9月23日(金)、羽田空港を11時に発ち、高知龍馬空港に12時半に到着しました。空港に到着する前に機内から海が見えましたが、まさに紺碧の海で、久し振りに緑がかった美しい海を見て心が洗われるような心持ちになりました。この日は快晴で、猛威をふるった台風15号が通り過ぎた後であったので、秋晴れのすがすがしい空気に包まれて高知に到着しました。
直近で高知を訪れたのは、3年前でした。その時も、今回も、高知の旅にお出迎えをして下さったのは、有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様です。成様はハンディゼロのゴルファーです。まだまだ大活躍されていらっしゃいますが、御歳61歳となられ、少し衰えてきたとおっしゃっていました。また、東京から同行して下さったのは長野県松本市にご在住の、在日本朝鮮人総聯合会 長野県本部常任委員会委員長 李光相様でした。今回も、楽しい2泊3日の旅になりました。様々な史跡等へご案内いただき、総走行距離はなんと470キロとなりました(全ての道を、成様が運転してくださいました。)。
さて、高知には、私が36歳のとき、今から38年ほど前の1973年(昭和48年)5月、農林省の地方事務所と統計事務所の人事院の案件でお邪魔したことが最初のことでした。その時20人前後の方が迎えてくださって、勉強して農林省の代理人になったのです。
その時は、昔の高知城の近くで合宿をしました。日曜市がたっていて、そこで色々な産物を売っていたのを覚えています。中でも一番珍しかったのは寒蘭でした。寒蘭を山奥から採ってきて、農家の人が売っていたのです。その話を成様にお話ししたら、寒蘭は高知の特産品になっているというお話でした。また寒蘭と共にゆずジュースを日曜市で試飲した懐かしい情景をふと思い出したのでした。
A 9月23日
(1)えび料理旅館富久美味で会食
午後1時ごろから桂浜のえび料理旅館富久美味(ふくみみ)で藤川昭一様とご歓談させていただきました。
(2011年9月23日(金)13:08 桂浜を臨む富久美味にて撮影
左から成采準様、私、藤川昭一様)
富久美味HP http://www.fukumimi.tv/
藤川昭一様は、阪神タイガースの藤川球児選手のお父様です。球児様と全くそっくりの顔つきでいらっしゃいました。藤川球児選手は31歳で、昭一様は53歳ということで、大変爽やかな方でいらっしゃいました。
球児様の名前の由来をお聞きした所、昭一様が国体の野球の予選でピッチャーを務め、ノーヒット・ノーランを達成した翌日に球児様が生まれたからだそうです。球児様は、来年には大リーグを目指されるのでしょう。ご活躍を私も祈念しております。
さて、昭一様は、2003年に介護事業を興し、有料老人ホーム他、デイサービス、介護タクシー等を経営・運営されていらっしゃいます。そしてこの施設は西日本の民間企業では最大数の収容者数をもっておられるそうです。収容人数は147人だそうですが、今ご入居されている方は127人とのことです。
また、昭一様は、元々釣りの専門家で、現在は台湾の企業と提携して、リールと釣り竿を製造販売されているとのことです。色々と親しくお話をさせていただきましたが、大変夢のある方で、パラオの開発に協力したいというお話を伺いました。パラオは成田から4時間半の距離にありますが、年中27度、28度のからっとした天気、すなわち湿気はゼロと言って良いほど素敵なところとのことでした。私はかねてから一度赴きたいと願っていましたが、今後夢が実現するかも知れないと思うと胸がはずみます。ただし、耳の病気が軽快したらの話ではありますが…。
昭一様のお話では、ゴルフ場、ホテルの開発を中心としてパラオへ70億円を支援、投資する方を募っているとのお話しがありましたが、それには、それだけの器量のある企業でなければ成功しないと思いますが、私は、某社の会長と縁がありますので、その方にご相談してみたいということをお話しいたしました。
昭一様は女子のソフトボールのチームも保有されておられます。有料老人ホームを経営し、またそのソフトボールチームを運営するために2軒のうどん屋を経営されていますが、チームのメンバーはそれらの従業員になっておられるそうです。ソフトボールのチームの維持にはかなりの金額を要します。そのチームはそれらの女性が稼いだお金で運用されているということになるのです。まさに地域社会を元気にするために昭一様は大活躍されているのです。
(2)桂浜を散策
(2011年9月23日(金)14:00 桂浜を背に撮影)
午後2時に、富久美味から数百メートルのところにある、歩いて5分程度で到着できる桂浜へ赴きました。桂浜は、「♪月の名所は桂浜」とよさこい節でも唄われ、一帯は都市公園として整備されています。海がやはり紺碧であったことは言うまでもありませんが、苔も松も真っ青で、まさに白砂青松でした。ご案内してくださった成様も、こんなに美しい情景は久し振りだという感懐をもらされておられました。さわやかな、まさに秋の風で、ちょっとばかり生き返るような気分になりました。
桂浜について(高知市HPより)
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html
(3)高知県立 坂本龍馬記念館
午後2時15分に坂本龍馬記念館に赴きました。近代的な建物でちょっと違和感を感じました。
(2011年9月23日(金)14:15 坂本龍馬記念館前で撮影
左から松本の李様、私)
坂本龍馬記念館HP http://www.ryoma-kinenkan.jp/
坂本龍馬(1836年~1867年)は、明治維新の、封建社会から資本主義社会へと時代が移り変わる際のリーダーの一人として活躍された方です。元々質屋(今でいう消費者金融)、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家に生まれましたが、それに甘んじることなく、歴史を切り開こうと活躍されました。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成し、また薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた人物で、日本人なら知らない人のいない国民的英雄でしょう。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺されてしまい、結局、彼は、明治維新を見届けることなく、志半ばにして31歳の時、命を落としてしまいますが、彼は彼の良心、志を持って、「使命」を果たしたのではないかと思います。「使命」とは、「命を使う」と書きます。彼は志を貫徹するために、命を捨てたのではないかと思います。
坂本龍馬記念館のHPにも、「刻々変貌する時代の中で、龍馬記念館の果たさねばならぬ使命は『龍馬の顕彰』、『龍馬思想の普及』に揺るぎはありません。いや、混沌の世相だからこそより使命の重さを感じるわけです。現に巷では『平成の龍馬、出でよ!』の声が切実です。…龍馬が目指した本当の意味の「自由・平等」の向こうにある「平和社会」の実現。」と記載されています。
(4)高知市立 自由民権記念館
午後2時45分、自由民権記念館を訪問しました。この記念館は、「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たし、高知市がこういった民主主義運動の高まりの中で誕生したという歴史を踏まえ、高知市制100周年を迎えた時(1990年)に、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために建設されたということです。自由民権のために土佐の人がいかに多く奮闘したかを初めて知りました。そしてそれに尽力したのが、板垣退助だけでないことがよく分かりました。
(2011年9月23日(金)14:50 自由民権記念館内で撮影)
自由民権記念館HP http://www.i-minken.jp/
(5)浜田青果
午後3時10分過ぎに、いつも事務所から果物を注文している浜田青果(電話番号:088-882-3547)をお訪ねし、マスターにご挨拶しました。浜田青果では、「南国土佐から全国へ!!」との標語で、様々な果実を全国へ発送されており、フルーツトマトや土佐マンゴーなどは私の贈り物の品としても好評を博しています。今後も継続的に注文させていただきたいと思っています。
(2011年9月23日(金)15:11 浜田青果にて撮影
左からマスター、成采準様、私)
(6)龍馬ふるさと博覧会
午後3時半過ぎ、高知駅前で龍馬ふるさと博覧会が行われていました。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家セットを再現しており、私も見学しました。かなりの人が見学に来ていました。高知は坂本龍馬しか売りものが無いような感じもしました。龍馬ふるさと博覧会は来年3月31日まで開催されているそうです。
龍馬ふるさと博覧会HP http://ryoma-furusato.jp/
(2011年9月23日(金)15:30
龍馬ふるさと博覧会の「坂本龍馬の生家セット」にて撮影
左から成采準様、私)
B.9月24日(土)
(1)スリーエフ佐賀店
午前9時45分頃、スリーエフ佐賀店を訪れました。何枚か写真をとりました。創業者の菊池瑞穂様が、四国の愛媛県八幡浜市ご出身とのことで、高知県でもこのように店舗を展開され発展されていることを知り嬉しく存じました。私は、スリーエフとは1995年10月以来一緒にお仕事をさせていただいています。
(2011年9月24日(土)9:45 スリーエフ佐賀店にて撮影)
(2)朝鮮国女の墓
午前10時ごろ、大方町上川口にある「朝鮮国女の墓」を訪れました。
これは、豊臣秀吉の時代、文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与 十郎が、帰国にあたって若い機織りの女性を2名連行しましたが、その女性の墓です。機織りの技術を近郷近在に広めた彼女たちは、土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられているそうです。
朝鮮への望郷の念を抱きながらも、日本で亡くなったこの女性たちは、小谷与十郎によって、上川口村にあった桂蔵寺の、小谷家の墓域に葬られたそうです(この当時は、女性はお墓に祀られなかったそうでしたので、異例なことだと思います)。
今回私が訪れた墓碑を建てたのは、与十郎の四代子孫小谷安次という人物だそうです。墓碑に「天正年中来」と刻んだのは、文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであるといわれているそうです。その後、土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から、移されて現在地にあるということでした。このお墓の移転は30年前の1981年7月7日に完了されたとのことですが、当時若き成様もこれに大いに関与されました。
(2011年9月24日(土)10:01 朝鮮国女の墓にて撮影)
お墓の近くには白とピンクのムクゲの花が咲いておりました。ムクゲは、朝鮮の国花です。
【参考】
http://www2.netwave.or.jp/~kazecozo/town/history/tyosen.htm
【コラム 朝鮮と日本】
今回の旅に同行して下さった成様と私が成様と知り合ったいきさつは、成様のご家族の方と日本のある企業とが問題を抱えた時、私は相手方である企業の弁護士代理人になったということにさかのぼります。相手方の代理人であったにもかかわらず、私は成様とすぐに親しくなりました。
私は、朝鮮総連に属している企業は実は日本人にとっては意外なことだが、皆さん超真面目であり、これはこのブログをお読みになっている方には是非とも知らせたい事実です。日本で悪さをすれば、何はともあれ別件逮捕にもなりかねず、騒ぎになるから、本人達は自戒して毎日毎日を過ごしておられるのです。中国における日本企業と同じなのです。そういうことを念頭において、私はいつも朝鮮総連に所属している「同胞」と呼ばれる北朝鮮籍の方々と親しく交わっています。
今回の高知旅行では、「朝鮮と日本」の密接な関係、歴史を再考する旅ともなりました。例えば、(2)で述べた朝鮮国女の墓であったり、また、高知の地豆腐は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役のときに、朝鮮から連れてこられた朝鮮人が、高知において唐人町を与えられ、ここで朝鮮の豆腐を作り、商いとし、これを伝承したものです。連れてこられた朝鮮人は現在の韓国の慶尚南道の秋月という地域の出身であり、その子孫の方が現在でも高知におられます。
慶尚南道庁観光振興課による道内観光情報HP
また、天平文化が花開いた平城京への遷都から1300年となることを記念する祝典が、昨年2010年8月に奈良市の平城宮跡で開かれました。その際、開会のお言葉として、天皇陛下は「百済をはじめ、多くの国から渡来人が移住し文化や技術の発展に寄与してきました」とご挨拶され、朝鮮と日本が古くより関係が合ったことを述べられた上、平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし、「平城京での最後の天皇であった桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」と述べ、皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れられました。
また、9月7日(水)にお会いした新潟大学大学院 医歯学総合研究科 地域疾病制御医学専攻 国際感染医学教授 安保徹先生は、津軽のご出身ですが、津軽弁と朝鮮語は非常によく似ているとお話しされていました。そして、9月27日(火)にお会いした無量寺住職 青山俊董先生は「ヤマト」は百済語であり、「ヤマタイコク」は新羅語であって「ヤマト」という意味だそうです、というお話をされていました。いずれも、私にとっては初耳でしたので、非常に驚きましたが、私が長年日本の古代史に関心をもってきた経緯からしても、十分にあり得ることだと判断しました。
このように、朝鮮と日本とが、長い歴史の中で、深いかかわりを持ってきたにも拘らず、韓国と国交を回復しながらも、北朝鮮に対する偏見や反感を持つ人が多くまた国交正常化も果されていないことは残念なことです。私の来年4月の三度目の北朝鮮訪問では、日本人たる「誇り」「品格」を忘れず、しかも奢らず、日朝友好を実現するための一端を担うことができればと思っております。
(3) 四万十川 川下り・川上り
(2011年9月24日(土)11:07 四万十川と屋形船を背に撮影
左から成様、私、松本の李様)
11時すぎより、四万十川で屋形船に乗り、500メートル下り、1.5キロを上り、往復2キロの川下り・川上りをしました。
四万十川は堤防などの一切ない自然の川で、「日本最後の清流」といわれるそうです。高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流として、高知県中西部で逆S字を描きながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ川で、私が乗船した所からは30キロ下ると海、170キロ上ると源流に行きつくとのことで、四万十川は200キロ近くの川であるということでした。
川下り・川上りでは、素晴らしい景観を楽しみました。台風15号の過ぎた後、川の水が3割も増水しているとのことで、大変心地よく、水面の気温も丁度よく、まさに天然のクーラーといった感じでした。
(2011年9月24日(土)11:10 屋形船でのお料理を撮影)
屋形船では、四万十川で採れた川エビ、青のり(天然青のりは、四万十川産が国内の90%以上の生産量だそうです)と、「ごり」(小魚。水がゆるむ3月から漁が始まり、四万十川に春を告げる魚として珍重されているそうです)の天ぷらを頂きました。また、四万十川で養殖をしているうなぎも頂きました。食事処は、屋形船・四万十川料理として営業しておられる「なっとく」でした。写真にある通り、私たちは屋形船の上で昼食をいただきました。
「なっとく」HP http://www.yakatabune-nattoku.com/
下船すると、もうすでにそこには100人くらいのお客さんが、次の乗船を待っていて、大変なにぎわいでした。「自然はビジネスになる」ということを感じました。これは環境保全というテーマを議論するに当たり、人間は自然を愛する存在であることを改めて考えなければいけない点であると思います。
(4) 幸徳秋水の史跡、展示会など
12時40分ごろ、高知県四万十市中村の正福寺跡(明治4年に廃寺になりました)にある幸徳秋水(1871年~1911年)の墓を訪問しました。幸徳秋水の誕生日は1871年9月23日ということで、丁度前日が誕生日だったということです。
本年8月1日(月)~8月31日(水)までの1か月間、日本経済新聞朝刊最終面「私の履歴書」にて、日本画家の小泉淳作様の連載が掲載されており、私も毎日愛読しておりました。8月3日(水)付第3回記事には、小泉淳作様のお父様である小泉三申様が、幸徳秋水と大変親しかった旨の記述がありました。
小泉三申様(1872年~1937年)は、1894年、自由新聞(板垣退助が党首を務めた自由党の日刊の党機関紙。1882年6月25日創刊)の記者となり、同社で記者をしていた幸徳秋水と親友になりました。その後、三申様は1904年には「金儲け虎の巻」の「経済新聞」を創刊され、また実業家としての地位を固めていきますが、秋水は同年に社会主義の「週刊 平民新聞」を創刊しましたが翌年に廃刊となり、2月に入獄、11月に米国へ亡命をするなど、全く別々の道を歩みました。
このように、思想・信条は異なるものの、友情は続き、三申様は、無政府主義運動に傾倒する秋水を常に案じていたそうです。例えば、三申様は、秋水に「通俗日本戦国史」の編纂を勧め、これを受けて秋水は1910年3月から、湯河原の老舗旅館「天野屋」に逗留し、逮捕される6月1日まで編纂を進めていたとのことです。「兆民先生」で伝記作家として才能を発揮した秋水が、これを完成させていれば、素晴らしい読み物になっていたのではないかと思います。また、三申様が「通俗日本戦国史」の編纂を秋水に勧めた理由は、「この編纂に本腰を入れているのだから、天皇暗殺など考えるわけがない」と、秋水の命を救う証拠物件になるのではないかと望みを持っていたからといわれているそうです。
これらのエピソードから、三申様の人格が優れていたことはいうまでもないですが、秋水も、世間一般が認識しているようなガチガチの社会主義者ではなく、常識人でもあったように見受けられます。
しかし、思想・信条は異なるものの、二人は誠に刎頚の友であり、私が訪れたこの秋水の墓の墓碑銘は、三申様が書かれたということです。三申様は秋水が処刑された翌年の1912年5月に衆議院議員に初当選され、以後は政界でご活躍されました。
(2011年9月24日(土)12:40 幸徳秋水の墓を撮影)
その後、四万十市立中央公民館にて行われている「幸徳秋水展-伝次郎から秋水へ-」を見学しました。
(2011年9月24日(土)13:04 四万十市立中央公民館前で撮影)
幸徳秋水展HP
http://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2011/0912/index.html
それから、為松公園(中村城跡)にある、秋水が死刑執行の直前、看守の依頼に応じて書き残したという絶筆の碑を見に行きました。
(2011年9月24日(土)13:26 為松公園幸徳秋水絶筆の碑の前で撮影)
碑には、「区々成敗且休論 千古唯応意気存 如是而生如是死 罪人又覚布衣尊」という漢詩が書かれていました。この文意は「ささいな成敗は、しばらく論ずるのをやめよう。千古の歴史に光るのは、人間の意気だけである。自分はこのように生き、このように死ぬ。罪人になった今でも、仕官していない平民の自由をつくづく感じることである」という意味だそうです。
幸徳秋水は、無政府主義、社会主義といった先駆的な思想のもと活動された方です。日露戦争勃発時には、非戦論を声高に主張し、その後1911年、大逆事件の首謀者として死刑判決を受け、1911年1月24日に刑が執行され、40歳にして命を落としました。彼もまた、坂本龍馬と同様、志を持って良心に従いまっすぐに生き、自分の使命のために「命を使った」ということだと思います。
今年は刑死100周年ということで、四万十市が市を上げて記念事業を行っていました。1960年代頃より新資料などが発見されて以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家による捏造であるとされ、今や、名誉を回復し、郷土の英雄として、地元の人々に尊敬されているということでした。また、彼は著名な名文家としてもよく知られていますが、これを紹介することは省きます。
その後、四万十川の西岸を下りドライブしました。私が過ごした故郷である少年時代の三重県の川を思い出しました。しかし、四万十川は三重県の川よりはるかに美しい色でした。土佐清水に向かう途上で四万十川の川っぺりにいた売り子から久々にアイスクリームを購入し、いただきました。心地の良い昼下がりの日に当たりいただいた久しぶりのアイスクリームの味は格別でした。
(5) ジョン万次郎資料館
午後2時半過ぎに、土佐清水にあるジョン万次郎資料館を訪れました。
(2011年9月24日(土)14:32 ジョン万次郎資料館の前で撮影)
ジョン万次郎資料館HP http://www.johnmung.info/house.htm
ジョン万次郎(1827年~1898年)は、本名は中濱 萬次郎で、1841年、14歳の時に、漁師として漁に出ていたところ、嵐に遭い遭難、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着しました。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、その船長であったホイットフィールドに気に入られ、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語はもちろん、測量・航海術・造船技術などを熱心に勉強し、首席となったそうです。
その後、1851年、彼が24歳の時に、捕鯨船に乗って日本の近くに戻り、捕鯨船と別れてアドベンチャー号という小舟で、薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られ帰国しました。
それ以降の彼の活躍は、様々な書籍で紹介されています。彼は初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人であり、ミシンとカメラを持ち込んだのも彼であるそうです。捕鯨船の船員として世界一周の航海にもでていました。そして特記すべきは1860年、彼が33歳の時、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡った時のことでしょう。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は裏の船長を務めたということです。その後も、日本の産業振興に貢献し、1869年、彼が42歳の時、明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の英語教授となり、最高学府の教壇に立たれました。
その後、1871年、彼が44歳の時に軽い脳溢血を起こして倒れ、ほどなく快復はされたものの、以後静かな晩年を送られ、1898年、71歳でなくなりました。
彼の青年期はまさに波乱万丈で、一人異国の地に飛ばされ、その後要人となり、44歳までは第一線でご活躍されていたことに比べると、晩年の人生は、あまりにも静かなものであったと思います。しかし、青年時代のわずかな間に、最初のコスモポリタンとしての日本人として、国際交流という使命を果たし、偉大な実績を残されたのだと思います。
(6) カニ・エビ・貝料理の浮橋にて夕食をいただく
夕食は成様が35年ご贔屓にされているカニ・エビ・貝料理の「浮橋」でいたしました。屋形船には、地元で穫れたカニ・エビ・貝などを生きたまま置いてあり、これらを焼くときも全て生きたまま焼くという、新鮮な海の幸を味うことができ、誠に美味でありました。もう一度ぜひともお邪魔したいと思っています。
(2011年9月24日(土)18:04 浮舟にて撮影)
浮橋 食べログ
http://r.tabelog.com/kochi/A3903/A390301/39003509/
C.9月25日(日)
(2011年9月25日(日)7:57 高知市「日曜市」にて撮影)
9月25日朝8時頃から30分程日曜市を見に行きました。昔と違ってもっと盛んになっていたような印象でした。高知城のすぐ下、追手門から東に伸びる高知市追手筋で約1.3キロにわたり、毎週日曜日に開催されているそうです。相変わらず寒蘭もあり、また、ゆずジュースも売ってましたが、その他の産品も沢山ありました。日曜日の朝に毎度このような市があることは市民あるいは観光客に大きな癒しを与えてくれるものと感じました。
日曜市について高知市HP
http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/nichiyoichi-gairoichi.html
まとめ
さて、今回の高知行きの歴訪記のまとめとして、高知を代表する坂本龍馬、幸徳秋水、それから中濱萬次郎(ジョン万次郎)の足跡を振り返るに、彼らは上士という山内家の枢要なポストを占めている人物ではなく、坂本龍馬は商家の出身で郷士という侍の身分ではありながらも上士との身分の隔たりは非常に大きく、また幸徳秋水は豪商という町の有力者を父に持ちながらも、平民の出であり、また中濱萬次郎は漁夫でありました。そのような方々が明治を迎える前後に活躍されたということは、高知県の置かれた地域からして、ハングリー精神がこれをなさしめたものと存じます。そしてそのハングリー精神がそれぞれの使命を果たした起爆剤になったと判断しました。
9月25日(日)朝10時10分発の飛行機で高知龍馬空港から東京・羽田に戻りました。