『労働新聞』高井伸夫弁護士の四時評論の最近のブログ記事

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2016年7月3日(日)7:36 山の上ホテル付近にてアンスリウムを撮影
花言葉:「煩悩、旅立ち」

 

 

第8回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年5月12日転載)

 

 

企業や働く個人にとって最も重要なことは、常に前進し成長を果たすことである。そして、組織体である企業は多数の労働者の統合があってこそ初めて成果を生むシステムであるから、ヘッドワークおとびハートワークの競争を繰り広げている彼らの能力を、組織体として最大限に発揮させるための労務管理を推進することが必要になる。

そこで最も重要な役割を果たすのが、管理職教育である。大切なのは部下に対する「ほめ方」「叱り方」の能力である。失敗をした部下を叱り飛ばすだけの管理職は無能である。成長につながる励まし方ができなければ、結局は成果に結びつかない。その意味で、管理職には心理学の勉強が必須であると言えよう。

上司の言動による部下の自殺(パワハラ自殺として取り上げられた)に業務起因性を認めた判決が昨年立て続けに出されている(東京地判平19・10・15、名古屋高判平19・10・31、大阪地判平19・11・12)。企業における心の問題を考える場合、管理職の「ほめ方」「叱り方」教育がいかに重要か、司法も警鐘を鳴らしている現状にある。

 

脱落者の増加が顕著に

企業における労務管理の要諦である教育・矯正は、「教育」「指導」「注意・警告」の過程を経て、教育・矯正措置を超えた「懲戒」の段階に至る。教育は集団を対象とした指導・教育であり、指導は個別教育であり、注意・警告は叱責という分類になる。仕事を通じて馴染んだ公務員関係の労働法で、公務員には「注意」の中にも①「口頭注意」、②「厳重口頭注意」、③「書面注意」、④「厳重書面注意」という4段階があると知り、小生は当時から、「教育」から「警告」に至る展開を意識してきた。

これまでは、公務員はもちろん民間企業の労働者もこうしたプロセスへの耐性を有していたが、近年は指導集団である「教育」段階で脱落する者が出てきている。この傾向は次第に顕著になり、教育に耐えても指導に耐えられない。指導に耐えても注意に耐えられない者が増えつつあるのが現実である。このように労務管理としての教育・矯正措置を断念するかという命題にすら企業は直面しているが、それは認め難いことである。

企業は組織的な活動・統一的な活動を求めるがゆえに、集団的な教育は避けて通れない。ここに実は教育・矯正活動としての労務管理である「ほめ方」「叱り方」を管理職が勉強する必要性に迫れられている理由がある。管理職は、部下に対する「ほめ方」「叱り方」について指導・教育を受け、注意・警告をされながら、管理職自身も成長していくプロセスが必要となった。

統一的・組織的活動を効果的かつ円滑に行うためには、個別労働者を対象にした教育・矯正活動だけでなく、集団を意識した教育・矯正活動を実行しなければならない。そうでなければ、組織体としての企業活動は不可能だからであるが、ここに困難さがついてまわる側面のひとつがある。「教育」「指導」「注意・警告」という行為自体が、管理職の能力次第では、部下の精神障害を招く原因となりつつあるのが現実だからである。

上司の言動等がパワハラになり得るのは、「指導」「教育」「注意・警告」というプロセスが、成長を促す趣旨と受け取られず、相手の精神に傷跡を残し、嫌がらせ・いじめ・暴行と受け取られるからであろう。

しかしこれは、管理職の能力不足だけではなく、仕事に生きることが非常に疲れる時代になってしまっていることも反映していると言ってよい。日本経済が右肩上がりの時代には皆が立身出世を目指し、自分なりに成長していた。しかし、今では成長どころか没落・右肩下がりの時代になったから仕事に生きること自体が非常に疲れるようになってきた。90年代後半から企業に成果主義的人事制度が導入されたことに伴い、組織が集団主義から個人主義へと移行したことも、逃げ道のない心理状態を増幅させている。組織の変革によって、個人の没落・スピンアウトの度合いが甚だしくなっている。

そして、うつ病等の精神疾患は、ホルモン変化の問題や職場での男性優位の状況、ワークライフ・バランスの悩み等の理由から、女性の方が男性の2倍多いとも聞くが、ハートワークのダメージを深刻化させないためにも、企業にとってメンター制度や女性にも働きやすい職場環境を整備することが、今まで以上に必要になってきている。

部下の上司に対する言動や社員間の言動にも、十分な指導が必要である。部下や同僚の心ない言動により、ナイーブな上司が傷付き精神障害に陥る可能性や、職場いじめの問題が極めて顕著になっている現実がある。ここにコミュニケーションさらにはより基礎的なカンバセーションのあり方の探求を企業の中で展開していかなければならない理由がある。

昨今の企業における仕事の指導はOJTが中心となり、ノウハウ・ハウツーしか教えなくなっている。本来、現場教育・職場教育では、仕事内容だけでなくその仕事の持つ目的や必要性等の根本的な意義が語られなければならない。そこにこそ仕事の意味や働きがい・生きがいを見出すからである。仕事の根本を語らない職場教育は、結局は働く者を歯車の一つに貶め、働く者は「全体の中の自分」ではなく、「部分としての自分」という思いを強く抱いてしまう。

そうして自分のやりたいことが分からず、仕事をすればするほど徒労に終わってる気分にさえ陥り、実際にしたいことへのこだわりが強まって、落差の甚だしさに空虚感を味わう。このように、仕事に対する徒労感やパッションの喪失が、企業で働く者のうつ状態を招く基盤であるように思えてならない。ハートワークが必要とされる時代には、今まで以上に仕事のやりがいの説明と得心が何よりも必要とされるのである。

 

人間性喪失の危機実感

ハートワークの時代と敢えて協調しなければならない理由も、社会の営みからハートが失われ、人間性の喪失の危機を実感していることにある。社会の変革が進む中で精神障害者が激増している現実は、例えば糖尿病の研究・治療が格段に進歩しているのと逆行して、患者が急増している状況とも似ている。社会の急激な変容についていけず人間性を崩壊させる者が増えているのであり、これにどう対処すべきかはメンタルヘルスにおける最大のそして根本的なテーマであると言ってよい。

企業におけるメンタルヘルス問題について執筆するとき、この問題は、より根本を極めた大胆な発想の転換がなければ対応策即ち解がないということを小生はいつも痛感している。本稿「上」冒頭でも紹介したとおり、現在でも生涯を通じて国民の5人に1人が発症するという見方もあるメンタルヘルス問題は、ガンや心臓疾患や脳障害の発症率よりも高いということを肝に銘じて、企業における人事労務を進めなければならない。

紙幅の制約がありここで筆を置くが、現在の最も深刻かつ重大なテーマであるメンタルヘルス問題については、また機会をみて論じたい。

 

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2016年6月26日(日)9:08 正丸峠にて撮影

 

 

第7回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年5月5日転載)

 


「治癒」ではなく「寛解」 

精神障害の場合には治癒や完治という表現はせず、病気の症状がほとんどなくなっても完全に治癒したわけではなく、様子をみていく「寛解」という判断概念にとどまるのはなぜだろうか。身体は18~20歳で完成されると言われているが、精神はその個体が死を迎えるまで、生涯完成を目指して発達を続けると言われている。

即ち、いわゆる成人に達しても、「精神」自体は本来的に完成したとは言い得ず、四肢など身体の一部は完成と言い得るのに対して、精神は常に“未完成”なのである。未完成であるからこそ、精神とはかくも脆くかつ傷つきやすいものなのだろう。メンタル面で問題がないと評価される者であっても、ときに傷付き成長への気力を失い、ときに退行(精神状態が暦年齢より子ども帰りした状態)さえ生じることもあり、可塑性が失われる事態に陥ることがあるのではないか。

それでもなお、正常であると判断され得ることがあるのは、精神的な成長を遂げるプロセス下に今あると自覚しているからであろう。つまり、正常な者の精神状態は、未完成ではあるが、なお向上の途上にあるという自信を抱いているのだろう。

ところが、いわゆるメンタルヘルスの障害に陥ると、精神が未完成なものであるがゆえに、挫折感が生じ、成長するエネルギーを失い、自己が淘汰されるという不安に苛まれ続ける事態を迎える者が多数に上る。そこで、精神障害の症状が一旦治ったとみえて、淘汰の不安が再び招来し、再発の可能性があるとせざるを得ず、そのことから治癒という概念を使わざるを得ないのではないか。

この寛解という分かりにくい単語を例にとっても分かるように、精神医学はなお究明されていない未分化な学問であり、ある意味稚拙な部分が大いにあると言えるかもしれないし、逆に言えばなお未発達の余地が大いにあるとみることもできよう。

 

制度設備の取組み急務 

このように、精神障害は寛解にとどまり再発の可能性をいつも秘めているがゆえに、身体的病気からの復職以上に、十分に配慮しながらの試し出勤・リハビリ勤務という制度が必要不可欠となってくる。

アンケート調査をみると、リハビリ勤務を制度として備えている企業はまだそれほど多くない。しかし、メンタルヘルス問題が近年急速に拡大している実情からすれば、制度整備への取組みが急務になる。職務復帰支援は、休職開始時点から開始することが望ましいとされており、さらに再発防止のための手続きも必要になる。

最近の20~30歳代の若い世代は、メンタル面での不調があると進んで医療機関を調べて心療内科へ行くケースが多く、うつ病・自律神経失調症・パニック障害等の診断書を自ら受け取り上司に提出すると言う。悩みを抱えてカウンセラーに相談する社員も、すでに精神安定剤や睡眠導入剤を服用している者も多く、若者にとって心療内科の敷居は以前のように高くない。

従って、ラインの気付きや声かけはもちろん必要だが、家族からの連絡を得られやすい体制を作ったり、本人から診断書が提出された際の上司や人事の対処方法も一定のルールを作る必要もあるだろう。その診断書に対する判断および診断書に従い休職に入った場合の復帰時期等につき、セカンドオピニオンの求めに応える専門医も絶対に必要になるであろう。

復職にあたってまずはどの職場が適切か問題となるが、原職場も新しい職場も、どちらも難しい。原職場になれば、そこで働いて発症したことから再発の可能性がある。ところが、新しい職場で上司も同僚も変わると、本人にとって精神的負担が強まる。そうなると、リハビリ職場は本人の意向が重要になってくる。

実際に企業内カウンセラーから伺った話によれば、本人が元の職場に戻りたいというケースと絶対戻りたくないというケースがある。人間関係の軋轢が原因の場合は本人が異動を希望するかと思うと、そうとは限らず、軋轢の相手を攻撃して、その人の移動を望む場合もある。あの人(上司)さえいなければ完璧に仕事ができると主張するのである。

また、負荷が重く耐え切れず体調を崩した場合でも、その仕事内容に執着のある人は、同じ職場に復帰を望む。その場合、休職中も休みの日に出社したり、会社の周りをうろついたりして、現場に顔を出す。スキル不足を認めようとしない。そういう人は復帰してもまた体調を崩して休職を繰り返すケースが多い。

欠勤後や休職後の復帰に関しては、最終的には本人の希望の聞いて対処するしかないが、移動を希望している場合は受け入れ先との交渉があり、難航することになるのが一般である。

リハビリ勤務は労災適用の問題とも絡み、休職期間に含まれるのか、あるいは勤務期間とされるのかという基本的な問題もある。また、リハビリ勤務にはどれだけの期間を要するかについても検討を要する。個別企業の例によれば、2週間~1カ月程度としているところもあれば、規定では特に制限を設けていない企業もあり、まちまちだ。

そして、その期間中の処遇についても、正社員のまま一定割合を支給する企業もあれば、某ベンチャー企業のように、期間中は身分をパート社員に切り替えて、処遇もそれに応じたものにする例もあるようだ。

 

最高裁も配慮を求める 

なお、復職問題に関する最高裁判決としては、バセドウ病に罹患した労働者をめぐる「片山組事件」(最判平10・4・9)がある。最高裁は、「労働者が職種や業務内容を特定せずに労働契約を締結した場合においては、現に就業を命じられた特定の業務について労務の提供が十全にはできないとしても、…当該労働者が配置される現実的可能性があると認められる他の業務について労務の提供をすることができ、かつ、その提供を申し出ているならば、なお債務の本旨に従った履行の提供があると解するのが相当である」として、企業に対し労働者への配慮を求めている。制度設備を行わずに休職者にリハビリ勤務を認めると、この判決を根拠に原職の処遇を求められるおそれもあるので、注意が必要である。

また、企業によってリハビリ勤務期間は人事で預かるケースや、外部のリワークプログラム(対人交流練習、認知療法、職業訓練を通じての復職準備プログラム)への参加を促すケースもある。なお、職場へ復帰した場合のリハビリ勤務期間はプロセスを注意深く見守らなければならず、いわば“ウォッチ”し続けることになり、その結果本人及び同僚の緊張感が高まることにもなる。ここにリハビリ勤務期間特有の難しさ・留意点があり、上司・同僚等だけでなく、精神障害に関する専門知識を持つ医師・専門家が対応しなければならない根本的な理由がある。

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右上から時計回りに
2016年6月19日(日)10:36国立新美術館にてくちなしを撮影 花言葉:「優雅」
2016年6月19日(日)8:23九段北4にてアガパンサスを撮影 花言葉:「恋の訪れ」
2016年5月29日(日)11:20栃木県足利にてカシワバアジサイを撮影 花言葉:「慈愛」

 

 

第6回 ハートワーク時代のメンタルヘルス
(2008年4月28日転載) 

 


厚生労働省の「国民(成人)の2人に1人は過去1カ月間にストレスを感じており、生涯を通じて5人に1人が精神障害と診断され得るという調査結果もある」(2006年3月「平成17年度職場におけるメンタルヘルス対策のあり方検討委員会報告書」中央労働災害防止協会)とのショッキングな報告を紹介するまでもなく、程度の差こそあれ、メンタルヘルスの不調が自分自分や職場の同僚等にも普通に起こり得る身近な問題であることは、誰もが体験的に感じているであろう。企業からのご相談においても、メンタルヘルスの不調から問題行動をとる者、休職する者、あるいは休職期間を終えて復職する者等々に関する内容が、実感としてここ4~5年急増し続けており、一向に収まる気配がない。また、精神障害と自殺の強い相関関係が指摘されるなか、2006年の自殺者は3万2155人で、そのうち企業等組織で働く者(管理職を含む)の人数は8790人に上っている。これら労働者が全体の25%前後を占めるという比率はほぼ一定であるが、数は増加傾向であり、企業等で働く者の自殺者数は1978年よりも3000人以上増えている。

職場のメンタルヘルス問題は働く者のモチベーション如何に直結し、企業の労働生産性をも左右する経営の重大テーマの一つなのである。

 

働き方の進化と関連性

精神障害を引き起こす一因として一般にあげられるのは、長時間労働の弊害である。「電通事件」(最判平12・3・24)では最高裁も「労働者が労働日に長時間にわたり業務に従事する状況が継続するなどして、疲労や心理的負荷等が過度に蓄積すると、労働者の心身の健康を損なう危険のあることは、周知のところである」としている。確かに、慢性的な長時間労働が心身を疲弊させることは事実だろう。しかし、私が機会あるごとに述べているように、昔の労働時間は現在よりも確実に長かったが、職場で精神障害の問題が生じるのは稀なことであった。なぜだろうか?労働時間の長さだけでは、メンタルヘルスの問題を説明できない。最近は総じて以前よりも人間関係を結ぶのが不得手になり、IT発達の影響で多面的な血の通ったコミュニケーションをとる能力が低下していることやストレス耐性が劣化していること等が社会的背景として語られるが、それのみならず、精神障害の問題は労働の進化と関連性があると私は考えている。

 

労働は、主に手足を使う労働・肉体労働がメーンである「フットワークの時代」から、頭脳労働・知的活動がメーンである「ヘッドワークの時代」に至り、さらに主に心を用いることが重要な要素である「ハートワークの時代」へという変遷をたどってきている。それゆえ、「フットワークの時代」には、肉体労働を長時間続けても精神的疲労につながりにくいが、「ヘッドワーク」「ハートワーク」の長時間労働は精神的負荷となるという対比が認められるだろう。

 

社会は「フットワークの時代」から「ヘッドワークの時代」を経て、今まさに「ハートワークの時代」を迎えようとしている。これからの社会では「良心・善意・成長」を旨とし、心を大切にすることに価値が置かれる。「良心」とは、自分の心に恥じない姿勢で生きることであり、「善意」とは他人の心を慮って行動することであり、「成長」とは自分自身はもちろん周囲の関係者にも成長を促し、向上心が促され、それぞれの自己実現への欲求に満足感を与えることを意味する。即ち、企業活動においても心の働きが重要な役割を果たすようになるが、そのような性質の労働を続けていると、野球のピッチャーが投球過多で肩を壊すのと同様、心が壊れやすくなることになる。

 

企業活動におけるハートワークの基本は、まずは競争下に生き続けるということである。社会でも企業でも秩序形成のためには、順位付けが必要となる。これは動物も同様で、例えばボス猿という大将がいて、群れの順位付けが整い初めて猿の社会の秩序が保たれているのである。しかし、社会で競争がなされ順位付けが行われると、人間は悲しいかな、敗北の不安感と淘汰の恐怖に苛まれ、その状態が長くなれば挫折することになる。そして、敗者は打ちのめされるのである。

 

ハートワークのこうした競い合いが激しくなればなるほど、“ハートが壊れる”事態は一層強く招来されるのである。もち論、「ヘッドワーク」=頭脳の酷使によって、“頭が壊れる”こともある。これまでは、ヘッドワークの過重の結果もたらされる異常をもって精神障害とされてきたが、精神障害はそれだけではなく、ハートワークの時代には、ハートが壊れると言うこともまた精神障害であると意識しなければならないのである。

 

「ごちゃまぜ」精神医学

つまり、精神障害はヘッドワークの障害とハートワークの障害であることになるが、今の精神医学はこの区別を明確にすることなく、ごちゃまぜにして対処してきている。しかし、ヘッドワークの障害とハートワークの障害とを見極めて、それぞれの対処法を確認していく手続きが必要なのではないか。さらに言えば、ヘッドワークの破綻とハートワークの破綻とはそもそも異質のものであるから、その違いを意識して精神障害の治療は始められるべきではないだろうか。これは門外漢の発想かもしれないが、優れた専門医に私のこうした疑問を率直にお尋ねして教えを乞うたところ、最終的には患者さんの個別性が最も重要であるというご指摘のもとに大いに賛同していただけた。

 

専門医の分析によれば、(1)ヘッドワークの加重は精神機能の変調を引き起こし、主に精神科で治療されるべき病気(統合失調症・躁うつ病・うつ病等)をもたらす。これらには、薬物療法主体の治療が必要とされる。(2)ハートワークの加重はストレス関連障害や摂食障害、あるいはうつ病等を引き起こし、主にカウンセラーや心療内科で治療されるべき病気(セクハラ・パワハラを含む)をもたらす。これらには、カウンセリングなど心理的治療が必須であるという。

 

そして興味深いことに、休職後の復帰では、フットワーク⇒ヘッドワーク⇒ハートワークの順で行わせるのが一般的であるという。つまり、労働の進化のプロセスを踏ませるというわけである。

 

次回は職場におけるメンタルヘルスの問題として大きなテーマとなっている職場復帰・リハビリ勤務問題を取り上げたい。

 

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2016年5月14日(土)10:51 上信越道横川SAにてデルフィニウムを撮影
花言葉:「清明」

 

 

第5回 注目すべきキャリア権
(2008年2月4日転載) 

 

 

今後の労働政策の中心

現代社会における「キャリア権」概念が、企業の人事労務関係・労使のみならず「働くこと」のあらゆる局面で検討されるべき重要なテーマであることは十分にお分かりいただけたと思う。「キャリア権」概念の今後の課題は、これを社会的にいかに認知させ法的にも実効性のあるものとして根づかせていくかということである。その前提として、今後は労働事象の万般において、「キャリア権」を十分に意識した判例理論の構築と労働法学説の再構築が必要となる。

 

人事権という概念は労働関係実定法には登場しないが、企業において組織法的展開が不可欠であるというところから実務上も判例上も認知されてきた経緯がある。このことは、キャリア権にも同様に当てはまるであろう。

 

実定法上は、雇用対策法等々にキャリア権の理念が登場し始めており、例えば募集採用における年齢制限を禁止している改正雇用対策法(2007年10月1日施行)の例外事由を定める施行規則1条の3第1項には、「長期勤続によるキャリア形成を図る観点から、若年等を期間の定めのない労働契約の対象として募集・採用する場面」(同3号のイ)等と明記されるなどしている。今後は、キャリア権は判例法あるいは学説等においても大いに認知され、労働関係の現代化を図る有力な武器として機能させるべきなのである。

 

▽「キャリア権」を肯定するシステムの構築を

「キャリア権」については、判例・学説・法制度・労働政策等が牽引役となって、「キャリア権」を肯定する社会的なシステムを構築しなければならない。さもなければ、「キャリア権」は個別企業からの忌避に遭い、決して実現し得ないだろう。まずは「キャリア権」を積極的に認定する方向に国が動き、一定のキャリアを構築した者には対価(然るべき給与)が保証されるシステムを構築しなければならない。厚生労働省の役割はこの点にこそあり、今の時代にあっては、労働組合問題等は二の次のテーマとなろう。即ち、個人の価値を増殖することにこそ、今後の労働政策の中心があるからである。

 

「キャリア権」を実効性あるものとするためには、「キャリア権」自体についての公認制度を定めなければならないと言える。この点、2007年11月16日に発表された厚生労働省「キャリア・コンサルタント制度のあり方に関する検討会」報告書(座長・諏訪康雄教授)は、働く者のキャリア形成の重要性を念頭に置き、専門職としてのキャリア・コンサルタント制度の構築を正面から提言している。

 

キャリア・コンサルタントとは、職業能力の向上や能力形成をめざす個人の抱える課題に対して、相談・支援を行う専門職である。2006年度末でキャリア・コンサルタントは4万3000人に達したというが、現状では、公的位置付けが与えられているとはいえ各養成機関による民間資格であり、玉石混交の感は免れないであろう。

 

同報告書は、キャリア・コンサルタントの「成果イメージ」を十分に描き切れていないとの指摘は聞かれるものの、統一的なキャリア・コンサルタント制度構築の意義を示したうえで、技能検定・能力評価制度的な統一的試験の導入を提言している。キャリア・コンサルタントに、「一定の能力水準にあることを公証するシステム」を用いることは、キャリア権概念を社会的に深化させ展開していくうえで極めて重要な具体策であろう。

 

非正規社員も対象に

▽企業と個人に求められる意識

キャリア権の社会的展開を考えるうえでは、次のことが因子になる。

 

第1に、企業の持つ風土・価値観等との、いわゆる相性(マッチング)の問題がある。個人も企業も、各々を取り巻く外部環境との互恵的関係を成立させなければ、「キャリア権」を認めたとしてもキャリアを通じた個人の幸せへはつながっていかない。

 

第2のテーマとしては、(1)個人に対しては「あなたは思想・信条・働き様・生き様等の働く価値観を他人に伝えられる明確な言語として保持しているか?」、(2)企業・組織に対しては「あなたの企業・組織は事業・ビジネスを行っていくうえでの価値観・こだわりを持っているか?」ということになろう。そして、個人は自己責任において、働く上でのWILL(夢・志)とCAN(強み・持ち味)を明確化せねばならず、企業は個人に求めるMUST(何をして欲しいか)の背景・必然性を人間社会および自然環境に対する価値貢献について明確にしなければならない。

 

▽安全配慮義務の上位概念

職人気質という言葉に代表されるように、日本人は昔から技を磨くことに熱心であった。これはまさにキャリア形成を意味している。企業の寿命が短くなってきた昨今、労働者のキャリア権の発揮のために企業は、社会人になってから学習の機会を求める労働者に、その機会を付与しなければならない。現在では、企業における夜学への通学の配慮が現実的課題として労務管理上しばしば登場しており、それを認めるべき方向に行きつつあることを労働専門家である者は誰しも気づいている。

 

「キャリア権」とは、安全配慮義務の上位概念である労働関係の保護義務が、本質的かつ具体的に展開された概念であると考えられる。労働者が職業能力を向上させキャリア形成をすることは、労働関係の本質的要素である人的・継続的な信頼関係を基礎として労働者に認められる利益である。このことは単に正社員だけの問題ではなく、非正規社員にも認められるべきテーマである。

 

企業は極力尊重すべき

本稿(上)で言及したとおり、「キャリア権」は労働権(憲法27条1項「勤労の権利と義務」)を踏まえた「職業選択の自由」(同22条1項)とも深く関係する。職業選択の自由のもともとの意義は、職業が生まれつき決まっていた身分制度を旨とする封建社会を否定する点にあるが、判例・学説によって企業と従業員間等でも保障されるべき権利となっている。そしてこの条文を現代的に読み替えるならば、その淵源は人間が仕事・職業を通じて人格形成を遂げることの重要性を明示した点に求められる。これこそが、職業選択の自由の根本的意義であると思われる。

 

そして、これをさらに推し進めれば、自由主義国家においては、自己責任でキャリア形成即ち人格形成を図っていかなければならないという当然の事柄を国民に示したということになろう。その結果、今後ますます企業は、従業員のキャリア権を極力尊重することになり、キャリアに対する配慮義務はいよいよ高まっていくことになろう。

 

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右から時計回りに
2016年5月4日(水)13:03西早稲田1にて鈴蘭を撮影 花言葉:「再び幸せが訪れる」
2016年5月3日(火)8:14中目黒公園にてカーネーションを撮影 花言葉:「無垢で深い愛」
2016年5月3日(火)8:08中目黒公園にて昼咲月見草を撮影 花言葉:「無言の愛、自由な心」

 

 

第4回 注目すべきキャリア権(中)
(2008年1月28日転載) 

 

 

法政大学諏訪康雄教授が提唱されるキャリア権の概念が、前回紹介したように社会的にも法的にも急速に認知されてきている背景には、仕事に対する意識の変化がある。つまり以前は、とにかく就職すること・職業に就くこと自体が資産であると考える傾向が強かったが、現在では、自らが興味や関心をもって本気で取り組むことができる、即ち自己実現できる分野でのキャリア形成を目指し、人材としての価値をより高めようとする意欲が強くなってきている。ソフト化の時代には、組織内雇用そのものへの固執より個々人自身のキャリア展開が志向される傾向が強まるのである。

 

こうした変化は、企業にも社会全体にも成果主義的な評価が定着し、組織の中にあっても「個」としての能力が問われる時代になったことの反映である。どの世界での成果を上げて競争を勝ち抜くには非常な努力が必要となるが、「志」に支えられたパッションとも言えるような強い気持ちがなければ努力を継続して仕事をやり抜くことはできない。そしてこのパッションは、仕事への興味や関心や使命感等の内面にこそ支えられるものなのである。

 

人脈一覧表で内実探る

職業の選択にあたって、興味や関心を持てるか否かという基準が重視されるようになったことに伴い、キャリア権が一段とクローズアップされていくことは間違いない。仕事へのモチベーションが短距離走のエンジンであるとすれば、キャリアは長距離走のエンジンなのである。

 

日本のプロ野球選手のメジャーリーグ(MLB)への進出が顕著である。プロフェッショナルとしてのパッション、モチベーション、自己実現欲求からみても当然であり、日本のプロ野球界が選手のキャリア形成というものを軽視してきた結果とも言える。プロフェッショナル度が高い職業ほど、キャリア権は使用者のコントロールの枠組みをたやすく超えていく。併せて、本人のキャリア形成に関する客観的なアドバイザー機能が一層求められることになる。

 

例えばMLBの例で言うと、球団と選手との契約交渉には選手の代理人が必ず登場して、選手のキャリアアップをサポートする。松井秀喜や松坂大輔らの代理人は、本人の能力やチームへの貢献可能性を把握しMLB球団と条件交渉しつつ、彼らの語学習得や子ども教育への配慮までするという。これからは、日本のプロ野球のみならず日本の企業においても、MLBでの選手の例のようなキャリアのサポーター・アドバイザーの存在が必要になってくる。

 

また、キャリア権は企業における全ての労働関係の事象において展開されるべき基本的な論理である。諏訪先生が論文等で判例理論にも言及されながらキャリア権との関連性を解説されているのは「就労請求権」「配置・配置転換・出向・転籍」「年次有給休暇」等であるが、もちろんこれらにとどまらない。労働関係の基本的項目だけに限っても、(1)採用、(2)評価、(3)人事異動、(4)解雇等の局面でも問題となり得る。

 

(1)採用について

「採用」においては、①採用内定取消、②試用解約、③採用差別禁止等がキャリア権の問題と関連するが、ここでは採用の端緒である応募者からの提出書類に着目してみる。

 

日本の企業では、新卒採用と中途採用を問わず応募者に履歴書の提出のみ求めるのが通例であったが、近時では中途採用の場合には履歴書のほかに職務経歴書も提出させるのが普通になっている。職業キャリアを意識しての現象であり、職務経歴書の内容が採用・不採用を決するほどの重要な役割を担いつつある。そして職務経歴書にとどまらず、「人脈一覧表」の提出を求める企業もある。この試みは、経歴の中で「どのような人と交流・協働しながら、どのような価値貢献を果たし、結果としてどのような人の信頼を得たか」ということの重要性を意識するのみならず、応募者の職務経歴の真実性を探索する意味もある。要するに本人の単なる履歴ではなく、内実としての職務歴を承知しなければ、応募者の業績・人柄への信頼性の有無を正しく判断できない。採用内定取消等について詳述する紙幅はないが、それらはまさにキャリア権と直接にかかわりを持つものである。

 

「首切り」による断絶

 

(2)評価について

人事労務の基礎的概念である「評価の公正さ」如何は、キャリア権の侵害の有無という観点から判断されるべきである。

 

この点に関する海外の具体的事例として仄聞したのは、1980年代の西ドイツ(当時)の例である。従業員が円満退職で転職する際にはその者の職務経歴について、「どのよな仕事に就き、成績はどうであったか」等の証明書を元の企業が本人に交付し、次の企業では同じ職種でのキャリアが同様に認められる制度を国が保証していたという。次のキャリアを求めての転職が珍しくなくなっているわが国でも、こうした制度は検討に値するであろう。

 

その他の「評価」についても、キャリア権が機能している場面が数多くある。

 

(3)人事異動について

人事異動権の濫用について、現在の判例も学説も企業の業務上の必要性を判断する際に労働者の家庭事情等を斟酌するというパターンが定着している。しかしそれはあまりに矮小な世界である。人事異動権についても、労働者のキャリア権との対比において業務上の必要性の有無をまず論じるべきであるというのは、極めて正当な理論である。

 

米国等諸外国の例であるが、社内の空きポストが出ると、まずは社内で公示して社内からの希望者を募集することを企業側に義務付ける制度が確立しているという。これはキャリア権の発露の一場面として、わが国でも即実行可能なシステムであろう。この場合、本人の自己責任がキャリアアップの基本であるが、本人の希望を人事部門に自己申告させ、空き席の有無および人事部による適性判断でこれに応え得る人材と評価できる場合には、まさに自己実現への第一歩に近付くことになる。

 

(4)解雇について

解雇は「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」(労基法18条の2)は権利の濫用として無効になることも、キャリア権が大きく機能する事象であるといってよい。

 

日本人は解雇されることを「首を切られる」と慣用的に表現する。労働者にとって労働契約の解消がまさに「死」に値するという意味が込められているのだろう。そしてこれをキャリアの観点からみると、解雇によって本人のキャリアが今まで生きてきた組織内で断絶・中断されることはまさにキャリア発展を決定的に阻害する行為であり、実態を的確に示す表現であると言える。かくして組織を離脱することが「首切り」=キャリア断絶にならないような社会的仕組み作りが必要とされている。

 

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2016年5月3日(火)8時過ぎに中目黒公園にて撮影 上から時計回りに
椿 花言葉:「完全なる美しさ、至上の愛らしさ」
薔薇 花言葉:「嫉妬、友情」
ネモフィラ 花言葉:「どこでも成功」 アルメリア 花言葉:「思いやり」




第3回 注目すべきキャリア権(上)
(2008年1月21日転載) 

 


「知識労働者にとって仕事は生き甲斐である」(P・F・ドラッカー著『ネクスト・ソサエティ』)―この至言ほど、企業とそこで働く人びとに仕事の意味を示し、共感を得る言葉はないであろう。そして、このテーマを法的に説き起こしているとも言えるのが、「キャリア権」概念なのである。

 

キャリア(career)権は、労使関係論・雇用関係論はもちろん労働法学をも新たに基礎づける概念として、法政大学諏訪康雄先生が10年ほど前から構想されている画期的な権利概念である。現代では職業キャリアこそが働く者にとっての「資産」であるという視点から、キャリア権とは、職業をめぐる人間の自己実現の権利であり、「働く人びとが自分なりに職業生活を準備し、開始、展開することを基礎づける権利」であると定義されている(諏訪康雄「キャリア権の構想をめぐる一試論」日本労働研究雑誌468号<1999年>、「キャリア権は何をどう変えるか」同544号<05年>等参照)。

 

諏訪教授によれば、この権利は、理念としては憲法に根拠を求めることができるという。まずは憲法13条(幸福追求権)が最も根本的な基礎となり、さらには、22条1項(職業選択の自由)、25条(生存権)、26条(教育を受ける権利・学習権)、27条1項(勤労の権利と義務)等が根拠になるという。

 

素晴らしい着想と評価

実定法上も判例上も未だキャリア権という文言は登場しないものの、雇用対策法3条、職業能力開発促進法2条4号、男女雇用機会均等法2条、労働者派遣法25条等々では、キャリア権を念頭に置いた「職業生活」「職業生活設計」等の文言が用いられ、次第に具体的内容あるものとして展開されつつあるという。また、教育基本法3条、学校教育法21条10号等も職業キャリアを十分に意識した規定であるといえよう。

 

人事労務問題専門の弁護士として45年以上の経験を持つ私にとり、コロンブスの卵とでも言おうか、このいたってシンプルかつ明快なキャリア権概念には目から鱗が落ちる思いがした。

 

かつて、私は拙著「人事権の法的展開」(1987年有斐閣出版サービス刊)において、企業と労働者との労働契約関係を法律的に構成するには“組織法的な視点”が不可欠であるという理論を展開して人事権を構想した。これは当時は理解されにくかったかもしれないが、近年次第に認知されつつあると言ってもよいだろう。例えば、菅野和夫先生は「労働法(第7版補正2版)」66頁で、「労働契約による労働は企業という事業遂行の組織体の中で行われるので、使用者による労働者の組織的管理(いわゆる労務管理)が行われる。すなわち、使用者は、事業の効率的遂行のために労働の組織を編成し、そのなかに労働者を位置づけてその役割を定め、さらに労働の能力・意欲・能率を高めて組織を活性化するための諸種の施策を行う。これが、いわゆる人事権の中心的内容である」とし、組織法的視点の意義を説かれている。

 

キャリア権は、こうした構想に匹敵あるいは凌駕する素晴らしい着想であると評価し得る。総人口も労働力人口も既に減少局面に突入しているわが国においては、労働生産性を向上させることが喫緊の重大テーマである。企業における人事労務は、成果主義を前提としたうえで、改めて「集団主義」の意義を認め、連帯してチームワークで仕事をする利点を見直す必要に迫られている。個々の労働者の能力も組織としての業績も、相互に高め合いながら向上するためには、「組織法的理論」と「キャリア権」という2つの概念が共に必要不可欠となる。

 

思えば、私がキャリア権に直感的ともいえる大いなる納得感を抱いた遠因は、少年時代に読んだリンカーン伝にあるかもしれない。彼は大統領に選出されたとき、人事の推薦をしてきた者に向かって「あなたが推す人は卑しい顔をしているから登用できない」と極めて明快に回答したという。リンカーンは「責任ある仕事を為し遂げた経験は、必ずその人の容貌に表れる」と喝破し、“仕事が人を作る”という事実を端的に示した。

 

キャリア権概念は、仕事で得た経験知こそが、単なる財産に留まらず人格的な「資産」・法的保護に値する「資産」として評価されるべきであるとするが、この点こそが企業がキャリア権を意識しなければならない第一の理由であるといってよい。

 

諏訪先生に直接お会いしてキャリア権についてご教授賜り、私はそれまで自分が執筆等で展開してきた考え方への明解な理論付けを与えていただいたと感じ、得心がいった。

 

従属労働からの脱却

パスカルの言葉「人間は考える葦である」が名言として残っているのは、独創的に「新しく考えること」が非常に難しいからでもある。フットワークからヘッドワーク、そしてハートワークへと移行していく現代社会の状況をみるにつけ、単なる考える葦ではなく、それこそキャリア権という抽象的な概念ではあるが、それを認定して、様ざまな形で労働関係の規律を構想すべきであるという指摘は極めて優れたものである。

 

ところが、労働法学者は諏訪先生のこの素晴らしい着想に対し反応が鈍いというのが実情であるという。最近では幾人かの学者はこれに着目するようになったと伝えられるが、労働法学者の本流が、労働関係の根本的な価値であるキャリア権を無視あるいは冷笑し続けることは遺憾である。小生は、諏訪先生ご提唱のキャリア権の定立のために、ささやかなお手伝いをしたい。それは労働者の権利概念という小さな枠を超えて、日本の産業社会の発展に資するものと確信するがゆえである。

 

キャリア権が学会で注目されていないことは、使用者がキャリア権を忌み嫌う所以をともなっている。しかし、労働者の自立性を確立し、従属労働からの解放を目指すという労働法の根本理念の実現のためには、このキャリア権概念を認知していくことこそが、実は全勤労者のあるべき姿を実現する手法であり、そして、全勤労者の自立を促すことこそが、産業社会の生産性を高め、企業が社会的な役割を一層果たすことにつながるのである。キャリア権のこうした機能に着目すれば、使用者がキャリア権を積極的に肯定する努力をしてこそ初めて、日本の産業社会は新しい時代を迎えることができると言えるのである。

 

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2016年4月9日(土)14:19 長野県旧開智学校にて桜を撮影


 


第2回 格差問題の根本原因(下)
(2007年9月24日転載)


 

 

矛盾・軋轢を乗越えて

前号で指摘したとおり、自由主義社会はもち論およそどのような社会であっても、程度の差こそあれ「格差」は必ず存在する。そして、企業内における格差は、人の集団=組織につきものである矛盾・軋轢・相克・葛藤等を生み出す大きな要因となる。企業経営にとっては、これら“きしみ”を乗り越えて、いかに従業員全体に一体感を醸成し、企業理念・事業目的の実現に邁進する態勢を築くかが、人事労務上はもち論経営の最大のテーマであると言ってよい。それゆえ、企業は内なる「格差問題」に十分に意を用い、企業活力を削ぐような分裂を回避するシステムを構築しなければならないのである。

 

そこで、個々の「格差」の存在を前提とした上で、企業が活力を持ち続ける方策を探っていきたい。

 

企業組織の一体化を図るには、①「競争的解決」と②「協調的解決」という2つの対照的な選択肢がある。従来の日本企業の人事労務は、協調的解決を旨としてきた。その行き過ぎた現象が、年功序列主義やいわゆる護送船団方式である。これらは「協調」を重視する余り、競争を阻むこと自体をも目的化してしまい、組織に“ぬるま湯”状態を作り、日本社会の衰退の根本原因ともなった。その反動として、90年代半ば頃から、成果主義に代表される「競争的解決」が企業に導入されるようになった。成果主義は、個としての従業員らに仕事の成果を競わせ、積極的に格差をつけることで組織を活性化し、一体化を進めようとした。

 

しかし、企業活動には、従業員らが統一的意思のもとに団結して勝ち抜くことが必須であって、これは競争的解決である成果主義と必ずしも両立しない。組織が窮地に陥ったときに、「打って一丸となりこの難局を乗り切ろう!」と呼びかける経営者の言葉にこそ、企業の本質がある。つまり、「様ざまな対立の中で、肯定点を見出して前進し続けることが、新しい舞台に到達するための原点である」としたヘーゲルの言葉のように、競争的解決をとっても、結局は協調的解決を図らなければならないのだ。協調的解決を旨とした人事労務が破綻した今日、これからは競争的解決をも期さなければならないことは時代の必然であるとしても、双方の両立を目指す仕組みを実現しなければならない点に、特別の難しさがある。

 

その見直しのヒントは、日本の社会でかねて意識され発展してきた「どう道」の精神にあるように思う。武士道、柔道、剣道、華道、茶道等々に倣い、物事の在り方の本道を追究する姿勢を、企業における全ての分野に確立していくのである。この「どう道」という発想は、同質的かつ協調的な「和」を尊ぶ社会・組織に身を置きながらも、人間の成長の根源である「向上心」を存分に発揮させるための装置であると言える。そこには、同調性の中で道を究めるために技と精神性を磨き、他社とも競い切磋琢磨する姿がある。「どう道」とは、言わば「協調」と「競争」とが高次元で結ばれ一体となった世界である。そしてこの考え方は、競争的解決を旨とする現代社会でも十分通用するのである。企業においては、確固たる企業理念こそが、競争と協調を両立させる触媒となるであろう。

 

教育行政の無策が響く

さらに、いかなる職種・企業であれ、従業員各人に仕事に対する「誇り」と「志」を確立させなければならない。かつての日本人は、どのような職種に従事しようとも、自分の役割を立派に果たすことで企業や社会が成り立っているという誇りを持ち、自己実現していた。最澄の「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という思想が、無意識のうちに人々の行動規範に取り込まれていたのである。ところが今は、「誇り」や「志」は失われ、仕事を遂行する態度にも「その場しのぎ」「事なかれ」「成り行き任せ」の姿勢が蔓延している。

 

フリーターやニートと呼ばれる層が増えたのは、仕事に対する誇りを教えずに放置したわが国の教育行政の無策の結果であるといってよい。幼少期から、「一隅を照らす」の思想を実践し、仕事に対する誇りを持たせることこそが教育の原点であり、そうした教育カリキュラムを実施することが、絶対的に必要なのである。

 

また、マニュアル経営やシステム経営に偏った日本の企業研修の方法では、矛盾発券能力はもち論、問題発見能力・問題解決能力・実行力がない人物ばかりが生まれる。これは、「どう道」のレベルとは程遠い。それぞれの従業員に誇りと志を育成するとともに、それぞれの独自性と総体としての企業文化を育成していかなければ格差問題は到底解決できないであろう。

 

個々の能力に応じて格差が生じるのは当然であることは、「公平・公正な評価」の重要性が一層高まることを意味する。「公平」とは企業内の秩序として適切であるということであり、「公正」とは社会的秩序において合理性を失わないということである。もし評価が正しく行われないのであれば、格差に対する怨嗟の念が生じて、従業員らはやる気・意欲を失うであろう。これまでの日本は、年齢や勤続年数という安易な基準を用いて納得感を得ようとしてきた。しかし、グローバル化が進み、知的労働の比重が高まるにつれて、年功序列的な基準は日本の発展を妨げる問題として認識されてきている。

 

では、評価の在り方を再分析し、公平かつ公正な評価システムを構築するためにはどうすればよいのか。それには、①まず評価は主観であると割り切り、客観的な評価など有り得ないということを明確に意識する。②そのうえで、その主観が恣意に亘らない公平・公正なものであるための方途を考える。主観から恣意性を排除し、判断の公平さ・公正さを担保するためには、司法制度が大いに参考になるだろう。ⅰ「法治主義」に倣い、「就業規則」等の規定類の内容を整備し、遵守する、ⅱ裁判の「合議制」に倣い、複数の人間が評価を行う制度にする、ⅲ裁判の「三審制」に倣い、不服申し立ての制度を作る、ⅳ裁判の「公開原則」に倣い、評価の透明性を確保する。

 

こうした工夫によって公平・公正な評価が得られれば、格差があってもそれを納得して受け容れ、働き甲斐・生き甲斐を感じながら、より生き生きと働くことができるのである。また、評価を通じて仕事に対する誇りや自分の技能・技術に対する独自性や優位性を確立していくことは、個人の努力のみに依拠してはならない。企業内でも、キャリア教育を熱心に実践して、職業人としての誇りや、これを支える独自の企業文化を形成するために、仕事の上(on the job)で教え込む必要がある。企業経営に携わる者は、「教育」と「評価」に時間を割き、費用と手間を惜しまないことが従来以上に重大なテーマであるという意識を持つ必要がある。

 

競争的解決か協調的解決かということに始まり、職業に対する誇りと技能と技術を究める「どう道」の視点や、評価の問題、キャリア教育の重要性について述べてきたが、これらの精神を貫徹することを通じて、格差問題を克服できる方途が初めて緒につくことになるだろう。

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2016年3月27日(日)9:56 千葉県香取市佐原にてクリスマスローズを撮影
花言葉:「追憶、慰め」

 

 

 

第1回 格差問題の根本原因(上)
(2007年9月17日より転載) 

 

 

 

結婚の自由がある限り

ワーキングプアという新しい社会問題やこれまでは馴染みの薄かった「ジニ係数」なる専門用語がマスコミを賑わすなど、先進諸国のみならずわが国でも所得格差・教育格差・医療格差・情報格差・地域格差等をめぐる議論が盛んになってきた。その中には格差是正の必要性を強く唱える論調もあるが、格差とはそれほど忌避すべき現象なのか。今の議論は感情論に偏っていないか。そして、格差問題の本質とは何か。これらについて、小生なりの視点から2回にわたり問題提起を試みたい。

 

誤解を恐れずに言えば、結婚の自由がある限り、格差は絶対になくならないというのが小生の持論である。性の結合において絶対的選別(自由)を許容する社会では、格差は拡大するのみである。憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」と定め、また民法の婚姻に関する規定もこの趣旨を前提とするものである。そして、これはおよそ現代国家の常識となっている。

 

しかし、結婚とは人間の社会的営みであると同時に、DNAの追求という生物学的な意味に本質があることは否定できない。したがって、優秀な者同士が結婚すれば優秀な子孫が生まれ、結婚と次世代の育成を通じて格差は拡大再生産されていく傾向がある。DNAの重要性は、競走馬や盲導犬等、特別な能力を求められる動物を見れば歴然としている。一夫一婦制の婚姻形式が確立した今日では、格差は必然的な現象であると言ってよいのである。生殖の相手を自由に選別できる限り、より質の高い相手を伴侶にしたいと願う人間の本能的な向上心と相俟って、格差の拡大は決定的となる。そして、その格差は、さらに次世代の教育格差等へとつながっていくのである。

 

結婚問題に加えてさらに身分関係における格差を拡大させるのは、相続問題である。相続によって親から受け継ぐ資産の有無で格差が生じる法律制度は、格差を当然視しなければならない基盤であろう。相続税率を高くすれば格差はある程度緩和されるかもしれないが、それでは努力して財産を築こうとする人間のやる気を失わせ、チャレンジ精神を減退させることに気を配る必要がある。

 

拡大しつつある能力差

結婚と相続が格差を生み出す社会的仕組みであることに加えて、格差を増幅させていく根本原因は、人間としての自立心・向上心の有無に他ならない。向上心には競争心が内在するものであるから、この自立心・向上心を目的に向かって強く発揮する者のみが困難を乗り越えて成功を勝ち獲る。格差拡大はもはや紛れもない事実であり、自由主義社会における必然である。格差問題は、是非論ではなくこうした事実認識から始めなければならない。そのうえで国として企業として個々人として、どのような対策を講じるべきか十分に検討することが必要なのである。

 

格差現象は何も今突然に始まったことではない。人間の文明は、「フットワーク」(足)から「ヘッドワーク」(頭脳)へ、そして更に「ハートワーク」(心)へという過程を辿ってきており、この価値基準の変遷は、まさに個々人の能力差や資質の格差を拡大させる方向での移行であると言える。人間の機能の中では、その進化の前身であった動物としての”四本足の時代”から備わる原始的機能=「足腰」が最もよく発達しており、その次は前足が進化した「手」、その次は直立することによって発達した「頭脳」である。

 

こうした発達の順序から見て、「頭脳」は強靭さという点において他の機能と比べて未熟で、発達の伸びしろが大きい機能であると言える。そうであるがゆえに、頭脳が未熟でない者と未熟である者の格差は、「足腰」や「手」の使い方レベルとは比較できないほど甚大になるのである。これが「心」のレベルとなれば、心は頭脳以上に未発達であるがゆえに、もたらされる格差は測り知れず、心の時代・ハートの時代になってくると、人間の格差はいよいよ如何ともし難いほど拡大する。

 

上質な人との上質でない人との差は量的な格差ではなく、まさに、”神に近い存在”と”動物的な存在”との違いとも言うべき”質的格差”として意識されるからである。格差は人間の向上心の産物であるがゆえに不可避であり、これはハートワークの時代になればなおさらのことであって、より神に近い存在が尊ばれ、またそれが社会的に尊敬され、人間の高尚さへの憧れは限りないものになっていく。そして、経済的な格差も、人間としての高尚さによって一層増幅されるようになるであろう。

 

現在は主にヘッドワークの時代であり「頭脳」の働きという価値基準によって格差が生じているが、来るべきハートの時代には、上質な個人・企業等がますます尊ばれ、そこに富が集中することになるからである。こうした厳しい現実を踏まえて、個人も個別企業も、独自性と独創性を以って成長していかなければならないが、これはまさにハート(良心・善意・成長への意欲)の機能をいかに発揮するかにかかっている。

 

自分を見限り絶望感も

今後も格差は拡大し続ける。それはハート・心のレベルの違いは各人間で極めて著しいからである。その格差に打ちひしがれて希望を持てなくなり、自分を見限り絶望感を抱く者すらいる。そうなると人間としての存在意義も失いかねない事態となり、ここに国としての「底上げ策」が必要となってくる。格差を是認せざるを得ない中において、格差社会から取り残される者にチャレンジ精神を植え付けるのが底上げ策である。教育機会の平等、税制改定、セーフティネットの整備等々各分野で底上げ政策が求められるが、それらは格差の縮小にある程度寄与しても、格差拡大の潮流を解消することはできない。底上げ策は、格差の底打ちを可能にする道を模索して、”底なし沼”に陥らせないための保全の手続きであり、成長の意欲を喚起するものでなければならない。

 

豊かで魅力的な国とは

その意味で、格差の真の底上げ策は、新しいフィールドを絶えず構築する以外にない。新しい分野・地域・テリトリーを打ち立てて、そこで活躍する場を与えるのである。日本には「土俵を変える」という言葉がある。土俵とは自分が拠って立つ場所であり、稼ぐ場所でもある。今の土俵でうまくいかなければ、別の土俵へ行ってみよう。競争の少ない土俵を探してみよう、自分で土俵を作ってみよう、左脳ではなく右脳の活かせる土俵、ルールの違う土俵、自分を必要としている土俵を見つけよう等々、土俵を変える方法が多い国ほど豊かで魅力的な国と言えまいか。

 

既存の社会では、格差はどうしても固定してしまう。ここに実は、グローバル化の波に乗って、日本が世界に羽ばたかなければならない所以がある。国が世界の地理的・経済的状況を眼下に納め、日本国内では上昇できず格差に喘いでいる人たちに新天地での経済的成長と精神的成長を求めさせ、希望を抱かせる施策を取ることこそが、確実な底上げ策につながると言えるだろう。

 

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