歴訪記の最近のブログ記事

 

2014年5月4日(日)7:22 東京都港区芝公園にてマーガレット(白)を撮影

花言葉:心に秘めた愛

 

前回に引き続き、昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問した時のお話をします。

 

時習館高等学校を辞去し、同じく愛知県豊橋市にある合名会社小田商店を訪問しました。

小田商店 http://www.oda-shouten.com/

 

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小田商店は、今も昔ながらの伝統醸造法で、よい商品はよい原材料から安心安全をモットーに豆みそ、たまりしょうゆ造りを営んでいます。10時15分頃に到着し、私と同年代の店主・小田晃一様のご案内で、蔵の中を見学させていただきました。大きな杉の桶があり、そこにはしごを掛けて、私も登ってみました。3段か4段ほどのぼると、樽の上部を覗き見ることができて、そこには、大きな石、長良川か揖斐川、木曽三川の河原に転がっているような丸い石(7キロから8キロ)が積み上がって置いてありました。この杉の桶は、100つもあるそうです。この杉の桶は7トンのみそが仕込んであるそうで、これを1年半くらいを目途に木桶の中で発酵させるのだそうです。また、第三工場では、「たまりしょうゆ」を作っていましたが、空気を抜くようにしながら圧力をかけて仕込んでいる工程をみました。一般のしょうゆの原料は大豆と小麦の割合がほぼ同じですが、「たまりしょうゆ」は大豆が大半ですので濃厚な味の商品に仕上がるという違いがあるそうです。

 

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いまは、小田商店のような、天然の、昔ながらの製法が一大ブームになっているそうです。そのブームを受けて、小田商店では最近、通販を始めましたがこれが大好評とのことで、全国に販売しており、私も、昨年のお歳暮で使わせていただきました。

 

小田商店のみそは、愛知県の名産である「豆みそ」です。大豆と食塩、水だけを原料に、蒸した大豆を玉にして、全量を「豆麹」とし、伝統的な技法で長期間熟成させてつくられるものです。東海地方の夏は高温多湿でみその酸敗(脂肪類が酸化してすっぱくなること)が起こりやすいため、大豆に麹菌を直接に安全に生育させる「味噌玉製麹」という伝統的な技法で造られる豆みそは、夏場の高温多湿に耐え、長期保存できるみそという長所があるそうです(参考:「愛知の豆みそ公式サイト」http://aichimiso.jp/index.html)。

 

麹は、日本人の食生活に欠かせないもので、小田商店でつくっているみそや醤油のほかにも、焼酎や日本酒も、麹がないと作れません。麹とは一体何かというと、蒸した穀物(豆みそでいえば大豆)に、こうじ菌という一種のカビが繁殖できてできた発酵食品を指すとのことです。麹のような発酵食品は免疫力を高めると言われており、なかでも麹をつかった発酵食品であるみそは、「味噌汁を飲む頻度が高くなるほど、胃がんの死亡率は低くなる」(1981年当時・国立がんセンター研究所平山雄疫学部長調査)、「みそは放射線被曝から身体を守ってくれる働きがある」(広島名誉教授・渡辺敦先生著書『味噌力』)等の効果があるといわれているそうです。ロシアのチェルノブイリ事故のときは、ロシアへの豆みその輸出が大幅に増えたそうです。

 

 

さて、小田商店の店主・小田晃一様とは、みそやたまりの話以外にもいろいろとお話をしていましたところ、私が訪問してきた時習館高等学校をご卒業されている方で、先に述べた通販も、もともと時習館高等学校の同窓会名簿を元に始めたそうです。ここ豊橋の地を離れて各地で活躍してきた同級生たちに、慣れ親しんだ豆みそやたまりしょうゆの案内を出したところ、大流行になったとのことでした。

 

小田晃一様はとても謙虚な素敵なお人柄で、ほかにもいろいろとお話いたしました。話に華がさき、10時50分ころ辞去しました。

 

 

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2014年5月9日(金)私の77歳(喜寿)によせて
奥田久仁夫先生(奥田税務会計事務所)からいただいた胡蝶蘭を撮影
花言葉:「あなたを愛します」 

 

前回に引き続き、昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問した時のお話をします。

 

時習館高等学校は、古くさかのぼれば吉田藩(藩主松平伊豆信復)の藩校を前身とし(創設1752年)、その「時習」という校名は孔子『論語』の「学びて時にこれを習う(学而時習之)…」の一節から来ているという非常に歴史のある高等学校です。一度藩校が途絶えた時期があり、復活したのが明治26年ですので、そこから数えれば120年の歴史を誇ります。

 

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校長の林誉樹先生、教頭の木藤政美先生に詳しく時習館高等学校の特色を聞きしたところ、公立高校としては全国で2番目に広い学校であるということでした。一番大きい学校は北海道にあるとのことですが、これは農業高校ということですので、普通科の高等学校としては全国で一番広いということになります。もともと軍用地であった場所だそうです。

 

その他の特色としては、海外に姉妹校が3校あり、セント・ポールズ校(イギリス)、セント・ポールズ女子校(同)、オットー・フォン・タウベ・ギムナジウム校(ドイツ)です。セント・ポールズ校は、男子私立校で、イギリスのパブリックスクール伝統校The Nineのひとつに数えられる、英国屈指の名門校です。平成21年度より、交流がはじまって、毎年3名から4名ほどの相互の学生が短期間のホームステイや学生生活を楽しむそうです。また、平成20年度からは文部科学省が同校を「スーパーサイエンスハイスクール」(文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高校を指定する制度)に指定しており、木曜日を除き週4日7限授業を行い、週34単位時間の授業を確保する体制とのことです。同校は、地域で各中学校のトップクラスの学生が集まる県内有数の進学校です。

 

さて、時習館高等学校訪問中には、内藤貴美子先生の在りし日のご活躍ぶりについてお聞きしました。古いアルバムのお写真なども拝見させていただきました。先生は、名物教師として有名で、非常に優秀な教師であり、合唱の指導がお得意だったとのことですが、小柄な背丈でいらしたのにもかかわらず、生徒を叱り飛ばす厳しい教育で有名だったそうです。いまの時代では珍しいことになりましたが、一生転勤せずに、定年退職後も、時習館高等学校で講師としてご活躍されました。昭和23年5月から平成3年3月まで約51年間、半世紀以上、御奉職されたとのことです。その後、平成14年4月に85歳で他界されました。翌年の平成15年5月24日には、内藤先生を偲ぶ追悼コンサートが、豊橋市市民会館で開かれる等、教え子のみならず多くの市民に親しまれ慕われた方であったとのことです(参考:平成15年5月25日付東日新聞)。

 

次回に続く

 

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2014年4月22日(火)7:00 東京都港区芝公園にてハナミズキを撮影
花言葉:華やかな恋

 

 

昨年11月8日(金)に、愛知県豊橋市にある愛知県立時習館高等学校を訪問し、また、同じく豊橋市にある合名会社小田商店を訪問しました。ほかにもいくつか訪問したのですが、今回の歴訪記ではこの2箇所に絞ってお話します。

 

豊橋駅に7時58分にひかり501号で到着し、朝8時15分頃、時習館高等学校を訪問しました。朝のお忙しい時間帯ではありましたが、校長の林誉樹先生、教頭の木藤政美先生にお迎えいただきました。

 

そもそも、なぜ私が時習館高等学校を訪問することになったのか、まずはその経緯を説明しましょう。

 

昨年4月7日(日)に、愛知県の渥美半島を訪問しました。渥美半島先端には、常光寺というお寺があります。私は1956年(昭和31年)の夏休み、約1ヵ月間ここで生活しました。これは、亡き父の勧めでありました。

 

あの頃、なぜ父が東本願寺系の寺院である法泉寺(三重県桑名市多度町香取180)に先祖の墓所があるにもかかわらず、曹洞宗の常光寺に1ヵ月間私をあずけたのかその理由はわかりません。もしかすると「洞岳達禅大和尚」という常光寺の先代(34世)住職の法階から、大いなる勉強家の住職より良い刺激を受けるのではないかと期待していたのではないでしょうか。なお、現住職(35世)の山下幹雄様も、大和尚の法階をお持ちです。

 

4月7日(日)に、ほぼ60年ぶりにこの常光寺を尋ねたのです。私より2つ年上の山下幹雄様とは、この時初めてお会いしました。昭和31年当時、私が常光寺にいた時には、現住職は駒澤大学を卒業されて(同大学は曹洞宗が1592年に設立した吉祥寺(東京都文京区本駒込)境内にあった学寮(「栴檀林(せんだんりん)」と呼ばれます)を前身としています)、すぐに福井県永平寺に勉学に赴いていたため、私と一回も顔を合わせないままであったのです。

 

常光寺には、「七難即滅・七福招来(すべての災いは直ちに去り、すべての福はくる)」そして天下泰平を願う庶民の信仰が始まりといわれる七福神の神布袋尊天(布袋様の像)が祭られています。創建は応仁2年(1468年)であり、末寺は30ヶ寺にも及ぶそうです。750年以上前に開かれた曹洞宗にあって、500有余年前に創建された常光寺は、曹洞宗寺院の中でも古い歴史を有しているでしょう。歴史の浅い寺院には末寺が多くありませんが、常光寺には末寺が30ヶ所もあることからも、歴史の長さをうかがうことができるでしょう。そのような長い歴史を有する常光寺には、60年前と同じたたずまいの本堂がありました。昭和50年代に鐘つき堂と庫裡は新しくなったそうですが、本堂と総門は60年前のままであるとのことでした。今後も法灯(※)は、護持(ごじ)していきたいと、山下様はにこやかにおっしゃっていました。

(※)法灯…仏法がこの世の闇(やみ)を照らすことを灯火にたとえていう語。

 

さて、常光寺に居候中の当時の私は、勉強もせずに無聊をかこっていたので、折々、恋路ヶ浜を雪駄履きで歩きました。

 

当然のことながら、真夏の強い日差しの中で海風に浸りながら、寺から伊良湖岬先端までほぼ毎日5キロ程度歩いた記憶があります。私は歩きながら和歌山が生んだ南方熊楠(1867年~1941年)のことを思いました。恋路ヶ浜と和歌山県白浜町は、海に面していて温暖の地であったことから、イメージが重なっていたのであります。

 

ほとんどの人は知らない熊楠は明治以降で一番の知識人だと私は評価しています。彼はまさに歩く人だったのです。珍しい粘菌を求めて世界各地を旅し、日本各地の山中で、厳冬でも、空腹でも、ただただ歩き回り植物採集に打ちこんだのだといいます。それゆえに、昭和天皇も南方熊楠を敬愛していたのでしょう(参考:『別冊太陽 日本のこころ192 南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』平凡社、2012)。「才子は馬車に乗り、天才は歩く」というフランスの格言があります。近代科学の産物とは一定の距離をおいて、自分の身体を使うことで初めて人間としての才能がフル回転するという意味でしょう。

 

さて、昭和31年、当時は私は大学1年生でありましたが、その夏休み、約1ヵ月間、この常光寺で生活したのですが、住職のお話では、当時は周辺にホテルや民宿等の宿泊施設がなかったため、合宿場所として本堂を提供し、方々より大学生等を受け入れていたといいます。60年前の私も、その一員であったのでありましょう。

 

私がお世話になっていた同時期にも、20人ほどの愛知県立時習館高等学校(豊橋市)の男女学生が、1週間程度合宿生活をしていたことを記憶しています。引率の先生は男女1人ずつでしたが、特に女性の先生が素敵だったとの記憶があったのです。そんなことを思い出して、時習館高等学校に問い合わせましたところ、その女性の先生は、音楽教師で、もう10年以上前にご逝去された、内藤貴美子先生とおっしゃる、いわゆる「名物教師」として人気の高かった先生だったと分かりました。内藤貴美子先生について、いろいろとお話をお聞きしたいと、この度訪問を申し入れて、昨年11月8日(金)に時習館高等学校を訪問したのです。

 

次回に続く

 

 

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2014年3月1日(土)朝9:53 千葉県富津市金谷にて水仙を撮影
花言葉:「私のもとへ帰って」「愛に応えて」 

 

 

 

 

2014年2月1日(土)から2日(日)の1泊2日、高知県を訪問いたしました。わずか22時間の短い時間ではありましたが、大変有意義な時間でありました。

 

 

2月1日(土)

 

羽田空港を午前11:50に発つANAで、高知龍馬空港に予定通りの12:55に到着しました。有限会社コマ・コーポレーション代表取締役 成采準様に同空港でお出迎えいただきました。

 

高知県訪問は、2011年9月23日(金)~25日(日)(ブログ2011年10月4日付記事参照)、そしてその3ヶ月後の12月15日(木)「リーダーシップセミナー」を開催するために訪れた時(2011年12月27日付記事参照)以来、2年ぶりでした。そのさらに前に高知を訪れたのは、2008年のことでした。今回を含む4回の高知県訪問、すべて成様にご案内いただいております。

 

まずは、うどんの昼食を取りました。昼食では、藤川昭一様と、大豊町会議員 上池如夫様にお会いしました。藤川様は、元阪神タイガース藤川球児選手のお父様です。上池様とは、前回2011年12月15日(木)に成様のご紹介で初めてご挨拶させていただいて以来の再会でございました。大豊町の実情をいろいろとお聞かせいただきました。

 

午後には、横浪スカイラインを通って、海岸沿いをドライブしました。明徳義塾中学校・高等学校は全国に知られる野球の名門校ですが、この学校の前も通りました。プロゴルファー松山英樹氏、横峯さくら女史の出身校でもあります。そして、須崎市に向かいました。須崎市は、近年までニホンカワウソが生息している痕跡を残していたエリアとして有名です(ニホンカワウソは2012年絶滅種に指定されました)。

 

須崎市浦ノ内東分鳴無にある「浮橋」という貝料理店で地牡蠣の味噌焼きをいただきました。同店は、前々回2011年9月に訪問し、その新鮮な魚介類の美味しさから、もう一度ぜひともお邪魔したいと願っておりました。成様が37年、ご贔屓にされている店で、屋形船形式で店が海に浮いているような造りになっており、桟橋で店内まで向かう、素敵なロケーションです。

 

15:45に出発して、「土佐の一本釣り」という漫画(青柳裕介著)で有名な中土佐町の‎久礼大正町市場を訪問しました(同漫画は、1980年に映画化もされています)。とりわけ、その日に水揚げされた、新鮮な旬の魚たちが大変美味しそうでしたので、成様に、後日、純然たる高知県産のお魚の干物の名産店をご紹介していただくことにいたしました。魚だけではなく、旬の野菜や果物なども売られており、賑わっていました。

 

17時に、今回の宿泊先である「黒潮本陣」(高岡郡中土佐町久礼8009-11)にチェックインしました。本旅館は中土佐町の町営で、年間を通して予約が困難とのことです。そして17:30頃に、本旅館の名物である「潮湯の露天風呂」につかりました。土佐湾が一望できる露天風呂で、太平洋と一体になったかのような気分を楽しめました。19:30に、中土佐の地物にこだわった懐石料理をいただき、20:30ころには就寝しました。

 

 

 

2月2日(日)

 

朝6:30に起床しました。成様は、ゴルフ以外の超早寝(20:30から6:30)、10時間の熟睡だったとおっしゃっていました。そして、朝風呂につかりに行きました。朝の露天風呂も清々しく最高です。ちなみに、日の出のころは雲海のような空模様で、成様はこれは年間通じても希有現象で、私が高知に来たからではないかと笑っていらっしゃいました。その後朝食をいただき、中土佐インターチェンジから南国インターチェンジまで約60キロのドライブをし、高知龍馬空港に9:10頃到着しました。同空港を10:40に発つJALに乗り、帰京いたしました。

今回の旅路は、成様が計算したところ、滞在21時間40分、全行程走行距離220kmでした。

 

 

 

成 采準様 同行記

 

今回、高知に先生をお迎えさせていただいたのは、初回巡りあいからして、都合4回めになります。前々回2011年9月には、先生のブログにも紹介されました、僕の大学の先輩、長野県松本市にご在住の、在日本朝鮮人総聯合会 長野県本部常任委員会委員長 李光相さんとの400kmに及ぶ、中村<四万十源流紀行>、土佐清水<ジョン万次郎足跡紀行>、<山海食べ歩き紀行>の楽しい行程でした。また、前回は、2011年12月に当地の経済労使法務等各関係者50数名を集め先生を講師としてお迎えし、新阪急ホテルにて「リーダーシップセミナー」を持ち貴重で希有な時間をいただきました。その後ではきさくな先生とセミナー参加者達との夜遅くまでの「親睦交流」で少なからぬファンが出来たのも記憶にあたらしいです。

今回の1泊2日の来高は、その間、先生が世界を股にかけ公私ご多忙を極められ、若干体調を崩したものの復調なされた療養と聞かされましたが、22時間の短い「同行」に際し、先生のいつも変わらぬバイタリティーに深く感銘!

 

図らずも宿泊先「黒潮本陣」の露天風呂にて朝夕貴重な「裸のお付き合い」ができ、懐石料理、特に「鰹のタタキ」を食し地元の僕自身も初めて食べた美味で、数々の料理を食されている先生にもプチ自慢!もちろん朝食も美味!

 

静養とは名ばかりのやんちゃな髙井旋風は土佐路を駆け抜け、いつものように僕への「宿題」を残され戦場へと飛び立っていかれました。聞くところによると外遊も控え超多忙とのこと、くれぐれもご健康に留意されますように再会を期し…

 

高井伸夫法律事務所高知分室
秘書兼運転手 成采準

 

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2014年1月25日(土)名古屋市昭和区広路町松風園付近にて冬桜を撮影
花言葉:「冷静」 

 

 

昨年10月17日(木)成田空港を17:20に発つ北京行きへの最終便にて出発し、現地時間20:10に北京へと到着いたしました。今回は、北京、上海各地で開催する「高井伸夫~感謝の会」への出席が主な目的でありました。同行いただいたのは、角耀(すみ・あきら)様(北京での感謝の会のカメラマンを務めていただきました)と、当事務所の高亮(こう・りょう)弁護士です。今回のブログでは、(1)北京での「感謝の会」、(2)北京滞在中の様子、(3)途中立ち寄った丹陽での様子、(4)上海での「感謝の会」、の4点に絞ってお話します。

 

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18日(金)、午前中に北京のFESCO(北京対外服務有限公司)を訪問しました。建物は新築ではありませんが2階の受付から先は今風に改装され快適そうでした。案内された会議室は大テーブルが有り快適な環境で、中央部には間接照明で柔らかい雰囲気を出し、LED のダウンライトでアクセントをつけています。廊下も LED 照明が使われています。中国では色々な所で LED照明が採用され省エネに一役買っているようです。ちなみにFESCOの会議室の空調は 省エネに優れたDAIKIN(日本製) の空調でした。

 

このほか、北京市内の様子を、角様にレポートいただきましたのでご紹介いたします。

 

 

 


 

 

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北京の交差点で歩行者用信号が青になったので渡り始めましたら、車が右からどんどんと通って行きます(右折可)。このまま立ちすくんでいたら途中で信号は赤になってしまいます。周りの人々を見ると、走るのでもなく、止まるでもなく絶妙なタイミングで悠然と渡っています。隣りに来た人に急いで付いて渡り切りました。人と車の絶妙な関係が事故もなく効率よく事を進めていることなのかと思いました。高井先生にこのことを話したら、中国は「権利の極大化」と「義務の極小化」と「責任転嫁」です、ということを聞かせていただきました。先生のおっしゃることを中心に考えると、中国での生活、社会、その他諸々の事柄を理解する事が出来てきました。




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北京の幹線道路は広く、用途に合わせた車線も有りとてもよく整備されています。その広く整備された道路一杯に車がひしめいています。朝から晩まで車の列は絶えません。幹線道路を奥へ入った一般道路にも車はたくさんあります。しかし、ここでの車は走っていません。止まっています。歩道が有れば歩道を占拠しています。この裏通りは、再開発による近代建築が建ち並んでいる表通りとは全く違う昔の中国の建物が、今も、ひしめきあっています。そんな時代の建物には駐車場はありません。これが昔の中国です。でも、生活は車社会に変わっています。そのため、置けるところには「置く」ということでしょうか。


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天安門への人の流れはさすが13億人口の国だということを実感します。金曜という平日に中国の老若男女と思われるいろいろな方々が天安門の右から吸い込まれて行き、左から吐き出されています。目の前の天安門広場は大勢の人々で埋め尽くされています。デパートでは、食品売り場のケース一列一列に一人一人の店員が立っています。地下鉄は日中でも多くのいろいろな人々でとても込んでます。特に電車の入口近くはひどい混雑でした。

 

( Reported by 角 耀 様)

 


 

 

 

この後、17:30に、北京京倫飯店に赴き、18:00から「髙井伸夫~感謝の会」が開催されました。日本国大使館等も含め30名以上の当事務所のクライアントを含むご来賓のご出席を賜わりました。日中関係の厳しい情勢下ながら誠に友好的かつ和やかな雰囲気の中で有意義な会となりました。

 

私が1985年に初めて中国を訪問し、北京大学で法務講演会を開催した経験のもと、2006年に北京代表処の設立に漕ぎ着けてから早8年が経とうとしています。これまで日系企業及び中国側法曹関係者の方々のご支援を受けて法務サービス業務を拡大して来たことから、感謝の意を込めて、この度の「感謝の会」を開催した次第です。

 

10月19日(土)、北京を7:50に経ち、南京禄口空港にて王国全(※正確にはクサカンムリに「全」)様と合流しました。王国全様に手配いただいた車に乗って、丹陽に11:30に到着しました(角様は同日帰国されました)。丹陽のインターチェンジにて、東和男様(東龍日聯[丹陽]企業管理有限公司董事長兼総経理)がお出迎えくださいました。その足で、東様が活躍されている丹陽経済開発区に赴き、同有限公司を表敬訪問しました。開発区は、まだまだ建設中の建物ばかりですが、エネルギッシュなオーラを強く感じました。昼食は市内でいただいて、東様とは15時過ぎまでご歓談いただきました。私からは、王国全様を今後引き立てていただくことと、上海代表処のご活用をお願いし、そして開発区のご支援をしたい旨述べました。

 

16:39丹陽発の新幹線にて上海に向かい、上海には18:10に到着しました。中国では、ここ3、4年で新幹線事業を軌道に載せ、高速鉄道の営業距離数が建設中のものを含めると1万キロ以上あり世界トップとのことです。日本では、1964年(昭和39年)10月1日の東海道新幹線開通以来、およそ50年が経ちましたが、いまだに営業距離は2千620キロにとどまります。非常な快適な新幹線の旅でしたが、上海についた時には王国全様はかなりお疲れとのことで、夕食はご欠席されました。

 

10月21日(月)、18:00より、北京に引き続き、花園飯店(茉莉花庁)にて「髙井伸夫~感謝の会」を開催しました。上海代表処は1999年、正式に代表処を開設以来14年になります。この間、日系進出企業を中心に法務サービスを展開してきた中で、日中双方の関係者の皆様に大変お世話になったことに対するお礼の意味をこめて開催の運びとなりました。

 

日本側よりは当事務所のクライアントをはじめ、小原雅博上海総領事、上海日本商工クラブ関係者等、又中国側からは上海司法局を始めとする法曹関係者、民間各組織の来賓のご出席を得て約100名の盛大な宴会となりました。ご出席の皆様からは暖かい励ましと共にお祝いの言葉を頂きました。私からは、現下の厳しい日中関係ながら、明けない夜はないとの情熱と信念を訴え、日中双方の皆様の共感を得ました。

 

 

 

10月22日(火)9:40上海発の飛行機にて、羽田空港に13:30に到着し帰国いたしました。

 

 

 


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2013年12月28日(土)9:08(現地時間)
ハワイ州・ホノルル
KCC(カピオラニ・コミュニティーカレッジ)
ファーマーズマーケット(朝市)にて撮影
ハワイ州の州花ハイビスカス



今回は、北京~内モンゴル訪問時に現地案内をしてくれた、髙井・岡芹法律事務所 北京代表処のカウンセル・包香玉先生が手記を2つ寄稿してくれました。ご紹介します。


◎2013年12月13日付歴訪記(1)/weblog/2013/12/post-104.html
◎2013年12月20日付歴訪記(2)/weblog/2013/12/post-106.html 


[子供のころ見た内モンゴルの空と花]


モンゴルの空は高く、星は明るい。中でも星空が一番綺麗だ。夜、満天の星空を見上げると、宇宙がどこまで続いているか、空はどこまで高いかと問いたくなる。そして、みるみるうちに星空が地面を覆うように感じられ、地球はこんなに小さかったのかと思わずつぶやいてしまう。

草原の空は穏やかで変化に富んでいて、時間ごとに異なる状態を呈する。朝の4時になると、空は暗いままではあるが、一つまた一つと浅く白い光が天幕から優しく淡く大地に差しかかる。初め静かで暗くはあるが、千の馬が草原を走るが如く、力強く湧き上がるような劇的な変化を感じさせられる。この時の草原は一番ピュアで一番清新、生きる意味はこの純粋な世界と新鮮な空気を味わう為にあるのだと思うようになる。


東からだんだん黄色い光がさし、太陽が昇り始める。人々は部屋から出て朝食をとり、一日の仕事の準備に取り掛かる。野に咲く小さな花には朝露が降り、大地の呼吸を感じながら、やがて穏やかな一日が始まる。


太陽が更に昇り明るく大地を照らせば、羊、牛の群れと牧民が自然の中で美しい絵になる。あるときは晴天万里、あるときは白い雲が穏やかに流れる。


夕方になると夕焼け雲が現れ、西の空が赤く染められ、人々の家路を照らす。一日の始まりも終わりも自然がくれた優しさ、美しさに癒され命が永遠と続く。


草原の花は、地味で小さい。その存在すら人に忘れられてしまう程だ。地方によって空の果てまで野一面に咲く小さな花もあれば、各々の場所で群がって咲くものもある。それらは色鮮やかではないものの、命の力強さと大地の広さを物語ってくれる。黄、藍、白、赤など数多くの色があるが、異なる色で同じところに咲くことは少なく、そこに決してお互い一番を争わない品の良さが感じられる。稀に赤に染まりすぎている花もあるが、それも花びらから根まで食べられるものであって、決して見かけのみで人の関心を乞うものではない。


緩やかで穏やかな空とこの穏やかさを妨げない花は、大自然からモンゴル草原への贈り物で、それが優しくて争いごとを嫌う民族を育てているのだと思う。



[内モンゴル旅行の感想]


◆内モンゴルの人々


内モンゴルの人々は優しくて心が温かかった。


8月10日(土)の午後ホテルに着いたとき、内モンゴル万佳食品有限会社の佟広遠様が既にホテルで待っていて下さった。モンゴル人の習慣に従って、おいしいモンゴルしゃぶしゃぶをごちそうして下さった上、万佳有限会社及びウランホト、阿尓山(アルシャン)についてもいろいろと教えて下さった。


旅行ガイドの劉ヘイ様も素朴で仕事熱心で、他人にやさしくとてもいい方だった。おかげさまでとても楽しい旅ができた。


旅の終わりにも旅行会社の総経理の施艶波様に空港まで送っていただいた。施様は旅行会社を経営している方であるが、他の商人と違って内モンゴル人の素朴さと温かさが感じられる方だった。


日本人は他の民族よりモンゴル民族が好きだという、その理由が少しわかった気がする。



◆内モンゴルの天気


ウランホト空港は緑の平地にある小さな空港だったが、飛行機を降りたときは空の高さ、青さ、大地の広さ、美しい緑に感動した。天気予報によるとずっと雨が続いていたそうだが、この日はいい天気に恵まれ、青空の下緑に囲まれ、風が運ぶ草と土の匂いが混ざった新鮮な空気を味わうことができて最高だった。


阿尓山の天気も素晴らしかった。朝晩と昼の気温差が大きく、周りの山と森、水のおかげで、昼も北京や日本のような蒸し暑さはなかった。



◆阿尓山を観光


阿尓山とは、モンゴル語で「泉」という意味で、阿尓山の泉は、神様が下さった神水と言われている。阿尓山の人口は6000人強だが、癌患者と血管の病を患った者が一人もいないそうだ。ホテルの蛇口からも泉の水が出るのでそのまま飲用しているとのこと。実際に飲んでみたところ、北京等で販売されているボトルに入っている水より美味しかった。しかし残念ながら、飛行機に乗ったとたん、阿尓山の水ではなく北京の水が提供されていた。


阿尓山の温泉は中国で一番有名な温泉である。歩けない患者さんが阿尓山の温泉で20日間療養すると歩けるようになると言われている。阿尓山温泉博物館は温泉地の上にそのままつくられた施設であり、30以上の温泉が湧いているそうで、それぞれの温度と効果も異なるようだ。温泉に入ったら、疲れと肩の凝りが取れた。


阿尓山は山紫水明で人が優しく、現代的開発がされていない自然の美しさが残っていた。また都会の忙しさ、ストレス、悩みなどを全部癒してくれる最高の場所だった。


旅の終わりには、高井先生に最高でしたよとお声掛け頂き、気に入っていただけて本当に良かったと思った。





【付録】我慢して努力すれば必ず成功出来る
~髙井先生と親方を訪ねるシリーズ その2~


築地双六館 館長
公益社団法人全国求人情報協会 参与
吉田 修


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2013年12月7日(土)に髙井先生のお誘いで、武蔵川親方(元横綱武蔵丸)ご夫妻、部屋の4人の力士、マネージャー、金谷美術館鈴木裕士理事長ご夫妻と食事会を行いました。


実は髙井先生と角界の親方を訪ねるのは、2002年(平成15年)8月に二子山部屋の横綱貴乃花の稽古見学以来11年ぶりです。ゆえに、「シリーズその2」なのです。


2011年(平成23年)2月、第57代横綱三重ノ海の引退に伴い、弟子である武蔵丸が武蔵川の名跡を継承、本2013年4月に新小岩に部屋を設立されました。武蔵川親方(武蔵丸)は幕内優勝12回、ハワイ出身で、現在は帰化し「武蔵丸光洋」が本名で現在42歳。人柄は温厚で明るく、とてもユーモアがありで、日本と奥様を愛し、相撲を愛しておられます。


現役時代は、アメフトの技術を応用した安定感のある突き押しを武器に、幕内時代は対戦相手を土俵際まで吹っ飛ばす事もあったほど。 入門前に痛めた怪我を除けば、大きな怪我も無く安定的な成績を残し、時代は貴乃花、若乃花、曙など実力者がひしめく中、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)などを記録しました。


お弟子さんはみな若く、一番上位の武蔵国(フィアマル ベニタニ君)でもまだ序二段です。女将さんは今はタレント&歌手の小錦のバックフラダンサーを務めていた方です。明るく、とても気遣いのある超美人の奥様です。



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髙井先生が角界関係者のパーティーで女将さんを見て、「この人は面白い!」と直感して、親方ご夫妻との親交が始まったそうです。武蔵川親方は、いつものおとぼけキャラ丸出しで弟子にも優しく、自分の食事を度々弟子に分けておられました。武蔵平(森宗順平君)は、広島の広陵高校出身で甲子園に2度出場した投手です。残念ながら、肩を壊して角界入りしました。甲子園投手で相撲取りになった人はいないのではないでしょうか。頑張ってほしいものです。


武蔵川親方との会話をご紹介します。


Q: 横綱になるには何が必要ですか?
A: すべてだよ。何か一つ欠けても横綱にはなれない。我慢して人間努力すれば、必ず成功出来る。


Q: 稽古では弟子に胸を貸しておられるのですか?
A: そう。 毎朝ぶつかり稽古やってるよ。弟子が少ない分、稽古の生産性が高いんだ。


Q: 確か入幕以降、一度も負け越しがなかったと思いますが?
A: よく知ってるね。入門してからでも1度しか負け越していないよ。横綱になった力士で、幕内以降全部勝ち越したのはボクだけよ。何回も優勝するより難しい。


Q: お酒を一番飲んだのはどれくらいですか?
A: ヘネシー16本だよ。現在は控えているけどね。お酒を飲むと筋肉が固くなり、翌朝の稽古に影響が出てしまう。


Q: 食事は日に2回ですか?
A: そう。朝食べると稽古で全部吐いてしまう。特に、夏の名古屋場所の稽古は大変だ。朝食べていなくても吐いてしまう。でもボクは一度も吐いたことがないよ。これも自慢。


Q: 最近、ハワイ出身力士が少ないようですが?
A: 外国人力士は各部屋に一人だけと制度が変わった。この影響が大きい。後は給料の価値の違い。モンゴルでは1万円あれば、1年暮らしていける。入幕できなくても帰国すればリッチになれる。ハワイではそうはいかない。


Q: 以前アームレスリングの世界チャンピオンに勝ちましたよね?
A: そうそう。はじめてやったので、最初はこつがわからなかった。 2回やって1回勝った。チャンピオンはそれまで無敗だったので驚いていたよ。一緒に世界を回らないかと言われたけど断った。


Q: 吉田さん、後援会入ってよ。
A: わっ、わかりました・・・!
(がぶり寄りで親方の勝ち。後援会に入ることになりました。)


“まことに小さな部屋が開化期を迎えようとしています”
(どっかで聞いたような・・・)
皆様、是非武蔵川部屋の応援をよろしくお願いします。

詳しくはWEBで。http://musashigawa.com/


「シリーズ3」は11年後の2024年です。私の郷土島根県の力士である隠岐の海が親方になった頃に、まだまだ元気溌剌であろう髙井先生とご一緒に訪問したいと思います。


湯気が立ち汗が冷たい寒稽古


~ 吉田様、ご寄稿ありがとうございました。なお、2014年2月8日(土)午前9:00~11:30に、武蔵川部屋の朝稽古の見学会を開催する予定です。

詳細・お申込み方法は、1月15日(水)配信予定の当事務所メールマガジン(http://www.law-pro.jp/mail-magazine.html)にてお知らせしますので、ふるってご参加ください。


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2013年12月10日(火)7:25
目黒区立中目黒公園内にて石蕗(つわぶき)を撮影
花言葉:「謙譲」「困難に傷つけられない」

 

 

前回に引き続き、8月10日(土)~12日(月)にかけて訪れた内モンゴルでの思い出をお話しします。

 

(1) 8月11日(日)


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ジンギスカン廟にて

<ジンギスカン廟>

朝8:30には、高い階段を登って「ジンギスカン廟」に行きました。公園にも行き、9:20頃まで過ごし、最後にはモンゴル人の衣装を着て写真を撮りました。

花はここにもいくらか咲いていましたが、これから向かう阿尓山(アルシャン)への行程には咲き競っていると言われています。

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ジンギスカン廟へと続く長い回廊

 

<阿尓山へ>

9:30にはウランホトを発ち、いよいよ阿尓山に向けて車で移動しました。ウランホトから阿尓山まで約250キロの高速道路の道のりを、ノンストップで走りました。

心地よい日差しの中で草原を見ながら、ウランホトを発ってから170キロを越えたところくらいから、所々林が見え始め、灌木・森林が増え始めました。まさに土壌も水資源も豊かな国であると感じました。草原は緑一色でしたが、やがて阿尓山までのこり残り50キロ近くになると、畑が現れ始めました。畑と言っても機械栽培ですから、広大な草原の中で所々黄色っぽくなっていたりする土地があって、それが畑だったわけです。

阿尓山の村につくと、いずれも素朴な近代的な建物で、大半の屋根は赤でした。モンゴル人は赤と青が大好きなので時々青の屋根もありましたが、ほとんどの屋根が赤でした。草原には小さな花がたくさんありましたが、被写体とするにはあまりにも小さく、草原の緑に圧倒されているようでした。

阿尓山の飲料水は地下3000メートルから噴出している泉だそうです。常温1.5度だそうです。阿尓山の人々の中には癌患者は全くおらず、血圧が高い人も低い人もいないそうです。奇跡の水と言われるようになるでしょうと、ガイドの人が話していました。

 

<ホテル・「海神温泉ホテル」(Hai Shen Wen Quan Da Jiu Dian)>

14:00頃、ホテルにチェックインしました。ウランホトを出発し3時間弱が経過していました。

阿尓山のホテルは五つ星のホテルで、ウランホトのホテル(長豊国際ホテル)よりもはるかに立派でした。ホテルに入ってひんやりと感じたのは、大理石を沢山利用して作った建物で石の冷たさが空気に反映してのことでしょう。

 

<国家自然公園>

ホテルにチェックインした後、郊外にある国家自然公園へ片道70キロの道のりを進みました。郊外へ行くと、道の左側に太陽光と風力を利用した柱が次々と現れました。草原には牛、馬、羊がところどころいて、たまにラクダもいました。

 

<天池>

15:30から天池(山頂に湖のあるところを言います)を目指して籠で999段の階段を登りました。灌木の中を涼しい風に吹かれながら登りました。その灌木の正体は山陽(サンヤン)という木でした。天池は決して広くない湖ですがそれでも広く感じました。写真を何枚も撮り、1時間程して籠で下りました。

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天池にて

 

かつて弊所の事務所報(2006年新春号)にも書きましたが、世界遺産にもなっている有名な景勝地・黄山について、鄧小平先生が6万段もの階段を歩いて登り、後に江沢民先生がこれを籠で登ったといういわれが残っています。私が黄山に登った2005年11月にはロープウェーができており、歩く階段の数は3万段に減っていましたが、それでも命がけで上り下りしました。

それに比べて10年後のこの日は、私がこの999段を上り下りしたのは籠でした。所要時間も50分程度でした。月日の流れを感じずにはいられませんでした。

 

(2) 8月12日(月)

 

午前7時にホテルの朝食会場に行きましたが、のんびりしたモンゴル人のことでもあり、朝食の準備はまだ整っていませんでした。北京で宿泊したホテル(長富宮飯店)のそれに比べ質素なものでしたが、それなりに美味しく頂きました。

モンゴル人は漢人に比べてのんびりしていますが、それも数年経てばスピードの早い国民性になっていくことでしょう。近代化、現代化というのはスピード化ということを意味しているからです。

日本人はまだまだスピード化が遅いが、それでもモンゴル人に比べれば速いことは言うまでもありません。漢人に比べればスピードの点では日本人は疑問が残ります。要するにスピードで負けないように社会の競争に伍していかなければならないことを痛感しました。「拙速は巧遅に勝る」という孫子の兵法の名言を、中国人は実践しているのだろうと思い至った旅でした。

 

次回は、今回の旅にご同行いただいた弊所北京代表処カウンセル 包香玉先生の手記をご紹介いたします。

 

 

 

付録

 

12月8日(日)に、千葉県若葉区小間子町にある風戸農園にて、収穫祭が開催されました(風戸農園については、下記ブログをご覧ください)。その様子を、同農園を運営されている風戸章様にご寄稿いただきましたので、掲載します。

<風戸農園について述べた本ブログ記事>

・ 2011年10月18日付【交友録その14】

・ 2013年6月28日付 第1回「野菜を愛する風戸農園の会」のご報告(前編)

中編後編もあります。

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12月8日(日)この時期にしては穏やかな絶好の収穫祭日和に恵まれ、高井先生はじめ大人12名と子供4名が風戸農園にお見えになった。

遠くは八戸から八戸工業大学名誉教授 杉田修一先生におみえいただいた。杉田先生には、前に「貴水」をいろいろな作物に使わせていただき、その効果の程をレポートさせていただいたご縁のある方だ。今回親しくお話でき、実際に私の畑をご覧いただき、実験の方法などについてご説明させていただいた。さらに話はすすみ、「貴水」を新たに送っていただき、さらに実験を深めていくことになった。

当日は高井先生の秘書の渡辺順子さんがJR千葉駅まで来て下さり、私と妻と3人で畑に10時に到着した。そして炭をおこしたり、猫にさかなや肉を食べられないよう、見張りをお願いした。どういうわけか、私の庭には猫が住み着き、ここ十数年猫が絶えない。いまは雄1匹、メス1匹、子猫2匹の所帯だ。多い時は、10匹以上の猫に仲良しの鶏がいた時期もある。猫と鶏が同じエサ箱に首を突っ込んで仲良く食べているのを見るのは、なんとも面白い光景だった。今でも時々思い出す。

高井先生はいつものことだがとてもお忙しく、この日も11時半にみえて13時にはお帰りの予定。こちらの作戦は11時半からすぐBBQをはじめ、できるだけ速くすすめること。渡辺さんのお手伝いは本当にありがたかった。BBQのやりかたも、グループにより様々。食材、飲み物一切を自分たちで調達し、炭起こしの名人もいる。焼きそば係もいる。サンマ焼きの名手もいる。なかには釣りの名人が、その時、その時に釣れた高級魚を大量に持ってきてくれたりする。

今回のグループは、高井先生と、ミス日本コンテスト事務局 和田優子様以外は、はじめてなので、どんな展開になるか見当がつかない。どなたが仕切るのか、どなたが飲むのか、私は、どんな酒でも出せるよう、一般的な酒は、全部用意した。子供にはどんな子が。畑に来ると子供の個性がすぐ出る。

 

私は春と秋に2回BBQをする。ワンシーズン200名。さつまいもは普通の芋100本、紫芋100本、ひとり一株の割だ。先生のグループには25名分残した。その芋は子供4人ですべて掘りとってくれた。収穫野菜も好みがある。5年ほど前、わたしの畑にきた女性が「ああ、長崎赤かぶだ」と叫んだ。「よくわかりましたね」というと、「私長崎出身なの」と。それ以来ずっとその女性は長崎赤かぶ目当てだ。また、福岡出身の男性から、かつお菜を作って欲しいといわれたことがある。福岡ではお雑煮に入れるそうだ、ところが種子がない。やっと手に入れて、その後は自家採取し毎年作っている。高井先生からは、ペカンというナッツの木を所望され、2年たった。順調に育っているが、あと5年くらい収穫には掛かりそうだ。真夏の暑い時期にトマト、ブルーベリー目当てに来る方もいる。ルバーブをみつけて、ジャムにすると大張り切りの女性もいる。

私はできるだけスーパーやデパートでは売っていない品種を育てている。今秋は、イタリアの青いカリフラワー(ブロッコリーと菜の花の合いの子の品種)、チコリなどに挑戦してみた。夏のオランダのトマトは、収量は多かったが、味はいまいち。フランスのナスは大きく、緻密でうまかった。いろいろ試して畑にあった野菜を育てていきたい。

私の目指す農業は循環型。家庭の生ごみ、雑草、木の枝等、一切無駄にしない。すべて野菜の肥料にする。野菜も穏やかに育つ。私のキャベツは、7月7日に種子をまいて今収穫。野菜づくりには農家の倍以上の時間をかける。じっくり旨味を引き出したいと思っている。

 

さて、当日は寒いと思ったので、畑の空き地に焚き火を用意した。大人も、子供も夢中になって楽しんでいた。たぶん石器時代からのDNAが脈々と流れているのだろう。掘った芋で焼き芋にしている子もいた。高井先生のグループが今後どのように進化していくか、楽しみである。全員参加型の収穫祭に育てていきたい。次回が楽しみだ。次回はそら豆だ。

(風戸農園 風戸 章 様よりご寄稿)

【歴訪記】北京~内モンゴル(1)


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2013年12月8日(日)11:35
風戸農園にてブロッコリーの花を撮影
花言葉:「小さな幸せ」

 

少し前の話になりますが、今夏、8月9日(金)から14日(水)にかけて、中国・北京、内モンゴル、上海を訪れました。この度の訪問のなかから、特に印象深かった、9日(金)の北京での思い出と、10日(土)~12日(月)にかけて訪れた内モンゴルでの思い出を、今回の歴訪記でお話したいと思います。

 

(1) 8月9日(金)


9日(金)日本時間の9:10発の飛行機で羽田空港をたち、現地時間の午後12時過ぎに北京空港に到着し、弊所の北京事務所のパラリーガル、何云さんが車で迎えに来てくれました。

<新世界百貨店>

まず、翌10日(土)から訪れる予定の内モンゴルが、この季節は日中30度くらいになり、日差しが強いとのことで、帽子を買った方がよいと勧められ、新世界百貨店に立ち寄りました。男性用の帽子がよいものがなかったので、優しげな印象の女性用の帽子を180元で購入しました。

<世界花卉大鑑園>

当事務所の北京代表処に立ち寄ったあと、現地時間3時半頃に、世界花卉大鑑園(北京市豊台区)を訪れました。

 

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小さな2人乗りカートに乗って、園内を4時半まで周回しました。そこには色とりどりの花が咲いており、いずれも花は日本より鮮やかで華やかな色合いでした。たくさん写真を撮って回りましたが、金曜の午後だったせいか公園にきている中国人はほとんどおらず、本当に稀に見かける程度でした。

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(左)矢車草[奥]とコスモス / (右)アンスリューム

 

世界花卉大鑑園でとりわけ印象的だったのは、園内の広場で、新婚の夫婦かあるいは婚約したばかりの男女が2,3組写真を撮っていたことでした。うち1組には専門のカメラマンが付き、もう1組には照明係がついて、色々なポーズをとっていました。

それは、15年前の上海でワタベウェディング縫製工場とお店を見学した際に見せて頂いた、アルバム資料の光景に良く似ていました。文化大革命当時に記念写真を撮れなかった老夫婦が、青春時代に戻った若づくりな出で立ちで20数枚の写真に納まりアルバムになったその姿は、しかし今では全く若いペアになり変わっていました。

 

次に印象に残ったのは、公園の東屋のもとでトランペットを熱心に練習している中年の男性がいたことでした。

私は2002年12月に催して頂いた事務所設立30周年記念のパーティーで、ヤマハ株式会社から高井の名前が刻印されたトランペットを頂きましたが、事務所に置いたままで全く演奏をしたことがありません。しかし公園でトランペットの音色を聴くと、自分でもぜひ吹いてみたくなりました。ただ耳の故障があって、残念ながら今後も自分では演奏できないであろうことに気づき、一抹の寂しさが心をよぎりました。

 

 

(2) 8月10日(土)

翌10日(土)、午前中はいろいろと当事務所に関する執務をこなして、北京空港を発ち、16:45に烏藍浩特(ウランホト)空港に着きました。

※ 本来は14:30に北京空港を発つ便のはずでしたが、いつもながら中国の飛行機は定時性に著しく欠けますから、1時間以上の遅れでした。定時性の競争においては日本航空が世界第1位であり、中国は最下位と言われています。残念ながらその通りでした。

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ウランホト空港から出て空を見れば、真っ青な天にも抜けるような見事な晴れ空で、そして緑の美しい町が眼前に広がりました。PM2.5の問題もないし、さらには工場というものがないから、空は光輝いていたのでしょう。PM2.5についてはモンゴルでは関心はほとんどないと言っていいと思います。気温は30度で、日差しは強烈でした。

17:30頃ホテルに着きました。その後、佟广エンさんが迎えに来てくれました。これは、日本とモンゴルの架け橋を目指すPHPの櫛原吉男氏にご紹介頂いた、旧知の木曽路物産株式会社・鹿野正春社長によるお心遣いでした。

 

そして18時半過ぎからしゃぶしゃぶ料理店「大世界肥牛府」で夕食会が開かれました。しゃぶしゃぶ料理の主流は牛と羊と豚のお肉が中心でしたが、豊富な野菜にも心打たれました。

木曽路物産が開発を進めている数々の商品はオーガニックを目指していて、佟さんの同僚である周加信さんは、広東からウランホトに赴いてオーガニックの指導を農家にしているとのことでした。このような動きが中国全体に広がることを期待しつつ、とても美味しくしゃぶしゃぶを頂きました。

食事会では、他にも色々なお話を伺いました。まず、内モンゴルでは漢民族が圧倒的に多く、モンゴル人は30%です。その他には、朝鮮族と満族、そしてオロチョン(鄂倫春)族もいるとのことです。 また、タオール族という民族もいるそうで、オロチョン族とタオール族はモンゴル人の亜流であって、いずれもモンゴル語でコミュニケーションを図っているとのことです。

 

次回は8月11日(日)の内モンゴルでの思い出をお話します。

【歴訪記】10月1日(火)福島・会津若松


 

2013年11月10日(日)6:53
目黒区立中目黒公園内にて箒木(コキア)を撮影
花言葉:「恵まれた生活」「私はあなたに打ち明けます」 

 

 

<絵の贈呈式> 

本年10月1日(火)、私は絵の贈呈式のため、福島県会津若松市の一般財団法人竹田健康財団・竹田綜合病院を訪問しました。

その際ご一緒しました前福島県知事・佐藤栄佐久様より、ご寄稿をいただきましたのでご紹介します。

 

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10月1日(火)、高井伸夫先生のご縁で、福島県会津若松市にある竹田綜合病院への絵の贈呈式に参加してきました。

 

高井先生とは東京のある会合で同席し、桜の季節が話題になったので、「福島にも三春滝桜をはじめすばらしい桜がいっぱいありますよ」と、いつものふるさと自慢をしたのです。先生はその言葉を聞き流さないで、4月20日(土)に突然電話がかかり「佐藤さん、桜を見にきましたよ。」といらっしゃいました。「明日21日の朝食、ご一緒しませんか」というお誘いです。

私は正直感動しました。これまでたくさんの人に滝桜自慢をしましたが、真に受けて突然飛んできた人は多くありません。

私は郡山の書道家・鈴木瑞之先生をお誘いして宿(おとぎの宿米屋)に押しかけ、朝食と共に奥深い芸術談義など先生のお人柄を堪能しましたが、滝桜堪能のほうは余りの「4月のドカ雪」で果たせず、先生は真っ直ぐ雪の中東京にお帰りになりました。

 

さて、高井先生から、秋には新築と成った竹田綜合病院に絵を贈呈するので一緒にどうかというお誘いがあったのは夏だったでしょうか。

私は不勉強で存じ上げなかったのですが、高井先生がたいへん評価されている中国・上海市出身で現在シドニー在住の洋画家、蔡國華先生の絵をぜひ見てみたいという思いもあり、また知事時代から地域医療、とくに会津の地域医療の確立と充実には強い思いがありましたので、喜んで参加させていただくことになりました。

私の地域医療に対する考え方は、安岡正篤先生(1898年~1983年)の著された『童心残筆』に収められた随筆「杏林桃窓」にあるように、お医者さんが各々の病院で真剣な医療を行うことは勿論、医療の体制づくりが難しい広域をカバーすることです。特に会津はまるで小さい県にも匹敵するような広い面積をもつ地域で、まず会津と南会津の二つの生活圏をカバーする田島の県立病院を整備しました。そして今年、全会津の医療圏の完結を志向して、会津医療センターが完成したと聞いております。

(参照:「福島県地域医療再生計画」http://www.pref.fukushima.jp/imu/chiiki_iryou_saisei/sanji_niji.pdf)

 

これにもともと会津藩以来の「御薬園」、新鶴村の「朝鮮人参」活用の漢方など、有機的なネットワークを結んで、さらに高度な医療を提供できる体制がととのったわけです。新設成り、もともと筋のいい竹田綜合病院とどのような有機的な結合が為されるのか、現場を自分の目で見て実際に感じたいと思ったわけです。

 

蔡國華先生の絵は贈呈式の前夜に画集を拝見し、私のような門外漢があれこれ論評するまでもなくデッサン力もすばらしく感動しました。

 

会津東山の名湯・向瀧では、豪雨と勘違いしながら滝の音を聞き朝を迎えました。100年は磨いたであろうトロトロの廊下の脇の小さいコケ庭で、番頭さんがかがみこみコケのために小さな葉をせっせと抜いています。その姿に感銘しつつ朝食の後、竹田綜合病院へ向かいました。

 

贈呈式は、竹田健康財団理事長・竹田秀さんのあいさつの後、贈呈者の高井先生が「医師や看護師等、治療にあたる方々には、精神性を大事にする必要があると、かねがね思っておりまして、絵は人間の精神世界の所産ですから、それにふさわしい絵を蔡國華先生にお願いし、竹田綜合病院にお贈りしました」との力強いあいさつがありました。

その通り、と私は同感しつつ、いつしか先に述べた安岡先生の「杏林桃窓」を思い出していました。江戸の海防を担った会津と関係の深い千葉・富津からお見えの金谷美術館理事長・鈴木裕士さんと私の祝辞の後、ホールに絵が飾られました。

150号はあるでしょうか。裏磐梯などに良く見られるような山のなかのくねった道に、黄色い花と赤い花がそれとなく配置され、静かな中に近くの五色沼からのせせらぎの音が聞こえてくるようなとても深い絵です。

蔡國華先生の絵は、患者さんだけでなく、竹田綜合病院で働くお医者さんや看護師さん、すべての人々に、心と体のやすらぎをまさしく与えるにちがいない、と私は確信しました。

 

昼食まで30分ぐらい時間が有ったので、先述の鈴木裕士さんご夫妻を鶴ヶ城に案内し、お城の復元技術を生かして建築屋さんが造り、経営しているティールームに案内しました。ご夫妻は、その建築物やお城の巨大な石垣に感心していらっしゃいます。その感じが通りいっぺんのものでないのでお聞きすると、もともと名主さんで石垣の仕事などとも関係していた方の子孫なのだそうです。

そこから充分時間をとって昼食会場へ向かったはずが、なんと案内役の私どもが道に迷ってしまい、遅れてしまいました(笑)。

城下町は地元の私どもさえ間違うように造ってあるのです。それも敵に攻められたときの備えのため、独特のカギの手構造になっています。(決して遅れた言い訳をするのではありませんが…。)

 

楽しい語らいの後、会津には伝統工芸の漆器業界があり、その芸術性を求めて活動している方も多いので、その長老の家(角田弘司さん、純一さんご父子)で漆芸の作品を皆さんに見ていただきました。言わずもがなですが、福島空港の壁をかざる一番大きな1間×2間、夕日に輝く磐梯山の漆芸の作品はお邪魔した角田弘司さんの作品であります。

 

その後、有意義な1日を惜しみつつ散会となりました。会津においでいただいた皆様、ありがとうございました。

【歴訪記】5月26日(日)静岡(3)


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2013年10月13日(日)10:37
ミャンマー・ネピドーにある
ミャンマー連邦共和国国家計画・経済開発省前にてデンファレを撮影
花言葉:「わがままな美人」

 

 10月4日付け10月25日付けブログに引き続き、5月26日(日)に静岡を訪問した際の歴訪記を掲載します。

  

<江淨寺>

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 徳川家康の長男(嫡男)・松平信康(1559年~1579年)の遺髪を葬った墓がある江浄寺を訪れました。信康は、徳川氏を継ぐことなく死去したため、松平信康と名乗っていたといわれていますが、現在では徳川信康といわれることも多いようです。

 

 

 信康は、弱冠9歳にして1567年に、織田信長の娘である徳姫と結婚し、元服時には信長から「信」を与えられ信康と名乗った人物です。徳姫は、信康と不仲であり、また、姑である信康の母(徳川家康の正室)の築山殿とも折り合いが悪かったそうで、ある日、信長に、信康と不仲であること、築山殿が武田勝頼と内通している等と記した手紙を徳姫が信長に送ったところ、信長は家康に信康の切腹を強硬に要求し、信康は満20歳にしてその生涯の幕を閉じたのだそうです。

 

 信康の切腹については、いろいろな説があるそうですが、晩年、家康は度々この江浄寺を訪れたといいますから、家康が信長に忠誠を誓ったとはいえ、将来を嘱望された若武者である息子に切腹を命じたことは、家康の本心ではなく、家康の心に、深い悲しみを残したのではないでしょうか。

 

 

<清水駅~アラジン清水店>

 

 江浄寺を出て、清水駅に向かいました。清水駅ロータリーには、清水重雄様も所属しておられる「清水ロータリークラブ」が寄贈したサッカーモニメントを見ました。清水ロータリークラブは、1952年(昭和27年)に正式承認を受け、静岡県内で4番目、日本で83番目のクラブとして誕生したロータリークラブだそうです。

 

 そして、清水重雄様の経営されるスポーツショップ「アラジン」清水店に到着しました。駐車場の脇には、PL教団の教祖 御木徳一様が、第一声を唱えたとされる場所を記念するモニメントがありました。これは、アラジンがPL教団からこの駐車場の土地を購入し造成した際に出てきたレリーフを飾ったものだそうです。

 

 また、アラジンの第一駐車場を横切る「旧しみず道」を徳川家康公が晩年信康のお墓参りの際に通過したといわれているそうです。

 

 アラジン清水店は、清水区浜田町にあります。「清水」の地名の由来は、アラジン近くの浜で、旅の高僧が倒れ村人が介抱し、そのお礼にお経を唱えたところ「しみず」が沸き出たことに由来するそうです。また、その井戸は現在も存在し「ちゃんちゃん井戸」と呼ばれているとのことです。旅のお坊さんが情念を込めて「チャンチャン」と打ちならしたに違いないと、清水様が語っていました。また、「浜田町」の由来は、800年頃前にはこの地が海岸線であった「はま」だったから浜田になったに違いないとのことでした。また、近くに入江があり、その入江の小高い丘が「入江岡」という地名になっています。

 

 「アラジン」清水店の4階は、清水様のご自宅になっており、4階の正面出入り口には「高井伸夫先生歓迎」とある大きなバナーがあり嬉しく感じました。昼食のおもてなしを頂戴しましたが、空輸したチーズ、お肉、パスタ等々、どれも大変美味しくいただきました。臥龍梅という清水区にある三和酒造株式会社が醸造している吟醸酒もいただきました。臥龍梅という酒名は、三和酒造の近くにある清見寺の梅「臥龍梅」に由来します。徳川家康は、幼少期に、今川家の人質として清見寺に暮らし、寺の庭の一隅に一枝の梅を接木したそうです。この梅は、大木に成長し、龍が臥したような見事な枝をもつことから臥龍梅と呼ばれるようになったそうです。

 

 4階のベランダからは、生憎富士山は顔を見せてくれませんでした。富士山といえば、本年6月22日に、世界文化遺産へ登録が確定しました。ここ静岡県静岡市清水区の景勝地である三保の松原が指定地域にふくまれるかが話題になりました。日本新三景・日本三大松原のひとつとされてきましたが、なぜ三保の松原が世界遺産候補地とされないかといえば三保の松原を守るために、点在するそのテトラポッドにより美観が崩れているから、と清水様の御令室様清水典代様がおっしゃっていました。

 

 今回の訪問後の、2013年6月に、奇跡の逆転の末に世界文化遺産に登録された三保の松原は、日本の高度成長期である1960年代に、安倍川から流れてきた土砂を大量に採掘したことなどを原因として、波の浸食により消失しかけているのだそうです。それを食い止めるために、テトラポッド等を設置しているのですが、要するに日本の高度経済成長の弊害であるといえるでしょう。また、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の「羽衣の松」を含む老松たちも、この影響で徐々に枯死しているのだそうです。

 

 

<アラジン清水店~少年サッカー発祥の地>

 

 「アラジン」を後にし、清水駅から少し西に行ったところにある「少年サッカー発祥の地」を徳川家康公が初めて巴川に橋を架けたと伝えられている稚児橋を通過しながら訪れました。これは、大型の石でできたサッカーボールのレリーフで、1956年(昭和31年)に、清水市立江尻小学校に新任教師として着任した堀田哲爾先生が、全国に先駆けてサッカー少年団を結成したそうです。堀田先生の教え子である綾部美知枝先生は、日本初の女性サッカー指導者と呼ばれる人物で、日本サッカー協会特任理事として活躍されています。綾部様とは、7月3日(水)に、清水重雄様のご紹介でお会いしました。

 

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「少年サッカー発祥の地」にてサッカーボールのレリーフと説明版

 

 最後に、清水様に彼の夢を尋ねたところ、サッカーの地であるここ清水に、日本では例をみないスタジアムの建設をみんなの手で作ってみたいとのことでした。具体的には、富士山が見える清水駅近くに、地上5階建(1階から4階までは駐車場、5階を国際Aマッチができるようなタッチライン105Mゴールライン68Mのサッカー専用スタジアム)のスタジアムを建設し、それを取り巻くように商業施設を集約し、津波対策万全を期し、一部を富士山が見える場所をマンションにしたいとのことです。「フットサル」の言葉すらサッカー関係者、保険会社に通じない20年前に、清水駅近くに作ったフットサル場のように、夢をかなえてみたい、と熱く語られていました。

 

 「ベランダから富士山が見えなかったのは、『再度お越しやす』の富士山からの歓迎の声かも知れませんね。」とは清水様の弁ですが、必ずまた訪問することをお約束し、午後3時50分頃、辞去いたしました。

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