌してオリジナルを作り出すのが、私の基本スタイルです。「鍼リテラシー」とでもいうのでしょうか。多方面から鍼を通じた知識・理論等を自分の中に解放して、技術から、ありとあらゆるその鍼に関するものを自分なりに噛み砕いて飲み込んで取り入れて、自分なりのスタイルを築いていく。日々、精進していかなければならない思いです。

 

高井

ご自身の怪我というのはどのようなものですか。

 

川口先生

学生時代ラグビーをしていたので。順天堂大学に在学中の右肩の脱臼と、社会人になってから膝の関節のクリーニング(関節に溜まった破片の除去)で手術を受けました。不注意で転んだりして骨折も何箇所かしています。

 

高井

色々な情報を仕入れて治療にあたっておられますが、一番の情報源は何ですか。

 

川口先生

その分野に特化した患者さんの話が一番リアルかもしれません。例えば衣料業界の社長から直に聞いた、デパートにおける自分たちの立場や全国の売れ行き。宗教関係の方だと、宗教に関する中々表に出てこない裏話。高井先生でしたら法曹界の話をオフレコで聞いたりします。これらはリアルタイムな情報だと思います。

 

高井

受付なども設けず、お一人で治療にあたられる理由を教えてください。

 

川口先生

患者様の電話の声、喋り方、来院された時の表情、姿勢、歩き方、癖、帰られる時も同じで、少しでも多く患者様のことを観察していた方が情報を多く集められ、治療に有効なのです。ちょっとした言動にもヒントが多い。

 

高井

治療の上での特別な技術はなく、ただ「勘はよく働く」と仰います。「勘がいい」というのは具体的にはどういうことですか。

 

川口先生

独り善がりではないひらめきです。自分で先に理論で考えて、そこに無理やり結果を結びつけるひらめきもありますが、それはなるべく避けたいので、直観で感じたものですね。

例えば治療で患者様から症状やお話を聞いて、パッと頭に浮かんだ原因の場所や病因がよく当たります。医療業界では一般的に消去法、スクリーニングテストを用います。思い浮かぶ病名を一つずつ検査し、最後に残ったものを「おそらくこれでしょう」と表現します。「これだ」とは中々決めつけられません。ところが私の場合は「これだ」と決めつけてかかるところがあります。そこが上手く当たっていることが多いので、勘がいいのだな、と。

 

高井

最近大当たりした例を教えてください。

 

川口先生

先日、ボルダリング中に足を捻って動かなくなってしまった方が、普段通っている理学療法士に診せたら「おそらく足の靭帯が切れているから、治療には鍼が良い」と言われたそうで、久しぶりに当院に来られました。でも診たところ靭帯が切れている感じがしなくて。何も根拠はないのですが、触ってみた感じと…これがまさに勘なのですが、「おそらくどこも切れていない、半月板の損傷だと思う」とお伝えしました。混雑でMRIを撮るのに3か月くらいかかるということで、やむなく勘を信じて4回ほど治療したら随分良くなりました。いざMRIを撮ったら案の定半月板損傷でした。もうほとんど回復したので、手術もしなくて済みました。

 

高井

施術の際は先生が患者さんとシンクロされるということですが、どのような効果が得られるのでしょうか。

 

川口先生

病状を踏まえた上で、患者様をあらゆる面で見て全体像を理解し、その体内に入り込む感じでシンクロさせます。私が鍼を刺すと同時に、患者様として刺されている感じを受けるようにします。体に乗り移った感じで施術すると、患者様との間に一体感が出て治療効果が上がります。

先程「勘」と申し上げましたが、シンクロすれば患者様の痛みがリアルに伝わってきますので、自分の感じたものを患者様の感じているものとして捉え、共有していきます。

このようなことを伝承するのは大変ですので、後継者育成はサボっています。

 

高井

1回の施術料金はおいくらですか。通常何回くらい施術されるのでしょうか。

 

川口先生

3千円から8千円です。症状にもよりますが、急性のものですと短ければ1回、慢性的でも3カ月ぐらい。ただ老化による変形、劣化とかの場合完全に治すのは難しいので、悪くならないように、という類のものですと回数は制限できません。

 

高井

1日の予約数はどのくらいでしょうか。また、どのような方が来院されますか。外国人比率やリピート率も教えてください。

 

川口先生

元々15人程で、前日、当日に数名入ります。政財界が2割、芸能マスコミが1割、外国人が2割、その他が近所、遠方からの一般人です。外国人はかつて多い時には3割を超えましたが、昨今の経済状況、また税法上の問題で、expat(≒駐在者)がシンガポールや香港に流れたので減りました。金融系のオフィスが移転していますよね。これも先程の「情報」として知ったことですが。

リピート率は弾き出すのが難しいです。1年後、5年後のリピートもあるし、リピートの必要性がない場合もあるので…半数くらいでしょうか。


高井

外国人というのはどこの国の方が多いのですか。

 

川口先生

国籍はアメリカがダントツで、フランス、イギリス、スペインなどヨーロッパの順に多かったのですが、最近はヨーロッパの方が多いです。中でも白人だけではなく、アジア系アメリカ人やアジア系ヨーロッパの方も多くいらしています。

当院に来られる外国人は、まず東京アメリカンクラブのメンバー、東京ローンテニスクラスのメンバー、調布にあるASIJアメリカンスクール、それからブリティッシュスクールの生徒・親御さん・先生で、基本的に高額所得者、富裕層の外国人です。必然的に優良企業に勤めている方、もしくは外交官が多くなるので、それで欧米の方が多いのかもしれません。いつかフランスかドイツの城の主が来て、「この城をどうぞ」って言ってくれないかなと期待しているのですが、まだいらっしゃらないです(笑)


高井

外国人患者の増加には何かきっかけがあったのでしょうか。

 

川口先生

東京勤務から独立したわけでもないので、2000年5月の開院当初、3カ月程は1日の患者数が1~3人、時々0人という寂しい状態でした。診療時間後に夜間営業をしている他のマッサージ店でアルバイトをして食いつないでいたところへ、当院の裏にたまたま住んでいらした、スカッシュの日本でトップクラスの女性コーチが飛び込みで来院されました。丁寧に施術しましたら長年患っていた腰の痛みが初めてきれいに治ったと大層感動されたんです。

当時、千代田生命が経営し、中曽根元総理等の著名人が多くメンバーだった高級スポーツクラブがあったのですが、ここにスカッシュをされている方が何人かおられまして、「あのコーチが良いというのならば」と当院に来られるようになったのです。

その中に東京アメリカンクラブのメンバーが何人かいらしたので、そこのスタッフが来院されるようになり、同クラブのメンバーが東京ローンクラブのメンバーだったり、アメリカンスクールのPTAだったりして情報が広まり、今に至っています。正確な数字ではありませんが、この女性コーチを発端に500人以上の患者様が来院されています。もしもこの女性コーチに好印象を持たれていなかったら、とっくに閉院していたかも知れません。

 

私は、この時の教訓「いつでも誰にでも全力で施術にあたる。」を肝に銘じています。そして、私はこういう方を「ビジネスキーパーソン」と呼んでいます。ビジネスに限らず人生において、多大な影響を与える「キーパーソン」は少なくとも3人には出くわすと考えています。それは身近な人かも、ずっと年下の人かも、また通りすがりの人かも知れません。キーパーソンかどうかは後で判明するので、先入観は捨て、いつも真剣に人と向き合わなくてはなりません。

 

高井

鍼灸院の営業活動はどのようなものがありますか。実際にされている営業活動を教えてください。

 

川口先生

インターネットの口コミサイトに掲載して、キャンペーンクーポンや、初回格安といった広告。あとはポスティング、駅前でのビラ配りでしょうか。

私の営業活動は開業日に新聞広告を1回入れたきりです。大手3紙の朝刊に3万部くらい。これを見て3人来院されました。ビラ配りなどは、私はかえって「苦労している」と見られて逆効果だと思っているのでやりませんでした。最初からは難しいですが、「広告しなくても十分混んでいる」というイメージに持っていくのが一番の営業方法です。営業活動をせずに営業できていること見せる。

実際は地道に実績を上げ続けるだけです。実績とは、患者満足度の向上です。患者様が期待していた以上の結果でなければ感動は生まれません。感動して頂けたら、その感動を誰かに伝えたくなるものです。良さを伝えるのは言葉ではなく感情なので、いかにその喜びと感動を多くの方に伝えて頂けるかが鍵です。期待していた以上の結果とは『こんなに早く良くなるとは思わなかった!』『こんなに楽になるとは思わなかった!』の2つです。それが達成出来たら、宣伝活動しないのが宣伝という風になるかなと思います。

 

目立った営業活動をせずに経営する秘訣は、誠心誠意患者様と向き合い、治癒という目的に真剣に立ち向かう事です。一般にはサービス業ですから顧客の満足を第一に考える事です。

2番目には、経営していかなくてはならないので、国内外の経済、政治、自然、科学、そしてエンターテインメント、スポーツまで多岐に渡って情報を仕入れ、トレンドから未来まで予想しながら、早め早めに心構えと対応を取っていくのが大切だと考えています。

 

高井

最後に、人生の目標は何ですか。

 

川口先生

治療において、勘と結果の整合性をもっと高めたいですね。イメージと結果を合致させたい。それが治療の正確性を高めますし、治療時間の短縮にもつながりますので。

 

高井

ありがとうございました。

以上

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第35回目です。
  • 第35回目は、未来創庵庵主 一色宏先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答(第35回)■ ■ ■ 
未来創庵 庵主 一色宏先生 
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[未来創庵 庵主 一色宏先生 プロフィール]

昭和12年9月9日愛媛県和歌山市生まれ。一色宏先生

洋画及び日本画を学び、デザインの世界に入る。

美学・哲学の師に学びながら、人間がなぜ、真・善・美・利を求めるのかを追求し、デザインは単なる装飾や意匠にとどまらず、生活文化としての役割や、企業文化の創造のためにHuman First heart First で万象の共感を呼ぶデザインを探求している。特にコーポレートシンボルを中心に、生命的価値・社会的価値・人類的価値に高めて、哲理のあるデザインを展開している。

 

話題を呼んだ山田養蜂場のメッセージ広告は、朝日広告賞/毎日デザイン賞(両準グランプリ)を受賞。

 

■役職

未来創庵 庵主http://www.mirai-so-an.net/

NPO知恵の輪・理事長/ローマニアン・ネットワーク・副会長/NPO日本伝統芸術文化協会・理事/ライフバランスリサーチセンター・理事/NPO日本技術振興協会・理事/ミスアジアパシフィックビューティーコンテスト・審査員/NPO徳育と人間力育成研究所・理事

 

■著書

『美の実学』/『「夢」すべては夢からはじまって』/『一日一訓』/『心暦(こころごよみ)』

 

[今回のご同席者・インタビュアーは以下の通りです]

  • 株式会社HOU一級建築士事務所 山内研 先生
  • 高井・岡芹法律事務所 秘書 高島さつき 

 

 


高島

一色先生には、弊所のロゴを制作していただきました。私共所員が目指すべきところを的確にデザインと言葉で表現していただき、初めてロゴを拝見したときに、私たちをよくわかっていらっしゃるなあと感動いたしました。一色先生は様々な企業のシンボルマークをデザインされておいでですが、制作する際に、どのような思いを込めていらっしゃるのでしょうか。

 

一色先生

企業から、事業を立ち上げたときなどに旗印となるシンボルの制作を依頼されますが、私は思いを全て託されていると感じるんです。

シンボルマークには、会社の思い、理念を方向づけする力があります。ゆえに、託された思いを形にすること、そしてその形、デザインは、「集団のシンボルは美しくなければならない」と哲学者エマーソンは言ったように美しくあることをモットーに常に意識して制作しています。

 

山内先生

先生は、クライアントから依頼が来た時にまず何をされますか?

 

一色先生

まず、その会社が社会に対して何をしていくかを確認します。会社の目的意識、自分たちが仕事を通してなんらかの形で世のためになりたいという思い、理念など。立ち上げたばかりでも、素晴らしい発明をしているベンチャー企業もあります。それを世に広めたい、そういう状況の時に、どういうことができれば一番いいのかということを私も考えて、その内容を把握することに努めます。それを把握しないことにはシンボルは作れません。会社によっては、目標を謙虚に見積もっている会社もあります。そういった企業には、さらに展開した先の未来、大きなビジョン、理想をもっと出して下さいと投げかけます。思いの丈を書き出してもらうんです。

そしてそれを形に変えて、一番それを如実に表現できるシンボリックにするのは何だろうかと考えます。形はいろいろな意味を持っていますから、その会社の理念とするものをどういう風に形に表現したらいいかも考えます。そして、最終的には、生命の源に立ち返って、そこから浮かび上がるインスピレーションとでもいいましょうか、おそらく、こうだろうと思っていただける希望の旗印をデザインしてご期待にお応えできるように心がけています。

 

高島

インスピレーションとおっしゃいましたが、先生はデザインや、詩を書くときに悩まれることがあると思います。どのようにしてインスピレーションは生み出されるんでしょうか。

 

一色先生

私にもこの生命のはたらきはわかりませんが・・・、驚くべき今日までの人類の歴史で、これほど知的財産がある時代はないかもしれません。私は自分自身の楽しみ、自分自身を激励するために、毎日いろいろな書物に目を通します。世界中の色々なことを成し遂げた人の「命を懸けた真理の言葉」とでもいいましょうか。過去の偉人・天才たちの言葉を知ることは私にとっての最大の喜びです。そういうものが私の中にストックされていき、そのまま使うだけにとどまらず、それらから啓発を受けてデザインや詩が生まれるんです。何もないところから物は生まれることはありません。強いていうならそういった心の土壌を日々耕しています。そこから直観する不思議な感性に導かれます。

 

山内先生

言葉から生まれるものもありますよね。手を動かしていて物が生まれるわけではないけれど、言葉の繰り返しで生まれるものもあります。その辺はどっちが先かという話で、鶏が先か、卵が先かという話になってくるのではないでしょうか。

 

一色先生

えぇ。本当に不思議なもので、私もよく寝床で考えているときに色々なものが浮かぶことがあります。さまざまなものが合成されて、そして独自のものに生まれ変わると、突然ふっと創造的進化が生まれます。

 

高島

ありがとうございます。ところで、先生は、デザインすることについて、いつ頃から意識されたのでしょうか。

 

一色先生

中学1年か2年の頃、父親の勤務先の工場が「安全ポスター」を社員から募集していまして、父親から「お前が描け」と言われて何度かポスターを描いたことがありました。それがいつも受賞しまして、父親がえらく喜んでくれたことが、嬉しかったですね。そんなことがあり、高校1年の時に国体のスタンプのデザイン募集に応募したら、一等を受賞いたしました。その事が

きっかけで急激にデザインって面白いなと、興味を持ち始めました。

私が大きく意識が変わったのは、スイスのヨゼフ・ミューラー=ブロックマンという有名なデザイナーの講演会です。「デザイナーも一人の人間として、いかなることがあっても商業主義に流されて悪しきものに手を貸してはいけない」と言った言葉でありました。デザインは現状をより良いものに変えるための行動を立案することであり、また良いものを“世に広めていけるもの”に協力すべきであって、いかにお金を積まれたとしても、魂を売るようなことをしてはならないという倫理的な話でしたが、デザインには、素晴らしいものを世に伝えるという大きな役目があるんだと認識しました。この講演会での気付きはその後の人生において、常に私の心に生きています。

今日まで様々なデザイナーに会いましたが、プロダクションの運営や生活のために、相当なお金を積まれると仕事だと割り切って引き受ける場が只あります。私はどんなことにも不正は許されない、そういった信念をもってやってまいりました。とはいうものの騙されてとんでもないことに協力させられたこともあり、その事に心を痛めました。

 

高島

ありがとうございます。先生は、デザインだけでなく、文章での表現もしておられます。毎週欠かさず様々な「美」をテーマに執筆しておられますが、デザインで表現できないことを文章で表現するため、文章を書き始められたと伺いました。デザインで表現できないこととは何でしょうか。

 

一色先生

デザインで表現できないこと、世の中には、どうしても形だけでは理解されないものもあるんです。ちょっとした文章を添えることで、意図を伝えることが容易になります。

なぜ文章を書くようになったかといいますと、本来は、私の事務所に優れたコピーライターがいて、私がある程度発言した内容を文章でまとめるのが上手かったんです。その彼が大阪の出身で大阪へ帰ることになって、これまで頼っていた人がいなくなり、自分が書かなければならない状況になってしまったために困ってしまいましたが、それならば文章について徹底しようということで、自分が書くことになりました。

 

それが思わぬことになってきたのは、ある会社のシンボルマークをデザインすることになって、コンセプト文をまとめたのですが、そのまとめ方が説明的で面白くないので、全部詩にしたんです。会社の理念を全部詩にして、朝みんなが唱和する。短い詩であってもその方が心に入るだろうと思って、それから、詩ばかり書くようになりました。

その詩の持つ力が思わぬ縁を生んだこともあります。1989年、冷戦の最中での広島市の市政100周年の祈り米ソ宇宙平和サミットが開催された際には、平和のメッセージを広島から発信しようということで、詩を書くことになったんです。アメリカとソ連とブルガリアの宇宙飛行士が式典に招かれていましたので、詩を英語とロシア語にも翻訳して、式典で読み上げました。紆余曲折を経て書いた詩でしたが、式典の翌日、宇宙飛行士の方たちとホテルが同じだったものですから、ロビーにいたら、彼らが通訳を伴って私のところにきて、「日本で一番良かったことはこの詩をもらったことだ」と言ってくれて、抱きしめられました。

この詩は、広島の原爆で亡くなった人のことを思えば忘れることは出来ない出来事であり、こうなったらいいなという未来への思いを必死に書いたものです。言葉は不思議なことに、思いを受けて、ちゃんと出て来ました。アメリカとソ連の宇宙飛行士と手をつなぎ合ってダンスをしたとき、冷戦の最中でしたが、アメリカもソ連も関係なしにお互いを認め合う日が間違いなく来ると確信しました。詩の力で得た体験でした。

 

高島

一色先生は、今も第一線でご活躍され、高い評価を得ておられます。先生の制作されたシンボルは、どの時代にも普遍的に認められる価値がある、みずみずしい新しさを持っている、そんな印象を受けます。

 

一色先生

私は後ろ盾もありませんし、利害関係もありませんので、経営者にズバッと物を言ってしまうこともあるんです。それでもありがたいことですが、不思議と評価されて、ここまできました。

ある時期は16名のスタッフをかかえた会社でしたため、社長業とデザインと両方やっていた時もありましたが、デザイナーは、本当に個性の強い人ばかりで皆それぞれ信念をもってデザインをしていますから、否定もできません。育てていかなきゃならない。大勢を抱えていると経営者になってデザインできなくなってしまうおそれがあり、

それで、7社に分社いたしました。それぞれ独立させて身軽にしました。お陰様で今はフリーランサーとして自由にデザインができています。

 

山内先生

先生は、何年くらい前に会社を小さくされたんですか。

 

一色先生

もう20年も前ですね。早いうちに決断してよかったと思っています。それからは、もう一度新たな地平に立って、若い者に負けないようにしようと頑張っています。今日まで失敗も成功も含めていろいろ体験していますが、ここにきて、この体験の価値というのは、馬鹿にならないものだと思うようになりました。レオナルドダヴィンチの「自分は経験の弟子である、そして智恵は経験の娘である」という言葉、失敗であれ成功であれ何であれ真剣に物事をやっていればどんな失敗も智恵に変わる事を実感しています。世界の天才と呼ばれる人は素晴らしい言葉を残しますね、その言葉を最近実感しています。

 

高島

先生の一番の支援者はどなたですか。

 

一色先生

本当の支援者は色々と苦労をかけた家内が一番の支援者でないでしょうか。一番いい点も悪い点もみんな知っていて、口うるさく言ってくれますが、色々健康のことを注意して料理なんかも心をくばってくれていて、これはありがたいですね。私はシンボルを制作するときは不眠不休で作業に没頭してしまう事があります。そういったときに心配してくれる、大変ありがたいことですね。

その他には、強いて言えば未来からの使者である子どもたちでしょうか。もちろん自分の子どもだけではなくて、すべての子どもたちの未来のことを考えますと、この子どもたちのためにやらなければならないと気持ちが奮い立ちます。私を一番応援してくれているのは、そういう未来を創り出す子どもたちかもしれません。

そして、“子どもたちのため”この1点で、私は何でも強く言えます。大企業の社長や会長にもみなさん、お子さんやお孫さんがいらっしゃいます。彼らに対しておかしいなと感じたら、「今のままでよろしいんですか」ということも言えます。大勢の社員を抱えていたら、妥協してしまったりして、意見が言えないかもしれませんが、誤魔化したら必ず最後にどこかで露呈します。発展するには、正しくある、それしかないんです。

プラトンは真善美といいました。利の価値は非常に大事であるけれども、これが善なる働きをしなければ大変だとも言っています。未来の子どもたちを想うと、いま、生命哲学が問われていると思っています。そういうことを考えて、美・利・善の価値創造をテーマにマトリックスを作っているところなんです。まだまだ書き足らないことがたくさんあって未完ですが、そういったものが新しい人間の文化・経済になるのではないかと思っています。

以上

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第34回目です。
  • 第34回目は、自由民主党参議院議員三宅伸吾様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第34回)■ ■ ■ 
自由民主党  参議院議員
三宅 伸吾 様
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[三宅伸吾様 プロフィール]三宅伸吾様

昭和36年、香川県さぬき市末出身。高松高校、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、日本経済新聞社に入社。米コロンビア大学留学。東京大学・大学院法学政治学研究科修了。企業・官庁・政治取材を経て、平成15年、同社政治部編集委員(平成24年8月退社時は証券部兼政治部、法務報道部)。
平成24年8月、公募で選ばれ、自由民主党香川県参議院選挙区第2支部長就任。翌年25年7月の第23回参議院議員通常選挙にて香川県選挙区より初当選。

HP⇒ http://www.miyakeshingo.net/index.php

 

【お役職】

  • 参議院:外交防衛委員長、政府開発援助等に関する特別委員会委員
  • 自民党:政務調査会外交部会副部会長、知的財産戦略調査会事務局次長

【著作】

  • 『Googleの脳みそー変革者たちの思考回路』(日本経済新聞出版社・2011年)
  • 『市場と法ーいま何が起きているのか』(日経BP社・2007年)
  • 『乗っ取り屋と用心棒ーM&Aルールをめぐる攻防』(日本経済新聞出版社・2005年)
  • 『知財戦争』(新潮新書・2004年)
  • 『弁護士カルテル』(信山社出版・1995年)など多数

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • コンパッソ税理士法人 公認会計士・代表社員 内川清雄様
  • 高井伸夫

 


高井

ジャーナリストから政治家になって、三宅先生の政治家としての実績は何でしょうか。3つ挙げてください。

 

三宅様

まず、法人実効税率の引き下げです。実効税率が平成28年度改正でようやく30%を切り、29.97%になりました。ジャーナリスト時代から、我が国の経済復活のためには税率引き下げが欠かせないと考えており、当選直後から、実現に向けて動きました。

まず、自民党議員約10人の勉強会を作り、徹底的に議論を重ねました。このメンバーを中核にさらに賛同者を募り、最終的に「次世代の税制を考える会」は自民党議員約90人の賛同を得て、政策提言をとりまとめ、関係閣僚らに提言内容の実現を申し入れました。税率引き下げという大きな方向性では政府も一致しておりましたが、私たちの活動が引き下げへの一助になったことを喜んでいます。

 

高井

1つは法人税ですね。実績の2つ目は何でしょうか。

 

三宅様

外国人技能実習制度など外国人労働問題にも時間を割きました。実習制度は国際貢献が狙いであり、副次的効果として日本の労働力不足の課題解決にも役立つ側面があります。

実習制度は日本の進んだ製造やサービスのノウハウなどを来日した外国人に学んでもらい、帰国した後、そのノウハウを母国の経済発展に役立ててもらおうというものです。結果として、我が国の労働力確保にもつながります。

2017年秋に制度が大幅に見直され、在留期間がこれまでの最大3年から5年まで延長されたほか、対象職種に介護が追加されました。肌の触れ合う対人サービス分野で技能実習の対象になったのは介護が第一号です。一方で、人権侵害を防止するために罰則規定や許可制など規制強化策も導入されました。

仕組みが少し一般の方には分かりづらいのですが、建設と造船分野ではひと足早く、3年間の技能実習を終えた後、これとは異なる「特定活動」という在留資格で、日本で一定期間、働けるようになりました。

実習制度などについては個人的にかねて研究を重ね、勉強会や講演会も実施してきました。経済外交であるとともに労働・産業政策であり、これまでの制度改正への一助になれたと思っています。

現時点では、これら制度を適切に運用し、状況を見極めながら段階的に拡充・発展させるべきだと考えています。例えば将来は、当然かなりの条件は付けますが、最大10年間くらいは日本で研修等を兼ねながら働けるように制度改正をすべきだと思っています。現役でバリバリ働けるときに日本のノウハウをもっとたくさん学んでいただいて、帰国後に対象職種の管理職などとして、母国の発展に貢献してもらうというイメージです。

 

高井

法人税、外国人労働、3つ目は何ですか。

 

三宅様

足元で一番力を入れたのは著作権法の改正です。

 

高井

著作権法の何を改正するのですか。

 

三宅様

インターネット関連分野に加え、近年、人工知能(AI)、ロボット分野などでも技術革新が急ピッチで進んでいます。新技術を生かし、ワクワクするような商品、サービスの誕生が見込まれます。これらのなかには他人の著作物を利用する場合があり、著作権者の利益を不当に損なわないケースでは著作物の無断複製を認めたほうが社会のためになるため、そのように著作権法を改正すべきです。

他人が権利を持つ著作物は原則、それを商業利用等のために複製する場合には、著作権者の事前了承を取らなければなりません。例外的に事前許諾がいらないケースについて著作権法は限定的に列挙しています。例えば個人で楽しむために本を複製するとか、報道のためとかが限定列挙されており、このような場合には無許諾複製行為を例外として認めています。

しかし、限定列挙方式では、想定していなかったような技術革新が起きた際、法改正が間に合わず、日本で他人の著作物を利用した新サービスが展開しづらくなっています。

一番、分かりやすい例がインターネットの検索サービスです。これを提供するためには、他人の著作物をかき集めてデータベースにしておく必要があります。データベースを作ろうとすると、他人の著作物を複製するわけですから、事前許諾が要ります。

日本の著作権法はインターネットの検索サービスを合法にするような規定が実はつい最近までなかったのです。2010年になって初めて例外的に無許諾複製を合法化する、という追加条文が施行されました。時すでに遅く、我が国の著作権法が改正された時点では米社の検索サービスがほぼ世界の検索市場を牛耳っていました。

このように情報技術の進展に応じ、無許諾複製を認めた方がもっと社会生活が良くなるというサービスが数多く生まれています。無許諾複製を認めた方が、社会のためになるのだけれども、現在の著作権法は限定列挙方式をとっていますので、法改正するのに数年かかってしまうと、日本が法律を変えたときには既に周回遅れ、海外勢にサービス市場で負けてしまっているという状況になりがちです。

現状を打開するには、著作権者の経済的利益を不当に害さない場合には、公共の利益に合致するようなサービスにおいては無許諾複製も構わないという包括条項を置くべきです。日本経済新聞社の編集委員時代から、このように確信しておりました。

米国法では包括規定のことをフェアユース規定と呼んでおります。日本法でも、この公正利用という概念を入れるべきですが、著作権法を所管する文化庁は今なお消極的です。

 

高井

フェアユース(注:公正利用という概念)に対して日本はなぜ消極的なのですか。

 

三宅様

理由は2つあります。1つは権利者団体には著作権至上主義が根強くあります。著作権は神聖にして犯すべからず、というようなお考えを持っている方がいて、著作権を縮減するような改正にはまず反対をします。

そして、もう一つの理由は事前規制が好きな官僚が多いからでしょう。公正な利用、公共の福祉に資するような著作物の複製であって、著作権者の利益を不当に害しないものは無断複製OKですよという条文、包括条項を入れると、最後は裁判官がこの無断複製行為がフェアユースか否かという判断をすることになります。これは、文化庁の外の方がルール確定の権限を持つこととなります。

思うに、ルール決定は「政府の権限」という風にお役人の方は考えているのではないでしょうか。事前規制から事後規制へという時代の流れを理解されていない、理解していても、権限を離したくないのでしょう。

文化・伝統・歴史、古文書を守ることが文化庁のお仕事だった訳ですから、それはそれで極めて大事です。しかし、繰り返しになりますが、イノベーション、技術革新のスピードに負けないようなテンポで著作物関連の新しいサービスを日本で普及させ、先行した日本の企業が世界に冠たるIT企業になるという、そういう意味での経済成長を進めるためには、文化庁のこれまでの発想、やり方では限界です。同志の議員を募って、いい意味の徒党を組んで頑張っています。

(追記 三宅伸吾議員の活動の詳細は「国政報告」に記載されています。ダウンロードは→ http://www.miyakeshingo.net/news/

 

高井

三宅様が政治家になって一番苦労しているのは何ですか。

 

三宅様

時間です。国会議員としての職務、地元香川の有権者とのふれあい、家族との時間、3つ大きな要素がありますが、足りません。また、政治活動には費用がかかります。資産家ではない、二世・三世議員でもない、脱サラ組みには、活動費の工面にも苦労と時間がかかります。

 

高井

話は変わりますが、国民に是非、知ってもらいたいことはありますか。

 

三宅様

悩んで、決断する、これがそもそも政治家の職務ですが、あえて申し上げます。

多くの要望をいただきます。要望される方は、自分が熱望していることが最優先課題であると確信を持っておられます。当然のことだと思います。

一方、財政状況が苦しい中で、国の舵取りをしているので、最後の最後は優先順位を付け、取り組まざるを得ません。

要望と、その実現に必要な、しかし足りない予算。この狭間で多くの善良な官僚、政治家は悩んでいるということをご理解をいただきたい。要望を全て受け止めても、あなたの要望の優先順位は低いですよ、とはなかなか政治家は言えません。そういう中で政治家は日々悩んでいるということを、頭の片隅に置いておいていただきたいと思います。

また、いろいろな考えがありますけれども、憲法を改正すべきです。住んでいる一定の地理的範囲の中で、同じ文化・歴史を共有している人が、自分のところはこうやって運営するよという仕組み、それが憲法です。そうした憲法を自分の手で作らないと、そもそも国家として良くないと思います。少なくとも憲法9条は変えないと、おかしい。

国防軍と言おうと自衛隊と言おうと、「国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための組織」といっても実質は変わりません。個人、家族の集合体である国民や国を守るため、生命を賭す覚悟で自衛官になられている方が、一部の学者の学説によると憲法違反の組織に属しているとのそしりを受けるような憲法はどう考えてもおかしいと思います。そういう批判ができないような憲法改正を最低限すべきです。

現行憲法を読むと、自衛隊が憲法違反だというような読み方もできます。そういう学説が成り立たない書きぶりに改正しなければなりません。衆参それぞれで3分の2以上を加憲、改憲論者が占めていると言われております。国民投票に向け、国会は憲法改正の発議を速やかにすべきです。

 

高井

一番目は政治家と国民との関係、それから二番目は憲法改正。他に伝えたいことはありますか。

 

三宅様

稼がないとサービスは提供できません。サービスを求める声は山のように来ますが、もっとみんなで稼げるような環境づくりに向けた政策の重要性を声を大にして言っていただきたいと思います。

稼ぐ力をつけるためには当然、制度改正も必要です。不要・過剰な規制を、撤廃・緩和するという環境整備に加えて一番大事なのは人材です。グローバルな舞台で戦える人材、地域経済に貢献する人材が豊富にいないと、稼ぐ力はつきません。

そうした人材をどうやって育てていくか。個々人のキャリアパスの追求に対し、会社などの組織が最大限配慮すべきだというのは、至極、妥当な考えだと思います。諏訪康雄先生、高井先生らがかねて提唱されておられる「キャリア権」の確立は強く賛同支持します。

ただ、いわゆる「キャリア権」の度合いをどこまで認めるかという問題は、結果的に採用を制限している厳しい解雇規制の緩和と、セットにしないと整合性がとれないように思います。解雇規制は厳しいままだけれど、従業員のキャリア権だけを声高に主張されても困ります。

私は、解雇規制の緩和論者ですから、これを実現し、かつキャリア権も法的権利に近づけるというのは賛成です。

また、一生懸命に政策を、自分の頭で考え汗をかいている政治家をぜひ応援していただきたい。自分の頭で考えず、どこかの団体から言われたことを右から左へPRするばかりの方が選挙に強い場合も無いわけではありません。それでは国民のための政治とは言えません。

理念をしっかり持っていて、それを実現するために、国民全体のために真摯に政策を考え、実現しようと奮闘している政治家を見分けていただき、そういう人が政策に没頭できるような環境作りを支援していただきたい。

もう1つ。若い方にぜひ投票に行っていただきたい。高齢者の方の多くは必ず投票に行きます。そうすると政策では高齢者の声が大事にされます。少子化対策より、高齢者福祉に予算が流れていきます。少子化対策が充分なされず、少子化に歯止めがかからず国力が衰えることになっては困ります。もちろん、子、孫の世代を考える高齢者の方も多くおられますが、ぜひ若い人にも投票に行っていただきたい。

 

内川様

先生は目立たないけど汗をかき、一生懸命やっていらっしゃいますね。先生のような正直者がバカを見ない、国会議員でありたいと。素晴らしいですね。

 

三宅様

ガンジーの好きな言葉があります。いろいろな訳し方がありますが、「あなたが変われば世界が変わる」というのが1つの訳です。もう1つの訳は「あなたが変わらなければ世界は変わらない」。座右の銘にしております。

 

高井

三宅先生の政治家としての目標は何でしょうか。

 

三宅様

「日本に生まれてよかった、住んで良かった」と、より多くの国民が思うようにすることです。憲法改正もその手段の一つですし、経済成長もしなければなりません。財政再建もしつつ、少子化対策、社会福祉も充実させなければいけません。様々な課題を克服しないと、日本に住んで良かった、子どもにもずっと日本国民でいてほしいと、胸を張って言えるようにならないですね。そうなるよう精進してまいります。

以上

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第33回目です。
  • 第33回目は、NPO法人信州まちづくり研究会 副理事長・事務局安江高亮様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第33回)■ ■ ■ 

NPO法人信州まちづくり研究会
副理事長・事務局  安江 高亮 様 
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[NPO法人信州まちづくり研究会 副理事長・事務局

安江高亮様 プロフィール]

1962(昭和37)年、長野工業高等学校土木科卒業。父 の建設会社 三矢工業株式会社に入社。1984(昭和 59)年、長野県北佐久郡立科町の姉妹都市オレゴン市 を代表団と共に訪問。ポートランド市とオレゴン市の“まちづ くり”にショックを受ける。平成元年に父より代表取締役社 長を引き継ぐ。

1990(平成2)年、ニューヴィレッジプラン (新しい暮らしの提案)を発表し、経営の主目標にすることを 宣言。「オレゴン市との友好町民の会」結成。パートナーシ ャフト経営研究会に入会し、篠田雄二郎教授と大須賀発蔵師の指導を受けドイツに研修訪問。1992(平成4年)、“まちづく り”開発第1号フォレストヒルズ牟礼(むれ)発売。1997(平成9年)、 『サステイナブル・コミュニティ』(川村健一、小門裕幸共著)を読み傾注する。川村氏のコー ディネイトで、カリフォルニア州デービス市の「ヴィレッジ・ホ ームズ」やデンマークのエコヴィレッジ「モンクスゴー」を視察。

2001(平成13年)、NPO法人信州まちづくり研 究会設立(発起人代表、現在副理事長)。2008(平成20)年、“まちづくり”事業不振の責任をと り、会社を営業譲渡し辞任。以後“農楽”をしながら「田舎 暮らしコミュニティ」創りを画策。

2014(平成26年)、「スマート・テロワール・農村消滅論からの大転換」(松尾雅彦著学芸出版社)を読み、取組開始。

(写真は安江高亮様)

安江様

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安江様より 『私の思想と理念と行動』をご紹介いたします。

高校時代にロシア文学、特にトルストイの「戦争と平和」、ドストエフスキーの「罪と罰」を愛読した。トルストイの人物より大きな時代の流れを見る歴史観、「罪と罰」の殺人に対する多様な見方が価値観の土台になっている気がする。

高校で土木を勉強し、建設業を続ける中で、公共事業とは何か、住宅を造る、街を造るとは何かを考え続けていた。そこに「サステイナブル・コミュニティ」(川村健一・小門裕幸著 学芸出版社)が現れ、本当の”まちづくり”を知り、理想の”まちづくり”に取り組んだ。建設業の仕事は、”まちづくり”だという使命感を強固にした。公共事業を金儲けの具にしてはいけないと考えた。しかし、理想を追いすぎて経営に失敗し、引責辞任に「追い込まれた。しかし、”まちづくり”開発した県内6箇所の住宅地は21世紀のモデルとなると自負している。

 ”まちづくり”を社会に広める目的で平成13年にNPO法人信州まちづくり研究会を発起人代表として設立した。活発に海外視察を行い研修を重ねたが、バブルの崩壊、建設業界の崩壊に伴い、活動は縮小した。平成20年に三矢の代表取締役を引責辞任し、意気消沈し、NPOを解散しようかと考えていた時、「スマート・テロワール・農村消滅論からの大転換」(松尾雅彦著学芸出版社)を読んで、新しい”まちづくり”の目標を見つけた。自給圏(スマート・テロワール)構想しか地方創生の策はないだろうというのが現在である。

 

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • Farm めぐる 代表 吉田典生様
  • 高井伸夫 

(取材日 2017年12月9日(土)於:いっとう(蓼科牛レストラン))

 


高井

立科の農業生産は、何ですか。

 

安江様

生産量が多いのは、やはりお米です。次は、リンゴです。20年ぐらい前までは、畜産が長野県でトップクラスだったんですよ。ところが、もうほとんどの方が辞めて、今かろうじて、数軒が残っているだけになりました。

リンゴについては、ほとんどが生食用出荷ですが、品質には定評があるので、贈答用が多いです。10年ほど前から、「たてしなップル」が中心になって、立科産のリンゴを使って加工品を製造・販売しています。付加価値を大きくするので素晴らしいことだと思います。リンゴで作ったお酒のシードル、それからワイン、フルーツケーキ、ジュース等を販売しているんですよ。たてしなップルの特徴は、原材料のリンゴの品質に拘っていることです。特に栄養ドリンク「林檎美人」は最高の品質だと思います。アンテナショップもありますから、先生、ぜひシードルを飲んでみてください。美味しいですよ。

高井

他に将来性がある特産品はありますか。

 

安江様

特産品ということについて、今、“農業”っていいますと、日本で一番まずいなと思うのは、特殊なものを作って高く売ろうというのが基本になっていることです。これはおかしいのではと感じています。大事なことは、コモディティー商品というか、一般に住民が普通に食べるものが地元で作られて、しかも良品であることが大切だと思うんですね。それが評判になって他所から食べに来ていただくという。

ところが、今はそうなっていなくて、例えば、畜産は衰退していますが、“手作りハム”を作っている会社がありますが、その人たちが作ってるものは地元の人の口に入りづらい。どうしても価格が高くなってしまうからです。家畜に高い輸入餌を食べさせているので、安くならないのです。これは非常に不自然な形の農業なんですが、現状では仕方ありません。やはり、地域の皆さんが誇りを持っておいしく食べられるものを、ほどほどの値段で、基本的にはナショナルブランドよりは安く作れる、食べられる状況を作り出す必要があります。私が事務局を務めているNPOでは、そのために2年前から、自給圏(スマート・テロワール)(注)をつくろうという活動を進めています。

自給圏(スマート・テロワール)(注):地域内でのできる限りの自給を目指す地域単位のこと。

 

高井

今食べているのは、“蓼科牛”ですが、これについてはどうですか。

 

安江様

蓼科牛は、コシヒカリのサイレージ飼料(青い稲を刻んで袋詰にし乳酸発酵させたもの)と輸入飼料で育てられています。この状況は日本中どこでも同じだと思います。ただ、本当の意味で蓼科牛と言えるためには飼料を自給できる体制を作る必要があります。例えば、フランスのボルドーで作っているワインの原料であるブドウが全て輸入品だとしたら、世界中の人が買うでしょうか。ボルドーではそんなことをしていないと思いますが、現状の日本では、そういったことが許容されています。国産のワインと言いつつも、原料であるブドウジュースや濃縮ジュース、粉末を輸入して日本で発酵させたら「国産」と言えるんです。それが法律的に許されています。もちろん、自分で作って自分で醸造しているところもありますが全体から見れば、ごく一部です。でも、本当は、それがたくさん重なることによって、産地形成ができて循環型になりますよね。

 

畜産業の話に戻りますが、畜産業の振興はスマート・テロワール構想の中核的課題のひとつなんです。循環型に畜産業が欠かせない一番大きな理由は、日本人が肉を食べる量が多いことが上げられます。重量で、お米の約2~3倍の肉を食べているんですよ。農水省の統計ですが、お米が、約年間60キロ、それに対して、肉は年間150キロ食べています。その肉のほとんど、8~9割を輸入に頼っています。これを基本的に変えなければなりません。

また、畜産があることによって、堆肥ができるでしょう。その堆肥を畑に入れることによって、いい作物もできるし、全体が循環する。今は、残念ながらその堆肥がお荷物になってしまっているんです。ちゃんと処理をしていないので、臭いから嫌われて、捨て場がないという問題もあります。つい最近、この地区で何十年もため込んだ堆肥が、去年の台風でドンと崩れまして、すごい被害を出したんですよ。日本では牛の糞尿が循環していないんですよ。しかも社会問題にもなったりして、畜産業が敬遠されて、嫌われてしまって、結局、どんどん衰退しています。これはものすごく不自然です。これでは食の循環というのは成り立たないんですよ。

 

高井

蓼科牛の飼料を全て立科町で賄うのは難しいのでしょうか。

 

安江様

現状ではほとんど不可能です。広々とした大きな畑が大量に必要ですが、ほとんどありません。田んぼの耕作放棄地が問題になっていますが、『スマート・テロワール : 農村消滅論からの大転換』を執筆した松尾雅彦さん(注)は、田んぼの土手を崩し、一枚の大きな畑にして穀物を作る、あるいは牧草地にすることを提唱しています。我々もそう思います。そして、その畑で、小麦、大豆、トウモロコシといった畜産の餌、飼料を作るべきと考えています。

松尾雅彦さん(注):元カルビー株式会社代表取締役。2018年2月12日にご逝去されました。

 

高井

安江様は、地方創生の策として自給圏(スマート・テロワール)構想を提唱しておられますが、具体策、そのメリットと課題、行政(国)への働きかけをどう模索するかについて教えてください。

 

安江様

具体策として、第一着手点(ホップ)を約5年としています。その5年で地域の食の実態を調べ、「実証展示圃」で反収増ラインを検証します。また、「30年ビジョン(未来像)と農村計画書の描出」及び、先進地(ヨーロッパ)視察、農地のゾーニング計画、地域内循環モデルを策定し、営農実現計画を考えています。

次の第二の手(ステップ)として、プロトタイプ(注:お手本)で経済性を検証するのに約10年としています。この10年では「互酬経済の承認」、これは加工場のリーダーシップが要でしょう。その他にも、水田を畑地に転換し、水利と灌漑の改修を行い、地域住民・農家・水利組合・土地改良組合などの賛同を得ていく。また、「美食革命」を起こし、地域の特性を持った美味しさを作り出す。食の誇りは地域の人々の意欲を高めると考えています。

 

高井

プロトタイプ、お手本になる自給圏の広さはどのくらいでしょうか。

 

安江様

モデルとなる自給圏の規模は、10ヘクタール〜20ヘクタール規模で考えています。第三の手(ジャンプ)では、いよいよ自給圏内全面展開・都市部への攻略をします。自給率目標は、自給圏内50%超+国内他地域産20%=70%を目標としています。海外から30%です。スマート・テロワール構想のメリットは、何といっても、地域が活性化し、人口増加に転じること、そして、日本で一番遅れている農業を科学することにより、文明国になれることです。

 

高井

農業を科学するとはどういうことでしょうか。

 

安江様

農業を科学するとは、農業に関する情報を求め、研究し、科学的に取り組むことです。農業、畜産業を基盤に食料自給率をアップすることで、地方創生のモデルケースを作る。日本人は、創造は苦手のようですが、全国で1つ、2つモデルができ、それを理解し良いことと判れば、真似るのは上手ですからあっという間に広まるでしょう。山形県では、プロトタイプの農場が来年からスタートしますが、他はまだまだです。私は、自治体の長や担当課に働きかけていますが、相槌を打つだけで、全く動きません。恐らく、理解できない=理解しようとしない=本も買わない、これは票に結びつかないことが原因でしょう。もちろん私の力不足もあるかもしれません。この面では阿部長野県知事はすばらしいです。松尾雅彦さんを、昨年(注:2016年)「食の地消地産アドバイザー」に委嘱し、農政部に実証試験を指示し、予算をつけ5年計画で開始してくれました。

現在の戦略は、世論を高めることです。そのために一般社団法人「東信自給圏をつくる会」をつくる計画です。世論を高めれば政治は寄ってきます。もう一つは、ミニスマート・テロワールを実際に作って見せることです。具体策の第二にあるプロトタイプがそれです。

 

高井

自給圏(スマート・テロワール)構想を実践していて、いちばんの障害は、ずばり行政でしょうか。

 

安江様

行政というか、農業の本家本元であるJAと農業会議(注)が全く興味を示さないことです。唯一山形県では山形大学農学部と山形県農業会議が主導しておりますが、他は、悲しいことに、勉強する気持ちがないとしか言いようがありません。農業界全般に農業を科学する気持ちが見られません。今の農地法改革によって、新しい方針が出されました。集約と、後継者養成が大きな柱になっていて、その集約だけは確かにやっているんです。ですが、ビジョンがないんです。ただ「俺は辞める」っていう農地を引き受けているだけなんです。そして、残念ながら多くの農業会議はその次元に留まっています。

農業会議(注):都道府県農業会議は市町村に設置された農業委員会の上部団体。都道府県ごとに組織されている。市町村の農業委員長により県単位で構成されている。

 

高井

ところで、吉田さんは、国税庁から“脱サラ”して、なぜ農業を始められたんですか。

 

吉田

私は国税に入る前に長野に農業のバイトに来ていて、農業の「気持ち良さ」というのを感じ、いずれやりたいなと思っていました。いったん国税に入庁したんですが、いずれ農業をやるにしても、若いほうがいいなと思って10年で切り替えました。32歳で辞めて、自分で始めたのが34歳です。その間は研修したりしていました。追随してくる後輩はいませんが、新たに農業をやりたいという人は受け入れて、育てるっていうことを、これからやっていかなきゃいけないなと思っています。といっても、まだ私も、始めて6年しかたっていませんので、そんな人に教えられるほどの知見があるわけでもありませんが。

 

高井

吉田さんのような若い力は頼もしいですね。安江様の大きな夢は何ですか。

 

安江様

日本が世界のモデルとなる文明国になることです。文明国というのは、福澤諭吉が『現代語訳・文明論の概略(福沢諭吉著齋藤孝訳ちくま文庫)』中で述べている文明国であり、自己流に表現させていただくと、自律性、向上性、合理(真理探求)性、審美・文化性、徳性を備えた国だと思います。

現在の日本はどう見てもまだ半開だと思います。日本はその気になれば、文明国になれると思っています。ポテンシャルはあると思うので、スイッチがはいれば実現すると思います。自給圏(スマート・テロワール)構想の実現がそのスイッチになれれば最高です。

 

 

<ご参考>
「文明論の概略」から「第三段階文明国とは」より引用します。
「自然界の事物を法則としてとらえる一方で、その世界の中で、自ら積極的に活動し、人間の気風としては活発で古い習慣にとらわれず、自分で自分を支配して他人の恩恵や権威に頼らない。自身で徳を修め、知性を発達させ、過去をむやみに持ち上げず現場にも満足しない。小さなところで満足せず、将来の大きな成果を目指して、進むことはあっても退くことはなく、達成することがあってもそこに止まることはない。・・・」

 

 

以上

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第32回目です。
  • 第32回目は、株式会社旅武者 代表取締役山口和也様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第32回)■ ■ ■ 

株式会社旅武者 
代表取締役 山口和也様 
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[株式会社旅武者 代表取締役 山口和也様 プロフィール]

早稲田大学大学院 商学部 専門職学位課程(MBA)卒 (TOP10% Distinguished Student)
大学時代、ニュージーランドに1年間留学。外資系医療機器&医薬品メーカーの社長室に入社後、2004から2006年にかけ、日本人として初めて米国本社に派遣。
プロのマーケターとして活躍。世界各国の担当者と共に各市場に合わせた製品上市戦略策定を担当。帰国後はAsia Pacific & Japanの地域において、海外を含めた各社との事業アライアンスを担当する事業開発(Business Development)に従事。2011年 Asia Pacific&Japan地域にてMVP獲得。

2013年 早稲田大学大学院専門職学位課程ビジネス専攻(早稲田大学ビジネススクール)にて「海外新興国ベトナムにおける実店舗を用いた研修ビジネスの成功要因に関する研究」との論文を書き武者修行プログラムをスタートさせる。
株式会社旅武者 https://tabimusha.com

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 上智大学 学生 平井志歩さん(弊所元アルバイト) 

山口和也様と高井

写真左が山口和也様、右が高井伸夫 取材日撮影

(取材日:11月13日(月) 於;日本工業倶楽部会館2階ラウンジ)


 

高井

御社の海外インターンシッププログラムの特徴を教えてください。

 

山口様

ひとことで言ってしまうと、このプログラムは、“海外”とか“インターン”と言うよりも、どちらかというと、本気の大人が本気で学生に向き合うというプログラムなんです。

学生を学生扱いしない。経験の差があるため完全に対等にとまではいきませんが、徹底的に「全ては学生のために」というゴールに対してファシリテーターが裸で学生に向き合ういうのがこのプログラムの一番のコアバリューです。

そして、プログラムのゴールは、学生が「自分が定めた将来的なゴールに向けて何が必要かを考え、それを自ら達成すること」ができる能力『自走式エンジン』を搭載すること。色んなことに気が付き、自分自身で自分の人生を設定できるようになってほしいなという想いがあります。 

それが一番の特徴ですが、インターンの内容では、インターン先の実店舗を弊社が直接運営しているという点に独自性があります。このインターンは、ベトナムの世界遺産都市ホイアンにて、1ターム15日間に実店舗で、学生が自分で新規事業を作るというテーマでやっています。オーナーが別にいると、その方の意向があって自由にできませんが、自社で店舗を持っているので、学生が色んな新規事業にチャレンジ可能なんです。自由度が高い、なんでもできるというのが特徴的だと思います。

 

高井

特徴は、主体的に考えて、問題を作って、それの解を求める努力をするということ、これは文科省の最近の教育スタンスともマッチしますね。御社のインターンシップを経て学生が“自走式エンジンを搭載する”と表現されていますが、“自走式エンジン”という言葉は山口様がお考えになられたんでしょうか。

 

山口様

“自走式エンジン”という言葉は私が作った造語です。今の時代は、与えられた質問に答えるだけではなく、自分で答えを作れないと、この不確実が高い世界では淘汰されてしまいます。グローバル人材、これは「どういう状況下でも結果を出し、社会に価値を創造できる人材」と弊社では定義していますが、日本の若者がそうなれるように、という想いを込めています。また、日本の多くの若者が、グローバル人材になって社会への価値創造が自分の力でできるようになれば日本は変わると思っています。

 

高井

学生がインターンをする実店舗は、どのくらいの規模ですか。

 

山口様

広さは様々ですね。大きいところもあれば小さいところもあります。ホイアンのインターン先として、8店舗あります。お土産屋さんとレストラン、洋服屋さん、アパレルショップ、マッサージ屋さん、ワインバー、英語学校、日本語学校、ライフキャリアスクールがあります。英語学校には現在ベトナム人の生徒が約200人、日本語学校には生徒が60人くらいいます。学生は、これら8店舗の中から1店舗選んで、例えばレストランで新しいメニューを作ってみるとか、お土産屋さんで新しいお土産を作ってみるとか、そういうふうに自分で新しいことを考えて、実際にお客さんに提供するというところまでを経験します。

 

高井

平井さんはどこで研修を受けたのですか。

 

平井

私は、ライフキャリアスクールというところです。ベトナムの方に新たな“教育”を創るということで、立ち上げたばかりの状態だったので何も決まっておらず、事業を0から体験することができました。

 

高井

この事業を4年前に始められたそうですが、今までどれくらいの学生が参加されたのでしょうか。参加する学生は年々増えていますか。

 

山口様

全国から学生が参加してくれるようになり、今までに参加した学生は1550人になりました。参加者は回を追うごとに増えており、初めは4人でしたが、4人から10人、50人、56人、101人、202人、333人、374人と増えて今回(注:2017年夏)は454人で、累計は1559人です。

時期は大学生の休み期間、春休みの2月3月、それから夏休みの8月9月、そして年末年始にも実施します。

プログラムを受ける期間をタームと呼んでいますが、1つのタームに前回(注:2017年夏)は平均28名ほど参加しました。夏は16タームやって全体では454人。今回の春(注:2018年春)も16ターム開催するので、最高で480人が参加予定です。

 

高井

男女比はどれくらいですか。

 

山口様

男女比はほぼ半々です。

 

高井

参加した学生同士の同窓会のような集まりはあるのですか。

 

山口様

会社が主催する集まりとしては、年に1度東京で年次総会を開催しています。インターンに参加した学生は全国各地にいますので、全員が集まることは難しいですが、この会には300人くらいが参加しています。

 

高井

インターンへの参加費は30万円程度かかるようですが、事業として採算は取れているのですか。

 

山口様

実はこのビジネス自体3年やってずっと赤字でした。1000人参加する体制ができて、4年目でやっと黒字転換する見込みです。

例えば、企業研修を同じベトナムでやる場合、だいたい相場が5泊6日くらいで50万円くらいします。そういう点でいえば格安ですが、学生相手のビジネスなので、たくさんもらうわけにはいきません。ファシリテーターを1つのタームに4~5人配置する費用も掛かりますし、またベトナムの8店舗の維持費もかかりますから、ぎりぎりのラインだと思っています。

 

高井

赤字が続いても、よく続けていらっしゃいますね。

 

山口様

私は早稲田大学の大学院の修士論文でこのプログラムのことを書きました。「海外新興国ベトナムにおける実店舗を用いた研修ビジネスの成功要因に関する研究」という論文ですが、この通りに進めていまして、内容自体は修論に合わせて順当に進んでいるんですよ。とりあえず、修論で書いた通り5年で毎年1000人が参加する体制というのがやっと今年1年前倒しで作れたので、そういう意味では感無量です。

 

高井

店舗を増やす予定はありますか。

 

山口様

今のところ考えておりません。この武者修行プログラムをやるために8店舗を運営しているので、やむを得ず運営できなくなった店舗がある場合のみ新たに作るという感じで、それ以外はそのまま8店舗を維持しようかなと思っています。オートバイ屋をやらないかとか、ホテルをやらないか、とか色々あるんですけれど、お店で儲けようというよりは、日本から来る学生に対して、面白い、魅力的だという店舗が、色々な種類あった方がいいだろうなと思っています。インターンは職業経験ですから、レストランをやりたい人もいれば、学校をやりたい人もいるし、そういう風に、色々やれるようにしています。

 

高井

日本人の学生が内向きだと言いますが、このプログラムに参加される学生に特徴はありますか。

 

山口様

そうですね、やる気のある学生が多いです。また、このプログラムに参加した後で、留学をする学生が多いです。

 

高井

プログラムの卒業生で、あなたのイベントに参加して卒業生自身の成果につながった人はどんな例がありますか。

 

山口様

何を成果と呼ぶかにもよるかと思いますが、分かりやすい例であれば、いわゆる外資コンサルに内定したとか、日本の官僚になったとかでしょうか。その他にも起業した卒業生も何人かいます。

 

高井

ベトナムに生活の拠点移した人もいるのですか。

 

山口様

ベトナムに生活の拠点を移した人もいます。入社した企業から派遣されてホーチミンで150席のレストランをオープンさせた例もあります。あとは、武者修行プログラム参加後に、再度ベトナムに行って、弊社の日本語学校で日本語教師をしたり、英語学校のマーケティングを担当したり、洋服屋さんで店長をしたり・・・というケースも増えてます。

 

高井

ベトナム以外の国でこのプログラムを展開する予定はありますか。

 

山口様

そうですね。具体的な国などは、今、色々と考えているところで、来年度くらいに決めようと思っています。また将来的にはこの「武者修行プログラム」のノウハウを大学や企業などに様々な形で提供し、世界中で活躍できる人材を輩出していきたいと考えています。日本の若者がグローバル人材になり、自分で社会への価値創造ができるようになることで、日本の将来に貢献していきたいと本気で考えています。「今、話題のリーダー(大企業幹部、ベンチャー経営者、NPO代表理事等々)はみな武者修行プログラム出身者だよね」「武者修行プログラムできてから、日本って変わったよね」と言われるようなそんな野望を持っています。

 

以上 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第31回目です。
  • 第31回目は、イシハラクリニック 院長 石原結實先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第31回)■ ■ ■ 
イシハラクリニック
院長 石原結實先生 
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[イシハラクリニック  院長 石原結實先生 プロフィール]

1948年長崎市生まれ。長崎大学医学部(卒)及び同大学院博士課程(修了)。医学博士。長寿地域として有名なコーカサス地方(ジョージア共和国)やスイスのB・ベンナー病院などで最前線の自然療法を研究。現在イシハラクリニック院長のほか、伊豆にニンジンジュース断食・玄米食・温泉等で健康を増進する保養所(サナトリウム)「ヒポクラティック・サナトリウム」を1985年に開設、運営する。

著書は1979年の『病気はかならず治る』(善本社)の処女出版以来300冊。ベストセラーになった『生姜力に』『体を温めると病気は必ず治る』『医者いらずの食べ物事典』他、10万冊以上のベストセラーが11冊。米国、ロシア、ドイツ、フランス、中国、韓国、台湾、タイ、インドネシアなどで計100冊以上が翻訳出版されている。 自身の提唱する超小食生活(朝は人参ジュース、昼は生姜紅茶、夜は和食)を続けながら、年間365日休みなく診察・講演・執筆・メディア対応を行う。その合間に週5日、1日に約10kmのジョギング、週2回のウェイトトレーニングを習慣とし、「運動」「少食」を鍵に、69歳で病気知らずの健康体を保っている。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • イシハラクリニック 副院長 石原新菜先生
  • 株式会社ことば未来研究所 代表取締役 鮒谷周史 様 
  • 高井伸夫

新菜先生石原先生写真

写真は石原新菜先生(左)、石原結實先生(中央)、高井(右)撮影日:12月15日

(取材日:1回目 2017年11月10日(金)於;銀座びいどろ、
2回目 2017年12月15日(金)於;鮨武蔵)


高井

「ニンジンジュース健康法」は先生の代名詞にもなっていますが、先生が食生活で心掛けていることは何ですか?

 

石原先生

食べる“量”を心掛けています。私の食生活は実はこの20年間変わっておりません。朝はニンジンジュース、昼は生姜紅茶、夜だけ好きなものを食べる。1日1食です。質もさることながら、少々悪食しても、量が少量なら健康で生きられると考えています。1日1食、これが健康食です。

 

高井

私なんか失格ですね。3食しっかり食べていますから・・・。1日1食の提唱者はいますか。

 

石原先生

秋田藩の藩医の息子で明治5年生れの二木謙三という人がいたんです。この人は体が弱くて3年遅れて小学校に入学していますが、玄米食をはじめたら元気になった。小学校を3年遅れて卒業して、秋田の旧制秋田一中、一高、東大医学部を卒業して東大内科の教授、駒込病院勤務を歴任して、二木基金という基金を設立し、文化勲章を受章しているんです。玄米食の先生で、すでに亡くなられていますが、「生命なき食物は生命の糧にならず」という名言を残しています。玄米を撒くと芽が出るけれども、白米を撒くと、腐る。卵も有精卵なら命がでるが、無精卵はあたためると腐る。なんでも命のあるものを食べなさいと。体が弱かった二木先生は、昭和41年4月に94歳で亡くなるんです。先生の死後、今の東大の医科学研究所の前身の伝染病研究所で、弟子たちが、涙を流しながら解剖したらどこにも病変がなかったそうですよ。一日一食、玄米に味噌汁に煮物、日本酒が好きで一日2合、それで94歳まで生きたんです。

 

高井

先生の著書「体を温めると病気は必ず治る」を拝読しました。先生が、現代人の体の冷えに着目するようになったいきさつを教えてください。

 

石原先生

内科として診療をしていますが、子どもが診察に来ることもあるんです。子どもの体温というのは、本来大人の体温に比べて、0.5~1度高いんです。それが、体温が36度しかないような子どもがいる。低いんですよ。おかしいなと思って気になりましたので、それから、大人でも、発熱患者以外も体温を測るようになったんです。そうしたら、みんな思いのほか体温が低いんです。それで体温に注目しました。 

病気をすると、熱が出て体温が上がり、体温が上がると免疫力が上がるんです。逆に体温が下がると免疫力が下がるんです。それで、体を温めるといいんじゃないかと思いました。そのころ漢方を勉強していたら、漢方というのは、だいたい体を温める漢方薬が多いということを知りました。葛根湯も体を温める。葛根湯は、風邪、肩こり、頭痛、乳腺炎、咳・中耳炎などなんでも効きますが、いずれも温めるから効くんです。だから、温めると免疫力が上がるという結論になりました。体温とナチュラルキラー(NK)細胞(注1)や免疫細胞(注2)の研究、ヒートショックプロテイン(注3)の研究を長年続けている伊藤要子先生とも対談をしたことがあります。動物は病気をすると、食べないか、熱を出すかどちらかです。神様が私達に与えてくれている病気治癒力というのは、食べない、熱を出す、これしかないんです。

 

  • 注1:ナチュラルキラー(NK)細胞とは、文字どおり生まれつきの殺し屋で全身をパトロールしながら、がん細胞やウイルス感染細胞などを見つけ次第攻撃するリンパ球
  • 注2:免疫細胞とは、抗原を認識し、特異的に反応する能力をもち、免疫に関与する細胞の総称
  • 注3:ヒートショックプロテインとは、熱ショックタンパク質のこと。傷ついたタンパク質を修復し、元気な細胞に戻す作用を持つ

 

高井

動物に備わった自然治癒力は、「食べない」と「熱を出す」の2つなんですね。

 

石原先生

キーワードは、空腹と発熱です。

2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典博士のオートファジーという理論は、おなかがすいたときに、細胞の中の有害物、老廃物、ウイルスを、その細胞自身で消化してしまうという理論です。2000年には、アメリカのマサチューセッツ工科大のレオナルド・ガランテ教授が、空腹になると長寿遺伝子のサーチュイン遺伝子が活性化するという論文を発表しています。そのほかにも、エール大学の教授が、空腹になると胃からグレリン(ホルモン)が出て、これが脳の働きをよくするという論文を発表するなど、色々なことが分かってきました。

空腹時には、正常細胞が病気の細胞を食べて、病気がよくなる。いくら医学が発達しても、そこをないがしろにしては、今の医学では慢性病は治せないと考えています。糖尿病や高血圧の患者が同じ薬を10年も20年も服用していても、治療と言わない。“治”、治すというのは「直す」ですから、もとに戻るということでしょう。ある一定期間薬を飲んだら、もう飲まなくていいようにする、これが医療であり治療ではないでしょうか。

 

高井

先生は自由診療をしておられますが、保険適用範囲内では、先生の推進する医療の実現は難しいのでしょうか。その理由も教えてください。

 

石原先生

実は保険診療を2年間くらいやった時期もあるんです。私は漢方を処方するのですが、保険診療をしていた当時、漢方を3種類以上処方して東京都から行政指導を受けたことがありました。西洋医学も医療費が高額ですが、漢方もかなり高額で、3種類も出すのはよろしくない、という指摘を受けたんです。それで、保険診療では自由な診察ができない、と感じて保険診療を辞めました。平成4年の1月から自由診療です。私は漢方だけで勝負しています。自由診療ですから、効かなかったら患者さんは来ません。

今日本は、医療費に1年間で42兆4千億円使っているんです。この医療費は1年で1兆円ずつ上がっています。約40年前、僕らが医者になった頃、癌死者数は年間約13万人、医者の数も全国で12~13万人でした。今は医者は31~32万人います。この40年間で癌に対する治療法はどんどん進化しました。医者も増えて、医療もよくなっているにも拘わらず、去年の癌死者数は38万人、つまり、癌で死ぬ人が減らないんです。おかしいと思いませんか。それをおかしいと思わないのがいけない。ちなみに日本は、昭和35年から9月は癌征圧月間といって癌のキャンペーンをやっています。もう、57年間やっています。医者の数が増えても医療が進歩しても、何にも役に立っていない。今までのやり方は間違っていたんだと、ここで方向転換をしないといけないと強く思います。今は、ジェネリック医薬品を使わせたり、3週間以上入院するなと言ったり、色々と対策しています。それももちろん大事ですが、それは枝葉のことで、抜本的に、病気をしないような医療に変えないと、日本は医療費で破綻するでしょう。

 

高井

いずれ日本は医療費で破綻しかねない。では、年間42兆円の医療費を減らす解決策はありますか。病気をしないような医学に変えるとはどういうことですか。

 

石原先生

栄養学者や医学者は、3食きちんと食べましょうと言います。そうやって指導した結果が今の状態、医療費が年間42兆円に膨れ上がり、病気も全然減っていない。今の病気は高コレステロール・高血糖・高体重・高血圧、全部「高」がつきます。この指導が誤っていたと悟らなければなりません。 

医療費の削減は、簡単にできると考えています。まずは底辺のレベルで例を挙げれば、今の医療は若い人も年をとった人も同じ基準で考えていますが、これを変える。例えばコレステロールの正常範囲については数値がいくつまでとか、中性脂肪はいくつまでとか基準があるわけです。年を取ると誰だって皺はできるし、歯も抜けるし、誰でもどこかに異常が出てくるんです。血圧に関して言えば、2000年までは160以上95以上を高血圧といっていたのに、2000年から突然140以上90以上が高血圧と言われるようになったんです。基準が変わって、今までなんともなかったような人にも薬を出すようになったんですよ。もちろん血圧が高ければ動脈硬化のリスクがありますから、血を回すため薬が必要です。ですが、正常範囲を年齢とともに緩くするだけでも薬はかなり減ると考えています。

また、生活習慣病という言葉を作られたのは7月(注:2017年)に亡くなられた日野原 重明先生ですが、自分自身の生活習慣で糖尿病・高血圧・痛風になるならば、生活習慣病になった人は、保険の3割負担のところを5割にするとか7割にする。そういった対応も可能だと考えます。

 

新菜先生

国民皆保険というのは素晴らしい制度ですが、健康意識を下げているかもしれませんね。アメリカみたいにとまでは言いませんが、自分の病気をカバーするためには1か月20万~30万円のお金がかかるんだということ、それが分かれば、食事を気にしたり、運動したり、気を付けますよね。

 

石原先生

アメリカでは救急車を呼ぶと1回200ドル、約25万円かかるそうです。アメリカは自分の健康は自分で守りなさいという姿勢です。

では遺伝で病気になる人はどうしたらいいのか。私の考えでは、遺伝で病気になるというのも、それが発現するかどうかは、生活習慣だと考えています。例えば、人間の遺伝子の種類は20万ありますが、癌の遺伝子は約100種類あるんです。誰でも癌になる、誰でも糖尿病になる可能性があります。いい加減な生活習慣では糖尿病になる。それで腎不全になる。透析を受けている人は約30万人いて、医療費が1年でおよそ1兆5千万円かかっています。極端な話をすれば、生活習慣病というのであれば、生活習慣を見直す、自身の生活が悪い結果ならば、保険は使わない、もしくは自己負担割合を上げる、それくらいしないと、医療費の削減にはつながらないと考えています。

私の本で「食べない健康法」という本がありますが、20万部くらい売れました。皆さん、潜在的意識で、食べ過ぎだっていう認識があるんだと思いますよ。 

ちなみに、私はこの45年間一回も病気をしたことがありませんが、これでも、小さい時は虚弱体質だったんです。今は風邪を引きかけたら葛根湯を飲みますが、西洋医学の薬は飲みません。病院なんか45年間一度もかかっていません。私は今年70歳になりますが、私みたいな高齢者が増えれば、医療費は半分以下になるでしょう。極端なことを言っているようですが、ガリレオにしても、ニュートンにしても、異端者が時代を作ってきているんです。オーソドックスなことを言っていても発展はしません。今までの考え方、方法ではだめだっていうことを悟らないと、この国は医療費で破綻してしまうでしょう。

 

高井

今までの医療のままでは日本が破綻するとは穏やかではありませんね。先生のような健康な人が増えれば医療費はかからなくなる、どの時代も異端者は時代の開拓者でもありますよね。本日はありがとうございました。

以上

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第30回目です。
  • 第30回目は、フランス料理菓子研究家・大森由紀子様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第30回)■ ■ ■ 
フランス料理菓子研究家
大森 由紀子様 
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[フランス料理菓子研究家大森由紀子様プロフィール]

フランス菓子・料理研究家。フランス料理・菓子教室エートル・パティス・キュイジーヌ主宰。http://www.yukiko-omori-etre.com
学習院大学フランス文学科卒。
パリ国立銀行東京支店勤務後、パリの料理学校で料理とお菓子を学ぶ。
フランスの伝統菓子、地方菓子など、ストーリーのあるお菓子や、 田舎や日常でつくられるダシをとらないフランスのお惣菜を雑誌、本、テレビ などを通して紹介している。

大森由紀子様

  • 「わたしのフランス地方菓子」(柴田書店)
  • 「フランス地方のおそうざい」(柴田書店)
  • 「パリスイーツ」(料理王国社)「物語のあるお菓子」(NHK出版)
  • 「ママンの味、マミーのおやつ」(文藝春秋)
  • 「フランス菓子図鑑」(世界文化社)
  • 「ベーシック・フレンチ」(世界文化社)など著書30冊以上。

フランスの伝統&地方菓子を伝える「ル・クラブ・ド・ラ・ガレット・デ・ロワ」 の理事、スイーツ甲子園審査員&コーディネーターを務める。 毎年夏、フランスの地方へのツアーも企画。 フランスのガストロノミー文化を日本につたえる架け橋になりたいといつも思い ながら、点が線になる仕事をめざしている。
2016年、フランス共和国より農事功労賞シュバリエ勲章授与。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 

取材日 2017年12月6日(水) 於:レストランラッセ

 


高井

大森様は、フランス料理・菓子教室「エートル・パティス・キュイジーヌ」を主宰され、執筆や、フランスの食文化を紹介するツアーを企画するほか、昨年「農事功労賞シュバリエ勲章」を受章されるなど、幅広く活躍しておられますが、大森様の最近の活動について教えてください。

 

大森様

主軸となる活動は、週末に開催しております、フランス菓子、フランス地方菓子、フランス地方料理、フランス家庭お惣菜教室です。その他、元生徒、現生徒を対象にした「エテルネル会」というものを設立し、その生徒たちを対象にしたイベント(著名シェフや著名人を教室にお呼びし、料理、菓子デモンストレーションやトークを行っていただく企画)などをしております。最近は、楠田枝里子さんや元レカンの高良シェフなどにいらしていただきました。

その他、企業のアドバイザー、雑誌執筆、本出版、フランス伝統菓子を守る会「クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ」の理事、高校生のスイーツコンクール「貝印スイーツ甲子園」の総合アドバイザー、お菓子のコンクールの審査員などをしています。

 

高井

今年(注:2017年)は、フランスにはどのくらい行かれたんですか。

 

大森様

直近では10月にサロン・ド・ショコラへ行きました。今年(注:2017年)は、1月と3月にも行っています。(2017年)1月には、リヨンで2年に1度開催されるお菓子の世界大会「クープ・デュ・モンド」と「ボキューズ・ドール」という料理大会の取材をしました。この大会は、リヨンで開催される、国際外食産業見本市(SIRHA)会場の一角で開催されるんです。「クープ・デュ・モンド」では、各国の代表者3名が1チームを組んで、チョコレートの装飾のピエス、氷の彫刻、アントルメント(飴)、それぞれを担当して競技するんですよ。

 

高井

日本も出場しているんですか。

 

大森様

日本は常連です。直近では、「ボキューズ・ドール」の2013年コンクールで、星のやの浜田統之(はまだのりゆき)シェフが3位に入賞しています。この大会では、24か国24人の審査員が審査をしますが、この時は審査の順番が24番目ということが事前にわかっていました。最後だったんです。最後ですから、審査員の舌が麻痺しているだろうからどうしたものか、ということで、事前に星野リゾートさんから相談を受けました。出品予定のお菓子は、審査が最後だからということで、色々と際立たせようとしてスパイスが効いたり、趣向を凝らしすぎていたんです。それを、シェフらと一緒に試行錯誤して1か月で立て直したんです。本番はお料理だけでなくて、プレゼンテーションも素晴らしかったです。燕三条のナイフとフォークを審査員全員に一人ずつ配って、お料理もお弁当箱で出して、お弁当箱を開けると煙みたいなものがうぁーと出てくるという演出でした。それでも3位でした。

 

高井

コンクールというよりも、まるでショーのようですね。

 

大森様

各国が色んな工夫をしているので、ショーとしての魅力もあり、すごく面白いですよ。まだまだ知名度が低いせいか、あまり報道されませんが、業界全体で盛り上げたいと思っています。この大会は地区予選があって、シンガポールや中国なども出ているアジア予選もとても面白いです。

 

高井

来年(注:2018年)はいつ行くのですか。

 

大森様

来年(注:2018年)の3月末から、パリのホテル リッツ内にある、リッツエスコフィエ料理学校でお菓子を学ぶツアーを企画しています。

 

高井

何人くらいのツアーですか。

 

大森様

だいたい10名程度です。厨房に入れる数に限りがありますのでそのくらいがちょうどいいんです。

 

高井

大森様はフランス地方を旅するツアーも企画しておられますが、食文化を肌で感じてもらうために、ツアーで大切にしていることは何ですか。

 

大森様

なるべく本物に出合うということでしょうか。現地の人、現地の食文化、現地の言葉。そのために農家を訪ねたり、ワイン醸造家やチーズ工房にもお邪魔します。また、厨房でのデモンストレーションも依頼し、本場の素材、作り方を実際に目にしてもらいます。そして、そんな食文化を育んできた、土地の歴史や背景を知ってもらうために、もちろん、歴史的建造物や遺跡を訪ねることも欠かせません。

 

高井

お菓子のルーツをめぐる旅、フランス以外で大森様が行ってみたいところはありますか。

 

大森様

世界は行ったことがないところの方がもちろん多くて、まだ行ったことがなくて行ってみたいのはトルコですね。ヨーロッパでお菓子の原料を辿るとトルコに行きつくものが結構多いんです。この間、ウィーンに行ってきたんですが、アップルシュトルーデルというお菓子があって、これは薄い生地でできていますが、トルコから来ているんです。トルコ軍が攻めてきた時に置いていったそうです。トルコ料理は世界三大料理の一つでもありますから、トルコはぜひ行ってみたいですね。

 

高井

大森様はフランスに留学されていますが、最初にお菓子の修行をされたのはどちらですか。

 

大森様

フランスのといル・コルドン・ブルーという料理学校です。そこに通いながら、パリの美味しいお菓子を食べ歩きました。このお店は美味しいとか、ここは面白いとか感じたら何度もお店に通ってシェフに「働かせてほしい」と直談判したんです。そうやって働かせてもらって、経験を積みました。

過去に働いていたお店が今になって3つ星レストランになってたりしているんですよ。“アルページュ”なんかもそうです。ピエール・エルメさんは、当時すでにフランス一の舌を持つと言われていましたが彼のもとでも働いたこともありますし、そのほかにも、10年ほど前に日本にも出店されたジャン・ポール・エヴァンさんも、当時から30年来のお付き合いをさせていただいております。

 

高井

すごいですよね。大森様が当時関わってた方がみんなメジャーになっている。先見の明があるんですね。

 

大森様

当時から、彼らが作った料理はとっても美味しくて、また他の人とは一味も二味も違いました。斬新さ、今までにない新しさ、味も見た目も、それからも食感も違ったんです。この人は!と思ったシェフはみんな普通じゃない。言動、行動もどこか飛んでいるといいますか、こんなのありえない、という天才肌の方たちでした。例えば、ピエール・エルメさんは、今では50歳を過ぎて、柔らかい物腰しで、始終にこやかにしていますけれど、20代でパリの「フォション」のシェフを任されていた時などは、笑ったところを見たことはありませんね。仕事に対しては、完璧主義者で、作ったものが規格に合わないとどんどん捨てられちゃうんですよ。私も、「これ誰がつくったの」と聞かれ「はい」と答えたら、目の前でシュッと捨てられちゃうということを経験しました。

 

高井

当時は、エルメ氏もまだ若いですよね。若くても人がついてきていたんですね。

 

大森様

そうですね。エルメさんも当時はまだ若干26歳とか、そのくらいでしょうね。フランスでは中学卒業のころから将来のことを考え始めますし、16歳くらいから修行を始めます。26歳でも、すでに自分の立場に責任を持ち、さらに「フォション」というお店に対しても、忠実にそのブランドを守るという意識がありましたので、私たちも絶対に逆らえない雰囲気がありましたね。

 

高井

今でいうカリスマ性をもっていたんでしょうね。ところで、フランスでは今どのようなお菓子が人気なのでしょうか。日本でもヒットしそうなお菓子はありますか。フランス菓子にトレンドはありますか。

 

大森様

フランスのお菓子の流れは、パリから始まりますが、パリではフランス菓子も行きつくところまで行きついて、今は単一商品ばかり売る店が増えています。エクレアならエクレアだけ。マドレーヌならマドレーヌだけ。そういうお店は“パティスリー”(小麦粉でつくる菓子を販売する店)と言えず、“mono-produitモノ・プロデュイ屋”(アイテムのみ扱う店)というそうです。ビジネス優先ですね。生き残るかどうかは時間の問題だと感じます。唯一生き残りそうなのは、メレンゲ菓子専門店です。フランス人は、メレンゲが大好きのようですから。あとは、キュービックを真似たお菓子ですとか、ちょっとオブジェ化したスタイルのインスタ映えするお菓子を若手が作っています。

 

高井

パリに美味しいものが集まっているように思いますが、フランスの食文化の魅力は何ですか。

 

大森様

パリのお料理も素晴らしいですが、結局は地方の集大成です。日本でもそうですよね。様々な郷土料理がある。私の主人は愛媛なんですが、お正月の御雑煮のお餅が丸かったんです。私は東京の出身で、お餅に丸いお餅があることを知らなかったんです。地方によっては、お餅にアンコが入っている。お雑煮一つとっても地方によって違いますが、フランスでも同じです。パリの人は意外と地方を知らない人もいました。当時、私が「アルザス(注)に行った」なんて言うと、「ブレッツェルの作り方はどんなだった?」なんて聞かれたんです。そうそう、でも、ピエール・エルメさんは知っていたんです。彼はものすごい勉強家なんです。私がさりげなく「ラモット・ブーヴロン(注2)に行ったんだよ」なんていう話をすると、「じゃあタルトタタンは食べた?」ってすぐに反応するんですよ。

  • 注:アルザス フランスの北東部、スイスとドイツの国境沿いに位置する
  • 注2:ラモット・ブーヴロン パリ南方のソローニュ地方にある町

パリに美味しいお料理が集まっていますが、それぞれのお菓子に地方の文化や背景があります。歴史をさかのぼると、中世の十字軍の動き以降、素材がフランスに集まるようになりました。お菓子の原料を遡ると本当に各地から集まっていて、さきほどのアップルシュトルーデルのように、トルコにまで行きつくものもあります。そういった各地から集まった素材を、フランス人は独自の食文化に昇華させています。その素材をさらに極みにもっていこうとする食いしん坊魂といいますか、それをアートに発展させたパッション。そこに各地方で脈々と伝わる郷土料理、菓子が交差し、多様な食文化を生み出しているため、フランスの食文化は研究してもしつくせない魅力があります。

以上

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第29回目です。
  • 第29回目は上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第29回)■ ■ ■ 

上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 
 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生

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[上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生 プロフィール]

生年月日: 1969年9月8日

出身地: 中国吉林省長春市

略歴等

  • 中国吉林大学大学院歯学部 学士及びマスター学位(1997年)
  • 日本東京歯科大学大学院博士学位
  • 1999年~国際歯科研究協会(IADR)日本分部及び中国部 会員
  • 日本歯科理工学会 青年研究奨励賞 2001年会
  • 1992年~中華口腔医学会 会員歯科医師
  • 2000年~米国歯科医師会 会員歯科医師
  • 2011年~上海口腔医学会民営専門委員会 副主任委員、上海口腔医学会基礎専門委員会 常務委員
  • 上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師
  • 上海Open Dental 健康管理株式会社 創立者 社長

 

劉先生

(写真は、劉佳先生)

 

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 小松茂生様
  • 五十嵐充(弊所上海代表処首席代表弁護士) 

取材日 2017年9月14日(木) 於:老吉士(上海市)

 


 

劉先生

私は中国吉林大学大学院歯学部で学士とマスター学位を取得し、1992年から5年間ほど中国で歯科医をしていました。臨床をやっていたんです。

1997年に日本へ留学し、日本語を学んでから東京歯科大学大学院に入学しました。日本で大学院に通っていた当時は、臨床の講座のOBの先生や開業医の先生の歯科医院へ行き、アシスタントをしていました。当時、自由が丘で開業している講座のOBの先生の歯科医院に通って、毎週1日、3~4年くらいアシスタントとして患者を診ていました。その他にも、インプラントの勉強をしている横須賀の先生や、銀座の先生、麹町、千葉にある先生等々、いろいろな先生のところでアシスタントをしました。その先生たちとは、今でも連絡を取っていますよ。

 

高井

場数を踏んで勉強されたんですね。東京歯科大学に留学されていましたが、日本で勉強したことで役に立っていることは何ですか。

 

劉先生

1998年から2003年まで日本に留学していましたが、東京歯科大学で一年目は「第一専修生」、その後の四年は大学院「博士コース甲」でした。留学中は得るものが非常に多かったです。専門的な研究と臨床実践を重ね、その他に歯科医の患者に対するサービスや理念なども習得しました。何よりも、多くの立派な日本人歯科医と出会うことができました。先生たちの高明な医術、職業倫理及び職業に対する信念と追求は、私にとって生涯の糧となっています。

 

高井

ざっくばらんに言って、現在の中国の歯科と日本の歯科とは、どちらが進んでいますか。

 

劉先生

進んでいるか、という言葉は難しいですが、中国では医療モードが進化しています。医療モード、医療の“仕方”といえばよいでしょうか。例えば中国では、歯科医が一人で、患者さんに向き合うのではなく、歯科医と歯科衛生士の2人で一人の患者を診ています。歯科衛生士が必ず付きます。その他にも歯科医、歯科衛生士以外で、中国ではコンサルタントがいますが、これは日本とは異なる点だと思います。中国では、患者さんとコミュニケーションをする際に、歯科医と患者さんの間に入るコンサルタントがいます。

 

高井

そのコンサルタントはどんな役割をしているのでしょうか。

 

劉先生

歯科医と患者さんの間に入って歯科治療を円滑に進める手助けをしています。患者さんには、歯科医に対してのイメージ、歯の治療に対してのイメージ、疑問などがあります。それらを聞き取り歯科医に伝える。一方で、歯科医は治療に関する説明の時間が足りなかったり、あるいは説明してもなかなか患者さんに納得してもらえない場合に時間をかけて説明する必要がありますが、その説明をコンサルタントが代わりに行っています。歯科医の“助手”ではなく、治療の計画を説明する、相互に話をする、そういった役割を担うコンサルタントが中国では登場しています。

また、中国では、医療においてもインターネット分野で日本より進んでいます。

上海という一つの都市にいる各分野の有名なドクターの情報が、全て掲載されているアプリやホームページがあり、患者さんは、評判などをインターネットで見ることができます。そういったアプリケーションやホームページは日本より進んでいるように思います。日本ではもともと国民皆保険制度があって、歯科医の数も多いですが、中国ではもともと歯科医の数が少ない。遠くにある歯医者さんの、どこの先生がいいのか分からなかった。そういった背景もあり、インターネットでは平等に情報を取得することができますから、インターネットが日本よりも浸透したんだと思いますよ。

 

高井

保険制度の話が出ましたが、中国では、保険制度は機能しているのでしょうか。歯科治療における保険制度について教えてください。

 

劉先生

中国では、「社会保険」という日本の国民保険のような保険があります。社会保険は基本的に公立や国立の医療機関で利用できます。私立の歯科クリニックではまだ利用できません。保険の範囲としては、まだ歯の治療のみです。一部の薬や、入れ歯をする、矯正、(歯の)インプラント、美観などは保険の範囲ではありません。自由診療になります。

 

高井

自由診療を受ける患者さんは富裕層が多いのでしょうか。

 

劉先生

治療に一定の費用がかかることを考えると、どうしても、富裕層の方々が対象になっています。自由診療は、富裕層の方たちにとっては、コンサルタント担当者が時間をかけて1対1で対応してくれ、安心感を得たり、プライベートのサービスを受けられることに魅力を感じているんだと思います。それと、富裕層は公立病院のサービスシステムに不満がある人が多く、保険適用外の民間の自由診療を受けている人が多いです。

 

高井

劉先生のクリニックでは、患者さんは日本人が多いのですか。

 

劉先生

日本から中国に帰った当初、2003年から2007年くらいまでは、患者さんの8割が日本人でした。今は、日本人の患者さんは2~3割です。日本人の患者さんは、どうしても帰国してしまうと来てくれなくなってしまう。そういった事情もあり、現地、ローカルの患者さんを増やすことが大切だと考えて、徐々に現地の患者さんを増やしていきました。

日本語も話せますから日本人の患者さんに対応することもできますが、私のような歯科医は上海でも少ないと思うのです。いまは、現地の患者さんを10年、20年かけて診ていきたいと思っています。チームのため、スタッフのためにも、ローカルの患者さんを診るほうが、クリニックにとっていいのではと考えています。

 

高井

先生は人柄がいいから、患者さんが集まるでしょうね。だけど、患者さん、中国人が8割というのは、驚きました。それだけ富裕層になったということですね。

 

小松様

先生のところは、いわゆる治療が多いんですか。それとも予防が多いんですか。

 

劉先生

まだ治療の方が多いです。少しずつ予防をメインにした、予防も大事にした運営にしていきたいと思っています。歯科医としても、患者さんと長く、頻繁的にコンタクトを取れるので、予防も大事だと思っています。

ただ、予防は保険が使えず、完全自由診療ですので、比率はまだまだ少ないです。治療をした後に患者さんに対して、予防も含めて計画を立てています。今、上海の歯科医にも予防歯科が認識され始めています。初めは、患者さんも痛みがあるから歯医者さんに行く、最初は治療からですが、最近は、予防歯科が少しずつ認知され始めています。これからは予防の時代に入ると思いますので、予防をアピールし始めているところです。

 

高井

ところで、先生は、上海の歯科医師会の副会長をされているそうですが、どんな活動をしているんですか。

 

劉先生

歯科医師会は、日本の医師会のような団体です。そこで副会長をしていますが、歯科医の勉強会や講演会を作ったり、上海で歯科医のグループを作っています。

 

高井

どんなグループを作っているのですか。

 

劉先生

開業医のグループです。開業している歯科医には、それぞれ得意分野があります。10年、15年と時間をかけて、ハイレベルの技術を身に付けている。例えば、インプラントが得意だけれど矯正については分からない、とか、歯周病が得意、小児歯科が得意、というように、歯科医にも専門分野があるんです。そういった専門を持つ歯科医が集まって、マーケティングをする。そうすることで、僕の患者さんに対して、専門外については、それぞれ専門の歯科医を紹介することができるわけです。マーケティングを1軒1軒するよりも、何十軒も一緒にした方が、歯科のブランド力があがります。患者さんも満足度が高い治療を受けられる。口コミもよくなる。

もう一つ、僕の目的は、グループができて、いい歯科医、素晴らしい治療を行っている歯科医が集まれば、技量が不足している歯科医にもその評判が届き、意識改善を促すことができると考えています。そうやって歯科医全体のレベルを上げたいと考えています。

 

高井

中国の歯科界のレベルの底上げですね。ところで、日本では歯科医は供給過多になっています。上海の歯科医の数は毎年増えているそうですが、状況について教えてください。

 

劉先生

中国では、上海のように比較的、医師と病院の資源が豊富な都市であっても、歯科医はまだまだ足りません。上海の正式な歯科医資格を持つ人はおおよそ800人です。上海に戸籍がある人は1500万人で、上海に住んでいると言われている常駐人口は2400万人です。つまり有資格の歯科医は12万人当たり1人の割合しかいないのです。また、歯科衛生士もまだまだ貴重な存在です。歯科衛生士に対する教育機構や専門学校、短期大学の数はまだ少ないし、正規人材はまだまだ足りません。当然、上海では、定期的に歯の検診を受ける人はまだ少ないです。口腔疾病を患い、歯を抜いた人の殆どは積極的に治療に行かないのが現状です。将来、歯科の患者が増え、歯科医学専門人員の不足という社会問題が現在より深刻化することが予想されます。

 

今、一番必要なのは、予防歯科関係に従事する歯科衛生士。人材が足りません。そのためにも、歯科衛生士に対する勉強会や教育を行って、人材を育てていく必要があると考えています。歯科衛生士が、予防歯科等について継続的に勉強できるような、短期間のセミナーなどが必要です。私は上海で、そういった歯科衛生士を対象にした予防に重点をおいた教育機関を作りたいとも考えています。

また、私が日本に留学していたため、今も日本の先生とお付き合いがあるので、日中歯科医師交流会を立ち上げて、日本のノウハウを取り入れたいと思っています。

今後、中国では予防歯科のニーズがどんどん出ていますので、日本の進んでいる部分はどんどん取り入れていき、対応できる歯科医、歯科衛生士を増やし中国全体の歯科のレベルアップを図りたいと考えています。

以上

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第28回目です。
  • 第28回目は、カオハガン島 オーナー崎山克彦様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第28回)■ ■ ■ 
カオハガン島
オーナー 崎山 克彦 様 
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[崎山克彦様 プロフィール]

崎山様

1935年福岡県生まれ。慶應義塾大学卒業。米国カリフォルニア大学バークレイ校の大学院でジャーナリズムを専攻。講談社、講談社インターナショナル取締役、マグロウヒル出版ジャパン社長など、30年のサラリーマン生活を送る。1987年、フィリピン、セブ島の沖合い10キロに浮かぶ、周囲2キロの小島、カオハガン島と出会う。島を買い、1991年、移り住む。2017年の6月まで、島の暮らしの改善、島の小さな宿泊施設「カオハガン・ハウス」の運営などに携わる。著書に『何もなくて豊かな島』(新潮社)、『小さな南の島のくらし』(絵本。福音館)他。著書の数冊が、台湾、中国、韓国で翻訳出版されている。

(写真は崎山克彦様 取材日撮影)

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 大河実業株式会社 代表取締役社長 何軍 様
  • 高島さつき(書記役として)

取材日 2017年10月12日(木)於 日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

崎山様は、カオハガン島での生活は何年になりますか。

 

崎山様

島に出会ったのは1987年、住み始めたのが1991年です。ですからカオハガン島での暮らしはもう27年になります。

 

高井

カオハガン島を購入された経緯を教えてください。

 

崎山様

私は出版社に勤め、英文で、日本の文化を海外に紹介する出版物の作成を仕事としていました。世界中を舞台にした、非常に楽しい、意義を感じた仕事だったのですが、私はある考え方を持っていたので、52歳になった1987年に仕事を辞めました。少し、のんびりとしてみよう。そして海が好きだったので、昔からやっていたダイビングをもう一度はじめたのです。

家の近くのダイビング・ショップが、海外でダイビングをしたい人をフィリピンのセブ島周辺の海に連れて行っていたので、私も、一緒にセブ島にダイビングに訪れるようになりました。そして、セブ島での、ダイビングの親玉のようなドドン・ペニャさんととても親しくなりました。ある日二人で海に出ているときに、ドドンさんは遠くに霞んで見える島を指差して、「私はこの辺の海域を知り尽くしているけれど、あの島が一番美しい島なんだ。行ってみないか」と言われたのです。それがカオハガン島でした。私は仕事で世界中を回っており、合間にたくさんの島々にも訪れていましたが、カオハガン島はほんとうに胸が躍るような美しい島でした。しばらく魅せられて呆然としていると、ドドンさんが「この島は今売りに出ているんだよ」と言ったのです。驚いてしまいました。しばらくして「いくらですか」と聞いたら、当時の日本円で一千万円くらいということでした。私も退職金をもらったばかりだったので、「じゃあ、お願いします」と言って、その場で、購入を決めてしまったのです。 美しい女性と出会って恋に落ちてしまった、そんな感覚でした。

カオハガン島

(写真は海に浮かぶカオハガン島)

高井

崎山様がカオハガン島のオーナーになった当時は、島民はどういう生活をしていたのですか。 

 

崎山様

当時、約30年前の島の人口は、330人くらいでした。潮が引いたときに家族総出で海に出て、魚や貝をその日に食べる分だけ採っていました。農業はやっていなかったので、辺りに生えている、食べられる草の葉っぱを採ってきて、スープや煮物などをつくって食べていました。主食はトウモロコシを挽いたものを食べていましたが、トウモロコシはカオハガン島にはありません。少し離れた大きなボホール島のひなびた港に、金曜の朝に交換の市が立つのです。そこへ付近の島々の人たちは魚を持っていって、野菜や果物や材木などと交換していました。ですから、狩漁と交換で、必要なものをすべて集めていたのです。

驚いたことに、フィリピンの第二の都会のセブから一時間も離れていないカオハガン島で、当時は、現金が使われていなかったのです。でも、皆がほんとうに幸せそうに暮らしていました。

 

高井

崎山様がオーナーとなり、島民と暮らすようになって、どういった変化がありましたか。

 

崎山様

はじめは、大きな自然の中で、島民と同じようにゆったりと暮らそうと思っていました。ところが島に来てくれた大学生のNGOの方と話をしていたら、人間はいくら幸せそうに暮らしていても、生活に最低限必要なもの「ニーズ」が満たされていなければならない。具体的には、教育、医療をきちんとしなければと言われたのです。学生さんに言われたんですが、なぜかその言葉が心に残りました。そうして実際に島で、教育と医療の援助をはじめたのです。

当時カオハガン島では、小学校の2年までの教育しか行われていなかったのです。そして3年になると、隣の島の小学校に行くことになっていました。しかし、当時は皆が教育にはあまり興味がなくて、ほとんどの人が教育を受けていなかったのです。それではまずいだろうと、政府に働きかけ、私たちも校舎を建てたりして協力し、6年制の小学校を創りました。今では年齢に達した子どもたち全員が小学校に通っています。

また、成績が優秀でやる気のある子どもたちに我々(NGO「南の島から」)が奨学金を出して、ハイスクール、大学で学ばせるようにしました。今では、20人以上の人が大学を卒業しています。 

医療は、島には、「マナナンバル」と呼ばれている民間のお医者さんのような人がいて、病気になると診てもらっていました。セブまで行けば良いお医者さんがたくさんいますが、現金がないのでかかれなかったのです。マナナンバルに診てもらってかなりの病気が治っていましたが、治せない病気も多く、当時は生まれた子どもの三分の一が3歳になるまでに亡くなっていたと言われていました。

それではまずいだろうと、島民が大きな病気にかかると、我々がセブの病院に連れて行って治療を受けさせることを始めました。費用は我々が負担していました。 

今では、奨学金でセブの大学を卒業し、医療関係の「ミド・ワイフ」という助産婦のような資格を取った島民が3人います。この3人が中心になり、政府からお薬をいただいて、島に「ヘルス・センター」をつくりました。また、島民全員が、国の健康保険、「フィルヘルス」に加盟し、大きな病気にかかっても、セブの公立の病院に行けば、ほとんど無料で、治療が受けられようになっています。

 

高井

島民の生活レベルは上がっているのでしょうか。現金収入は増えているのでしょうか。

 

崎山様

魚や貝を採り、足りないものは交換で得て、シンプルな暮らしを楽しんでいた島民たちの日々に、少しずついろいろな情報が入ってくるようになり、島民たちの欲望もだんだんと膨らんできたようです。良いかたちでの現金の収入の道を考えてあげなければ。 

私が島で暮らしはじめ、数年が経って、『何もなくて豊かな島』という本を出版し、それを読んで、ぜひカオハガンに行ってみたいという人が増えてきました。そして、その人たちを受け入れる、「カオハガン・ハウス」という宿泊の施設を創り、今では50人くらいの島民たちが働いて収入を得ています。その他にも、お客様相手にマッサージをしたり、島で採れる素材を使って、ココナツ・オイル、食塩、木工のお皿などを創ったり、「珊瑚礁保護区」をつくりその保全と、案内をしたりと、全部で120人くらいの人が現金の収入を得ています。

もう一つは、キルトです。日本でキルトの先生をしていた私の妻の順子が島民にキルト創りを教え、今ではユニークなアート「カオハガン・キルト」として、世界的な評判を得るまでになっています。100人以上の人がキルトの製作に携わっていて、けっこうな収入を得ています。 

今から6年ほど前に、カオハガン島民の一家族(平均7~8人)の月の平均収入を調べたのですが、4,000ペソ、そのときの日本円で約9、500円くらいだったのです。20数年前にはゼロだったので、私はずいぶん増えたなと思いました。

ところが調べてみると、世界銀行や国際連合では、世界の最も少ない収入のレベルの地域というのを公表していて、それによると、カオハガンの収入は、世界で最も少ない収入レベルの地域の、更に三分の一くらいだったのです。驚いてしまいました。

カオハガン島の海辺

(写真はカオハガン島の海で貝を捕る親子)

高井

カオハガン島の平均現金収入が、世界で最も収入が少ない地域の三分の一なのですか。

 

崎山様

そうです。現金の収入だけから見れば、カオハガンの暮らしは、世界で最も貧しい暮らしの、更に三分の一くらいの、最貧困の暮らしだったのです。ところが、島民たちは皆が、ほんとうに幸せそうに暮らしているのです。

なぜなのだろうか、島民を含めて皆で話し合いました。そしてその結論が、次のようなことだったのです。

カオハガン島は、ほんとうに手付かずの自然に囲まれていて、島民たちはそこからいろいろな恵みをいただいています。海からは、魚や貝。葉っぱを摘んで食べたり、薬になる草や木。島には水道はありませんから、飲み水以外の生活用水にすべて雨水を使っています。それから、太陽の光、爽やかな風。そのようなたくさんの自然の恵みをいただいて、その恵みに対して、島民は心からの感謝をしているのです。

私たち日本人が、ほしいものを買って手に入れたとしても、感謝の気持ちはありません。自分でお金を払って買ったのですから。でも、カオハガン島の皆はほんとうに感謝をしているのです。だからでしょう、それを皆で分けて暮らしています。例えば、潮の引いた海に出て自分の家族がその日に食べる分の魚や貝を採ってくるのですが、周囲に病気か何かで採りに行けなかった人がいれば、すぐにあげてしまう。年寄りの人にもあげてしまう。皆がシェアをして生きているのです。

ほんとうに大きな自然に包まれて、そこからたくさんの恵みをいただいて、それに心からの感謝をして、皆で分け合って暮らしている。これが、現金収入としては最低レベルなのだけれど、皆が心から幸せを感じて生きている秘密なのだということを理解しました。

それを今、私たちは、カオハガンの「誇るべき文化」なのだと思っているのです。

 

高井

恵みをシェアして幸せに生きる。それがカオハガンの文化ですね。 ところが、崎山様は、今年2017年の6月1日の誕生日に82歳になって、カオハガンの日常の運営から引退されたそうですね。今後は、どういった活動をされるのでしょうか。


崎山様

私は、まだ定年前の52歳のときに会社を辞めました。人生は四つの「期」から成っているという考え方が、インドには昔からあるようなのですが、その思想に影響を受けていたようです。

その四つの期。最初は「学生期」で、学ぶ時期。次が「家住期」で、働いて収入を得て、結婚をし家族を持つ。そして社会に貢献する。日本では、この二つの期を終えて、定年に達した後は何もすることがない。私は、そんなふうに感じていました。

しかし、インドの考え方では、この後に、まだ二つ期があるのです。次が「林住期」。昔の話ですから家族から少し離れて林に入って、また違う考え方で生きて、そこで学んだことを「家住期」に還元するというような考え方です。私にとっては、カオハガンの暮らしが、その三つ目の「林住期」だったのです。それが今終わって、これから、最後の期の「遊行期」に入るのです。 

現実には、「林住期」を終わってから、また「家住期」に戻ってしまう人が多いそうですが、少数の人だけが「遊行期」に入れるのだそうです。まだ私は「遊行期」の詳しい意味を理解していないのですが、完全に現実社会から離れて、解脱や涅槃といった悟りの生活に入るようなのです。

私は、これから、自分の「遊行期」の生き方をゆっくり、じっくりと考えていきます。 自然の中でできるだけ本を読んで、次の世代を平和で、すばらしいものにするためにはどうしたら良いのかを、しっかりと考えたいと思います。また、本を書いて、多くの方に伝えたいと考えています。 

カオハガンで、これから私の後を引き継いでくれる日本人女性、嘉恵さんと佑子さん。二人とも島の男性と結ばれて1歳前後の子どもがいます。彼女たちは、ほんとうに忙しく、しっかりと働いてくれています。その二人を見ていて強く感じたのですが、二人が子どもを連れて仕事をしていて、子どもが泣き出したりすると、すぐに、周りにいる島民の女の子たちが助けてくれるのです。カオハガン島では、家でも、家族や、親戚、周りの皆で助け合って子育てをしているようですね。ぜんぜん、たいへんではないようなのです。

今、日本では、皆が助け合って子育てをすることが少なくなって、一つの大きな社会問題になってきているようですね。カオハガンでのこの動きを、いろいろなかたちで広げていってみたいと考えています。家族や、親戚や、周りの人たちが皆で助け合って生きていくということが、すごく大切なことではないかと思うのです。

今では、いろいろな方々が考え、実践されているようですが、大都会から離れて、自然と共に暮らしていく、そこで、皆が助け合って、自然から得たもので生きていく。そういう暮らしが、世界中に広まって、それが結びついて、新しい平和を創造していけるのではないか。そんなことを考えています。そのようなコミュニティをカオハガンに創りたい。カオハガンを一つのモデルにできればと考えています。

カオハガン島の森

(写真はカオハガン島)

以上

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第27回目です。
  • 第27回目は 日比谷パーク法律事務所 代表弁護士 久保利英明先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第27回)■ ■ ■ 

日比谷パーク法律事務所
代表 弁護士 久保利 英明 先生 

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[日比谷パーク法律事務所代表 弁護士 久保利英明先生 プロフィール]

http://www.hibiyapark.net/lawyer/kubori.html

1944年、埼玉県生まれ。東京大学法学部卒業。ヨーロッパ・アフリカ・アジアを放浪した後、71年に弁護士登録。第二東京弁護士会会長、日弁連副会長などを歴任。現在、日本取引所グループ社外取締役。2002年から2005年まで、金融庁顧問、金融問題タスクフォースメンバー。

現在、第三者委員会報告書格付け委員会委員長、一人一票実現国民会議共同代表も務める。

著書に『破天荒弁護士クボリ伝』『想定外シナリオと危機管理』『「交渉上手」は生き上手』など全76冊。専門分野は、コーポレートガバナンス及びコンプライアンス、M&A、株主総会運営、金融商品取引法、独禁法等企業法務、知的財産権など。

久保利先生

(久保利英明先生 取材日に撮影)

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 株式会社民事法研究会 取締役編集部長 田中敦司様 
  • 高井伸夫 

(取材日:2017年9月4日(月)14:30~於:日本工業倶楽部会館2階ラウンジ)


 

対談のテーマ
東芝、富士ゼロックスなどに見られる、日本企業の海外子会社戦略の破綻は
「経営者の経営力の劣化に起因し、専門職たる弁護士や会計士の質と量の不足による」

 

久保利先生

最近小城武彦氏の『衰退の法則』を読みましたが、倒産した企業と隆々とやってる企業はどこが違うのか、なぜ衰退するのかについて分析しています。カルロス・ゴーン氏の言葉を紹介していますが、ゴーン氏登場前の日産がなぜダメになったかという理由を「収益性を志向する、その志向性の低さ」、「ユーザーを考慮に入れない発想」、「危機感の欠如」、「セクショナリズムが強く、いわゆる縄張り意識が社内のコミュニケーションを妨げてることに認識がない」、「ビジョンがない」と総括しています。また西浦裕二氏の編著『企業再生プロフェッショナル』を挙げて、衰退する理由を、「見えっ張り症候群」と「青い鳥症候群」と「ゆでガエル症候群」と、「いつも他人のせい症候群」の4つだと言っています。これは全て東芝にも当てはまると思っています。

 

東芝のことが表沙汰になり、「これって本当に東芝だけなのか」、「もう日本の大企業がみんなこんなもんじゃないのか」と思っていたところ、この本が出版され、日本の大企業で業績が悪化する企業は、みんなこの法則に適っていると説明されていて、その通りだと思ったんです。

 

高井

先生がこの問題全体に関心を持ったきっかけは何ですか。

 

久保利先生

東芝事件は内部通報を無視したため、監視委員会に情報が入ってきたのが発端でした。その時に「やっぱり」と思いました。内部通報を無視したから外部への告発が起きるのです。

要するに今の日本企業は内部通報者を大事にしてないんですよね。内部通報を受けて経営陣が「ありがとう」と、「立派な人がうちにもいたね」と、こういう発言をしないで、「誰が言ったんだ、これは」と憤慨する。匿名の通報に対して犯人捜しに入るんです。僕はそれが日本の企業の一番のダメなところじゃないかと思っています。

内部通報に対して、内部監査部に真相をしっかりと君らが調べろと言った社長なんかいないんですよね。

 

高井

日本はいつからそういった体質になってしまったんですか。経営者の経営力の劣化を引き起こした原因は何ですか。

 

久保利先生

日本は150年前に明治になりましたが、その前の江戸時代の日本の体質は、基本は儒教、論語といっても朱子学なんです。体制護持で親分の言うことには歯向かえないという体質でした。明治になって、初めて渋沢栄一が、正しい論語をしっかり勉強して、正しい倫理・道理にかなった経営をやっていきましょうということを言い始めた。僕は渋沢資本主義と呼んでいます。この精神が日本の経済発展を支えてきたんですが、それは、太平洋戦争で壊れたというよりも昭和・平成のバブルで壊れたんです。

 

高井

経営力の劣化を引き起こしたのは、バブルが影響しているんですか。

 

久保利先生

1980年代から30年間のバブルで、どんどん拝金思想が表面に出てきました。敗戦後も「金」「金」と言う人は一部いましたが、立派な経営者もそれなりにいたと思うんですね。その人達がパージ(注1)されて、次に会社を経営したのが、いわゆる「三等重役」です。彼らは創業者のような経営力も威厳も何もない、ただ真剣に働かないと会社が潰れる、という思いでただただ真面目に働いた。戦後の日本の復興というのは、ある意味で彼らが支えてきたと思っています。

注1 パージ (purge) とは、一掃・抹消または粛清の意味

ところがバブルになった時には、指導力のある経営者はもういないので、組織が無政府状態になってしまった。時流に流されて、トップが「金を儲けろ」と言っても、「まともにやんないとダメでっせ」という番頭がいなくなっちゃったわけです。会社全体がそうなってくると、サラリーマン全体主義、それと周りの空気を読む共同体至上主義が蔓延していきます。立派なリーダーがいないわけですから、結果的にはみんな社内政治でもたれ合い、仲良し、あるいは若干の足の引っ張りぐらい。これでやってきたから自立した経営者はいなくなり、結果的には経営力が劣化したというのが僕の考えです。

 

高井

今でも社長が後継者を指名していますが、それがダメなんでしょうか。

 

久保利先生

ダメです。どんどん小粒化しています。それではダメなので、サクセッション・プラン(注2)を作ることをコーポレート・ガバナンスコード(注3)に入れたわけです。驚くことにほとんどの会社が「サクセッション・プランを作っていますか」という問いに対し、「コンプライ(やっています)」と回答しています。ところが実際にサクセッション・プランを出せといって、ちゃんと出せる会社はないんですよ。ないのにサクセッション・プランがあると言う。また嘘をついているわけです。

そういう意味で言うと、相変わらず会長だったり、相談役だったりが、次の社長はあいつが良かろうということを言って決めているんではないかと。相談役や会長が、ひいきとか好みとか、俺のことを大事にしてくれるだろうかとか、そういうことで社長を決めているから、相談役より立派な会長、会長より立派な社長、社長より立派な次の社長が出るわけがないんです。

注2 サクセッション・プラン(Succession Plan)とは、もともとは「後継者育成計画」のことで、重要なポジションの後継者を見極め、育成すること 

注3 コーポレート・ガバナンスコードとは、上場企業が守るべき行動規範を示した企業統治の指針。2015年3月に金融庁と東京証券取引所が取りまとめ6月から適用が開始された。法的な強制力はないが、「Comply or Explain(同意せよ、さもなくば説明せよ)」との原則に基づき、上場企業はコードに同意するか、しない場合はその理由を投資家に説明するよう求められるようになった

 

高井

もう一つ、弁護士や公認会計士が劣化したと言いますが、具体的にはどういうことですか。

 

久保利先生

弁護士が劣化しています。根本にあるのは“競争嫌い”です。弁護士が競争して切磋琢磨しようという発想がない。元々、司法制度改革の根本は毎年3,000人の合格者を出して、法曹人口をどんどん増やして、みんなで競争して、いい弁護士になっていこう、というものでした。当然、司法のマーケットはまだ小さいので、訴訟だけでは生きていけない。そうすると、未然防止だとかコンプライアンスだとかガバナンスという分野へ弁護士がどんどん進出し、いい国になると思っていました。 

ところが日弁連は逆方向に走ったわけです。みんなが訴訟で飯が食えないから、年間合格者を3,000人から1,500人に戻せと。一部地方の会では、1,000人以下に減らせといっています。弁護士会のこういった主張が劣化の原因だと思っています。

飯が食えないといっても、高井先生だって僕だって飯を食っています。ただ昔とおんなじ仕事で食ってるかというと、全然違う仕事で食ってるわけですよね。訴訟よりコンサルや行政への対応やコンプライアンスの指導です。そういうふうに時代の変化に応じて、違う仕事をしていく必要がある。今までの前例踏襲では持たないと思ったら変えなければいけない。これは経営者の場合と同じです。

弁護士が業務内容を変えない、そのまま無競争状態でバッチ1つ持ったら、勉強もせずに一生、生きていけるという考えでいるので、結果的に劣化してしまった。既得権益に執着しているお偉い弁護士さんはどんどん劣化しているように感じます。

ただ、若い人の中で必死に頑張ってる人は、それなりの力がついてきてるし、違う分野も勉強しています。ロースクールに他学部から進学する。例えば建築士と弁護士、医者と弁護士、科学者と弁護士というダブルタイトルの人が必要なんです。アメリカでは法学部がなく、法律はロースクールの3年間で勉強するしかないんです。それまでは哲学をやっていたとか、心理学をやっていたとか、医者をやっていたとか、そういう人が弁護士になるんです。原発の事件でも、アメリカの原発弁護士はみんな原子力工学出身です。日本で原子力物理を出た弁護士で原発問題に取り組んでいる弁護士なんて一人もいません。専門性を売り物にする弁護士は、本当はPh..D(博士号)を持っていてちょうどいいと思っています。日本にはそういう人がいないんですよ。

 

高井

弁護士はなったら安泰ではなくて、これからの時代はダブルタイトルが必要になる。ところで、公認会計士はどうなんでしょうか。

 

久保利先生

公認会計士はある意味でもっと悲惨です。公認会計士試験に受かっても監査法人で実務を一定期間しないと公認会計士になれないんですよね。それが狭き門なのです。そうすると結局、監査法人に入りたいと思いながらやっているから、昔のビジネスモデルが何も変わらないまま、公認会計士試験に受かっても、誰も企業に入らないわけです。でも、本当は企業の財務部や経理部の中に会計士がいないと、しっかりした決算が作れないんだと思っています。

監査法人というのは会計の監査をする人です。会社の会計を見て、この会計でいいか悪いかのどっちかしかないんです。ところが、今の日本企業は監査法人と“相談”“談合”する。監査法人がコンサルみたいになってしまっています。

 

高井

日本に改善の余地はあるんでしょうか。

 

久保利先生

もうかなり絶望的だと思っています。僕は、いままで普通の社員がやっていた経理部や財務部、監査部のスタッフは全部公認会計士に替える、それから法務部や内部監査部とか、取締役会の事務局だとかは全部、職業倫理をわきまえた弁護士にしろと言っていたわけです。

ところが、最近しみじみ考えたら、弁護士がそんな立派かと、会計士が本当に独立不羈(ふき)で頑張ってるかというと、どうもダメだなと思うようになりました。法科大学院で弁護士倫理を学んでいない予備試験経由の弁護士が増えています。素晴らしい経営者が今、どこからかどんどん育っているかというと、それもいないでしょう。そう考えてくると、人がいない。少子化のせいではなくて、教育行政のせいです。スターがいないんですよ。輝く男たち、女たちがいないのですよ。

 

高井

日本は、みんなダメになってしまったとして、どうしたらよいんでしょうか。

 

久保利先生

そうなると、極論ですが、企業を支える人間がいないと。というなら、そんな人財を有する外資に買ってもらうのが一番いいんじゃないかと思っています。外資やアクティビストによる敵対的買収。東芝なら、ウェスタン・デジタルの会長さんは会計士出身のこわもての人だから、“進駐軍”で来て、一遍、日本をマッカーサーが叩き直したようにやってもらうほうが早いんじゃないかと思っています。

日本の弁護士が企業のナンバー2のポジションに座るゼネラルカウンセルになれず、会計士が独立性とアカウンタビリティ(注4)を持ち、財務や経理を仕切れないなら日本の企業は少しも変わらないでしょう。情けない限りです。それが悔しいなら、遅ればせでも、弁護士、会計士を国策として10万人ずつ、創るべきです。そこからは、新タイプの経営者も輩出するでしょう。米国には125万人の弁護士と30万人の会計士がいて、トップ企業のCEOにもなっているのですから。

注4 アカウンタビリティー(accountability) 説明責任

以上

 

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