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【歴訪記】5月26日(日)静岡(2)


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2013年10月21日(月)日本時間12:34
中国 上海市新天地の路地にてスプレー菊を撮影
花言葉:「私はあなたを愛する」

 

  10月4日(金)付記事に引き続き、5月26日(日)に静岡を訪問した際の歴訪記を掲載します。

 

<七八寿司~草薙球場>

 七八寿司を出て、車で、南幹線を清水に向け走りました。南幹線は、通称「カネボウ通り」とよばれ、昔は、鐘淵紡績の大きな工場があったのだそうです。

 

 清水に向かう途中、草薙球場(静岡県草薙総合運動場硬式野球場)に立ち寄りました。草薙球場は、温暖な気候のためか、日本で初めて野球のキャンプが行われた球場です。また、草薙球場では、日本のプロ野球が始まるより以前の1934年12月、「日米野球大会」が開催され、沢村栄治がベーブ・ルースを三振に抑える等、結果1-0で日本が敗れたものの、日本球史に残る熱い戦いを繰り広げた試合を記念して、沢村とベーブ・ルース両者の銅像が飾られていました。

 

静岡県草薙総合運動場硬式野球場にて撮影
左・沢村栄治の銅像 右・ベーブ・ルースの銅像

 

<草薙球場~草薙神社>

 草薙駅を左にみながら、草薙神社の鳥居を拝見しました。

 草薙神社では、毎年9月20日前後の吉日に「秋季例大祭日」が執り行われ、「龍勢花火」と呼ばれる花火が打ち上げられますが、これは重さ25キロもあります。上空300M以上まで打ち上げられ、ある高度に達すると落下傘が開き、それを関係者が落下地点まで追いかけるそうです。あるときは落下傘が開かず火事になったこともあるそうです。安政年間(1854年)から打ち上げられているとのことです。その龍勢花火の打ち上げられる前の実物が、日本武尊の祭られている草薙神社の神殿脇に飾られているそうです。

 

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草薙神社の鳥居

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 草薙球場や草薙神社等、草薙という地名の由縁は、古事記、日本書紀に出てきます。すなわち、三種の神器として知られる「草薙の剣」(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)です。草薙の剣は、諸説ありますが、愛知県名古屋市熱田区にある熱田神社のご神体であり、日本武尊が伊勢神宮でこれを受け取り、東征の途上、この神剣によって野火の難を逃れたという地とされているのが草薙神社であるそうです。

 

 清水様の調査によれば、草薙神社の由緒によると、<御祭神 日本武尊 御創建 景行天皇53年 例祭日9月20日この地で逆賊に出会った 尊は佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやいの鎌の」と鎌で打ち払う様に唱え剣を振り草を薙ぎ払ひ火を逆賊の方へなびかせ尊は無事に難をのがれた地を草薙という。天叢雲の剣は、草薙の剣と名稱を変更され、草薙神社に神剣として奉られた。はるか1900年余近く前の事である。>とされているそうです。なお、神社入口正面の日本武尊の像は現代の少年程の大きさです。

 

 また、私が、戦前、小学2年生のときに疎開した、三重県桑名郡の多度町(旧古浜村)御衣野(みぞの)にある草薙神社は、日本武尊が東征からの帰路に、この地にあった一本松に太刀を置き忘れた、という伝承により、この地に草薙神社が建てられたのだそうです(なお、御衣野という地名は、日本武尊が伊吹山から難を逃れる途上、激しい雨に打たれて衣が濡れたため、これをこの地で干したことに由来しているのだそうです)。桑名郡、旧古浜村、御衣野と古代史との関連性については、いつかブログで発表できればと、調査を続けております。

 

<草薙神社~巴川製紙>

 

 南幹線を清水方面に進行し、江戸時代の旧東海道にでて、一里塚跡碑で写真を撮りました。一里塚跡碑は、清水銀行草薙支店の敷地内にあって、すぐそばに、大きな狸が鎮座しているのを見つけました。いわゆる狸八相縁起の説明板がありました。なぜ信楽の狸がこの地にあるのかは、わかりません。

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左・狸八相縁起の狸  右・一里塚跡碑

 

 なお、この狸が鎮座する交差点から国道一号線までの拡幅工事は50年も経っても完成していないそうです。

 

 国道一号線に面している「七ツ新屋」(地名)には、かつて7つの新屋があったと伝えられています。清水様の幼いころ(60年程前のことです)、その7つの新屋の一つであった叔母さんの家に遊びに行くと、その家の前の小川は飲めるほどきれいな水が流れていたそうです。また、当時の国道一号線は中央部のみ舗装され左右は砂利道だったそうです。

 

 間もなくすると、清水桜ケ丘高校(旧清水商業)を右手にみて、桜橋を通過、入江岡を左折すると、『ちびまる子ちゃん』の原作者である、さくらももこさんの生家が見えました。国民的漫画である『ちびまる子ちゃん』の生家を、国が買い上げればよかったと、清水様は残念がっていました。なお、この家は、すぐ近くに旧東海道があります。もともと旧東海道に面していたのだそうです。

 

 途中、東証一部上場企業の株式会社巴川製紙所の清水事業所前を通過しました。清水事業所の正面玄関の門柱には、駿府城の石垣と同じ石が使われています。というのも、1606年に、徳川家康公が駿府に隠居するにあたり西国諸大名に命じ、駿府城の大改修をすることになり、全国から巴川製紙の付近に石が集積されました。その集積された石を駿府に運ぶ為にいかだに移す際に、何らかの事情で巴川に沈んでしまった石もあったそうです。しかし、沈んでしまった石も江戸幕府の所有物であるとされ、それらの石は沈んだままでしたが、明治に入ると、石を引き上げる者もでてきたそうで、この門柱にも、巴川に沈んでいた石が使われているのです(もともと三個ありましたが、現在は二つになっているそうです)。

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巴川製紙の門柱と説明版

 

 次回も引き続き静岡での思い出をお話します。 

 

 

【歴訪記】5月26日(日)静岡


20131009.JPG2013年9月28日(土)東京都大田区南馬込にてネムノキを撮影
花言葉「歓喜」

 

 少し前のお話ですが、5月26日(日)に静岡を訪問いたしました。

  同日午前10時50分頃、静岡駅に到着しました。熱海発の「こだま」から降り、株式会社スポーツショップアラジン代表取締役 清水重雄様にお出迎えいただき、改札口でお会いしました。

  静岡駅南口近くの有料駐車場に止めてあったフォルクスワーゲンの「ゴルフ」に搭乗し(小さな車ですが、清水様の経営されているスポーツショップ等の小売業を経営する者は、大きな車には乗ってはいけないとの先輩の教えに基づき、小さな車に乗り続けているのだそうです)、ホテルセンチュリーを右手に見ながら、静岡駅の北にある清水様が経営されているスポーツショップ「アラジン静岡店」に向かいました。

 東海道本線を境に、北が葵区、南が駿河区で、旧清水が清水区だそうです。

  

<静岡のいま>

 さて、清水様に静岡の経済についてお尋ねしたところ、興味深いお話をお聞きしました。1609年から、徳川家康公は、内政を江戸の秀忠公に行わせ、自身は外交を駿府城で行うといういわゆる二元政治体制をとり、朝鮮国との国交回復、拉致されてきた朝鮮の人々のうち帰国を希望する人々の送還等を行ったそうです。この頃(いまから約400年前)は、静岡(駿府)には10万人が住んでいたそうです(静岡商工会議所報『Sing』2013年6月号「駿府静岡と私〔第15回〕」徳川宗家十八代当主徳川恒孝様のエッセイより)。当時の江戸には15万人の人が住んでおり、海外と比較すると、ロンドン、パリが7万人程度という時代であったそうですから、世界でも有数な大都市であったのです。

  しかし、そのような華やかな歴史があるにもかかわらず、いまの静岡は停滞しています。静岡県の西部地区にはホンダ、ヤマハ、スズキ等の大企業を擁しているものの、東部の衰退ははなはだしく、東部は農村地帯、あるいはそれに近い状態にあるのだそうです。国を治める中心地が、時の為政者によって激しく動く典型ともいえるでしょう。私は、5月12日(日)に伊豆半島の戸田を訪問しましたが、戸田はひどく寂れていました。戸田は東海道本線から離れてしまっており交通の便も悪いですから、開発の可能性は一層少なくなっているのではないでしょうか。

 

 <静岡駅~アラジン静岡店>

 さて、駿府城を過ぎ、安倍街道を北上したのち、間もなく土手通りを通過しました。これは、徳川家康が薩摩藩に命じて、駿府平野を安倍川の洪水から守らせるために作らせた防波堤だそうです。家康が薩摩藩の財政を苦しめるために命じて作らせたものでもあるそうですので、明治維新の際、どうして薩摩藩が討幕の中心藩になったのか、うなずけるものがあります。

  右手に浅間山を見ながら、アラジン静岡店に到着しました。静岡では、平地にもイノシシが出没するそうです。また、今回は浅間山付近には訪問しませんでしたが、浅間山のふもとの旧家は、2000年程の歴史が証明されているものもあるそうです。

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アラジン静岡店前にて記念撮影

 

<アラジン静岡店~七八(なや)寿司>

 途中、日本でも有数な商店街である呉服町に入り、伊勢丹の角を右折するとすぐ、札の辻跡(ふだのつじあと)の碑がありました。ここで停車し、その碑を見ました。幕府の政策や法令、禁制等をかかげた高札場があった場所であったことが「札の辻」の地名の由来とされているそうです。しかし、呉服町も、旧家が家業継続に見切りをつけ不動産業に方向転換したそうで、ドラッグストアーが幅を利かせ、呼び込みまで現れる始末で、呉服町のDNAが消滅しつつあるのだそうです。

  また、徳川家康が全国に設けた「金座・銀座」は、ここ静岡にもありましたが、その名残を「静岡市葵区金座町」(金座)、静岡市葵区両替町(銀座)という地名に残しています。近くには金座稲荷神社という神社があるそうで、ここは金座の守護神として、お金の神様として崇敬されてきたそうです。

  その後、昭和30年代繁栄を極めたシネマ通りを通過し、日本を代表するサッカー選手である「カズ」「キング・カズ」の愛称で親しまれている三浦和良さん、のお父様・納谷(なや)宣雄様が経営していた(現在はカズの叔父様が経営しているそうです)日本で一番古いとされているサッカー専門ショップ「goal」を右手に見ながら、再度、呉服町を通過し両替町に出て15代将軍・徳川慶喜公が明治初期20年あまり過ごした2000坪の庭園、浮月楼を右手に通り過ぎました。清水様によれば、徳川慶喜公は自転車に乗り、清水の次郎長に会いに行ったそうです。

  そして、納谷宣雄様が経営されている「七八(なや)寿司」へと向かいました。

 

 

<七八寿司で納谷宣雄様と懇談>

 七八寿司の店内に入り、納谷宣雄様と初めてお会いし、カウンターで短時間ご懇談させていただきました。納谷様という珍しい姓についてお聞きしたところ、元大相撲力士で本年1月に他界された大鵬(本名・納谷幸喜)と同じで、いずれも北海道石狩の出身であるとのことでした。

 

さて、弁護士間の競争が激しさを増しているいまの時代において、当事務所として、常に新しい変化にも即応できる態勢をとらなければと考えています。そのひとつとして「スポーツ分野」への進出が考えられますが、納谷様にスポーツ分野の弁護士業についてお尋ねしたところ、いまの日本ではスポーツ関係を志す弁護士は非常に少なく、また、依頼者側も、自分の会社の顧問弁護士を使うのが常であり、専門弁護士は使わないとのことでした。このお話をお聞きし、チャレンジしてみる価値は十分あるのではないかと思いました。

 

 七八寿司では、静岡名産である生シラスと金目鯛のお寿司を一貫ずついただきました。なお、静岡にうなぎ屋はたくさんありますが、うなぎは本年2月に環境省が、絶滅の恐れがある野生生物を分類した「レッドリスト」のなかで、極度の不漁が続くニホンウナギを絶滅危惧種に指定したそうです。レッドリスト自体は法的拘束力はないそうですが、今後、漁獲量規制がかかる可能性があり、そうなるとうなぎの商売が成り立たなくなってしまうでしょう。うなぎ屋は、苦肉の策で、あなごを利用してうなぎ風のどんぶりを提供しているところもあるとのことでした。

 

 次回も引き続き静岡での思い出をお話します。

 

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2013年8月15日(木)17:30
青森県十和田市沢田にてノウゼンカズラを撮影

 

 

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左:シュエダゴン・パゴダにて
左から清水氏、高井、三輪氏、カイン(Khine)様
右:宿泊先ホテル(Chatrium Hotel Royal Lake Yangon)周辺に咲いていた花

 

7月20日(土)~22日(月)にかけて、ミャンマーを訪問しました。ご同行者は、三輪芳裕様、株式会社スポーツショップアラジン(静岡県静岡市清水区浜田町、葵区昭府町)代表取締役清水重雄様でした。

今回は、私の5度目か6度目となるミャンマーへの訪問でしたが(なお、私の最初の訪問は17年前の1996年4月27日~5月3日でした)、訪問した理由は、年内に高井・岡芹法律事務所がミャンマーに法律事務所を開設する予定であり、その下準備と、また、ミャンマーサッカー協会に100足のサッカーシューズをプレゼントすること等々のためでした。

法律事務所開設にあたっては、同地のいろいろな方に、お力添えをいただき、実現に向けて動いております。なお、私は、10月11日~13日にかけて、再度ミャンマーを訪問する予定でもあります。

この度の正式な歴訪記はいずれこのブログでもご紹介することとして、まずは取り急ぎ、「速報」として三輪様(文章)、清水様(写真)に作成していただきましたので下記に掲載します。 

 

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7月20日(土)午前10時半の成田発全日空便で、高井先生とスポーツショップアラジンの清水社長に同行させていただき、私(三輪)にとって1年半ぶりのミャンマー渡航です。初めての直行便でミャンマー入りしたせいか、感覚的に少し距離が近くなったヤンゴン国際空港に午後2時半に降り立ち真っ先に感じたことは、活気に満ちた人々の熱気や喧騒でした。 

2000年に初めてミャンマーを訪れてから、私はこの13年間で延べ約60回の渡航を重ねてきました。かつてのミャンマーを体感している私としては、この1年半が10倍程の長さにも感じられる位、まるで別の国に来てしまったかと錯覚するほどの変わり様でした。

 

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(元首相のキン・ニュン氏と高井)

 

今回の民主化路線こそ本物だと気付くのに、それほど時間はかかりませんでした。

昔同様、走っている車のほとんどが日本車ではあるものの、ボロボロの車が見当たらない、ダウンタウンに向かう幹線道路は渋滞と立体交差の工事だらけ。ホテルの料金は5~6倍に跳ね上がり、市内はオフィスビルやマンションの建設ラッシュ。

 

 

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(若手政治家候補と青年実業家、高井、清水氏) 

 

そして何より、比較的おっとりしたミャンマーの人たちはとても快活で、気のせいか動きも早い。この国の進化の例を挙げれば、枚挙に暇がない。国が急激に経済発展するとはリアルにこういうことなのかと、今更ながらに驚かされました。

 

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(ダウンタウン近くの旧官庁街…なぜ「旧」官庁街かというと、2006年にミャンマーは首都をヤンゴンからネピドーに遷都したからです。)

 

 

今回のミャンマー訪問の目的は、日本企業のミャンマー進出をサポートするための基盤づくりと、日緬友好の証としてミャンマーサッカー連盟にサッカーシューズ目録を寄贈するためのセレモニー。高井先生としては、これらを今後も継続していく意向です。その第一回目となる今回の渡航は、大変有意義かつ充実したものになりました。

 

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(MFF理事 Soe Moe Kyaw様へ高井よりサッカーシューズ贈呈)

 

 

これまでの軍事政権支配はもはや過去のもの、というのが次代を担うミャンマー青年実力者たちの合言葉です。今年12月にはSEA GAME(東南アジアのオリンピックのようなもの)がミャンマー全土で開催され、スポーツの大祭典の裏では各国の政財界要人達のネゴシエーションツアーが目まぐるしく展開されます。そして2年後の2015年11月には実質的に民主化後初めての国政選挙と大統領選挙を迎えます。

 

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(MFF関係者と青年実業家)

 

 

夢が現実になりつつあるこうしたミャンマーの皆さんと論議を交わしながら、相も変わらぬ高井先生のエネルギッシュな行動力に触発されたミャンマー滞在3日間でした。

文章:三輪芳裕

写真:清水重雄

本ブログ2011年12月20日付【歴訪記その9】でご紹介いたしました通り、私は、同年11月19日(土)から11月27日(日)まで、弊所の特別企画「21世紀の国 インド 社会・経済視察団」の団長として、インドへ赴きました。その視察団の解団式が、1月19日(木)18時30分から21時すぎまで、東京都千代田区二番町のインド料理店「アジャンタ」にて開催されました。私は、新年より体調を崩しておりますため、出席することが叶いませんでしたので、私の秘書の山崎郁子が代わりに出席いたしました。本ブログ記事にて、解団式の様子を簡単にご紹介します。

 

解団式には、視察団に参加された22名の内、下記12名の皆様にご出席いただきました。

 

信州レジャー興業株式会社 代表取締役 新井 泰憲様

株式会社ユービー 代表取締役 内舘 健彦様

シナノア株式会社 専務取締役 釜谷 俊朗様

JNC株式会社 取締役 最高顧問 後藤 舜吉様

マナック株式会社 取締役社長 杉之原 祥二様

デロイトトーマツコンサルティング株式会社 パートナー 土田 昭夫様

弊所顧問 知久 信義様

弊所客員弁護士 千種 秀夫様、千種 友子様

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰様

中央精工株式会社 取締役 相談役 中村 光次様

株式会社ワールドプランニングオフィス 代表取締役 椎葉 卓光様

 

また、2011年9月27日付記事【交友録その12】でもご紹介しました日本画家 山田 真巳様、一般財団法人インド経済研究所理事 菅谷 弘様がゲストとしてご出席くださいました。解団式では、本ブログ【歴訪記その9】に少し手を加えたものに、参加者各人に作成していただいた原稿を加えた小冊子をお配りいたしました。インド料理をいただきながら、早朝から夜分に渡る相当な強行スケジュールだったインド視察での思い出を、ご出席くださいました皆様が、楽しく語らい、式は大盛況であったとのことです。この場を借りまして、ご出席くださいました皆様に、私の欠席の無礼をお詫びいたしますとともに、心より御礼申し上げます。

 

 

【解団式の様子】

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写真を拝見すると、インドに赴いた昨年11月のことがまるで昨日のように思い返されます。私は、現在、いろいろな病を治療中でございまして、いわば、真っ暗闇の中にいるようなものです。私が次にインドに赴くことができるのはいつになるか分かりませんが、また必ずお邪魔できるよう、真っ暗闇の中に、一筋の希望があることを祈りながら、諦めずに、頑張って治療に励んでまいります。

【歴訪記】その11 山形


 

 

 

新春のお喜びを申し上げます。
皆様おすこやかに新春をお迎えのことと存じます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 


 

 

 

さて、昨年12月17日(土)~18日(日)の日程で、山形県置賜盆地と山形市を訪ねました。1泊2日の短い旅でしたが、豊かな自然に恵まれた山形で(東北地方の南西部に位置する山形県は、県土の72%を森林が占めているそうです)癒しのひとときを満喫いたしました。今回の旅は、有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷周史様に全旅程をご同行いただきました。

 

 

(1)12月17日(土)

東京駅を16時8分に出発し、新幹線つばさ145号に乗り18時20分、米沢駅に到着いたしました。米沢駅には有限会社登起波牛肉店代表取締役社長 尾﨑 仁様が車でお迎えくださいました。外に出ると雪景色で、米沢はすっかり冬という感じでした。私は2011年12月27日付ブログ「歴訪記その10」にも書きましたが、今回の山形訪問の前々日の15日には、高知を訪問しました。高知では、摂氏17度と小春日和でしたが、山形はまさに滴水成氷で、冬まっただ中でした。 

 

【登起波分店「登」で夕食】 

まず、尾﨑様の経営される「登起波分店「登」(のぼる)」にて、大変美味しい夕食をいただきました。「登起波分店「登」」は、「登起波牛肉店」の飲食部門の支店にあたります。「登起波牛肉店」の歴史は古く、明治27年10月、初代の尾﨑庄吉様が、米沢市あら町に開店したのが始まりだそうです。当時は、牛肉の販売期間は、寒くなる秋から冬の間に、集めて踏み固めた雪がなくなる6月頃までだったそうです。現在、米沢の牛肉店の中では、一番古くから営業している牛肉店であり、確かな品質と味にこだわり、「米沢に登起波あり」との評価を得ているとのことです。

 

さて、米沢牛は、上杉鷹山(1751年~1822年)が開校した藩校「興譲館」で、明治4年から8年までの間教鞭を執ったチャールス・ヘンリー・ダラスが、故郷を懐かしんで四つ足の動物は食べないとされた米沢の地で、牛肉を食べたのが、食用としての米沢牛の歴史のはじまりであるそうです。その味わいにいたく感動したダラス氏は、任期を終え、米沢をはなれる際に1頭の牛を横浜へ連れていきふるまったところ、その牛肉の旨さに一同が感嘆して、それが「米沢牛」が全国に広がるきっかけであったそうです。

 

尾﨑 仁様は、5代目にあたり、1995(平成7)年に東京農業大学畜産学科をご卒業された年の11月に、4代目尾崎 祐二様がお亡くなりになり、すぐに5代目店主となった方です。ハム・ソーセージについては、大学時代に東京吉祥寺の「ケーニッヒ」にて修行されたそうです。1998(平成10)年には、2階・3階の飲食部門を改装し、全テーブルに無煙炭火ロースター(網焼きのみ炭火)を導入され、新メニューに炭火網焼きが加わりました。また、2004(平成16)年9月には、【登起波分店「登」】をオープンされ、米沢牛をもっと気軽に味わえる店として、牛丼、牛鍋、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキ、炭火網焼きなど、本店よりもリーズナブルな価格で提供されています。尾﨑様は、長い歴史・伝統を守りながら、イノベーションを続けられ、情熱、責任感、判断力の備わった若き経営者でいらっしゃいます。

 

尾崎様とは、色々なお話をいたしましたが、特に東日本大震災の影響が話題に上りました。震災直後の米沢、山形は雇用、経済、すべてにおいて大変な状況だったということでしたが、その頃に比べると随分と元気になってきている感触があるというお話をして下さいました。

 

登起波牛肉店の扱う米沢牛は、12月の米沢牛銘柄推進協議会主催の第52回米沢牛枝肉共進会で牛1頭1千万円の売値が出たそうです。松阪牛が1頭につき3~4千万円といわれる中で、苦戦していた米沢牛に1千万円の値がついたことは、米沢牛のイメージアップを図るためには喜ばしいことだとおっしゃっていました(ただしこれは特定の牛についてのことで、全体としてはまだまだ安めだというお話でした)。いずれにしても東日本大震災後、被災地の経済が元に戻りかけているということは大変喜ばしいことです。

 

【登起波分店「登」】の料金について聞きましたところ、夕食(お酒代込み)で1人当たり6千円が限度だということでした。昼食ともなればもっと安くなるのはいうまでもありません。いずれにしろ、米沢ではそれくらいの料金が限界だということです。

 


 

 

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(2011年12月17日 19:53 登起波分店「登」での会食の様子

 

私は地方のレストランは勿論のことですが、東京のレストランもほとんどが赤字経営であると推測しています。この前まであったお店が、突然閉店したり経営者が変わったりすることがごく頻繁に起こることは、やむを得ないことなのかもしれません。尾崎様は、現在、米沢商工会議所青年部副会長として、ご活躍されていますが、お話は、米沢、山形、或いは東北全体の話までに及び、大変説得力がありました。

 

 

なお、尾﨑 仁様の奥様は、有限会社サンク・センス代表取締役社長 松浦 尚子様です。松浦様は、ボルドー大学ワイン醸造学部公認のワインテイスティング専門家資格を取得された方で、つまり、ご夫婦そろって「美食」に通じたプロフェッショナルなのです(松浦様については、当ブログでも『交友録』として近々ご紹介させていただきます)。

 

登起波牛肉店HP http://www.yonezawabeef.co.jp/

 

 

【湯滝の宿・西屋】

夜は米沢市大字関にある「湯滝の宿・西屋」に宿泊いたしました。西吾妻山系からの白布の湯は、開湯700年を誇り、湯滝風呂の湯船は、江戸中期頃、職人が1枚1枚御影石を削りだして作られたものだそうで、以来300年以上、変わらずに姿を今にとどめているのだそうです。また館内も、昔ながらの木造建築で、季節柄少し寒くはありましたが、趣のある素晴らしい宿でした。

 

湯滝の宿・西屋 http://www.nishiya-shirabu.jp/

 

 

 

 

 

(2)12月18日(日)

 

【我妻榮記念館】

宿で朝食をいただいた後、8時30分頃に旅館を出発し、尾崎様の車の運転により、9時頃、米沢市鉄砲屋町にある「我妻榮記念館」に到着し、50分ほど、見学いたしました。

IMGP0631.JPGのサムネール画像

(2011年12月18日 9:03 我妻榮記念館の前で撮影)

 

我妻榮先生は、民法学者としては明治以降の学者の中でナンバーワンの方であり、我妻先生の義兄である孫田秀春先生は、私の恩師であります(孫田先生については後述します)。「我妻榮記念館」は、我妻先生のご生家を補修整備したもので、木造2階建てで、土蔵を併設しているという米沢の標準的な民家になっていました。我妻榮記念館 管理人の小林 秀一様のご説明を伺いながらの見学をさせていただきました。また、館内には書籍も販売されていましたので、何点か購入させていただきました。

 

 

 

我妻記念館領収書.JPG

 

 

 

我妻先生の父・我妻又次郎様は、明治28年から大正11年までの27年間、旧制米沢中学校の英語教師として教鞭をふるわれた方です。我妻榮先生は、この米沢市鉄砲屋町で父・又次郎様、母・つる様の長男として1897年に生まれ、興譲小学校(母・つる様が長らく教鞭をふるわれた小学校です)、米沢中学校を卒業し、1914年9月(17歳)に第一高等学校(現在の東京大学教養学部及び、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校)に主席合格し、1917年に東京帝国大学法学部に入学されました。以後、弱冠25歳にして同大学助教授となり、不世出の天才民法学者として、功績を残しました。60歳で東京大学を退官した際には、最高裁判所の長官に議せられたそうですが、「守一、無二、無三」(一を守り、二無く、三無し)として、一切官職に付くことを辞退し、専ら民法学の研究に当たられたそうです(なお、この「守一、無二、無三」は、我妻先生の残された数少ない色紙の内の1枚として、ご生家に飾られていました)。1964年、67歳の時には山形県で3人目の受賞となる文化勲章に輝きました(1人目は伊東忠太様、2人目は斎藤茂吉様)。

 

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(2011年12月18日 9:26 我妻先生の2階の勉強部屋にて撮影)

 

さて、土蔵の中には我妻先生の著作が掲げられておりました。沢山の論述を執筆・発表されたということを改めて認識しました。我妻先生の勉強部屋は母屋の2階にありましたが、昔ながらのこじんまりとした部屋で、我妻先生がお使いになられた小さな机を前にし、来る日も来る日も机に向かい、全身全霊で勉強されていた我妻先生のお姿が目に浮かび、その輝かしい業績の陰に潜む努力研鑽の見事さに、私は感慨深い気持ちになりました。勉強部屋にあった記録簿に、私は「本日、即ち2011年12月18日にやっとお邪魔しました。有難うございました。さらに精進を重ねます。」と書かせていただきました。

 

 

私の我妻先生についての思い出は、まず、東京大学在学中に、我妻先生の講義を聞く立場ではなかったのですが、講義を何度か聴講させていただいたことです。次に、太平洋テレビを設立された清水 昭様(1924年~1988年。後に「アポロン」という最高級のクラブを経営されていました。)から我妻先生についてのお話を伺ったことが、大変印象に残っています。清水様は、北海道帝国大学(北海道大学)法学部出の大秀才です。我妻先生ご夫妻が三顧の礼を持って「東京大学の弟子に入らないか」と清水様に声を掛けられたそうです。清水様が真ん中、我妻先生ご夫妻が両脇にお立ちになって、北海道大学の校庭で写した写真も見せていただいたという思い出があります。きっと我妻先生は民法という学問を完成させるために、後継者の育成にも大いに関心をもたれていたということではなかったかと思います。

 

 

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(2011年12月18日 9:22 我妻榮記念館の一階応接間 我妻先生の数々のお写真)

 

我妻榮記念館の一階応接間には、我妻先生の写真が飾ってありました。我妻先生は折々米沢に寄り、ご生家に立ち寄られていました。亡くなる1ヵ月前の写真でしたが、それは、2階の勉強部屋の窓に腰掛けて、しみじみと外を見ておられる写真で、この写真から故郷をこよなく愛していらっしゃったことが伝わってきました。17歳の時に第一高等学校に入学されて以降、住まいはずっと東京であったそうですが、米沢は、遠きに在りて想うものですが、我妻先生には2階の勉強部屋が心のふるさとでもあったのでしょう。

 

 

 

【登起波牛肉店を訪問】

我妻榮記念館を出て、尾崎 仁様の登起波牛肉店を訪問いたしました。私も、東京より度々、お取り寄せさせていただいておりますが、初めてお店にお邪魔させていただきました。

 

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(2011年12月18日 9:58 登起波牛肉店で撮影)

 

 

【孫田秀春先生のご生家などを訪問】

米沢市から40~50分程かけ、10時50分頃には長井市の髙世重右エ門様のご自宅を訪問しました。髙世様は、私の恩師である故・孫田秀春先生と「大の仲良し」であった故・木村弥次郎様(西根村の元村長)の甥にあたる方で、私が孫田先生のご経歴を調べているうちに、ご縁がありこの度お邪魔させていただくことになったのです。

 

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(2011年12月18日 11:40 西根小学校 愛郷の碑の前で撮影
左から髙世重右エ門様、私、尾崎仁様)

 

髙世様のご自宅では、地元のお菓子などの心配りの品々をいただきながら、お話しを伺った後、孫田先生が母校の西根小学校に建てられたという愛郷の碑を見に行きました。「人を愛する心、それを拡充して広めていけば、郷里を愛する心。これを青少年諸君にとくと腹の中からしみじみ考えてもらいたい。」という心から、建てられた碑であるとのことです。

 

私は、弁護士登録をした1963(昭和38)年4月、孫田先生の「孫田・高梨法律事務所」に入所いたしました。孫田先生は1924年に「労働法」という名称での講義を日本で初めて、東京商科大学(一橋大学の前身)にて行った法学者です。今でこそ「労働法」という名称は日常に交わされていますが、それまでは「労働法」という言葉は存在していませんでした。労働法の草分けと言われ、日本における労働法を体系づけた人物です。

 

実は、孫田先生とのご縁を作ったのは、私の父であります。父は名古屋で弁護士をしていましたが、若い頃に、労働法を学びたいということでドイツ留学を希望、ご縁があって労働法の権威である孫田先生のもとに書生として置いていただいたという経緯があります。当初、父は名古屋で自分の後を継がせたかったようですが、私は父の影響下を離れて東京で弁護士の仕事をすることを希望しました。これを父に話すと「それなら小さくまとまるのではなく、孫田先生のもとで勉強すべき」といわれ、孫田先生のご指導を受けることになったのです。すなわち、父も私も2代にわたって孫田先生のご指導を受けたのです。

 

私が弁護士となった1960年代は、日本はまさに高度成長期で、組合活動がとても盛んな頃でした。孫田・高梨法律事務所のもとには次々と仕事の依頼が押し寄せ、大変忙しい状況で、私は、孫田先生のもとで弁護士人生をスタートしたことで多くの労働事件にかかわることになり、おのずと労働法を学ぶ機会に恵まれました。

 

孫田先生のもとでは様々なことを教えていただきましたが、特に孫田先生のご著書「労働法」の中で説かれていた「労働の人的価値」は、私が東京大学在籍中に受講し感銘を受けた来栖三郎先生(1912年~1998年)の、法律学を超えた人間観・人生観についてをも含んだ講義と通じるものがありました。「石にも目がある」「尽くすべきは尽くす」という孫田先生の言葉は、私の半世紀に亘る弁護士人生を通じて座右の銘となりました。私が人事・労務問題専門の弁護士として歩んでこられたのは、孫田先生のご指導のおかげであります。

 

  •  「石にも目がある」とは、硬い石でも弱い点、筋目を突けば割れる、という剣聖塚原ト伝が剣術の極意を悟ったエピソードですが、これは自分の手に余る大きな仕事もどこかに必ず「目」(弱点・筋目)があり、そこを狙い突破口を開けば良いという意味になります。弁護士が仕事で見極めるべき目も同様で、仕事の核心に迫るための姿勢として常に意識しています。
  •  「尽くすべきは尽くす」とは、あらゆる努力をして最善の問題解決を図る、という意味です。

 

さて、孫田先生が80歳になって愛郷の碑を建てられたということですが、それは大変立派な碑石で、孫田先生がいかにこよなく故郷を愛されていたのかということが強く伝わってまいりました。

 

 

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(2011年12月18日 11:46 歓喜院の子育観音堂)

 

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(2011年12月18日 11:49 孫田秀春先生の墓前で撮影)

 

 

その後、孫田先生のお墓があるお寺・歓喜院に赴きました。恩師のお墓に初めてお参りさせていただき、在りし日の先生を想い、心の中でお礼を申し上げました。また、孫田先生は、この歓喜院に、子育観音堂を設置されておられました。孫田先生は故郷への還元ということをいつも意識されていたのだと思いました。

 

 

 

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(2011年12月18日 12:05 孫田秀春先生のご生家前で撮影
左から尾崎様、私、髙世様、孫田瑩子様)

 

そして12時5分頃、孫田秀春先生のご生家を訪問しました。ご生家では、孫田先生の甥孫のご令室様にあたる孫田瑩子様に、お会いしました。孫田先生とゆかりの深い髙世様に孫田先生のお話をお伺いしているうちに、孫田・高梨事務所で寝食を忘れ、心血を注いで仕事に没頭した駆け出し時代を思い出し、お世話になった頃に想いをめぐらせました。

 

その後、昼食のため山形市に向かいました。

 

 

 

【和食「うけ月」にて昼食】

置賜地方は雪で埋まっておりましたが、山形地方は雪がなかったのには驚きました。当初は12時30分から「うけ月」ではじまる昼食会の予定でしたが、到着が30分遅れ、13時からの食事会になりました。

 

うけ月での会食会にご出席いただいた方々は、日米商事株式会社代表取締役会長 鈴木 恒吉様ご夫妻、山形トヨタ自動車株式会社取締役社長 鈴木 吉徳様、以前弊所にて勤務していただいていた、弁護士法人あかつき 佐藤欣哉法律事務所 田中 暁弁護士、尾崎様、鮒谷様でした。

 

13時から14時30分までの食事会の間は山形地方のお話を伺いました。山形地方では、食料品等の企業、工場はあるけれども、機械等の生産工場は下請け企業が大部分で名のある企業、工場がないということです。山形トヨタ自動車株式会社は、鈴木 恒吉様から吉徳様へ引き継がれたのですが、最盛期の売り上げの2分の1(80億円)にまで下がってしまっているそうです。車を10年を超して使用する人が増え(買換えが非常に遅い)、新車の売り込みは成果を収めていないということで、サービスや修理に注力する方針にされているそうです。また、新車を販売するときには購入後のアフターサービスも込みのパックで販売する方針をとり、顧客の囲い込みを実践されているそうです。

 

また、以前に増して雇用の問題が大きな問題になっていますが、被災地からの移住者で空き家がほとんどなくなってしまったというお話もありました。しかし雇用がなければ住民はいくらか増えたとしても、財政はいつまでたっても豊かにならないという意見、その他活発な意見交換がなされました。

 

うけ月 HP http://www.shogetsu.net/

 

 

 

【鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅】

14時40分頃から、「うけ月」近くの鈴木 恒吉様ご夫妻のご自宅にお邪魔いたしました。

 

鈴木様と私が初めてお会いしたのは1976年6月で、当時、鈴木様は山形交通株式会社代表取締役社長でした。しかし、会長であった服部 敬雄様との確執があり、1979年11月に代表取締役社長を解任・退任されました。なお、服部様は、民権運動家で山形日報発行人、服部敬吉様の長男で、山形新聞、山形放送、山形テレビ、そして山形交通などのグループ企業の社長・会長を歴任し、強大な権力を持ち、山形県政に多大な影響を及ぼした人物で、その影響力の強さから、地元では「服部天皇」と呼ばれた人物です。鈴木 恒吉様の退任の御挨拶状は、私が起草しました。

 

「私がこの解任を甘受致しましたのは何よりも山形交通を愛するが故であります。私が自らの信念を変えてまでして地位に恋々とするならば、今後山形交通の真の自主自立経営、すなわち黒字経営の確保と他の何人からも侵されない独立経営の伝統の灯すら消しかねないと判断したからであります。」(退任の御挨拶状から抜粋)

 

今回お会いして、鈴木様が、「解任・退任されてよかった。バス事業が、現在は破綻に瀕している中で、今、こうして命をいただいていることは、あの時辞任したからであろう」とおっしゃっていたのが大変印象的でした。何しろ辞め時の有り様が肝腎と痛感されたようです。何が幸いするかわからない、ということでしょう。

 

さて、鈴木様の旧屋敷にはじめてお邪魔したのは、15年程前のことでしたが、今回は残念なことに旧屋敷はすでにとりはらわれてしまっており、家業のガソリンスタンドにしたとのことでした。以前の旧屋敷にあった樹木、数多くの灯籠や石のことが私は気になり、鈴木様ご夫妻に申しあげましたところ、樹木については3分の1を移植し、灯籠については崩れかけていたので、残っている灯籠のみ新しい住居に移したということでした。

 

 

鈴木様ご夫妻の新しい住居は、野村證券の社員寮を譲りうけ、これをリフォームして作られたそうです。山形大学が裏手にあるまさに新しい住宅地でしたが、千歳山を借景にした立地といい、住宅地としては好立地で、新しい住居に移られてすでに8年になられるということですが、終の棲家として生活をされていました。

 

鈴木様ご夫妻はいつものとおり仲睦まじく、本当にお幸せそうでいらっしゃいましたが、恒吉様は目の視野が欠ける「黄斑円孔」というご病気を患われたそうですが、手術の結果ほとんど快癒されたということです。また、奥様もサルコイドーシス症が起因の「ぶどう膜炎」に悩んでおられるということでした。人間は誰しも老いれば病気になるのはやむを得ません。自分自身の現在のありさまを見て、老いを迎える支度を若い時からすべきであるとも思いました。

 

実は、この後松尾芭蕉ゆかりの地「山寺」や他の名所へ参る予定でございましたが、私の風邪でお邪魔できず、鈴木様のご自宅を辞去して、そのまま15時57分発のつばさ148号で帰京いたしました。色々な名所を訪問することはできませんでしたが、私の弁護士人生を振り返ることのできた、1泊2日の大変充実した旅でした。次回訪れる際には、暖かい春以降、ゆっくりと山形の自然を満喫したいと思います。

【歴訪記】その10 高知


 

20111215 講演の様子.JPG12月15日(木)10時40分に羽田を発ち、12時10分に高知龍馬空港へ到着しました。高知に赴いたのは、今年9月23日(金)~25日(日)の旅行以来、3カ月弱ぶりでした。前回は観光で訪れましたが(詳しくは、10月4日付歴訪記その5をご覧ください)、今回は、18時から19時30分に、高知新阪急ホテル3階「蘭の間」にて、私の「リーダーシップセミナー」を開催するために訪れました。このリーダーシップセミナーは、トライアル版の第7回目にあたります(高知での開催は第1回目です)。今回のセミナーは、株式会社一秀 代表取締役 横畠秀一様と有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様が、開催に向けてご尽力くださいました。この場を借りてお礼申し上げます。私は風邪をひいていたため、声がとおりにくくて大変申し訳なかったのですが、48名のご出席者の皆様が大変熱心にご聴講くださいました。貴重なご意見もアンケートにて承り、今後のリーダーシップセミナーの改善のための資料とさせていただきたく存じております。ありがとうございました。(写真は講演の様子)

 

 

 

 

【岩崎弥太郎先生のご生家】

さて、リーダーシップセミナーの開催前、午後12時40分に、高知県安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎先生(1834年~1885年)のご生家にお邪魔しました。ご生家は、寛政7(1795)年に、岩崎家の第6代弥次右衛門の代に建てられた由緒ある建物でした。とても立派な家で、現在でもそ

のまま使えるがごとき状態で残っていました。ただし、昔の人は背丈が150㎝~160㎝ぐらいしかなかったので、出入り口等が非常に低い造りになっていました。かつて三菱では、各グループ会社の役員に就任した際には、創業者のご生家にお参りする、という恒例があったそうですが、今はその風習は残っているでしょうか。

 

 

ご生家には、立派な碑がたっており、その碑文は、漢字の研究者で、大著『大漢和辞典』や『広漢和辞典』(ともに大修館書店刊)の編者として著名な諸橋轍次先生(1883年~1982年)によるものでした。諸橋轍次先生は、1919(大正8)年から2年間中国に留学し、各地で碩学に学んだそうですが、そのころから、三菱第4代社長、岩崎小彌太(1879年~1945年。岩崎弥太郎先生の弟、岩崎彌之助様<1851年~1908年>の長男)の援助を受けていたということです。最近三菱商事の社長(1986年~1992年)・会長(1992年~1998年)を歴任された、現財団法人静嘉堂文庫理事長 諸橋晋六様は、轍次先生の三男にあたります。(静嘉堂文庫は、東京都世田谷区岡本にある、岩崎彌之助様と岩崎小彌太様の父子二代によって設立された美術館です。国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6、500点の東洋古美術品を収蔵しています。)

 

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(ご生家前で撮影 右が成采準様、左が私

左手に諸橋轍次先生筆「岩崎弥太郎誕生之地」記念碑)

 

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(記念碑の説明文<クリックすると拡大します>)

 

さて、岩崎弥太郎先生は“東洋の海上王”と呼ばれ、日本の資本主義を大胆に導いた革命家の一人として評価すべき存在でした。ご生家前にあった「まる彌カフェ」にて弥太郎先生に関する書籍が多数販売されていましたので、いくつか購入しました。今回のブログを書くにあたっては、「龍馬と弥太郎 長崎風雲録」(編・発行 長崎新聞社、2010)を大いに参考にさせていただきました。

 

弥太郎先生は、1835(天保5)年に、最下級の武士でありながら農民であるという、地下浪人(じげろうにん)という身分の家の長男として現在の高知県安芸市に生まれました。21歳の時に学問で身を立てるべく、江戸へ出て、安積艮斎(1791年~1861年)の私塾「見山楼」に入りました。しかし、1855年、父・弥次郎が、酒席での喧嘩により投獄されたことを知り、江戸から高知へ帰郷し、弥次郎の冤罪を訴えたそうですが、弥太郎先生も投獄されてしまいました。この時、獄中で、同房の商人から算術や商法を学び、これが後に弥太郎先生が幕末から明治初めの動乱期に土佐藩の商業活動を担ってのしあがり、その後三菱を創業し政商を奮い海上王と呼ばれる人生を送る機縁となったそうです。

 

弥太郎先生は、出獄後は、出身の村を追放されてしまいますが、吉田東洋(1816年~1862年)が開いていた「少林塾」に入塾して、後藤象二郎らと知り合いました。その後、土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などに従事し、1867年には後藤象二郎に土佐藩の商務組織「土佐商会」の、長崎土佐商会責任者主任に抜擢され、藩の貿易に従事するようになりました。弥太郎先生と坂本龍馬は不仲であったという話があるそうですが、龍馬が長崎を離れ上洛する際には弥太郎先生が龍馬に餞別の乗馬はかまを送り、長崎港で涙を流して見送ったそうです。道筋に沿って先頭を切って走る行動力・先見力、豪胆な人となり等の共通点が多く、二人は意気投合していたそうです。

 

さて、幕末の動乱期を経て、廃藩置県後の1873(明治6)年に後藤象二郎より、船2隻を入手し(これは、土佐藩の負債を肩代わりする条件が付けられていたそうです)、海運業をはじめ、現在の大阪市西区堀江にあった土佐藩蔵屋敷に「三菱商会」を設立しました。三菱のマークは、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を併せて作ったものであるそうです。なお、この三菱のマークは、ご生家の屋根にも掲げられていました。

 

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弥太郎先生が巨利を得るきっかけとなったのは、今でいうインサイダー取引によるものであったそうです。新政府の高官となっていた後藤象二郎が、各藩が発行していた藩札を、新政府が買い上げる紙幣貨幣全国統一化の情報を事前に弥太郎先生に流して、これを受けて弥太郎先生は藩札を大量に買い占めて新政府に買い取らせ、莫大な利益を得たのだそうです。弥太郎先生は最初から「政商」として活動していたということを表すエピソードです。また、私の5月18日付ブログで述べた澁澤栄一は、「企業活動は単なる金儲けではあってはならない」として、道徳と経済の合一を説いた人物で、会社は共同出資で設立し、利益は出資者に還元すべきという「合本主義」を思想としていましたが、弥太郎先生は「才能のある社長による独裁経営が企業の発展に繋がる」という思想を持っていました。二人は一度、経営思想に関し激論を交わしたことがあるそうで、澁澤の回顧談によると、その激論からついに仲直りをすることはなかったそうです(のちに、澁澤の米寿の祝いは弥太郎先生の長男・久弥が発起人となったそうですが…)。

 

また、弥太郎先生は、企業経営にあたって実力主義、合理性を貫き、実力のある人材は抜擢し、幹部から一般社員まで、信賞必罰を重んじ(日本で初めてボーナスを出した人物でもあります)、「企業は人なり」の精神を貫きました。また、「士魂商才」という精神も貫きました。「士魂商才」とは「武士の精神と商人の才を兼備する」という意味です。強欲であこぎなイメージのある弥太郎先生ですが、ずば抜けたリーダーシップを兼ね備えた人物であったことは確かです。

 

私は、リーダーシップセミナーにて、リーダーシップとは、まずは、自ら示した方向性、道筋に沿って先頭を切って走ることであり、先頭をきって走るからこそ、勇気ある行動として評価される、と述べております。ご生家の表座敷に面した庭には、いくつかの庭石が置いてあり、それは日本列島の形をしていました。これは、「日本をひとにらみする」と、幼き頃の弥太郎先生が築いたものだそうです。また、米相場で大失敗をした際に、「これで投機の危険を知ったなら、安いもの」と笑ったというエピソードがあるそうです。大胆不敵な弥太郎先生の人となり、その開拓者精神(もともとは、特に米国の西部辺境における開拓者たちの精神をさしていた。転じて、一般的剛健・忍耐・創意、また闘争性・現実性・利己性などを特色とする)は、「打たれ弱い」等の傾向にあるといわれている最近の青年諸君に、見習っていただきたいところも大いにあるものだと思います。

 

 

【アンパンマンランド】

さて、今回の高知でのリーダーシップセミナーでは、「高知県がいつまでも坂本龍馬に頼ってはいけない。」といったことを述べましたが、これについては受講者からアンケートにて「共感した」というコメントをいただきました。

 

確かに坂本龍馬は高知県の誇る歴史的人物であり、日本人のなかには龍馬ファンが多いのですが、広く海外からの観光客を呼び込むテーマではたり得ないと思います。高知県は、沖縄や九州と同様に、アジアに近いというメリットがありますから、このメリットを最大限生かすべきです。

 

私は、高知県の皆さまが自覚されていない「盛上げ上手、喜ばせ上手、歓待上手」な県民性を活かして、心底楽しい思いを持って帰ってもらい、リピートにつながるホスピタリティー産業を展開することが必要であると思います。「観光」の語源は『易経』の「国の光を観る。用て王に賓たるに利し」との一節によるもので、「観光」とは国の「光」を観ることですから、それぞれの地域の「光」るところをさらに磨き上げることが必要です。このことをお話ししたところ、ひとつの提案として、成様より「アンパンマンランド」建設という企画のお話をお聞きしました。

 

アンパンマンは、ご存じの通り、国民的キャラクターで、アンパンマンの作者のやなせたかし様は、高知県香美郡在所村(現・香美市)のご出身です。やなせたかし様は、1919年生まれの92歳です。2010年には、年齢が90歳を超えて、引退も考えられたそうですが、今年3月の東日本大震災を受けて思いとどまり、未だ現役で活動を続けているという現代に生きる高知県の偉人であります。

 

同行した鮒谷周史様が成様のアンパンマンランド構想をお聞きし、「そういう構想が実現したら、すごく大きな需要があるのではないでしょうか」と言われていました。鮒谷様の親戚で2歳半のお子様がいるそうですが、アンパンマンと聞くと、テレビにかじりついて喜ぶのだそうです。高知県には、香美市立やなせたかし記念館がありますが、遊戯施設であるアンパンマンランド(こども向けの施設として、仙台、横浜、名古屋に『アンパンマンこどもミュージアム&モール』がありますが、これよりもさらに大規模な、200万坪程度の家族全員で楽しめる、ディズニーランドのようなテーマパーク)を高知県に設ける方が、休日に全国から孫に引率されたお祖父さんお祖母さん等家族連れが集まるでしょうし、海外からもアンパンマンファンが押しかけるのではないかと思います。

 

アンパンマンランドは、旅行会社ももちろんですが、航空会社にも貢献するだろうし、地元の高知にも目玉施設ができたということで、活況を呈するでしょう。成様は、土地は県が提供することになるだろうから見通しは明るいとおっしゃっていました。それが実現できるかどうかわかりませんが、それに値する企画だと思われます。アンパンマンランド建設を推進することが高知へ、海外からの旅行者をも含めた観光客を誘因するための決定的な起爆剤となり、ひいては、高知県民の幸福と発展につながるという真摯な確信をもつべきでしょう。

【歴訪記その9】インド


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 (ウメイド・バワン・パレス・ホテルにて撮影)

 

私は、弊所の特別企画「21世紀の国 インド 社会・経済視察団」の団長として、11月19日(土)から11月27日(日)まで7泊8日で、インドへ赴きました。視察団にご参加していただいたのは、下記の皆さまです。

 

信州レジャー興業株式会社 代表取締役 新井 泰憲様

株式会社日本フランチャイズ総合研究所 代表取締役社長 内川 昭比古様

株式会社ユービー 代表取締役 内舘 健彦様

シナノア株式会社 専務取締役 釜谷 俊朗様

株式会社長野自動車センター 取締役会長 毛涯 宏一様

株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様、青木 明美様

JNC株式会社 取締役 最高顧問 後藤 舜吉様

株式会社ビジネスセンター 代表取締役 佐藤 啓策様、佐藤 弘子様

マナック株式会社 取締役社長 杉之原 祥二様

SECエレベーター株式会社 代表取締役 鈴木 孝夫様

デロイトトーマツコンサルティング株式会社 パートナー 土田 昭夫様

弊所顧問 知久 信義様

弊所客員弁護士 千種 秀夫様、千種 友子様

新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長 等々力 好泰様

中央精工株式会社 取締役 相談役 中村 光次様

会社力研究所 代表 長谷川 和廣様

有限会社セカンドステージ代表取締役社長 鮒谷 周史様

株式会社ワールドプランニングオフィス 代表取締役 椎葉 卓光様

 

今回の歴訪記は,前回の台湾歴訪記(11月22日付記事)に引き続き,中村 光次様に下記の通り御作成いただきました。中村様,どうもありがとうございました。

 

 

(1)11月19日(土)

2011年11月19日(土)小雨降る成田空港を午前11時30分発のAI(エア・インディア)307便による10時間のフライトで、日本との時差が3時間30分あるインドの首都デリーにあるインディラー・ガーンディー国際空港に、夕闇せまる現地時間の18時に到着しました。ちなみにデリーは「ニューデリー」と「オールドデリー」に分けられており、ニューデリーに連邦の首都機能があります。イギリスの設計と建設による新都市部分がニューデリー、古くからある町をオールドデリーと呼ばれているようです。ちなみに日本の教育現場ではインドの首都は「デリー」と指導されるようになっているようですが、インド政府公式サイトや日本の外務省のサイトでは「ニューデリー」と表記されています。

 

インディラー・ガーンディー国際空港の名称は、第五代首相インディラー・ガーンディー(インド初代首相ジャワハルラール・ネルーの娘で、1984年、67歳の時にシーク教徒により暗殺されました。後任の長男ラジーブ・ガーンディー第六代首相も1991年に暗殺されました。)に由来しているそうです。2010年7月にターミナルがリニューアルされ、世界で8番目の広さになったそうです。大規模なハブ空港への拡張工事中であるチャトラバティ・シヴァージ国際空港(ムンバイー)ともに大変立派な空港で、このままいくと、インドが中国を追い越すのは時間の問題であるとも感じられました。

 

チャトラバティ・シヴァージ空港からホテルまでは23時という遅い時間であるにも関わらず、大変な混雑の中、バスでホテルに向かい、本来わずか10分程度でつくところを25分以上かけてようやく到着しました。深夜なのに交通渋滞が甚だしいインドの地域事情の初体験でした。等々力好泰様によれば、インドの自動車交通インフラは非常に悪く、中国より5年は遅れているということです。また道路の周辺はゴミだらけで甚だしく劣悪でした。私が10月26日(水)から29日(土)まで訪れた台湾が、いかに優れていたかを目の当たりにいたしました。インドが中国を越えるまでに発展するには、インド国民の公共的なマインドをはぐくむことが大切であると痛感しました。

 

インドの車は最も大衆的な乗用車「TATA」(日本の軽自動車を至極簡単版にした廉価車)で、10万インドルピーで問屋へ出し、一般市民には15万~16万インドルピーで問屋等の歩合を取られて売られているそうです。但し、エアコン付きの高級版は20万インドルピー、日本円で約30万3千円になるとも聞きました。空港のタクシーも、すべて「TATA」で普通はエアコンなしですが、エアコン付きはCOOL TAXIとして料金も割高です。この辺は盛夏には摂氏45度にもなるのですが…。

 

 

(2)11月20日(日)

朝9時にホテルを出発し午前中はムンバイー観光を楽しみました。ムンバイーはこの10年で経済的に大発展を遂げたそうです。バスの車窓から公園や運動場でたくさんの市民がクリケットをしているところを見かけました。日曜日という日柄か、街には至る所でクリケットのグッズが売られていました。インドでは、クリケットは最も人気のスポーツ競技とのことです。また、空港や市街の要所の至る所で、サブマシンガンを持つ警備兵を多々見かけることには、一見温和なインド人社会のもつ、複雑な政治・宗教情勢を考えさせられます。

 

10時20分頃に「インド門」へ行きました。第一次世界大戦で戦死した兵士(約8万5千人)を追悼する慰霊碑で、高さ42mのアーチには、ヨーロッパ戦線に英国軍として参戦し、戦死したインド人兵士の名が刻まれていました。

 

 

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インド門から道を隔てて隣接している、英領植民地時代の市街中心部に位置するタージ・マハル・ホテルに歩いて向かい、会議室で「TATA CAPITAL LIMITED」の関係者の皆さまをお迎えし、 法務コンプライアンス部 部長(Head of Legal & Compliance & Company Secretary)のシャイレシュ・ラジャデイヤクシャ(Shailesh H Rajadhyaksha)様により、インドで独自の成長路線にある「TATA」という巨大企業の経営理念についての貴重な講演をジャワラルハル・ネール大学(Jawaharlal Nehru University)プレム・モトワニ(Prem Motowani)教授の通訳で拝聴しました。(写真は講演の様子)

 

 

「TATA」は1868年創業、140年を超える歴史を持ち、様々な分野で世界のトップ企業となっています。既に英国植民地最盛期でもあった19世紀初頭(日露戦争の頃)には、はやくも製鉄に着手するほどの確固たる基盤がありました。常にインド民族の誇りを堅持しつつ、植民地途上国においてありがちな悪弊を徹底排除することを心がけてきたということです。また、明確な企業理念に基づく厳正な倫理規範を持つ事業経営によって、利益の社会還元を見事に発展させているそうです。貧しい人々の市場にマッチングさせ、廉価な製品を低所得者層に豊富に供給することを目指しており、利益の66%を社会還元することを社是としています。ちなみに街に溢れる大衆車「TATA」はグループ会社であるタタモーターズのもので、インド車の代表格です。

 

TATA HP http://www.tatacapital.com 

 

講演内容の一つとして、「TATA」は近く農村開発と銀行自由化に備えて1年以内に銀行事業を開始するということをお話しいただきました。「TATA」を見れば、インドという巨像の国の部分像がかなりはっきりと見えてくるようです。この講演によって、インド理解がさらに深まるという素晴らしい講演でした。

 

 

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昼食はタージ・マハル・ホテルで講師の皆様と交流しながらのビュフェスタイルでいただきました。タージ・マハル・ホテルは、「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様が、英国人によるインド人差別に怒り、インド人の設計による豪華ホテルを築きあげたものです。建物は西洋の新古典主義とインド伝統様式の折衷で、1903年に開業しました。 2008年11月26日におきた同時多発テロでは3日間テロリストに占拠され、多くの客の犠牲者がでました。現在は館内への出入り検査も厳重で、古典的な落ち着いた雰囲気は最高級のホテルです。100年を超える伝統あるホテルというだけあって、著名な人士の写真やサイン帳も展示されていました。(写真は「TATA」の創始者ジャムシェードジー・タタ様の胸像)

 

タージ・マハル・ホテル HP http://www.tajhotels.com/

 

さて、インド最大の都市である「ムンバイー」とは、英語名称はもともと「ボンベイ」といいました。1534年にポルトガルが「グジャラート」の土侯からこの地域を譲り受けたことに始まり、「ボンベイ」という名前の由来はポルトガル語のボン・バイア(良港)に由来するといわれるそうです。1995年に、英語での公式名称は「ボンベイ」から、現地語(マラーティー語)での名称にもとづく「ムンバイー」へと変更されたそうです。

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昼食の後、30分ほど車を走らせ、ボンベイの海岸線が一面に見えるところに赴き、景観を楽しみました。6年前に比べて、はるかに多い高層ビルが立ち並んでいました。その後、ホテルの傍にあるインド屈指の国立博物館の一つ「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」「ガーンディー博物館」を参観しました。最も価値あるものはロンドンへ持ち去られたのか、やや寂しい展示でした。翡翠の趣味が中国の緑とは異なり白玉のような白翡翠に価値観があるようで、半透明の白色翡翠で創られ、ルビーとエメラルドで装飾された短刀の柄は見事でした。博物館参観後再びムンバイーの空港にもどり、18時10分発9W−483(JET AIRWAYS)に搭乗し、一路南に向かい19時45分にベンガルール空港へ到着、今日も夜更けのホテル着でした。(写真は「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」にて、白翡翠の短剣)

 

(3)11月21日(月)

 

IMGL1239.jpgベンガルールではオベロイホテルのスタッフの皆さまが立ち並び手を合わせてお出迎えの挨拶をしてくださいました。インドではホテルのスタッフの皆様だけでなく、一般の方々にもそのような風習がありました。オベロイホテルは、大変に良く整えられたホテルで、英国の南インド植民地支配の中心地であった時代の最上級の雰囲気を伝えています。喧噪の街中にありながら、静かな室内と自然な演出の庭園があり、最近は疎かなレターセットなど基本的なアメニテイーも完璧で、お勧めの宿です。(写真はオベロイホテルにて撮影)

 

カルナータカ州ベンガルールは南インドの政治・経済の中心地で人口はインド第5位の720万人、標高920mの高原にあるために過ごしやすく、緑も豊かで「インドの庭園都市」とも呼ばれています。ベンガルールでは日本語で、共同通信社発行の「共同ニュース」(日曜日は「共同サンデーニュース」を発行)というささやかな日刊紙が発売されていました。ベンガルールには国営の重工業・航空産業・宇宙産業・防衛産業が置かれ、情報通信産業も発展し、インドのソフトウェア産業最大の地域へと発展しています。

 

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IT産業が入居するビルの密集する近代的な街並みを見学後、郊外の工業団地にあるガラス裁断専門企業のABCグループ南部製造工場を訪問いたしました。ABC グループは日本の旭ガラスの支援を受け、強化板ガラス裁断の技術導入により、南インド一の業績を誇っています。最新のラミネート強化板ガラス製作の全工程をつぶさに参観し、事業の経過やインドでの中小企業の実情についてABCグループ社長 ディーパック・マリク(Deepak Malik)様に経営についてお話を伺いました。マリク様のお話ではインドで急速にすすむ経済発展にともない、建設ラッシュが予測される場面での需要急増に対応するために、同社は手狭な工場の拡張について、外資導入も含む考えも示されました。しかしながら高度な成長を控えるインドにしては、市街地や工業団地など配電施設は、おしなべて余りにも旧式であり、電力インフラ整備の必要が急務であることが強く感じられました。また、工場現場には「5S」(整理<Seiri>、整頓<Seiton>、清掃<Seisou>、清潔<Seiketsu>、躾<Shitsuke>の頭文字のSをとった略称)の掲示もありますが、日本の現場経営指導を的確に行えば、桁違いの生産性が確保できるようにも見えました。(写真はABCグループ南部製造工場にて撮影)

 

インド滞在3日目にして、ニューデリー・ムンバイー・ベンガルールといろいろな都市を廻りましたが、都市部から牛がいなくなったということが、6年前とは大きく違った風景であると感じました。牛は篤志家が引き取り養うとのことです。また、ヒンドゥー教にまつわる身分制度であるカースト制度は1950年に制定された憲法で全面禁止が明記されていました。仕事の上では問題は起きていないといわれているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いており、後30年は残るといわれているようです。

 

19時20分発の9W-812便でベンガルールを発ち、22時頃、再びインディーラー・ガーンディ国際空港に到着いたしました。今晩宿泊するホテルは空港からかなり離れた総合リゾート開発地区にあるホテル「ジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾート」で、到着したのは23時すぎでした。夜食は簡単な(インドならではの?)ビュフェスタイルでいただきました。10月末には、インドで初めてのF1コースでF1グランプリ(GP)が開催され、それに間に合わせてオープンしたホテルとのことですが、イベントのない当日は巨大なホテルも閑散としていて、端の方の部屋ではお湯が届かないという始末でした。周りには何もないので散歩もならず。朝はガスの臭いのするかなり濃い霧で、庭園も見通せないのは残念でした。

 

なお、デリーでは、ここ数年商社、金融会社が増加傾向にあり、加えて中堅企業、レストランの進出も目立ってきています。現在は第二波の進出期に当たるようで、政府は農業補助政策を重視しているそうです。

 

 

(4)11月22日(火)

ホテル内のレストランで朝食をいただいた後、郊外の丘陵地にあるジャワラルハル・ネール大学でプレム・モトワニ教授、及び日本語学部の学生たちとの交流を行いました。モトワニ教授はネール大学大学院日本語学科教授で、インドを代表する日本学と日本語の権威です。日本語の辞書を日本語で出版され、また学生達は、見事に日本語をマスターしております。ホテルには25歳以下は法により禁酒と注意書きがあったので、学生たちに聞いたところ、あれは守らなくてもよい法律とのことでした。また学生寮での「ノミ(飲み)ニケーション」は盛んなようです。大気汚染などについて学生たちはほとんど関心はないようでしたが、建物のあちこちにビラが貼られ、チェ・ゲバラ、マルクス、エンゲルス、レーニンの顔もみかけました。日本ではすでに懐かしの風景です。構内には牛ならぬ犬が多数いました。熱心な学生たちとの交流会は大変活発で中々終わりがたい雰囲気でした。これからの交流に期待します。

 

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11時に、主要大使館が並ぶチャーナキャプリー通りの日本大使館を訪問しました。在インド日本大使館特命全権大使、齋木 昭隆様は日本に帰国中だったため、次席公使である林肇様が臨時大使として、一等書記官 磯野 聡様に対応していただきました。日本的な雰囲気に仕立てられた建物と庭園、室内の調度はインドであることを、ふと忘れさせる雰囲気でした。庭園中央には天皇・皇后両陛下が皇太子ご夫妻のころ、1960 年12月1日に植えられたお手植えの溶樹 (ガジュマル)が見事に成長しています。(写真はその溶樹と高井)

 

林次席公使の、誠に要を得たインド日本関係事情のご説明と質疑応答のあと、多くの日本美術作品(その中には当訪問団をお世話して下さった山田真巳様の大きな屏風作品も飾られていました。)で飾られた、大使館内をご案内いただきました。

 

林次席公使よりご説明いただいたインドについての概略は、以下の通りです。

  1. インドは11月~2月が最適の気候で、4~6月は45度を超えることもしばしばあるようです。社会主義経済から開放政策で、10年前頃からその成果が出始め、国際的に注目されています。日本企業も増加傾向ながら在留日本人は、4000人が5000人と20%弱増えた程度で、タイの5万人とは未だ格段の差があります。
  2. インドは世界最大の民主国家ですが、地方色が大変強く、二大政党が特徴です。インドの最大与党・国民会議派の、後継の党総裁首相候補の選択が決まらず、不安定な状態で、2014年の選挙をどう迎えるかが注目されています。
  3. 外交では、パキスタンとの国境紛争が未解決のままの上、中国やカシミールとも国境での交戦問題と問題は山積みです。しかし日本はインドと直接の利害紛争には関わらないニュートラルな国なので、率直なお付き合いができているようです。
  4. 電力開発は多様化を計画しており、石炭は国産でまかなえているようですが、石油は全て輸入に頼っています。淡水は不足し、海水淡水化事業に日本の支援を活かしています。原子力発電は現在2%ですが、これから積極的に増加させていく方針だそうです。なぜなら、インドは2030年には13倍の電力需要を予測しているからであるとのことです。
  5. 核拡散防止条約に加盟していないため、条約に規制されず核兵器を保有出来ることになっています。インドは日本の核施設輸出に関する方針を改めて打診するため、外務大臣を日本に派遣しました。
  6. 2012年に日印国交樹立以来60周年記念行事を企画していて1~3月、9〜12月の2期にわたり、さまざまなイベントをインドと日本で開催する予定です。
  7. デリー周辺の日本企業は未だ300社余で増加傾向ですが他国に較べて少ないようです。最近の情勢下、中小規模企業のインド進出が増えつつあります。
  8. インド政界は銀幕政治ともいわれるほど映画TVの影響が大きいです。
  9. 第二次大戦後しばらくはロシアとの関連が深かったですが、今は全方位外交です。
  10. 多人口・多民族・多言語の複雑な社会で、英語が共通語になりつつあります。
  11. 最近、東京大学・立命館大学などがベンガルールなどインドに進出しつつあります。

 

 丁度正午に一時間の大使館訪問を終えて出発し、昼食は市内のタージ・マハル・ホテルで済ませました。

 

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その後は植民地時代に整備された、全て放射状に区画されロータリー形式で無停止で方向転回ができる、信号の無い都市中心部の街路をみながら、エロスコーポレートタワービル7階にある双日インド会社を訪問し、同社社長 川村 安宏様からインド事業の状況を伺いました。川村様は、2006年10月ニューデリー日本商工会初代会長をつとめ、146社が加盟する日本人会の理事でもいらっしゃいます。双日株式会社は、母体がニチメン(日綿實業)、日商岩井という、ともに「日」を頭文字とする商社2社であったことに由来して双日と命名されたそうです。(写真は双日インド会社社長 川村 安宏様と高井)

 

 双日 HP http://www.sojitz.com

 

訪問終了後、遙か郊外のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートへ戻りました。

 

(5)11月23日(水)

朝食後、前日訪問したビルにある独立行政法人 国際協力機構(Japan International Cooperation Agency 略称JICA)インド事務所を訪問し、所長の山中晋一様にインドでの活動状況、インドが抱えるさまざまな課題などに関するお話を伺いました。

 

 独立行政法人 国際協力機構 HP  http://www.jica.go.jp

 

山中所長は、1988年から1991年にかけてもインドに赴任されており、特に1991年は、湾岸戦争や政治混乱の影響を受け、インドが経済危機に見舞われた年だったそうです。当時は緊急財政支援により危機克服支援が主たる活動だったとのことですが、現在は、「公正な成長と貧困削減」「人間の安全保障の実現」などに取り組んでおられます。なお、日本の最大規模の供与先である政府開発援助(ODA)は、インド向け円借款事業円として、2003年以降、運輸、電力、上下水、森林開発などに毎年度2000億円、累計1.6兆円を供与、JICAはその事業全般を統括しています。2010年は、放送大学機材、病院建設のプロジェクトに無償資金協力10億円(2件)、技術協力に5億円(22件)、そのほかにも製造業技術幹部育成、高速道路開発、下水道維持管理などのプロジェクトを実施しています。その他ボランテイア事業として青年海外協力隊、NGO支援での農村支援・女性自立支援なども実施しています。

 

その後、14時にデリーより9W-721便で出発し、1時間でジョードプル空港に到着しました。ジョードブルは、ラージャスターン州タール砂漠の入り口にある街で、別名「ブルーシティ」と呼ばれているそうです。

 

ターンテーブルで荷物を受け取った後、添乗員、現地ガイドの方の誘導でバスに乗車して現在もマハラジャがお住まいのウメイド・バワン・パレス・ホテルに向かいました。インド有数の宮殿ホテルということで、やや赤みがかかった現地の砂岩の外壁と大理石で構成された内部は、大きな円形ドームのロビーを中心に放射状に多数の広い客室が配置された、とてもゴージャスな雰囲気のホテルで、まずは各部屋でゆったりとした時間を過ごし、広大な庭園を、階段上から見渡す夕映えのテラス、「サンセット パビリオン」で、インド古典楽器の演奏を聞きながら、マハラジャの気分で食事を楽しみました。また、Headland Media社が発行している「Good Morning JAPAN」なども読むことができました。

 

 

(6)11月24日(木)

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朝食後、ほとんど昔のままのジョードプルの市内を観光いたしました。垂直に切り立った崖の上に1459年に築かれた非常に堅固な「メヘランガール城塞」を見学しました。 現在もマハラジャ所有の博物館として一般公開され、内部には豪華な王宮や寺院が立ち並ぶ巨大な砦です。旧市街は城砦の麓にできた文字どおりの城下町で、途中から三輪の力車に分乗して市場へ向かいました。市場は古い時計台の塔を中心に様々な商いの店が蝟集(いしゅう)して、丁度「上野のアメ横」の路地を人や牛やバイクが通る雰囲気です。米屋では、日本の米とは全く異なる粟のように小粒な米や、細くて長い米などどれも粘りけの全く無い米が売られていました。買い物の女性たちは皆派手やかなサリー姿で、首飾りや腕かざりの金色も華やかに狭い通りに行き交っていました。貧しい人たちもたくさんいましたが、自給自足の食料事情の故か、あまり貧困にもとづく切迫感はなく、むしろ誰もが笑顔でフレンドリーなことは、ここが観光地だからという訳ではないようです。(写真はメヘラーンガル城塞の外観)

 

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昼食をホテル内レストラン「フォンテン コートヤード」にていただいた後、午後は宮殿内特別室にてジョードプルのマハラジャ ガジュシンク2世に謁見いたしました。この宮殿は、かつてこの地方で2年間一滴も雨が降らず、旱魃(かんばつ)に苦しむ領民を救う為に、毎日2千人の領民を交代で動員して、この宮殿を建設したとのことです。ちょうどエジプトのピラミッド建設がナイル河の洪水期の失業救済事業という説に通じるところがあり、日本の震災や放射能対策の政策をも考えさせられます。今は、宮殿の一部をホテルに賃貸し、地域の観光振興に役立てています。(写真はガジュシンク2世との謁見の様子)

 

 

IMGL2124.jpg夜は、一同生まれて初めてのターバンをかぶり、ホテル庭園の舞楽殿前にしつらえられた特設会場で、打ち上げ花火に始まり地域性豊かな古典舞踏を鑑賞しながらの、華やかなプライベートディナーパーティを楽しみました。(写真はターバンを巻いた株式会社知性アイデアセンター 代表 小石原 昭様と高井)

 

 

(7)11月25日(金)

ホテルで朝食後、ベジタリアン達の村「ビシュノイ村」を訪問しました。

ベジタリアンの多いインドでも、厳密に殺生を避ける原理主義の特別保護区で、宗教上の規範で、木も切ってはならない、布を染める藍も使わない極度の禁欲の生活を護る村として特別保護区に指定されている場所だそうです。子どもやビシュノイ村に住む家族全員が快く受け入れていただきました。子ども達の中には、小声で「ルピーを」とせがむ子もあり、これからの経済発展の過程での先行きの厳しさを感じます。部外者の参観訪問も果たして意味があるか、いささか疑問を抱かされました。

 

見学後はホテルに戻り、昼食をとった後空港に向かい、JAW722便で16時30分頃に再びデリー空港に到着しました。ホテルは前回宿泊のジェイピーグリーンズゴルフ&スパリゾートでした。夕刻には、ホテル内バンケットルームにてホテルのオーナーでもある現地巨大企業ジェイピーグループの事業概況についてのプレゼンテーションがジェイピーホテル マーケティング販売部長のジョイント様(Sr.Joint)、同じくマーケティング部のアザマット様(S.M. Azmat )よりパワーポイントを使ったわかりやすい解説が行われました。

 

同グループはセメント事業を中核とする総合建設グループで、水力発電ダム建設と発電事業、高速道路建設と営業、ホテル近傍のインド初のF1GPコース開設を含む巨大なリゾート開発などを進めるインド屈指の企業グループです。公共インフラ投資の相当な部分を企業ベースで推進しつつあるインド的な様相が見える有益なプレゼンでした。

 

 ジェイピーグループ HP http://jaypeehotels.com/

 

終了後は 関係者の皆さまを交えてのレセプションが行われました。その後、「さよなら夕食会」が行われ、8日間の滞在を視察団全員がふりかえり、インド最後の夜を楽しみ、親睦を深めました。夕食会の途中、インド国会議員最年少議員で前観光相のOmak Apang様が、忙しい日程の合間をさいて来場され、ご挨拶をいただきました。その後もOmak Apang様は団員とともに阿波踊りに興じるなど、大変気さくにおつきあい下さいました。また、来年2012年が日本、インド国交60周年にあたり、様々な交流イベントとして四国の「阿波踊り」や青森の「ねぶた」への参加を要請されました。

 

 今回は、大変忙しい旅程で、肝心のゴルフやスパでのリゾート気分を味わう時間は全くありませんでした。

 

 

(8)11月26日(土)~27日(日)

今朝は朝4時起きて、帰国の荷物はバスで別送しました。私たちは、ホテルからバスで一時間程かけて、夜明け前にニューデリー駅荷に到着いたしました。ニューデリー駅は、首都駅にしては雑然としており、駅前広場では、地面に仮眠する人達などで足の踏み場も無い有様でした。乗車した列車は、外国人専用の観光列車ということで、こざっぱりした感じで、ほとんど満席でした。

 

駅からバスで15分ほどの、明け方の門前町は、もう車で一杯でした。リキシャに乗り換えて門前ゲート前まで行きました。高い城壁のような廟を護る楼門の彼方に、美しいドームが見えてきました。

 

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タージ・マハル廟は、1983年世界文化遺産に登録されています。1632年着工し、22年かけてインド中から最高の材料を集めて造られたのだそうです。純白の大理石で創られているタージ・マハル廟の建物は大気汚染の酸性雨により、本来の純白に輝く大理石がやや灰色に鈍く変色しているといわれます。大理石は酸に容易に犯されてしま うのでコーテイングなどの対策が必要です。完璧に左右対称型の壮麗なドームの構成は、四隅の塔ミナレットで引き締められ安定しているところが大変面白く感じました。完全対称の造形を助ける廟前面の池が整備中のため、水面に逆さに映る姿を見ることができませんでした。廟の裏手にはかなりの幅の河がゆったり流れ、穏やかな風情でした。学生や様々な国からの観光客に溢れる庭園では、写真のポイント順番待ちが大変でした。(写真はタージ・マハル)

 

この、タージ・マハル廟は、ムガール帝国第5代皇帝シャー・シャハーンが愛妃ムムスターズ・マハルを悼み建てられた廟です。また、ジョードプルの絶壁にまもられ、難攻不落のメハランガル城の唯一の弾着跡が残る立て籠もりの歴史は、没した王の后の帰趨を争う兄弟同士の戦争であったそうです。インドの最大の伝統的な価値観が、女性の美しさと魅力にあることを物語るようです。

 

ヒンドウー教寺院礼拝堂では、男性席が前、女性の席は後ろに厳しく区分されていますが、政治の世界では、早くからインデイラー・ガーンディーなど女性が首相も務め、自爆テロの標的にもされる程、日本より余程女性の地位は高いようです。

 

アーグラ市街中心のホテルで昼食後、市内の1983年登録の世界遺産アーグラ城塞を参観しました。ムガール帝国時代の1565年に着工された城は、赤い砂岩の城壁で「赤い城」とも言われるそうです。ムガール帝国の三代目が、タージ・マハルを建てたシャー・ジャハーン王です。主要な構造は砂岩ですが、内部は華麗な花木の唐草とアラベスクで色彩豊かに飾られた白大理石です。ほとんど内装は剥離していましたが、大理石の透かし欄間を通して、タージ・マハルを遠望できる高見の部屋に、復元と見られる遺構がありました。

 

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城塞の最高層にあり、ジャムナ河に接して、東面する王の間の白大理石の透かし窓からは、ほぼ正面に、約1Km先の河岸に佇む、真珠のようなタージ・マハル霊廟が望まれます。この方位と距離の関係は、誠に絶妙で、朝な夕な、そして月の光に、時とともにその姿をとおし、亡き妃を偲ぶ想いに、この世のものとは思えぬ姿を、シャー・ジャハーン王は現世に実現してしまったのです。つねに遷ろう光の反映を求め、それ故に、廟のドームは純白の大理石でなければならなかったということです。ですから、タージ・マハルの本来の心根は、このアーグラ城の透かし窓から臨むことでした。王が日夜、白く輝く廟を見つめ、后を偲びながら過ごした城は、やがては幽閉の場になったとのことです。河を隔て、相対する場に、自らの黒大理石の廟を設ける王の願いは、遂に叶わなかったということです。(写真はアーグラ城から遠望したタージ・マハル)

 

今回のツアーは、早朝から夜分に渡る相当な強行軍で、街の土産物屋など全く立ち寄る暇なしでしたが、タージ・マハルとアーグラ城を参観の後、大理石モザイクや織物など数店が入る公営の工芸品店で最後のチャンスがありました。タージ・マハル廟やアーグラ城塞を飾る見事な大理石と色彩豊かな貴石の花模様をモチーフとした、美しいモザイクはフィレンツエの細工ともよく似ています。

 

土産物店を後にして、帰国の手荷物を積みホテルから回送してきたバスで、インディラー・ガーンディー空港へ急ぎましたが、首都空港へ向かう夕闇の道は大渋滞でした。果たして間に合うかと心配しましたが、見事インド流のホーンを鳴らしながら互譲の道路マナーで、見事1時間前にデリー空港に到着しました。出発便は1時間遅延で、おかげさまで、現代的に整備された空港売店での束の間のお土産漁りも出来ました。実のところは、我が団の為に東京からの手回しで、1時間出発を調整されたとの内輪話もあるようですが…。

 

 AI306便にて出発し、約7時間20分のフライトの後、成田空港に日本時間の午前8時に到着いたしました。

【歴訪記】その8 下村湖人先生の生家


先週11月30日(水)夕方5時近く、佐賀県神埼市千代田町崎村にある下村湖人先生(1884年~1955年)の生家を訪問いたしました。この生家は、2006年に神崎市重要文化財に指定され、2009年度には佐賀県遺産に認定されています。ご同行者は、佐藤学園西武文理大学創立者 理事長 学長 佐藤英樹先生でした。また、佐賀にお住まいの橋口電機株式会社常務取締役 橋口佳代子様がご案内してくださいました。3人とも興奮して、1時間程、閉館時間を遅らせて下さった館長である北川信幸先生のご説明を聞きながら、夕闇迫る中で、湖人先生(先生は内田夕闇<うちだゆうあん>という筆名で歌人としても活動されました。)はとても私は足下に及ぶことのできない大人物であったと改めて思い返しました。湖人先生は教育者であり、そして真の意味での思想家であり、ほんとうの学者でした。

 

・ 佐藤学園西武文理大学HP  http://www.bunri-c.ac.jp/

 

 

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(下村湖人先生生家前で撮影
佐藤学園西武文理大学 創立者 理事長 学長 佐藤英樹様)

 

 

 

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(生家の内覧)

 

私が、小学校6年生、12歳だった1949年(昭和24年)に、父からいただいたであろう湖人先生が書かれた『次郎物語』の第一巻を読み、それ以降『次郎物語』は私にとって愛読書となりました。爾来62年間、湖人先生の生家を訪れたいと願っており(1949年当時には、湖人先生はご存命でしたが、私はもう亡くなっていたと思っておりました)、ついにその夢がかない、感無量でした。

 

湖人先生については、語るべき事があまりにも多くて、とても今回のブログだけでは語りきれません。ですから、一つだけピックアップしてご紹介するとすれば、「道義、道理、道徳」の話を挙げたいと思います。

 

「道義、道理、道徳」とは、「義の上に道があり、理の上に道があり、徳の上に道がある。」という意味です。つまり、「大いなる道」「大いなるもの」の理想を求め、「人の歩き続ける道を究める」という世界が、『次郎物語』の主人公の姿勢でした。湖人先生のご子息である下村覚様が、東京都小金井市立「文化財センター」開所式で述べられたご挨拶文が、2階の一隅に飾ってあり、改めてこの言葉を拝見しました。(「文化財センター」は元々、1931年<昭和6年>に建てられた「浴恩館」という名の建物で、全国の青年団指導者養成のための青年団講習所でした。1933年<昭和8年>から1937年<昭和12年>までは、湖人先生が所長を勤めていました。「次郎物語」の第5部に登場する「友愛塾」のモデルとなったそうです。)

 

「親父が『道義』と『道理』と『道徳』という三つの単語を書きまして、『覚、これ何と読むんだ』と言いましたので、棒読みに、『道義であり、道理であり、、道徳である』と読みましたら、親父が『そう読むんではないんだ、これは我々日本人の祖先が未来永劫の教訓を与えたもので、『義の上に道あり、理の上に道あり、徳の上に道がある』ということを教えた日本古来の本当の文化の根源のこの三文字を祖先から与えられたんだ。これをようく見つめて、これからの人生を歩め』と教えられました。

<下村覚様のご挨拶文より抜粋>

 

『次郎物語』は、湖人先生の自伝的色彩が濃い作品で、湖人先生の上記の「道義、道理、道徳」の理想を求めて成長していく次郎に対して、私は小学6年生の頃から憧れ続けました。『次郎物語』は、自分の人生の一端を規律してくれた書籍ですから、湖人先生には感謝の念を抱いています。

 

宮本武蔵も、道を究める人であったでしょう。吉川英治先生(1892年~1962年)の、『宮本武蔵』にも私は少年時代から憧れつづけましたが、その本には「魚歌水心」という言葉があります。これは、最終章のタイトルになっていて、最後に「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」という文章で、物語は幕を閉じます(吉川英治歴史時代文庫21『宮本武蔵(八)』、講談社、1990、369頁)。私は結婚して間もなく、妻の孝子の故郷である広島県福山にて、現在、財団法人毎日書道会総務、毎日書道展審査会員、奎星会副会長等を務められている書道家、大楽華雪先生にその「魚歌水心」を書いていただいたという思い出があります。

 

また、徳冨蘆花先生(1868年~1927年)の『思出の記』という名著も、少年時代の私を規律した書籍です。『蘆花』という言葉は、蘆(あし)の花という意味であるそうです。ところで、下村湖人先生の生家の一隅には、「白鳥入蘆花」という碑が建っていました。これは、『碧巌録』(特に臨済宗において尊重される中国の仏教書で、宋時代<1125年>の圜悟克勤<えんごこくごん。1063年~1135年>の編。)の第十三則にある言葉「白馬入蘆花(白馬、蘆花に入る)」によるものです。しかし、湖人先生は「馬」より「鳥」の方が詩的であり、また湖人先生が幼いころにこの地にみられた白鷺と蘆の花の印象が鮮やかであったので、白鷺を白鳥と例えて、「白鳥入蘆花」へとアレンジを加えてこの言葉を愛用したといわれています。「白い蘆花が、辺り一面に咲いており、その中に白鳥が舞い込む。白鳥は姿を没するが、その羽ばたきで起こる花の波は無限に広がる」といった意味の言葉です。「善行とは目立つものではない」という意味で、湖人先生が生涯頻繁に口にされていたそうです。善行の在り方についての至言であり、とても素敵な言葉であると思いました。

 

さて、湖人先生は1925(大正14)年から1931(昭和6)年まで、台湾に居住されており、1926年に台北帝国大学の傘下にあった、当時台湾島内唯一の高等学校である台北高等学校の校長を務めるなど、台湾でも活躍されました。私は来年3月29日から4月1日まで、再び台湾を訪れる予定ですので、その折には湖人先生ゆかりの土地を訪ねたいと思っております。(前回10月26日~29日の台湾歴訪につきましては、11月22日付「歴訪記その7」をご覧ください。)

 

また、湖人先生は、歌人としても、素晴らしい業績を残されました。歌人としては、先にも述べた通り、内田夕闇という筆名で活動していました。湖人先生は1902年(明治35年)、18歳の時に、中央の雑誌に詩歌を投稿し始めました。おそらく、遠く佐賀から投稿されたのでしょう。例えば、新声社(現在の新潮社)発行の月刊誌「新声」1901(明治34)年1月号には『海べの朝』を、5月号には『哀傷』、7月号には『鐘楼』という詩が掲載されました。また、与謝野鉄幹が主宰していた1900(明治33)年4月から1908(明治41)年11月まで刊行された、詩歌を中心とする月刊文芸誌「明星」の1906(明治39)年2月号には、湖人先生の『孤独』という詩が載りました。その時の『明星』には、石川啄木と与謝野鉄幹の詩も掲載されていたのだそうです。湖人先生は、信じがたい程才能があり、まさに天才肌の人であったのだろうと思います。

 

さて、今回の記事では、下村湖人先生、吉川英治先生、徳冨蘆花先生についてご紹介しました。3先生に共通していることは、肥州(肥前国・肥後国)にご関係があるということが、まず一つ挙げられます。今回訪れた湖人先生のご生家は、佐賀県神埼市、つまり廃藩置県前でいう肥前国に位置しています。吉川英治先生の代表作『宮本武蔵』の宮本武蔵は、肥後国の千葉城(現在の熊本県熊本市)で他界しています。そして、徳富蘆花先生は、熊本県水俣市つまり肥後国のご出身です。

 

次に、3先生に共通していることとして、もう一つ挙げられることは、昭和の初年に活躍した人、すなわち明治に生まれた人であるということです。私は、この3先生のように、昭和の初年に活躍した人、すなわち明治に生まれた人は、私たちの世界とは別人のごとき大きな事業に挑まれ、足跡を残された方が多いと思います。今の青年諸君が、海外に赴かないという嘆かわしい状況を見るにつけ、まさに「ネズミの時間」になった日本人を、ひしひしと感じました。みなさんが、改めて「象の時間」を目指されることを期待してやみませんが、果たしてこれが可能でしょうか。「ネズミの時間」に生きている人は小さいことしか考えません。海外雄飛という言葉がまさに躍った明治、大正、昭和初年の日本人の心を想う時、現代の青年、さらには中年の日本人の心の萎縮した現状の有り様を、私は嘆いています。

 

ところで、『次郎物語』の映画化は、既に4回にわたって行われ、テレビドラマも2回放映されています。すなわち、国民的文学の代表であるということでしょう。

 

【映画】

1.  1941(昭和16)年12月11日 日活より公開
次郎:杉幸彦(幼年時代)、杉裕之(少年時代)
お浜:杉村春子

2.  1955(昭和30)年10月25日 新東宝より公開
次郎:大沢幸浩(幼年時代)市毛勝之(少年時代)
お浜:望月優子

3.  1960(昭和34)年 松竹より公開…3月4日公開の「次郎物語」と5月13日公開の「続次郎物語 若き日の怒り」の二部作。
次郎:中森康博(第1作)→山本豊三(第2作)

お浜:桜むつ子(第1・2作)

4.  1987(昭和62)年7月4日 東宝より公開
次郎:樋口剛嗣(6歳時)→伊勢将人(10歳時)

お浜:泉ピン子

 

【テレビドラマ】

  1. 1956(昭和31)年5月8日から8月28日まで 日本テレビ
    早川雪洲、宇野重吉等が出演
  2. 1964(昭和39)年4月7日から1966年(昭和41年)3月29日まで NHKにて
    池田秀一、加藤道子等が出演

 

『次郎物語』の次なるブームはいつくるのでしょうか。第5回目の映画化、次のテレビドラマ化はいつでしょうか。それは、青少年の覚醒が必要不可欠になるほど日本が追い込まれた時に、実現するのだと思います。

 

 

【橋口 佳代子様よりコメント】

 

11月30日は、佐賀の町がお天気に恵まれたとても気持ちの良い日でした。同郷の大先輩に誇るべき偉人がいたことをあらためて学び・感じるよい機会でした。

県道沿いにある素朴な二階建ての古い生家は、他の偉人のそれに比べると質素であり、 ガイドブックやインターネット情報では見過ごされる見栄えです。でも、屋内に一歩足を踏み入れ、北川館長さんの話をお聞きをしたら、とても清らかで懐かしい心持ちがし、帰り際には去りがたい気持ちでいっぱいになりました。

その理由をあげるときりがないのですが、高井先生が帰りの道中、「私がなぜ『次郎物語』に魅かれたのかがようやく分かった」という言葉に、理由のすべてが凝縮されています。

 

【歴訪記】その7 台湾


私は10月26日(水)、12時40分にBR-191便で羽田空港を発ち、台湾の台北松山空港に現地時間(日本との時差1時間)の15時5分に到着しました。

 

今回の台湾訪問は、「台湾視察団」として私が主催したもので、10月26日(水)午後から10月29日(土)早朝の羽田空港帰着までの短い旅程ではありましたが、多くの場所をお訪ねすることができ、大変満足なものとなりました。

 

ご一緒したのは、中央精工株式会社取締役相談役 中村光次様、丹治林業株式会社代表取締役 丹治敏男様、弊所上海代表処 兪浪瓊様、株式会社クレース・プランナーズ 代表取締役社長 正門律子様で、このメンバーの中で一番旅行慣れされているのは、丹治様でした。丹治様は、今までに海外は200回ぐらい赴いたことがあるとのことでした。また、中村様は100回以上海外に赴かれているそうです。私も数多くの国に赴いては参りましたが、流石にこのお二人にはかないません。

 

【兪浪瓊様のコメント】

私は学生時代に度々貧乏旅行をし、最後の一円まで使い切って、危うく家に帰れないこともありました。今回の視察旅行の快適さに大満足でした。

 

 

今回の「歴訪記」は、中村光次様にご寄稿いただきました。中村様、どうもありがとうございました。

 

 

 

(1)10月26日(水)

羽田空港12:40発BR-191便は定刻15:05に、台北市内中心部にある昔から至便な台北松山空港着。出迎えのバスでW Hotelに荷物を置き、早速16:30には台北市仁愛路四段376号ビルへ。

 

16時30分 「寰瀛法律事務所 Formosan Brothers、Attorneys-at-Law 」訪問

 

 

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(事務所玄関で高井伸夫弁護士と代表パートナー弁護士劉志鵬律師)

 

【高井のコメント】

劉志鵬先生は1979年に国立台湾大学法学士を修了され、1982年に同大学で法学修士を修了されました。ドイツに留学された後、東京大学大学院法学政治学研究所に1985年から1988年まで留学され修士課程を修了されました。大学院では、菅野和夫先生に師事して労働法を勉強された方です。この間、当事務所にも、幾度もおいでになり、当時の弊所の所員とも親しくなられた方です。

 

晶華軒での晩宴

 

 

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(晶華軒での晩宴)

 

 

仁愛路四段ビルの事務所を辞して、リージェント台北ホテルの三階にある、今、台北で最も人気の晶華軒での晩宴(正餐)は劉先生のご招待でした。

 

晶華軒(元蘭亭晶華軒)は、2008年伝統料理に新様式のメニューを加え新設し、最近は故宮博物院別館にも「故宮晶華餐廳」を出店したとのことです。東京・赤坂にある四川飯店の陳建一氏とも親しく交流。広東・四川・上海・香港・北京の様々な中国料理様式を現代的にアレンジした上品な仕立て。ガラスの透明感を基調に全く新たな宴席の雰囲気は日本人による設計とのこと。

 

席には、プラティアコンサルティング(保益橋顧問股份有限公司)董事兼総経理 陳 一先生他3名の方も参加され、陳先生からは東アジアに於ける合弁指導など日本から台湾を経由し中国本土への事業経路について貴重なご意見を伺った。陳先生は今年8月まで金沢大学大学院の教授を23年間、務められ、日本通でいらっしゃいます。

 

晶華軒HP GRAND REGENT TAIPEI http://www.grandformosa.com.tw

 

【高井のコメント】

陳先生には来年の春、当事務所において講演をしてくださることを引き受けて下さいました。

 

【正門様のコメント】

同席の皆様の知的レベルの高さに、はじめはやや気おくれしたものの、おいしい食事と教育・経済・文化・食べ物・時事ニュース多岐にわたる話題で、非常に有意義で楽しい会食となりました。

また、複数の国籍の方が参加している場においては英語でのコミュニケーションが主流となる場合が多いのですが、今回の会食の場では全員日本語が堪能で尊敬いたしました。

なお、こちらの様子は連載コラム(20~30代OL向け無料情報誌『シティリビング』http://cityliving.jp/ 7万部発行)に書かせていただきました。

 

【兪浪瓊様のコメント】

台湾の土地制度、食品衛生、就職状況、労働事情、投資環境等、日頃関心を持っているものに関して、大先生や先輩弁護士にいっぱい質問をし、新鮮な知識を仕入れ、大変得した気分です。ありがとうございます!

 

(2)10月27日(木) 

台湾高速鉄道 #115 台北07:54 発 台中08:43着 NT$1、000

(10、000円≒3、800NT$)

マイクロバスでの山登りは高速道路経由で快適でした。昔は泊りがけでした。

 

9時30分頃 景勝地「日月潭」訪問

 

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日月潭とは北側が太陽、南側が月と見立てられ、地勢風水も縁起がよいとのことで、現在では休閑保養地として国家風景区に指定され、様々な施設が完備し賑わっている。

 

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(丁度昼時の日月潭随一の銀座通り。一見閑散としているが、団体の観光客はバスから店内に。)

 

 

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(日月潭の銀座通りで地元料理の昼食)

 

 

看板・店構えは、至ってお粗末ながら、店内は中国人観光客で大賑わいでびっくり。

初見参の、龍髭菜なる、まさに「龍の髭」のごとく細く炒めた菜が歯触りよく、誠に美味でした。元来、日月潭は日本の台湾統治時代に幾多の困難を越え建設された水力発電用のダム湖で、台湾産業振興の基として重要な存在。水力発電ではいまでも最大です。

 

15時すぎ 「高雄国家体育場」訪問

 

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高雄国家体育場(2).JPG

(高雄国家体育場のメインスタジアム)

 

 

2009年1月14日に高雄市と民間の努力で完成したばかりの高雄国家体育場は、国際基準の台湾最大規模4万人収容、最大5万5千人に拡張可能。

 

伊東豊雄先生設計・竹中工務店他施工により、現地の気候風土に十分配慮された独特の開放式運動場は、建設に際し様々な国際会議を誘致、開催しました。観客席屋根は高雄市の象徴である昇龍を模した躍動的な構成が見事に実現されているが、複雑な三次元の屈曲した鋼管による工事は難しい工事であったことがうかがえます。

 

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(高雄国家体育場の屋根)

 

このように広大かつ複雑なうねりを持つ屋根全面に、隈なく「龍の鱗」さながらに110万Kwh/年の発電能力を持つソーラー発電パネルを配置したのは、おそらくは世界的にも初の事例。伊東先生は、「建築界の平和な時代の野武士」と呼ばれる世代の筆頭株と評され、訪れる様々な人に心地よく調和する持ち味の場を創る。

 

 

【高井のコメント】

伊東豊雄先生と私は1996年以来面識があります。私が評価するに日本で随一の建築家だと存じます。日本には今はモニュメントになるような建築対象物がないので、伊東先生は現在は主に台湾で仕事をされています。台湾にモニュメントの建物がなくなったら、新たに別の地域に進出されようとしています。

 

 

17時30分 「度小月」の鍋料理

地元料理、台南名物百年の歴史を誇る三代祖伝「度小月」の鍋料理での夕餐。

台湾料理で最も有名な小吃(シャオチー・店や屋台で食べる中華の一品料理のこと。)が担仔麺(タンツゥミェン)だが、もっとも有名なのが、総統も訪れるこの「度小月」。

台南市中正路101号店は本店が手狭になり男子相伝の原理を変革、孫娘が仕切る分店。擔仔麺(ターアー)とはそぼろ肉の煮込み麺で様々な具を面前で担ぎ、屋台の伝統を残す仕掛け。

 

 

度小月.JPG

 

(店頭で、女将の擔小麺工房:注目は天秤棒で担ぎ売り時代の名残の道具立て)

店の入口傍の擔小麺制作工房をつぶさに確認中の丹治代表。苫小牧名物の野生鹿を具にしてはいかがでしょう?

 

面前で調理するのは、江戸時代の夜泣きそばと全く同じ仕組み。店頭で看板の美人ママが愛想よくひと鍋毎に仕立てるのも人気の素。ご推奨です。

 

 

(3)10月28日(金)

9時30分 「烏山頭(ウザンドウ)ダム」訪問

台南から早朝バスで出発し、午前9時30分頃から鳥山頭ダムを表敬訪問しました。

 

元々、ここ嘉南平原は草も生えない不毛の地であった。

ここを巨大な食料産地に変えようと、日本台湾総督府は1920年から1930年に至る10年間の辛苦の大工事を見事に完成。今でも、東アジア最善の灌漑開発工事として誇れる存在。

烏山頭水庫周辺は「藍天緑地水藍有気の地」として国家風景區に指定されている。

ダムは、元々の曾文渓(そぶんけい。台湾南部を流れる河川)の支流である官田渓をせき止めるために、世界でも希な事例と言われる「半水力沖積式の土石ダム」で地勢風土を巧みに活かして構築された。ダム湖は山間に珊瑚のように枝分かれし、別名を珊瑚潭とも言う。


 

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(記念館に置かれた八田與一技師の胸像)

 

八田與一技師は、1886年2月21日生、現在の金沢市今町の出身。第四高等学校を経て1910年東京帝国大学工学部土木科を卒業。台湾総督府に勤務。後藤新平初代民政長官のもとで、猖獗(しょうけつ)を極めたマラリアなど風土病の対策を担当し、嘉義・台南・高雄などの上下水道整備に従事。28歳で台湾北部桃園灌漑の大水利事業を指揮し、見事に成功を収めた。31歳で金沢の医家出身の外代樹(とよき)と結婚。

 

1918年台湾南部嘉南平野を調査。灌漑面積1000ha、有効貯水量1億5千万㎥の大貯水池の開発建設を開始。事業は半額を国費、残余を受益者負担の「官田渓埤圳組合」を結成して施行。與一自身は官職を辞し組合付き技師として、1930年の完成に至るまで工事を陣頭指揮。水路は16000kmに及び、不毛の嘉南平野を豊穣の地に変えました。

 

與一没後の1973年には、與一の設計に基づく曽文渓ダムも見事に完成している。與一のダム工法はセミ・ハイドロリックフィル工法と言われる、コンクリートを殆ど使用せずに粘土・砂・礫を使い水圧による自然な定着を図る仕組みにより、土砂堆積による不具合もなく、現在でもダムの機能を完全に維持している。1942年5月8日フィリピン調査へ赴任の途中、五島列島付近で大洋丸が雷撃沈没のため、戦没。遺骸は山口の漁船により収容され、遺骨は烏山頭に埋葬された。妻外代樹は、戦後1945年、ダム起工記念の日に放水路に覚悟の上入水、與一の後を追う。

 

 

【兪浪瓊様のコメント】

親日派として、中国も戦争の事ばかりではなく、日本人の貢献も事実通り宣伝すればよいと思います。

 

【高井のコメント】

八田與一技師記念公園は以前から訪問してみたいと思っていた場所でした。日本統治時代の台湾で、農業水利事業に貢献し、世界一のダム建設に命を懸けた八田與一様は現在も地元民に慕われ続けています。毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百もの人が訪れ、今年の命日には馬英九統帥も献花に訪れたそうです。台湾で毎年このように政治家が参加するのは、八田様以外にはいないそうです。

 

中村光治様.jpg

中村光次様 八田夫妻の墓前で撮影)

 

前日27日、高雄から私どもが乗ったバスの運転手蔡水樹さんは28日の朝、ゆりの花束をもってバスの運転を開始しました。私は怪訝に思って何のための花かと思っていましたところ、鳥山頭ダムの八田夫妻の墓に着いたとき、彼は恭(うやうや)しく墓前にその花を捧げたのです。そしてそこで私が彼に聞いたところ、台湾において一番尊敬する日本人は八田様であると明言されたのでした。もちろん鳥山頭ダムの恩恵を高雄で受けているのではないのですが、八田様の功績は、広く台湾中に鳴り響いていることを感じ取ったのです。

 

 

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(八田夫妻のお墓に献花礼拝するバス運転手の蔡水樹さん。)

 

また、台湾には日本統治時代に日本語の教育を受けた世代を中心として今でも浪花節ファンが少なくないそうですが、「日本人技師、八田與一が台湾に築いたダムと水路を世界遺産にしようという動きもある。…台湾の人々の心に浪花節が残っていることと、決して無関係であるまい。」と11月16日付産経新聞1面の『産経抄』に記載がありました。台湾の対日感情は様々に報じられていますが、八田様に対して台湾の人々は「恩人」と慕い、今でも愛されているのです。それは、八田様が生涯をかけて情熱をかけてひたむきに治水事業を成し遂げたからであり、それは台湾の人々への「愛」「浪花節」ゆえであったのだと思います。

 

八田様について、私もご面識のある竹田恒泰殿下は「別冊正論16号」(日刊工業新聞社、2011年10月20日発行)にエッセイを寄稿されていて、次の様に述べられています。

 

「八田與一の意義は政治的意味合いに限るものではない。八田の人生には、大和心と、日本人のモノづくりの原点を見ることができると思う。…モノを造りながら周りの人が幸せになり、できあがったモノが人々を幸せにし、そして最後に自分が幸せを噛みしめる。これこそが、日本人のモノづくりであろう。八田イズムの根本には『愛』がある。私たちは八田の生きざまを通して、人を愛することの大切さと、人のために生きることの尊さを知ることができる。」

 

 

湖畔の展望台.JPG

湖畔の展望台から枝珊瑚のように分岐している珍しいダム湖を臨む。

湖の周辺は風景区として指定されて様々な施設が設営されている。

 

 

台中発 台湾高速鉄道で台北駅に帰着。すぐに国立台湾大学へ。

 

16時 「国立台湾大学」訪問

 

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国立台湾大学西側にある正門。左手奥に「台北101」を遠望。ここにも昔の佇まいが。

 

国立台湾大学は、旧台北帝国大学として1927年名称決定。1928年3月設立。

初代学長は幣原坦(しではら たいら)。当初より総合大学として拡充。1936年には医学部設置。1945年中華民国政府が接収。現在では11学部学生3万人を超える。李登輝・陳水扁・馬英九他台湾立志伝の重要人物を輩出。

 

【高井のコメント】

国立台湾大学においても伊東豊雄先生は大活躍されております。国立台湾大学の現在建設中の社會科学院を設計されており、それが建築中の建物の外壁に表示されておりました。

 

 

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国立台湾大学社會科学院建設説明看板に伊東豊雄先生のお名前が。

 

 

圓山大飯店

 

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圓山大飯店の外観

 

金曜日の引け時の渋滞を縫い、一路故宮博物院への途中、今年で創設59年目と、だいぶ古くはなったがリニューアルもされ、堂々たる風格の「圓山大飯店」。

日本統治時代の台湾神宮跡地の台北を一望する小高い丘に建てられ、外賓を迎える迎賓館として使われていました。


 

17時頃 「国民革命忠烈祠」訪問

 

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国民革命忠烈祠の衛兵交代を参観

 

辛亥革命や戦争で没した将兵を祭る国民革命忠烈祠(即ち靖国神社に相当)の本日最終17時の衛兵交代に、見事に間に合い一部始終を参観。体格の揃った兵士達の一糸乱れぬ衛兵交代の靴の鋲と銃の台尻で奏でるリズムは耳に残る。

今回の台湾の旅の間、兵士の姿はこの衛兵達だけしか見かけなかった。武装警官の姿もなく、他の諸国と比べると非常に治安の良いことが感じられる。

 

 

17時過ぎ 「故宮博物院」訪問

故宮では撮影禁止で写真なし。18:30の閉館まで約一時間の駆け足参観は充実。

中国人観光客で大賑わい、例のごとくここも喧噪。国宝特別展で素晴らしいものが並ぶが、展示方法が時代系列による方法に変わり、いささか食い足らず。

 

【高井のコメント】

参観者は、大陸の中国人の方が圧倒的に多かったことが印象的でした。日本人の参観者は見かけませんでした。

 

 

(4)10月29日(土)

台北松山空港を7時45分に発ち、羽田空港に11時45分に到着し帰国いたしました。

 

(5)まとめ~台湾反芻 40年前から比べて~

1.  劉先生に伺ったところ、台湾で「官との裁判案件」が多いことは、日本より民主的な社会に移行しつつある証左であるかもしれないと感じました。そしてもちろん中国本土の民主化への底流にも大いに関わりを持つと思いました。また高雄国家体育場建設では、公開コンペにより日本人が設計、日本の建築会社が施工に関与しつつ、官民協調し「公開透明の原則」に従い大工事が実行されたのは刮目に価します。

 

2.  台湾社会は、秩序が自律的に護れる地域に見事に成長し、世界でも希有のことと思われます。今回の訪台中、衛兵と駐車管理を除いて、市中に警官・軍人の姿をほとんど見かけませんでした。また大陸では当たり前のように見受けられる、我先に押し合う姿や鉄格子で囲まれた牢屋のような住宅はありませんでした。これらの違いはなぜでしょうか?台湾は、町並みも人心も極めて整えられているような、落ち着いた、調和が感じられる国であり、心が和みました。

 

3.  台湾料理が穏やかな料理に進化した?

ことさらに台湾現地らしい料理店を歴訪した今回、昔と比べて全体的に意外と薄口傾向、塩分、調味料が控えめで、これは生活水準向上を反映していることであると感じました。

 

【正門様のコメント】

旅の道中、有名な台湾バナナ・マンゴーから普段あまり口にすることのないドラゴンフルーツ(火龍果)・シャカトゥー(釈迦頭)・ワックスアップル(蓮霧)・リュウガン(龍眼)など、丹治社長のご厚意により様々なフルーツをごちそうになりました。私の中で、台湾は「フルーツ天国」というイメージがつきました。

 

4. 1911年、清朝崩壊から現代中国発展に至る起点である辛亥革命100年を記念すべき年に訪台できたことは、感慨まことに新たでした。日本統治の善き遺産を承継しながら、大陸文化の伝統に培われる新台湾の更なる善き発展が、おおいに期待されます。

 

5. 故宮博物院の中国宮廷の文物、至宝の存在は、台湾市民の文化発展に自然に溶け込み、新たな文明の要素となりつつあるように感じました。

 

6. 高井は来年3月29日から4月1日に再び台湾を訪問する予定であり、陳先生との講演の打合せも行う予定です。

2011年10月16日(日)、鹿児島県奄美群島の奄美大島へ初めて赴きました。

奄美群島へは、以前より、赴きたいと願っておりましたが、ついにお訪ねすることができて本当に嬉しかったです。その理由は、私は以前から田中一村<1908年~1977年>という画家に憧れ続けており、奄美空港から車で5分、奄美群島のまさに玄関口といえる奄美市笠利町節田の「奄美パーク」内にある「田中一村記念美術館」(2001年秋開館)を訪れたいと願っていたからです。今回は、午後3時50分頃から1時間余りに亘って観賞いたしました。

 

 

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(田中一村記念美術館の外観)

田中一村記念美術館は、いわゆるありふれた近代的な鉄筋の美術館ではなく、奄美に古くから伝わる高倉式の「倉」の形状をしており、木造のものでした。収蔵点数は約450点を数え、年に4度の展示替えをしながら、常時70点ほどを展示しています。美術館の周りには、田中一村が描いた奄美の亜熱帯植物が植えられた「一村の杜」が広がっていました。たいへん広々とした美術館で、奄美大島一番の建造物ではないかと思います。

 

今回ご同行してくださったのは、9月13日付記事「交友録その10」でご紹介した新潟トヨタ自動車株式会社 代表取締役会長等々力好泰様でした。多忙を極める等々力様が、田中一村の作品を観るためだけにわざわざ同行してくださったのでした。 

 

 

田中一村の生誕地・栃木県

田中一村は栃木県生まれの画家です。中央画壇とは無縁の方でしたが、死後に高い評価を得た「孤高の画家」と呼ばれている方です。「田中一村記念美術館」が奄美大島にある理由は、田中一村が1958年50歳の時に奄美大島に渡り、そして1977年に69歳でこの地に没したからです。過日、このことについては、8月23日付【歴訪記その2】記事でご紹介いたしました「足利文林75号」(2011年5月発行)の13頁にある彫刻家の中村宏先生による田中一村についてのエッセイを読んだ時、一村は1908年(明治41年)に、栃木県下都賀郡栃木町の生まれであるということを改めて承知しました。機会があれば、田中一村の出生地にも訪れたいと考えておりますが、もうそこには何も残っていないかもしれません。

 

その後1914年、田中一村が5歳の時に、一家は栃木から東京市麹町区(現東京都千代田区)三番町に引っ越したとのことです。

 

さて、私が田中一村に憧れを抱くようになったのは、今から27年ほど前の1984年12月16日のNHK教育テレビ「日本美術館」の「美と風土」というシリーズをたまたま私が観ていた時でした。「黒潮の画譜-異端の画家・田中一村」と題したこの番組を観たとき、一村の描く絵画もさることながら、なによりも一村の生きざまに深い感動を覚えました。

 

この番組を観たときと同様、今回「田中一村記念美術館」を訪れて感じたことは、田中一村の生きざまは、とても常人のおよぶところではないということです。

 

 

田中一村の生きざま

田中一村は、東京都芝区(港区)の芝中学校を卒業後、1926年に東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しました。そこでは、東山魁夷、橋本明治らと同窓であったということです。しかし、3か月足らずで中退し(理由は「家事都合」、父親の発病などからと伝えられていますが、定かではありません)、独学での画家人生を歩むことになります。教授たちが「教えるところなし」と評価、鬼才といわれたことが災いしたのか、負担になったのか、推測するしかありませんが、自身の画家としての確固たる「道」が美術学校というアカデミーの方針とは合わなかった、合わせようと思わなかったのかもしれません。

 

しばらくは南画を描いて一家の生計を立てていたそうですが、東山魁夷らの東京美術学校の同窓たちが卒業した1931年、これまでの南画とはまったく異なる「蕗の薹(ふきのとう)とめだかの図」などを描きました。

 

そして、1938年からは住まいを東京から千葉に移し、自然の写生に没頭し、写実をベースにした新しい絵画を模索し始めました。このころに描かれた作品で「千葉寺・浅春譜」がありますが、これは人物を描くことの極めて少ない田中一村の絵の中で大変珍しい,人物が点在している絵で,私はあこがれを持っています。

 

その後、田中一村は1947年、39歳の時に川端龍子主催の青龍社展に入選しました(「白い花」)。しかし、ほどなくして川端と意見を異にしてしまい、翌年、入選を辞退し、青龍社から離れました。その後、1953年~1958年まで幾度と日展や院展に出品しますが、全て落選してしまいました。

 

そして、田中一村は、1958年、中央画壇との接触を全て絶ち、奄美大島へと発ちました。1959年に千葉の知人あてに送った手紙で「自分の将来行くべき道をはっきり自覚しその本道と信ずる絵をかいたが、支持する皆さまに見せましたところ一人の賛成者もなく、その当時の支持者と全部絶縁した」と述べています。田中一村は、中央画壇で自分が全く受け入れられないという現実を受け入れて、ほんとうの意味で「ひとり」になることを実行したということです。これは、自身の画家としての確固たる「本道」、自身の「良心」のみに従って美術に打ち込んだ、修行したということだと思います。しかし、それほど挫折感が強烈であったことの証左でもあると思います。

 

当時の奄美群島といえば、沖縄本土返還前の日本の最南端の群島で、田中一村が移り住むわずか5年前の1953年に米軍の統治から奄美群島祖国復帰運動によって日本復帰を勝ち取ったばかりのいわば辺境の地でした。しかし、「絵かきは絵筆一本、飄然として旅にでるようでなければなりません」と、自らの「良心」を納得させる絵を描くために田中一村は奄美へと旅立ったのです。

 

そして、トタン葺きの借家くらしで、日給450円の染色工の仕事をしながら清貧な暮らしをするなかで、奄美の大自然という豊かな題材を、静謐なトーンで描き続けました。田中一村は、奄美の大自然、そしてその生命力を感じ取って、画家として心・魂がときめき、あこがれをさまざまにスケッチに描きこみ、いくつかの秀作を残したのだと思います。田中一村の作品からは、南海に面する生命力みなぎる奄美の動植物の「気」が溢れ出てくるようで、生き生きと目に映り、圧倒されます。

 

 

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(「田中一村作品集」田中 一村 (著), NHK出版 (編集)日本放送出版協会,2001)

 


また、南海の持つ底抜けな明るさ、あからさまな明るさを描くのではなく、強い陽光に照らされた光と、その光が作る影の暗さの明暗の鋭い対比も田中一村の世界の魅力であると思います。画家は、眼前に広がる情景をただ客観的に写生しているだけではなく、自分のフィルター、つまり自分の「心」を通して描写します。ですから、絵画はその画家の心理、心象風景を描写しているといってよいでしょう。私は、チェルノブイリ原子力発電所事故から5年後の1990年6月にソビエトを旅行した際、モスクワ市内の作家と画商のそれぞれの自宅へ訪れ、キエフの作家による絵画を見ました。その時、なにより印象的だったのは、絵の中の「空」がどの絵もとにかく黒っぽかったことです。チェルノブイリ原発事故により悄然とした自分の「心」を通すと、空が黒く描かれるということです。心象風景を描写することとは、風景の「気配」のみならず、画家自らの「気配」を描くということでもあると思います。(※チェルノブイリ原発事故についての記事は4月12日付ブログ記事「ウクライナの絵画が示す人心の荒廃~チェルノブイリ原子力発電所事故」内で述べましたのでそちらもお読みください。)

 

さて、「作品」と「画家の生きざま」は、表裏一体のものだと思います。そして、田中一村の、生涯妻を娶らず、「本道」、「良心」のみを信じ、清貧をものともしなかった気骨と志操の高い、すがすがしい、ストイックな精神・生きざまそのものが描かれるような絵画は、観る人の感動を呼び、感動をもたらす絵であると思います。こういった田中一村の魅力に魅せられた人を「一村病」と呼ぶそうです(画家たちの夏、大矢鞆音著、講談社)。

 

日本語には「理動」という言葉はなく「知動」という言葉もありませんが、「感動」という言葉があります。つまり、人は、「感」性によって「動」かされるものであると思います。

 

そして、絵画が描き出す奄美の青空のようなまっさおなすがすがしい彼の生きざまが、私の「感性」すなわち「心」、「魂」に訴え、東京からはるばる奄美大島まで引き寄せられたのであると思います。

 

田中一村は、画家・美術家としてあるべき姿をまっとうされた方であると思います。伊藤若冲<1716年~1800年>のように、未来に残る画家として、それを超えて評価されていくのではないかと思います。同窓である東山魁夷、橋本明治らの画壇の長老がいらっしゃいますが、その方々よりも、はるかに優れた評価を、後生に受けるのではないかと思いました。

 

私が今回「田中一村記念美術館」を訪問した際は、8月14日(日)に訪れた栃木県足利市駒場町にある栗田美術館と同様に、閑古鳥が鳴いていました。開館当初の2001年は大変な賑わいの人気の美術館であったそうです。栗田美術館の歴訪記にも書きましたが、このように日本人が「文化」を愛する気持ちを失いつつあるということは、日本全土から、文化が果ててしまう日、すなわち美意識を欠くに至る日、素敵な美しい日本が失われていくのではないかと心配になりました。

 

画商は、どんな画商であれ、一人の画家を愛する気持ちをもって、その画家の作品を「売る」ということを前提にするのではなく、その画家を「愛でる」「育てる」という気持ちで対処しなければならないと思います。「愛でる」「育てる」という気持ちの究極は、その画家の作品を自らで集めるという姿勢がなければならないということだと思います。画商だけに限らず、これからの時代は、どんな職業であろうと、「貢献・還元」ということを意識して生きていかなければならないと思います。「貢献・還元」ということを意識していかなければ、人として存在感をもつことはできなくなると思います。「田中一村記念美術館」を今回訪問し、改めてそのことを痛感したのでした。

 

田中一村記念美術館URL http://www.amamipark.com/isson/isson.html

 

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