「気」の最近のブログ記事

気の交流


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(2011年7月26日朝6時50分 東京都港区赤坂 檜町公園にて撮影)

 

  前回7月22日付「気」第6回記事にて、「気が合う」ことについて述べましたが、今回は「気」の交流は対人関係のみならず、人間と物、人間と宇宙との間にもあるということを述べていきたいと思います。

 

 

【「気」の交流】

  中国においては気功といって、自ら「気」を養い心身の鍛錬による健康法があり、日本にもそれが採用されています。また、「気」の熟達者によって病人の邪気をとり健康体に戻す治療も存在します。(これは7月12日付交友録に掲載しました鎌田毅成先生の「サイ気療研究会」もその一つでしょう。)いずれにしても、お互いの「気」の交流があるからこそ、こうした成果が望めるのでしょう。

  弁護士についていえば、依頼者との関係において、何事にもわだかまりがなく、和気藹々とし、同じことに笑い、同じことに悩み苦しむ、という関係が理想的でしょう。そうでなければ、今後の成功・失敗の鍵となる弁護士と依頼者との関係においては、解決できる問題も、時間がかかったり上手く事が運ばなくなるでしょう。つまり、弁護士と依頼者とのあいだでも、「気」が交流しなければならないのです。

 

  スポーツにおいてのチームによるお互いの阿吽の呼吸なども、「気」の交流であろうと思います。また、今年6月16日~19日に開催されたゴルフの全米オープン選手権においてロリー・マキロイ選手は、名だたる強者を寄せ付けず、完全優勝を果たしました。ゴルフは、チームとしての優勝を競うのではなく、単独プレーで優劣を決める競技ですが、過酷な4日間を通じて、自分の思うがままにボールを操り続けられる技術は、ただ単に練習のみでは達しえないでしょう。そこにはボールを運びたいという強い願い、信念、一点に集中し自分の放つボールとの「気」の交流があればこそ成し得たものだと思います。

 

 人間は宇宙の一存在ですが、人間だけではなく、宇宙に存在するものは、全て「気」を有していますが、人工的に作られたものは、天然のものよりもはるかに弱い「気」を有しているにすぎないと思います。ですから、マキロイ選手は、自分の「気」と、人工的なゴルフクラブとゴルフボールの持つ「気」とを交流させましたが、それはゴルフクラブ・ゴルフボールの持つ淡い「気」を、自分の「気」によって強大にしたのではないかと思います。マキロイ選手は「気」を極めて強大にし、ゴルフクラブとゴルフボールに乗り移した、つまり「気」を入れた、ということではないかと思います。

 

 また、自然界においては森林浴によって樹木の香気を浴び英気を養ったり、高山で登頂の達成感を感じたり、大海原で感じる解放感などは、大自然と人間との「気」の交流といえるでしょう。

 

 つまり、「気」の交流とは、人と人との交流のみならず、人と道具(マキロイ選手の場合はゴルフクラブとゴルフボール)との交流、人と自然との交流、つまり、宇宙に存在するすべての物同士で起こるものなのです。

 

 

【「気を合わせる」ことの究極=宇宙の気と交流し一致させる】

 

 「合気道」の開祖である植芝盛平(1883~1969)は、「合気道の極意は、おのれを宇宙の動きと調和させ、おのれを宇宙そのものと一致させることにある」と説いています。「気を合わせる」ことの究極は、宇宙の「気」、意識と交流し、一致させることなのです。

 

  「宇宙」については、小生が7月7日にお会いした帯津良一先生(先生のプロフィール等に関しては、7月12日付交友録にてご紹介しました)は、ご著書『生きるも死ぬもこれで十分』(法研、2010)で、「虚空」という、宇宙よりさらに大きな場について説明されています。「虚空とは、3000とも4000ともいわれる宇宙を生み出し、これを抱いている大いなる場」、「エネルギーに満ち満ちた偉大なる空間」で、いつか自分が死した時にはこの「虚空」という故郷へと、羽ばたき、赴き、至ることですから、「死」という楽しみ(希望)をもって「生」きるべきだ、という趣旨のことを述べられています。

 

 人がいよいよ最期を迎える時、未だ心底にこの世へ未練、執着がある人、苦しんでいる人でも、最後を迎えたときの顔つきは、とても安らかな顔になることが多いとのことです。これは、生きていく中で哀しさや寂しさを抱き続けてきた人間が、ついに故郷である虚空へと戻ることができるからだと思います。帯津先生の本によると、こうした安らかな虚空へ旅立つためには、「気」というエネルギーが必要で、人間は今の生を生きることでエネルギーを充填しているのだそうです。

 

 私は、「気」について実感できませんが、残り少ない人生において宇宙の本質とは何かを少しは考え、宇宙との結合をいくらかでも果たすべく、これからの短い人生を生きていきたいと思います。すなわち、私はまだ、宇宙との結合については意識したこともないのですが、折に触れてこの壮大なる「気」について学び、いささかでも習得していきたいと考えております。

 

 

【「諦念をもって受け止める」とは】

 さて、宮城康年門主(京都・聖護院門跡)のインタビュー記事(家庭画報2011年7月号、世界文化社)を読んでいたところ、宮城門主の「この度の東日本大震災で家族を亡くした方々は、諦念をもって受け止めて前に進んでいただきたい。」といった発言を目にしました。

 

 広辞苑を引いてみると、諦念とは、ただ諦めるのではなく、「真理を知り、迷いを捨てる」という意味だそうですが、宮城門主は、「その『真理』とは、人や自然とのかかわり合いの中で見つけていくもの」と述べられていました。

 

 「諦念」のために知るべき「真理」、すなわち人や自然とのかかわりの中で見つけていくものの中には、歓喜に満ちた出来事も多くありますが、「哀しみ」「寂しさ」を伴ったものも多いと思います。対人関係でいえば、協調関係も生まれるものの、対立することも(気が合わないことも)少なくありません。そして、出会いもありますが、悲しい別れも多いものです。対自然との関係でいえば、素晴らしい大自然のパノラマに感動することもあれば、この度の東日本大震災のように、一瞬のうちに悲しみのどん底に突き落とされるような出来事も起こります。

 

 帯津先生の本には、「私たちは孤独な旅人のような存在」とありました。つまり、喜び・幸せ・満足感・ときめき・悲しみ・寂しさが綯い交ぜ(「ないまぜ」と読み、意味は「質や色のちがったものをまぜ合せること」です。「広辞苑 第四版」)になった、一喜一憂を繰り返す儚い旅をしつづけ、そしていつかは旅路を終え虚空に向かうのですとあります。

 

 人間は、生物体として宇宙に存在する以上、宇宙の一つの構成物であり、宇宙と一体ですから、この有限である宇宙に存在する小さな「かげろうのような」「一粒の泡のような」存在として、宇宙と同様に、全て有限であって、「死」の世界に直面しながら、はかない旅路を進むのだと思います。

 

 また、帯津先生はご著書の中で、藤原新也さんの短編集『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』から「哀しみや苦しみの彩りによってさえ人間は救われ癒される」「みずからの心を犠牲にした他者への限りない思いが存在する」という言葉を引用され、「かなしみが自らを、そして他者を癒すとすれば、そうか!自然治癒力とは人の抱くかなしみだったのだ。」と述べられています。この藤原新也さんの言葉に触れて、私が感じたことは、東日本大震災で愛する人を失った人々が今、「哀しみ」や「寂しさ」「苦しみ」の最中にいるのは、そもそも、その亡くなった人々への限りない愛情、亡くなった人々と自分とが築くはずだった夢、希望といった「他者への限りない思い」の存在があるからこそでしょう。

 

 

【人事を尽くして天命を待つ】

 「諦念をもって受け止める」ためには、「人事を尽くして天命を待つ」、すなわち悔いのない状態を準備しておく、自ら演出することも必要ではないかと思います。

 

 天命とは、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことです。「天から命令を受ける」という思想は「受命思想」と呼ばれているそうです。この思想の成立は殷から周(紀元前1046年ごろ~紀元前256年)への王朝交代と結びつけて考えられているようです。殷の王の正統性は帝または上帝と呼ばれる最高神の直系子孫であると称していた点にあるようですが、周王が天下を統治する権限は天からの命令を背景にしているとされ、「天命」が王朝交代の大義名分とされるようになったようです。

 

 【参考】http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD

 

 私は、弁護士の信条として、「尽くすべきは尽くす」ということをモットーとして仕事に当たってきました。簡単に言えば、ありとあらゆる努力をして、最善の問題解決を図るのです。

 

 あらゆる努力を惜しまぬ姿勢によって、自分の熱意という「気」が、相手に伝わり、そして第三者へと波及し、ひいては裁判所や相手方の弁護士等の関係者への説得効果が生じることもあります。そのためには、現地に赴き、現場を見て、担当者の話を直接聞き、そしてこれらを書面化し、さらにその内容を関係者に何度も確認したうえで、その人、その企業の持つ独特の雰囲気・空気という「気」のエネルギーを感じて、それを込めながら仕事をするのです。

 

 こうして、「尽くすべきを尽く」し、「人事を尽くして天命を待」てば、その結果を、諦念を持って受け止めることができるのです。すなわち「真理たるものを知り、迷いを捨てる」ことができるのです。敢えて言えば、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という境地に達するのです。

 

 

 次回以降も、「気」についての記事を投稿していきたいと思います。

 

高井・岡芹法律事務所
会長弁護士 高井伸夫

(次回に続く)

以心伝心 気が合う


 

 

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(2011年5月19日 午前10:04 石川県輪島市門前町 曹洞宗大本山總持寺祖院にて撮影)

 

 

 

【以心伝心】

 

「以心伝心」とは、「思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること。」ですが、もともとは、禅の言葉で、「言語では表現できない真理を師から弟子の心に伝えること。」という意味だそうです(広辞苑第4版、三省堂)。「以心伝心」は、要するに意識されていない曖昧な事柄であるけれども、それが相手に的確に伝わってしまうということです。言ってみれば、「以心伝心」とは無言でもまっとうに伝わるという意味であり、心と心が共感し、共鳴し、共振するということでしょう。

 

心と心が共感し、共鳴し、共振するためには、相手の言いたいことを察する、いわば相手の「気配」を察することが必要です。また、自分が相手の「気配」を察するだけでなく、受け手(相手)も的確に当方の「気」を把握する、ということが必要であると思います。二人の間に何かを共有しているからこそ、「以心伝心」が可能になるのでしょう。人間はそれぞれ個性があるから、全てを共有するわけではなく、相手のごく一部を共有することに留まりますが、勿論、その共有する一部が、広くて深いほど「以心伝心」がスムーズに行われることが可能になるのではないでしょうか。そして、相手と自分との間に「以心伝心」という「気」の交流があるかどうかということは、仕事の上でも、殊のほか大事なことになります。

 

さて、「気配」というのは、明確ではないけれど何となくそのような感じがするという意味ですが、それは「予想」とか「予測」という言葉にもつながります。「気配」を察知するという言葉がありますが、「気配」が目に見えないということであるにもかかわらず、しかしそれを察知できるということです。目に見えないものなのに察知できるということは、そこに何か、波動なり微弱なエネルギーなりがあり、「気」なるものが存在しているということを意味しているのではないでしょうか?

 

つまり、相手の「気配」を察することができることは、予知・予測することになり、先見性を持ち、リーダーシップを発揮するために必要な能力にもなるということです。

 

「以心伝心」というのは、弁護士にも勿論必要で、弁護士とクライアントの関係においても、「以心伝心」できるような、心のぴったりと合った対応ができればそれに越したことはありません。問わず語りに、同じ結論に達するということになれば、まさに弁護士冥利でしょうし、クライアントにとっても心地よいことであると思います。

 

当方の気持ちを裁判官なり相手方なりに伝えるには、いかに雄弁であろうとも、心が相手に近づく、迫ることが往々期待できません。ですから、雄弁であろうとも、「以心伝心」という方法によって、真髄を、更に言えば、良心を伝えることでしょう。

 

相手に近づくためには、当方が迫力を持って迫らなければならないのですが、その迫力の元は良心に基づくということです。しかし、単に良心に基づくだけではなく、よく関係資料を読み、分析し、また雄弁さも必要だし、更には文章の執筆力も必要です。すなわち、論理性が必要であるということです。読んで、書いて、話すというスキルが弁護士として必要ですが、実はこの三位がそろった弁護士は多くなく、しかも良心に基づいて、志のある、すなわちマインドがある弁護士は、少数であると言って良いと思います。

 

私は、言っていること、書いてあることと、やっていることがてんでバラバラで分裂していると評論されたことがありましたが、それは、実は当意即妙、アドリブでも対処しているからであって、しかしそれでも一定の説得力があるのは、実は良心というものに基づいて仕事を進めることを基本としているからだと考えています。「以心伝心」を発揮することは勿論弁護士だけのことではなくて、円滑な人間関係を作らなければならない人に不可欠です。新しい創造を企てるすべてのビジネスマンに必要なことでしょう。

 

 

 

 

【気が合う】


仕事をしている上で、相手が上司、同僚、部下、また社内外を問わず、「あの人とは一言二言でも上手くニュアンスが伝わり、阿吽の呼吸で仕事が出来る。」のに、「その人と仕事をするときは、一から十まで説明しないと上手く伝わらないな。」と感じることがあると思います。

 

仕事の上でも、「気が合う」ことが必要である所以ですが、「気が合う」という言葉は「気が合わない」「反りが合わない」という言葉の対語です。「気が合う」とは、感じ方、思い方、考え方が似通っていて、親しみが持てるという意味です。つまり、波長が合うということです。感じていること、思っていること、考えていることの同一性が大きいことをいうのだと思います。

 

また、「肌が合う」という言葉がありますが、これも「気」と「気」が合うことをいいます。すなわち、「気」が合うということは、つまるところ肉体と肉体とも合う、ということに繋がっているのでしょう。それは、「気」が肉体をも包摂した存在だからです。それは「気」と「気」とが合って気分がよくなるということです。それをもっと人間的に直接に表現すると肌が合わないということは、「気」が合わない、気分を害する、ということに繋がるのでしょう。

 

こういった言葉があるということは、「気」は相手とのコミュニケーション、対人関係において機能しているということを意味しています。「気」というものは単に個人の体内のみに留まるのではなくて、体外に全方向へと発信されるエネルギーであり、また受信者との関係において双方向にも作用するものであるがゆえに、本来的に相手を意識してはじめて、機能するものでしょう。

 

「気」は波動であり、エネルギーであるがゆえに、相手とヘルツ(周波数)を異にするときに、「気が合わない」と感じるのでしょう。たとえば、男女の恋愛関係は、「気と気が絡まり合うところに恋愛が出来る」と聞いたことがあります。恋愛の「恋」の字を漢和辞典で調べてみると、解字説明に「もつれた糸にけじめをつけようとしても容易に分けられないこと」とありました。この「糸」とは、「気」ではないかと考えています。そして、心から心にお互いの愛情が伝わり、「気」が相手との間で感応します。しかし、そりが合わないのが過ぎると個々が離れてしまい、そして更に言えば、気疲れしてしまいます。

 

「恋」は、万葉集において「孤悲」と表記がされている例がありますが、現代の恋愛事情においてもそうだと思いますが、当時の人々も、恋愛においてなにかと苦悩し、その結果気疲れし挙げ句破局を迎えることもあったことの表れだと思います。

 

 

 

 

【「気が合わない」と感じる時はどうすればよいか】

 

しかし、仕事の上では、その仕事が続く限り関係を終わらすわけにもいきません。それでは、仕事で「気が合わない」と感じるなら、どうすればいいのでしょうか。

 

そのときは、一度、一歩引いてみたらどうでしょうか。距離を置いてみて、相手の言うことに耳を傾けます。そうすると共通点を見つけやすくなります。共通点を見つけたらそれを少しずつ少しずつ、拡大することが「気を合わせる」コツではないでしょうか。

 

また、人間は、気が合う幅が広く深い人と、そうでない人とがあります。要するに、相手と気が合わないと感じていても耐えられる人と、わずかな気の違いでも耐えられない人とがいるということです。これが、つまるところ人間の幅・器ということなのではないでしょうか。自分とは気の違う人、合わない人と、幅広く・深く包容していける人が、人間としての幅が広く、深みがあるということ、すなわち器が大きい人物ということです。

 

ですから、仕事をしている上で、「あの人とは気が合わない」と感じるなら、相手を責めるのではなく、良心の本質、すなわち「真・善・美」・「夢・愛・誠」を旨として、「義理」・「人情」に生きて、「(自己)規律」を負うという姿勢を心がけて、自身の気の合う幅を広げ、深めなくてはいけないのです。そして良心の極地である「志(マインド)」を確立するようにすればよいでしょう。「志」というのは難しいことでなくてもよいです。例えば、「優しさ」というものを表現するのも「志」であり、「感謝の気持ち」を表現するのも「志」です。個人個人に相応しい長所を活かし、これを貫徹することが、結局は「志」になっていくのです。

 

 

(続く)

気を入れて


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(2011年7月11日 朝7時07分 東京都渋谷区 代々木公園にて撮影)

 

 【「気を入れて仕事をする」とは?】

 

 「気を入れて仕事をしなさい」などとよく言いますが、この「気を入れて」とは、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。「気乗り」がしない状態(即ち「気」のエネルギーが弱い状態)で仕事をしても良い結果はでませんが、「よし、やるぞ!」という気持ちを持って仕事をすると、「気」のエネルギーが高まり、おのずと良い結果がでるのではないかと思います。ですから、「気を入れる」ということは、「気」の波動を活発にさせ、エネルギーを費やさせるということではないかと考えます。

 

 「気を入れる」に共通する概念として「気合」というものがあります。「気合が入る」「気合を入れる」という言葉は、普段皆さんも頻繁に使う言葉だと思います。週刊文春の2011年7月14日号のグラビア記事のインタビューで、アテネ・北京オリンピック競泳金メダリストの北島康介選手は、「まずは練習で体と泳ぎをしっかり作り上げるのが先。気合を入れるのは、世界水泳の開幕直前」と、「気合」という言葉を使っています。

 

 気合を入れて勝負時に相手を圧倒するということは、「気」はエネルギーであり、つまるところ「気」の効果であると思います。まさしく「気を引くこと」(それとはなしに相手の心を探ること、相手の関心をこちらに向けさせること)にもなるのです。

 

 弁護士である私も、例えば、講演を行う時、「気合を入れて」つまり「気を入れて」行うと、それまでザワザワしていた状況が静かになるということがよくあります。その場の雰囲気に合ったお話をすること、焦点がはっきりしたお話をすること、あるいは熱意をもってお話をすることによって、自ずから静かになり、ザワザワした状況は勿論雰囲気も消えてしまうのです。

 

 仕事をする上では、「気は持つことができる」「気を入れることができる」、「気持ちをこめることができる」ということに気づかなければならないと思います。「気を持つことができる」というのは、「気を維持することができる」、すなわち形のない「気」を、人間は持続的に保持することができるということでしょう。「気を入れる」とは、持っている「気」を相手に伝え、相手にそれを受け取ってもらえるということでしょう。具体的に言えば、真摯に話をすれば、その「気」は相手に伝わって、真摯な話として聞いてもらえるということです。

 

 このように、「気」は、方向性のあるもの、しかも全ての方向へと作用しているものであります。そして、「気」を発信した人と、その「気」を受け取った受信者との間において双方向になるものです。つまり、「気」は単に個人の体内のみに留まるのではなくて、体外に全方向へと発信されるエネルギーであり、また受信者との関係において双方向にも作用するものであるがゆえに、コミュニケーションという世界において、大変意味のあることになるということに気がつかなくてはならないと思います。「気をいれて仕事をしなさい」、という言葉には、「コミュニケーションをしっかりとって仕事をしなさい」という意味をも含むのだと考えます。

 

 

 

 

【「気を入れて仕事を行う」具体例】

 

 「気を入れて」仕事を行うということに関連して、私が親しい知人からお聞きした興味深い話をご紹介したいと思います。

 

 私と1996年以来面識のある伊東豊雄先生という日本を代表する建築家の方がいらっしゃいます。最近では、「子ども建築塾」という、10歳~12歳くらいの子どもを対象としたワークショップも行われているそうです。(文芸春秋2011年7月号81頁)

 

 さて、伊東先生は、「一本の線を手書きで書くということは、『気持ちが出る』」とおっしゃっています。そして、「若い人は『気持ちが出る』ことを怖がり、恐ろしがります。」とおっしゃっています。それ故に、伊東先生の事務所の入所試験は、手書きで一本の線等の図面を書いてもらい、それを持ってくることがまずは条件だそうです。その一本の線から湧き出る「気」から、入所希望者の人となりや、意欲等といった「気」を判断したいため、CADなどコンピューターに頼った図面は入所試験の前提として採用していないそうです。

 

 設計図は、その図を書いた建築士だけのものではなく、また単なる紙きれではなく、その図を見る人、つまり建築を依頼した人や、実際にビルや家を建築する現場の人等沢山の関係者の気持ちを伝え、その関係者の気持ちに応えることができる大事なツールだからです。ですから、伊東先生のお話しの通り、コンピューターではなく、手書きでの設計図を入所試験に用いるということは、「気」のコミュニケーションで展開する設計という場面においても、重要なことだと思います。

 

 

 

 

 

【気配を伝えるべく「気を入れる」ことが芸術家の仕事】

 

 7月2日、私が20年ほど前からささやかに支援している成田禎介先生とともに、東山魁夷先生の処女作とも言うべき『道』の現地に赴くため、青森県八戸市の種差海岸を訪ねました。種差海岸では、写真も何枚か撮影しました。『道』の現地は、まさに典型的リアス式海岸に面していましたが、『道』では、これは描かれず、これにまさに隣接していた道が描かれたものです。東山先生は、この道を歩み続けることがご自分の画業だと悟り、この作品を発表されたのではないでしょうか。要するに、美しく変化に富んだ海岸縁ではなく、それに隣接した一本の道を描いたことで、東山先生が生涯をかけて画業に生きるというご自分の決意を表明されたのでしょう。

 

 さて、成田先生は、美術の大学に入学せず、勿論卒業歴もなく、言わば独学で風景画の大家になった方です。「絵は現場で描くよりも、アトリエで描いた方が良い」とおっしゃっていました。現場で描くと現場の風景の美しさに引き付けられすぎて、のめりこんでしまい、酔ってしまうからだそうです。成田先生は、現場でのデッサンを基に、心に抱いた美意識を発酵させた上で、アトリエで描くというのです。それによって、絵に自分自身の個性が映し出されることになるのです。「発酵」とは、私は「気」の働きだろうと思います。

 

 「発酵」とは、科学的には「酵母などの微生物が嫌気条件下でエネルギーを得るために有機化合物を酸化して、アルコール、有機酸、二酸化炭素などを生成する過程」のことだそうですが、「発酵」についてインターネットで検索してみたところ、「イヤシロチでは、発酵が進み、ケガレチでは腐敗が進むといったことが起こる」という記事を見つけました。

 

 「イヤシロチ(弥盛地)」とは、最近では小生の知人である船井幸雄先生のご著作で言葉としても一般的にも普及してきたそうですが、「生命力が盛んになる土地」のことだそうです。また、「ケガレチ(気枯地)」とは、「気」が枯れた土地のことだそうです。つまり、発酵には「気」が必要で、「気」がないと発酵ではなく腐敗してしまうということだそうです。こういったことから、美意識を発酵させ作品を作るためには、「気」というエネルギーが非常に重要であるのではないでしょうか。

【参考】

http://www.yajimaminoru.com/article/13825026.html

http://www.igakutogo.com/narasaki.html

 

 

 成田先生は、「自然は、人間を乗り越えて創造されているものだ」という気配を感じて、それを発酵・熟成させることが絵の魅力に繋がるというお話をしてくださいました。絵を見る人が、その気配(明確ではないけれど何となくそのような感じがすること)を感ずることができるような作品にこそ魅力があるということです。

 

 私は、ある日本画の大家と言われていた作家について、物故になれば、まったく画料だけのものになって事実上無価値になるというお話をしてきました。それは、その作家の絵には「気配」がなかったからです。この話は、私の社長フォーラム(1993年5月~2007年7月、計127回にわたって開催)に出席していた多くの方が聞いておられますが、その作家をヨイショしていた画商は、本心良心のない画商だといえるでしょう。勿論、その画商も本物の絵でもないのに本物の絵として売り込んだ、すなわち美でないものを美として売り込んだ責任があり、それは地獄にいくに値するものであろうと思っています。地獄にいくということは、宇宙との絆を生きている間にどこかで切ってしまっている方であるということです。

 

 これらのエピソードには通ずるところがあると思います。図面にしろ、絵画にしろ、「気を入れて」「気持ちを入れて」「思いを込めて」美意識という気配を伝えるべく書き、または描き、その「気」や「思い」等が作品に込められ、それを見た人に感動・感銘を与えることが出来るのだと思います。「気は心」という所以ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

【弁護士として「気を入れて」仕事するために私が注意していること】

 

 弁護士も「気を入れて」仕事をしなければならないのは言うまでもありません。「気を入れて仕事をする」というのはどういうことかと言えば、裁判官に当方の「気」が乗り移ること、そして相手方の依頼者と相手方の「気」を削ぐことが目的です。削ぐ為には、当方が良心に従って「気を入れて」仕事に励む必要があります。

 

 「良心」については、当ブログ内ですでに繰り返し述べてきましたが、憲法にある良心の意味として、「真・善・美」・「夢・愛・誠」であると述べました(詳しくは、『地震』の第10回(5月13日付)及び第12回(5月20日付))。しかし、実はそれだけではなく、「義理」・「人情」に生きて、(自己)規律を負うという姿勢も良心には必要でしょう。

 

 弁護士はとかく責任転嫁ということに走りやすいですが、それでは、良心に従ったことにはならない、と言うことを肝に銘ずるべきです。要するに、「気」が乗り移る、相手の「気」を削ぐということは、当方の良心が相手を負かすということです。これは、裁判官が「なるほどな」と思うことであり、相手方が当方の言い分も「もっともだな」とほんの一部でも感じ入りさせるということです。

 

 このためには、「気を入れて」書面を作る、「気を入れて」弁論(発言)をする「気を入れて」交渉をするということが大変大切であり、それには何と言っても、単眼で行うだけではだめで、複眼で事態を飲み込み、当方の有利なルート・チャネルを開発していくことが必要です。

 

 弁護士たる者は、単眼でなくて複眼であるべきで、すなわち、人間としての広く深い幅と洞察力、あるいは見通し、さらに弱々しく言えば予測を意識して対処しなければならないのです。

 

 かかることは弁護士だけではなく、およそ仕事をする者は、「気を入れて」仕事をしなければならないのは言うまでもありませんが、人間としてのより広く深い幅等を、自ら築き上げることに努めることが必要でしょう。

 

 次回以降も「気」をテーマとした記事を投稿していく予定です。

 

 高井・岡芹法律事務所
会長弁護士 高井伸夫

(次回に続く)

気苦労


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 (2011年7月2日午後13時33分 青森県八戸市 種差海岸にて撮影)

 

上掲写真の撮影地である種差海岸は、下北半島から続く砂浜の海岸線と、三陸海岸のリアス式海岸の交錯する位置にあり、荒々しい岩や大きな砂浜、天然の芝原のある風光明媚な景勝地であり、1937年に国の名勝に指定されています。

この種差海岸には多くの文学者や芸術家が訪れ、詩人の佐藤春夫は「日本一の散歩道」とたたえ、同じく詩人の草野心平は種差海岸の海に上がる満月をいたく気に入り「ザボンのような月」と評しました。また、小説家、ノンフィクション作家、評論家の司馬遼太郎は「どこか宇宙からの来訪者があったら一番先に案内したい海岸」と表現しています。

 【参考】「名勝県立自然公園 種差海岸に咲く花々」(石津正廣著・発行、2004)

 

 

 6月17日より「気」をテーマにブログ記事を投稿していますが、今回も、「気」に関連した記事を投稿しようと思います。

 

【気苦労】

 弁護士は、絶えずトラブルを持ちこまれ、それを解決していかなければなりませんから、「気苦労」が絶えません。

 

 さて、この「気苦労」とは何でしょうか。「気苦労」とは、「あれこれと気がねや心配りをする苦労。心痛。」(広辞苑第4版、三省堂)というものです。「気苦労」が絶えないということは、自分の「気」という精神エネルギーを必要以上に消耗してしまい、つまり相手に「気」を吸いとられてしまうということでしょう。

 

 「気苦労」の反対語は、「気楽」「①苦労や心配がなく、のんびりしているさま。②物事にこだわらないこと」(広辞苑第4版、三省堂)ということです。

 

 植木等の「ドント節」(1962年発売)という曲がありますが、「サラリーマンは気楽な稼業と来たもんだ 二日酔いでも寝ぼけていても タイムレコーダーガチャンと押せば どうにか格好が つくものさ」と「サラリーマンが気楽な稼業」である理由の一つを歌っています。この曲が発売された1962年といえば、1964年に東京オリンピックが開催されることにともなって、東京首都高速道路(1962年12月に1号羽田線・京橋~芝浦間が開通)や東海道新幹線(1964年10月1日開業)などの交通整備や、日本武道館(1964年10月3日竣工)などの競技施設の建設需要が高まったことなどを背景として景気が拡大したいわゆる「オリンピック景気」(1962年11月~1964年10月)といわれる右肩上がりの時代でした。歌やファッションなどがその時代ごとに変遷しているように、「気」も単なる個人の問題ではなく、環境や社会情勢等によって大いに左右されるものであるため、この時期は皆の「気」が充実し、社会全体が熱気やエネルギーにあふれていたのではないでしょうか。

 

 ところで、この曲で描かれているサラリーマン像は、いかにもいい加減で無責任な人物のようにも思えますが、この「いい加減」は「良い加減」とも解釈できます。つまり、「気楽」というのは気の加減が良い、つまり気のバランスが良いということではないでしょうか。「気楽」は、東洋医学では「病気」の反対語としても使われているそうです。それを踏まえると、「気苦労」は病気の原因になり、特に、「鬱の状態」になるなど、メンタルヘルス上の問題に結び付くものでしょう。「鬱の状態」は、東洋医学では、体の気のエネルギーのめぐりが悪くなることから「気滞」と呼ばれるそうです。

 

 

 

【弁護士にとって何が一番「気苦労」か】

 

 さて、弁護士にとって、証人尋問の時が一番「気苦労」な時ともいえるでしょう。相手がどんな証言をするかということの可能性を絶えず意識しながら、反対尋問をしなければならないことが、一番肝腎要(かんじんかなめ)の気苦労が多いところです。

 

 この「気苦労」を考えれば、相手より人間的な幅が広く深くなければ、とても太刀打ちできないということを知るべきでしょう。「気苦労」を感じないためには、実は相手より人間的な幅が広く深いことが必要です。要するに、相手と人間的な幅の広さや深さが同等であったならば、「気苦労」が絶えません。少しばかり相手より人間的な幅が広く深くても、同様です。「気苦労」を克服するには、相手方と比べて人間的な幅がはるかに上回っていることが必要なのです。そうすれば、相手方の意図を的確に見抜くことができます。そういう意味において、単に頭の良し悪しだけでなく、人間的洞察力が必要となってきます。感情的な人、すなわち、苦しまぎれになった時に、喜怒哀楽の激しい人はだめです。本質的に平明な精神の持ち主のみ、相手との「気苦労」を克服することができるのです。

 

  「人間的な幅」というのは、結局は、人格・識見・手腕・力量・多芸・多趣味ということに尽きます。これらの幅が広く深いほど、人間的な幅が広いということになります。

 

 弁護士に限らず、どの組織でも、仕事をしていると、気苦労が絶えないことがよく起こりますが、このことはなにも反対尋問の場面だけの話ではなく、取引、折衝、交渉などの相手方と対峙する局面において発揮されることです。

 

 

【部下への「気苦労」~気が弱い、気が強い】

 さて、弁護士に限らず、どの組織でも、仕事をしていると生じる「気苦労」の代表としては、例えば部下との関係が挙げられると思います。よく出来る部下を持つと気が楽になり、出来ない部下を持つと気苦労が絶えません。部下は上司が楽になるようにすること、気楽になるようにすることが大事な所以です。簡単に言えば、良き部下とは、上司を楽にする存在であるということです。それは、上司が部下に気を遣わず、逆に部下が上司の気を強める働きをするからです。

 

 また、仕事をしていると、「あの人は気が弱い」とか「あの人は気が強い」ということを意識することが多くあります。部下には、気が強い人も、気の弱い人もいます。そういう極端に「気が強い」「気が弱い」人、例えば喜怒哀楽が激しい人と一緒に仕事をすると、こちらの気力が奪われて疲れてしまいます。仕事をする社会人にとって平明な精神が必要とされる所以です。

 

 上司に恵まれる、部下に恵まれるという言葉がありますが、こういった「良い上司、部下」とは、平明な精神を持った穏やかな「気が弱くもなく強すぎもしない」人物なのです。

 

 気の弱い人は意思表示をはっきりせず、本音が分からないため、その本音を探るために相手にエネルギーを費やせてしまい、相手に焦燥感や苦痛感を与えてしまいます。気が強い人は、我見、我執が強く、意見がぶつかり合うため、仕事がスムーズに運ばなくなります。企業活動は組織的活動であり、構成員間の協調がもっとも大切ですが、この「協調」とは、気を合わせることを言うのです。

 

 

【気苦労の解消方法、「気が弱い人」「気が強い人」への対処方法】

 

 仕事で気苦労が絶えないからといっても、社会生活を送る以上、仕事を続けていかなければならないのですから、「気苦労」を克服しなければなりません。それには、まずは、「気が弱い人」「気が強い人」へは、どのように対処していけばよいのでしょうか。

 

 「気が弱い人」をリードするにあたっては、こちらの気を強くしてリードするべきです。また、「気が強すぎる人」に対しては、こちらは気弱に対処するべきでしょう。「気が弱い人」に対し、気弱な対応をすると、「気が弱い人」はあまりに迷ってしまって結論を見い出せないことになってしまいます。また同様に、「気の強い人」に対して気の強い対応をすると、「気の強い人」は沸騰してしまって、適切な結論を得られないことになってしまいます。

 

 本質的に、「気苦労」をする相手や、気の強い人・気の弱い人と対峙する場合、当方が平明な精神をもって対峙することが必要ですが、それには相手方にふりまわされないで、当方が平明な精神をもっていくことが肝要であると思います。もちろん確信をもって望まなければならないことは言うまでもありません。そして、真摯に対応することが必要です。真摯に対応するとは、生真面目さということが何より大切な資質として要求されるということです。

 

 このように、「気」の世界においては、真摯に対応するということが必要ですが、これは気苦労を克服するには当方の精神面によるしかないということです。すなわち、「気」に対峙するには、平明な心、平明な精神で対峙する他ないということです。

 

 さて、「平明な精神」「平明な心」など、心の持ちようの望ましい例としては、中国の様々な古い文献にも表れています。

 

 

 

I.「論語」<孔子(紀元前552年~紀元前479年)の言行を記録したもの。>

君子は坦(たい)らかに蕩蕩(とうとう)たり。小人(しょうじん)は長(とこしな)えに戚戚(せきせき)たり。

<対訳>君子は、どんなばあいでも、心が平らでのびのびとしている。小人は、たえずくよくよしている。信じるところに従って常の道を歩いている者と、いつも不満で、後悔と危惧をいだく者のちがいだ。)

 

II.「孟子」<孟子(約紀元前372年~紀元前289年)とその弟子たちの言行録。>

志(こころざし)は、気の帥(すい)なり。

<対訳>志は気の将帥である。思想が確立しており、精神がしっかりしていれば、おのずから元気も気力も出てくる。

 

III.「大学」<儒教の経書(儒教でとくに重視される文献の総称)の一つ。南宋以降、「中庸」「論語」「孟子」と合わせて四書とされた。もともとは「礼記」(周末から漢代に至る儒学者がまとめた礼に関する書物をまとめたもの)の一篇であった。だれの著作であるか、古来まだ定説がない。>

心広く体(たい)胖(ゆた)かなり。

<対訳>徳をそなえ、内に省みてやましいところがなくなると、心はいつも広くなり、からだもゆったりとした落ちついた態度になる。徳が身をうるおした(=徳を多く積んでその人の品格が高くなった)人の姿である。

 

IV.「淮南子」<前漢・武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年~紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。>

陰徳(いんとく)ある者は必ず陽報(ようほう)あり。陰行(いんこう)ある者は必ず昭名(しょうめい)あり。

<対訳>人知れず善行を積んだ者には、必ず天があらわに幸福を報い授ける。また、隠れた善行のある者は、必ずいつかは輝く名誉があらわれてくる。  等々。

 

【参考】各文献の書下し文及び解説文

『中国古典名言事典』(諸橋轍次著、講談社、1972)

 要するに、これらの文献からも読み取れるように、中国においてはまさに精神的領域がとりわけ大事で、それから学問なり文化が発展していったのではないでしょうか。

 

(次回に続く)

胸騒ぎの解消法...『気づき』


20110701.JPG

 (2011年6月30日 朝6時43分 東京都目黒区 中目黒公園にて撮影)

 

【「直感」「第六感」「霊感」とは?】

 

 前回6月24日付の記事で、「胸騒ぎ」の解消方法は、「胸騒ぎから逃げず、胸騒ぎに立ち向かって、それを克服する術をまさに直感的に悟ること」とお話しました。この「直感的に悟る」ことを私は「気づき」と呼んでいます。「気づき」とは、「気づくこと」ですが、「気づく」とは「ふと、思いがそこにいたる。感づく」(広辞苑第4版、三省堂)という意味です。

 

 直感は「説明や証明を経ないで、物事の真相を心で直ちに感じること」(同)を意味し、第六感とは、「五感のほかにあるとされる感覚で、鋭く物事の本質をつかむ心の働き」(同)を意味します。

 

 さて、第六感、直感の類義語としては「霊感」という言葉が挙げられています。「霊感」とは、なんでしょうか。「霊感」とは、「人間の霊の微妙な作用による感応。心にピンとくる不思議な感じ」(広辞苑第4版、三省堂)を意味します。中村天風(1876年~1968年、日本初のヨーガ行者)についての書籍「中村天風 銀の言葉」(岬龍一郎著、ワニの選著KKベストセラーズ、1995)によると、霊感は霊性意識の中でも「特に高度なもので、五感を超越しているところから『第六感』と呼ばれて」おり、「本来、人間として生命を得た以上は誰しも、この霊感を持って」(201頁)いるのだそうです。霊感とは、宇宙に存在する陽炎のごとき人間を、宇宙と結合させる、へその緒のようなものであると思います。つまり、霊感は、人間が宇宙と交信するための一端を担っているものだと私は考えています。

 

 なお、中村天風は、霊性意識という概念につき、「霊魂から生まれる意識で、簡単にいうなら『本心良心』を根源とする意識のこと」(197頁)と述べています。「本心」とは「良心」のことで、「良心」とは「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」(広辞苑第4版、三省堂)のことです。宇宙と人間との、見えない交信状態を指すものだと私は考えています。生物としての人間が、長い間生きながらえてきたのは、霊性意識があったからでしょう。

 

 そして、私はこの霊性意識を日本国憲法でいうところの「良心」のことであると理解しております。この「良心」についての解釈は『地震』の第10回(5月13日付)及び第12回(5月20日付)で明らかにしましたが、「真・善・美」を求める心と「夢・愛・誠」としています。その内実は霊感であって、宇宙に存在し続けるために、宇宙からはずれないために、それは人間として務めるべき核心ではないかと思っています。

 

 さて、五感を総動員して思考を重ねても、答えがでないということが良くありますが、その場合に、一度、その案件を思考から手放した時に、ふと思いがけない答えを得ることがあります。これはまさしく、宇宙にある「気(霊魂)」から生み出された霊性意識、霊感という第六感によるものでしょう。

 

 第六感から生み出された「胸騒ぎ」を解消するためには、五感を総動員するだけではだめで、第六感である「気づき」の感性をも磨くことが必要です。そのためには、例えば、弁護士たる私として引き受けた事案の推移とともに、「胸騒ぎ」が強弱する度合を意識して仕事を進めることが、「気づき」につながります。この感性が高まれば対応の必要性に迫られ、具体的な対応策が見えてくるのです。

 

 

【「気づき」の感性を磨いて「胸騒ぎ」を解消】

 

 ところで「胸騒ぎ」を的確に感じない人、また「胸騒ぎ」を感じても克服の術が全く思い当たらない人もたくさんいます。つまり、「気がつかない人」ということです。事の推移を見通すことが出来ない人によくみられる傾向のようです。これは何も弁護士の世界だけでなく、どんな業種にも言えることですが、仕事において優秀な人は「胸騒ぎ」を鋭く感じ、優秀でない人は胸騒ぎもせず気がつかない人のことをいいます。

 

 では、「気づき」の感性、すなわち第六感や霊感を高めるためにはどうしたらよいのでしょうか。私が提案する具体的な方法としては、下記の通りです。

 

  1. 「胸騒ぎ」という漠然とした不安感に苛まれているだけではダメで、気になることは必ずメモに書き留めて分析をし始め、解決を目指す手立てにつき優先順位を決める習慣を身につけることも、一つの方法でしょう。このように、メモをすることによって、胸騒ぎが自分から半ば離れて客体化し、新しい「気づき」を得ることが出来るのです。それは、「胸騒ぎ」すなわち不安な点をメモをすることによって、それから少し解放され、「気づく」ことになるのです。
  2. 思考を重ねても答えがでないとき、その場合に、一度あきらめて、その案件を思考から手放した時に、ふと思いがけない答えを得ることは先に述べた通りです。例えば、打ち合わせの途上で、一度トイレに立つと、ふとして新たな解決の手順や解決の方途に気づくことがあります。これは、一度考えを自分の頭から手放すことによって、無という状態に至ることが可能となり、この時に「気づき」に至るのです。
  3. 不明点等は、その場で直ちに調べる癖をつけると、自分のスキルの発揮度が広がることになります。これは、私が仕事に限らず生活上常に心がけていることですが、何事も「すぐ実行する」ことが大切だということにもつながります。
  4. どんな時でも、「仕事を前倒しに行う」こと、そして「一拍おく」ことが大切です。弁護士の仕事のひとつに書面作成がありますが、弁護士に限らずどんな書面であっても、作成者には責任が生じます。そこで、書面を作ったらすぐ発信するのではなく、まずは読み合わせをすることが必要です。読み合わせでは、ただ読み返すだけでなく、その書面を発信することでどんな責任が生ずるかを自ずから確認します。実務では、前日に書面を作成しておいて、一夜おいて朝になってから、書面を発信するのです。そうすることで、落ち着いた気持ちで、すなわち落ち着いた文面での文書を発信することができます。いつも追われて仕事をしていたのでは良い仕事はできません。また、さらに一夜おいて朝にそれを読み返すと新しいことを着想することがあります。朝こそ頭が冴える時間であるからです。「前倒し」で前日に仕事を終えているからこそこの効果が得られるといえるでしょう。このように、「気持ちに流されず、気持ちをもって(維持して)仕事をすること」、「気持ちを入れること」を旨として下さい。

  5. 全て順風満帆に感じられ、問題なく感じられるときには、「胸騒ぎ」につながりそうな材料を積極的に探すことが重要となります。つまり、アンテナ(「気」)を張り巡らせて、警戒信号を見つけ出すのです。これが「備えあれば憂いなし」ということになり、弁護士としての安堵を得ることになるのですが、依頼者に対しては、「気になること・苦になること・気がかりなこと」を確認するという手続きを毎度進めることもそれにあたるでしょう。そして自分自身は、「胸騒ぎ」がするか否か、またはその程度如何をたえず探り、もし感じなければ積極的に探すことが、状況の把握と、それを踏まえての問題解決・解消の近道なのです。
  6. 同じ考え方・感じ方・思い方をする人ばかりが集まって仕事をしていては、発展性や柔軟性に乏しく、様々な「気づき」を得ることができません。それでは組織としての力も弱くなるのです。かつて私が北朝鮮にお邪魔した際に、リンゴの苗木を送る約束をしましたが、それを果たすために青森県黒石市まで行って、株式会社黒石植物園という会社を訪ね、リンゴの苗木について色々教えてもらったことがあります。「同じ品種の苗木ばかりを並べて植えてはいけない。異品種の苗木も混ぜて植えることが、苗木を丈夫に上手に育てるコツです。」と教えていただきました。人間も同様で、異なる議論のできる異分子を入れることによってお互いに「気づき」が生まれ、成果を上げることが出来るでしょう。

 

 このように、物事を成功させるためには、第六感をフルに研ぎ澄ませ、「胸騒ぎ」と「気づき」をフルに発揮して、何らかの対策・対処方法を思いつく・考え出すという行為こそが大切なのです。こうした創意工夫をすることが、結果として懸念事項を少なく小さくし、トラブル解消につながるのです。

 

 主に弁護士について述べてまいりましたが、この「胸騒ぎ」とその解消方法である「気づき」は、先ほど申し上げた通り、どの業種・業界に属する方にも、同じことが言えます。「胸騒ぎ」に、的確に鋭敏に気づき、そしてそれを克服する術を備えることは、優れたビジネスマンにとっては必要不可欠なものです。

 

 次回以降も、引き続き、「気」に関係する実践的な記事を投稿していきたいと考えています。

(次回に続く)

「胸騒ぎ」


20110624.JPG(2011年6月21日午後15時15分 静岡県沼津市 小生知人ご自宅付近にてペチュニアを撮影)

 

 

 6月17日付「気」に関する第1回のブログで、宇宙にある「気」なるものについて述べましたが、私は、かねてから東洋医学の基本概念であり、中国思想全体を通じてもっとも重要な概念の一つである「気」、それと関連して「波動」や「微弱エネルギー(サトルエネルギー)」について、以前から興味をもっていました。これらは、なかなか分かりづらいテーマであって、表現することが難しいことですが、前回に引き続き、私の弁護士としての仕事を通じて理解したところを、稚拙ながらもブログ記事としてまとめていきたいと考えています。

 

 まずは、私の弁護士としてのノウハウの一つである「胸騒ぎ」とその解消方法である「気づき」について、触れたいと思います。「胸騒ぎ」、「気づき」は、弁護士に限らず、どの業種・業界に属する方にも、共通の事象かと存じますから、大いに参考にしてください。

 

 

 

【「胸騒ぎ」とは】

 トラブルに遭遇しそうなとき、そして現に遭遇したとき、多くの人は「胸騒ぎ」を覚えます。

 

 私は、弁護士として、裁判手続きを進めているうちに、特に、裁判官とやり取りをした後に、「胸騒ぎ」を覚えることがあります。つまり、私の依頼者にとって不利益な結論を、裁判官が心証として抱いているのではないか、という局面で「胸騒ぎ」を覚えます。勿論、団体交渉でもそうです。交渉の相手方との折衝で「胸騒ぎ」があるとき、すなわち不安を予知して、心が穏やかでなくなるのです。例えば、折衝・交渉の途上において、「組合はストライキを行うことを内心決意しているな」と感じた時です。

 

 この「胸騒ぎ」は、相手の心を直感で感じることなのですが、実は、相手の「気」という微弱な電気エネルギー(波動、一種の警戒信号のようなもの)が当方に伝わって、いささか大げさに言えば、当方の心をかき乱すのではないかと思っています。かき乱すというほどの大げさな表現ではないとしても、当方の心に乱れが生ずるというものではないかと思います。(よって、相手にこの「胸騒ぎ」を招かせないよう、無表情で内心を顔色に表さない「ポーカーフェイス」で交渉にのることは、すぐれた交渉担当者の常套手段といえるのではないでしょうか。)

 

 人間は頭部、胸部、腹部にかけて、身体の中心線上に7つの経絡に重なる位置に、「チャクラ(サンスクリット語で『車輪・円』を意味するそうです)」というものがあります。チャクラは、人間の精神的エネルギーの中枢を司り、そこに気が集まるという機能があるそうです。チャクラを用いて説明すれば、「胸騒ぎ」は、「ハートのチャクラ」(心臓、循環器系、肺、肩、腕、あばら骨、乳房、横隔膜、胸腺)の反応ということになります。生物は、どんな生物でも全身センサーだらけです。第五感まではもちろんのこと、第六感(=直感そして霊感〔霊性〕)もそのセンサーの対象に入っています。魚のエラは、ガス交換、浸透圧調節、アンモニア排出など多様な機能をもっており、魚類の最も重要な呼吸器官の1つです。このエラは、人間の「胸腺」にあたります。「胸腺」とはあまりなじみのない臓器ですが、身体のほぼ中央で胸骨の後ろ、心臓の前面にある小さな臓器です。「胸腺」は、特に人間の幼少期において、身体の免疫をつかさどる重要な働きをもっているとされています。ハートのチャクラは、誰かの想いや愛情感覚を受け取ったりするテレパシー感覚、よい想いだけでなく絶望、憎しみ、うらみ、そして恐れなども受け取る役割をしているそうです。「胸苦しい」という言葉がありますが、これはまさに胸腺が収縮し、負の感覚を受け取り、閉塞状態にあることを示すのではないでしょうか。「胸騒ぎ」の反対用語として、「胸のつかえが下りる」「胸を撫で下ろす」「胸が躍る」「胸ときめく」という言葉がありますが、これは胸腺の閉塞状態とは反対の、解放の状況を示していると思います。(尚、アトピー性皮膚炎という病気がありますが、胸腺の病気と理解するのが優れた医師の判断でしょう。)

 

 また、辞書を引いてみると、「胸騒ぎ」とは、「心配・驚き・凶事の予感などのために胸がどきどきして心の穏やかでないこと」ですが、これは「虫の知らせ」=「何の根拠もなく、何か悪いことが起きそうな予感を感じること」(広辞苑第三版、三省堂)とほぼ同意義です。要するに、「胸騒ぎ」と「虫の知らせ」というのは、トラブル等を「予知」することですが、これは五感以外の感覚、第六感を通じて行っていることでしょう。(第六感については、次回以降でまたお話しします。)

 

 つまり、「胸騒ぎ」は、今後の展開がおもわしくない時、あるいは今後の展開が読めないことへの不安感を「(ハートの)チャクラ」すなわち気を通じて相手の気を第六感で受け取って予知している兆候であり、このいやな感覚を払しょくして克服することこそが、トラブル解決への道となるでしょう。

【参考】

・http://www7.plala.or.jp/bumboo/amulet/4/cha4.html

 

 弁護士は、裁判といういわば“トラブル”に日々直面することが仕事ですが、重要なのは、担当する事件の事実関係や法的考察に関する「胸騒ぎ」を迅速・的確に感じ取って、対処のための正しい方向性を発見することです。先に述べた通り、「胸騒ぎ」は自分に発せられた一種の警戒信号ですから、事態を直視し、これを早いうちに解決する必要があります。「胸騒ぎ」が強まる状態は、ストレスをもたらすのみならず、問題点がそのままにされ、不安がつのり、一層自分の判断に「冴え」がなくなり、それに伴って殊更に疲労を重ね、蟻地獄のような状況に陥って、勝ちぬくどころか致命的な敗北を喫する危険すらあります。

 

 「胸騒ぎ」に備えて、「胸騒ぎ」を消す方法を工夫するのが弁護士としての務めなのです。その工夫する方法は、依頼者に不利な方向ではなく、有利な方向にむけて創意工夫をするということです。いわば、「胸騒ぎ」から逃げず、「胸騒ぎ」に立ち向かって、それを克服する術をまさに直感的、第六感的に悟ることにあります。「直感的、第六感的に悟る」ことを私は「気づき」と呼びますが、次回は、この胸騒ぎの解消方法「気づき」についてお話しします。

 

(次回に続く)

宇宙に存在する「気」


20110617.JPG(2011年6月16日朝6時44分 東京都港区 有栖川宮記念公園にて撮影)

 

【宇宙に存在する「気」】

 約137億年前にできたといわれている宇宙に、地球は46億年前誕生したといわれています。そもそもその宇宙は、無限に広がるという説もありますが、実は無限ではなく有限であるという解釈が定説です。つまり、宇宙は膨張をし続けているのですが、やがて縮小に転換し、最終的には終末に至るのだそうです。

 

 これは、「宇宙の終焉」理論として、宇宙物理学の分野で、様々な研究がなされ、議論されてきたことです。

 

 まず、宇宙にあるどんな星も中心核と外層のバランスが崩れて膨張しつづけ、ついには赤色巨星になります。その後最終的には自身の核エネルギーを使い果たして、超新星爆発が起こるということです。星の外層のガスは衝撃波によって吹き飛ばされ、星は一生を終えるそうです。

 

 たとえば、太陽は今から50億年後に核エネルギーを使い果たして燃え尽きるといわれていますが、そのとき地球がどうなるかははっきりわからないということです。おそらくドロドロに燃えてしまうようです。

 

 現在、地球周辺で近いうちに超新星爆発を起こすと予測されている星は、さそり座のアンタレス(Antares)と、オリオン座のベデルギウス(Betelgeuse)だそうです。アンタレスは、夏の南の空に赤く輝く1等星ですが、直径は太陽の600倍ないし800倍で、非常に大きな赤色巨星で、地球からの距離は約550光年です。ベテルギウス(平均等級 0.58等の変光星)は、地球からの距離は約640光年ですが、質量が太陽の約20倍もあります。ベテルギウスが超新星爆発を起こした際には地球にも何らかの影響が出ると言われているそうです。

 

 そして、10の14乗年後(100兆年後)になると、銀河中のガスはほとんどなくなり、新たな星が生まれなくなり、宇宙には輝きのない星とブラックホールだけの暗黒世界になり、宇宙も終焉を迎えると言われています。

【参考】

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/report/?id=20091201-90007962-r25

 

 

 こういった「宇宙の終焉」に関係して、日本の古典では「明月記」(鎌倉時代の公家藤原定家の日記。定家が1180年から1235年までの56年間にわたり克明に記録した日記)に書いてあります。藤原定家がまだ生まれていない時期の出来事を書いたものですが、1054年(天喜2年)の夏の夜、「オリオン座の東、おうし座の近くに客星(かくせい)が現れて、木星のように明るく輝いた」(現代風に意訳)とあります。客星とは彗星や超新星のように、突如として出現するものを意味するそうです。ちなみに、おうし座の客星は大爆発の後、かに星雲(M1)として存在します。

【参考】

http://www.tdk.co.jp/techmag/museum/museum51.htm

 

 

 さて、この「M1」といった記号について少しご説明します。シャルル・メシエ(1730年~1817年)というフランスの天文学者は、彗星の発見に没頭しましたが、その中で彗星と見間違うような星雲、星団に番号を付して、これと区別をしました。メシエの頭文字であるMを星雲、星団の頭につけました。有名なものとしては、M31=アンドロメダ星雲、M45=プレアデス星団(和名はスバル)などが挙げられます。ウルトラマンの故郷として知られるM78星雲は、オリオン座の中に存在しています。このように、星雲、星団にメシエの番号を付したものを「メシエカタログ」といい、メシエの生前に出版されたカタログには103個が収められていましたが、その後、助手のメシャンによる追加などがあり、最終的には110個になったようです。

【参考】

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B0/

 

 少し話がそれましたが、このように、宇宙は、誕生し、成長し、成熟し、そして縮小し、黄昏を迎え、最終的に死に至るものです。

 

 人間は、生物体として宇宙に存在する以上、宇宙の一つの構成物であり、宇宙と一体ですから、およそ人間は、この有限である宇宙に存在する小さな一つの存在として、宇宙と同様に、全て有限であって、「死」の世界に直面しながら生きるのです。人間の誕生から死までを大まかにたどってみると、まず人間は卵子と精子が結びついて胎児になり、そして成長し、成熟し、枯れ始め、黄昏れ、そして死を迎えますが、これは宇宙と同じなのです。ちなみに、人間が誕生するためには、女性が十月十日胎児を抱えることが必要ですが、それほどの長い間異物を体内に抱えることは、男性の生命力ではもたないでしょう。つまり、男性と女性では生命力が違い、つまりエネルギーが違い、その結果男性と女性の平均寿命を見てみても、女性の方が寿命が長いのです(厚生労働省の平成21年簡易生命表によると、日本人男性の平均寿命が79.59 歳であるのに比べて、女性は86.44歳と、6.85歳も違います)。

 

 また、宇宙に存在する物質を最小単位まで掘り下げてみてみると、原子核の周りを電子が回っている原子からできています。そこから波動が生じます。つまり、全ての物質は波動を出しているのです。先ほど全ての生物体はエネルギーをもつと言いましたが、波動エネルギーは、人間を含む生物体はもちろん、生物体たり得ない物質も持っているものです。言いかえれば、宇宙は波動エネルギーで出来ているのです(これは、アインシュタイン等によって量子力学が確立されたことで明らかになったことです)。

【参考】

・「波動整体療法」(本多和彦著、文芸社、2000)

http://ok-hado.ftw.jp/u24442.html

 

 

 このように、宇宙に波動エネルギーがあると同様に、人間にも波動エネルギーがあり、また、宇宙に存在する全ての物にも波動エネルギーがあるといわれています。先ほど男女のエネルギーの違いや寿命の違いについて少し触れましたが、エネルギーが違うということは、波動も男女で違うということでしょう。こういった波動の影響で、例えば色についても、男女は色が違って見えるのではないでしょうか。そして、東洋医学でいう「気」は、今の科学では客観的に数値化することができませんが、この宇宙に存在する波動エネルギーを「気」と称しているのでしょう。

 

 こういったプロセスや、「気」(波動エネルギー)については、何も人間をはじめとした生命体だけに言えることではなく、我々が扱っている政治でも、法律でも、経済でも同じことが言えるのではないでしょうか。すなわち、それは人間の産物だからです。

 

 

 東洋医学でいう「気」という概念を法の世界に当てはめてみると、気を張りすぎず、気づまりすることもなく、かといって、気後れすることのない「中庸の精神」(かたよることのない「中」を以て「常」の道をなし、易(か)わらないことをいう)を養うことが肝要かと思います。中庸は、人間にとって安定性こそが極めて大事であること、すなわちバランス感覚が大切であることを語っています。これを指導者、リーダーにあてはめて考えると、リーダーになればなるほど前に進もうとする力が強くなり、安定性を失いがちになりますが、それ故に安定性を保つことが大切であるということです。これは、気、バランス感覚を養い、自己管理ができることが重要であることを意味します。そのためには、まずは、政治でも、法律でも、経済でも、そこに流れる「気」は、バランスをもったものであり、それには、まずはおよそ私心を離れた世界のものであるということを十分意識する必要があるでしょう。

(続く)

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