<イッピン>の最近のブログ記事

<イッピン> オーダーメイドハンドバッグ

「ペレッテリア(pelleteria)」-東京都豊島区雑司ヶ谷

 

20192251.JPG

「ペレッテリア」はイタリア語で「革屋さん」の意

「ペレッテリア」を知って5年ほどになる。店主の圓山省吾氏の手になる、オーダーメイドハンドバッグの店だ。雑司が谷に、白と青を基調にした瀟洒な佇まいである。

きっかけは、事務所参与の亀梨伸夫氏が手にしていたバッグだった。10年来の愛用品だというそれは、鮮やかな色遣いながら端正で、それだけで成立した世界感を持っていた。革の風合いも年を経て実に素敵、何も聞かずにおくのはもったいないと瞬時に感じた。

 

店主の圓山氏は、もの作りを心から愛する方だ。朴訥として誠実、話をしてすっかりファンになった。

「オーダーされるバッグにはそれぞれストーリーがある。そこがいちばん大切なんです。そのお客様の思いを汲み取り、喜んで頂けることだけ、それだけを考えてイメージをいっぱいに膨らませデザインしています」とおっしゃる。もちろん、好みや使い勝手に資する仕掛けにも細やかに応えてくれる。

実は、亀梨氏の話を聞いて、孫娘にプレゼントしようと訪問したのが最初、以来、小生も仕事用のバッグを作っていただき、今や体の一部かのような風情で、いつも側にある。

「物理的にメンテナンスをしていても、革の風合いは持つ人様々。革には、その人の生きざまがそのまま現れるんです」とは、蓋し名言である。

 

昨年暮れ、久しぶりに亀梨氏とともにお店にうかがった。変わらない笑顔であたたかく出迎えてくださった圓山さんに、今の夢を聞いた。即座に、「この仕事を死ぬまで続けることです。他に何もないんです」と答えられた。圓山さんのお人柄がそのまま映された言葉だ、と思った。

過去に、「才能とは何か」をデザインの師匠に尋ねたところ、「難しいことを聞くなあ、でも、その仕事を最後までやりとげたら、それが才能があったっていうことかな。」との言を聞いて、思い至ったという。

いつも真摯に「人とデザイン」に向き合い、寄り添う。なるほど、亀梨氏のように「圓山さんに作ってもらったもの以外、持たなくなった」「圓山さんだから、作ってもらいたい」という人がきっと多いはずだと得心した。

 

今は、それ以上できないとおっしゃる年間100件前後のオーダーを受け、イタリアからの厳選した革を用いて制作されているという。店の奥、まさに「職人の工房」といった風情の空間に、色とりどりの革や糸、工具が整理整頓されており、そこを見るだけでも作り手の心持ちがうかがわれ、生み出されるものへの期待感が高まる。リピーターはもちろん、遠くは山口や大阪、愛知などからも訪れるファンを持つ氏だが、「師匠にはまだまだ及びません」といたって謙虚、そんな氏のますますのご活躍を願い、微力ながら、氏の夢の後押しができたら幸せに思っている。

 

中学生の職業訓練がきっかけとなって始めたというワークショップ、居酒屋ならぬ「居革屋」にも老若男女が訪れ、目をきらきらさせてもの作りを楽しんでいると、実にうれしそうに話してくださった。

イッピンを生み出してきた氏の手から、またどんな創造が生まれていくのか、楽しみでならない。

 

【ペレッテリア】 http://pelle-teria.com/

 

 

201902252.JPG

圓山氏と。趣味も広くお持ちで、様々な経験値に裏付けされた魅力的なデザイン

 

 

 

 

 

 

201902253.png「悩んで絞り出したデザインでよかったためしがない。だめな時は寝かしておくんです」

これだ、というものは目覚めの時に湧いてくることが多いそうだ

 

 

 

 

201902254.JPG

こんなカード入れも。
「普段から20~30色の側を用意しています」

 

 

 

 

 

201902255.JPG

201902256.JPGデザインのほんの一部。右の白のバッグは「タマネギ型」

 

 

 

 

 

 

201902257.JPG 
このリュックは、制作時間40時間ほど。たっぷり入り、スーツにも持てるデザイン

 

 

 

 

 

 

201902258.JPGのサムネール画像

奥に作業場が見える。ここから「イッピン」が生み出されていく

 

 

 

 

 

 

 

201902259.png

「居革屋」での制作品

 

 

 

 

2019022510.JPG

 

過去の作品はすべてファイルしてある。「これ、以前娘が作っていただいたものです」と亀梨氏

 

 

 

2019022511.JPG

 

亀梨氏が小脇に抱えているのが、開店当初に作った愛用のセカンドバッグ、16年もの。
「使い込むほどに革の表情が変わっておもしろい」

 

 

 

2019022512.png

8歳の誕生日、孫娘にプレゼントしたバッグ。
「明るいのがいいな」とオーダーした。
圓山さんが小生の想いに寄り添って作ってくださった、
大切なもの

 

※ペレッテリアの圓山様には、取材等々お力添えをいただきました。ありがとうございました。

<イッピン> 中村鳳仙先生「書」


<イッピン> 中村鳳仙先生 「書」

 

20190129.jpg

 

―石はしる 垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になりにけるかも―

 

一昨年、私の80歳の誕生日に開催した出版記念パーティで、来場者の皆様にお配りする記念品の作成を、書家の中村鳳仙先生にお願いした。

先生が書いてくださったのは、青葉の薫る季節にぴったりの、冒頭の志貴皇子による万葉集の歌であった。

流れるような美しい文字と緑のグラデーションが配された和紙が黄金の色紙に映え、とても爽やか。いただいた人を喜ばせる素晴らしい作品であった。

80歳の誕生日に、以前から尊敬していた鳳仙先生に、このような作品を作っていただけたことが、とても嬉しかった。

 

私が、中村鳳仙先生と初めてお会いしたのは、先生が20代、私が30歳の頃であったが、先生はその後、めきめきと頭角を現していった。世界で7回の個展が開催され、高い人気を誇っている。その受賞歴の華々しさは圧巻である。

 

鳳仙先生の作品は、大胆な構図で生き生きとした力強さがありながら、女性らしいしなやかさや繊細さも併せ持ち、観る者の心を打つ。

先生ご自身も、押しも押されもせぬ大家でありながら、いつも柔和でにこやかで、お会いすると、ほっとすることのできる素敵な方である。

 

私が仲立ちをして、講談社野間記念館に、山部赤人の歌「田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」を書かれた鳳仙先生の作品を寄贈いただいたことは、一美術ファンとして非常に誇りに思っている。

 

先生が、お体に気を付けながら今後も精力的に活躍をし、素晴らしい作品を生み出し続けていかれることを願っている。

より多くの方々に鳳仙先生の作品を見ていただくため、私も陰ながら応援し続けていくつもりである。

 

中村鳳仙先生のHP「鳳仙花」 http://hosen-nakamura.com/index.html

<イッピン> 日本酒「三千盛(みちさかり)」-岐阜県多治見市笠原町


20181213.jpg

 

事務所の近く、靖国神社南側の路地にある蕎麦の名店「大川や」でこの酒に出会った。

もちろん、蕎麦を楽しみに行ったのである。とはいえ差向き蕎麦前で何気なく一口、

しかし、その一口に驚いた。

洗練された含み香と、広がるやさしい甘み。しかしさらりと後味が切れ、食事の味を全く邪魔しない。なんと上品な余韻だろう。スパッとした辛口だが、風味も香りも豊かな酒はそうそうないと感じ入る。

 

聞けば、江戸安永年間の創業より約250年、辛口一筋、甘口全盛の時代にも方針を曲げず、かたくなに「理想の辛口- 旨味と切れ味の両立した酒」を求める姿勢を守り抜いてきた蔵元なのだという。

雑味なく水のように喉元を通り抜けて酔い覚めのよい、しかし酒独特の旨味が溶け込んでいるその味は、作家の永井龍男氏をも魅了したそうだ。

「岐阜に旨い酒あり、先祖伝来の辛口を守って、まやかしのない、正直一途の商売を通してきた酒造りである。この頃、いろいろな品に『手づくりのよさ』というが、この酒こそ手づくりの味だよ。」とは、氏の残した談話である。

辛口党のファンを魅了し続け、「辛口といえば三千盛」と知られるようになったその酒は、そうした一途な情熱こそが作り上げてきたものなのだろう。

 

感動した酒の話をしたところ、実は、小生の知人にも「三千盛」の愛飲家がいた。JPアセット証券株式会社 代表取締役社長の志村仁氏、元東京12チャンネル人事部長の武井良夫氏である。

お二人は大の愛好家らしく、「吟醸酒はもちろんだが普通酒もなかなか。燗でもきれいな味わいそのままに、甘みが膨らむ。」と口を揃え、「三千盛」愛を語ってくれた。特に御年83歳になられる武井氏は、40年ほど前、この普通酒に巡り合ったとき、「やっと恋人を探し出した」ような気持ちになったそうだ。今も365日、燗で愛飲されており、氏の長寿の源、百薬の長、だそうである。

 

お二人のような通をもうならせる、伝統の技でつくられたイッピンの日本酒。

「毎年、同じことを繰り返す。緻密に厳格に、同じことを繰り返す行為のすごさ・むつかしさ」とは、杜氏の方の言だが、その中で技術が磨かれ、また新たな「三千盛」が育まれていくのだろう。

岐阜多治見、山々に囲まれた水清らかな盆地で生まれた酒は、今や、イギリスをはじめとしたヨーロッパやアジアへも羽ばたいているそうだ。

 

「イッピン」に出会うたび、その伝統を守り続け、また、そこから新たな創造を生む努力をされていることに尊敬の念を抱く。「三千盛」も、まさにそうした「イッピン」であった。皆様も、迎える新春に一献、いかがでしょうか。

 

「三千盛HP」http://www.michisakari.com/

 

※なお、お写真の掲載、上記HPアドレスの掲載に際しましては、株式会社三千盛様よりご許可をいただきました。ありがとうございました。

 

<イッピン> 八幡馬―青森県八戸市


<イッピン> 八幡馬―青森県八戸市

 

 

2018031501.jpg

 

 

小生の執務室に馬をかたどった華やかな置物がある。八戸の民芸品「八幡馬」だ。

見ていて飽くことなく、大切にしている。700年の歴史をもち、三春駒(福島県郡山市)、木下駒(宮城県仙台市)と並び日本三駒の一つに数えられるこの馬は、当地では結婚祝いや新築祝い、七五三に重宝されてきたそうだ。

 

作者は四代目大久保直次郎氏。鉈一本で仕上げる「鉈削り」の伝統技法を受け継ぎ、50年にわたり伝統的八幡馬を制作しておられるただ一人の方である。

氏のことを知ったのは、日本経済新聞文化面の記事であった。生涯作り続けると仰るそのお心と「八幡馬」の素朴な美しさに魅かれた。

実際手にとってみると、魂のこもった像であることがありありと伝わってくる。どっしりとして勇壮、しかし気品があり、うつくしい。これが1キロもある大きな鉈一本で切り出されたとは、とその技に驚くばかりであった。

 

2018031502.jpg

 

2018031503.png

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実は、この「八幡馬」は、明治の代より八戸市郊外の櫛引八幡宮の祭典のとき、その境内だけで売られるものである。二頭の八幡馬は、当地の寿司の名店、八戸重兵衛の女将でいらした旧知の伊藤孝子氏のお世話になり、晴れて小生のもとにやってきた。ご縁がまた新たな縁につながったことに感謝している。

 

大久保氏のご息女が、お勤めを辞して八幡馬の制作を始められたとのこと。八戸の風土に根ざし、当地の生活様式とともに伝承されてきた伝統ある「八幡馬」が、こうして人と人をつなぎ、地域と地域をつなぎ、これからも普遍的な価値をもって氏の精神とともに受け継がれていくのだろうと思う。

 

「目標は死ぬまで作るということ」と語る大久保氏にいつかお目にかかり、氏の手になる「イッピン」を前に、様々なお話をうかがいたいと願っている。

<イッピン> たてしなップル


<イッピン> たてしなップル

 

 

20180215DSC00183.JPG

 

 

昨年12月9日、NPO法人信州まちづくり研究会 副理事長の安江高亮氏に案内していただき、長野県北佐久郡立科町を訪れた。

 

そこで、カフェandワイナリー「たてしなップル」に伺ったところ、人生で初めてシードル(りんご酒)をいただき、その味に大変感動したので、本ブログで皆様にもご紹介したいと思う。

 

立科町は、日本百名山のひとつ蓼科山の麓に位置し、白樺湖、女神湖という二つの湖を要する標高700mの丘陵地である。年間の平均気温は10.0度と冷涼で、1日の温度差や1年の温度差が大きく、また、全国屈指の寡雨の町でもあるため、りんごの栽培に非常に適した土地といえる。

 

シードルには辛口と甘口があるということで、小生は辛口をいただいた。

製造に当たっては、完熟りんごの中から特に高糖度のものを選ぶなど品質にこだわっているというだけあり、口に含むとりんごの芳醇な香りにまず圧倒された。その中にピリリとした辛さが際立つが、それだけに料理にはぴったり合うだろう。全国的に名品として高い評価を受けているというのも頷ける。

 

ワイナリー「たてしなップル」の方々は、りんご産業を地場産業とするために、質の高い加工品を製造販売することを決意し、商品開発に果敢に取り組まれているという。

シードル以外にも、すりおろしりんごジュース、ワイン、ブランデー、栄養ドリンク「林檎美人」など、りんごという一つの素材から多彩な商品を生産している様子からもその高い意欲が窺える。

 

立科の豊かな自然と生産者の方々の果敢な挑戦心が生んだシードル「たてしなップル」、これぞイッピンである。

 

<イッピン>
映画 「ラストレシピ -麒麟の舌の記憶-」

 

 

20180115lastrecipe.JPGのサムネール画像

 

 

見終わってしばらく、大きな感動とともに遠い日のことを思い出していた。

 

弁護士となって1年が過ぎた昭和39年頃、ちょうど佐久間良子と三田佳子がニューフェイスとして登場した時代だったと思う。小生は、縁あって東映株式会社・太秦撮影所の担当をしていた。その後、アメリカ映画のメジャー会社13社も担当することとなったが、これはなかなかの難事業で、会社の小さな試写室で仮眠をとりながら、徹夜での交渉事も珍しいことではなかった。

試写が続く側で眠り、映画の山場で聞こえてくる音楽に目を覚まして仕事に向かう、という日々が5年間続いた。

一方撮影は午前2時頃から始まる。まさに草木も眠る丑三つどき、みな、口々に「おはようございます!」と現場入りするのだ。今ならブラック企業などと一刀両断されそうな世界かもしれぬが、それで映画ができ、世に送られ、人々を楽しませた。

仕事とはいえ、映画製作の現場を間近で見聞きした体験は、小生に映画づくりの並々ならぬ大変さと、そうしてつくられた映画がいかに人に感動を与えるものかを知らしめてくれた。

 

「ラストレシピ」の物語は、究極の料理を求めて過去と未来を行き来する。その中で描き出された人生の哀感とともに、人生の哲理を知る、ということを改めて身に染みて感じた。

何事も成そうとすれば何かを犠牲にしなければならない、しかし、そうやって生きた証は時代を超えて誰かの力となり、助けとなることもある――。

時代を別の角度から見ることによって輝きを増すこの物語に、身体じゅうから何かの思いが湧き出るような気持ちで観入った。

「理動・知動はなくして感動あるのみ」とは、小生の信条でもある。まさに理屈ではないものに深く心を揺さぶられた。

 

昭和39年のあの頃、ただただ仕事に、寝食を忘れて心血を注いだ。それはまさに全人格で心を尽くし、人に、仕事にぶつかることで得た感動をエネルギーに換え、生きようとすることだったように思う。

 

「ラストレシピ」は、そんなことを思い出させてもくれた。人間のリアリティーのようなもの、人として大切なことをも描き出した「イッピン」であった。

 

追記:いつもは映画の音声に過剰に反応してしまう耳の故障が全く気にならなかった。

それほどに心動かされたということであろう。

「ラストレシピ」は、その評判を事務所の若い人たちから側聞し、足を運んでみる気持ちになった。

感謝したい。

<イッピン> シェ・オリビエ


<イッピン> シェ・オリビエ

 

 

私の事務所から歩いて数分のところに、趣のある佇まいのフランス料理店がある。

名前は「シェ・オリビエ」。

ミシュランガイドで一つ星を獲得した、知る人ぞ知るフランス料理の名店である。

 

ふとしたことで訪れ、気に入り、以来知人をお招きする食事会などで利用している。

 

シェフのオリビエ・オドス氏は、パリの「ラ・トゥール・ダルジャン」(在籍当時2ツ星)でセカンド・シェフを務め、2000年に「ル・コルドン・ブルー」の料理教授として来日。2009年にシェ・オリビエをオープンされたそうだ。

 

シェ・オリビエの店内はさほど広くはないが明るく、テーブルセットが綺麗にされていて、いつ来ても気持ちのいい空間だ。

 

肝心の料理はというと、オリビエ氏の発想の豊かさが窺われるような独創的なもので、新しいけれど、確かに美味しい。

そしてまた、美しい食器に色彩豊かに、大胆なレイアウトで盛り付けられていて、目にも楽しいのだ。

 

半熟たまご、ハーブのソース、きのこのクリーム煮ベルモット酒の香り

20171215IMG_2219.JPG

 

アイナメのボワレ、カラマンシー風味のエリンギ、スモークグリーンソース

20171215IMG_2222.JPG

 

ホワイトチョコレートの殻に入ったティラミス、温かいコーヒーのソース

20171215IMG_2224.JPG

 

私は、このお店で料理研究家の大森由紀子さんとディナーをご一緒させていただいたことがあるが、やはりプロの方から見ても、シェ・オリビエの料理は一級品であるようで、大森さんも舌鼓を打っていた。

 

職場の近くにこんな素敵なお店があるということは、ちょっとした幸せを私に感じさせてくれる。

シェ・オリビエはイッピンを味わえる名店である。

 

<イッピン>
萬鐵五郎記念美術館にて― 岩手県花巻市東和町

 


 

news20171115.JPG

 

わずか41年の生涯ながら、独自の世界観を持つ画境を開こうとした萬鐵五郎。独特の自画像や裸婦像を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。

今年は萬の没後90年に当たり、ゆかりの土地などで大規模な回顧展も催されている。

小生も秋晴れの岩手県花巻市を訪れ、萬鐵五郎記念美術館へと足を運んだ。

実は、7月9日の葉山の回顧展に続き、今年2度目である。

 

萬の生地である土沢が一望できる「舘山」。ここからの風景を萬はこよなく愛したという。その中腹に位置する美術館で、作品を巡りながら進むと、果たして最後の部屋の真ん中で堂々たる「裸体美人」が出迎えてくれた。東京美術学校の卒業制作であり、萬を世に出した作品だそうだ。

萬の作品には、その信条に裏打ちされた、見る者にうったえかける魂の力強さが溢れているように思う。萬の絵が、最初に出会った時から鮮烈な感動とともに忘れがたいのは、小生にとってはその印象的で独特の画風ゆえ、というだけではない。

小生は、美術はいささかかじった程度である。しかし、絵画から発せられる、何か画家の「エネルギー」や「息遣い」や「言葉」、「心もち」は感じられるように思うのだ。

 

萬が生きたのは、西洋の新しい美術運動である後期印象派、フォービスム、キュビスムが日本に紹介された時代だったそうだ。(セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、マティス、ピカソ、といった画家たちがいる。)それに影響を受けつつ、それを吸収し、自身の表現方法を模索し続けて41年という短い生涯の中に自己の内面、魂を具現化した絵画を確立しようとしたのではないか。

 

すでに画家として活動していた萬が突然故郷である花巻に戻り、外からの刺激を遮断してひたすら絵の探求に打ち込んだ時期があった。その時、萬はこんな言葉を残しているという。

 

「あらゆる周囲と戦い、いろんな関係を切り離して、ここに自由に製作しうるごく僅かな機関を作った。作画以外に少しの時間もエネルギーも費やしたくない」

 

「吾々は自然を模倣する必要はない。自分の自然を表せば良いのだ。円いものを描いたとすれば、それは円いものを描きたいからなので、他に深い意味も何もない」

こうも言う。

「画家は明日を憂えてはならない。今日 今 最も忠実でなくてはいけない」

 

「画家は」を言い換えれば、それぞれの日常を生きる我々にも頷いて思い当たることがあるように思う。それを貫き通せるかどうか。

萬が向き合ったのは、常に自分自身であったのだろう。難しいことだが、そのことに飢え、時に悶え苦しみながら強く絵画を追究し続けた姿を想像するのだ。

しかし、それこそが成しえなかったことを遂げようとする幸福でもあり、「日本近代絵画の先駆者」と称され、海外でも高い評価を得るに繋がったのではないかと思う。

 

萬の作品には魂の力強さを感じる。言い換えれば、強さを与えられるような気がする―。

小説家であり、「気まぐれ美術館」等の美術エッセイでも名を知られる州之内徹氏は、

「いい絵とは何か?一言で答えなければならないとしたら、盗んでも自分のものにしたくなるような絵である!」と言った。我が意を得たり、小生にとっても萬の作品はまさにそれである。

心に語りかけてくる精神世界をもった、小生にとってのイッピン(逸品)である。

 

追記:

訪れた「萬鐵五郎記念美術館」は萬鐵五郎を顕彰するため、萬の没後57年目の1984年、生地に開館した町民手作りの美術館であると聞いた。

様々な企画展等で萬の世界観を後世に伝える努力、取り組みをされていることの尊さを思う。その画家とともに、地域が誇るべき美術館である。

 

<イッピン>
麻布十番はなぶさ「ひつまぶし」

 

 

20171015ひつまぶし.jpg

 

 

名古屋生まれの私にとって、鰻といえば、まず「ひつまぶし」が頭に浮かぶ。

名古屋に帰郷した際には当然のように食する、いわば私のソウルフードであるが、東京ではひつまぶしというメニューをそもそも目にする機会が少ないので、これまでは殆ど食べたことがなかった。

 

8月末に酷い風邪を引き、精力をつけようと思って、ひつまぶしをインターネットで検索したら、麻布十番にある「はなぶさ」というお店が出てきた。

 

お店のHPによると、このお店では愛知県一色町の矢作川の清流で養殖した鰻を使用しているという。

清流で養殖する鰻、というものを初めて聞いたので、興味を引かれて昼食時に早速食べに向かった。

 

はなぶさは、店構えは小作りだが、お客さんで賑わっていて中々繁盛しているようであった。

 

少し待つと、茶色のお櫃によそわれたひつまぶしが出てきた。

名古屋には、ひつまぶしの名店として知られる蓬莱屋というお店がある。このお店のひつまぶしは濃茶色の木のお櫃によそわれていてるのだが、中のひつまぶしとお櫃の色が合っていて、見た目も美しく、食欲をそそられる。

「はなぶさ」は蓬莱屋と同様、濃茶色の木のお櫃を使用していた。

 

薬味は、わさびとねぎと海苔で、きゅうりと紫蘇漬け、奈良漬け、お茶漬け用のお出汁が添えられていた。

ひつまぶしの定番の食べ方通り、一杯目はそのまま。二杯目はわさびとねぎと海苔で、三杯目は出汁をかけてお茶漬けで頂いた。

肝心の鰻は、硬めに焼き上げられた皮を噛むと、ふわりとした香ばしさが漂った。肉は、弾力と厚みがあり、非常に美味しかった。

 

麻布十番「はなぶさ」のひつまぶしは、東京にいながらも故郷を味わえる料理として、これからも重宝するイッピンとなるだろう。

 

<イッピン>
道場水産「たらこ」―北海道茅部郡鹿部町

 

 

20170904IMG_3787.JPG

 

 

この夏、北海道・道南地方を旅し、鹿部町に立ち寄った。駒ヶ岳山麓と内浦湾(地元の方は噴火湾と呼ぶ)に挟まれるようにたたずむ、水産が主産業の町である。

 

当地で、「道場水産」さんの「たらこ」に出会った。
たらこの加工場を多く有する鹿部町の中にあってそのおいしさは折り紙付き、全国で1,2を争う逸品と聞いた。

噴火湾は古くから「宝の海」と呼ばれ、季節ごとに様々な魚が来遊するが、特に冬に産卵のためにやって来るスケソウダラの日本有数の漁場なのだという。このスケソウダラの卵のみを使用して作られるのが、道場水産の「たらこ」である。

その最大の特徴は、皮が非常に薄く、かぶりついても簡単に噛み切れる食感の良さである。それでいてきめ細かい粒がぎっしりと詰まり、一粒一粒のうまみとともにさらさらと喉を通ってゆくのだ。

道場水産では、その日水揚げされたスケソウダラの生の卵をその日のうちに仕入れ、低塩水でまろやかな塩味に漬け込む。低塩だから素材本来の味を失わず、健康志向にもかなう。甘みを含む上質な塩にこだわり、その日の卵の状態によって塩分濃度を微妙に調節するという徹底ぶりと、たらこへの愛情こそが、日本1,2といわれるブランド力を築いているのであろう。

 

もうひとつ、「原料としてのたらこ」の話を聞いた。鹿部町から送られたたらこが、福岡の「明太子」になるのだという。原料の良さが、「明太子」というもう一つの逸品を創出しているのだ。

最良の素材を、最良の状態で加工し、最良の商品を生み出す。加工だけでも、もちろん原料提供だけでも成り立たない。個々のたゆまぬ技の追求と、世に送り出す創意工夫が相俟ってこそ、それぞれの「イッピン」が生まれるのであろう。

 

鹿部土産の「たらこ」を手に、町の大(おお)寿(ず)司(し)さんで「たらこ」を食した。実に美味、「イッピン」に間違いなかった。

 

以上

ご利用案内

内容につきましては、私の雑感等も含まれますので、真実性や正確性を保証するものではない旨ご了解下さい。

→ リンクポリシー・著作権

カレンダー

2019年4月
« 3月    
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

最近の投稿

カテゴリー

月別アーカイブ

プロフィール

高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
https://www.law-pro.jp/

Nobuo Takai

バナーを作成