2012年12月26日(水)午前11:38
静岡県熱海市上多賀 アカオハーブ&ローズガーデンにて
バラ(フェアリー)を撮影
花言葉:上品、温かい心、美しい少女 等
10月5日(金)付記事より、「リーダーについて」をテーマに連載を開始しております。本年の締めくくりとして、高井・岡芹法律事務所が年4回発行している事務所報『Management Law Letter』2012年 新緑号(NO.94)に掲載した、弊所の客員弁護士であられた吉村德則先生への追悼文を転載します。
吉村先生は、昨年よりご療養中であられましたが、本年3月7日に永眠されました。私は、11月11日(日)に、先生のお墓にお参りし、ご生前の先生のご指導に心より感謝申し上げた次第です。
このブログでも度々述べていますように、リーダーに求められる最たるものは、人間としての深みです。それは、人格・識見・手腕・力量に加えて、多芸・多趣味からなるものですが、吉村先生はこれらの要素をすべて備えていらっしゃいました。追悼文中にもございますとおり、先生は、専門外のありとあらゆる分野にも精通された、まさに博覧強記の方でした。また、検事時代には、リーダー教育にも熱心に取り組まれたとうかがっております。このブログ読者のみなさまにも、吉村先生の素晴らしさをお伝えできればと思います。
事務所報『Management Law Letter』2012年 新緑号(NO.94)
「博覧強記の人 逝く ~吉村德則先生の御逝去を悼んで~」
弁護士 髙井 伸夫
私どもの事務所の客員弁護士である吉村德則先生が、この3月7日に永眠されました。客員弁護士押してのご在任期間は、2004年3月26日より2012年2月29日のほぼ8年間でした。
吉村先生は昨年より病気ご療養中であられましたところ、一日も早いご快癒とご復帰をお祈りしていた私どもの願いは叶わず、突然の訃報に、所員一同悲しみにくれるばかりでございます。吉村先生は、最愛の奥様はじめご家族の皆様方に見守られながら、息を引き取られたとうかがっております。享年74歳でした。
ここに深く哀悼の意を表しますとともに、ご生前の吉村先生のご指導に心より感謝申し上げます。
吉村先生は、1964年に任官され、2000年に名古屋高等検察庁検事長で退官されるまで、検察官として要職を歴任され、活躍されました。またその間、先生は法務省等でも多くの重要なお仕事を担われました。退官後は、内閣府情報公開審査会の会長代理をつとめられましたが、2004年に弁護士登録されると同時に、私からお願いして当事務所の客員弁護士にご就任いただきました。私は、先生の幅広い教養と豊かな人間性が、良き法曹を目指す若い弁護士たちにとって、何よりのお手本であると考えたからです。先生には、週2日、勤務弁護士全体へのご指導をお願いしておりました。
先生と私との出会いは、先生が法務大臣官房人事課付、総理府(当時)人事局付検事として任務にあたられていた昭和40年代後半の頃であったと記憶しております。若手官僚を対象とした講演を私にご依頼いただいたことや、総理府からの仕事で、日本に復帰して間もない沖縄を共に訪問したことがご縁の始まりでした。先生も私も、まだ30代の働き盛りの時代でした。
私は、先生の豪快にして爽やかで繊細なお人柄にひかれ、また生まれ年が同じであったこともあり、大いに意気投合しました。長身でひときわ目立つ体躯でありながら、笑顔の優しい先生のお姿は、優秀で大変ご立派な検察官として、私の脳裏に深く刻み込まれたのです。
先生は、在任中から後進の指導にも存分にお力を発揮されました。リーダー論について書かれた随想は見事なもので、私どもの事務所でもテキストにさせていただきましたし、また、検察官にとっての大切な心得として、「謙虚」「研鑽」「健康」の「三ケン主義」を徹底指導されたというお話も、強く印象に残っております。
吉村先生は、このように優秀な検察官であられましたが、それと同時に、専門外のありとあらゆる分野にも精通された、まさに博覧強記の方でした。話題が豊富で、とにかくお話が楽しいのです。
先生は、法律家の自己研鑽のひとつとして、世の中の動きや考え方などあらゆることを日頃からデータとして頭に取り込んでおくことの重要性を指摘されていましたから、専門とは一見無関係の事柄でも、形を変えてお仕事に役だっていたと思います。そして、万般にわたる幅広い知識と体験が、お仕事にも一種の深みを与えていたのではないでしょうか。
先生が特に詳しかった分野を思い起こしますと、私が存じ上げているだけでも、米国本場のアメリカンフットボール・メジャーリーグベースボールを中心としたスポーツ観戦、海釣り、南北朝を除く日本の古代史~近世の歴史、和洋中を問わない料理の腕前、奥様とご一緒に知床から石垣島まで全都道府県を制覇された国内小旅行、ロシア出身のオペラ歌手シャリアピンの声に魅せられ、また盲目のイタリア人テノール歌手アンドレア・ボチェッリの歌を滂沱の涙で聞かれたという音楽への造詣の深さ、テレビドラマの監修(頼まれ仕事のボランティア)等々、枚挙にいとまがありません。これら以外のあらゆる分野についても、先生は驚くほど何でもよくご存じでした。
先生はマスコミに登場されることを全く好まれませんでしたが、私から無理をおしてお願いして、昨年、雑誌『月刊公論』の2011年4月号・5月号に掲載された「リレー対談」に「歴史のなかで『if』を想定する愉しみ」等のタイトルでご登場いただいたことが、つい昨日の出来事のように思い出されます。
吉村先生とのお別れは痛惜の極みです。先生のお心のこもったご指導は、先生の後輩検察官や、私どもの事務所の若い弁護士たちに確かに受け継がれておりますが、稀にみる人間性豊かな法曹として、先生にはさらなるご活躍と若手弁護士の指導をお願いしたかったという思いが、こみ上げてまいります。
吉村先生は、私どもの中にいつまでも生き続けてくださいます。悲嘆にくれながら、今はただ、衷心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。
先生、やすらかにお眠りください。
合掌