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【交友録その16】 2012年1月(1)


 

今回の交友録では、2004年11月より親しくお付き合いさせていただいている有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様をご紹介いたします。

 

サンク・センスHP http://cinq-sens.jp/

 

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(有限会社サンク・センス 代表取締役 松浦 尚子様)

 

松浦様とは、2004年11月に初めてお会いいたしました。その経緯は、松浦様が主宰されていた「ワインシンポジウム」(一流の経営者・ビジネスパーソンがゲストスピーカーとして講演をし、ワインとチーズをいただきながら、親睦を深める会で、26回程開催。)に、私が親しくさせていただいている株式会社かんき出版最高顧問 境 健一郎様を通じて、松浦様が私をお招きしてくださったことがきっかけです。爾来、親しくお付き合いさせていただいております。また、1月6日付「歴訪記その11山形」にてご紹介した、有限会社登起波牛肉店 代表取締役社長 尾﨑 仁様は、松浦様のご主人様で、ご夫婦そろって、いつも親身にお気づかいをいただいております。

 

かんき出版HP http://www.kankidirect.com/

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

さて、松浦様の経営されるサンク・センスでは、ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等を行われています。ワインセミナーは、単にワインそのものの知識だけを詰め込むのではなく、教養・マナーの観点から、ワインを多くの場面で、国境や文化の垣根を越えた円滑な人間関係の構築に役立てるためのセミナーです。ワインという全世界で愛される飲み物が、人と人を結ぶコミュニケーションツールであるということを広く日本で認識されるようになってほしいという大望を果たすべく、以前には駐日フランス大使館主催事でのプレゼンテーターや六本木ヒルズクラブでのワイン講師、経営者を中心としたビジネスマン向けのワイン講演も数多くこなし、多くの雑誌でコラム連載も手掛けられ、日々精力的にご活躍されています。

 

松浦様は、神戸大学教育学部をご卒業され、教育・出版会社である株式会社福武書店(1995年4月にベネッセコーポレーションに社名変更)に3年間勤められた後、単身、フランスに渡ることを決意されました。これは、世界の権威であるボルドー大学ワイン醸造学部が主宰する、日本人では数少ない『ワインテイスター専門家』資格を取得し、日本でワイン教育を広めるためでした。

 

クラスメートは、有名なシャトーの醸造長、広報担当者等、かなりプロフェッショナルな方々が集う場所だったそうです。ボルドー大学は、テイスティング技術も教えながら、歴史、哲学、思想などを学べる幅広いカリキュラムがあり、松浦様の「ワインを通じて、感性を磨き、表現力を養える場所を日本で作る」という願いを叶えるに相応しい大学でした。(サンク・センス〈cinq sens〉という社名は、フランス語で五感、を意味します。)しかし、醸造学部では、外国人枠(留学生枠)があるものの、勿論授業は全てフランス語で、年3回、2時間の論文形式の筆記試験もあったということで、大変苦労をされたそうです。元々、大学でフランス語を勉強していたわけでないので、ベネッセコーポレーションを退社後は日本でフランス語を勉強、渡仏後はまずは語学学校に通され、3年目にボルドー大学に入られたということです。しかし、3年目にしてもボルドー大学における多くの論文試験を見事クリアされるということは、並大抵の努力が必要だと思いますが、松浦様は「言葉を学びにきたよりも、先にもっと大きな目標があること。例えば料理、お菓子、ワイン、フランスの芸術等々、フランス語が目的ではなくて『言葉は夢を叶えるための道具である』と考える人は、上達も早い気がします」とおっしゃっていました。松浦様は、フランス滞在中に、難関フランス文部省認定のフランス語資格試験DALFも全て取得されたそうです。

 

渡仏を決意された際の、松浦様の「大きな目標」とは、先に述べた通り日本で「ワイン教育」を広めることでしたが、そのような目標をもってしても、大企業を辞めて単身渡仏するということは非常に勇気のある行動です。そのバイタリティ溢れるエネルギーについて、松浦様にお聞きした所、「タイガー・ウッズのエピソード」と「上杉鷹山の名言」を座右の銘にされているというお話をお聞かせいただきました。

 

プロゴルファーであるタイガー・ウッズは、「常にパットは強く打つ」ということをポリシーにしているそうです。これは、「強く打って届かなければ、ホールに入るわけがない」ということです。上杉鷹山の名言「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」 は、有名な言葉ですが、「人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば、何事も達成に向かうのである。ただ待っていて、何も行動を起こさなければ良い結果には結びつかない。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ。」という意味です。

 

松浦様は、これらの言葉に触れて、「後悔する生き方は絶対にしたくない」ということがご自分の信念としてあることに気づき、単身渡仏という大きな一歩を踏み出したのです。タイガー・ウッズのエピソードは、その新聞記事をコピーしていつも手帳に入れていたそうです。幼いころから「教育」の道を進みたいとの想いがあった松浦様にとって、教育出版では最大手ともいえるベネッセコーポレーションで3年勤められたご経験は、大変貴重なものではありましたが、社内の異動などもあり、専門性を高めることは難しく、「自分にしかできない仕事をしたい、自分の代わりはいないというような仕事を極めてみたい」という想いがそれを後押ししたということです。

 

私は、「安定性」という美点ばかりを求め、「推進力」が欠けている日本人は多いと思っています。もともと、日本人は農耕民族ですので、安定性を好むがゆえに、推進力がないのは当然のことではあります。「安定性」と「推進力」は、本来的には並び立つものではありません。松浦様は、このことについて「頭でわかっていても、一歩を踏み出すことはなかなかできない。自分の今まで持っていたものを手放すのは怖いものです。でも、今まで持っていたものを手放さなければ、新しいものは得ることができない。『やろう!』と思わない限り、絶対に叶わないのです。」と分かり易く語られていました。松浦様は、「今はまさに、世界はアジア、欧米、そういった地理的括りのない密なものになっています。日本だけで物事を考えていては小さな考えになってしまいます。最初は、遊び気分、旅行気分でもいいから、まずは日本以外のところへ行ってみて、そこから海外に住んで学んでみたい、何かやりたい、という目標を見つければいいのでは」とおっしゃっていました。私は、今の青年諸君が、海外に赴かないという嘆かわしい状況を見るにつけ、日本人はまさにゾウの時間ではなく「ネズミの時間」になってしまったと思っています。海外雄飛という言葉が再度現代に躍ることはもう難しいかもしれません。しかし、これから、海外に日本の青年たちが積極的に赴き、世界に再びはばたき活躍してくれれば、黄昏社会となってしまった日本が、早晩立ち直ることができると思います。

 

さて、松浦様は、通算5年間フランスに滞在した後、2002年秋に帰国され、2003年4月に有限会社サンク・センスを設立し、代表取締役に就任されました。ワインセミナー、ワインCLUB運営、講演・執筆等数々の実績を積まれていますが、最近では、2008年9月に自宅で学べるDVDワイン講座「ビジネスワインマスター」をリリースされました。2010年4月には、白金高輪にワインショップ「サンク・センス ワインセレクターズショップ」を開業され、同時にWEBショップもスタートし、世界各国から300種におよぶワインを紹介されています。日本のワインの普及の手助けになれば、と、「○○フェア」と題して、地域ごとにお勧めワイナリーのワインを紹介されるフェアも実施される予定です。また、ご主人様のお店「登起波牛肉店」の米沢牛と、サンク・センスのワインとをコラボレーションしたギフトセットも大変好評を博しているそうです。

 

 

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「サンク・センス ワインセレクターズショップ」店内の様子

 

「ビジネスワインマスター」について http://cinq-sens.jp/bwm/

サンク・センス ワインセレクターズショップHP http://cinq-sens.jp/shop/

 

日本のワイナリーでお勧めをお聞きしたところ、「数多くあります」とのことで、その中でも特に、というものをピックアップしていただきました。

 

  1. 山形県上山市四ツ谷 タケダワイナリー  http://www.takeda-wine.co.jp/
  2. 栃木県足利市田島町 ココ・ファーム・ワイナリー(私もココ・ファーム・ワイナリーには昨年8月13日(土)に訪問いたしました。本ブログでも8月23日付記事にてご紹介しましたのであわせてご覧ください。)http://www.cocowine.com/winery/about.html
  3. 島根県雲南市木次町寺領 奥出雲ワイナリー http://www.okuizumo.com/

 

また、2011年4月には時間が不規則で決まった曜日に通えない方や、遠方の方の為に、「ホームワインスクール」という通信教育セミナーをスタートされました。DVDとCD、そして1ヵ月に2本ずつ、計12本の世界各国のワインが6ヶ月に亘って毎月1回届くそうです。通信教育は、開設して未だ間もないですが、北海道から九州まで、津々浦々の方からご注文を受けているそうです。

 

ホームワインスクールHP http://cinq-sens.jp/home_wine_school/

 

これからもどんどん充実されたいということで、例えば通信教育「ホームワインスクール」では、初級者向けのカリキュラムしかまだ準備がないとのことですが、次はシャンパーニュ、ボルドー、ブルゴーニュ、等、テーマ別のカリキュラムを作ってみたい、とおっしゃっていました。

 

松浦様ご夫婦はそれぞれに経営者でいらっしゃいますので、尾﨑様は山形県米沢市、松浦様は東京で、経営者として精力的に活動を続けられています。松浦様は、おふたりの0歳と4歳のお子様を保育園に預け、周りの皆さまの助けをいただきながら、仕事と子育てを両立されています。「大きな企業で、その会社の制度の中で働くよりも、かえって、自分が経営している分、色々融通が効いています。」とのことです。子育てと仕事の両立を不安に感じる女性も多いかと思いますが、松浦様は、好きなことを仕事にしていれば、おのずと家族との兼ね合いも上手くいくことが多いのではないか、とおっしゃっていました。社会では、「男性は仕事、女性は家庭」という価値観が未だに根強い気もしますが、女性がやりたいことをやり続けるということを実践し続ける松浦様のお姿に、共感し見習いたいと憧れる若い女性は多いのではないでしょうか。

 

これからの展望を快活にお話しされる松浦様のお姿を拝見していると、女性は仕事に打ち込むと『女性らしさ』を失うのではないか、と感じる方も多いかと思いますが、実はまったく逆で、精力的に活躍することでこそ、ますます美しくなれるのではないか、と感じます。2011年の流行語大賞に、日本サッカー界初のワールドカップ優勝という快挙を成し遂げた「なでしこジャパン」が選ばれましたが、今年2012年も、働く女性が大いに美しく活躍する1年になるのではないでしょうか。男性の皆さまにも、女性のエネルギーを見習っていただきたいものです。

 

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(2011年11月12日(土)鹿児島県鹿児島空港にて『つわぶき』を撮影 
花ことば「謙譲(Modesty)」)

 

 

 

料理教室・お菓子教室エートル・パティス・キュイジーヌ主宰 
大森 由紀子 様 

 

11月8日(火)13:00より、フランス料理店マッシュルーム(東京都渋谷区恵比寿西)にて、大森由紀子様とランチをご一緒させていただきました。マッシュルームは、大森由紀子様のご主人様である山岡昌治様がオーナーシェフを務めていらっしゃるお店です。私にとっては2度目の訪問で、初めて訪れたのは2009年2月でした。

 

 

 

大森様,山岡様と.JPG

 (2011年11月8日(火)14:25 マッシュルーム店内にて撮影  
左から大森由紀子様、私、山岡昌治様)

 

私は、前菜に「エゾ鹿ソーセージと野菜のサラダ セロリとアンチョビドレッシング」、主菜に「シャラン産鴨モモ肉のコンフィ」、他にパンと「旬のキノコいろいろガーリックソテー」をいただき、デザートには、レシピを大森様がご考案されたという「タルトフォードワーズ 栗のアイスクリーム添え」とコーヒーをいただきました。

 

 

 

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(2011年11月8日 14:16  タルトフォードワーズ 栗のアイスクリーム添えを撮影)

 

マッシュルームHP http://www.mush.jp/

 

どの料理も、お店の名前にもあるように、特にきのこにこだわっており、山岡様は、休日になると、今の時期であれば山梨県周辺へ自らきのこ取りに赴かれるそうです。大森様いわく「きのこオタク」だそうですが、パリの老舗の名店「ル・トゥールダルジャン」ほかで約4年半フレンチを学ばれ、帰国後は横浜ルヴァンを経て、麻布文明楼、銀座モンセニョール、自由が丘フレールジャック等の料理長を歴任された実力者です。その後、1993年に「マッシュルーム」をオープンされました。大森様とは、「ル・トゥールダルジャン」で修行をされていたときに厨房で一緒になったことがきっかけで1989年にご結婚されたそうです。

 

さて、大森様と私は、2008年9月に初めてお会いしました。実は、私が結婚するよりも前の、45年前頃からお付き合いをさせていただいている元株式会社テレビ東京人事部長武井良夫様のご子息である武井晴峰様が、神奈川県横浜市金沢区で経営されているフランス菓子店「オ・プティ・マタン」を2008年8月頃に訪問しました。その際、オーナーである武井晴峰シェフから、大森由紀子様にご支援をいただいている由承り、ご紹介いただきたい旨武井シェフにお願い申し上げたことがきっかけでした。武井シェフはフランス、スイスで経験を積んだパティシエで、2001年に帰国し「ミクニズカフェ・マルノウチ」のシェフパティシエに就任された後2005年「コートダジュールミクニズ」に勤務され、2007年に「オ・プティ・マタン」を開店された方です。

 

オ・プティ・マタンHP http://www.au-petit-matin.net/

 

私は2008年4月23日から2009年9月17日までの全6回にわたり「社長塾」を主宰しておりました。「社長塾」は、1993年5月27日から2007年7月26日まで全127回、14年間にわたって私が主宰し、講演した「社長フォーラム」を前身としているセミナーでした。日本が人口減による労働力人口減少・国内市場縮小という不可避な事態に直面しながら、「今豊かな企業がさらに成長するために何をすべきか」を基本的なテーマとして、私が講演をすると共に、毎回ゲスト講師をお呼びしておりました。大森様に2008年9月に初めてお会いした際、大森様には是非「社長塾」のゲスト講師を務めていただきたくお願い申し上げたのです。結局は講師としてはご出講いただきませんでしたが、2009年5月26日の第5回「社長塾」にご招待しました。それから何度かお会いさせていただき本日に至ったのです。

 

大森様は現在、フランスの伝統菓子、地方菓子などのお菓子や、フランスで日常的に作られるお惣菜等を雑誌・本・テレビなどのメディアを通じてご紹介されたり、料理教室「エートル・パティス・キュイジーヌ」を主宰されたりしています。特に、そのポリシーの一つとして、「フランスで日常的に作られるダシをとらない惣菜」を教えることを心掛けていらっしゃるそうですが、それは、フランス料理というと少し難しいイメージがありますが、そういうイメージを取り除いてすぐに家でできるものを教えたいと考えたからだそうです。

 

エートル・パティス・キュイジーヌHP http://www.yukiko-omori-etre.com/

 

 

大森様がフランスにご興味をもたれたのは、学習院高等科に在学されていた時代にさかのぼるとのことです。「SAISON de non-no」のフランス特集をみて、こんなに華やかな世界があるんだ、行ってみたいと憧れたそうです。また、友達の家に遊びに行った時に、友達のお母さんが作った手作りのお菓子をごちそうになり、心ひかれ、自分でも作ってみたいと思ったのがフランス料理・菓子に目覚めたきっかけとのことです。当時は、まだフランス料理のレシピ本等は世に少数しか出ていなかったとのことですが、宮川敏子先生の本、今田美奈子先生の本などをあれこれ買って、見よう見まねの独学で料理やお菓子作りを学ばれたそうです。

 

学習院大学仏文科卒業後、パリ国立銀行(東京支店)に勤務され、そのOL時代には、東京會舘クッキングスクールで学ばれたそうです。資金が貯まった27歳の時、ついに一大決心「清水の舞台を飛び降りる」気持ちでフランスに渡られたそうです。当時は、ネットやメールも普及しておらず、情報が少ない上、フランスから資料を取り寄せても日本に届くまでに相当時間がかかるという雲をつかむような状況だったそうです。今でこそ気軽に留学や海外旅行に行けますが、当時ではかなり珍しいことでもあり、ご両親も大変心配なさったそうですが、「行かないと自分の人生始まらない」ということでご両親を説得され、ついに高校時代からの憧れの地パリの地を踏まれました。

 

パリには2年弱滞在され、その間1年半で「ル・コルドン・ブルー」の全課程を修了されたそうです。「ル・コルドン・ブルー」は、1895年、フランスパリに創設されたフランス料理・菓子を学ぶ学校で、世界各国から料理人を目指す人々が集まってくるそうで、大森様のクラスメイトには、現在江上料理学院副学院長である江上佳奈美様がいらっしゃったそうです。(ちなみに、江上料理学院とは私は1994年1月からお仕事をさせていただいております。)

 

江上料理学院HP http://www.egami-cooking.co.jp/

 

パリでは学校に通うかたわら、「フォション」「アルページュ」「アピシウス」「ラ・トゥールダルジャン」などのお店で研修をされていたそうです。女性が厨房に入るのが珍しく、からかわれたりもしたそうですが、面白く貴重な経験であったそうです。大森様のご著書「ママンの味、マミーのおやつ」(文藝春秋、2009)では、パリ在住の日々を「私は多くの発見をし、たくさんの友人をつくった。夢中で過ごした二年間の出会いや経験は一本の苗のように、するすると伸び、枝分かれし、さまざまなものをもたらしてくれた。」(60頁)と振り返られています。

 

さて、大森様の考えられる当時のフランス料理から現在のフランス料理への変化は、フランス料理といえば、かつては「煮込み」「ソース」の料理と言われていましたが、今では「ソース」がだんだん少なくなっており、線で書く位になっているとのことです。また、重い料理はだんだん避けられるようになってきており、「ヘルシー」ということにも重点が置かれるようになっているそうです。フランスにおけるフランス料理も、最近では鰹のたたきが出てくるなど日本の食材を使っていることも少なくないらしく、また、フランス人のシェフが日本に来て、日本料理の厨房で研修をするなど、何がフランス料理か、境がなくなって来ているとのことです。

 

大森様はパリ以外に長期滞在されたことはないそうですが、帰国されてからも、フランスの地方へ度々足を運ばれているそうです。例えば、大森様の料理教室・菓子教室エートル・パティス・キュイジーヌでは、毎年「フランスお菓子紀行」というツアーを催行されています。毎回フランスのある地方を限定し、その地方の特色あるお菓子を探訪する事を主な目的とし、その地方の料理、ワインなどの食に関する特産品を賞味し、各地の定評あるレストランやビストロを訪れるそうです。今年は、ルルドを皮切りに、フランス南西部の中央高地やピレネー山脈が背後に迫る、ミディー・ピレネー地方を回るツアーであったそうです。ルルドと言えば、「ルルドの泉」で有名です。ルルドの泉は、「万病を治す奇跡の水」とされ、連日、世界中から多くの人々が集まります。水の成分は、天然ゲルマニウムイオン水で、現在でも1日約12万2400リットルの量が湧き出ているそうです。私も一度は訪れたいと存じております。ミディー・ピレネー地方は、フォアグラやトリュフの有数の産地で、ブルーチーズの代名詞「ロックフォールチーズ」はこの地方のロックフォール村でつくられているのだそうです。

 

さて、このツアーはもう17年毎年続けられており、この不況で旅行業界において、一般的な旅行者やツアー参加者が減っているなかでも、毎年コンスタントに20名程度のご参加者がいるとのことです。また、個人的にも本の取材等を兼ねてフランスの地方を巡られるそうで、これらは大森様のライフワークとなっているとのことです。

 

大森様は「世界のベストレストラン50」の選者のお一人でいらっしゃるとお伺いし、せっかくですので、あらゆる料理を食べ歩いて、今もう一度行きたいというお店について質問してみたところ、下記2店を挙げてくださいました。

 

【大森様が今もう一度行きたいお店 2店】

 

・レフェルヴェソンスhttp://www.leffervescence.jp/ja/

(東京都港区西麻布2-26-4)

 

・レストラン ラッセ http://ameblo.jp/restaurantlasse/

(東京都目黒区目黒1-4-15 ヴェローナ目黒B1)

 

実はラッセは、9月26日(月)に、私が、株式会社ジェイ・アイ代表取締役 石川次郎様(『POPEYE』『BRUTUS』『Tarzan』<株式会社マガジンハウス発行>といった数々の雑誌創刊に携わってこられた、今日の雑誌メディアを創った立役者のひとりとして知られた方です。)、ハリウッド株式会社経営企画部マーケティング室マネージャー小野裕子様と共に大森様をランチにお招きして、ご一緒したという経緯があります。その際に、ラッセの経営者で株式会社良品計画 代表取締役会長でもある松井忠三様のご令室様である珠江様にもご一緒していただきました。ラッセについては、7月26日付ブログ記事【交友録 その3】もご覧ください。ラッセを大森様が気に入ってくださっていてなによりでございます。また、小野様をお呼びした理由は、「月刊 婦人画報」(ハースト婦人画報社)の2011年12月号の記事内でハリウッド社の商品を大森様がご紹介され、小野様がお会いしたいとのことでしたのでお仲立ちをした次第でございます。ラッセに向かう途中、小野様はハリウッド化粧品の紙袋を手にされていたそうですが、大森様が路上でそれを見かけて、小野様に話しかけられたということでした。小野様は、大森様にお会いした印象を「パワフルでエネルギッシュな生き方をされているにもかかわらず、お人柄は非常に気さくで気取らない方。人とのご縁を非常に大事にされる方。」とおっしゃっておられました。私もその通りであると思います。私は常日頃から女性のエネルギーは男性より強いと感じておりますが、大森様は特にエネルギーがある方だと思います。大森様が27歳だった当時、当時としては大変困難だったフランスへの留学を夢だけに終わらせず、一歩踏み出し未来を切り開かれたことは勇気ある素晴らしい行動であったと存じます。それほどのパワフルな方でいらっしゃるにもかかわらず、上品さも兼ね備えた素敵な女性です。

 

大森様の将来の夢は、季節を選んで1年の半分をパリ、半分を日本で過ごすこと、とのことです。大森様が、今後も若手のパティシエを見守っていただき育成していただくことを祈念しております。そして、スイーツを愛するすべての人に、更なる夢と、快さをお与えくださるよう、ますますのご活躍を期待しております。

 

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(2011年10月10日(月)11:57 
千葉県若葉区小間子町 風戸農園付近にて撮影)

 

 

 

風戸農園 風戸 章 様 

 

10月10日(月)昼12時半より、千葉県若葉区小間子町にある「風戸農園」の収穫祭へお邪魔しました。株式会社タウンサービス代表取締役常務浅田直煕様ご夫妻、こばとの森幼稚園園主小山嘉治様、あすか人事コンサルティング代表太田正孝様、弊所顧問知久正義様、同松本純孝様、秘書多田僚子さんとご一緒に訪れ、自然の中で新鮮な野菜を満喫・堪能いたしました。風戸農園は、私の知人である風戸章様が経営されている農園で、「自然農法」を実践して作られておられる数々の野菜の美味しさは特筆すべきものがございます。

 

 

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(2011年10月10日(月)12:41風戸農園にて収穫祭の様子
写真右から2,3番目が風戸様ご夫妻です。)

 

 

 

さて、風戸章様とは、今から11年前の2000年秋に、彼が第一生命保険相互会社の関係会社である株式会社第一生命キャリアサービスに所属していた時に初めてお会いしました。第一生命との関係は、私の大学時代の友人である宮本勵様が、常務取締役であった1991年3月までさかのぼります。風戸様は、第一生命保険相互会社で営業企画部(労使関係を扱う部門)部長、広報部部長、総合能力開発部部長を歴任された後、株式会社第一生命キャリアサービスで業務本部長を務められた方です。風戸様が1988年11月に知人から畑を購入され、無農薬の農園を開かれたということで(元々、農作業がお好きであったということです)それに興味を持った私は、この11年間に何度かお邪魔してきました。

 

風戸農園は、様々な作物にチャレンジされていますが、私も何度かお邪魔をしながら、私のサジェスチョンをいくらかして参りました。私が今回サジェスチョンしたのは、カシューナッツの木を植えることです。風戸様にご提案したところ、カシューナッツは植付けえる苗の大きさにもよりますが、通常実を付けるまでは10年を要するということでした。風戸様は、「自分が生きているうちは、カシューナッツの収穫は不可能かもしれない」とお話しされていましたが、「再来年に風戸農園が25周年を迎えるにあたって、チャレンジされたらどうですか」と私からお話したところ、風戸様は通販のカタログを取り寄せて、現在購入手続きを進めておられるそうです。

 

1988年に農園を開かれてからは、主に風戸様の部下の皆さん等を呼んで収穫祭を開催していらっしゃったそうですが、2003年5月に株式会社第一生命キャリアサービスをご退職後は、農園運営に専念され、「自然農法」を理想とされ、自然と共存しながら野菜を作られています。

 

「自然農法」とは、化学肥料や農薬を一切使わない農法のことで、虫がついたら1匹ずつ手で獲り(1日に100匹位を手で獲っている)、肥料は家庭から出る生ゴミのEM菌を施用したり、畑に生える草などを利用し、微生物を大切にされているとのことです。野菜の品質にこだわり、デパートやスーパーで商品として売られていない品種を種から育て、できるだけ原種に近いものを育てていらっしゃるそうです。

 

畑は800坪余りと家庭菜園レベルとはかけ離れた広大なもので、たくさん獲れた野菜は知り合いに配られたり、「収穫祭」と称して、ご友人とのバーベキューを楽しまれるそうです。季節ごとに年に30回ほどバーベキューを開催され、のべ200名ほどのご友人が参加してくださったそうです。小学校から大学までの同級生や、会社関係では労使交渉の相手方や労働組合の役員の方々、また、風戸様は、感性豊かな人物で学生時代から合唱に大いに馴染まれ、今でも合唱団に入られており、合唱団のお仲間もよくご参加されるとのことです。また、遠路は、転勤していた先の静岡支社の関係者やエジプト旅行で知り合ったご夫婦も泊りがけでいらしてくださるというように、そのお人柄からして風戸様の交友関係は非常に広くていらっしゃいます。そして、参加者それぞれが持ち込む様々なお魚・お肉などと共に、畑で獲れたての新鮮でしかも安全な野菜の数々を食すると、誰もがその美味しさに驚嘆するのです。

 

風戸様は、ご夫婦で、朝3時に起床され、遅くとも朝8時半には畑に出られ、畑仕事をされるという毎日を送られているそうですが、23年間に亘り毎日自然と向き合い続けるというのは、並大抵の努力ではありません。「自然農法」を実践するに当たり、風戸様は、いかにして野菜に「毎日水をやるか」に苦心されてきました。野菜を育てるということは、まさに自然と大いに接点を持つということです。水の確保のために井戸を掘るという話もありましたが、風戸様は井戸を掘らずに、タンクに水をためて、毎日毎日水やりを実践されてきました。

 

野菜というのは、水をあげないとたちまち枯れてしまいますので、海外に行くことは非常に難しいそうですが、合間合間を縫って、海外に何度か行かれておられます。実際、一昨年12月14日には、エジプトへ7泊8日の旅に行かれたそうです。また、合唱団で昨年の5月の連休にはチェコにお邪魔されたということでした。この間は、奥様とお嬢様が水遣りにあたられたそうです。しかし、5月のゴールデンウィーク中はちょうど苗の育苗期間にあたり、旅行中も心配で心配でたまらなかったそうです。そこで、現在では、冬だけは1週間程度水やりを休むことができるので、海外旅行は12月から1月の間に行くことに決められているそうです。

 

風戸様の楽しみは、「何といっても毎日野菜と顔を合わせ、会話をすること。」で、『水が欲しい!』『栄養が足りない!』『虫にかじられた!』といった声を聞きとるようにされているとのことです。これこそまさに野菜と向き合った「自然農法」の実践、まるで子どもを育てるように丁寧に丹精込めて野菜を育てられているのです。

 

そんな風戸様の理想の農園は、虫・鳥・ヘビ・トカゲ・ミミズ、草が集い、そして、友人が時々会いに来てくれるようなコミュニケーションの場になることだそうです。そして今後は、旬の野菜を無駄なく、野菜のもつ生命力を発揮させる土作りに力を入れていかれたいそうです。

 

私はいつも風戸様を激励しておりますが、今年私が提供した「貴水」によって、収穫量が増えたとおっしゃってくださったのは嬉しい限りです。

 

風戸様のつくる落花生は著名な八街ブランドで、その落花生は「貴水」によって、今年は3倍の収穫量があったということでした。また、きゅうり等も、良く実ったということです。詳細は、10月15日の「貴水研究会」にて、風戸様から発表していただきました。その内容は割愛します。

 

「貴水」の研究は遅々として進まなく、量子力学の世界の水であるだけに、量子力学をマスターした人が何名も集まってやっと研究の緒に就くことができるものです。しかし、農業においては、風戸様の研鑽と研究の結果で、「貴水」の効果が判明しつつあるということでしょう。農業に「貴水」が効果的であることは、書籍でも発表されているものではありますが、なかなか世間に認知されないことでありますので、風戸様が、「貴水」の成果を実証されたことは有意義なことであると思います。

 

今回、10月10日体育の日も、私の知人・友人たちと一緒に、風戸農園を訪れ、秋の収穫祭をさせていただきました。その日は天候にも恵まれ、私が持参した米沢牛(私が親しくさせていただいている山形県米沢市にある有限会社登起波牛肉店様から購入しました)と、風戸農園の新鮮な野菜に舌鼓をうち、ビールや日本酒がいつになく美味しいと、皆喜んでいました。風戸農園のお野菜を使った焼そばやお肉のバーベキュー、秋刀魚、サラダ、モロヘイヤのスープ、ゆで落花生など、自然の中で風に吹かれながらいただきましたが、どれも大変美味しく、また親しくしてくださっている皆様に囲まれてご歓談させていただいたことは、私の2011年の秋の思い出の一つになりました。

 

帰りには風戸様が、参加者全員に、畑にあるものをご自由にお持ち帰りくださいとおっしゃってくださり、参加者全員が子どものようにはしゃぎながら、柿、栗、落花生、大根、中国かぼちゃ、モロヘイヤ、四角豆(しかくまめ)などなど、持ちきれないほどお土産をいただき、風戸農園を後にしたのです。

 

風戸様、毎度ありがとうございます。

 

再来年は、風戸農園開墾以来25周年になるそうなので、何か特別なイベントを企画してお邪魔したいと思っています。

 

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(2011年9月24日(土) 午前10:15
高知県幡多郡黒潮町上川口「朝鮮国女の墓」にて彼岸花とアゲハ蝶を撮影)

 

 

 

 

株式会社 升本フーズ 代表取締役社長 塚本 光伸 様 

 

9月26日(月)19:00から、東京都江東区亀戸にある「亀戸 升本」にお邪魔し、食事をいただきました。その際、同店を経営する株式会社升本フーズの代表取締役社長である塚本光伸様とお会いしました。私が塚本様と初めてお会いしたのは1996年7月ですが、以来親しくさせていただき、升本フーズが経営されている「亀戸 升本」は、折々利用させていただいております。

 

升本フーズでは、「亀戸 升本」以外にも新宿などにもお店を出しておられる等、色々なご事業を展開されておりますが、特筆すべきは「社員食堂の受託運営」事業です。

 

現在では、大和証券ビジネスセンターなど少数の事業所だけになりましたが、これはあまりにも企業が経費を節約し、社員のためにならないおおかたの社員食堂の経営に傾いていったため、升本フーズが社員食堂の経営から手を引かざるをえなくなったからです。

 

多くの企業では社員食堂を委託運営されていますが、升本フーズが受託運営される社員食堂は、他の社員食堂とは違い、私も拝見したことがありますが、社員食堂というよりちょっと洒落たレストランのようでした。これは、升本フーズの企業理念の内の一つである「お客様満足」を追求する姿勢の表れであり、「その企業の専用レストラン」として、社員等の利用者が仕事の忙しさからいっとき解放され、味も、サービスも、その時間も楽しんでいただけるようにと、徹底した思いやりの社員食堂を運営されているのです。

 

大和証券ビジネスセンターの社員の皆様の声としては、「こちらのビルに移る時、当時の社長が感動して、そのまま営業を頼んだのが、今も続いています。同じ条件で顧客満足度をこのレベルまで高い業者さんはなかなかいないですね。」という高評価も寄せられています。また、「週2回の特選ラーメン日が楽しみ」、「行列ができる店と遜色ない味が400円で食べられる」、「手造りのデザートやコロッケ等がおいしい」、「何よりも社員の希望にすぐ答えてくれる」などの声も寄せられているそうです。

 

しかし、日本が貧困になるにつれて、このような理念が理解されず影が薄れてきたことは、まことに残念なことといわざるをえません。

 

さて、「亀戸 升本」は、JR亀戸駅から歩いて約7分のところにあります。亀戸で江戸時代に自生していたといわれる幻の江戸野菜「亀戸大根」を、昔ながらの製法で丹精込めて育て、伝統の味を今につたえている名店としても知られています。

 

それにくわえて、昔ながらのアサリという貝をモチーフにして、料理をつくっておられます。「亀戸大根あさり鍋」というのが著名です。これは、他の具材と一緒になっても邪魔をせず、凛とした味わいを残す亀戸大根ならではの特徴を活かし、江戸前の新鮮なアサリと抜群の相性を醸し出している逸品です。

 

 

「亀戸大根」が「幻」といわれる所以は、江戸時代には亀戸周辺に自生していて、文久年間(1860~1864年)の頃、亀戸にある香取神社の周辺で栽培され始め、明治時代にかけて盛んに収穫されていたものの、宅地化が進み、畑が減り、大根作りがされなくなり廃れてしまったとの経緯から「幻」といわれているものです。しかし、「亀戸 升本」が、失われた亀戸大根をよみがえらせれば、地域の活性化にもつながると、働きかけ、町ぐるみで復活への機運を高め、ようやく現代に亀戸大根をよみがえらせるに至ったということです。現在、亀戸大根は、亀戸から5キロほど離れた葛飾区柴又で升本専属の亀戸大根農園で栽培されてます。

 

亀戸 升本 HP http://www.masumoto.co.jp

 

塚本様のご実家は明治38年から酒屋を営んでいた旧家でしたが、太平洋戦争の空襲で店が全焼したこともあり、塚本様のお父様とお母様は、夫婦で切り盛りするような小さな飲食店を経営されるに至ったそうです。塚本様は、その塚本家のご長男として1951年に生まれましたが、仕事に明け暮れるご両親を見て育たれ、飲食業に魅力を感じず、むしろ嫌気がさしてしまい、高等学校卒業と同時に家出したそうです。その後、お父様がご病気になったことから、ご実家へ戻られ、その後いったん独立し、不動産の仲介業などをはじめられましたが失敗してしまい、一時は倒産の危機もあったそうです。その後、飲食業をされている「うかいグループ」が経営されていた箱根の旅館や施設にたまたま訪れた際に、とても良い店ばかりであったので、感動され、「うかいグループ」の創始者・社長鵜飼貞男(うかい さだお)様にアプローチをし、八王子の本店まで出向き、お会いになったそうです。

 

その時、鵜飼貞男様から、自殺を決めていたある2人からの、「箱根のガラスの森美術館(うかいグループが経営している美術館)に行き、感動し、自殺を思いとどまった。けっして今も裕福ではないが、楽しく生きている。」といった内容の一通の手紙を見せていただいたそうです。その時、塚本様は、「飲食業は人を救うこともできるんだ。」との感を深くされ、改めて飲食業の良さを知り、家業であった割烹店を継がれたということです。それがいまの「亀戸 升本」の原点であるそうです。

 

箱根のガラスの森美術館HP http://www.ciao3.com/top.htm

 

【参考】 塚本様のインタビュー記事

http://www.in-shoku.info/foodfighters/vol92.html

 

 

塚本様の「食」に関する思い入れ・ご理念は非常に高くていらっしゃいます。例えば、今から38年前、1973年には、日本で初めて、代表的な飲食店の若手オーナーまたはその2代目が集まり、外食の地位と質の向上と発展を目的とした「フードサービス研究会」を設立されましたが、そこでリーダー的な役割を果たされました。そのときに、私は塚本様とお会いしたのです。2006年には理事長を、現在は理事を務められていますが、「フードサービス研究会」は、つばめグリル、グリーンハウス、三笠会館、人形町今半、船橋屋など、日本を代表する飲食店が現在計53社加盟しているとのことです。

 

升本の美味しさの源は、そもそも「われわれ自身が自分の大切な人に食べさせてあげたいものを作る」というお考えに始まっているそうです。「手間をかけてでも品質と安全を第一に優先することで、(升本フーズの)社員一人一人が自分の仕事に誇りを持つことができ、それによって一層おいしい料理が生まれ、人が集まり、それがそのまま顧客満足度に繋がる」という株式会社升本フーズの会社案内によせる塚本様のお言葉には、まさに「志」「魂」をもって食に取り組まれているお仕事への深い想い入れを感じることが出来ます。

 

この「交友録」を書くにあたって、塚本様に「食に対する理念、想い」を文章で送っていただきたい旨お願いしたところ、下記のような文章をいただきました。塚本様の、食に対する深い想いがよくお分かりになる文章だと思いますので、敢えて私の方で手を加えず、そのまま掲載させていただきたいと存じます。

 

レストラン等の飲食店経営に携わる者は、安全を心掛けるのはもちろんのこと、安心を与えることも必要ですし、さらに一歩進んで、お店を利用する顧客の皆さんに幸福感を抱いてもらうことが必要ですし、それには具体的には笑顔で来店してもらい、さらに笑顔を増してお店をあとにしてもらうことが大切だと思います。要するに「売らんかな」の姿勢では、いまの時代にはまったく受けないお店となることはいうまでもありません。東京都内のレストラン・飲食店すら閑古鳥が鳴き、廃れてきているのは、日本人の心が貧しくなったからでしょう。レストラン・飲食店の経営者が自分の目線で顧客のことを考えなくなり、心のデフレ状態に陥り、食事を提供する側としての心根が貧しくなっていることが根本原因であることを、改めて、升本フーズの塚本様をとおして私は知るのです。

 

 

【塚本様の「食に対する理念、想い」】

 

食に対する価値観は、人と動物とでは大きく異なります。生命維持の為の食事という点は動物と同じですが、「味覚」という、個人の「哲学」が入ったり、各個人の生い立ちや文化が違えば、食に対する価値観は人それぞれに変わります。これは、皆さんの日常生活で目にするところであります。 

 

話を戻しまして、生命維持を重点にした食の優先順位を申しますと、まず「利便性」が挙げられます。まず「空腹を満たす食物」が優先され、その次に、「必要な時に必要な栄養価のある食物」が適切な量で求められます。動物は、この点において、種の保存をかけて全てのエネルギーを注ぐと言っていいでしょう。 

 

しかし人間となると、食に関しては、動物と「生命維持」という点で最初の1歩までは同じですが、その後は厄介なくらい複雑になります。例をあげますと、戦場の兵士であっても戦いの最中に故郷の梅干しを食べ、涙を流したり、宇宙飛行士がおなじ味の流動食ばかりだと作業能力が56%落ちるデータもあります。コンビニ等で宇宙食に近いものが販売されています。これは、忙しいビジネスマンが仕事の合間にとるようですが、実はその場のシーンに合っているときに取るのです。つまり、仕事に追われ寸暇を惜しんで食をとるカッコ良さが、それを買う動機にもなっているのです。 

 

人は付加価値の為に命をかけます。終戦直後、飢餓状態のなか、わずかな食費をさらに削り、故人の為に一輪の花を買い陰膳に添える。こんな不合理なことは人間以外の動物は決してしません。付加価値に命をかける人間だけがなせる行為です。 

 

「俺はここに住みこんな食事をとれたら死んでもいい。」「一度でいいからこうなればいつ死んでもいい。」「あの人とあの場所で食べたおにぎりの味が忘れられない、もう一度それができたら何もいらない。」 

 

・・・よく耳にするセリフです。またそれは真実でもあります。自分の思いや感動、魂をゆするものに人は命すらかけます。そのことに他の者も共感すらします。断片的な意味合いのようですが、われわれは全て付加価値の為に、必死になり、生活し、進歩してきました。 

 

それが食文化、文明の進化だと思われます。 

 

人には幸せを求め生きる権利と義務があります。「しあわせは何か」…当社の定義は幸せの原点は健康が元であると定義付けております。健全な肉体、健全な精神。身体の健康に良いもの。身体に悪いと思われるものは提供しない、こころの健康によいものを考えるから美味しい味、空間、環境を提供する。人は人により幸せになる、だから善意を持ったヒトによるサービスができるようにする。それを食にたずさわる者として考えております。 

 

 

 

【自然食(和正食)】

 

升本フーズの色々なお料理の中で取り分け自然食(和正食)にこだわっているという特色を挙げなければいけません。「陰陽五行」に即した東洋的な食のバランスを踏まえた上で、添加物など余計なものを使わずに調理する食養料理に「マクロビオティック」があります。

 

【「陰陽五行」とは】

「陰陽五行」とは、2つの思想が組み合わさった古代中国から伝わる、宇宙から人事にいたる全ての現象を説明しようとする理論、考え方です。


2つの思想とは、1つ目は、「陰陽思想」という、古代中国神話に登場する帝王「伏羲」<紀元前3350年頃~紀元前3040年頃>が作り出したとされる、全ての事象は、それだけが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形(例えば明暗、天地、男女、善悪、吉凶など)で存在し、それぞれが消長をくりかえすという思想です。


2つ目は、「五行思想」という、万物は「木火土金水」という五つの要素により成り立つとする思想で、夏<紀元前2070年頃~紀元前1600年頃、中国最古と伝承される王朝>の創始者「禹」<紀元前2070年頃>が発案したとされています。

 

升本の和正食弁当はこの流儀にならい、食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を用い、肉、魚、乳、卵、精白糖、化学調味料、保存料を一切使用しないというこだわりぬいた弁当です。食材はもとより、塩・砂糖等々の調味料の一点一点までも自然食を活用されているのです。

 

それゆえ人気抜群で、升本フーズの売上の総額は18億円ですが、そのうちの6~7割が和正食をはじめとする各種の弁当で占められているそうです。大企業の経営者・幹部の昼の食事にこのお弁当を採用しているところも沢山あります。健康第一という新たなる食事のジャンルを目指す料理として、企業経営者の幹部等多くの方がこれに拍手喝采され、自らのお昼休みの食事に活用されているのです。伊勢丹新宿店という日本有数のお店がありますが、そこではオンリーワン部門で第1位の記録を得ています。

 

自然食の権威者としては、桜沢如一先生(1893年~1966年)、久司道夫先生(1926年~)が有名ですが、実践家としては、塚本様に勝る人はいないと私は確信しています。この自然食を追求するという姿勢が、升本フーズの様々な事業ジャンルに生きているというのが私の評価です。

 

私は塚本様のお陰で、専門家嫌いで著名だった株式会社うかいの鵜飼貞男様に起用され、株式会社うかいの顧問弁護士に2005年8月に就任しました。鵜飼様とは最初は銀座の「アスター」という中華料理屋、二度目は「八王子うかい鳥山」でした。そのお店を決めてくださったのは塚本様でした。鵜飼様は2006年6月19日にお亡くなりになられましたので、私が株式会社うかいの顧問弁護士に就任したのは、鵜飼様が他界されるわずか10カ月前のことでした。

 

塚本様は良き友人・知人を見つけられ、これと切磋琢磨し、よりよい料理を提供する心意気に溢れた方です。もっと、和正食を広めたいというお気持ちがありながら、新たに工場を建てるには仮工場にしろ、何億円という資金が必要だということで、なかなかこれを可能にする現実にないことに塚本様は歯ぎしりされていることと思います。

 

 

銀座アスターHP http://www.ginza-aster.co.jp/

八王子うかい鳥山HP http://www.ukai.co.jp/toriyama/

 

株式会社升本フーズの益々のご活躍を祈るとともに、私もできるだけ升本フーズのお店を利用させていただくことなどを通じて、ささやかなりとも貢献させていただきたいと思っております。

 

 

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(2011年9月23日(金)午前7:00 東京都千代田区麹町 仲良し公園にて撮影)

 

元外交官 谷野 作太郎 大使 

 

9月22日(木)18:30より、とうふ屋うかい(東京都港区芝公園)にて、元外交官の谷野作太郎大使他数名と懇談会を開催しました。これは、私が今年11月19日(土)から11月27日(日)まで、インドへの旅行を計画しておりまして、その準備として谷野大使をお招きしたのみならず、長年インドで日本画を描かれて来た山田真巳様をもお呼びし、お打ち合わせを兼ねたものでした。当事務所客員弁護士千種秀夫先生にもご出席いただきました。そして、インドの現状、中国、東南アジアなど、様々なお話で盛り上がりました。

 

とうふ屋うかいHP http://www.ukai.co.jp/shiba/

 

さて、谷野大使は、1936年生まれで、東京第一師範学校男子部付属小学校時代は福田康夫元総理大臣と野球のバッテリーを組む間柄だったということです(谷野大使がピッチャー、福田元総理大臣がキャッチャーでした。)。その後、東京学芸大学附属世田谷中学校、東京都立日比谷高等学校をいずれもご卒業され、東京大学法学部にご入学されました。1959年、大学在学中に外交官試験上級職に合格され、1960年に外務省に入省されました。

 

外交官時代には、中国課長、アジア局長等を歴任され、主にアジアを中心にご活躍されました。ソ連(一等書記官)、中華人民共和国(一等書記官)、米国(公使)、韓国(公使)等の在外日本大使館勤務をされた後、1995年9月からは在インド日本国大使、1998年4月からは在中華人民共和国日本国大使を務められ、2001年4月に退官されました。2001年6月に、天下りではなくまったくの実力で、株式会社東芝の取締役に就任され(2007年6月ご退任)、また2002年には早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授(2007年3月ご退任)など幅広くご活躍されてこられた方です。

 

谷野大使は、非常に勉強家でいらっしゃいます。私とは、谷野大使が在中華人民共和国日本国大使でいらっしゃった当時に初めてお会いしました。谷野大使の中国大使としての時跡の中で、何はともあれ、2つの出来事が私にとって印象深いものでございます。

 

1つ目は、1998年7月中国共産党と日本共産党の文化大革命をめぐる見解の相違・対立で、長期間の断絶状態にあった両党の首脳が、32年ぶりに握手を交わすという和解を見守られたことです。ちなみに、中国共産党は、現在では、文化大革命に対し、触れないようにしていると、私は理解しています。

 

2つ目は、1998年12月の、台湾との関係を重視した産経新聞社と中国政府との和解に注視されてきたことです。これは、文化大革命期に、産経新聞を除く他社は、中国当局の台湾支局閉鎖の要求を呑んで、中国に支局を開局しましたが、産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、以後、1998年までの31年間、北京に支局を置けませんでした。1998年12月に、産経新聞は、北京に再び開局した支局を「中国総局」とし、組織上「台湾支局」をその下に配置することで中国支局を再開したという経緯があります。産経新聞は、他の新聞とは異なり独自性を発揮されたということです。

 

なお、ご退官後は、弊所の中国室が主催している講演会にもご出講してくださったり、また聴講者としてもご参加してくださったりと、親しくさせていただいております。

 

谷野大使が共著でご執筆された「日本とアジア」(亜細亜大学アジア研究所、1993)で谷野大使は、「日本がアジアにおいて、なにがしかの役割を果たすという場合に、やはり厳しく求められているのは、日本という国の国がらというか、国の品格というか、信頼される日本というか、そういうことではないかということである。…アジアで役割を果たすと言っても、日本としての好ましい国がら、日本という国に徳というものがあってこそ、他のアジアの国々からよりすんなりと受け入れてもらえるのではないか…日本の国の品格ということは、アジアにおける役割ということを私どもが考える場合に、決して無関係ではないと思う」と述べられています。

 

「品格」とは大辞林によると「その人やその物に感じられる気高さや上品さ。」ですが、日本が今後ますますこの「品格」を尊ぶことが日本の存在感を高め、広めることと私も信じております。

 

私も様々なところで、日中友好について、さらには中国に限らず例えば北朝鮮と日本との友好についてもお話してきておりますが、谷野大使のおっしゃる「日本の国の品格」の方が、スケールが大きく感じられます。一人ひとり、そして各企業が、それぞれの価値観と確固たる使命感のもと、日本人たる誇りを忘れず、しかも奢らず、日本のアジアにおける役割、アジア諸国との関係性を考え、想いを馳せることが、日本の「品格」を高め、「徳」のある国であるということに繋がると存じます。

 

今後私は、10月26日(水)から10月29日(土)まで台湾旅行を、11月19日(土)から11月27日(日)までインド旅行を企画しています。そして、年明け早々にはミャンマーへお邪魔します。出来たら3月にはパラオにお邪魔したいと存じております。そして4月末には北朝鮮へ3度目の旅行を計画しております。これらの旅行でも、日本人としての「誇り」「品格」をもって臨みたいと考えております。

【交友録 後日録】 その1


 

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(2011年9月18日(日)午前6:31 東京都目黒区 西郷山公園にて撮影)

 

 

 

 

 

9月16日(金)午前10時から、8月16日付「交友録 その6」にてご紹介した霧島高原ビール株式会社に再度お邪魔しました。霧島高原ビールは鹿児島空港からタクシーで正味1分のところにあります。

 

この日は株式会社源麹研究所代表取締役社長山元正博氏がシンガポールにご出張中でお会いできず、奥様でいらっしゃる山元紀子様(バレルバレープラハ&GEN 霧島高原ビール株式会社 代表取締役社長)にお会いしました。山元様の出張は、焼酎の残滓を豚の麹発酵飼料、鶏の麹発酵飼料にすべく、リサイクルを研究されておられますが、その株主はトヨタ自動車株式会社、全日本空輸株式会社、日本通運株式会社、株式会社日本政策投資銀行等々錚々たるメンバーで、奥様によれば、既に山元正博社長は20年来これに注力されておられるとのことでした。

 

 

 

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(2011年9月16日(金)午前10:01 左から山元佳奈様、
私、一番右 山元紀子様 霧島高原ビール株式会社内にて撮影)

 

さて、山元紀子様のお話によると、グループ事業の一環として、焼酎を中心とした鹿児島の文化と、チェコのピルスナービール文化を融合させた異国情緒豊かなテーマパーク「バレルバレープラハ & GEN」を運営されておられます。

 

霧島高原ビール株式会社は、現在月間2万人の観光客を迎えられ、ビール、焼酎、マッコリ等を提供する施設として15年間継続され、最盛期には年間40万人を数えたこともあったとのことでした。

 

さらにこの間、来場されたお客様に向けての通信販売を、最初は小さなところから始められ、今では、事業の大きな柱の一つとなっているそうです。

 

私はマッコリをいただきましたが、マッコリという韓国の特産品も実は源麹研究所の河内菌によって製造されていることを知りました。河内菌とは、麹の神様とよばれ、麹研究に生涯をかけた故・河内源一郎氏(1883年~1948年)が開発された麹菌で、日本の焼酎の約8割に使用されているそうです。この麹菌の発見により、焼酎づくりは九州のみにとどまらず、韓国や満州までにも普及し、源一郎氏は現地におもむき焼酎づくりの指導も行われたそうです。アジア各国で愛飲されている焼酎のほとんどはこの麹菌と当時の指導の賜物と言えるそうです。即ち、私が頂いたマッコリは山元会長直々でご製造になっている製品ですが、マッコリも含め、韓国の焼酎の殆どが河内菌で造られているそうです。いってみれば、源麹研究所が保管している河内菌は国際ブランドになっているということです。

 

何はともあれ、年間25万人前後のお客様をお迎えしている事業が鹿児島にあることに驚きをもちました。要するに、「本物を追及すれば如何に人気がでるか」をまざまざと見せつけられた思いでした。

 

別れ際に、お嬢さんの山元佳奈様にもお会いしました。27歳とのことですが、お母様の後を継いで、この仕事に従事したいとのことでした。山元佳奈様は朗らかな方でしたが、お会いしてみて、霧島高原ビールは今後も発展することは間違いないと感じた次第です。

 

なお、今後は、ご次男がお父様でいらっしゃる山元正博様の後を継がれて、お嬢様でいらっしゃる山元佳奈様がその方を支えるという体勢になっているとのことです。

 

企業にとって大切なことは何と言っても有限であるとされている企業においてこれの存続を図るには適切な後継者を得るということにあります。無限でありたいと目指す企業として、後継者を得ることは極めて大切なことでありますので、ご次男が後を継がれるということは山元正博ご夫妻にとっては本当に幸せなことでしょう。

 

余談ですが、私はマッコリ「元祖源一郎さんのマッコリ」3本と黒酢「げんきっす」1本を注文しましたが、それは私の健康保持のために必要不可欠な商品と理解してお願いした次第でございます。

 

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(2011年9月18日(日)午前6:31 東京都目黒区 西郷山公園にて撮影)

 

 


三起商行株式会社 社長 木村 皓一 様 

 

 9月14日(水)18:30より、コンラッド東京(東京都港区東新橋)にて、「高井伸夫を激励する会」という会合が開催されました。私の友人がご多忙の中、多数ご参加くださいました。その会合の司会を務めて下さったのが、三起商行株式会社 社長 木村皓一様でした。

 

 

 

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 三起商行株式会社 木村 皓一 社長

 

ミキハウスHP http://www.mikihouse.co.jp/jp/

 

実は、9月3日(土)正午から、木村様のご子息のご結婚披露宴がザ・リッツ・カールトン大阪(大阪市北区梅田)にて行われ、私も出席させていただく意向でございましたが、当日、台風に見舞われてしまい、飛行機は運航中止となり、また東京から大阪までの新幹線のダイヤが大幅に乱れていましたので、私は残念ながら欠席せざるを得ませんでした。

 

私と木村様との出会いは、1990年夏の終わりにミキハウスが教育月刊雑誌を出版されるという計画が発表され、その購読者を募る広告を機内誌で見たことによります。「あなたは子供達にどんな未来を残せるでしょうか」というコピーの言葉に私は感銘を受け、一面識もない企業であるにもかかわらず、木村様にお会いしたいという想いに駆られました。そして、同年10月29日に本社をお訪ねすることになったのです。

 

私がお訪ねしたのは、同社が現在の本社ビルを建てられる以前のことであり、当時の本社は誠に質素なバラック建てともいってよい木造の二階建ての建物でした。その中で、本当に若々しい社員の皆さんが働いていたので今でも覚えています。その日木村様と面談したのは、本社があった八尾という大阪市内から遠方の地でありましたので移動時間に時間をとられ、わずか15分程度でしたが、以降何かと親しくお付き合いをさせていただいております。

 

1993年5月に私は三起商行株式会社の顧問弁護士を委嘱され、2006年9月には監査役就任、そして2010年3月に監査役を退任しました。私の退任後は株式会社ピー・アンド・イー・ディレクションズ代表取締役 島田直樹様(後にご紹介させていただいております。)のご発案により、私の長男である弁護士高井伸太郎が監査役に就任させていただいたという経緯があります。

 

また、木村様には2010年12月3日(金)当事務所の年末講演会にて「熱意ある経営~なくなっては困るといわれる会社に~」というテーマでご出講いただき大好評を博しました。

 

私は1992年4月から1993年3月まで「労働新聞」にて「心の経営体を訪ねて」という連載を執筆しましたが、その連載の第1回で、ミキハウス木村社長のことも取り上げさせていただきました。当時の記事によれば、同社の人事労務に関することなどを述べたのですが、同社では会社の方向性として「ビッグカンパニー」ではなく「ベストカンパニー」を目指しておられ、人づくり、社員教育を最重要視されていること等をご紹介しました。具体的には、何はともあれコミュニケーションの場を出来るだけ作るように努め、全社員参加(もちろん社長も)のスキー研修や海外研修の実施をご紹介しました。また、社長のもとに社員からその近況報告や自分の気持ちを書いた手紙が送られてくることもご紹介しました。

 

また、同連載第2回においては、木村様がエコロジー問題について心がけ、取り組まれていることをご紹介しました。具体的には、ミキハウスでは、子供服のお直しを行い続け、どんな綻び(ほころび)にしろ、あるいはどんな裂けにしろ、いつご購入の商品でも修理することを引受け、実践しておられるとのことでした。その結果、お客様は二代か三代に亘って同じ服を着続けている事例すらあるということでした。

 

自然・環境問題、エコロジー問題等は今でこそ多くの企業が取り組んでいる課題ですが、その当時、世間・一般では意識されていなかった問題で、木村社長は早い段階からこれに着目され、取り組んでいらっしゃったのです。

 

また、ミキハウスではスポーツ選手の育成にも大いに力を注いでおられます。ミキハウススポーツクラブに所属する選手は、柔道の野村忠宏選手やテニスの土居美咲選手など2011年4月時点では、9種目20名とのことで、柔道、卓球、飛込、競泳、シンクロナイズドスイミング、馬場馬術、アーチェリー、陸上、テニスの各種目において日本を代表し世界の大舞台で活躍する選手たちが、オリンピックや世界選手権をめざし、日々自分と向き合い、想像を絶するプレッシャーと戦いながら大きな夢に向かって努力されておられます。そして、そんな選手の方々を、ミキハウスはまさに応援されています。

 

ミキハウススポーツクラブHP http://www.mikihouse.co.jp/miki_sports/

 

木村様とのお付き合いについてお話しするのに、何より忘れ難いことは、2005年の出来事です。同社は5年間連続増収増益を上げられたこともありましたが、苦難の時期もあり、その際、木村様の少しでもお力になりたいと、私と2003年8月以来お付き合いのある、株式会社ピー・アンド・イー・ディレクションズ代表取締役 島田直樹様(事業再建、企業再生から新規事業立ち上げ、M&A支援など多数の実行支援プロジェクトで成果を創出されている企業です。)を介して東京海上キャピタル株式会社様をご紹介いたしました。

 

株式会社ピー・アンド・イー・ディレクションズHP

http://www.ped.co.jp/

 

木村様はいつも「我慢が大事」とおっしゃっています。それは過去の様々な苦難を乗り越えられた経験に基づきます。例えば、同社は24年前にフランスに出店されましたが、その後20年位赤字だったそうです。イタリアにも出店されましたが同じく20年位赤字でした。しかしながら、お客様を大事に「信用第一」でご奮闘されたところ、現在ではイタリアでもフランスでも空前の利益をあげられ、ヨーロッパ各国の王室や、大企業の創業者、トップアスリートなどの著名人御用達のお店となりました。

 

木村様は現在も「信用第一」を根気強く説かれ、実践され日々ご奮闘されています。

 

さて、9月14日の「激励会」では、木村様には、冒頭で思いがけないスピーチをしていただき大変感激しました。

 

実は、私の長女が今月9日に、残念ながらがんで他界しました。享年43歳でした。彼女ががんの告知を受けたのは今年の4月でした。しかし、彼女は、自分自身の病を冷静に受け止め、あとに残される幼い娘の心のケアを何より心配しました。そして、彼女は、母親である自分がこの世を去ることを娘にどのように伝えたらよいのか、さまざまな資料を調べ、専門家に相談するなかで、親御さんをがんで亡くすという悲嘆の極みを体験してしまう幼い子どもの心の問題、グリーフケアの問題が、日本では認知されていないことを知りました。自分の抱える思いが、個人的な問題にとどまらず、広く社会的な問題であることに気づいた彼女は、代表者としてAIMS(エイムズ)という団体を立ち上げました(現在NPO法人の申請中です)。AIMSは、「がんでなくなるパパやママをもつ子どものためにできること」というテーマで実践的なケアとサポートの方策を構築していくことを目標にしています。

 

木村様は、冒頭のスピーチで、この彼女の想いを、志を、披露して下さり、また、会合に出席された皆様にAIMSへの活動支援を呼び掛けて下さいました。そのお心遣いを、私は大変嬉しく感じました。そして、会場全体に共感の輪が静かにひろがってゆくのを肌で感じ、わが娘のことながら、高い志は世論を喚起しリードする力を持つことを改めて知ったのです。長女の遺志が実現されていくことは、社会に貢献することであり、さらには、私の人生の希望、励みになるように感じています。

 

木村様とは、これからも良いお付き合いを続けさせていただきたいと強く感じた次第でございました。

 

AIMSホームページより「代表メッセージ」

http://www.aims-japan.org/?page_id=34

  

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(2011年9月11日(日)午前6:42 東京都中央区 築地川銀座公園にて撮影)

 

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰 様

 9月7日(水)午後15時15分、新潟総鎮守 白山神社(新潟市中央区)へ新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力好泰様のご案内でお邪魔しました。白山神社の御祭神、菊理媛大神(くくりひめのおおかみ=白山大神)は別名を、白山比咩(しらやまひめ)大神と言い、加賀の霊峰白山頂上に祀られている女神様で、この神様を勧請して新潟の地に祀ったものだそうです。菊理媛大神は農業の神、海上の神、そして国家、郷土の守り神として広く人々より尊崇されていたとのことです。境内を参拝しておりましたところ、本殿において等々力会長が指をさされたのでその方向を見てみると、なんとそこには総代を示す場所に「等々力好泰」と書かれた御神燈がありました。等々力会長は地域でご活躍される人物として評価されるだけでなく、人格・識見が優れている方として同神社の氏子総代を務められていると存じます。

 

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(2011年9月7日(水)午後15:12 新潟市中央区 新潟総鎮守白山神社にて

一番目にある「等々力好泰」と書かれた御神燈を撮影)

 

 新潟総鎮守白山神社HP  http://www.niigatahakusanjinja.or.jp/

 

 

 その後午後16時に株式会社加賀田組を訪問し、午後16時30分から、新潟トヨタ自動車株式会社本社にお邪魔しました。

 

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(2011年9月7日(水)午後16:45 左から新潟トヨタ自動車株式会社社長等々力徹様、等々力好泰様、私 新潟トヨタ自動車株式会社本社前にて撮影)

 

 新潟トヨタ自動車株式会社HP  http://www.niigata-toyota.co.jp/

 

 株式会社加賀田組HP  http://www.kagata.co.jp/

 

 

 さて、私が等々力様にお会いしたのは14年前の1997年に新潟トヨタ自動車株式会社の労使紛争の問題に対処するために私が主任弁護士に起用され、担当したことが縁でございます。当時等々力会長は代表取締役社長でいらっしゃいましたが、この労使紛争を乗り切られ、今日の発展を促されたのです。そしてそれ以来、14年間等々力会長には本当にお世話になっております。

 

 例えば、私の車は、現在メルセデスベンツS350ですが、これは等々力会長のお気持ちで新潟トヨタグループからお借りしています。

 

 さて、等々力会長はたくさんの事業をなさっていますが、その主だったものをいくつかご紹介したいと思います。

 

Ⅰ 日本と中国における車の販売事業

 

 新潟トヨタ自動車株式会社というからには、トヨタの自動車を販売することは言うまでもありませんが、トヨタのディーラーのうち、全車種を販売しているのは、実は、新潟トヨタだけとのことです。全国にいくつのディーラーがトヨタ系としてあるかは分かりませんが、新潟トヨタは群を抜いた扱いを受けているのです。いうまでもなく、それは、等々力会長およびその先代がトヨタに対して真摯に対応してきたからに他ならないでしょう。また、同社ではもちろん、レクサスの販売もされていますが、今は、プリウスに重点をおかざるをえないそうです。地方都市であるが故に、高額な車は売れないということが理由であるのはいうまでもありませんが、日本全体でもそうなっているようです。

 

 等々力会長の事業展開は、新潟のトヨタ系販売会社で平成23年度に約880億円の売り上げを上げられていますが、それ以上に中国で手腕・力量を発揮されているそうです。等々力会長は、中国ではBMW等々の車種を販売されていますが、中国での2011年1月~12月の売上高は72億元(約1,000億円)の売り上げを見込まれているそうです。

 

 

 中国への事業展開は労使紛争で新潟トヨタ自動車株式会社が苦況に立たされた前後から開始され、労使紛争によって拍車がかかったということですので、極めて強いご決断のもとになされた事業ということになりますが、中国ではすでに成都BMW・青島BMW・南寧BMW(2010年度売上高ベスト3)など15の営業拠点でディーラーを展開されています。

 

 BMWについては先程述べましたが、BMWに限らず、等々力会長は中国において様々な車種を扱っておられます。近いうちには、ポルシェも展開されるでしょう。私はそれに対してささやかな助言をし、中国のポルシェファンがこぞって等々力会長のポルシェのお店に駆けつけるような状態になればと念じています。

 

 国際的な視点だけでなく、国内的視点についていえば、私は日本がますます貧困になっていくだけに、100万円の車も買えなくなる地域が多数発生するだろうと予測しております。このことを念頭において、私は、インドのタタ・モーターズと提携をしては如何かとの提案をしています。日本の今後をみつめて事業展開をしていかなければならないのは、何も自動車のディーラーに限ったことではなく、全ての職業、業種にとって大いなる課題といえると私は考えております。

 

 

Ⅱ マクドナルド事業

 等々力会長は、クォリティフーズ株式会社(新潟市西区)で取締役会長をされています。同社は1990年に開業され、2008年に群馬県及び長野県におけるマクドナルド直営店の営業主体をマクドナルドから同社に移行し、同社によるフランチャイズ経営として以降、マクドナルドを140店舗ほど設置しており、マクドナルドにおける最大のフランチャイジーだといわれています。

 

 マクドナルドのフランチャイジーを始められたきっかけは、新潟トヨタ上越営業所の遊休地の運用として、車のショールームへの来客誘致、活性化のためにイエローハット店とともに出店したとのことですが、当初より車に乗ったままで商品を買えるシステムであるドライブスルーが大成功をおさめ、現在も新潟県下最大級のセールスを上げているとのことです。非常に厳しいファーストフード業界の中で、等々力会長はチャレンジし続けていらっしゃるのです。

 

Ⅲ その他

 

 等々力会長はいつも新しい事業は何かということにご関心を持ってチャレンジされていますが、この数年来手がけていらっしゃったのは、裏方としての株式会社加賀田組の再生です。マンションデベロッパーの不良債権問題で苦しんでおられましたが、メインバンクである第四銀行の特段の配慮やリストラ等が功を奏し、立ち直り、再び新潟で大々的に活躍できる状況をむかえようとしています。 

 

 ところで、新潟市中央区に本店を構える「第四銀行」は、現存する銀行では日本で最も歴史の長い銀行ということをご存じでしょうか。明治5年に「国立銀行条例(日本最古の銀行法令)」が制定され、それに基づき、主要都市に4つの銀行が設立されました。第一国立銀行は東京に設立され、第二国立銀行は横浜に、第三国立銀行は株主間で紛議が生じ開業に至らず、第四国立銀行が新潟に設立され、第五国立銀行が大阪に設立されました。明治の初期には、新潟県は県勢として日本で4番目、正確には3番目にランキングしていたということです。これは、当時新潟には、江戸末期に盛んに行われた新田開発により、全国でも有数の大地主が多く在住していたからだそうです。その後新潟県は凋落に次ぐ凋落を続けてしまって、2011年の県勢を見てみると一人当たりの県民所得が全国で27位(新潟県勢要覧2011)です。こうした状況のなかで等々力様が一層ご活躍され新潟県勢を盛り返されることを期待しています。

 

 さて、今後、等々力会長は、若手技術者の採用、加賀田組の新社屋の建設等、攻めの経営に転じていきたいとお話されていました。

 

 私は新たなことに関心を持ってチャレンジし続ける等々力会長を誇りに思っており、クライアントにとどまらず、そのような知人・友人を持てたことを嬉しく思っています。

 

 この9月10日、くしくも等々力好泰様は満61歳を迎えられました。私に比べて13歳もお若いのですが、それだけに、まだ10年は少なくとも頑張っていただきたいという気持ちで、いつも私はお付き合いをさせていただいています。

 

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(2011年9月3日 午後16:58 東京都世田谷区桜丘 東京農業大学付近で撮影)

 

 

 

 

ボビン・バジュラチャルヤ様 

 

9月2日(金)午前11:00より40分ほど、ボビン・バジュラチャルヤ様,薄井由美子様御夫妻が私どもの事務所にご来所されました。ボビン様とは、約10カ月ぶりの再会でしたが,ボビン様と由美子様は本年1月にご結婚されたばかりとのことで,由美子様には初めてお会いしました。由美子様は栃木県矢板市のご出身とのことでした。

 

私は親しみをこめて彼のことをボビン君と呼んでいます。今のネパールの現況等のお話に華を咲かせました。

ボビン君はネパールの首都カトマンズの南の郊外パタン(ボビン君曰く、「下町」であるとのことですが、仏教思想にもとづき、職人、農家、王族・貴族が昔住んでいた古い建物が並ぶ歴史ある古都です)のご出身です。2日には、ネパール、カトマンズの魅力についてお話ししていただきました。「一言では言い表せない魅力がありますが、『心が落ち着く』場所であることです。スピリチュアルな着地点であるとおもいます。60年代、70年代のヒッピーの方々が、旅の最後に選ぶ場所がネパールでした。また、仏教から生まれる仏教アートが魅力です。具体的にはタンカ(チベット仏教の仏画の掛軸の総称。曼荼羅もタンカの1種類)などでしょう。」とのことでした。私も曼荼羅を購入したいと思っていますが、どういう曼荼羅が良いかお伺いしたところ、「インスピレーションで選ぶもの」であるということでした。まさに芸術作品を選ぶ着眼点だと思います。

 

バジュラチャルヤというボビン君の姓は、日本語で書けば「金剛阿闍梨」で、つまり「金剛乗の師範」といった意味であるそうです。金剛乗(バジラヤーナ)とは、密教の思想の内の一つで、比較的後期の思想であり、宇宙の真理、宇宙のエネルギーを説いたものだそうです。

 

ボビン君はいつもお会いするたびになにがしかのネパールのお土産を持ってきてくださいます。今回2日には,90センチ四方の,ボビン君のお母様の手織りのチベット絨毯でした。ボビン君は、「この絨毯に心安らかに座って瞑想してください。耳の故障も軽快しますよ」と仰ってくださり、その優しい言葉に嬉しくなりました。

 

ボビン様.JPG

(2011年9月2日 午前11:34 左からボビン君,私,薄井由美子様
いただいたチベット手織りの絨毯を前にして)

 

さて、ボビン君との出会いは、彼が当時25歳の、2002年8月のある夜のことでした。赤坂の沖縄懐石料亭「沖縄懐石 赤坂潭亭」の女将・高木凛様が出店した赤坂の沖縄現代料理店「紅い花」に食事に行った際、皿洗いのアルバイトをしていた彼とひょんなことから言葉を交わしたのがきっかけでした。ボビン君がネパール・カトマンズ出身とお聞きしましたが、たまたま私は同年11月20日から24日にかけて25名からなる「桃源郷を訪ねる訪問団」の団長としてネパールを訪問する予定でありましたので、その旨をお話ししたところ、「10月にはネパールに帰国するので、11月20日にはカトマンズの空港でお待ちしています」という言葉を返してくれたので大変嬉しかったのでした。

 

沖縄懐石 赤坂潭亭HP http://www.akasakatantei.com/

そして2002年11月20日、日本でのわずか十数秒の短い会話がきっかけで、ボビン君は本当に空港で私を出迎えて下さいました。その日は、関西国際空港から上海で給油した飛行機が3時間も遅れ、本来なら現地時間夜11時にカトマンズ空港へ到着するはずであったのに、私たち一行が空港に到着したのは翌日の午前2時でした。しかし、ボビン君は日付が変わってもなお、深夜の待合室でじっと私を待っていて下さいました。そのことに感激した私は、短い日程の合間を縫って、ボビン君のご自宅へお邪魔し、また彼の故郷パタンにもご案内頂きました。その時、ボビン君がシンガーソングライターであることを初めて知りました。

 

9年前のネパールと現在のネパールは随分と変わったということで,トマンズは特に発展が著しく,今や東京の渋谷と変わらないショッピングモールもあるということでした。ネパールでの私の一番の思い出は,野生の蜂蜜が最高であったということです。今では日本では勿論手に入らないのですが、ネパールでも入手することがはなはだ難しいものであるとお聞きしました。

 

さて,ボビン君は、1976年生まれで、1996年、留学のため初めて来日し(今は亡きお父様が大の親日家でいらっしゃったそうです)、千葉県八千代市の秀明大学国際協力学部を2002年3月に卒業され(大学の卒業論文では「南南協力」をテーマにしたということでした。)、その後「紅い花」でアルバイトをしながらライブ活動をされていました。ちなみに,私は秀明大学の顧問弁護士を務めていた時期があり,ボビン君と私は,この奇遇に驚いたものでした。

 

ボビン君の音楽は、「オリエンタル・フォークロック・バンド」と分類されるそうで、カトマンズの精神風土を色濃く反映したスピリチュアルな癒し系の音楽です(とはいっても、エレキギターなどの演奏等、西洋音楽の要素もミックスしていらっしゃいますので、伝統的な民族音楽ではありません)。何度か演奏をお聞きしましたが、心が動かされる音楽でした。ささやかながら私は応援を続けさせていただきましたが、現在は祖国ネパールに戻られ、カトマンズのパタンにて「Melting Pot」という,ボビン君のお母様が作る手作りキャンドル、地元の素材で作ったアクセサリーなど自分が好きなものを売るセレクトショップも経営されています。ネパールが、様々な文化、人種が集まる国であることから、17世紀アメリカを形容した「Melting Pot」<人種のるつぼ>をヒントに、それを店名にされたとのことです。音楽活動も続けられており、今まで50曲位を作曲されたそうで,ボビン君の下記にご紹介するブログでは、たびたび来日され精力的なライブ活動を続けられていることがわかります。勿論日本だけでなく、アメリカ等諸外国にも進出されています。今後とも応援させていただきたいと思っています。

 

一瞬の出会いをも大切にすることによって、心の交流が生まれ、お付き合いがひろがることを、そしてさらに縁をつなげ続けることを旨として、私は本日まで生きてきました。私の財産は、このような人と人との「つながり」であることを、9月2日ボビン君との再会で改めて認識いたしました。

 

ボビン君のブログ(日本語)http://slowburning.seesaa.net/

語言大学にて.JPG    (2011年8月24日(水) 日本時間 午前10:07 北京語言大学にて撮影)

 

 

(1)当事務所北京代表処 上席顧問 王建寧先生

 

 8月23日(火)、午前11時30分(日本時間午後12時30分)に、北京空港で、当事務所北京代表処 上席顧問 王建寧先生が私たち(当事務所顧問の知久信義様,有限会社セカンドステージ代表取締役社長鮒谷周史様が同行して下さいました)一行を出迎えて下さいました。王先生との出会いは、2003年2月で、まったく偶然のことといってよいでしょう。しかし、必然でもありました。私は、講談社から、2002年10月に、「中国で成功する人事労務の戦略戦術」という書籍を出版しましたが,王先生が、その書籍を読んで下さり、感激されて,わざわざ北京から、私の事務所に訪問して下さったのです。それ以来、9年来、ご縁をいただいています。

 

王先生.JPG 

(2011年8月24日(水)日本時間 午後16:02 王建寧先生)

 

 王先生は、東京 野村証券本店で10年ほどお仕事をされており、その後中国へ帰国され、中国の弁護士資格を取得され、日中友好のために弁護士活動をされています。派手な方ではありませんが,頭脳明晰な方で、かつ、コンプライアンスに徹底する、中国では珍しい弁護士でいらっしゃいます。私は、王先生を信頼しきっており、色々なことでご相談申し上げておりますが、直近のご相談は、小生の北京代表処に、中国人弁護士を新たに活用することであり、王先生のお知恵とお力をお借りしたいとお願いしていることです。当事務所萩原大吾弁護士が、今年6月中旬より8月末まで北京語言大学で中国語習得に励んでおられ、この9月から、北京代表処で勤務を開始します。萩原弁護士は、中国語を相当マスターしている弁護士ではありますが、萩原弁護士の支えとして、中国人の弁護士が必要であるのではないかと判断したからです。

 

 王先生は、私の北京代表処が黒字にならない限り、中国人弁護士を採用する必要はないのでは、という現実的なアドバイスをくださいましたが、私は、敢えてチャレンジして、中国人弁護士を迎え入れようと考えているのです。

 

 王先生のご趣味は、きわめて多岐にわたりますが、私の知っている限りでは、絵画、骨董等、美術に大いにご興味があるようです。私は、王先生から中国画(国画)の掛け軸をいただき、それを東京事務所の入り口にも飾っております。

 

 王先生の奥様は、汪文華様で、日本のNHKにあたる中国中央電視台においてプロデューサーを務められておられ、世界を股に活躍されています。この8月も、アメリカへ赴いてお仕事をされたそうです。汪文華様も、また非常に日本文化に理解のある方で、親日家でいらっしゃり、私は2年か3年に1回、東京でお会いさせて頂いております。直近では、今年の2月9日(水)に、東京都港区芝「とうふ屋うかい」にて開催した会食会でお会いしました。

 

 王先生に見守られて、今後北京代表処は発展していかなければならない時期にいると改めて感じました。というのは、北京が3か月前の状況と変わって、更に一層発展しているからです。私の講談社の書籍をきっかけにして、王先生の日中友好へかける思いが、今日の私とのご縁をもたらしてくださったのですから、これを実りあるものにするには、私も高齢ではありますが、引き続きの努力をさせていただくとともに、新しく赴任し勤務を開始する萩原弁護士が、大活躍することが必要であるでしょう。

 

 中国社会は非常にナイーブな状況ですが、しかし,共産党政権を変えてでも、改善しようという意向は大衆にはありません。共産党政権こそが、今後も中国社会をリードしていくものであるという意識で、大衆が対応しているのではないかと拝察しております。その意味において、中国の民主化への歩みは遅々としておりますが,期待している次第です。

 

10月26日~29日にかけて、私は台湾へ赴く予定ですが、王先生もお招きいたしました。その際の王先生とのやり取りは、改めて本ブログに掲載させていただきます。

 

 

(2)三井住友銀行(中国)有限公司 北京分行 金 昌雪様

 

金様.JPG

(2011年8月24日(水)日本時間 午後12:16 金昌雪様)

 

 24日(水)11:00頃,三井住友銀行北京分行の金昌雪様にお会いしました。久しぶりに三井住友銀行にお邪魔しましたが,私が以前お邪魔した2008年8月には,25年も使っている今に比べれば小さな事務所でしたが,本日お邪魔した新しい事務所は大変立派なオフィスになっていました。

 

 三井住友銀行(中国)有限公司は,三井住友銀行の全額出資により,2009年4月27日(3年前)に正式に中国政府から認可をとり,金融機関として認められました。上海に本店をおき,中国全土に8つの支店と4つの出張所,2つの駐在員事務所があり,大々的に事業を行っています。上海の本店には,600名の行員を抱えているそうですが,蘇州支店は200名,広州支店は150名で,北京支店は少なくて60名とのことでした。

 

 金様と初めてお会いしたいきさつは,当事務所初代中国室顧問であった足代清様でした。足代様とは,銀座のバーでお会いしました。いつも静かにお酒をたしなまれて,長居している足代様と,ひょんなことからお話しを交わすようになり,「一度住友銀行の東京本部においで下さい」とおっしゃるので,住友銀行東京本部(現三井住友銀行大手町本部ビル)にお邪魔しましたところ,もう足代様は定年を迎えられ国際総括部の顧問でいらっしゃったにも拘らず個室をお持ちでした。当時個室を持っていたのは,頭取・巽外夫様と足代様だけだったと思います。

 

 足代様が三井住友銀行を退職された後,1997年に足代様を当事務所顧問に迎え,その翌年だったと思いますが、元部下であった金様を北京でご紹介していただきました。金様も,足代様も,お酒が好きな方ですが,酒席が縁で,このような深い縁に恵まれ私の人脈が繋がっていくことは素晴らしいことだと思います。

 

 ご紹介いただいた当時課長であった金様は,その頃から極めて巧みな日本語で,日本人と遜色のない,むしろ日本人以上にコミュニケーションの良くとれる方で,将来出世するな,と確信しておりました。まさにその通りとなり,北京支店の副行长となられ(行长は日本人の方です),また,总行行长経理助理(三井住友銀行中国有限公司の社長補佐)をされておられます。わずか10年でトップに上り詰めたことは,本当に素晴らしいことですが,ご苦労も,ご心労も多かったことかと思います。しかし,それを意識させない軽やかな口調でお話を続けられる姿にはいつもながらに感銘を受けていました。

 

 金様との思い出は,仕事の上のことではありませんが、中国の社会情勢を色々と教えていただいています。

  

 金様が課長時代に,私が北京の中国法学会で講演した際も,サポートしていただきました。そのとき中国法学会から与えられていたテーマは,弁護士以外の日本の資格者について述べるというものでしたが,司法書士,行政書士,社会保険労務士といった様々な資格者を紹介しました。その話を聞いてくださった金様が,「将来,定年後は行政書士の資格を取得したい」とおっしゃったことに驚きました。中国には行政書士という資格はありませんでしたが、いかに金様が勉強家であるか,よくわかると思います。

 

 さて,金様は三井住友銀行の本店で研修を受けるため度々日本にいらっしゃったこともあり,日本文化にお詳しいのですが,私を北京のそごう百貨店にある吉野家に連れて行ってくださったことが印象深い思い出です。牛丼をいただいた後,金様が私に,「この牛丼は少し変ではありませんか」と質問されたので,私は「いえ,美味しかったです」と申し上げたら,「この吉野家には紅ショウガがないのです」とおっしゃいました。それを受けて,私はその後,実際に,吉野家の社長にその事実をお伝えし,それを受けて吉野家が調べたところ,北京そごう店では,紅ショウガは横流ししていた上に,日本から輸入した純正の醤油ではなくて,安ものにすりかえていたことが判明したそうです。

 

 この他,金様とお話をする際は,何かと食べ物の話が多いのですが,金様のお子様がお寿司を食べたいとねだるので,週末にはお寿司の話が話題に上らないよう苦労されているという微笑ましいお話をお聞きしました。どうやら,お子様がお友達とお寿司屋さんのお話をされているそうで,どこどこのお寿司が美味しかったというお話を聞くと,金様に連れて行ってもらえるようねだられるそうです。このように,北京でも大変な寿司ブームが続いていたようです。日本では寿司文化,寿司職人は少し廃れつつあると聞きます。日本人はものづくりというものに対して,消極的になっています。言ってみれば,株やファンドといった心身に技を磨かない世界で生活する人が多くなっていて,これを解決するには,子弟を教育する制度を大幅に改革しなければなりません。

 

金様は,本年2月に満60歳の定年を迎えられましたが,会社の希望と御本人の希望とが合致して,あと3年の契約をされたそうです。私は,金様の人間性にいつも感心しております。一度日本の三井住友銀行本店の,金様を支えてくださっている方にお会いしたいと思っています。金様を高く評価されている,三井住友銀行の中枢の方にお会いすることが,日中友好に資するものであると信じているからです。具体的な氏名はここで明かすことはできませんが,金様が来日した際はその方とご一緒にお食事をしたいと申し上げました。

 

 

 

(3)画廊上海華氏文化発展有限公司 「華氏画廊」 華雨舟様

 

 村上画伯 (1).JPG

(2011年8月26日(金) 日本時間 午前9:54 華氏画廊にて撮影)

 村上画伯(2).JPG(2011年8月26日(金) 日本時間午前9:56 華氏画廊にて撮影)

 

 8月26日(金)午前9時に,上海市准海西路にある華雨舟様の画廊「華氏画廊」へ訪問しました。私たち一行が画廊に到着したおり,華様はすでにお待ちくださっていました。26日は,台北でのアートフェア―に出席されるご予定だったということですが,26日に先立ち,20日に東京六本木で華様とお会いした際に、私が26日にご訪問させていただくことを申し上げたところ,台北行きを27日に変更して下さったのです。

 

 すなわち8月20日(土)は、午後19時から1時間30分ほど、東京六本木で華様にお会いしました。浦上蒼穹堂の浦上満様とご一緒に会食会を開催しましたが、美術の話で盛り上がったことはいうまでもありません。

 

浦上蒼穹堂HP http://www.uragami.co.jp/

 

 その会食会で華様は、将来日本の古い明治以降の画家の美術館を日本に作りたいと言うお話をされていました。また、その古い日本人の画家に学んだ戦前の中国人の多数の画家の作品も、その美術館に置きたいとお話しされていました。大変立派な目標を持たれていて、関心いたしました。

 

 また,華様は、アジアの中で一番安定している国は日本である、規則をよく守る国も日本である、将来は決して暗くなく、明るいものである、というお話を盛んにされました。そのことは、日本人の認識とはまったく異なるものでした。

 

 さて,華様は、1963年上海生まれで、1994年に東京都町田市にある和光大学人文学部芸術学科を卒業されましたが、そもそもは、画家になる心づもりでいらっしゃいました。しかし,自ら、画家としての才能が足りないということを悟られて、その後画商に転じられた方です。

 

 華様は,画廊上海華氏文化発展有限公司の代表で,「華氏画廊」のオーナーでいらっしゃいます。また,上海国際商品拍賣有限公司(オークション会社)の副総経理でもいらっしゃり,他の多くの美術商の方々に推薦されて副総経理になられたそうです。世界を股にかけたオークション等で活躍されています。

 

 私は、華様のご自宅を度々お邪魔させていただいておりますが,中国には珍しく、立派な一戸建てのお住まいで,それは、美術商として極めて精力的に励まれていたからにほかなりません。

 

 華様と私は1998年8月に初めてお会いしました。その時は、「華氏画廊」は上海仙霞路の小さなビルにありました。画廊に偶然小生が飛び込んで、お会いしたのです。

 

 そこには,王向明画伯の絵がありました。かつて、私がシンガポールに赴いた際に、ふらふらと画廊に寄り、素敵な絵を発見しましたが、それが王画伯の絵を見た初めてのことでした。その後、台北に行った際に、またまた画廊に寄り、そこで「California on the beach」という名前の、半抽象画の王画伯の絵を購入しました。これが王画伯の絵を入手した最初のことでした。この経緯を華様にお話ししたところ,まもなくして、南京西路にある王画伯のアトリエへ,華様のご案内で訪問することになりました(華様は,王画伯に今から15年前,1996年頃からご面識をお持ちでした)。今では,王画伯は、売れっ子画家として、中国でも相当の地位にいらっしゃる方ですが、こういったご縁で、私も王画伯の絵をいくつか、所有するに至りました。

 

 さて,その後、華様は、発展に発展を遂げられ、5度も画廊を移転され、「華氏画廊」はどんどん大規模な画廊になっていかれました。現在の「華氏画廊」は上海市准海西路にあり,上海博報堂のビルの隣にあるビルで,2年前にオープンされました。今では2000点を超える美術品を買い取り,保有されています。

 

 華様が評価され成功されている画商である一つの理由は,現実に作品を「購入して」画廊におき,それを評論される点にあると思います。日本の銀座には「華氏画廊」のような規模の画廊は存在しないし,そもそも,日本のほとんどの画廊に置いてある作品は「委託」であって,画商は買い取ってはいません。(この点,浦上蒼穹堂の浦上満様は,華様と同じく作品を「買い取って」いらっしゃいます。)

 

 8月26日には,個人コレクションとして集められているものも写真で見せていただきました。素晴らしい作品ばかりで,優に日本の美術館に匹敵するものであると拝察いたしました。私に同行してくださった知久信義様の弟様の知久正義様は画家であり,それゆえ知久信義様は審美眼をお持ちですが,華様のコレクションには心底驚いていらっしゃいました。

 

 さて,「華氏画廊」には,前回訪問した時(今年5月14日)よりも多くの村上隆画伯の絵が1階フロアーに展示されておりました。華東地区の代理店として販売活動に力を入れていらっしゃると言うことでした。村上画伯は,アジアにおけるモダンアートの旗手として世界的に活躍されており,ニューヨークのサザビーやロンドンのクリスティーズにおいて,最高級の評価を受けている方です。

 

 村上画伯の本画は,何千万円という価格であったため、到底私には購入できませんでしたので、前回5月14日には,村上画伯のリトグラフを二枚購入し(このリトグラフに、署名が無いゆえに,本物であるかどうかは定かではありませんが、私はそのリトグラフから「気配」を感じて、購入しました。),今回26日には,村上画伯の署名入りの自画像をリトグラフで購入しました。村上画伯の自画像はとても珍しいのです。2万元を切ると言うことでした。

 

 また,その他にも,26日には四川大学出身の若い作家の絵を1枚購入しました。これは,日本の美術館はもとより画商には,とても受け入れられないような,かなり先駆的な絵です。しかし,私はそこに「気配」を感じて購入したのです。「かなり先駆的」と言っても,「華氏画廊」にあるというだけで,それはそれなりの評価があるということではありますが。

 

 絵の持つ「気配」については,8月23日、私が今回中国へ向かう機内で読んだ、同日付日本経済新聞朝刊最終面「私の履歴書」の中で、日本画家の小泉淳作先生が、「じっくりと向き合い写生して、風景や静物が発する、生きている『気』をとらえたかった」と述べられていました。私は7月15日付ブログ記事「気を入れて」の記事内で、【気配を伝えるべく「気を入れる」ことが芸術家の仕事】という見出しで、東山魁夷先生の絵のことに触れ、それぞれの絵がもつ「気配」について述べましたが、まさにその通りであると思いました。

 

 また,草間彌生様の作品についてもお話が及びましたが,私がいささか草間様から昔譲っていただいた作品があると申し上げたところ,華様は是非譲って下さいと繰り返しおっしゃられて,今後またご訪問させていただくときに,そのお話しがあると思います。草間様の作品はいまや世界的に評価され,モダンアートの画家のひとりとして大活躍されていることは皆様もよくご承知のことだと思います。

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