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 9月23日(金)、羽田空港を11時に発ち、高知龍馬空港に12時半に到着しました。空港に到着する前に機内から海が見えましたが、まさに紺碧の海で、久し振りに緑がかった美しい海を見て心が洗われるような心持ちになりました。この日は快晴で、猛威をふるった台風15号が通り過ぎた後であったので、秋晴れのすがすがしい空気に包まれて高知に到着しました。

 

 

直近で高知を訪れたのは、3年前でした。その時も、今回も、高知の旅にお出迎えをして下さったのは、有限会社コマ・コーポレーション 代表取締役 成采準様です。成様はハンディゼロのゴルファーです。まだまだ大活躍されていらっしゃいますが、御歳61歳となられ、少し衰えてきたとおっしゃっていました。また、東京から同行して下さったのは長野県松本市にご在住の、在日本朝鮮人総聯合会 長野県本部常任委員会委員長 李光相様でした。今回も、楽しい2泊3日の旅になりました。様々な史跡等へご案内いただき、総走行距離はなんと470キロとなりました(全ての道を、成様が運転してくださいました。)。

 

さて、高知には、私が36歳のとき、今から38年ほど前の1973年(昭和48年)5月、農林省の地方事務所と統計事務所の人事院の案件でお邪魔したことが最初のことでした。その時20人前後の方が迎えてくださって、勉強して農林省の代理人になったのです。

 

その時は、昔の高知城の近くで合宿をしました。日曜市がたっていて、そこで色々な産物を売っていたのを覚えています。中でも一番珍しかったのは寒蘭でした。寒蘭を山奥から採ってきて、農家の人が売っていたのです。その話を成様にお話ししたら、寒蘭は高知の特産品になっているというお話でした。また寒蘭と共にゆずジュースを日曜市で試飲した懐かしい情景をふと思い出したのでした。

 

 

A 9月23日

(1)えび料理旅館富久美味で会食

 

午後1時ごろから桂浜のえび料理旅館富久美味(ふくみみ)で藤川昭一様とご歓談させていただきました。

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(2011年9月23日(金)13:08 桂浜を臨む富久美味にて撮影

左から成采準様、私、藤川昭一様)

 

富久美味HP http://www.fukumimi.tv/

 

藤川昭一様は、阪神タイガースの藤川球児選手のお父様です。球児様と全くそっくりの顔つきでいらっしゃいました。藤川球児選手は31歳で、昭一様は53歳ということで、大変爽やかな方でいらっしゃいました。

 

球児様の名前の由来をお聞きした所、昭一様が国体の野球の予選でピッチャーを務め、ノーヒット・ノーランを達成した翌日に球児様が生まれたからだそうです。球児様は、来年には大リーグを目指されるのでしょう。ご活躍を私も祈念しております。

 

さて、昭一様は、2003年に介護事業を興し、有料老人ホーム他、デイサービス、介護タクシー等を経営・運営されていらっしゃいます。そしてこの施設は西日本の民間企業では最大数の収容者数をもっておられるそうです。収容人数は147人だそうですが、今ご入居されている方は127人とのことです。

 

 

また、昭一様は、元々釣りの専門家で、現在は台湾の企業と提携して、リールと釣り竿を製造販売されているとのことです。色々と親しくお話をさせていただきましたが、大変夢のある方で、パラオの開発に協力したいというお話を伺いました。パラオは成田から4時間半の距離にありますが、年中27度、28度のからっとした天気、すなわち湿気はゼロと言って良いほど素敵なところとのことでした。私はかねてから一度赴きたいと願っていましたが、今後夢が実現するかも知れないと思うと胸がはずみます。ただし、耳の病気が軽快したらの話ではありますが…。

 

昭一様のお話では、ゴルフ場、ホテルの開発を中心としてパラオへ70億円を支援、投資する方を募っているとのお話しがありましたが、それには、それだけの器量のある企業でなければ成功しないと思いますが、私は、某社の会長と縁がありますので、その方にご相談してみたいということをお話しいたしました。

 

昭一様は女子のソフトボールのチームも保有されておられます。有料老人ホームを経営し、またそのソフトボールチームを運営するために2軒のうどん屋を経営されていますが、チームのメンバーはそれらの従業員になっておられるそうです。ソフトボールのチームの維持にはかなりの金額を要します。そのチームはそれらの女性が稼いだお金で運用されているということになるのです。まさに地域社会を元気にするために昭一様は大活躍されているのです。

 

(2)桂浜を散策

(2011年9月23日(金)14:00 桂浜を背に撮影)

 

午後2時に、富久美味から数百メートルのところにある、歩いて5分程度で到着できる桂浜へ赴きました。桂浜は、「♪月の名所は桂浜」とよさこい節でも唄われ、一帯は都市公園として整備されています。海がやはり紺碧であったことは言うまでもありませんが、苔も松も真っ青で、まさに白砂青松でした。ご案内してくださった成様も、こんなに美しい情景は久し振りだという感懐をもらされておられました。さわやかな、まさに秋の風で、ちょっとばかり生き返るような気分になりました。

 

桂浜について(高知市HPより)

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/katsurahama.html

 

 

(3)高知県立 坂本龍馬記念館

午後2時15分に坂本龍馬記念館に赴きました。近代的な建物でちょっと違和感を感じました。

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(2011年9月23日(金)14:15 坂本龍馬記念館前で撮影

左から松本の李様、私)

 

坂本龍馬記念館HP http://www.ryoma-kinenkan.jp/

 

坂本龍馬(1836年~1867年)は、明治維新の、封建社会から資本主義社会へと時代が移り変わる際のリーダーの一人として活躍された方です。元々質屋(今でいう消費者金融)、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家に生まれましたが、それに甘んじることなく、歴史を切り開こうと活躍されました。貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成し、また薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた人物で、日本人なら知らない人のいない国民的英雄でしょう。

 

大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺されてしまい、結局、彼は、明治維新を見届けることなく、志半ばにして31歳の時、命を落としてしまいますが、彼は彼の良心、志を持って、「使命」を果たしたのではないかと思います。「使命」とは、「命を使う」と書きます。彼は志を貫徹するために、命を捨てたのではないかと思います。

 

坂本龍馬記念館のHPにも、「刻々変貌する時代の中で、龍馬記念館の果たさねばならぬ使命は『龍馬の顕彰』、『龍馬思想の普及』に揺るぎはありません。いや、混沌の世相だからこそより使命の重さを感じるわけです。現に巷では『平成の龍馬、出でよ!』の声が切実です。…龍馬が目指した本当の意味の「自由・平等」の向こうにある「平和社会」の実現。」と記載されています。

 

 

(4)高知市立 自由民権記念館

午後2時45分、自由民権記念館を訪問しました。この記念館は、「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たし、高知市がこういった民主主義運動の高まりの中で誕生したという歴史を踏まえ、高知市制100周年を迎えた時(1990年)に、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために建設されたということです。自由民権のために土佐の人がいかに多く奮闘したかを初めて知りました。そしてそれに尽力したのが、板垣退助だけでないことがよく分かりました。

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(2011年9月23日(金)14:50 自由民権記念館内で撮影)

 

自由民権記念館HP http://www.i-minken.jp/

 

 

(5)浜田青果

午後3時10分過ぎに、いつも事務所から果物を注文している浜田青果(電話番号:088-882-3547)をお訪ねし、マスターにご挨拶しました。浜田青果では、「南国土佐から全国へ!!」との標語で、様々な果実を全国へ発送されており、フルーツトマトや土佐マンゴーなどは私の贈り物の品としても好評を博しています。今後も継続的に注文させていただきたいと思っています。

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(2011年9月23日(金)15:11 浜田青果にて撮影

左からマスター、成采準様、私)

 

 

(6)龍馬ふるさと博覧会

午後3時半過ぎ、高知駅前で龍馬ふるさと博覧会が行われていました。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた坂本龍馬の生家セットを再現しており、私も見学しました。かなりの人が見学に来ていました。高知は坂本龍馬しか売りものが無いような感じもしました。龍馬ふるさと博覧会は来年3月31日まで開催されているそうです。

 

龍馬ふるさと博覧会HP http://ryoma-furusato.jp/

 

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(2011年9月23日(金)15:30

龍馬ふるさと博覧会の「坂本龍馬の生家セット」にて撮影

左から成采準様、私)

 

 

B.9月24日(土)

(1)スリーエフ佐賀店

午前9時45分頃、スリーエフ佐賀店を訪れました。何枚か写真をとりました。創業者の菊池瑞穂様が、四国の愛媛県八幡浜市ご出身とのことで、高知県でもこのように店舗を展開され発展されていることを知り嬉しく存じました。私は、スリーエフとは1995年10月以来一緒にお仕事をさせていただいています。

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(2011年9月24日(土)9:45 スリーエフ佐賀店にて撮影)

 

 

(2)朝鮮国女の墓

午前10時ごろ、大方町上川口にある「朝鮮国女の墓」を訪れました。

 

これは、豊臣秀吉の時代、文録慶長の役に出陣した長曾我部元親に従って朝鮮国に渡った入野郷上川口村の土豪小谷与 十郎が、帰国にあたって若い機織りの女性を2名連行しましたが、その女性の墓です。機織りの技術を近郷近在に広めた彼女たちは、土地の人々に愛され慕われたと言い伝えられているそうです。

朝鮮への望郷の念を抱きながらも、日本で亡くなったこの女性たちは、小谷与十郎によって、上川口村にあった桂蔵寺の、小谷家の墓域に葬られたそうです(この当時は、女性はお墓に祀られなかったそうでしたので、異例なことだと思います)。

 

今回私が訪れた墓碑を建てたのは、与十郎の四代子孫小谷安次という人物だそうです。墓碑に「天正年中来」と刻んだのは、文録慶長の役の強制連行の痛ましさを隠したかったからであるといわれているそうです。その後、土地の人々に守られてきた墓は桂蔵寺跡から、移されて現在地にあるということでした。このお墓の移転は30年前の1981年7月7日に完了されたとのことですが、当時若き成様もこれに大いに関与されました。

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(2011年9月24日(土)10:01 朝鮮国女の墓にて撮影)

 

お墓の近くには白とピンクのムクゲの花が咲いておりました。ムクゲは、朝鮮の国花です。

 

ムクゲ①.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ムクゲ②.JPG

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考】

http://www2.netwave.or.jp/~kazecozo/town/history/tyosen.htm

 

 

【コラム 朝鮮と日本】

今回の旅に同行して下さった成様と私が成様と知り合ったいきさつは、成様のご家族の方と日本のある企業とが問題を抱えた時、私は相手方である企業の弁護士代理人になったということにさかのぼります。相手方の代理人であったにもかかわらず、私は成様とすぐに親しくなりました。

 

私は、朝鮮総連に属している企業は実は日本人にとっては意外なことだが、皆さん超真面目であり、これはこのブログをお読みになっている方には是非とも知らせたい事実です。日本で悪さをすれば、何はともあれ別件逮捕にもなりかねず、騒ぎになるから、本人達は自戒して毎日毎日を過ごしておられるのです。中国における日本企業と同じなのです。そういうことを念頭において、私はいつも朝鮮総連に所属している「同胞」と呼ばれる北朝鮮籍の方々と親しく交わっています。

 

今回の高知旅行では、「朝鮮と日本」の密接な関係、歴史を再考する旅ともなりました。例えば、(2)で述べた朝鮮国女の墓であったり、また、高知の地豆腐は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役のときに、朝鮮から連れてこられた朝鮮人が、高知において唐人町を与えられ、ここで朝鮮の豆腐を作り、商いとし、これを伝承したものです。連れてこられた朝鮮人は現在の韓国の慶尚南道の秋月という地域の出身であり、その子孫の方が現在でも高知におられます。

 

慶尚南道庁観光振興課による道内観光情報HP

http://japan.gntour.com/

 

また、天平文化が花開いた平城京への遷都から1300年となることを記念する祝典が、昨年2010年8月に奈良市の平城宮跡で開かれました。その際、開会のお言葉として、天皇陛下は「百済をはじめ、多くの国から渡来人が移住し文化や技術の発展に寄与してきました」とご挨拶され、朝鮮と日本が古くより関係が合ったことを述べられた上、平城京について「父祖の地として深いゆかりを感じる」とし、「平城京での最後の天皇であった桓武天皇の生母は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫」と述べ、皇室と古代朝鮮半島との縁にも触れられました。

 

また、9月7日(水)にお会いした新潟大学大学院 医歯学総合研究科 地域疾病制御医学専攻 国際感染医学教授 安保徹先生は、津軽のご出身ですが、津軽弁と朝鮮語は非常によく似ているとお話しされていました。そして、9月27日(火)にお会いした無量寺住職 青山俊董先生は「ヤマト」は百済語であり、「ヤマタイコク」は新羅語であって「ヤマト」という意味だそうです、というお話をされていました。いずれも、私にとっては初耳でしたので、非常に驚きましたが、私が長年日本の古代史に関心をもってきた経緯からしても、十分にあり得ることだと判断しました。

 

このように、朝鮮と日本とが、長い歴史の中で、深いかかわりを持ってきたにも拘らず、韓国と国交を回復しながらも、北朝鮮に対する偏見や反感を持つ人が多くまた国交正常化も果されていないことは残念なことです。私の来年4月の三度目の北朝鮮訪問では、日本人たる「誇り」「品格」を忘れず、しかも奢らず、日朝友好を実現するための一端を担うことができればと思っております。

 

(3) 四万十川 川下り・川上り

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(2011年9月24日(土)11:07 四万十川と屋形船を背に撮影

左から成様、私、松本の李様)

 

11時すぎより、四万十川で屋形船に乗り、500メートル下り、1.5キロを上り、往復2キロの川下り・川上りをしました。

 

四万十川は堤防などの一切ない自然の川で、「日本最後の清流」といわれるそうです。高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流として、高知県中西部で逆S字を描きながら多くの支流を集め、四万十市で太平洋に注ぎこむ川で、私が乗船した所からは30キロ下ると海、170キロ上ると源流に行きつくとのことで、四万十川は200キロ近くの川であるということでした。

 

川下り・川上りでは、素晴らしい景観を楽しみました。台風15号の過ぎた後、川の水が3割も増水しているとのことで、大変心地よく、水面の気温も丁度よく、まさに天然のクーラーといった感じでした。

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(2011年9月24日(土)11:10 屋形船でのお料理を撮影)

 

屋形船では、四万十川で採れた川エビ、青のり(天然青のりは、四万十川産が国内の90%以上の生産量だそうです)と、「ごり」(小魚。水がゆるむ3月から漁が始まり、四万十川に春を告げる魚として珍重されているそうです)の天ぷらを頂きました。また、四万十川で養殖をしているうなぎも頂きました。食事処は、屋形船・四万十川料理として営業しておられる「なっとく」でした。写真にある通り、私たちは屋形船の上で昼食をいただきました。

 

「なっとく」HP http://www.yakatabune-nattoku.com/

 

下船すると、もうすでにそこには100人くらいのお客さんが、次の乗船を待っていて、大変なにぎわいでした。「自然はビジネスになる」ということを感じました。これは環境保全というテーマを議論するに当たり、人間は自然を愛する存在であることを改めて考えなければいけない点であると思います。

 

 

(4) 幸徳秋水の史跡、展示会など

 

12時40分ごろ、高知県四万十市中村の正福寺跡(明治4年に廃寺になりました)にある幸徳秋水(1871年~1911年)の墓を訪問しました。幸徳秋水の誕生日は1871年9月23日ということで、丁度前日が誕生日だったということです。

 

本年8月1日(月)~8月31日(水)までの1か月間、日本経済新聞朝刊最終面「私の履歴書」にて、日本画家の小泉淳作様の連載が掲載されており、私も毎日愛読しておりました。8月3日(水)付第3回記事には、小泉淳作様のお父様である小泉三申様が、幸徳秋水と大変親しかった旨の記述がありました。

 

小泉三申様(1872年~1937年)は、1894年、自由新聞(板垣退助が党首を務めた自由党の日刊の党機関紙。1882年6月25日創刊)の記者となり、同社で記者をしていた幸徳秋水と親友になりました。その後、三申様は1904年には「金儲け虎の巻」の「経済新聞」を創刊され、また実業家としての地位を固めていきますが、秋水は同年に社会主義の「週刊 平民新聞」を創刊しましたが翌年に廃刊となり、2月に入獄、11月に米国へ亡命をするなど、全く別々の道を歩みました。

 

このように、思想・信条は異なるものの、友情は続き、三申様は、無政府主義運動に傾倒する秋水を常に案じていたそうです。例えば、三申様は、秋水に「通俗日本戦国史」の編纂を勧め、これを受けて秋水は1910年3月から、湯河原の老舗旅館「天野屋」に逗留し、逮捕される6月1日まで編纂を進めていたとのことです。「兆民先生」で伝記作家として才能を発揮した秋水が、これを完成させていれば、素晴らしい読み物になっていたのではないかと思います。また、三申様が「通俗日本戦国史」の編纂を秋水に勧めた理由は、「この編纂に本腰を入れているのだから、天皇暗殺など考えるわけがない」と、秋水の命を救う証拠物件になるのではないかと望みを持っていたからといわれているそうです。

 

これらのエピソードから、三申様の人格が優れていたことはいうまでもないですが、秋水も、世間一般が認識しているようなガチガチの社会主義者ではなく、常識人でもあったように見受けられます。

 

しかし、思想・信条は異なるものの、二人は誠に刎頚の友であり、私が訪れたこの秋水の墓の墓碑銘は、三申様が書かれたということです。三申様は秋水が処刑された翌年の1912年5月に衆議院議員に初当選され、以後は政界でご活躍されました。

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(2011年9月24日(土)12:40 幸徳秋水の墓を撮影)

 

 

その後、四万十市立中央公民館にて行われている「幸徳秋水展-伝次郎から秋水へ-」を見学しました。

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(2011年9月24日(土)13:04 四万十市立中央公民館前で撮影)

 

幸徳秋水展HP

http://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2011/0912/index.html

 

それから、為松公園(中村城跡)にある、秋水が死刑執行の直前、看守の依頼に応じて書き残したという絶筆の碑を見に行きました。

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(2011年9月24日(土)13:26 為松公園幸徳秋水絶筆の碑の前で撮影)

 

碑には、「区々成敗且休論 千古唯応意気存 如是而生如是死 罪人又覚布衣尊」という漢詩が書かれていました。この文意は「ささいな成敗は、しばらく論ずるのをやめよう。千古の歴史に光るのは、人間の意気だけである。自分はこのように生き、このように死ぬ。罪人になった今でも、仕官していない平民の自由をつくづく感じることである」という意味だそうです。

 

幸徳秋水は、無政府主義、社会主義といった先駆的な思想のもと活動された方です。日露戦争勃発時には、非戦論を声高に主張し、その後1911年、大逆事件の首謀者として死刑判決を受け、1911年1月24日に刑が執行され、40歳にして命を落としました。彼もまた、坂本龍馬と同様、志を持って良心に従いまっすぐに生き、自分の使命のために「命を使った」ということだと思います。

 

今年は刑死100周年ということで、四万十市が市を上げて記念事業を行っていました。1960年代頃より新資料などが発見されて以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家による捏造であるとされ、今や、名誉を回復し、郷土の英雄として、地元の人々に尊敬されているということでした。また、彼は著名な名文家としてもよく知られていますが、これを紹介することは省きます。

 

その後、四万十川の西岸を下りドライブしました。私が過ごした故郷である少年時代の三重県の川を思い出しました。しかし、四万十川は三重県の川よりはるかに美しい色でした。土佐清水に向かう途上で四万十川の川っぺりにいた売り子から久々にアイスクリームを購入し、いただきました。心地の良い昼下がりの日に当たりいただいた久しぶりのアイスクリームの味は格別でした。

 

 

(5) ジョン万次郎資料館

午後2時半過ぎに、土佐清水にあるジョン万次郎資料館を訪れました。

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(2011年9月24日(土)14:32 ジョン万次郎資料館の前で撮影)

 

ジョン万次郎資料館HP http://www.johnmung.info/house.htm

 

ジョン万次郎(1827年~1898年)は、本名は中濱 萬次郎で、1841年、14歳の時に、漁師として漁に出ていたところ、嵐に遭い遭難、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島鳥島に漂着しました。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、その船長であったホイットフィールドに気に入られ、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校、1844年にはバーレット・アカデミーで英語はもちろん、測量・航海術・造船技術などを熱心に勉強し、首席となったそうです。

 

その後、1851年、彼が24歳の時に、捕鯨船に乗って日本の近くに戻り、捕鯨船と別れてアドベンチャー号という小舟で、薩摩藩に服属していた琉球に上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られ帰国しました。

 

それ以降の彼の活躍は、様々な書籍で紹介されています。彼は初めて鉄道・蒸気船に乗った日本人であり、ミシンとカメラを持ち込んだのも彼であるそうです。捕鯨船の船員として世界一周の航海にもでていました。そして特記すべきは1860年、彼が33歳の時、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡った時のことでしょう。船長の勝海舟が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は裏の船長を務めたということです。その後も、日本の産業振興に貢献し、1869年、彼が42歳の時、明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の英語教授となり、最高学府の教壇に立たれました。

 

その後、1871年、彼が44歳の時に軽い脳溢血を起こして倒れ、ほどなく快復はされたものの、以後静かな晩年を送られ、1898年、71歳でなくなりました。

 

彼の青年期はまさに波乱万丈で、一人異国の地に飛ばされ、その後要人となり、44歳までは第一線でご活躍されていたことに比べると、晩年の人生は、あまりにも静かなものであったと思います。しかし、青年時代のわずかな間に、最初のコスモポリタンとしての日本人として、国際交流という使命を果たし、偉大な実績を残されたのだと思います。

 

 

(6) カニ・エビ・貝料理の浮橋にて夕食をいただく

 

夕食は成様が35年ご贔屓にされているカニ・エビ・貝料理の「浮橋」でいたしました。屋形船には、地元で穫れたカニ・エビ・貝などを生きたまま置いてあり、これらを焼くときも全て生きたまま焼くという、新鮮な海の幸を味うことができ、誠に美味でありました。もう一度ぜひともお邪魔したいと思っています。

 

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(2011年9月24日(土)18:04 浮舟にて撮影)

 

浮橋 食べログ

http://r.tabelog.com/kochi/A3903/A390301/39003509/

 

C.9月25日(日)

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(2011年9月25日(日)7:57 高知市「日曜市」にて撮影)

 

9月25日朝8時頃から30分程日曜市を見に行きました。昔と違ってもっと盛んになっていたような印象でした。高知城のすぐ下、追手門から東に伸びる高知市追手筋で約1.3キロにわたり、毎週日曜日に開催されているそうです。相変わらず寒蘭もあり、また、ゆずジュースも売ってましたが、その他の産品も沢山ありました。日曜日の朝に毎度このような市があることは市民あるいは観光客に大きな癒しを与えてくれるものと感じました。

 

日曜市について高知市HP

http://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/39/nichiyoichi-gairoichi.html

 

 

まとめ

 さて、今回の高知行きの歴訪記のまとめとして、高知を代表する坂本龍馬、幸徳秋水、それから中濱萬次郎(ジョン万次郎)の足跡を振り返るに、彼らは上士という山内家の枢要なポストを占めている人物ではなく、坂本龍馬は商家の出身で郷士という侍の身分ではありながらも上士との身分の隔たりは非常に大きく、また幸徳秋水は豪商という町の有力者を父に持ちながらも、平民の出であり、また中濱萬次郎は漁夫でありました。そのような方々が明治を迎える前後に活躍されたということは、高知県の置かれた地域からして、ハングリー精神がこれをなさしめたものと存じます。そしてそのハングリー精神がそれぞれの使命を果たした起爆剤になったと判断しました。

 

9月25日(日)朝10時10分発の飛行機で高知龍馬空港から東京・羽田に戻りました。

 

 9月4日(日)午前9時45分から10時40分までの間、東京国立博物館(東京都台東区上野公園)へ赴きました。2つの展覧会を見るためで、「空海と密教美術展」と、「特別展『孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本』」を見学しました。

 

1.空海と密教美術展

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(2011年9月4日(日) 午前9:40 東京国立博物館にて「空海と密教美術展」の案内看板を撮影)

 

 「空海と密教美術展」は、実は8月21日(日)に一度赴いたのですが、あまりの人だかりで混雑していた上、雨が降っており、高齢の私にとって博物館の入口から展示場まで雨の中歩くのが億劫でありましたので、またの機会にと諦め、今回再度赴いたのでした。

 

 9月4日(日)もあいにくの雨でしたが、小雨であった上、前回に比べると入場者が少なく思えたので入館しました。しかし、実際に入館してみると、午前10時前であるというのに、老若男女の人々が溢れかえり、かなりの混雑で、驚きました。この人々が全員、空海・密教の世界を理解しているとは到底思えませんでしたが、理解しないまでも関心を持っているのでしょう。

 

 私が空海や密教の世界について意識したのは、学校の歴史等の授業で色々学んだ随分以前のことになりますが、現実にこの世界に近づいたと感じたのは、鹿児島県にある最福寺を訪問した時でしょう。最福寺に初めてお邪魔したのは2009年2月です。それから2年半後の本年7月9日に、2度目の訪問をいたしました(7月12日付【交友録その1】にて、最福寺法主 池口惠観先生についてご紹介いたしましたので、そちらもご覧ください)。

 

 さて、空海と密教美術展に入館し、暫く見て回った後、パンフレットを購入しました。2500円でしたが、決して高いものと感じませんでした。なぜなら、最福寺にお邪魔して以来、密教に限らず宗教、信仰に興味を持ち始め、今後本ブログで「神・仏」をテーマに自分なりの感じること・思うこと・考えたことを取り纏めたいと考えているからです。そのためには「空海」の世界は避けて通れないと思っているからです。阿倍仲麻呂、空海、最澄といった学僧(もちろん名もない学僧も含めて)が中国にわたり、仏教その他の年代の文化に接し、日本にその仏教、文化を持ち込みました。彼らは、中国で異言語をマスターし、仏教という世界を理解しマスターするという大変な困難、障壁を乗り越えるために多大な努力をし、日本文化の発展に寄与しました。彼らの努力が、今日の日本文化を築き上げる基礎となり、そして仏教の影響力は日本人の魂にしみわたっているものであると思います(8月9日付【交友録その5】にて、日中協会の白西紳一郎様をご紹介した中で、阿倍仲麻呂についてや私の日中友好への想い等を述べておりますので、そちらもご覧ください)。

 

 「空海と密教美術展」は9月25日(日)まで開催されているとのことです。皆さまもお足を運ばれてはいかがでしょうか。

 

 「空海と密教美術展」HP http://kukai2011.jp/

 

 

 

 

2.特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」

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(特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」パンフレット)

9月4日は「特別展『孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本』」の最終日で、私としてはタイミング良く訪れることが出来たことが大変うれしく感じました。この展覧会に関心を持った理由は、私は来年5月に75歳を迎えますが、その記念として「中国民主化への底流」という本を出版したいと考えており、展覧会にて、現在の中国の民主化の歩みである孫文先生(1866年~1925年)について理解を深めることは、この執筆にあたり大いに参考になると思ったからです。

 

孫文先生について関心を持ち始めたのは、中山陵(江蘇省南京市東部の紫金山に位置する孫文先生の陵墓)を見学した時のことです。初めて中山陵を見学したのは、1997年11月に上海から南京に赴いたときで、次は上海高井倶楽部の皆様と2005年4月に見学した時です。中山陵には孫文先生の陵墓があり、祭堂の三つの入り口の上には「民族」「民権」「民生」という孫文の唱えた三民主義のスローガンがそれぞれ掲げられていました。珍しいことに墓室の天井には台湾の国旗である青天白日旗の模様が描かれていました。陵墓はフランスのナポレオンの陵墓を参考に造られたものであるとのことで、大変立派なものでした。毎日多数の中国の人々が中山陵に訪れ、孫文先生を偲び、大いなる敬意を表しているとのことです。

 

孫文先生はいつからか「孫中山」と号すようになりましたが、この「中山」の由来は、孫文先生が日本亡命中の1913年から1916年の間、東京都千代田区日比谷公園付近に住んでいたそうですが、公園の界隈にあった中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子様の父)邸の「中山」の表札を見て、「中山」という名字が気に入り、その後「孫中山」と号すようになったという逸話があるそうです。非常に日本に好意的な方であったということです。中国では、「孫文」ではなく、「孫中山」の呼称が一般的とのことです。ちなみに北京でも上海でも台北でも、そしてその他の都市でも「中山」という名前がついた公園や道路があります。

 

梅屋庄吉様(1868年~1934年)は、香港で「梅屋照相館(写真館)」を営み、その後、映画産業に乗り出し、日活の創設に関わるなど、日本における映像事業の黎明期に活躍し日本の映画産業の地盤を築きつつ、孫文先生の志に共感し、物心両面にわたって手厚く庇護していたということでした。その額は、現在の貨幣価値で約一兆円になるということです。梅屋様は、「孫文トワレトノ盟約ハ一切口外シテハナラズ」と遺言に残したとのことです。

 

ご遺族は、その言葉を守り、梅屋様が残した資料は、近年まで世に出ることはなく、今回の展覧会はその貴重な資料が公開されており、大変勉強になりました。例えば、梅屋様が愛用された,つむぎの羽織です。裏地には孫文先生による「賢母」の文字が書かれていました。「賢母」という文字には、孫文先生が親身になってお世話をしてもらった梅屋庄吉様のご夫人、トク様への特別な思いも込められているといわれているそうです。また、孫文先生の妻として生きた宋慶齢(そうけいれい。宋家三姉妹の次女、中華人民共和国名誉主席)がトク様に宛てた直筆の手紙なども展示されていました。

 

孫文先生の言説の中では、「三民主義」(岩波書店)にある「中国人は砂の民である」という言葉が一番説得力があると思います。それだけに中国の政権は民を石にし、岩にする努力が日本人の政権以上に大変であるといつも思っています。民を石にし、岩にしてこそ、世界に伍する中国になるからです。

 

・  特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」HP

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1398

 8月23日(火)から27日(土)まで、私は北京と上海へ行って参りました。今回の出張では、23日(火)午前11時過ぎ(日本時間正午過ぎ)北京空港に降り立ちました。空港では当事務所北京代表処上席顧問律師 王建寧先生が出迎えて下さいました(王建寧先生については、【交友録 その8】8月第4週<8月21日(日)~8月27日(土)>をご覧ください。)。つづいて、25日(木)朝7時(日本時間8時)に北京空港を出発し、上海の虹橋空港へ9時10分(日本時間10時10分)に到着しました。そして、27日(土)朝9時10分発(日本時間10時10分)の飛行機で上海を出発し12時40分に帰国しました。

 

 

 今回の「歴訪記 その3」では、中国滞在中に訪れた様々な場所についてご紹介させていただきます。

 

 

 以前ブログでご説明したことがありますが、ブログに掲載している花の写真は私が撮影しております。中国でも夏のことで花が少なかったのですが、一瞬一刻の開放感を求めて花の写真を撮影して参りました。

 

 

(1)北京語言大学

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(2011年8月24日(水)日本時間 午前10:11 北京語言大学にて撮影

 

 

 私は外国に行く際には、努めて大学を訪問することにしています。大学にお邪魔することによって、その国の知的世界に少しでも浸ること、ひいては外国の大学で講演をさせていただくことを期しているからです。

 

 私が最初に講演をしたのは、1990年6月モスクワ大学法学部です。ここでは、「日本の中小企業の法制度」についてお話をさせていただきました。二番目に講演をしたのは、1991年10月北京大学法学部においてでした。講演のテーマは「日本経済の発展と法制」と題して安保条約が締結された1960年から1969年までの10年間に制定された法律と産業の発展との関係について論じるというものでした。他にも海外の大学で講演をさせていただいたことがありますが、いささか冗長になりますから省略いたします。

 

 さて、今回の訪中では、北京語言大学を訪問しました。【交友録 その8】 8月第4週<8月21日(日)~8月27日(土)>で述べたとおり、当事務所弁護士萩原大吾君が中国語を習熟するべく勉学に励んでいる大学であるからです。

 

 同大学は、北京市郊外にありますが、中国政府教育部直属の大学であり、来年には創立50周年を迎えるそうです。外国人に対する中国語教育で著名な名門大学であり、同大学のホームページによれば、開学以来、全世界の176カ国以上の国と地域からの12万名以上の留学生の育成に関与してきたとのことです。2010年度には、中国人学生3万5千人余と、外国人留学生8千6百人余が在籍しています。中国語の検定試験として世界的に有名な「HSK」も、ここ北京語言大学で開発、研究され、運営もされています。「HSK」とは、母語が中国語ではない者(外国人、華僑、中国国内少数民族を含む)の中国語能力水準を検定するために設立された国家レベルの標準化試験のことです。同大学の正門正面にある一番主要な校舎には「新しい教育理念を創造し、今までの教育理念を強化し、中国語に関する国際教育の水準を高めよう」という趣旨の標語がかかっており、同大学の中国語教育に対する意気込みを感じることができました。

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 (2011年8月24日(水)日本時間 午前10:03 北京語言大学にて撮影

  

【HSKについて】

http://www.hsk.org.cn/Centerintro_J.html

【北京語言大学】

http://www.blcu.edu.cn/blcuweb/japanese/index-jp.asp 

 

 実際に私がキャンパスを20~30分歩いたところ(中国人の感覚からはかなり狭い敷地だそうですが、外壁に沿って歩けば優に1時間以上はかかる広大なキャンパスでした。)、欧米系、アフリカ系、アラブ系、アジア系など、ほぼ世界中といっても過言ではないほどに実に多彩な国からの留学生が見受けられ、ごくごく普通の姿で歩いている姿を目にしました。聞けば華僑の子弟の留学生もとても多く、学生の多様性という点で、英語学習のための語学留学とは明らかに異なる様相でした。学生の殆どはキャンパス内にある17棟の宿舎に住んでいるとのことです。一部の外国人留学生は別として、中国人学生は一部屋に6人から8人程度が一緒に住んでおり、文字通り4年間寝食を共にするわけですから、非常に強い絆が築かれるそうです。

 

 キャンパス内には、いくつもの教室棟や、大きなグラウンドや何面ものテニスコートやバスケットコート、立派な図書館があり、それらの基本的な建物等のほかにも、鉄筋5階建ての立派な巨大な食堂棟、売店、果物屋、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、郵便局の出張所、理髪店、書店、温水プール付きのジム、カラオケ店、来客用の宿泊施設までありました。このように日常生活に必要なものがキャンパス内に揃っているので、数ヶ月全くキャンパスから出ないで生活する学生もいるそうです。

 

 さて、キャンパス内を歩いていた際、一人路上で円を描くように歩いている学生がいました。近づいてみると、ICレコーダーを片手に、必死にフランス語の教科書を暗唱していることがわかりました。多くのクラスメイトと一緒に住む部屋では勉強は捗りませんし、声を出しての暗唱は図書館でもできません。修行僧のように勉学に一身に打ち込む姿にとても感銘を受けた次第です。

 

 中国において、イラン系の学生をみることが時々ありますが、それはシルクロードを背景とするアーリア系中国人が往々にして大学に入っているからです。

 中国では大学に入るということは、実は非常に厳しい、難しいことです。大学のランキングが公然とされており、また成績が優秀でないととても入学が許可されません。北京語言大学周辺では10以上の大学が隣立していますが、「それらの大学は80点以上でないととても入れない」という王建寧先生の説明がありました。要するに、古から中国社会は選抜社会ですが、現代の中国においても、きわめて厳しく選抜が運用されているということです。なかでも一番厳しい選抜が行われているのは、共産党の党員です。要するに共産党は優秀な人材の教育・育成のため精力的に力を注いでいます。これが、中国共産党のリーダーシップの源泉となっているのでしょう。そして、そのことが、実は共産党を一党独裁ながらも、なお国民を指揮する、政権を維持する原点となっているということに気づかなければなりません。

 

 

(2)朝陽公園 

 

 

 8月24日(水)、(1)の北京語言大学を訪問した後、午前10時から20分間、北京市朝陽区にある「朝陽公園」を散歩しました。

 南北の長さは約28キロで、東西の幅は約15キロと、総面積280ヘクタール以上もある大きな公園でした。280ヘクタールというと、私も折々朝の散歩に訪れる東京都千代田区の日比谷公園は約16ヘクタールですから、日比谷公園の17倍以上の広さです。北京市四環以内の最大の都市公園だそうで、1984年に工事を開始し、20年後の2004年9月15日に公園全体の開放を開始したそうです。

【参考】

http://bciw.bjchy.gov.cn/feature/chypark.html

 

夏のことで少ししか撮影できませんでしたが、花を撮影しました。

 

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(2011年8月24日(水)日本時間 午前11:03 朝陽公園にて撮影)

 

 

(3)ABC Cooking Studio2号店・上海環球金融中心スタジオ 

 

 8月26日(金)午前11時、上海の浦東にあるABC Cooking Studio2号店・上海環球金融中心スタジオにお邪魔しました。同スタジオは東京でいうと「丸の内」のような場所にあり、上海市内で1番高いビルの2階にあります。 

 木下忍様、粟野幸恵様等のご案内を受けました。2号店が7月に開店されたばかりにも拘らず十分な成果を上げられ、すでに1500人近くの生徒さんを要しておられるとお聞きして、大変嬉しい限りでした。

 

 さて、6月17日付「気」のブログ第1回の記事にて、「男性と女性では生命力、つまりエネルギーが違い、女性のエネルギーこそ男性のエネルギーに勝る」といったことを書きましたが、ABC Cooking Studioでは、まさにこの女性のエネルギーを上手く活用されて、躍進に次ぐ躍進を遂げられています。私に同行してくださった知久信義様も、今回同店を訪問し、「女性がリーダーシップを発揮して生き生きと働き、ピカリと光った職場の姿」という印象をお話されていました。

 

 私は、2005年4月に同社で内紛が起こった以降、関与させていただいておりますが、見事内紛を克服され、当時は生徒数は8万人でしたが、現在では25万人もの方が料理を学んでいることは、まさに女性のエネルギーの賜物であると存じます。

 

 中国においては、5年で50店舗を開店される計画とのことですが、中国でも日本と同様に、女性のエネルギーを活用されれば、5年以内に達成されるものと確信しています。

 

 今後は、日本の市場は、破たん的な状況に陥ることは目に見えています。それ故、海外の市場はどの企業にとっても大切でありますが、ABC Cooking Studioと同様に、女性を活用することが必要でしょう。

 

 同店の女性達と一緒に写真をとりました。皆さん若々しくて元気はつらつでした。

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(2011年8月26日(金)日本時間 午後12:14  ABC Cooking Studio2号店・上海環球金融中心スタジオにて撮影)

 8月13日(土)午後15時から15日(月)の早朝まで二泊三日で、栃木県佐野市にある一乃館において夏休みをとることになりました。大都会の喧騒を離れて、静かな癒しのひと時で、ちょっと嬉しい旅になりました。8月16日付で更新した8月第2週<8月7日(日)~8月13日(土)>の交友録でご紹介した開倫塾の林明夫様とは、年3回ほど折に触れて、温泉旅館で一緒に半ば合宿のような勉強会をかねて休暇をとります。今回は、有限会社セカンドステージ代表取締役社長鮒谷周史様も参加して下さいました。

 

 林様、鮒谷様との話の内容は雑談を含め多岐に渡りましたが、特に開倫塾の「改革の方向性」ということを意識して話が進みました。

 

 私からは、私の最近のテーマのいくつかの中の「ヒューマン・ワーク」と「共同体理論」を中心としてお話をさせていただきました。そして、それは、私の「リーダーシップセミナー」のレジュメの充実に資するためであることは言うまでもありません。

 

 さて、今回の「歴訪記その2」では、この夏休みに訪れた色々な場所についてご紹介させていただきます。

 

 (1)ホテル 一乃館

一乃館(1).JPG

(8月13日(土)午後15:53 一乃館のエントランスにて撮影)

 

 

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(8月15日(月)午前5:31 ホテル一乃館にて撮影)

 

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(8月15日(月)午前5:31 朝靄の出流原弁天池を撮影)

 

 

 今回も宿は「一乃館」(栃木県佐野市出流原)を利用しました。一乃館のある佐野市は、日光例弊使街道の宿場町としてさかえ、現在でも明治・大正時代にタイムスリップしたかのような街並みが続き、田園風景に満ち溢れていて、大変心地よい場所です。一乃館の館内は、まさに「大正ロマン」を感じさせる造りになっています。また、敷地に面して、「出流原弁天池」という、1956年に県文化財天然記念物に指定された周囲約138メートルの池があります。この池は、年間を通じ一定の水量(2400㎥/日)、水温(約16度)が保たれており、この湧水は1985年環境庁選定の「名水百選」にも選定されました。

 

ホテル一乃館 http://www.ichinokan.co.jp

 

 

 

(2)ココ・ファーム・ワイナリー 

 

ココファーム.JPG

(8月13日(土)午後16:37 ココ・ファーム・ワイナリーの葡萄畑を背に 左から 林明夫様、私、鮒谷周史様)

 

 

 8月13日(土)午後16:20頃から1時間程、足利市田島町にある「ココ・ファーム・ワイナリー」という醸造場へお邪魔しました。

 

 ココ・ファーム・ワイナリーの経緯は、1950年代、計算や読み書きが苦手な子どもたち(中学校の特殊学級)とその担任をつとめていた故・川田昇様(2010年12月17日に逝去)が、急斜面の山を切り開き、600本余りの葡萄の苗木を植えたことにさかのぼります。この山は、当時知的障害者と呼ばれていた子どもたちのために、「共に生きる道をさぐりたい」との思いで、川田様が私財を擲って購入されたそうです。

 

 1968年には、川田様は補助金なしの自力で、知的な障害を持つ人たちの為の「こころみ学園」の施設づくりに奔走し、翌年、成人対象の知的障害者更生施設として認可がおりました。1980年には学園生の親らが出資して、有限会社ココ・ファーム・ワイナリーを設立、1984年、ついに「ココワイン」が完成したとのことです。このように、社会と、学園生との共生のために様々な施策を成功させ、広く社会の模範となった川田様は、お亡くなりになる8カ月前の2010年4月に、財団法人吉川英治国民文化振興会より、第44回吉川英治文化賞を受賞されました。川田様は受賞を大変お喜びになり、同賞受賞の言葉として、「思いがけない受賞の知らせに冥土への土産をいただいたような気がします。」と述べられたそうです。

 

 ココ・ファーム・ワイナリーも、8月16日付「【交友録 その6】8月第2週<8月7日(日)~8月13日(土)>」でご紹介した霧島高原ビール株式会社(山元正博会長)と同じように、観光客を呼ぶに相応しい施設でした。当然、ワインを中心にしている施設ですが、美味しいケーキをいただくことができたり、珍しい葡萄のお酢や、ノンアルコールの飲み物も用意されていました。

 

 「コツコツとした伝統的な手仕事を大切に、葡萄本来の持つ魅力を確かな醸造技術で誠実に引き出していくこと。一杯のワインが、今日あることの喜びのためにありますように。」とのお言葉がパンフレットに紹介されていました。何種類かのワインを試飲をさせていただきましたが、そのお味は、この後にご紹介します総合文芸誌「足利文林」(第74号-2011年5月28日発行)の中で発行人の中島粂雄先生が「こころみ学園や、森と沼のある谷、そこで作られる人々の苦悩や怯えを癒す不思議な味の極上のワイン」と賞されています。わたしも、川田様のご意志を受け継がれた「ココワイン」を作る皆様の想い(現在、学園の理事長と施設長は川田様のお嬢様お二人が引き継がれているそうです)がワインにしっかりと染み出ていると感じました。ワインだけでなく、ケーキもいただき、少しばかりリラックスさせていただいたいっときでした。「ココワイン」は、2000年開催の九州沖縄サミット、2008年開催の北海道洞爺湖サミットでもふるまわれたとのことです。

 

 ココ・ファーム・ワイナリー http://www.cocowine.com/

 

 

 

(3)巌華園(がんかえん) 

巌華園.JPG

(8月13日(土)午後17:41 巌華園入口を撮影)

 

 8月13日(土)午後17:40頃から20分間ほど、足利市月谷町にある旅荘「巌華園」にお邪魔しました。巌華園は、作家の檀一雄や、洋画家岡本太郎、俳優森繁久弥等、多数の著名人が訪れた歴史ある旅館です。また谷文晁作庭、渡辺崋山命名とされる、素晴らしい庭園でも有名で、2006年(平成18年)には、庭園文化の展開を知る上で貴重な事例として栃木県初の国の名勝に登録されたそうです。

 巌華園 http://gankaen.it-b.com/

 

 さて、巌華園に訪れた理由は、先にご紹介した「足利文林」(1980年創刊の31年の歴史を持つ総合文芸誌。)を発行している中島粂雄先生にお会いするためです。中島先生は、巌華園のオーナーも務められています。「足利文林」の創刊者である,県文化功労者の詩人、三田忠夫様が1996年に亡くなられた後、中島先生が発行人を引き継いでこられたとのことです。

 

 18:00頃に巌華園を出ると、「迎え盆」ということで、老若男女の人々がろうそくに火を付けて、提灯を持って家路についているのが目につきました。

 

 お盆とは、先祖供養の儀式で、先祖の霊があの世から現世に戻ってきて、再びあの世に帰っていくという日本古来の信仰と仏教が結びついてできた行事だそうです。「迎え盆」というのは、多くの地方では毎年8月13日に行われ、お墓の前で盆提灯や盆灯籠を灯し、お墓から家まで精霊を案内し、精霊を家に迎え入れるそうです。14日・15日の2日間は、精霊が家に留まっている期間ですので、仏壇にお供え物をして迎え入れた精霊の供養をするそうです。3日後の16日の夜に、精霊は再びあの世へ帰っていきます。この時、迎え火と同じように今度は「送り火」を焚き、再び帰り道を照らして霊を送り出すとのことです。

 【参考】http://iroha-japan.net/iroha/A01_event/10_bon.html

 

 「迎え盆」も「送り盆」も、どちらも夕方に行うようです。田舎では未だに見られる風景ですが、徐々にこういった風習はなくなりつつあります。

 

 その後、18:15頃、足利フラワーセンターによりました。何枚か写真をとりましたが、夜の花を撮影したのは,ブログを作成しはじめて以来初めてのことでした。その後、夜の帳の佐野の町を自動車で移動し、一乃館へと戻りました。夜の風景も、まさに、日本のかつての田畑、街並みをイメージするに十分でした。

 

フラワーセンター.JPG

(8月13日(土)午後18:26 足利フラワーセンターにて林明夫様と撮影)

 

 

 

(4)開倫塾 足利中央校 

 

 8月14日(日)午前9:40頃、開倫塾の足利中央校へお邪魔し、10数名の生徒の皆様にご挨拶をさせていただきました。「勉強とは達成感を味わうことであるが、そのことによって新たなチャレンジ精神が生まれ、次なる目標を定めて取り組む気構えができる」という旨をお話しいたしました。10時10分に辞去しました。(開倫塾については8月第2週<8月7日(日)~8月13日(土)>の交友録もご覧ください。)

 開倫塾.JPG

  (8月14日(日)午前9:45 開倫塾 足利中央校の教室にて 左から足利中央校校長 羽鳥正彦様、私、鮒谷周史様と共に撮影)

  

 

 

(5)日本最古の学校 足利学校

足利学校.JPG

(8月14日(日)午前10:24 足利学校「入徳門」にて鮒谷周史様と共に撮影)

 

 8月14日(日)午前10時20分頃、足利学校を訪れました。今年は、足利学校の復原が完成して20年になると共に、足利市制90年、足利学校中興の祖・上杉憲実(うえすぎのりざね)生誕600年という区切りの年とのことで、「足利学校復原20周年~守り伝えられた学問の場~」展も開催されていました。

 

 

 皆さんもご存じの通り、足利学校は、日本最古の学校として知られています。足利学校の創建の時期については、いくつかの説があるそうですが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後です。また戦国時代には全国から多くの学徒が集まり、江戸時代にも徳川幕府の庇護を受けて継承されてきました。

 

 足利学校の建物は、全て木造の建築で、素晴らしい日本庭園がありました。本ブログで8月12日付、19日付で「大地の『気』」というテーマの記事を執筆しておりますが、この足利学校はまさに大地の「気」が充満した癒しの地でした。足利学校は、天文年間 (1550年頃) の全盛期には学生数3000人という規模を誇ったそうで、キリスト教宣教師・フランシスコ=ザビエルによって「日本国中最も大にして最も有名な坂東(奈良時代の律令制における足柄坂<静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境にある峠>より東の東海道のこと)の大学」と海外に伝えられるほど活気にあふれていたそうです。ここで昔の若者がのびのびとした心持で学問に身を入れていたことに思いを巡らすと、クーラーのきいたコンクリート造りの狭い部屋で勉強する今の若者に足りないものは大地の「気」であると思った次第です。

 

 

  

(6)栗田美術館 

栗田美術館(1).jpg

(大手門から見た陶磁会館<奥>とミュージアムショップ<手前右>)

 

栗田美術館(2).JPG (歴史館)

 

 8月14日(日)11時過ぎに、足利市駒場町にある栗田美術館を訪れました。これが私の3度目の訪問でした。

 

 私は1990年4月から1993年10月にかけて、「日経アート」に「法律税金相談室」を全43回連載しました。その第12回(1991年3月号)で、栗田美術館を「日本を代表する美術館」として紹介しました。栗田美術館は、故・栗田英男様(1996年没)の蒐集による伊万里、鍋島を館蔵する世界最大級の陶磁美術館として有名です。大きな特色として、江戸時代に世界中に分布した、肥前鍋島藩で生産された伊万里、鍋島のみを、再び買い求めて里帰りさせ展示するという偉業を果たし、また、伊万里と鍋島以外の作品に対しては一顧だにしない信念と一貫した思想を持った美術館です。今回3度目の訪問を果たし、日本一の美術館と呼ぶにふさわしいものだということを再確認した次第でした。

 

 しかし、私がお邪魔した時間には、駐車場に車が4台しかとまっておらず、お盆休み中とはいえども、はなはだ閑散としている印象を受けました。これは日本人が「文化」を愛する気持ちを失いつつあるということではないかと思いました。全国の美術館が経営的に喘いでいるとのことですが、これをどのように国家的事業として大切にしていくか、ということに改めて思いを馳せました。

 

 栗田様は、非常に女性に人気のあった方としても有名との話を聞いたことがあります。その詳細を明らかにすることはできませんが、美術館の展示場に1988年4月15日に米国の大女優、故エリザベス・テーラーが来館した時の写真がありましたが、その写真に、お二人の間には、縁が深かったのではないかと察せられるような雰囲気が流れていました。艶福に恵まれた男性は大成し、モテない男性は大物になれない…それを証明したといえるような写真でした。栗田美術館が日本一であると申し上げましたが、栗田様のお人柄も、日本一のものであったと思われます。

 

 栗田様は、1952年の第25回衆議院議員総選挙で当選され政界入りし、独占禁止法改正案(いわゆる栗田私案)を手掛け、独占禁止法の充実に奔走し、この分野の発展に貢献した方としても有名です。極めて多彩な方であったということです。

 

 

 私は、忙しい日々を過ごしておりますが、都会の喧騒から逃れ、時間の流れの緩やかなところへ宿泊することによって、心身ともに安らかなひとときを過ごし、日々の活力をいささか回復しています。今回訪れた足利は、まさにこれを実現するに相応しい場所で、満足した二泊の旅となりました。

 

 さて、今回の旅に同行して下さった有限会社セカンドステージ代表取締役鮒谷周史様からは、「足利は、『日本最古の総合大学』といわれる足利学校があったことの影響なのでしょうか、伝統、文化、教養の香りの漂う素晴らしい街だと感じました。」とのご感想を下さいました。

 

 鮒谷様は、2004年4月に、私が何度も著作を出版させていただき、公私ともに親しくさせていただいている株式会社かんき出版最高顧問 境健一郎様(当時は代表取締役社長)にご紹介されて初めてお会いして以来、親しくさせていただいております。鮒谷様は、メールマガジン「平成進化論」を発行されておられ、初めてお会いした当時は購読者数が約2万人でしたが、現在ではおよそ20万人の読者がいらっしゃるそうです。素晴らしい経営の才覚をお持ちであると思います。

8月7日(日)、朝8時に釧路のホテルを出発し、中標津を経由して、午前10時45分頃、北海道野付郡別海町に位置する野付半島にある原生花園へ赴きました。

 

野付半島への道中では、信号に遮られることもない道を、車で走りまわって、北海道の夏の自然を大いに満喫しました。とりわけ嬉しく感じたことは、アブやブヨなどの昆虫類が、東京とは違って極めて活発で、昆虫取りなどに興じた私の少年時代の色々なシーンを思い出したことです。

 

さて、野付半島へ赴いた理由は、北方四島を遠望しようと思っていたからでした。しかしながら、大変残念なことに、天候に恵まれず、また絵葉書などを売っている売店も見当たりませんでしたので、やむなく「距離16kmの近くて遠い島 国後島」と書かれた看板を背に写真を撮ってもらいました。

 20110815.JPGのサムネール画像

(同日午前10時51分撮影)

 

この地域では、内地とは違って北方領土返還運動が盛り上がっているように思いましたが、そこにも少し陰りがきているのかとも感じました。これは日本の国力の低下とも、大いにかかわりがあるのではないかと思いました。

 

それから釧路空港へと向かい、同地に到着したのは午後の2時30分ごろのことでした。

 

小生は、来年同好の士を募って北方四島に行きたいと思っております。

 

別海町HP http://betsukai.jp/

 

 

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