「気」の最近のブログ記事

 

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(2011年10月1日(土) 午前6:58 
東京都渋谷区 鍋島松濤公園付近にて撮影)

 

【美術における「気」】

 

前回9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」でも述べましたが、私は病気をきっかけに「気」について意識するようになり、少しずつ勉強をして来ておりますが、まだまだ「気」についての勉強、修行が足りません。

 

例えば、私は京都にある石庭あるいは苔寺に一度ならずお邪魔したことがありますが、残念ながらそこで「気」を感じることはまだありません。私が「気」を感じることができるのは美術の世界においてです。例えば、絵画展に行って、この絵は良い絵だとかこの絵は嫌いだとかという私なりの識別をすることができます。各企業の応接間等に掲げてある絵についても同様です。この絵は本当に良い絵であるとかこの絵はつまらない絵であるということが私なりに識別できるのです。

 

それは実は、私が30年か40年に亘って絵に親しんできたからだと思います。かつて「双伸」という池袋にあった古道具屋で私は再々絵を求めました。そして、双伸のご主人であった故仲畑憲一様から絵の見方について色々教えていただきました。故仲畑様は、西洋骨董も含め、映画の中で使われる美術品を評論されていた方でもありました。

 

また、1990年4月から1993年10月までは、「にっけいあーと」において「法律税金相談室」という連載を43回にわたって掲載させていただきました。その際に、美術のことを主力にして書いたことから、一層絵心・美術を理解する力ができたのではないかと思います。(※「にっけいあーと」については、4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」にも少し記載しておりますので、ぜひご覧ください。)

 

例えば、展覧会で絵を鑑賞するにあたって、一点一点をじっくり見ることは素人には不可能です。展覧会の一室の真ん中に立ち、グルッと周りを見渡して、この部屋でいただくならこの絵だという作品を決めるのです。それを3室か4室で繰り返し、見終わった後、改めてその3点または4点の絵を見比べて、全ての展示されている絵の中で、貰うならこの絵だと最終的に決めるのです。これが美術作品の鑑賞方法として適切だというのが30年40年かけて展覧会に通い続け、私なりに得た極意です。そして、この鑑賞方法を超える方法は未だ現れていないと私は感じます。

 

このブログでも実は絵のことを折々に書いてきました。例えば7月15日付ブログ記事「気を入れて」において、私が20年ほど前からささやかに支援させていただいている成田禎介先生とともに、東山魁夷先生の処女作とも言うべき『道』の現地に赴くため、青森県八戸市の種差海岸を訪ねたこと、その際、成田先生が「自然は、人間を乗り越えて創造されているものだ」という気配を感じて、それを発酵・熟成させることが絵の魅力に繋がるというお話をしてくださったことをご紹介しました。その「気配を感じる」ということが絵心ではないかと思います。「気配を感じ」ない絵を見るとき、私はその絵を駄作だとして無視してきました。「美の気配を感じる」ということは、実は「真・善・美」という魂にいささかなりとも響くのでしょう。それが故に、「美の気配を感じる」絵は私には好ましい絵という評価に落ち着きます。

 

実は、「気」というものは、何年も何十年も鍛錬し、修業しなければ悟れない世界のことではないでしょうか。

 

 

【気の毒】

「気の毒」(心の毒になることの意)とは「①自分が難儀な目に会って心をいため、苦しむこと。困ること。きまりがわるいこと。当惑。②他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情。③相手に迷惑をかけて、すまなく思うこと。」(広辞苑 第四版)という意味ですが、「気」が汚染されるということを表していると思います。分かりやすくいえば、それは「波動」が乱れるということであり、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」が一層微弱になるということでしょう。

 

要するに、「気」は生物だということです。「気が大きくなる」「気が小さくなる」という言葉がありますが、「気」は伸縮自在なのです。そして、人間は健全に生きているだけではなく、時には傷ついて、「気」自体が弱まりあるいは痛んでくることがあります。

「気の毒」なことをしたなあとよくいいますが、「気の毒」なことをしたとは、相手の「気」を削いだということでしょう。そのことについて同情する、あるいは詫びるというのが、「気の毒なことをした」ということになるわけです。

「気」は伸縮自在と述べましたが、それは実は人間が宇宙と交信するための一端を担っている「霊感」が伸縮自在であるということにもなります。7月1日付ブログ記事「胸騒ぎの解消法・・・『気づき』」で述べましたが、私は「霊感」とは、宇宙に存在する陽炎のごとき人間を、宇宙と結合させる、へその緒のようなものであると考えています。「気」「霊感」が弱まり、痛むということは、人間の「良心」が萎える、「本心」が萎えるということになります。要するに、「気の毒」なことをしたなあというのは、相手の「気」を削ぎ、人間の「良心」「本心」を萎えさせることによって、相手の人間としての存在意義を弱め、あるいは失わせてしまうことをいうのでしょう。人間として更に活躍できるチャンスを、いわば縮めたとか失わせたということが「気の毒」という言葉の本意でありましょう。

 

しかしながら、人間は相手の「気」を削いでしまうことができるのですが、逆に縮んでしまった相手の「気」を大きくすることができるのもまた人間であると思います。例えば、「触れ合い」「ぬくもり」によって、弱まりあるいは痛んでしまった「気」を癒すことができると思います。そうすることによって、「気の毒」な目にあった人間もまた、再び宇宙と結合することが可能となるでしょう。励まし、見舞い、看護も同じ世界のことです。

 

 

【宇宙の「気」】

 

人間の力には限界があります。なぜ人間の力に限界があるのでしょうか。いってみれば、人間の力がおよばないところに別の力が働いているからだと思います。では、別の力とは何なのでしょう。それは恐らく宇宙にある力です。その力は宇宙にある「波動」でもあるし、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」でもあるし、そしてそれが「気」という世界のものになるのでしょう。要するに、人間をとりまくさまざまな要因のなかに大きく囲んでいるのが「気」という世界なのです。「気」という世界が人間の思い通りにならないのは、それは人間の「気」だけではなく、人間を取り巻く宇宙にこそ「気」の根源があるからです。そこにこそ、神にすがるという心境が生まれるのでしょう。すなわち、宇宙の「気」、「波動」、「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」に頼らざるをえないのが人間の本来的な姿なのです。

 

9月20日付ブログ【交友録 その11】9月第3週<9月11日(日)~9月17日(土)>でも少しふれましたが、私事ながら、先日9月9日に私の長女ががんにより43歳で他界しました。先にも述べたとおり人間には限界があり、人間の力ではどうにもできないこともあります。彼女はがんの告知を今年の4月に受けましたが、残された時間を幼な子や社会貢献のために何ができるかを必死に考え、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発して生き抜きました。親御さんをがんで亡くすという悲嘆の極みを体験してしまう幼い子どもの心の問題、グリーフケア(「グリーフ」は“悲嘆”という意味で、近しい人を亡くした人がその悲嘆を乗り越えようとする心のケア)の問題が、日本では認知されていないことを知り、代表者としてAIMS(エイムズ)という団体を立ち上げました(現在NPO法人の申請中です)。私は長女に残念ながらこの世で会うことはもう出来なくなってしまいましたが、告別式の日に空にとてもきれいな虹が出ていたのを見て、彼女の頑張りを天が認めて、天が「大地の気」を感じて「虹」という現象になって表れてくれたのではないかと思います。また、亡くなる前日の9月8日午後9時に私が長女の見舞いに行った時、彼女は瀕死ともいえる状態でありました。私は長女に「ダダ(彼女は幼児期に私のことをそう呼んでいました。)だよ。」と声をかけ、そして「ありがとう。」と話しかけました。すると、長女がそれを理解して「ありがとう。」と返事をしたとのことを、そばにいた義妹の真藤英子が聞いたと言っていました(私は定かに聞こえなかったのですが)。それを聞いて、長女と私との「気」が合ってよかったと思いました。「気」が合った上での別れならば、悲しいながらもそれは幸せな「別れ」であり、いい思い出になったといえるのではないでしょうか。

 

AIMSホームページ http://www.aims-japan.org/?page_id=34

 

グリーフケアとは

http://www.grief-care.org/about/index.html

 

私たちは、宇宙では吹けば飛ぶような儚い存在であり、宇宙がたどる「誕生」「成長」「成熟」「枯れる」「たそがれ」「終焉」から、そこに生きる生命体である私たちも、逃れることはできません。「死」というのは宇宙の「気」を受け取れなくなることではないでしょうか。それは、人工衛星を目指すロケットが推力不足により、宇宙速度を乗り越えられないなどの原因により、人工衛星が軌道に乗らないのと似たようなイメージなのではないでしょうか。

 

誰しもが、やがて迎える「終焉」から逃れることができないからこそ、私たちは、宇宙の本質とは何かを少しは考え、宇宙との結合をいくらかでも果たすべく、また、生ある限り精一杯エネルギーを使って「気」を発し、人間としてのあるべき姿として、社会に貢献していかなければならないのだと私は思います。

 

【「気」を知って人生を楽にしよう!】

 

7月19日付ブログ記事【交友録 その2】2011年7月第3週<10日(日)~16日(土)>にてご紹介させていただいたY.H.C.矢山クリニックに9月28日(水)に治療でお邪魔し、その一貫として、17時40分から30分ほど院長の矢山利彦先生から「気功」を何名かの皆さんと一緒に教えていただきました。「気功」とは、自分の「気」を捕える、感得するということらしいのですが、今回初めて「気功」に挑戦したということもあり、私は全然できませんでした。

 

翌29日朝6時に、散歩をしようと矢山クリニックの玄関に立っていたところ、樹木のさわやかな香りを非常に強く感じました。これは自然の現象、あるいは秋という季節のせいかもしれませんが、これまで感じたことがなかったことでした。

 

その後、多布施川河畔公園を散歩しました。小さな樹木の中を歩いたのですが、所々に鮮やかな彼岸花また、可憐なコスモスが咲いていました。それまでは特に意識することもなかったのですが、それらについて何となく存在感を感じたということは、ひょっとしたら、前日の「気功」で「気」を捕えることを練習した成果かもしれません。すなわち、花々の「気」をいささか感じたのではないかと思います。

 

動物にも「気」があり、人によっては犬や猫、魚等々と「気」の交流をはかることにより、癒されます。草花に話しかけることもありますが、それは草花の存在を認めるということです。そして、そのことは草花自体を元気にし、自分自身も癒されます。ただの草花といって無視していては、生き甲斐がないのです。公園の草花が生き生きしているのは、道行く人々がその存在に気付いて見てくれているからでしょう。

 

私は今後、「気功」に意欲的にチャレンジして自分の「気」を捕えることに試みたいと思っています。私も高齢で感覚が鈍っているため、習得するのは随分先になるかもしれませんが、何事も修行です。修行とはその道の「気」を捕らえる行為ではないでしょうか。「気」を捕らえる努力をする、重ねる、精進するという言葉に繋がっているのではないかと思います。

 

ところで、9月30日付ブログ記事「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる(1)」で私は体力の衰えを「気力」で補ってきたと述べましたが、「気力」とはどのようなものでしょうか。

 

「気力」で生きるとは、「精神力」で生きるということ、「精神力」で生きるとは、ぶれない軸をもっていることだと私は考えます。ぶれない軸とは、「マインド」であり「志」のことです。要するに、何を意識すべきかを明確に意識していることをいうのです。これが大変大切であると思います。

 

そして、「気力」とは、確たる目標を設定した上で、それに向けた勇気・根気・本気を発揮することではないかと最近感じています。ただし、目標は何でもよいわけではありません。目標設定は自分の「良心」・「本心」に従ったものでなければならないのです。

 

人は、目標があるときに意気軒昂になり、目標を失うと、意気消沈になります。勇気・根気・本気も目標があってこそはじめて活性化します。ですから、他人の言葉にショックを受けて意気消沈するということは、実は目標を失うということに等しいといえるでしょう。

 

私にとっての当面の目標は、「事務所の永続性を図る」ということですが、終局的には私の「気」を伝えたいということです。私が2008年11月に耳を患って以来、依頼者から事務所に「覇気」等がなくなったと言われるようになった話をブログでも述べましたが、「覇気」、「活気」、「人気」をリカバーしていくには何が必要でしょうか。

 

それは、目標設定自体の正しさ、すなわち、その目標設定が「良心」・「本心」に基づいたものであることが第一の前提になると思います。そして、その実現に向けて真摯に努力しつづけることが勇気・根気・本気の原点にあるように思えてなりません。弁護士や秘書、所員一同が一丸となって、勇気・根気・本気

をもって営業体制を確立することの重要性、各人が正しく目標を設定し、勇気・根気・本気で仕事に取り組むことの重要性に気付いて欲しい、各人に伝えたいと願いながら私は日々活動に励んでいます。

 

私の人生の残りは必ずしも長くないですが、全力を挙げてチャレンジしていきたいと思います。そうすれば自ずから、「覇気」・「活気」・「人気」を従来以上に取り戻せる可能性があると信じているからです。それゆえ高齢化に伴い体力を維持することが難しい中で、私は「気力」で頑張っています。

 

さて、皆さんも日々の生活の中で「気」というものを意識してみてはいかがでしょうか。きっと人生が楽になり、しいては楽しくなると思います。

 

 

【結び】

ここまで全17回にわたって、「気」をテーマとした様々な記事を書いてきましたが、「気」の話を本格的にするとなると、無限大であり、それこそ「気長」に取り組まなければなりません。

 

このブログでも「気」という言葉が付く言葉をいくつか紹介して来ましたが、とても紹介しきれないほど「気」に関する言葉、「気」が付く言葉は多岐にわたっています。そのことからも、日本人が日常的に「気」をいかに意識して来たかが窺えるでしょう。

 

このブログを執筆していたところ、私のことをよく理解してくださっている株式会社かんき出版境健一郎様から「気と心を知れば人生が楽になり、楽しくなる」というテーマで本を書かないかという執筆依頼を受けました。

 

このブログにおいては、私の知識と勉強が不十分なるがゆえに、「気」については自分の職業上の知識等で書く以外ありませんでした。この本がいつ完成するかは分かりませんが、また、これから「気」なるものそのものを自分で少しずつでも捕えることができればと念じております。

 

追記:6月17日(金)より、全17回にわたって「気」をテーマとしたブログを投稿して参りましたが、今回10月7日(金)更新分記事をもちまして同テーマは一旦終了させていただきます。次回以降は「病気」をテーマとしたブログを少しずつ書いて参ります。

 

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(2011年9月26日(月) 午前6:43 東京都目黒区 中目黒公園にて撮影)

 

 

 さて、6月17日より、今まで計15回に亘り「気」をテーマとした記事を投稿して参りましたが、今回と次回の「気のまとめ~気とそしてその核たる心を知れば人生が楽になる」をもってひとまず「気」に関する記事の結びとさせて頂きます。

 

 【「気」とは何か】

 

 そもそも私が何故に「気」に関心をもち、ブログのテーマにしたかというと、私が60歳になって以降、病気を重ねてきたということが大きな理由の一つです。

 

 私は現在74歳ですが、2003年4月に、一度目の脳梗塞を、2006年4月に二度目の脳梗塞を発症しました。また、心臓疾患を持っており、バルーンによる手術を受けたこともあります。耳の病気については、2008年11月に左耳の突発性難聴を発症後次第に悪化し、2010年5月には、右耳の聴覚過敏症、2010年10月頃には同じく右耳の耳管開放症も相次いで発症するという異常な事態に見舞われてしまったという経緯があります。

 

 すなわち、体力がどんどん衰えていたのが目に見えているということです。そして、それを「気力」で補ってきたということです。この「気力」というものを分析する必要に迫られて、「気」なるものに関心をもったのが根本です。

 

 もちろん、「気」に関する言葉、「気」が付く言葉は多岐にわたっており、日常用語として様々な使用法があります。このように「気」という言葉が我々の生活に身近なものであるにもかかわらず、「気」そのものについて、とかくないがしろにしてきたのですが、その実態に迫らなければという思いもありました。

 

 また先に述べましたが、2008年11月から私が耳を患い、事実上事務所で仕事をしなくなって以降、依頼者から、事務所に「活気」がなくなったという話を度々聞くようになりました。この話を耳にする度に、「活気」とは何かということを意識するようになりました。

 

 「活気」、すなわち「気が活きる」ということは、気を活かす術が何かあるのではないかと思ったのです。また、「人気」という言葉もあります。要するに、人の「気」が働いている状況を人が評価するということでしょう。ここでも「気」が活きています。さらには、「覇気」という言葉があります。「覇気」がなくなった、「活気」がなくなった、「人気」がなくなったという言葉につながってきますが、「覇気」とは何かということを意識することによって「気」を意識することになったのです。

 

【宇宙とつながる気功レッスン】

 

 「宇宙とつながる気功レッスン」(メグミ・M.マイルズ著 地湧社 2003年)と言う本があります。同女史は、24歳で中国に渡り、10年間に亘り気功を学んでいました。そして、彼女はこの長年の気功修行を通じ、ついに「とうとう木との交流に成功した」と感じたのだそうです。

 

 同女史は最初に就いたリー先生から、「何も考えるな、自然であれ」・・・「為す無くして為さざる無し」・・・「いっしょうけんめいやりすぎてはいけない。適当がいい。適当にやれ」と教えられます。その後に就いたチン先生からは、気功の型を正確に繰り返すことの重要性を教えられます。次に就いたヤン先生からは、型の練習は自発功(中国古来に伝わる気功の中でも最高位にランクされる、自力治癒力を呼び覚ます気功)の基礎になるものと自発功の重要性、「自然に従え」「無心」「淡」を心がけることを教えられます。これらを忠実に実行し続けたことで前述した「木との交流」に成功したのです。

 

 ちなみに、「木との交流」とは本著によると、自分が気になる・ひかれる木に出会ったら、その木に向かって親しみをこめ、ある程度距離をおいて、ことばでなくていいから、友好的な気持ちのバイブレーションを送ることのようです。そして、それを木が受け入れてくれると、ぐいっと引っぱったり、どんどん押してきたり、やさしく抱きしめてくれたり、明らかにはっきりと木から気がこちらに伝わって、返事をしてくるそうです。

 

 自然界の中で自立的動作を伴わない植物である「木」と交流できたと感じた彼女の驚きと喜びはいかばかりであったでしょうか。結局、「気」(き)は「喜」(き)に通じると言うことでしょう。

 

 喜雨(きう)、喜悦(きえつ)、喜捨(きしゃ)等、人間が最高の喜びの中で発せられる「気」は、「気」の流れの最も理想とする最上質のものと言えるでしょう。

 

 「日本道観」(昭和55年、「導引術」をはじめとする気の健康術を指導する場として早島天來(筆名/早島正雄<1911年~1999年>)初代道長によって設立された「気の導引術」を学べる唯一正当な学院)のホームページによると、古来、中国では「『気』とは自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの元であると考えられて」きており、「『気』が無くなったらその物質や生命体は存在できなくなり消滅することになる」そうです。

 

 参考・「日本道観」HP  http://www.nihondokan.co.jp/

 

 ところで、気功については、1998年、中国政府は11類の健身気功を認定しています。その内の一つに「一指頭禅」(いっしとうぜん)があります。「一指頭禅」とは、指の先に「気」を集中させる気功のことで、さまざまな一指頭禅が伝えられているそうですが、ある仏家気功(ぶっけきこう)では、入門希望者に、師がだまって親指を一本を立てて見せ、入門希望者に親指周囲の「気」の形を答えさせる資格試験を行うそうです。見えなければ入門を許さないとのことですが、中国気功では、「気」は見えて当然というのが、常人の達し得ない奥深さを感じさせられます。

 

 

【気を入れて】

 

 文頭で述べたとおり、私は、「気力」というものを意識するようになったとき、そもそも「気」なるものは何かということを考え始めました。私はこの「気」をもたらすものは幼い頃からの教育というのが一番肝心であるとおもいます。

 

 たとえば、幼児、少年・少女が「ピアノを習う」「バイオリンを習う」「ダンスを習う」あるいは「お絵かきを習う」といった様々なお稽古ごとをする時、実は「気を入れて」行い、継続してチャレンジしなければならないということです。


 

 それは、ただ時間だけを費やしても勉強にならないということです。もちろん、いわゆる文化系の勉強だけでなく、理科系の勉強も「気を入れて」行うことが必要ですし、さらにいえば、体力作りという勉強も「気を入れて」行うことが必要です。

 

 「気を入れる」とは、各自が持っている「気」をフルに機能させて取り組むということです。「気を入れて勉強しなさい」、という言葉には、「自分にしっかり意識して勉強しなさい」という意味を含んでいるのです。すなわち自分自身と「気」のやりとりが「気を入れる」ということです。それは幼児期から意識しなければならず、そういう世界を構築していくことが幼児教育にあたっての重要なポイントではないかと思います。子どもがお稽古ごと等の練習を「気を入れて」行うべきこと、練習するにあたって「気を大切に」すべきことを意識させるのは、親でありまた指導者の責任であるのではないでしょうか。

 

 このように、万般において、学ぶにあたっては「気を入れて」行う必要があります。野球の練習にしても、水泳の練習にしても、「気を入れて」練習しなければ、真の成長は望めないということです。すなわち、宇宙の膨張のスピードに遅れをとる人間であってはならないということです。一刻一瞬も怠らずに宇宙が膨張しつづけているのと同じように、一刻一瞬を大事にして、その「気」を絶やさず勉強しつづけることが人間の成長につながるということです。

 

 まずは幼い頃からの勉強にはじまり、大学生になって、社会人になっても同じように「気を入れて」勉強しつづけることが必要でしょう。それが成長に繋がるということです。「好きこそものの上手なれ」という言葉がありますが、好きであれば、おのずから気が入って勉強するということになるから、成長するのではないでしょうか。

 

 要するに、「気」があってこそ成長するということです。「気」があってこそ自分自身が磨かれるということは、実は宇宙に存在する全てのものに「気」があり、それと共鳴・共感・共振することに本質があるのではないでしょうか。

 

 さらに対人関係について述べれば、私は弁護士ですが、弁護士業務をするにあたって、相手の「気配」を感ずること・察することが大事だと思っています。それは、実は相手の心を読むことができることにつながると思うからです。相手の心を読むことができれば、説得の仕方が極めて簡明に浮かび上がります。弁護士たる者は相手の心が読めなければなりませんが、これは実は相手の「気配」を感ずる・察することから始まりますが,それは、「気」の世界の事象なのです。

 

 「心が読める」とは、「気」と「気」が交流して交錯したポイントを誰しも確認することが出来るということです。そして、お互いの「気」と「気」が離れている場所も感じることが出来る、さらに確認をしたところが生じます。これらをふまえて、相手の心を解読をすることが可能となります。

 

 全ての「気」が絡まって交錯するわけではありません。それは、お互いの「気」が離ればなれの時もあるからです。また、曖昧な時もあるからです。「気」が絡まったり、絡まらなかったりということがありますが、前後の状況を踏まえて解釈することが、「心を読める」ということです。そしてその確度が高ければ高いほど、「心が読める人」ということになります。ゆえに、「心が読めない人」は、如何せん他人との「気」が交錯しない人をいいます。要するに、存在感が極めて希薄な人のことでしょう。それは何も能力や経験によるのではなく、持って生まれた生来のものなのではないでしょうか。

 

 私は、「気」を理解してこそ、「気」を勉強して学んでこそ、人生は楽しくなり、楽になると考えています。

 

「祈り」と「気」


 

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(2011年9月22日(木) 朝6:44 東京都港区 芝公園にて撮影)

 

 

本日掲載の写真は、私の新しいカメラ「CANON POWERSHOT S95」で撮影しました。このカメラは、私と親しいGMOインターネット株式会社 代表取締役会長兼社長 熊谷正寿様から、9月14日(水)に行われた私の激励会にて、記念品として頂きました。心なしか、カメラの腕が上がった気がいたします。熊谷正寿様、有難うございました。

GMOインターネット株式会社HP http://www.gmo.jp/

 

 

【祈り】

人間は、その歴史の中で、全ての民族が、真摯に「祈り」をささげてきました。その対象は、大自然、大自然が息づく地球、その地球が存在する宇宙の、目には見えない働き…すなわちサムシング・グレートに対するものです。全ての民族が、「祈り」の形や方法こそ千差万別とはいえ、「祈り」という行為を綿々と続けてきています。また、宗教を信じていない人でも、危機的な状況で、困った時、苦しい時、希望が打ち砕かれそうになった時等には、人は何かに「祈り」ます。

 

国に一命を捧げた戦没者や、不慮の天災などの犠牲者を対象とする、国民儀礼としての「黙祷」(もちろん、民間でも黙祷を捧げることも多くあります)という儀式があります。皆が沈黙し、神や死者に「祈り」を捧げるこの行為は、広島への原爆の投下(8月6日)、長崎への原爆の投下(8月9日)、終戦記念日(8月15日)、震災記念日(9月1日)等に行われます。東日本大震災に際しては、震災後初の2011年3月17日の衆議院本会議でも黙祷が行われました。

 

さて、黙祷の歴史を調べてみると、言葉自体は中国・唐の時代の文献に登場するほど古くからあります。しかし、その意味は「個人が心の中で祈る」程度の意味でありましたが、今日の国民儀礼としての黙祷の歴史はそれほど古いものではなく、1919年11月11日、第1次大戦中のイギリスにて、国王ジョージ5世の呼びかけで初めて行われたそうです。日本では、1924年9月1日の関東大震災1周年に行われたのが始まりといわれているそうです。その後、黙祷という儀礼は国際慣例化して今日に至っています。

 

このように、全ての民族が祈り続けるという歴史、現状は、「祈り」に何らかの効果があるからでしょう。「祈り」に、本質的に何らかの効果があることを、先人も、今を生きる私たちも、本能的に、遺伝子レベルで知っているのではないでしょうか。

 

私たちの体は、約六十兆個の膨大な数の細胞から成り立っているそうです。そして遺伝子とは、細胞の核におさめられた膨大な情報データで、私たち人間が生きていく全てを司っているそうです。

 

私たち人間が生きていく全てを司っている遺伝子が、「祈り」を情報として記録しているということは、「祈り」という行為とは、純粋な人間的な行為ではないでしょうか。すなわち、「祈ること」とは、「生きること」そのものなのでしょう。

 

2011年8月11日付毎日新聞夕刊3面に、アシリレラさんというアイヌ女性への取材記事がありました。「アシリレラ・ファミリーの暮らしの中には、当たり前のように祈りと感謝があった」…「カムイノミ(神への祈り)によって『人間の力の及ばない存在』を感じながら生きる」。アイヌの人々は、「祈り」が生きることそのものであることを、しっかりと理解しているのだと思います。ですから、1997年10月に、「チプサンケ」(丸木舟を新造したときに行なわれる儀式で、神へ水運の安全を祈る)を行うアイヌの人々の神聖な場所(北海道平取町の二風谷<にぶたに>)を、ダム事業によって水没させてしまったことは、すなわち祈りの場所を奪い、人間性を奪ったことであり、利便性や収益性ばかりを重視した人間が、「良心」「魂」を失ったということでしょう。

 

京都大学の外科部長であり、執刀医として「ゴッドハンド」と呼ばれた、故・青柳安誠先生は、執刀の前に、必ず神様に「祈り」を捧げておられ、「手術は祈りである」という発言を繰り返されたそうです。青柳先生は、外科手術は、「いのち」「生きること」に直結する行為であって、「祈ること」が「生きること」そのものであると理解されていたのだと思います。

 

また、医学・医療分野において、「祈り」によって、希望を見出し、将来に期待を持つことが、何らかの健康への効果を生み出すのではないかという点から研究がつづけられています。そして、実際に「祈り」の治療効果が明らかになりつつあります。現在、ハーバード大学、コロンビア大学などの権威ある大学が、競ってこの研究に乗り出しているとのことです。全民族が古来続けてきた「祈り」が最先端の研究分野になりつつあるということです。

 

【「祈り」と「気」】

 

私は、生命体に限らず、宇宙に存在する全ての構成物が本来持っているエネルギーを「気」「波動」「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」であると解釈しております。たとえば、日本には古来より自然信仰がありました。これは、簡単に言えば、全てのものに神が宿る、という信仰です。神の宿っている宇宙のあらゆる構成物の有する「気」と、自分の「気」、その核である「心」とを交流させるために、古来より人々は「祈り」を捧げてきたのではないかと思います。前5世紀末には成立していたと考えられている「論語」述而第七の三十四には「丘の禱ること久し」、「わたしは、不断に誠を持っている。それが神に祈ることだ」という言葉があります。「誠」が「祈り」であると述べているのです。

 

また、洋の東西を問わず、ドルメン(巨石を利用した記念物)が存在し、巨石信仰が各地で行われていました。例えば、10メートルを超す奇石が数多く点在する「巨石パーク」(佐賀県佐賀市大和町)があります。「巨石パーク」は、佐賀県川上峡東側の山(標高約400メートル)にあり、巨石が積み重なり、17個の巨大な石が点在しています。これらの巨石は、古くは「肥前風土記」(奈良時代<710年~794年>初期に編纂)に記されており、肥前国一の宮としてさかえた与土日女(よどひめ)神社のご神体として崇められていたということです。おそらく古来の人々は、自然と共に生きており、すなわち宇宙と共に、宇宙の大いなる「気」が満ち溢れている地に、自然の石などを置いて宇宙の「気」と交流するべく「祈り」の場としてきたのではないでしょうか。また、仏教では合掌を行い「祈り」を捧げますが、これは「私」という小さな宇宙の「気」と、「私」の存在する大きな宇宙の「気」とを交流させ、宇宙と私とが一体となる、重ね合うということだと思います。

 

鎌倉幕府が貞永元年(1232年)に制定した法令「御成敗式目」には、「神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う」という言葉があります。即ち、人が神を敬うことによって神はその御神威を上げ、御神威が上がった神の徳によって人は開運する、という意味です。逆に、神を敬わず神の意に反した時、「祟り」(神仏や怨霊<おんりょう>などによって災厄をこうむること)が起こるのでしょう。タタリの語は、神の顕現を表す「立ち有り」が転訛(てんか)したものといわれています。人間が、サムシング・グレートや霊魂などの超自然的存在、すなわち宇宙の意に反した時、宇宙の力が人間に災いを与えるのではないでしょうか。また、「呪い」(恨みや憎しみを抱いている人に災いが起こるように神仏に祈る。また、災難がふりかかったり、失敗したりするように願うこと)のように、人が「邪心」に基づくよこしまな祈りを神仏にささげることも、宇宙の意に反することではないでしょうか。祈りは尊大ではなく謙虚でなければならないことはいうまでもありません。神仏に祈るのですから人間として謙虚でなければなりません。「祈り」は宇宙との一体感を感じるため、結合を図るためのものであり、「気」「良心」「魂」によるものでなくてはならないのです。

 

宇宙と自分とが一体になるように「祈る」ときは、人は全身の力をこめます。手を合わせるなどの祈りの姿勢をとっているとき、脱力している人はいないでしょう。力を込めて、すなわち自分の持っている「気」を注ぎきって祈ります。

 

月刊文藝春秋2011年9月特別号に、伊勢神宮の参拝に訪れた一人の老婦人が、荷物を置き、靴と靴下を脱いで素足になり、きちんと正座をして深く頭を下げ、長い祈りを捧げていた光景のエッセイがありました(巻頭グラビア「私とお伊勢さん」)。このエッセイを書いた作家の佐藤多佳子さんは、その光景を「老婦人は一時間くらい祈るのかもしれない」…「実際は十五分か二十分。それでも、」…「長い強い祈りに出会い、私自身も心の深みに降りたような厳粛な気持ちになったのだった。」と表現されています。強く長い「祈り」の姿は、「祈り」に、祈る人の「気」が強く入っているため、それを見た他人の「気」と共鳴・共感・共振し、他人の「気」「心」「魂」にも影響するのではないかと思います。

 

ですから、巨石信仰のような自然崇拝であれ、神社や寺院での「祈り」であれ、人々が「祈り」を捧げてきた場所は、「気」のエネルギー、パワーに満ち溢れた場所であると思います。神聖な場所が昨今「パワースポット」と呼ばれるのもそれが所以でしょう。非常に長い間、人々が「祈り」を捧げてきたことで、さらに「祈り」のもつ力、すなわち「気」のエネルギーが集中した場所であるわけです。「パワースポット」には、「気」は、悲しみに満ち溢れた「気」であったり、願い事の成就の喜びの「気」であったりと、様々な「気」に満ち溢れています。このように「気」に満ち溢れた場所は、宇宙と一体となるにもっとも近しい場所であり、神仏と交感できるのに易しい場所であるのだと思います。先にご紹介した「巨石パーク」も、1995年に開園以降、やや来場者は減少傾向にあったそうですが、最近は「パワースポット」ブームで、若い女性やカップル等県内外からの来場者が増えてきたそうです。

 

【参考】 http://allabout.co.jp/gm/gc/60042/

 

 

【祈りの本質】

さて、「祈り」という言葉自体に、仰山(ぎょうさん)なイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、日常生活の中でも、「あなたの健康を祈りましょう。」「あなたの幸せを祈りましょう。」「お幸せに。」といった言葉は頻繁に使われています。「祈り」は自分のために行うだけでなく、他者のために祈りを捧げることも多々あるということです。他者を想って「祈り」を捧げるとき、実際に「祈る人」の姿を見ていなかったとしても、「祈られた人」は、その「祈り」が、自分の「守り」であるように感じるでしょう。これが「他者のための祈り」が持つ、強い力であると思います。

 

また、先に、「祈る」ときは「自分の持っている『気』を注ぐ」と述べましたが、最近若い方も多く通われて日常的な治療方法となってきている整体では、「気」を注入します。そして、整体の世界では、これをを「愉気(ゆき)」というのだそうです。元々は「気」を輸る(おくる)という意味で「輸気」と表していましたが、そこに「愉しく明るい陽気を伝える」という意味を込めて、愉気」としたそうです。「愉気」「祈り」とは、いきいきと生きるために必要な行為です。いきいきと生きるとは、孤独感を払拭し、未来へ向けての期待、希望、成長等を持って生きるということでしょう。

 

私の専門である人事労務の世界で「祈り」について述べると、企業においては、労務管理を進めるうえにおいて、この「祈り」の精神を忘れてはなりません。生産性の向上を祈ることは勿論大事ではありますが、メンタルヘルス管理の責任ある立場にある経営者は、自らのメンタルヘルスの健全さ、社員、従業員、同僚、部下の「気」、「心」が平和であって傷つかないこと、傷ついた者の回復を願う「気」、「心」を決して忘れてはならないと思います。それは、誰しも絶えず傷つきやすい存在であるからです。具体的に述べれば、部下を叱ったとき、フォローして、優しい言葉かけをすることが必要ということです。たとえば、「言霊」という概念がありますが、つまり言葉は「気」「波動」「サトルエネルギー(微弱エネルギー)」を持っています。自分が放った優しい言葉の持つ「気」が、相手の「気」と感応して、相手と共鳴・共感・共振することができます。

 

人間は孤独な存在です。それがゆえに、人は神に、そして隣人に救いを求め続けます。絶対者や他の人間との共生を求めるということです。人が孤独を感じた時、「寂しさ」や「悲しみ」が生まれ、他者のぬくもりに触れた時、人は孤独を忘れ、嬉しさが伴うのです。

 

自分のために祈るだけでなく、他者のために祈ることが本来の「祈り」の意味でしょう。そして、他者のために祈るということは、自分が他者との接点を得るということに繋がります。そしてそれは、孤独な存在である人間が相手と通じ、心が通い合い、すなわち「気」と「気」が交流するという瞬間のことでしょう。「気」を充実させれば、他者との一体感を意識することができ、「愉しく明るい」人生を送ることができます。「気」を充実させることは、他者との一体感だけでなく、いずれは宇宙との一体感を意識することができ、そしてそれは、人間は孤独な存在であるという普遍的な事実、そこから生まれる孤独感から、いささか解放されることに繋がるのでしょう。

 

宇宙の「気」には、死者の「気」も含まれていると思います。愛する人を失うことは、人間が孤独であると否が応でも認識させられる出来事です。しかし、自分が孤独であって、「寂しさ」や「悲しみ」を強く感じながら、愛する人の在りし日への想いを募らせ、「祈り」を捧げると、ふとその人が近くに居るように感じることがあり、見守ってくれているよう意識することがあります。これも、宇宙との一体感を意識していることの一つの例であり、「寂しさ」や「悲しみ」がいささかなりとも和らぎ、彼は癒され、本来の自分を取り戻すのでしょう。「悲しみ」は人の想い・想念ですから、「気」のエネルギーがあります。「気」の核は「心」「良心」で、つまりは「魂」です。「魂」から生み出された「悲しみ」は、「祈り」によって宇宙と一体化し、宇宙に存在するサトルエネルギー(微弱エネルギー)の一部となります。逆に、宇宙との一体感が生まれなければ、すなわち「悲しみ」を自分一人で抱え込むならば、一層孤独感が深まり、「寂しさ」が強まり、「悲しみ」が増し、空しい思いに至るのです。こういった哲学を持って人生を生きることが大切であると思います。

良心と法律の「気」③


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(2011年9月15日(木) 午前6:33 東京都港区 芝公園にて撮影)

 

 前回、前々回と【法律と「気」】との関係を述べて参りましたが、今回はこのシリーズの最終回として、私の専門である労働法の世界について「気」との関係から述べるとともに、【法律と「気」】について私の思うところをまとめようと思います。

 

【労働法の変遷】

 「労働組合法」が1945年にでき、1949年にこれが改められて現在の「労働組合法」になったのが最初のことでした。次に、1947年に「労働基準法」が制定され、同年、「職業安定法」も制定されました。1949年には「最低賃金法」が制定されました。そして、1985年には、いわゆる「男女雇用機会均等法」が施行されました。

 

 2004年には「労働審判法」、それに先だって、2001年に「個別労働関係についての解決の促進に関する法律」ができました。そして、2007年に「労働契約法」ができました。これが、労働法の主だった歩みであります。

 

 さて、労働基準法第1条では、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない。」と定められています。つまり、「人間尊重の思想」に、国民大衆が「気分」として、「良心」として、「魂」として取り組むことが、労働基準法制定の経緯と理由だったのであると思います。

 

 また、1985年に制定されたいわゆる「男女雇用機会均等法」の制定の所以は、女性差別が間違っていることが、国民の「気・気分」、「良心」等として出来あがってきたことにあるのではないでしょうか。そしてこの根拠は、日本の労働が、フットワーク、ハンドワークの時代を経て、ヘッドワークの時代(ソフト化の時代)に移り変わったことで、重たいものを持つことができる・強くものを引っ張ることができるという男性の「肉体的な優越性」が失われたことによるものではないでしょうか。また、6月17日付「気」のブログ第1回の記事にて、「男性と女性では生命力、つまりエネルギーが違い、女性のエネルギーは男性のエネルギーに勝る」旨記述しましたが、これにも関係することでしょう。

 

 そして、戦後荒れた集団的労使関係の時代がおさまって、個別労使関係の時代になりました。労働契約が中心の時代になったということです。「労働契約法」が2007年に制定されました。それに先だって2001年には「個別労働関係についての解決の促進に関する法律」ができました。これらの個別労使関係を規律する法律は、いよいよ個人の尊重という時代になったことを示しています。日本は豊かになり、集団の尊重から個人の尊重に価値観が移ったのですが、要するに価値観が変わった、法意識が変わった、ということは、「気・気分」、「良心」等が変わったことを意味するのです。

 

 さて、「社会法」と言う概念があります。所有権の絶対、契約自由の原則等を基本原理とする市民法を修正・補完する意味を持つ法を指します(有斐閣法律用語辞典第3版、2006)。つまり、資本主義のもと、企業等社会的権力が絶対的に強くなり、個別な法律関係、すなわち私法だけでは、社会が円滑に動かなくなっていったのです。そこで、弱者を保護するためのバランスを意識する「気分」が大衆に生まれたのです。これは、契約自由の原則という私法の法精神を否定する、新たな「気・気分」、さらに言えば「良心」、「魂」が自覚されたということです。私法から社会法への転換は、様々な法体系で行われていますが、労働法が一番分かり易い世界でしょう。「労働基準法」をはじめとする労働関係諸法は、要するに、個人的な善悪だけではなく、次第次第に社会的な善悪をも法体系の中に取り込んだのです。また、企業等が絶対的・一方的な力を持っている状態では、社会的弱者(例・労働者)の「気」が滅入ってしまいます。労働者の「気」が滅入るということは、企業にとっても結局は不利益なものとなります。なぜなら、「気」を意識する事業の展開や経営戦略こそが、最終的には高収益に繋がるものであるからです。弱者の「気」が滅入ると、ひいては社会全体の「気」が弱まってしまいます。そこで、セイフティーネットという価値基準が生まれたのでしょう。

 

 セイフティーネットの話をしましたが、「気」を滅入らせないように、社会が発展していっている、といった「空気」作りが必要なのは言うまでもありません。2010年FIFAのW杯で日本代表チームを国外開催大会で初めての決勝トーナメント進出まで導いた岡田武史監督の心の支えとしている本は、山本七平著作の「空気の研究」(株式会社文藝春秋、1983年)だそうです。

 

 「空気」は、法律の世界でも忘れてはなりません。例えば、刑事訴訟法は刑事裁判の手続きで、民事訴訟より厳格な証拠を要求する裁判手続きですが、後に東京大学の総長となった平野龍一先生は、「裁判に勝つのは法廷の空気がどちらを味方しているかで決まる」と述べられたそうです。ここでいう「空気」とは、法廷の中にいる裁判官、検察官、弁護士、傍聴者の持つ「気・気分」のことで、すなわち法廷内の空気という「気・気分」を依頼者の勝ちムードへと変えることが、優れた弁護士の為すことでしょう。

 

 また、世論調査で政権の支持率が明らかになりますが、世論と政権との関係は、世論をリードする、そして、結局は世論に従うのが政権のありようだといえるでしょう。しかし、選挙民、しいては国民の「気分」は浮動的なものであるので、その「心」、すなわち「本心」、「良心」がどこにあるか、あるいはその「魂」がいかなるものなのかを見極めることが、政権を維持するにあたって重要なことでしょう。

 

 

【チームワーク=気の交流、気を合わせる】

 さて、「手当」という言葉があります。「住宅手当」「家族手当」などといった言葉にも使われて残っていますが、要するに心を慰藉することであります。子どもが、母親に「頭が痛い」と訴えれば、頭をなでられ、「お腹が痛い」と泣けば、お腹をさすられます。このようなことは、皆様にも記憶のある情景であると思います。バイブルにも、仏典にも、手を当てることで奇跡が起きるシーンが数多くあります。そうしてみれば、手を当てることが極めて大切なことであることがわかります。われわれは、「触れ合い」「ぬくもり」という言葉を軽く受け取る傾向がありますが、この「触れ合い」「ぬくもり」にこそ人間関係の絆を築く基礎があることを知らなければなりません。そして、この「触れ合い」「ぬくもり」とは、両者の「気」が交流すること、「気が合う」ことです。

 

 また、医師と患者と看護する人とのチームワークであるという名言を五木寛之さんが述べています。私も、ある動物が、病気にかかった仲間の個体の周りに群れとなって集まってきて、その個体をじっとみんなで見守ってやることで病気を治すという話を聞いたことがあります。私たち人間もこの「看護」の世界を忘れてはならないと思います。人間は誰しも孤独であり、だからこそ、「看護」や「お見舞い」が必要なのです。それらは、前記のチームワークの必要性にも繋がってきます。

 

 これを法律実務の世界で言えば、問題解決のためには、依頼者、弁護士、弁護士をサポートする諸々の職員とのチームワークであると思います。チームワークとは、皆の「気」が交流し、すなわち「気が合う」ということです。ですから、弁護士だけでなくて秘書もパラリーガルもその他の人も「気」を勉強しなければならないこと、「気」を発することが必要なのではないかと思います。法律の運用にあたっては、依頼者が、そして社会がよくなるよう善導するように「気」を入れて解釈をしなければならないのが弁護士事務所の務めなのです。

 

 法律家が法の運用や適用に当たって「気」が入らず、「気持ち」がこもらず、「心」がこもらなければ、何とひどい法律家が目の前にいるのだろうという評価を関係者が持ち、「法律家は悪しき隣人」ということがそのまま当てはまってしまいます。「悪しき隣人である法律家」とは「良心を失った法律家」のことでしょう。

 

 弁護士が、「気」を入れて、「良心」をもって、依頼者が不安に思っていることの核心をついてあげれば、弁護士、依頼者双方の凝り固まった細胞が一斉に開放し、満ち足りた気持ちになります。これは交渉の場でも、裁判の場でも同じです。論議の末に、一定の解に達した時、すなわち合意に達した時、満足感があるのは、双方の「気」が震え、「良心」、「魂」が揺さぶられ、それらが活性化するからでしょう。

 

 3回にわたって【法律と「気」】について述べて参りましたが、法律の運用や適用を自分の職責とする法律家の皆様も、この法律と「気」との関係を、「気迫」を持って取り組んでいただきたいと思います。「気迫」とは、力強く立ち向かってゆく精神力のことで、「気魄」とも表現します。「魄」は「魂」と同意義です。「気魄」とは、「気」と「魂」、すなわち人間性そのものを指すのではないでしょうか。そして、さらに言えば、法律家は人間として生まれたこと、すなわち、宇宙に存在する一員であることを自覚して、宇宙の基盤である「気」(サトルエネルギー<微弱エネルギー>)のお陰であることに気づき、「良心」が与えられたこと、さらには「魂」が与えられたことに感謝する気構えが必要でしょう。

 

 小生は、残り少ない人生ですが、これらを踏まえて、これらを学ぶべく、法思想の発展史・法哲学の深化にもいささかなじみたいと思っています。

 

 以上、【法律と「気」】の3記事内にてお話しいたしましたことは、何も法律家だけに限ったものではございません。全ての職業、業種に就いている人、全ての人間が、「気」「良心」「魂」を意識しながら絶えざる成長を期していかなければ、「宇宙のスピード」に追いつかず、人間としての存在意義がなくなってしまい、埋没してしまいます。

 

 「宇宙のスピード」というのは、宇宙はサトルエネルギー(微弱エネルギー)によって光の速さ(時速約30万㎞)の3倍の速度で一瞬一刻も休まずに膨張し続けている、そのスピードを指します。ですから、膨張し続ける宇宙に存在する私たち人間が存在感を示すには、「宇宙のスピード」にまさるほどの速さで、一瞬一刻を厭わずに成長する必要があります。つまり、人間は、宇宙のサトルエネルギー(微弱エネルギー)による膨張以上に速く成長してこそはじめて、存在意義があるということになります。要するに、停滞したり後退したりしていては、その存在意義が忘れられてしまったり、失われてしまったりします。

 

 しかしながら、方向性を無視して成長することは許されません。なぜなら、人間は、もとい人間の生命エネルギーである「気」「良心」「魂」は、宇宙の調和のなかで、力を得たり、与えたりしながら、バランスをたもっていて、これらを無視して成長することはあり得ないからです。「気」「良心」「魂」にもとづいた成長が必要です。 

良心と法律の「気」②


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(2011年9月8日(木)午前6:51 新潟市西蒲区 岩室温泉「著莪の里 ゆめや」にて彼岸花を撮影)

 

 前回のブログで、憲法にある「良心」を論じ、また法律条項の中には抽象的な概念に頼らざるを得ないこと、例えば公共の福祉、権利濫用、信義誠実の原則、公序良俗、といった概念について、「気」の世界から私の考えを述べました。そして、「抽象的概念」であるということは、結局は人間の「判断力」「バランス感覚」に頼らざるを得ない側面があること、人間の価値判断の基準作りには限界があるところから一見して合理的であるか否かについて割り切れないところがあることを意味しているというお話をいたしました。即ち、人間の合理性というものは、限界があるということで、それを補完するために、人間の「総合判断力」「バランス感覚」に敬意を表して、それに頼らざるを得ないということを意味しているのです。その判断力等の原点は何かと言えば、「気」であり、さかのぼれば「志」、「良心」であり、さらにさかのぼれば「魂」であるということでしょう。それらの根本は、「人間愛」、「人間尊重」ということになるのでしょう。

 

 「愛」、すなわち心をうけとるということですが、愛「情」という言葉にあるように、真っ青な心、すなわち純粋な心で相手に対応することが人間として求められているということなのでしょう。

 

 

【魂の変化と法律の変遷】

 

 さて、思想の発展、殊に、法思想の発展は、人間そのものをどのように見極めるかという感じ方、思い方、考え方の進展にほかなりません。そして、感じ方、思い方、考え方というものは、結局は人間が「良心」に支配されているものであり、さらに言えば「魂」に統御されているということになるでしょう。

 

 「魂」とは、広辞苑第4版(三省堂)によると、「(1)動物の肉体に宿って心の働きをつかさどると考えられるもの。(2)精神、気力、思慮分別、才略。(3)素質、天分。」とあります。漢和辞典を調べてみると、「人の生命のもとになる、もやもやとして、きまった形のないもの。」との説明があります。「魂」は、このように、ぼんやりとした概念ではありますが、人の「気」の核である「良心」の、更に核となっているもので、それは人間性そのものを問い、尊重する精神、ということになるのではないでしょうか。「霊性」という言葉と「魂」とは同義と思われますが、そのことからもそのようにいえるでしょう。

 

 さて、前回は主に憲法と民法のお話をいたしましたが、法律はこれだけでなく、沢山の法律でできていることは言うまでもありません。本年7月15日現在の法令データ(官報掲載法令)によると、憲法・法律あわせて1,848 の法令があり、政令・勅令、府令・省令を合わせると計7,592 の法令があります。

 

 そして、法律はどんどん進化し、細分化しています。これは、社会の変転とともに法律があるからです。それは、実は、国民のあるいは大衆の意識、「気」が多岐にわたり複雑化していることを意味するといってよいでしょう。ある期間持続する、やや漠然とした心身の状態を「気分」といいます。すなわち「気分」とは「気」の発露であるかと思いますが、「気・気分」が変われば法律も変わるということです。要するに、国民大衆の「気・気分」の変化が新しい法律を作成する源泉となっているといってよいでしょう。

 

 二宮尊徳の名言と言われている、「経済を忘れた文化は戯言である。文化を忘れた経済は罪悪である。」という言葉がありますが、この言葉は、経済の世界だけでなく、法律の世界でも、十分展開できるでしょう。即ち、「文化を忘れた法律は罪悪である。」ということになります。文化とは、その時代時代を築きあげた大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」そのものでありますが、これに反した法律は、時代遅れであります。また、「法律を離れた文化もありえない」ということになります。法律は世論(大衆)の支持によって成立し、それゆえに「気・気分」の変化によって変遷していくということで、最高裁判所判例すら応々変更されるのも、社会情勢・社会状況の変化、すなわち、大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」が変化していくからです。大衆の「気・気分」、「良心」、「魂」は、文化(新たに誕生する文化と、時代遅れとして忘れられていく文化)にも直結し、法律にも直結すべきであるということでしょう。それゆえ法律は改正を繰り返し、新たに制定され、また細分化されていくのです。

 

 さて、憲法は、国家の骨格を定める法規です。法律は、憲法の条項を細分化したものであるといわなければなりません。そして、「気・気分」を意識することが、法律の在り方を決めることになるということでしょう。国民意識、更にいえば「気・気分」が変遷していくことに伴って、法律も変遷していくということなのです。

 

 人間にある「気・気分」というのは、ぼやっとした曖昧なものです。非常に浮動的な存在です。それだけに、何か骨格を定め、「気・気分」というものを具現化するものを作らないと、人間集団が成り立ちません。ここに「ルール」「基準作り」が生まれる所以があり、そのルールの中で最上位のものが憲法であり、それに次ぐものとして法律が生まれるのです。「気・気分」を具現化する、すなわち形にすることが大切なのです。

 

 

【刑罰は動的な性格】

 

 例えば、刑法では、応報刑主義だけでなく、教育刑主義という考え方も現れました。教育刑主義は、リスト(1851年~1919年)の目的刑主義(刑罰は、それ自体として意味があるものではなく、社会を防衛するなど一定の目的をもって科せられるものとする考え方)に始まり、リープマン(1869年~1928年)によって教育刑主義の考え方が主張されました。応報刑主義とは、刑罰の本質を犯罪という悪に対する応報と考える立場(例えば、ハンムラビ法典196・197条の「目には目を、歯には歯を」の考え方がその古典ではないでしょうか)ですが、教育刑主義とは、刑罰の目的を、犯罪人の社会復帰のための教育であるとする考え方です(有斐閣法律用語辞典第3版、2006)。つまり、刑罰は、犯罪に対する非難としてくわえられるという意味で応報であることだけではなく、刑罰は犯罪人の社会復帰を実現させるべきものでもあるという考え方が発展してきたということです。そして、教育刑主義は、かねてより議論の多い死刑廃止論の論拠の一つともされているところです。私が大学で教えを請うた団藤重光先生は、「刑法綱要総論 改訂版 付・第一追補」(創文社、1978)の中で、刑罰は、「本人の改悛状況や、社会情勢の変化などにより、仮釈放や恩赦などによる緩和が必要になって来ることがすくなくな」く、「根本的に動的な性格をもつものである」と述べられています。その意味で、刑罰の動的な性格に「もっとも不適切なのは死刑だといわなければならない」と、死刑廃止論に傾いた発言をされています。

 

 団藤先生の述べられる「刑罰が動的な性格」の所以は、国民意識、つまり大衆の「気・気分」が変化し、「良心」が変わり、「魂」が変化していくことにより刑罰の裏付けとなる事態も変化するからでしょう。それを、団藤先生は、「社会情勢の変化」という言葉を使って説明しているものでしょう。

 

 

【大衆の「気・気分」「良心」「魂」の変化を促す法律】

 

 さて、ダイバーシティ(diversity:多様性)という概念があります。この概念は、もともとアメリカで提唱されたものです。1964年に人種・宗教・性などによる差別を禁止する「公民権法」が成立しましたが、これを受けて、米企業や組織では差別で「提訴されないようにする」ことを目的とした消極的な姿勢で施策を行ってきました。しかし、女性やマイノリティ(社会的少数者。アメリカではヒスパニックの人々等)の職場進出が急速に進むことで、差別を禁止する施策は積極的な姿勢に変化していき、さらにその解釈が発展し、企業における人種・性別・年齢・国籍などの差別を解消し構成員に機会均等を保障し、個人差を認知し、資質の差異等を是認してこそ次なる進歩・発展に繋がると前向きに捉えようという「ダイバーシティ」という概念が生まれました。このような歴史的背景は、差別を禁止し人間を尊重する公民権法という、まさに人間性を発揮すべき法律により、大衆の「気・気分」「良心」「魂」の変化を一層促したことの一つの具体例であると思います。

 

【参考】http://www.jmam.co.jp/column/column09/1188147_1531.html

 

 

【信教の自由と「狂気」】

 

 さて、憲法第20条第1項前段には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあります。明治憲法下では、信教の自由は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」(第28条)保障されていましたが、実際には「神道は宗教に非ず」として、準国教化する動きがあるなど、信教の自由が制限される状態にありました。しかし、日本国憲法では、これを不可侵の権利として、一切の限定なしで国民に対して認めています。信仰とは人間の「気・気分」「良心」「魂」そのものであり、それは抑圧するべきものではないということが憲法によって保障されたものであるのだと思います。

 

 しかしながら、信教の自由にも限界が考えられ、すなわち制約が必要な場合があります。多くの判例が信教の自由の限界について判断していますが、事案の多くは、度の過ぎた信仰が引き起こしたものです。「狂信」、すなわち「狂『気』」が引き起こしたものです。「狂気」は、他者の「気」を乱し、社会全体の「気」を乱してしまうものですから、時として制約が必要になるということでしょう(もちろん、信教の自由という基本的人権、すなわち人間の「魂」そのものを制約するには、「やむにやまれぬ利益」を実現するための必要最小限のものでなければなりません。)。

 

 孔子(紀元前551年~紀元前479年)、釈迦(紀元前463年?~紀元前383年?)が紀元前500年頃に誕生し、そして紀元前後に即ち2011年前にキリストが登場したことに伴い、東西ともに精神革命をもたらしました。この革命は、人間の「気」「良心」「魂」等の変化でありました。法律の変遷も同じように、人間の「気」「良心」「魂」等が変化していることの表れだと私は考えています。

 

 さて、法の変遷と「気」との関係を、全ての分野について述べるだけの紙幅はありません。ですから、次回は、「良心と法律の『気』」第3回(最終回)として、私の専門である労働法の世界について述べようと思います。

 

 

【お知らせ】

 

 6月17日より、今回の「良心と法律の『気』(2)」を含めて、計13回、「気」をテーマにブログ記事を執筆して参りましたが、残すところあと3回または4回で本テーマはいったん終了する予定でございます。

 

 つきましては、6月17日から「気」ブログ記事最終回までの全記事につきまして、ご意見・ご感想等の評論をいただければ幸甚に存じます。

 いただきました評論は、本ブログ内で、ブログ開始6カ月記念と合わせて、発表させていただくこともございます。

 なお、今後本ブログで取り上げるべきテーマ等のご提案も歓迎しております。

 奮ってご意見をお寄せ下さいませ。

 

 また、小生は「高井伸夫」名でFACEBOOKに登録しておりますが、こちらの「友達申請」もお気軽にお願いしたく存じております。高井伸夫FACEBOOKにつきましては、本ブログ右下のFACEBOOKバナーをクリックしていただきアクセスしてください。

良心と法律の「気」①


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(2011年8月31日(水) 午前11:13 千葉県富里市にて撮影)

 

【「良心」とは何か】

 「良心」の重要性については、ブログ等で何度もお話ししてきましたが、次第にその意義を充実させてきました。つまり、現段階では「真・善・美」「夢・愛・誠」そして「義理・人情」と「自己規律」の上にある「志(マインド)」であるということです。そしてさらに言えば、「魂」ということにいきつくでしょう。ほぼ50年の弁護士生活の中で、色々な激しい仕事をしてきた間、「良心」については全く考えたことがなかったのですが、改めて「気」について勉強するにつれ、このように解釈することに到達しつつあるのです。

 

 「良心」には「気」というエネルギーがあることはいうまでもありません。そして、「魂」は、「気」の最小の核であり、最高の核であります。英語で憲法をConstitutionと言いますが、この単語には、「気質、性質」という意味も含まれています。憲法には、「良心」という言葉が2度使われます。要するに、「良心」は、「心」すなわち「本心」「良心」ということを意識した法体系でなければならないということを、法律の骨格を定める、すなわち国の骨格を定める憲法でも明確に意識しているということなのです。

 

 すなわち憲法第19条【思想及び良心の自由】では、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」としていますが、法律も人間の所産である以上、これを蹂躙してはならないという意味です。

 

 また、第76条【司法権、裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立】第3項では、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と「良心」について述べています。

 

 この「良心」の解釈について、「良心に従ひ」という文言に特別な意味がないとすると解釈する学者の方もいるようですが、これは誤った見解であると思います。「良心」こそ裁判の核心であると私は考えるからです。

 

 例えば、清宮四郎「法律学全集」(1974年発行)では、

 

 「憲法には、『良心に従ひ』とあるが、この場合、『良心』を、裁判官個人の良心、すなわち、主観的な政治的・宗教的・道徳的・思想的信念や人生観・世界観などと解すると、裁判がまちまちになり、しかも、法を離れて行われるおそれがあるので妥当でない。右のような主観的良心は、裁判にあたっては、かえって抑制されなければならないのである。憲法で『良心』といわれるのは、裁判官が適用する法のうちに客観的に存在する心意・精神、いわゆる『裁判官としての良心』を意味する。したがって、裁判官個人としては、例えば、死刑廃止論者であっても、それを理由にして、刑法を無視した判決をくだすことは許されない。このように解すると、裁判官は、『憲法及び法律にのみ拘束され』、それらを忠実に守るにすぎないことになり、『良心に従ひ』という文言に特別の意味はなくなる。

 

と、「良心」につき断じていますが、これは「良心に従ひ」というところについてきわめて軽視した見解であるといえます。これは改めるべきは言うまでもないところだと思います。

 

 そして、清宮先生のいう「良心」とは、「実質的な判断を下す謙虚で良心的な態度で裁判をしなければならない」裁判官が、「適用する法のうちに客観的に存在する『心意・精神』を意味する」とされています。要するに、「心意・精神」という言葉は無私という言葉になりますが、これは実は「良心」を述べているだけであって、特段の要件事実を示したものではないと思います。すなわち、どんな要件を踏まえれば「良心」になるのかということを明記しなければならないでしょう。その意味に於いて、我々は「良心」の意味と要件を熱心に今後も見極めつづけなければならない必要に迫られているのです。

 

 そして、下級裁判所やその他の機関には覆すことが認められない判決を下す権限を有する最上級の裁判所である最高裁判所の裁判官は、まさに「良心」に目覚めた賢者であると、国民は信頼しています。司法の堕落(裁判所はもちろん、検察官・弁護士も含め)は最も忌み嫌われるのもこれゆえです。司法のあるべき姿とは、「良心」を担当する、すなわち「気」「波動」「微弱エネルギー」を担当する人たる裁判官一人ひとりが、さらには検察官も弁護士も法曹に関与する全ての人が、勉強をしつづけ、革新を図って新しい時代の「良心」を追及しなければならないのです。

 

 よく「良心に訴える」といいますが、これは相手の「良心」に迫ることです。すなわち「良心」は強い「良心」に押されるということです。当方が「良心」をもって臨まなければならない所以はここにあります。「良心」は「気」のエネルギーを持っていて、その「気」の核は「魂」ですから、つまりは、相手の「魂」を揺さぶるのです。揺さぶるとは、「魂」を強く感動させる、ということです。法曹の中でも弁護士について言えば、「良心」をもって裁判に関与する、弁護士として活動するということは、結局は依頼者にも相手方にも、裁判官にも検察官にも、当方の「気」を伝え、「気」が乗り移ると言うことなのです。また私は、「良心」があってこそ迫力が出ると思っています。迫力をもって相手に迫ると、相手に心が伝わりますが、それは何故かといいますと、「気」に力があるからです。「良心」を旨として生きることは、「気」を一層強めることから、波動となり、微弱エネルギーとなるので、その「気」が相手に乗り移って到達するのです。

 

 

 勿論、司法のみならず、立法、行政も新しい時代の「良心」を追求しなければならないことは言うまでもありません。英語で国のことをGovernmentといいますが、その動詞であるGovern(〈国・国民を〉治める、統治する)は、ラテン語で「舵をとる」という意味を持っています。法律や政治にかかわる者が舵取りを誤ると(すなわち「私心」「邪心」をもって舵取りをすると)、国家の「気」が乱れてしまうのです。

 

 

【法規全般に顕れる「良心」】

 

 「良心」については、最高法規である憲法で述べられているがゆえに、その下の法規全般にも言えることで、様々な所で「良心」は機能します。「公共の福祉」(日本国憲法第12条、13条、22条、29条、民法第1条第1項)にしろ、「信義誠実の原則」(民法第1条第2項)にしろ、「権利濫用の禁止」(民法第1条第3項)にしろ、「公序良俗」(民法第90条)にしろ、きわめて包括的で曖昧な概念ですが、その内容は、その時期・時期、時代・時代、人・人、それぞれの法的感覚にのっとって解釈され、運用されていくものでしょう。

 

 

  1. 「公共の福祉」
     「社会公共の利益」といった抽象的な価値です。すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼びます。
    【参考】http://www.jicl.jp/chuukou/backnumber/09.html

  2. 「信義誠実の原則」
     権利の行使や義務の履行は、相手の信頼を裏切らないように誠実に行わなければならないという原則のことであり、民法全体の指導理念で、信義則ともいわれます。

  3. 「権利の濫用」
     権利本来の目的・内容を逸脱してその権利を不公正な方法で行使することであり、民法は、「権利の濫用は、これを許さない」と定め、そのような権利行使は無効とされています。
  4. 「公序良俗」

 公の秩序又は善良の風俗の略であり、社会の一般的秩序や倫理・道徳のことです。法律行為は原則として自由ですが、民法は公序良俗に反する事項を目的とした法律行為を無効としています。公序良俗違反の法律行為は、国家的・社会的にみて放置できないことによります。

 

    【参考】 法テラスHP http://www.houterasu.or.jp

 

 

 さて、これらを「気」という概念に当てはめて考えると、概略は以下の通りになると思われます。

 

 

  1. 「公共の福祉」
     公共の福祉を重んずることで、社会全体の利益を得ることになるかもしれませんが、基本的人権は損なわれる可能性があり、気苦労や気に病むこともあり得ます。ですから、公共の福祉という大義(大気)を重視しながらも、私的な小義(小気)をも考慮する必要があるのではないでしょうか。
  2. 「信義誠実の原則」

     個人や一部集団のエゴイズムによって、他の心(気)や社会全体の雰囲気という「気」を惑わすことはできない、という原則です。

  3. 「権利濫用の禁止」
     法的にある権利を得た者が、その力を利用して「司法」「行政」「立法」の任に携わると、社会全体の「気」を乱します。仁(思いやり)の心をもって、「気配り」することが大切です。
  4. 「公序良俗」
     公の秩序又は善良の風俗に反すると、社会全体の「気」を乱します。しかし、何が公の秩序又は善良の風俗であるのかは、その時代・時代の価値観によって変わり得るものです。つまり、「気」が変わるということです。
     また、一人ひとりが、気ままに成りすぎず、他者に気を配り、他と協調(気を合わせる)することが、社会全体の機運を上昇させることにも繋がるでしょう。

 

 

 この4つの法律の条項は、やり過ぎや逸脱を許さないとする条項ですが、この条項をしっかりと理解するためには、気を張りすぎず、気づまりすることもなく、かといって、気後れすることのない「中庸の精神」(かたよることのない「中」を以て「常」の道をなし、易(か)わらないことをいう)を養うことが肝要かと思います。

 

 つまり、「気」が強からず、弱からず、中庸の「気」すなわち平明な精神を養うことが必要で、中庸は、人間にとって、安定性こそが極めて大事であること、すなわちバランス感覚が大切であることを語っています。フランスの哲学者であったブレーズ・パスカル(1623年~1662年)も、「人間は考える葦である」という有名な一節「L'homme n'est qu'un roseau、 le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant.」がある随想録「パンセ」の中で、「中間から逸脱することは、人間性から逸脱することである」と中庸の考え方に近い記述を残しています。

 

【法曹に必須なリーガルマインド】

 

 さて、個別具体的なあらゆる法律に精通し、各法律の細かい技術的な情報や詳しい知識・体験を有している法曹は、実際はほとんどいないと思います。しかし、法曹一般は、法律を取り扱う者として、一般人よりもずっと多くの情報を持っています。

 

 それは、法律の細部についての知識というよりも、倫理観・概括的かつ一般的な原理原則をもってする判断力を優秀な法曹が有しているからであると思います。そして、こういった判断力、法律家としての基礎的な素養は、一般に「リーガルマインド」と呼ばれています。

 

 先に、「信義誠実の原則」にしろ、「権利濫用の禁止」にしろ、「公序良俗」にしろ、きわめて包括的で曖昧な概念であり、一義的ではないと述べましたが、それは実はリーガルマインドに基づく「判断力」によって対処することが必要な所以です。

 

 「判断」とは「真偽・善悪・美醜などを考え定めること。ある物事について自分の考えをこうだときめること。」(広辞苑第4版、三省堂)をいいますが、「判断」というのは、いちいち細かく検討して「判断」する場合は極めて少なく、ほとんど直感的に一瞥して「判断」するのが「判断」の「判断」たる所以でしょう。いわば細部にわたる観察ではなく、ホリスティックな観察、すなわち全体的な知見、見方によって判断するということでしょう。あまり細部にわたって分析的であると全体を見失ってしまい、すなわち、「木を見て森を見ず」という状態になってしまいます。むしろ全体像を一瞥し捉えて判断するのがリーガルマインドなのです。 

 

 そして、リーガルマインドに基づく「判断力」とは、「良心」をもって、交渉相手の「気」と自分の「気」を交流させて、相手の諦念と執着の対象・程度等を察し、それを踏まえてその場に最もふさわしい、説得力ある話法を用いることなのです。

 

 「人を見て法を説け」という言葉があります。この格言は、ブッダ(釈尊)が相手の能力や性質に応じて理解できるように真理を説いたことによるもので、仏言では「対機説法」と言っています。ブッダが説法されるときは機をみて法(生きる道)を説いたといいます。「機」とは法を説く相手の「素質、能力」を指すそうです。その人の人格、年齢、教養、性質、まわりの環境、それらをできるだけ知った上で、その人が理解できるように法を説いたのだそうです。

【参考】

http://homepage2.nifty.com/koudaiji/houwa/m17/houwa171.html

 

 対顧客、対部下、対相手方、対裁判官、どんな場面においても、相手の言動の中からその性向を感じ取り、その人の諦念と執着の対象・程度を見抜きながら、相手が理解できる説明方法を工夫することが大切です。

 

 

【経営判断における「気」のバランスによる「判断力」】

 今まで法曹について述べて参りましたが、「人を見て法を説く」ための、すなわち「気」のバランスによる「判断力」は、企業の労務管理において、千差万別の労働者を相手にする経営者陣にとっても極めて重要な能力です。しかも、それは労務関係だけではありません。ありとあらゆる経営判断において「気」のバランスによる判断力が必要とされることは言うまでもありません。

 

 一番分かりやすい具体例は、「経営判断の原則」ですが、これは「取締役の行った経営上の判断が合理的で適正なものである場合は、結果的に会社が損害を被ったとしても、裁判所は、取締役の経営事項については干渉せず、当該取締役も責任を負わない」という原則のことです。

 

 一例を挙げれば、平成4年(ワ)第5783号取締役損失補填責任追及請求事件【野村證券株主代表訴訟事件】(東京地判平成5年9月16日)は、損失補填を行った証券会社の取締役の行為が、経営判断上の裁量の範囲を逸脱したものとはいえないとされた事例であり、取締役の経営「判断」にスポットがあてられました。

 

 要するに社長を初めとした経営陣の「判断」、バランス感覚すなわち社長を初めとした経営陣の「気」の在り方つまり「良心」の在り方が優れていることが大切です。そしてこのバランス感覚は、前に進むスピードが速ければ速いほど、極めて強く要求されます。なぜならば、スピードが速い中でバランスをとることは大変難しいからです。そして、「気」は、法律家だけが保有すべきではなく、全ての人間が判断する以上、これを尊ぶことが必要なのです。

 

 さて、日本人は非常に安定志向が強いですので、「判断力」は正しいながら、進む力すなわち「前進力」が弱いと言われています。もちろん具体的には改革の立ち遅れ等様々ありますが、それは結局、日本人はスピードの中での「判断力」が弱いということを意味しているのではないでしょうか。すなわちスピードの中での「気」のバランスが弱いということを意味しているのではないでしょうか。だから、日本の社会では「気」を強める様々な試みが盛んなのではないでしょうか。たとえば、空手、合気道、剣道、柔道、弓道等々、日本武道は全てその一点にあるのではないかと思います。それはスピードの中での「気」を磨き、バランスを整えることの必要性を日本人は無意識にも感じ取っているのでしょう。しかし、それは定まった土俵の上でのことであって、日本人は飛躍する発想、新たな土俵を構築することに疎いということではないでしょうか。飛躍をしながらバランスをとるということに日本人は非常に劣る民族ではないでしょうか。そのことが実は日本人にはリーダーシップをとれる人材が少ない所以なのでしょう。そして、そこからあえてリーダーシップを勉強する必要があることになり、本屋さんに行くとリーダーシップの本が真に多く発刊されていることを知るのです。

 

水の気


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(8月21日(日) 午前8:57 東京都文京区小石川植物園にて撮影)

 

  8月12日付記事「大地の気(1)」、19日付記事「大地の気(2)」にて、「植物」にも気がある、「石」にも気があるというお話をしましたが、今回は人間を含む全ての生命体にとって必要不可欠な存在である「水」についてのお話をしていきたいと思います。

 

 

【水の種類】

 まず、少し水の種類について説明しますと、水には「硬度」というものがあって、硬度とは水に含まれるカルシウム濃度およびマグネシウム濃度で表される指標のことです。

 

 自然の濾過水、つまりミネラルウォーターとして市販されているものには軟水も硬水もありますが、日本では軟水の方が好評だそうです。軟水は一般的にくせがないのでそのまま飲んでもおいしく、料理をするのにも適していますが、硬水は、ミネラル成分が多く含まれているものの、くせがあり、そのまま料理に使うにはあまり適していないようです。私も軟水の方を好んでいます。

 

 

 水はアルコールと同じようにものの香りや味を引き出しますが、その力は軟水の方が強いと言われています。よって、コーヒーやお茶、ウイスキーなど香りを求めるものには軟水の方が美味しいと言われます。また、昆布やカツオのだしでは軟水がうまみを抽出しやすいようです。

 

 逆に、肉料理は抽出力の強い軟水では嫌な肉の臭みまで出てしまいます。よって硬水を使うと肉のタンパク質とカルシウムが結合してアクとして抜けて、いい味が出るそうです。欧州、それもイタリアなどで中心に飲まれてきた深煎りのエスプレッソは硬水を用いることで渋みの成分がカルシウムなどに結びついて、苦み・渋みが除かれて、まろやかさやコクが加わるようです。

 

 このように、水は欧州では硬水中心、日本では軟水中心として料理や色々なものに関係し、歴史を作ってきているのです。一概に硬水・軟水のどちらがよいといえるものではなく、用途により使いわけるのがよいでしょう。

 

①体に必要なミネラルがほどよく含まれており

②飲んでおいしいと感じ

③体に悪影響を与える物質を含まない

④イヤな臭いがない(カルキ臭・カビ臭など)

 

水が、質のよい水だそうです。ちなみに、人が一番おいしいと感じるのがミネラルバランスの整っている水(軟水、硬水に限らず、理想的なミネラルバランスはカルシウムとマグネシウムが2:1であるといわれているようです)だそうです。

 

【参考】

http://www.volvic.co.jp/volvic/water/delicious.html

http://goods02.info/water/water01/post-3.html

http://www.aquabar-style.com/literacy/literacy06.html

 

 私の知人である株式会社フロンティア(ペットボトル製造機器メーカーでありペットボトル並びにプラスチックボトル生産の総合コンサルタントなどを業務内容とされています。長野県上田市小島所在。)代表取締役社長 中村喜則様に「名水」についていくつかご教授いただきましたので、ブログの読者の皆様にも知っていただきたく、ご紹介します。

株式会社フロンティア http://www.frontier-inc.co.jp/

 

(1)   北海道の黒松内銘水のミネラルウォーター
…黒松内町は、北海道後志支庁管内の南部に位置し、日本海・太平洋に近く、札幌市、函館市それぞれから約140kmの位置にありますが、その昔堆積した貝殻層の下から取水している天然のアルカリ性ミネラルウォーターだそうです。

 

(2)   ブルボンの天然名水出羽三山の水
…出羽山、月山、羽黒山の霊峰から流れ出た地下水を取水しているミネラルウォーターとのことです。

(3)   JT(テーブルマーク株式会社)の越後の名水

…谷川岳の雪解け水がしみ込んだミネラル水で、軟水で飲みやすい水とのことです。

(4)「白神山水」(藤里開発公社<秋田県藤里町が経営母体の会社。環境庁

の特別許可を得て取水しているそうです。>白神山水の館が製造販売)

…世界遺産・白神山地のブナ林から浸漬(しんし)して出ている美味しい水とのことです。

 

 

【「気」のある水】

 さて、「気」は、6月17日付記事(「気」をテーマとしたブログ第1回「宇宙に存在する『気』」)で述べたとおり、森羅万象宇宙空間一切の事物に関わりをもっています。自然現象である気象、気候、天気、四季、満月、大潮なども、一種の「気」の流れでもあるでしょう。地球は「水の惑星」と表現されるほど水が豊かですが、私たちが飲む水は、気象、気候、天気といった「気」の流れによって雨が降り、それが地中にしみ込んだものです。雨水は、地上に降ると、土砂(石、岩を含む)を通じて、伏流水(河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、水脈を保っている極めて浅い地下水)となって、やがて清水となって、そして人間の飲める水となります。

 

 このように、自然水は土砂(石、岩を含む)に濾過され、つまり大地の「気」を濾過しているのではないでしょうか。水は岩を、土砂をくぐり抜けてきます。それは石、岩の「気」、土砂の「気」をも経ているということでしょう。水を吸い上げる植物にもこうした「大地の気」で濾過された自然水というものが影響を及ぼすと考えられます。8月12日付記事「大地の気(1)」でもご紹介したランドブリーズ渡辺憲司様によると、例えば苔を育てる際、塩素などで殺菌された水道水を使うのは絶対にダメだというように、全ての植物は、やはり井戸を掘ってその水を利用するなど「大地の気」で濾過された自然水で育てるのが一番とのことです。

 

 

【「水」は記憶する】

 さて、「気のある水」について述べましたが、実は「水」は記憶するという説があることをご存知でしょうか。

 

 この「水は記憶する」という説は、「気」という意識エネルギー(言い換えれば「想念」、人の想い)が、水に何らかの影響を与えているという推測から研究されている説です。心の在り方が他人に影響を与えるように、周囲の物質にまで影響を与えるということが考えられるそうです。また、共鳴・共振の原理により、その「気」を発する人の周波数によって、周囲の物質(この場合は水)が共鳴・共振する、ということが考えられるそうです。

 

 共鳴・共振とは、同じ分子構造を持った物からは同じ性質の電磁場が出ていて、2つの物質が同じ分子構造の場合、両者の間に「共鳴・共振現象」が起こることをいうそうです。たとえば、鍼灸医療等でつかわれるO-RING(オー・リング)の検査方法において、ある特定物質のサンプルを手に持って検査したとき、患者の生体内に同じ物質がある場合、指の筋力が弱くなり、O-RINGが開くという結果がでますが、これはこの共鳴現象の1つの例だそうです。7月19日付【交友録その2】で紹介した矢山クリニックではすでに実践されています。

 

 話を元に戻しますと、「水が情報を記憶する」可能性については、学術的証明が現時点では難しく、経験的な現象に基づいて仮説を立てている状況だそうです。国際波動友の会代表江本勝先生は、ご著書「水からの伝言」に水の結晶写真なるものを掲載しておられますが、残念ながらこれらは氷が解ける瞬間の結晶写真とのことです。つまり、氷の結晶写真ということになります。水の構造は1兆分の1秒で変化しますので、写真に撮ることは不可能だそうです。しかしながら、意識や言葉(言霊)が水を含めた物質にあるいはエネルギー体に、良きにつけ悪しにつけ、影響を与えうるということを世間に知らしめた功績は大だと評価されているそうです。

 

 また、私の講演等をよく聞いて下さっている村田ボーリング技研株式会社 取締役会長 村田保様の会社の「社長ブログ 溶射屋」2007年12月4日付記事では、この「水からの伝言」で紹介されていた実験を、実際に試されたことをご紹介されています。2002年12月8日にご飯をいれた二つのビンを用意し、片方のビンにはビンに“プラス言葉”(ありがとうございます、感謝、おかげさま、等の言葉)を書いた紙を貼り付け、もう一方のビンには“マイナス言葉”(ばかやろう、死ね、等)を書いた紙を貼り付け置いておいたところ、5年後に、“プラス言葉”の紙を貼り付けたご飯は白いままで、“マイナス言葉”の紙を張り付けたご飯は腐った状態は通り越してご飯とは思えない真っ黒なカリカリ状態になったということです。お米を炊くと、つまりご飯にすると、水分は4割を占めるそうです。ご飯が含有する水が、言葉の持つ「気」のエネルギーを記憶し、それがご飯に影響しているのではないでしょうか。

 

村田ボーリング技研株式会社ブログ 「社長ブログ 溶射屋

http://www.murata-brg.co.jp/weblog/

 

 

 さて、こういった実験の結果があるにしろ、「水が情報を記憶するか否か」を現時点で、100%解明することは極めて困難であるとのことです。かつて、ニュートンはリンゴの実が落ちるのを見て、「月はなぜ落ちてこないのだろう?」という疑問から、万有引力の法則を発見しました。理論化できたのは、それから22年も経過した後であったそうです。「初めに結果ありき」、水の情報記憶のメカニズムも近い将来解明できる日が来るものと、私は科学には素人ではありますが、その可能性を信じています。

 

 

 

【「気」等に関連した医学の今後の取り組み~水の秘めたる可能性】

 

 人間の体はほとんどが水でできており、胎児で体重の約90パーセント、新生児で約75パーセント、子どもで約70パーセント、成人では約60~65パーセント、老人では50~55パーセントが水で満たされているそうです。この数値からも、人間と水とは切っても切り離せない関係であることを痛感しますが、実は「気」のある水を飲むことが大切です。

 

 会議の席では、お水やお茶が用意されています。そして、会議中に、この一杯の水を飲む、お茶を飲む、ということは、ごくごくありふれた光景です。水分を含むと、リラックスできて、会議といった緊張した場面で一呼吸置く、一息つく、ということができるといわれています。これは、一般的には水に含まれるカルシウムやマグネシウムに鎮静作用があるため、といわれているそうです。また、お茶については、緑茶に含まれているアミノ酸の一種であるテアニンが、リラックス効果のある成分であるといわれているそうです。

 

 もちろん、カルシウムやマグネシウム、テアニンによる鎮静作用もあるかとは思いますが、水の有する大地の「気」が、一口含むことによって自分の身体に伝わり、宇宙の力により、緊張がとけ、自分の「気」が通りやすくなるということではないかと思います。そしてそれは新しい発想が生まれるということにも繋がります。そしてお互いの気の交流を容易にして、コミュニケーションの充実にも繋がるのではないでしょうか。

 

 さらに深く考えれば、神前式の結婚式で行われる三三九度の杯(正式には三献の儀と呼ばれます)があります。お神酒を一つの器で共飲することは、一生苦労を共にするという誓いを意味しているそうです。つまり、お互いに「親和性」が生まれると言うことではないでしょうか。お神酒という、同じものを口にすることによって、新郎と新婦の「気」が通じ合うのではないでしょうか。

 

 また、水の音は人間の心を落ち着かせ、鎮めます。それは、人間と水とは波長が合うからではないでしょうか。そもそも人間は海の生物から進化して誕生したと言われていますが、それも理由でしょう。

 

 

【参考】「水と生きるSUNTORY」 HP

http://www.suntory.co.jp/company/mizu/

 

 さて、間中喜雄先生の「身体の中の原始信号」(1990年、地湧社)の11ページに、「私たちの身体には三十億年分の記憶が秘められていて、」…「決して脳や神経系だけで考え感じているのではない」との記述があります。さきほども述べたように、私たちの体は多くを水が占めています。私たちが「記憶」と呼んでいるものは、私たちの脳や神経系だけで考えているものだけを指すのではなく、身体の中の「水」も、様々な情報を記憶していると言えるのではないでしょうか。

 もし、水が情報を得て、それを体内に伝達するという仮説が成り立つならば、例えば、モーツァルトの曲など、気持ちが落ち着く曲を聴かせた水は、それを記憶して、その水を飲んだ人間を落ち着かせる効果なども期待できるでしょう。そしてモーツァルト等を聞かせた山野草の成長は他の音楽を聴かせない山野草より著しいそうです。

 

 このように、「水」には、まだまだ科学的に証明できないような秘めたる可能性が大いにあります。代替医療、補完医療、統合医療、ホメオパシー医療、ホリスティック医学など、精神性や霊性の生命の本質に迫る医療や新たな医学分野である「振動医学」等々にこういった「水」の秘めたる可能性を利用した取り組みを導入するのも、決して夢幻ではないのではないでしょうか。

 

「振動医学」とは

…全身の器官や組織、細胞の一つ一つに生命力を与えているエネルギーの流れが何らかの理由で衰え、エネルジェティック(エネルギッシュ)な滞りができると、そこに病や障害が発生しやすくなります。その滞りを取り除き、エネルジェティックな流れを回復するために、波動を用いるドイツで誕生した医学。

【参考】http://www.subtle-eng.com/annai.html

「最新ドイツ波動健康法」(ヴィンフリート・ジモン著 現代書林発行 2008)

 

 幸いにも日本の医師の約8割は、漢方薬をはじめ、何らかの東洋医学を診療に採用するに至りました。しかし、まだまだ西洋医学が主流であることは否めないことです。「気」という怪しげにもとれる考え方ではありますが、西洋医学一辺倒の先生方でも「気を失う」「気を確かに」「気をつけて」といった「気」という言葉を、日常茶飯事にすなわち頻繁に使っているのがある意味では笑えるところです。恐らく西洋医学の先生方も無意識にでも「気」が存在すると思っておられるのではないでしょうか。

 

大地の「気」(2)


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(2011年8月16日午前6:41 東京都目黒区 中目黒公園にて撮影)

 

 前回に引き続き、今回も「大地の気」についてお話していきたいと思います。

 

【高所恐怖症と「気」】

 

 人間誰しも多かれ少なかれ高所恐怖の感情をもっています。危険が伴うような高い場所で本能的に恐怖を感じることは正常な反応ですが、安全だとわかっていても不安がピークに達するような場合は高所恐怖症と考えられるそうです。

 

 【参考】http://www.u-tsu.com/cat99/

 

 恐怖症の状態は脳に強くアドレナリンとノルアドレナリンが出現し、セロトニンやエンドルフィンがほとんど出ていない状態をいうそうです。また、高所恐怖症は、Specific Phobia(特定の恐怖症)という診断分類に属し、不安障害の一群に入るそうです。転落の経験があると黒いイメージが消えず、高所恐怖症になりやすいということも聞いたことがあります。あるいは前世の記憶も関係しているのではないでしょうか。

 

 ◆用語の説明◆(「広辞苑」第四版より)

  • 【アドレナリン】副腎の髄質ホルモン。心筋の収縮力を高め、心・肝・骨格筋の血管を拡張、皮膚・粘膜等の血管を収縮せしめ、血圧を上昇させる作用をもつ。
  • 【ノルアドレナリン】哺乳類の交感神経の末端から分泌される物質で、化学的にはアミンの一種。交感神経の支配を受けている細胞に神経刺激を伝達する働きをもつ、代表的な神経伝達物質。
  • 【セロトニン】=ゼロトニン。生理活性アミンの一種で、脳・脾臓・胃腸・血小板に多く含まれ、平滑筋の収縮、血管収縮、止血、脳における神経伝達、松果体でのメラトニン合成などに作用し、また脳の活動を高めるといわれる。トリプトファンから合成される。
  • 【エンドルフィン】哺乳類の脳や下垂体に存在するモルヒネ様作用を持つペプチド。
  • 【トリプトファン】芳香族アミノ酸の一。必須アミノ酸として、生体内でインドール・セロトニン・ニコチン酸などの生成に関与し、生理上重要な物質。
  • 【ペプチド】ペプチド結合によってアミノ酸二個以上が結合した化合物。アミノ酸の数に従って二個のものをジペプチド、三個のものをトリペプチド、さらに多数のアミノ酸から成るものをポリペプチド、百個以上のものを蛋白質と呼ぶ。

 

 

 また最近、「超高層ビル症候群」と呼ばれる病気があるそうです。これは超高層ビルのオフィスで働くサラリーマンやOLの間に、めまいや耳鳴り、頭痛、吐き気、生理不順などの症状があらわれていることをいうようです。また、症状が進むとエレベーターに乗るのが怖くなったり、勤務中に漠とした不安をもったりと「出社拒否」にもつながるようです。特にこれといった改善法が無いのが現状なようで、体調不良に気付いた時点で、1階に近い職場へ配置転換させてもらうなどの対応が大切なようです。

 

【参考】

http://www.jiyu.co.jp/GN/cdv/backnumber/200304/topics02/topic02_08.html

http://den-jiha.com/58.html

 

 

 さて、高所恐怖症の社員を抱えていると企業が往生します。何故なら高層階にのみ職場を置いている企業があるからです。配置転換できるような職場が下の階層にあればよいのですが、必ずしもそういう企業ばかりとは限らないため、高層階のみにしか職場を置いていない企業に勤めているこれらの症状を抱える人たちは、職を失うことになってしまいます。そもそも実は「大地の気」を受けないことから高所恐怖症や超高層ビル症候群になるのではないでしょうか。「大地の気」を大いに受けるためにも、私はできるだけ低め低めの階層で仕事をしたり生活をしたりすることが心と体の健康のために必要であると考えます。

 

 さてこの点でいくと実は超高層マンションさらにはオフィスは、ナンセンスの代物といってよいでしょう。40階建て、50階建ての高層マンションがありますが、高所恐怖という点からしても、住んでいる人はいつも不安等の精神状態におそわれていることになります。先にもお話をしましたが、超高層ビル症候群には現状では改善法がないため、事実、超高層の階層に住んでいる人は超高層マンションから脱出したがります。すなわち、転売して移転したがるのです。しかし、本人の思惑とは異なり実は高くは売れないのです。超高層マンションの価格は転売の際に低下していることも多いのです。これは超高層マンションは「大地の気」から隔離されるものとして、市場、マーケットで診断されているからではないでしょうか。超高層マンションは人間の精神に影響を及ぼすものとして、それを建てる業者は最近では、やむなく、20階とか30階とか40階とか中途のフロアーに子どもの遊び場を作ろうとしていると聞きます。勿論、小手先のアイディアでありますが、それではとても超高層マンションが適正なマンションになるとは思えません。人間は本来、大地に足をつけて生きているものだと思います。子どもは「遠足」「いも掘り」「林間学校」等々を通じて自然の中で遊び、学び、自然に馴れ親しむものです。自然は敵ではなく友であるのですが、超高層マンションに住む子どもが不自然なことに、地面で遊びたがらないのは、馴れていない「大地の気」を恐れるからではないでしょうか。万物に「気」がありますが、「気」は生体の電気エネルギーと密接に関連していますので、高層マンションは生体の「気」を乱しやすいと言えるようです。また、気功をしている何人かの友人・知人が「高層ビルの上の階に行くと、『気』の流れが阻害されることを感じる」と口を揃えて言っているので、あながち間違っていないのではないかと思います。

 

 

 

 

【「木」と「気」~裁判所について】

 

 私は弁護士になってもう50年近く経ちますが、結局本物の木造の机にも腰掛けにも座らぬまま人生を終わるのではないかと思います。私はスチール製の家具でこれまで仕事をしてきました。スチール製の机であり、スチール製の腰掛けです。木製の机や椅子を使って仕事をしてきた人よりも,大地の「気」を感じにくいことは言うまでもありません。

 

 さて、最高裁判所長官は違憲審査権(憲法第81条「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」)を司る最高裁判所の長としてまさに「良心」に従って職務を遂行しなければならない立場にあり、また最高の賢者であるべきことを要請されています。(なお、「良心」については、8月5日付ブログ記事「気は心」等幾度も本ブログで述べて来ましたので、そちらもご覧ください。)

 

 それはまさにできるだけ「気」のある場で仕事をしなければならないということを意味しています。また、これは長官に限らず、裁判官たるものは、最高裁判所裁判官であろうと下級審の裁判官であろうと同じことで、みんな「気」のある場で仕事をすることが大切なのです。そもそも裁判所自体、戦前(太平洋戦争前)は、「木」あるいは煉瓦で造られていたことを思い出してみなければなりません。煉瓦造りもまた、土や岩、泥といった「大地の気」を有する自然の素材を利用しているといえるのではないでしょうか。

 

 さて、話は元に戻りますが、裁判官は「良心」にこだわって仕事をしなければならないため、最高裁判所の裁判官の机と椅子がどのようなものであるかは、国民にとって大切なことであり、たとえそれがどんなに高価なものであろうと、引き続き本物の「木」で作った机と椅子を活用してもらいたいし、また木製のフロアで職務に励んでもらいたいと思っております。念のため、関係の方々に確かめましたところ、間違いなくそうであるとのことで、安心しました。

 

 なお、技術の進歩と共に、建築物や家具などは発達しますが、木材を含め自然の資源の量に限界がありますから、現在は材料自身が合成され、いわゆる一枚板の類は減少していると思われます。問題は、木が「木」であることを厳密に考えて材質を確保することかと思いますが、最高裁判所の内部では、それが行き届いているそうです。例えば,最高裁判所の裁判官の部屋は、東北地方の著名な桜の木を加工した特製の壁板でできているそうです。

 

 さて,私が日頃から教えを請うている千種秀夫先生が、ご自身で健筆を振るわれた『古い庁舎をめぐる思いで』という抜き刷りの紙面を私に下さいました。古い庁舎とは裁判所の庁舎のことです。その文章の末尾に、奈良の薬師寺の関係者が、薬師寺の本堂がコンクリートで改装されたことに関連して次のように述べたというくだりがあります。

 

 「『私たちは、コンクリートの歴史というものは僅々100年余しか持っておりませんので、この新しい建築物が良いのかどうかは直ちに計りかねます。ただ、今まであった木造の建造物は、間違いなく千年余を経て今日も健在です。これは事実です。』と。私たちは未知の分野についても、今日までの経験と理論で見通しを立てて前進しなければならないことも多いが、大丈夫と思って進んできたことが本当に大丈夫なのかどうかは、常に監視を怠らず、見直しをしていかなければならないのである。」

 

 このような,極めて含蓄のある千種先生のコメントに触れ,裁判所の古い煉瓦造り、あるいは木造の庁舎を懐かしむだけではなく、「すべての制度の発足に当って、常にこの言葉の趣旨を忘れないようにしたいと思う。」と千種先生がこの文章の結びの言葉にされていることにある通り、年月を経ないと、どんなことも正しいことであったかどうかが分からないということを仰っていることに、私は得心しました。

 

 私たちは、「気」という世界を忘れてしまっていましたが、改めて、「気」が日常用語として様々な場面で頻繁に使用されていることを想い、それが法律にも、裁判所にも、大きな影響を及ぼしていたのではないかと私は気づいたのでした。

 

 ところで、「木」造の建物ということで、最近読んだ本をふと思い出したのですが、「木とつきあう智恵」(株式会社地湧社発行 エルヴィン・トーマ著 2003年初版)には、「特定の月相(月齢により月面の輝く部分が変化する有様「広辞苑 第四版」)に合わせて気を伐る」という「智恵」や、「木造の家屋が化学薬品で保護されなくても無傷で五百年以上も建っている事実」など興味深い内容が書かれています。ぜひご覧になってみて下さい。

 

大地の「気」(1)


20110811.JPG

(2011年8月11日 朝6時41分 東京都千代田区六番町にて撮影)

 

 

【「植物」にも気がある】

 15年ほど前に株式会社黒石植物園(青森県黒石市)の渡辺憲司様より、「山野草は癒し・和みを与えてくれる存在。独身のOLが仕事を終えアパートに帰り、山野草に「ただいま」と話しかけたりすると、山野草が元気になるだけでなく、OL自身も疲れが取れる」というお話を伺いました。「癒し・和みを与えてくれる」ということは、つまり山野草を始めとした植物にも「気」があるということだと思います。

 

 何年も花を咲かせていない植物に毎日気持ちを込めて世話をしていると、木が花を咲かせるようになったり、逆に「この植木はもう駄目だ」と愚痴を言うと、今まで元気があった植木でもたちまち枯れてしまう、といった話も、私が治療に通っている山手通り鍼灸院の川口博司先生にお聞きしました。

 

 山手通り鍼灸院 http://www.yamate-st.com/

 

 これらの山野草、植物にまつわるエピソードは、人間の「気」と植物の「気」が相互に作用し合っている一つの例だと考えています。

  

 山野草についての最近の傾向としては、先の渡辺様(現在は「ランドブリーズ」栃木県鹿沼市上石川)によると、「苔」が異常に売れているというお話でした。調べてみたところ、「苔玉」などが若い世代に人気だそうです。渡辺様は、「苔は究極の癒しの植物」で、その理由として、

  1. 安定感
  2. 高温多湿の風土にあった安心感
  3. 触った時の柔らかな触感
  4. 復活の強さ
  5. 日本の懐かしい原風景
  6. 手間のかからなさ。

等を挙げられていらっしゃいました。

 

 日本の代表的な庭園の一つである苔寺(西芳寺の通称。京都市西京区にある臨済宗の寺院)の苔は心を落ち着かせます。何故ならば、苔が大いに水と親しむことにあるからではないかと思います。つまり、人間の成人の60%が水で構成されているそうですから、水と親しむ苔に人間が馴染み、癒し・和みを感じるのではないかと思うのです。

 

 つまり、水にも「気」があって、水を多分に含む苔と人間が、「気」を通じながら、「気」が共感・共鳴・共振するということなのではないでしょうか。このことは、日本人だけでなく外国人も熱心に苔寺に来て観賞していることからも頷けるでしょう。

 

 また、先の渡辺様のお話によると、水苔を中心にしたヨシ、スゲなどの死骸が長い年月の間、湿地のなかで腐食したものをピート(泥炭)というそうですが、ピートも色々な品質のものがある中で、水苔の多いものが一級品で、世界の鉢植え園芸にとって無くてはならない植込み材料とのことです。水苔は、人があまり立ち入らない過酷な寒冷地に自生しているそうですが、人間を拒む冷酷な自然で、太古から延々と成長し続けたその数千年の水苔の「気」が、ピートに宿り、全世界の人たちの心を癒す草花をつくりだす元となっているともおっしゃっていました。

 

 さて、「枯山水」という「池や遣り水(寝殿造の庭園などに水を導き入れて流れるようにしたもの。)などの水のない庭」もありますが、庭には殆ど池があり、できたら水が動いている池を日本人は好みます。ささやかでも水が動いている時、マイナスイオン効果も働き、心の安らぎを得られます。

 

 ときたま庭には鹿威しがあって、水の動きとリズミカルな音によっても、人間は安らぎを得るのでしょう。もちろん安らぎを得るということは癒しに繋がっているということです。それは宇宙の気との接合を意味しているのではないかと思います。

 

【参考】

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4

 http://minus-ion.ae2k.net/elementary/post-1.html

 

 

 

【「石」にも気がある】

 

 石には、火成岩(マグマが冷えて固まったもの。マグマとは、溶融した造岩物質を主体とする、地下に存在する流動物体のこと。<広辞苑第4版,三省堂>)、堆積岩(岩石の破片や生物の遺骸などが、或る場所に集積して生じた岩石。<同>)、変成岩(もともとあった岩石が、地下の高い温度・圧力で変質し新しい岩石となったもの。<同>)などがあります。

 

 まず、火山が爆発しマグマが流れ出て、冷えて固まると火成岩になります。その火成岩はその後、川の流れなどにのって細かくなり、川の下流などで堆積岩となります。また火成岩が地下でゆっくりと固まり深成岩となり、更に温度や圧力で変質すると変成岩となります。つまり、地球上の石は姿や場所を変え、循環しているのだそうです。

【参考】http://tender-time.net/stonesbasic/basic2.html

 

 さて、私は1961年(昭和36年)から2年間「庭造り」を行っていました。「庭造り」は植木を集めるだけでなく、石も集める必要があります。何故なら「庭造り」には木だけではなく、わび・さびを演出するためにも庭石が重要な役割を果たすからです。また、日本人には、石を愛でる習性があります。何もそれは日本人だけではなく中国人もそうです。中国上海の豫園でも多く見掛ける、江蘇、浙江の代表的な石である「太湖石」は、蘇州付近にある太湖周辺の丘陵から採れる穴の多い複雑な形の奇石ですが、蘇州はじめ中国各地の庭園で鑑賞や瞑想などのために置かれているようです。

 

【参考】http://www.masuki-gardenart.com/SHOP/533953/722578/list.html

 

 また、庭造りや造園等には「土」も不可欠ですが、最近先の渡辺憲司様より奇跡の用土である「鹿沼土」という土のお話をお聞きしたので、ご紹介いたします。

 

 園芸に最も理想的な用土は①水持ちが良く②空気の層がたくさん有ること、この2つが条件とのことですが、この2つを兼ね備えるのは大変難しいのだそうです。

 

 「鹿沼土」は、①関東地方に位置する赤城山が3万年以上前に噴火し、その噴出物が土となったこと②偏西風に乗って、東に位置する鹿沼地方に多く降り積もったこと③重い火山粒は桐生や日光方面、軽い火山粒は宇都宮地方に落ち、最も条件の良い堅さのものが鹿沼地方に降り注いだこと等々色々なよい条件が重なったため、上記2つの条件を兼ね備えることができた「奇跡の用土」なのだそうです。

 

 微妙な堅さ、粒の大きさ、空気層の絶妙なバランス(空気は植物にとって何より重要です。)、清潔感のある明るい色をもつ「奇跡の用土」である「鹿沼土」から漂う「気」に、全国から人々が鹿沼に集まり、色々な園芸の展示会が開かれ、日本で一番多く全国からマニアが集まるそうです。この「鹿沼土」で生産すると、全てのものが元気に育つそうです。根が「鹿沼土」の「気」を喜んで伸び、人工で作ったいかなる用土も「鹿沼土」には敵わないそうです。

 

 さて、話を「石」に戻しますと、私が1961年(昭和36年)当時住んでいた東京都武蔵野市桜堤にて、往々夕方、石屋さんが、都心に昼間売りに行った後に売れ残った石(例えば、三波石など)を投げ売りに来るということがありました。

 

<三波石とは>

群馬県多野郡鬼石町には、赤色があざやかな紅簾石片岩、緑色のうつくしい緑簾石片岩などが見られる、1957年(昭和32年)には国指定の名勝、そして天然記念物の指定を受けている「三波石峡」があります。この三波川で採れる「三波石」は、永年を経ても色が褪せないという点で評価を受け、建築や造園に多く用いられているそうです。

 

【参考】

http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/sekiz26.html

http://onishoko.or.jp/stone.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B3%A2%E7%9F%B3%E5%B3%A1

 

 私が石屋さんに声をかけたところ、石屋さんは、「この石は自然石です。」と自慢していました。その際、「発破(ダイナマイト)で欠けた、即ち爆発させた石はだめですよ。自然の石(=発破でない石)でなければだめです。」ということを教わりました。「発破の石は気が割れるからね」ともおっしゃっていました。調べてみたところ、発破された石は、採掘時の削岩などの衝撃や発破の波動を記憶している場合があるということです。

【参考】http://hinohikali.com/kaiun/isinojouka.html

 

 石に気が宿っているというのは、必ずしも科学的ではないかもしれませんが、その存在を否定することも出来ないと思います。例えば日本人の素朴な信仰心は、こうした自然の一部である石や岩に願をかける(=神仏に或る事の成就を祈願する)ことがその原点だと思います。

 また、「夫婦円満」、「家内安全」、「海上保安」や「大漁追福」の象徴や祈願・祈念の対象とされるものに「夫婦岩」がありますが、三重県伊勢市の二見興玉神社にある夫婦岩が有名です。

 このように、石や岩に願掛け等するのは、「気」や「石」「岩」自体にその波動、エネルギーがあると考えられているからでしょう。勿論自然の石や岩に願をかける際には特に、自然石を選ぶべきではないかと思います。

 

 さて、京都市右京区にある臨済宗龍安寺は、その石庭が大変有名です。龍安寺は、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録され、そのため観光客が絶えない観光名所です。

 

 ところで、観光客は何故石庭に惹かれ、訪れるのでしょうか。人々が石庭に惹かれる理由は、おそらく殆ど誰も分かっていないでしょうし、私もはっきりとは分かりませんが、私なりに思うところでは、石庭を構成する全てのものが、それぞれ微弱なエネルギー、すなわち波動を出し、「気」を有していて、その「気」が、観光客等鑑賞する人の「気」と共感・共鳴・共振し小さな安定した「宇宙」を創り、そこに浸ることによって心の安らぎを得ているのではないかと思います。

 

 日本の有名な茶室もしかりです。壁にカビで染みをつくりますが、その染みの形で宇宙が見えてくるというのでしょう。日本人は茶室を愛します。愛するということは、好感を持っているということであり、好感を持っているということは、心が和むということ、更には癒しに繋がっているということです。そして癒しに繋がるということは心が落ち着き、安定感が生まれ、宇宙と一体となるということなのです。

 

 そのような宇宙との一体感を得るために、人々は石庭や茶室を訪れるのではないでしょうか。

 

 また、伝承医学(例えば中医学、インドのアーユルヴェーダ)では、さまざまな鉱物(=石、宝石の原石など)も治療に使われているそうです。中近東の薬局では、鉱物が置かれているそうです。つまり、石の有する「気」の効果を活用しているのでしょう。地球のミネラル成分が凝縮して固まったものが石や宝石などの鉱物ですから、それを治療に活用するのも頷けます。また、王族や権力者などが宝石を身につけたのは、装飾の意味だけでなく、石からパワーをもらったり、「気」をもらったり、身を守ったりする意味もあったそうです。

【参考】http://www.mon-age.com/cafe/101210.php

 

 次回も引き続き、「大地と気」についてお話しようと思います。

気は心


20110804.JPG

(2011年8月4日朝6時36分 東京都千代田区 靖国神社付近にて撮影)

 

 

 

【気は心】

  他人から何かをしてもらった時、何かをプレゼントしてもらった時、何か「親切」を感じた時に、「気は心」という言葉を使います。親切心は、人間と人間を結び付ける絆の一つです。人間という言葉は「人の間」と書き、人と人との間にこそ人間としての存在意義があります。そして、自分がどんなに苦しくて大変な状況になっても、人間には他人に思いを馳せることができる能力があります。これが「親切心」でしょう。「親切」とは、「弱い立場にある人や困った目にあっている人の身になって、何かをしてやったりやさしく応対したりすること」(新明解国語辞典第6版、三省堂)です。円滑な人間関係を構築するためには、「親切」という、人間同士を結合させる「心」、「気」の働きは極めて大切なことなのです。

 

 

  私は、「心」の周りにあるモヤッとしたものが「気」だと思います。つまり、「気は心」という言葉は、「心」の更に外側に大きな「気」というエネルギー地帯があるということを意味しているのではないかと思います。逆に言うと、「気」の核を「心」というのではないでしょうか。「気は心」という言葉を短縮して「気心」という言葉がありますが、つまり、「気」と「心」はまさに一体のものであることを意味していると思います。そして、「気」の方が「心」より先に表現されているのは、「心」より「気」の方が大きいということを意味しているのでしょう。

 

  「気心が知れた」、「気心が分かる」という言葉がありますが、「気」その核心の「心」を持つことができ、それを知ることができるのは「気」「心」には微弱エネルギーや波動といったものがあるからでしょう。

 

  「気は心」という世界を実現するためには、「気」という物事を察知する警報なりアンテナなりを張り巡らさなければならないと思います。そうでなければ、「気は心」という親切心は成り立ちません。人間の器というものは、実はこの「気」というアンテナの大きさ・深さによって勝負しているといって良いのではないでしょうか。

 

  また、「縁は縁を繋いでこそ円になる」という言葉があります。私は今まで、交際範囲の広く信頼のおける多くの知人から様々な人物をご紹介していただき、それによって私も交際範囲を広げることができ、多数の企業様からご依頼を受ける事務所へと成長することができました。

 

  ブログの交友録その3(7月26日付記事)でご紹介した曹洞宗大本山總持寺祖院の監院である今村源宗先生は、2000年9月からお付き合いさせて頂いている七尾自動車学校 代表取締役社長 森山外志夫様にご紹介いただきました。今村先生はお会いした同日の7月19日付のお手紙で「人に学ぶということが第一番の『縁』と存じます」という有難い言葉を寄せてくださいましたが、まさにその通りであると思います。

 

  ですから、私も、自分の親しい知人を別の知人へとご紹介する仲立ちをし、いってみれば弁護士活動ひいては人間としての活動の支援をさせていただいております。こういった他人に対する「気づかい」こそ、「気は心」という世界の一つの現れかと思います。

 

 

 

【弁護士は「気は心」の精神で臨む】

  弁護士はなんといっても自分の良心を示す、「気は心」の精神で臨まなければなりません。つまり、弁護士は絶えず依頼者のことを思い、そしてその思っていることを依頼者に伝え続けること、親切が必要でしょう。

 

  何かの折に気がかりなことが生じた時、あるいは音信がない時に、依頼者のことを思って、それとはなく電話をするなり、あるいは書面・メールを送るなりして問い合わせ、確認することが必要です。

 

  仕事を貰うまでは依頼者によく連絡をし、仕事を頂いたら(たとえば弁護士について言えば委任状をもらったら)、もう依頼者から連絡なりがなければ放っておく等、受動態のスタンスになる、さらにいえば冷たい態度をとる弁護士が多いのですが、それは「気は心」という世界を演出していない、あるいはそういうような気持ちになれない人物なのでしょう。こういった弁護士は、いずれは社会的評価の低い存在になってしまうでしょう。

 

【私心とは】

  私は、「気は心」の精神を絶えず心に留めて弁護士として仕事をしてきました。「気は心」の精神とは、つまり、「真・善・美」を追求する姿勢と、「夢・愛・誠」を旨として取り組み、またそれだけではなく、「義理」・「人情」に生きて、「(自己)規律」を負うという態度をとってきたということなのです。

 

  こういった対応を私は「良心にもとづいて仕事をする」という言葉を使って説明していますが、この「良心」とは、その詳細は「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」(広辞苑第4版)と解されています。

 

  「良心」に対峙する言葉は、「私心」です。およそ「私心」というのは、霊的ではなくて、動物的な意識です。

 

  「私心」のあるなしは、全ての人に関係することであり、「私心」のある人は、浅い人間関係社会において、かろうじて生きていくことになります。

 

  つまり、「私心」とは「私欲」とか「利己主義」という意味にも理解されるものであって、そして「邪心」、つまりよこしまな心、不正な心のことでもあります。つまり、人間性を失った心ということです。人間性を失ったということは、人間としての意識・霊性をも失ったということでしょう。人間は社会的動物と言われますが、「私心」があれば社会性を失うということにもなります。

 

  「私心」という邪悪な心をとりまく「気」は、もちろん邪悪であり、そういった「気」を発しても、相手は受け取らないでしょう。要するに、他人に「心」が伝わらない人は、「私心」のある人で、邪悪な気のエネルギーを有しており、相手に「邪心」として映って反発されるからです。それが人と人との協調を阻むことにもなります。

 

 

【良心に悖る】

  「良心に悖る(もとる)」という言葉があります。「悖る(もとる)」とは、「そむく、さからう」という意味です。「良心に悖る(もとる)」は、広辞苑には載っていないのですが、不思議なことです。そもそも、この「良心に悖る(もとる)」という言葉が、一般に慣用語句として使用されていないということでしょうか。この言葉は、例えば日本初のヨーガ行者で天風会の創始者である中村天風先生の本『中村天風 一日一話 元気と勇気がわいてくる哲人の教え366話』の8月30日に記載があります。

 

  「本心(「本心」とは広辞苑によると良心と同意義です)良心にもとった言葉や行いというものは、それ自体すでに消極的なんです。積極的じゃないんであります。というのは、本心良心にもとると、やましい観念のために心の力は常に萎縮してしまう。本心良心の発動した場合における言葉や行いというものには、一点のやましいことがないから、どんな場合でも恐れることはないという意味です。ですから、一言ものをいうときでも、ちょいとした手足を動かす場合でも、本心良心にもとらないようにしなくてはなりません。」

 

  ところで、嘘発見機(代表的なものとしてポリグラフを使用した装置が有名)という装置を皆さんも耳にされたことがあるかと思います。この装置は血圧や心拍数の変化を読み取ったり、脳波や声紋を測定したりと様々な種類のものがあるようですが、本心良心にもとる言葉や行いを発すると、その邪悪な「気」や「心」の働きから人間の生理現象に変化が表れ、この装置に反応するのではないかと思います。

 

 天風先生の上記言葉を簡単にまとめれば、良心にもとるとなると、やましい観念のために心の力は常に萎縮してしまいますが、良心の発動した場合における言葉や行いというものには、一点のやましいことがなく、全身全霊で取り組んでいるから、どんな場合でも恐れる必要がないということです。

 

 また、火事場の馬鹿力、という言葉があります。これは、科学的に言えば、人の脳というのは、筋肉を動かしたり、行動を起こすときに、普段は70%~80%程度の力しか出さないよう、脳がコントロールし、セーブしているのだそうです。なぜなら、常に100%の力で筋肉や身体を動かしていると、筋肉や骨に負担がかかり、身体を壊してしまうからだそうです。しかし、「火事場」のような、危機的状態や人を助けなければならないような状態に遭遇すると、この脳のセーブ機能が外れ、アドレナリンによって増幅され、そして100%の力(パワー)を発揮出来るのだそうです。

【参考】

http://blog.goo.ne.jp/senses1123/e/9b76419e188fe3c596577cfad33d1a4c 

 つまり、「火事場の馬鹿力」は、いってみれば潜在的能力のことで、これは、邪心を捨てて、良心に従い、「心」の力を強く持つことによって、「心」のブレーキが切れたときに、「心」の力が強くなってその力を引き出すことが可能になるということでしょう。そのときは単に「心」だけではなく、「心」を覆う「気」も解放され、心力とともに気力も充実し、強大になるのだと解釈しています。

 

 次回以降も「気」に関係するブログを投稿します。

 

高井・岡芹法律事務所
会長弁護士 高井伸夫

(次回に続く)

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