太田正孝の「心の時代の徒然草」の最近のブログ記事

 

第12回 宇宙からの視点が求められるこれからの時代に向けて

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 令和元年も師走を迎えあっという間に終えようとしています。人は年齢を重ねるにつれ時間の進み方が早くなると言われていますので近年はなおさらそのように感じます。脳に記憶できる総量がかなり少なくなってきているので、記憶の「パラパラ漫画」のコマ数が減り、再生すると早送りになるようです。高井先生はじめ著名人のなかには高齢でも驚異的な記憶力を維持している方がおられるようですが多くの凡人は早送り型になっていきます。

 

 時間のことを考える時、思い浮かぶのはやはりアインシュタインの時間と空間を一体で考える「時空」のことです。それを思いながら晴れた夜空を見上げると無限の星々が瞬いていますが、夫々に異なる時代の姿なので「あの星はもう消滅しているのではないか」と想像したりします。

 

 冬の夜空ではオリオン座がよく見えます。四角い輪郭の左上はベテルギウスというオレンジ色に輝く星ですが地球から640光年余の距離にあります。超々巨大星で太陽の位置に置くと仮定すればベテルギウスの表面は地球を遙かに超えて火星の軌道あたりになる大きさで想像を絶します。近年の観測では既に球体が崩れて宇宙時間でいう近々のうちに爆発(超新星爆発)するといわれています。今見えている姿は約640年前のものですので日本でいえば室町時代になります。もし、ベテルギウスの周辺の惑星に「ベテル人」がいたとして瞬間移動で地球にきたら計算上では足利義満将軍に会えることになります。

 宇宙規模で時空(空間と時間)を考えると普段何気なくすごしている現在という瞬間も厳密にいえば一人一人違っているということに気付きます。思考訓練上では宇宙空間や高高度を飛行している人は地上に比べて時間が早く進んでいるのでその分早く年をとっていると言うわけです。もちろん原子時計でようやく分かるレベルなので人の寿命とは直接関係ないのですが、厳密にいえば時間の進み方は人それぞれで違うということになります。

 

 人は自らの立ち位置を主張しながら日々生活していますが、周りの人達とうまくいかないことが多いのが現実です。その理由として育った時代や環境、生まれもった性格の違いからと言われることも多いのですが、もしかしたら同じ時間・同じ場面を共有してきたとしても見ていた景色が異なっていたからかもしれません。だとすると「時空」を共有できない宿命をもつ人間として人を理解する能力は「自分の視点は一旦脇に置いておいて相手の視点での時間・景色をどの程度想像できるか」で評価できると思います。自分の視点視座から見えるもののみが絶対正しいと信じている人は大げさにいえば宇宙の理にも反していると言えそうです。

 

 かつて部下を預かる立場になったときに心がけたのは彼らと一緒により高い視点を身につけて成長することでした。部下だった頃、尊敬する上司から言われてきたことを真似たわけです。地面にへばりついていないで鳥のように鳥瞰しろ、飛行機から眺めて地平をみろ、人工衛星から国境のない地球をみろ、さらには月から眺めたつもりで星としての地球をみろ、と偉そうに言ってました。私自身宇宙好きだったこともありついつい熱気を帯びて話すので一部のリアクションとして「うちの上司はいつも宇宙がどうのこうのと変なことを長々と説教するので大変・・・」というのが耳に入っていました。話しの中で「UFO(未確認飛行物体)」のことも言っていたので変な人とみられても当然だったのですが、めげることなくこのスタイルを続けてきました。その後もあちこちで自己流に宇宙とUFOのことを話していたので「宇宙とUFO」についての「楽しい講演」を頼まれたこともあります。勿論オカルト的なことではなく科学に基づいて・・・。

 よくUFOと宇宙人はイコールと扱われますが分けて考えないといけません。ただ世界中のUFO目撃例の5%はどうしても合理的な説明がつかないようなので宇宙人の存在は完全否定できないまま残っています。ここに空想を楽しむ余地があるわけです。

 この妙な例ではありましたが世の中の多くの事象が科学的合理的に説明できるものばかりでないにも関わらず、昨今の世相は自明な事柄でも重箱の隅をつつくがごとく攻撃するなど余裕のない窮屈な社会になってきたように思います。IoT、AIの時代だからこそ人間的な柔らかさからくる多様な考え方を相互に認め合うことがより大事になっていると思います。高井先生が常々主張され行動基準とされているように時代のキーワードは「多様性の共有と寛容」しかないと思っています。

 

 ITに関する分野で成功した人の多くは何故か宇宙・航空に関連する事業に夢中です。

 ビルゲイツ、ブランソン、イーロンマスク、ザッカーバーク、ベゾスなどの世界的な有名人、それに日本ではホリエさんなど皆さん民間の力で宇宙開発をやろうとされています。

  職業柄この人達やその協力者・社員達はどのような働き方をしているのかが気になります。おそらく共通の夢を追っているのでしょうから彼らは労働時間を考えるよりも自らの夢の実現のために楽しみながら仕事をしていると思われます。人は自分のやりたいことや何か新しいチャレンジをしたい場面では寝食を忘れて熱中してしまいがちですがこれが楽しい人をも時間で縛るのはどうかと思います。 

 昨今、働き方改革が政治主導で進められていますがその大きな目玉の一つは残業規制のようです。人事コンサルタントとして残業は一律に法で細かく規制をかけるようなものではないように思います。仕事の種類が多岐にわたる現代ではこのような網掛けは当然うまく適合しない職種も多くあるので副作用も無視できないと思います。

 

 ことの本筋は働く人の希望を尊重してその人の意欲と能力に応じた仕事に就け、かつ円滑に移動できるようにする仕組みと定着にあるのは明らかです。高齢者や女性の登用、外国人労働力の拡大など歴史上初経験の事情も加わって新施策も必要になっています。

この有効な考え方として、何度か述べてきたように諏訪康雄法政大名誉教授の「キャリア権」の確立と、それに伴って仕事と人材の需給バランスを調整する人材マーケットの整備が必要です。(真新しいことではなく先進国では普通に行われています)

 

 高井先生はかねてより日本の将来の姿を正確にとらえそれに対応していくための避けて通れない道を示すなかでこの「キャリア権の法制化」に主導的に取り組んでおられます。

 将来のことを具体的に思い浮かべるのは簡単ではないのですが、過去現在という時の流れの「パラパラ漫画」を虚心坦懐に宇宙からの視点で眺めれば将来のために今やるべきことが浮かぶのではないかと思います。過去現在に過度にとらわれていると「思考の時空」は拡がらないことを肝に銘じたいものです。

令和2年は現時点では未来です。現在は直ちに過去になりその過去はもう存在しないのですから、年末は未来に集中してどう過ごしていくか考えたいと思っているところです。

 

 これで12回目、最終回になった私の高井先生のブログ「無用の用」への寄稿は終了です。この機会を与えてくださった高井先生、事務所の方々に感謝申しあげます。また拙い文をご覧くださった皆様には改めて御礼申しあげます。どうもありがとうございました。

終わり

 

 

第11回 生物界での「無用の用」の効用

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 秋も深まり夜空も透明度を増して宇宙や天文好きの人には良い季節になってきました。

 今年も宇宙に関する話題は豊富でしたが身近なところでは「はやぶさ2」が小惑星リュウグウでのミッションを完遂して地球への帰還の旅についたことでしょうか。来年の今頃はサンプル回収の成功で大きなニュースになっていることでしょう。2020オリンピック・パラリンピックと共に来年の楽しみの一つです。

 

 デジタル技術の急速な発展によって天体の観測技術や探査手段が高度になり宇宙の謎がつぎつぎに解明され特に天体ファンの好奇心を刺激してくれています。太陽系の外から飛来した長さ400mの葉巻型をした不思議な物体(オームアムア、宇宙人の乗り物か?)を詳しく観測できたことなど夢のようです。iPS細胞を駆使して長生きすれれば宇宙人に会えるのでは、といったSF的妄想も少しは現実味を帯びてきています。

 

 「最近の宇宙の話はなに?」と高井先生からお会いするたびに聞いてもらえるのでUFO話をするのですが今いち話が弾んでいかないのが現実です。理路整然さを誇る弁護士先生を相手にその対極?にあるUFOをネタにすること自体に問題がありますが、私の「言いくるめ」能力を磨いて機会があれば再トライしたいと思っています。UFOを含む宇宙がらみの話は最終回で書こうかなと思っていますので今回は前振りとして生き物と時間の関係などを書いてみたいと思います。

 

 映像や音声の世界もデジタル技術の進展で様変わりしました。この技術の応用範囲が広がったことで悪用されるケースも増えてフェイク映像・音声も日常茶飯事に見られるようになりました。普通のTV放送でも真偽の判別がつかないような映像が流されたり、さらには町中にある防犯カメラとAIと合わさることによって誰かを監視しようとすれば簡単にできる気色悪い時代になりました。勿論本来の目的に沿ったテロの抑止や治安維持などに役だっているのは当然で、身近なところでは犯罪現場に残された映像などから直ちに犯人を特定し逮捕できた事例などが挙げられます。

 今後さらに技術が進むとオリジナル映像に手を加えて映像を改変、ねつ造することも容易になってくるので近いうちに「監視カメラが捉えていた」というのもフェイク画像である可能性が出てくるようになることでしょう。究極には過去現在未来という時の流れも一方通行でなくなっていくかもしれません。

 

 先日ケーブルTVの番組で色んな植物が成長するさまを時間短縮の編集をしたもの、「超早回し映像」を見ました。蒔いた種があっという間に芽吹き、動物のように激しく身を振り動きながら成長していく姿、さらには植物が発する独特の声というか音、さまざまな音楽を聴かせると明らかに異なる反応をする様子など、感動的でもありました。

これを見たあと「植物と動物は本質的に同じではないか?」とか「時間とはなんぞや?」など今までの常識が正しいのかと思うと共に生物学に興味がわいてきました。

 

 昔、歌う生物学者として知られていた本間達雄氏の著書「ゾウの時間ネズミの時間」に書かれていたことをその時に思い出しました。

 あらためて本を引っ張りだして調べると「哺乳類は心臓が15億回脈打つと寿命がつきる・・・動物共通の定め・・・激しい鼓動のネズミは早死にし、ゆっくりとした鼓動のゾウは長生きする」というようなことが書かれています。動物の寿命がこのような定めにあるとすれば動物種ごとに時間の進み方が違っているということを意味します。(例えば蚊を両手でたたこうとするとき蚊から見て人間の動作は超スローなので逃げおおせると聞いたことがありますので生物全体に成り立つ話かと思います。)

 

私たち人間が自然に生活できる環境で心臓が15億回脈打つということは40才を過ぎる頃に到達する計算になります。(織田信長の名台詞とされる「人生50年・・」は正解だった?)

 

  現在、清潔な生活環境や医療サービスが得られ長寿国になった日本では新陳代謝がすすまずに高齢化社会となり、人事の世界でも定年は60~65才位に上がりました。アニメで有名な「北斗の拳」のケンシロウの「おまえはもう死んでいる・・・」になぞらえれば40才で寿命が尽きているはずの多くの人が100才に向かって長寿になってきています。勿論これはハッピーなことであるのは言うまでもないのですが、老人福祉や年金など深刻な社会問題が生じているのも事実ですし、特効薬的な施策もなく難儀な道を歩んでいくほかないようです。

 

 また現代の人間は生命体として自然の中で普通に生きるのに必要なエネルギー量の30倍を消費しているという説があります。これは体重4トンのアジアゾウの必要量に匹敵するそうで多くの人が自然寿命を越えて生きるには更に大きなエネルギー負荷が社会にかかることを意味します。この負荷を担うためのエゴイスティックな紛争は残念ながら今後も絶え間なくつづき、将来、宇宙人が姿をあらわすまで人類の宿痾でありつづけることと思います。 

 次にエネルギーの量から効率へと目を転じてみたいと思います。

 一般に大きい動物の方が小さいものより生命維持に使うエネルギーの使用効率は高いそうで「進化はエネルギー効率があがる方向に向かう・・」ために大型化するのが進化ということです。

 これを人間社会に敷衍すれば「人工的な組織も効率アップの方向に進化する」ということを意味するので、企業組織にあてはめると大企業になるほど効率は良くなっている筈です。すべての企業の始まりは小さい企業であり発展の歴史を重ねて進化しつづけるうちにいくつかは大企業へと成長したわけです。小から大への道をたどったということは動物の進化と同じで、大企業と中小企業の社員一人あたりの労働生産性では大企業の方が上回るのが自然ということを意味します。実際に双方を比べてみると大企業では何を担当しているか不明でヒマそうな人がかなり多く見受けられますが社員数の多さの中で吸収され全体としての人員効率が高いのが普通です。

 外資系会社は大胆なリストラをすることがありますが日本の会社ではまだ一般的ではありません。なぜでしょうか。日本では解雇にいたる厳しい制約要件があること、家族的な経営スタイルから解雇が抑制されるなど、よく指摘されますがそれだけでしょうか。私が考える答えは高井先生のこのブログタイトルにある「無用の用」、まさにそれだと思っています。蟻の例でいえば一つの巣にいる蟻の二割が「サボリー蟻」、よく働く蟻だけを集めて巣をつくっても直ぐに二割が「サボリー蟻」になるという面白い観察報告があります。企業社会でも二割の「サボリー蟻」を養えるほど大きくなって「大きいことは良いことだ」と言えるよう進化していきたいものです。

終わり

 

 

第10回 巨大台風の来襲から思いついた私的な組織論

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 台風15号と同じようなコースで強烈な19号が襲ってきました。  今度は首都圏、中越、東北など広範囲で川の氾濫による大災害が起こってしまいました。犠牲者のご冥福を祈り、被災者の心と被災地域の回復を願うばかりです。

 

 私は昔シカゴ在住の時に豪雨による洪水の恐怖を味わいました。郊外の社宅でしたので割と広い庭があり、庭を下ると1m下に幅2mほどの小川が流れ普段は気持ちのいい場所でした。ある豪雨の日曜日、小川の水位がジワジワと上がって庭全体が川になっていくので恐怖に襲われました。あと10センチ弱水位が上がれば家の中にどっと浸水するといったところで上昇がとまり、将に「寸止め」でホッとしました。

 古来、怖いものとして「地震、雷、火事、親父=ヤマジ?(台風?)」といわれます。中でもじわじわ迫って来る台風と水害は本当に恐ろしく、私が経験した色んなイベント「パラパラ漫画」のうちの怖い一コマとして記憶に残っています。

 

 今回の大災害もしばらく時間が経つと行政の不手際などが取り沙汰されるかもしれません。特に大きな被害は本州の東半分という広大な地域に亘っているので国レベルの防災・復旧組織のあり方も議論されることでしょう。あとからタラレバ論が出てくるのは仕方ありませんが行政批判一辺倒ではなく事象を科学的に検証して今後の防災体制に反映してもらいたいものです。

 ということもあり今回は「組織」にまつわる話を少々書きたいと思います。

 

 私は人事コンサルとして会社の組織づくりに関ったことがあります。その折り高井先生からうまくいく経営組織についてのご高見を伺った記憶があります。組織と人次第で会社の盛衰が決まるので、まず無駄の少ない組織をつくりメンテし続けるのが前提ですが、現実はそう簡単なことではありません。日々変わりつつある環境に対応するために植物や動物と同様に組織も進化しないと生き残れないのは明白です。「茹でガエル」の例でよく揶揄される日本人ですが、何らかの大きなイベント、事件、事故に見舞われた時こそ進化するビッグチャンスと捉え、覚悟をきめて重い腰をあげ汚名返上していけばいいと思います。

 事件事故など大きな不具合が生じた背景に人事労務問題があるのではないかとされ、組織・人事・労務環境にメスが入る傾向があります。検証の過程でマニュアル内容、手順、人の熟練度、教育問題、労務問題の有無に加えて「ハインリッヒの法則」にある小さな不具合を見過ごしてきた理由が取り上げられます。

 やがて最終的に大きな不具合の原因は組織そのものの欠陥から、に収斂していき、再発防止対策として「左脳」で考えた組織変更がされるケースが多いのです。

 組織に原因ありと結論づけることで当事者や経営幹部の責任が薄まり曖昧になっていく効果があります。前任トップにまで責任が及ぶのを避ける目的もあるようですが。

 しかし、本当に再発防止のための組織変更をするには科学的・客観的・現実対応型に基づいて見直しするのが王道です。そのために集められた大量の情報の中のシグナルとノイズを峻別できる体制をとり原因としては事象の連鎖反応でありその流れを冷徹に解明することが大事です。経験上、組織の問題に収斂させるのは比較的楽なので経営トップが常に留意すべきところです。

 現実には広報のまずい対応などでマスコミ・世論が原因よりもトップ批判に集中しすぎるケースもあります。その場合本来組織編成そのものに潜んでいた大きな欠陥が見過ごされ進化の機会を失うこともあるのでこの事にもまた留意が必要です。

 

 組織について改めて人類の歩みからみてみると、古くは過酷な自然や捕食動物、他民族の侵略に備える目的で親族・同族間で役割分担する形で組織化が始まりました。以来数十万年もの間、一貫して自衛目的のための役割分担を決める組織作りが続き武器の進歩とともに組織も複雑化してきました。

 現在では、のべつ幕なしに戦争、紛争があった歴史を踏まえ先進国間では平穏な社会を維持する仕組みが定着してきていると思いますが、地球規模でみると宗教の違いなどからいまだに深刻なコンフリクト(摩擦)がある状況です。

 世界の政治組織をみると権力集中型の独裁組織や三権分立型の民主組織に大きくは大別されると思いますが、民主組織形態をとりながら実質は独裁者が統治しているなど多様です。

 国連の組織も、部分最適と全体最適の差を調整できず越えられない高い壁があるのが現実です。いまだ超人類(スーパーヒューマニティ)へ進化できない私達は高井先生がよく指摘される「心」の進化すらもできていないようです。お互いに譲りあって平和に過ごすという寛容さだけでも身につけたいと思います。会社組織でも参考にしたいものです。

 

 古い話ですが東西冷戦の末期、1987年の国連総会で当時のレーガン米大統領は「私は地球外のエイリアンが脅威をもたらしてきたら世界のイデオロギーの相違が急速に消滅すると考えている」という趣旨の演説をしました。これは人類共通の強敵が現れない限り世界は一体になれないという指摘でした。国連という組織は約200の国が加盟しているのですが、表面上は加盟国みんなが一票をもつ対等な社会なので全体最適の決議は幻想でしかないようで組織が機能しない実例です。最近いろんなアイデアによる組織論がいわれています。ティール組織とかがその例です。会社がまとう組織に「プレタポルテ」はありませんので、色んな組織論を参考に独自で「オートクチュール」を用意するのが自然です。

 

 「オートクチュール」作りの流れでいうと、まず明確な経営理念に基づいて経営戦略をたて、実行できる組織案を作る流れが始まりです。伝統的な組織の業務分掌、権限表を発展させて組織単位毎に役割と成果責任(アカウンタビリティー)を明確にしておくという方法をとるのがお勧めです。これは欧米の会社では普通に行われているやり方です。

 これにより予定成果の記載漏れや重複の検証がしやすくなり後のメンテにも役立ちます。そしてそれを担えるだろう人を選抜配置する、これが国際化にも適合できる流れです。

 高井先生も言うわれているように、組織はできるだけ階層を少なくシンプルであるべきですが、現実はベテラン層が余るので処遇のためだけの組織を増やすことがよく行われます。背景の一つは整理解雇しにくい日本特有の現象で一概に悪いとも言えないのが悩みでしょう。しかしこれにより組織間で共鳴しやすい「固有周波数」にノイズが混ざり早い意志決定を遅らせている原因の一つです。

 

 来年4月、大企業から順次「同一労働同一賃金」についての法律が施行されますので「同一労働とは何か」が課題になります。これを組織のことをも考える良い機会と捉えて社員のエンゲージメント調査を含め組織の点検・再編成をされるよう願っています。

終わり

 

第9回 AIにも「ロボット三原則」を

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝 

 

 9月になって過しやすい気候になってきました。地球の自転軸が公転面に対して傾いていたお陰で日本では季節の移ろい、夏から秋へ、を楽しむことができます。

 

 さて、高井先生から与えられたこのコラム「徒然なるままに」も早いもので残り少なくなりましたが、先日の台風15号の直撃を受けた千葉県民の一人でもありますので急遽自然災害についても少し触れてみたいと思います。

 

 千葉県は結構広いので場所により天候が異なります。私のいる千葉市周辺は房総半島部や柏市、印西市など北西部といつも同じではありません。今回の台風は千葉市に上陸したので隣接する私の地域の真ん中を通過していったと思います。

 8日日曜の深夜から明け方は強風で家が揺れつづけ、風雨の打ちつける音のすごさもあって家が崩壊するかという強い恐怖感に襲われました。深夜に突然停電して以降2晩半電気のない暮らしになりました。

 いままでの停電は比較的短時間で終わっていたので台風通過後しばらくして復旧するだろうと楽観的に思っていました。しかしお昼ごろ出かけようとしたところ、道路を塞ぐ大きな倒木や小枝、落ち葉の物凄さにまず驚きました。ラジオで千葉市内の瞬間風速が57メートルと聞いて合点がいき、県内の被害の大きさを予感させられました。

 何から何まで電気に依存していたと実感しながらの2日半熱帯夜に襲われ生活スタイルの脆い面を考えさせられました。「おばあちゃんの知恵」ではないですが昭和時代の省エネ生活の工夫や知恵を思い出しながら過ごすようにしていました。

 あれから相当期間、停電や断水の復旧、応急修理待ちが続いている地域の方々の苦痛やご苦労についての報道が続いています。早期の復旧を願うばかりです。

 

 停電によりデスクトップ型のPCしかない私は情報遮断されましたので改めてPCのない時代を思い起こしてみました。

 コンピューターが職場に入ってきたのは30数年ほど前からだったと思いますが、当時はまだ使い勝手も良くなく机の上には黒電話が存在感をもって鎮座していました。情報伝達の多くは電話や直談、会議での打合せ、一杯やりながらの情報交換などで意志決定をしていました。

 労働条件は高度成長時代の延長もあって年々向上していました。労働力も団塊の世代が参加してきていたので年代別の労働力はピラミッド型でいい具合になっていました。

経営学者アベグレンが「日本的経営三種の神器」として「年功序列制」「終身雇用」「企業別組合」が日本企業成功のキモと指摘し、この言葉が流行した頃です。

 

 日本人の心情に年功序列意識があり、伝統的な先輩後輩関係の維持を尊重する人事賃金制度が一般的だったと考えられます。社会的な作法や言葉づかいにも違和感なく整合し、企業文化として根付いていました。責任感、協調性が大事で、気配り力や集団に貢献することを評価する企業社会だったと思います。人事考課も性格特性や執務態度などのプロセス評価が重視され成果は個人評価としては二の次でしたが年功序列制度と相性が良かったと思います。

 

 一方で個人の職務成果を数値化して評価する狭義の成果主義の評価制度は事前の決め事も多く、上司の負担がかなり増えるとして運用面で拒否反応がでて定着させるのに苦労しました。このような転換は時期尚早だったと思った顧客企業もありました。

 その後20年ほどの間、国際化が進んだ企業では仕事の成果を重視する制度への転換は進みつつあります。高井先生がかねてより「口と筆を酸っぱく」してあちこちで指摘されていたように年功序列の制度は役割を終えつつあります。早く時代に則した制度に替えないと人員選抜・配置、役割配分、期待成果の間で齟齬がでてくるのは明白です。

 

 昨今、日本の労働事情が女性、高齢者、外国人の労働力導入拡大、若手労働力の不足も相まって急激に変化しています。長期展望でも総人口の減少、都市集中化と地方疲弊化の進行など、悲観的な見通しが多くなっています。

 この歴史的な労働環境変化の中、高井先生には持ち前の発信力で政治経済労働界に刺激を与えてくださるよう期待したいと思います。

 

 コンピューター化の話にもどすと、いまでは技術が高度化し、IoT、クラウド、ビッグデータ、AI、5G等々さらにはその集大成として応用面での自動運転などが取り沙汰されています。背景にはハードウェアの進化が著しく、所謂「ムーアの法則」(CPUの性能が18ヶ月で2倍になる・・・インテル創業者のゴードン・ムーアが1965年に示した)で劇的に進歩したデバイスを使った情報技術が人間を知的領域でも凌駕する段階に入りつつあります。

 お台場方面に行く都市交通「ゆりかもめ」など軌道が確保されているところにはすでに無人運転が導入されています。まもなくバス、トラック、電車などにも拡がりそうな勢いで、運転席にはだれもいない乗り物に乗るのが現実になると言われています。

 

 人事労務の領域もビッグデータを活用したAI化が進み大事な採用活動もAIが行うなんていうのも始まっています。近未来、人間が働く職種は何か、など雑誌なんかで取り沙汰されるようになりました。この流れをみるとAIに対応するために人事労務が一層重要分野になることでしょう。一定の成果を上げた後は皮肉にも人事部門自体がAI化されてしまうかもしれませんが。

 

 AIも機械の一種ですから不具合の発生は避けられないでしょう。複雑に発展してきた人間社会でいつも完全に機能すると言えないと思います。例えば都心の複雑な交通インフラのなか運転手のいないバスに平気で乗れる人はどれ位いるでしょうか。AIが人間の感情や倫理的判断を求められる場面で瞬時に最適解を出せるとは思えないのです。倫理的判断をともなう有名な問題「トロッコ問題」ではAIはどうするのでしょうか。AIを設計する人が仮に倫理観をアルゴリズムに取り入れられたとしてもAIが人間の感覚では冷酷ともいえる行動をとる可能性があるからです。これからもAIに不向きな領域が存在しつづけると思いますので、個人的には何でもAIに依存することのないように厳しいルールを整える時期が来ているように思っています。 

 立法、法律は当然ですが人間領域にも精通した高井先生のAIチームで是非議論していただきたいところです。

 

 1964年SF作家アイザック・アシモフが考案した「ロボット(工学)三原則」を思い出します。「人間への安全性、命令への服従、自己防衛」というものです。「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない、・・・など」この原則はその後のSF小説にとどまらず現実のロボット工学にも影響を与え、今でも有効と思います。AI時代にはこの原則はますます大事なこととして尊重されようを願うばかりです。

終わり

 

第8回 笑いの効用をもっと取り入れよう

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 女子プロテニス界に続いて今度は女子ゴルフ界で快挙です。プロ1年目の渋野日向子さんが全英女子オープンで見事優勝しました。まさに高井先生がよく言われる「心・技・体」、英語でいうとメンタル、テクニカル、フィジカル、の高度なレベルでのバランスがもたらした成果だろうと思います。

    解説者も言っていましたが、ピンチの時でさえも彼女の明るい笑顔はギャラリーの心を捉え、早速スマイリング・シンデレラと呼ばれているようです。多くの人達を自然に応援したいという気持ちにさせる振る舞いでした。苦しい場面でも自然体で行動できるのはすばらしいことです。

    日本人は真面目すぎて余裕がない、とステレオタイプ的な捉え方がされて来たように思いますが、今時はこんな指摘があたらない若人も増えてきたようで頼もしく感じます。 自然体とか笑いはともすれば不真面目の部類に入れられてきたような気がしますので価値観の変わり目となってくれれば嬉しく思います。

 

    最近では漫画やアニメが日本のみならず世界中で受け入れられています。確かに文章を読むよりも視覚・聴覚を使って漫画や動画さらには映画を見る方が解りやすいし、感情移入もスムースなのでますます映像文化が世界中に拡大していくことでしょう。かつて麻生太郎さんが総理のときに漫画しか読まないし漫画は文化だといって顰蹙をかったころとは大違いです。麻生元総理の先見の明に敬服です。

 

 子供の頃「赤銅鈴之助」、「月光仮面」「鉄腕アトム」「鉄人28号」など、貸本屋に通って友達と回しあって読んだ記憶があります。漫画はだめ、もっと本を読みなさいと大人からいわれても無視していたものです。あの時代、漫画はまだ絵本の延長で児童の年頃を終えたら読書というのが当時の社会の価値観だったのでしょう。戦後の混乱期はすぎていたもののまだまだ生きるだけで精一杯な頃でしたので、ボロボロの貸本漫画が多くの子供の楽しみで、誘惑でした。

 娯楽の一つであった映画も白黒が主流でしたので「宇宙戦争」というSFカラー映画を初めて見てストーリーの面白さとカラーの美しさに驚いたことを覚えています。やがてTV放送がはじまり、プロレスと相撲、コメディを良くみていました。TVはとても値段が高くて買える家が少なく、TVのある近所の家に見せてもらいに行ったものです。賑やだった情景は昔のパラパラ漫画の一コマとしてよい思い出となっています。

 

 昨今「笑い」の効用については社会性に関する心理学やメンタルを扱う医学界でも認められていますが、チーム作りやリーダーシップを発揮する上でも特に重要なファクターとしてもっと取り上げるべきと思っています。私は大阪育ちでもあり笑いの効用は日常生活の色んな場面で実感してきました。しかし、東京ではどうもそれほどでもないような気がします。特に、駄洒落や親父ギャグと見なされれば低俗なこととされがちです。でも、駄洒落ひとつ思い浮かべるのも頭が活動した結果なので特に年配者にはボケ防止にはいいことと思いますがどうでしょうか。駄洒落には駄洒落で返すというのを習慣化したら認知症も逃げていくのではないかと思います。

 昔、藤本義一という大阪の作家が一世を風靡した時期がありました。「鬼の詩」(直木賞)はじめ作品は多いのですが、大阪の市井の人々の生き様を多く取り上げました。TVでも「11PM」のMCをつとめ独特の切り口で仕切った姿は今でも覚えています。彼は「商は笑なり」として、笑いがなければ商売での成功はおぼつかない、ということを作品でもしばしば主張していました。

 

 ここで思い浮かぶのはいつも笑顔を絶やさずに誰とでも話をされる高井先生です。

 弁護士事務所を代表する偉い人だから堅い人かな、と思ってお会いすると一寸想定外な雰囲気につつまれます。この「無用の用」をご覧の方は皆さんご存じと思いますが、課題や悩みについて初めて先生のヒアリングをうける時、先生の優しい笑顔にまず不安感が和らぎます。依頼する側はどうしても不安と怒りの感情がからんで上手に話せないケースが多いのです。それを承知の上で依頼者の心のバリアをまず取り除いて順序だてて聞きだして課題の解決につなげていく、そういう姿勢で来られたのが先生の成功の礎と思います。

 一方で、先生の笑顔の背後には論理構成のための厳しい質問攻めをうけるので安易に曖昧に答えていると後々苦労することもかつての依頼者の一人として実感しています。

 加えて、先生の事務所の弁護士先生方にはとても厳しく体育会系スタイルで指導されている様子を垣間見ています。ただし、本当の姿は外部からはわかりませんが後進の若手を業界の厳しい競争に勝ち残れるよう鍛えておられるのは間違いないでしょう。

 

 人というのは1場面、2状況、3意図、4行動の少なくとも四つの観点で見みないと性格、能力、行動特性という所謂コンピテンシーを伺い見ることができません。例えば、普段ユーモアあふれる明るい人が一寸緊張状況に直面すると、意外な行動にでて周りをびっくりさせたりするのもこの四つの観点で観察していなかったからといえます。 人事関係に携わる方は是非この1から4をワンセットとしてみてもらいたいと思います。

 

 大阪での商売(笑売)に話を戻しますが、一見(いちげん)さんの客でも二言三言会話すれば直ぐ本音で話しができるような場にするのが「大阪商人」と言われることがあります。「鶴瓶の家族に乾杯」というTV番組で見られる笑福亭鶴瓶師匠のあの自然体はこの大阪人の才覚を見事に表していると思いますので、私のような人事コンサルタントにとっても大いに勉強になります。

 顧客とプロジェクトの成功にむけてのプランを決める上で、顧客会社の成長の歴史や文化、社員気質、現在と今後の見通しを素早く正確に聞き出しメンバーで共有することが必須になります。忙しい会長や社長にも当然ヒアリングするので初対面の折りに最初の5分間で本音を語れる雰囲気づくりをし、限られた残りの時間を質疑に充てるのがとても大事になります(高井先生から5分でなく3分だ、と言われそうですが)。この点でも鶴瓶師匠の周囲への心配りの仕方や、観客(視聴者)の受け取り方への配慮などコミュニケーション全般が参考になります。

 そういえば高井先生は愛知県出身と伺っていますので、上方のお笑い文化と関東の文化の双方の利点についてそれぞれのいいとこ取りを自然に身に付けておられるのでしょう。

 

 笑いは人の交際交流を円滑にする上で摩擦を防ぐ油のように大事なことと思います。

 顔の細かい筋肉が発達した唯一の動物に進化した人類としてそれぞれの顔の表情で多くのことを語り合えるのですからもっとうまく利用したいものです。

  終わり

 

第7回 「真善美」のバランスと働き方改革に思うこと 

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 7月になって去年の猛暑を覚悟していたところ梅雨寒がつづいているようで、わりと過ごしやすいので「ホット」しています。一方で農家にとっては日照不足による作物の被害が出ているので大変だそうです。さらに欧州の猛暑など地球規模で異常な気象にみまわれているのも心配です。日本列島はこれから昨年並みの猛暑になるとの予報がでているので身構えているところです。この拙文が高井先生のブログに載るころは果たしてどうなっているのか、気象庁のAIの実力の程が判明していることでしょう。

 

 さて、本職のコンサルに関連することですが、このところ優れた実績を上げている経営者はアートの心を重要視しているとクライアント先でも話題になるようになりました。 コーン・フェリー・ヘイグループ(8月からヘイの名が消えるそうです、一OBとしては少々さみしいですが)に所属し作家でもある山口周さんの好著 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』にも書かれていますが、「真善美」のバランスのとれた感性とリーダー能力がこれからの経営者に求められるということです。

 「真善美」と言えば、高井先生が昔から強調されてきたワードでもあり、いつの世でもどの地でもあてはまる不変の真理なのでトップリーダー達の訓示などにも再三とりあげられています。そんな中で昨今のITの進展の影響か論理や合理性、効率性、数値偏重に傾いた世の中にあって、人の倫理観と感性と共にバランスを取る必要性が再認識されてきているのでしょう。学歴偏重や没個性を過度に重視する社会の同調圧力から脱皮して、アートの世界のような個性あふれるマルチな価値観を尊重したいという現代のルネサンス運動が起こっているのかもしれません。

 

 この「美」について、高井先生はかつて数十年前にニューヨークで美術の仕事にも関わっておられたと伺ったことがあります。当時のJALのニューヨーク支配人室の駐在員と美術の関係で親しくされていて、偶々私の知人でもあった彼の話題で盛り上がったことを思い出しました。先生は昔から多方面に興味をもち果敢に人の輪を拡げておられたので、そうした縁が縁を呼ぶ姿に感嘆し続けています。

 法曹界の人は論理性を追い求めるので堅くて近づきにくい人達だと昔の私は固定観念をもっていました。しかし意外にも人の感性にも重きをおき芸術に造詣深い人も多い、ということを高井先生から教わりました。子供時代から美術には縁の遠かった私も西ドイツのフランクフルトに駐在していた折りに日本からのお客様の求めで同行した有名な「シュテーデル美術館」のコレクションをみて名画のパワーに目覚めたことを思い出します。今調べるとフェルメールの「地理学者」というのが当時もそこにあったようですが。全く記憶になくとても残念です。時間に余裕ができた今は上野界隈や、旅先、出張先の美術館や博物館に時折いくのですが、その端緒がドイツ時代にあるような気がしています。若い時からもっと真善美のバランスをとって美術や芸術にも親しんでいれば「優れた経営者」の一員になれていたのではないか、と自嘲的な言い訳を考えているところです。

 

 まもなく、参議院選挙です。(この拙文が高井先生のブログにアップされる頃には結果が判明していますが)世界はそれぞれの既存の価値観や固有の文化の大転換期を迎えているようであり、かつその変革スピードが衝撃波を伴う「超音速」レベルになっていると感じます。

 そんな中、政党や立候補者の主張を見聞きすると厳しい時代にイノベーションで挑む迫力と新鮮味に欠けるものや、現実離れした主張もみられ政治家志望者の資質に疑問を感じています。政治は現実対応的なところが目立つのですが、その中に深い先見性から来る方向が含まれているかどうかを見て判断していきたいと思っています。単なる理想理屈だけでは多くの人は動かされないことを選挙で示されればいいのですが。

 

 日本は法治国家と言われていますが果たしてどうでしょうか。元々国民の行為のすべてのケースをもとに法律として文章化するなんてことはできないのは自明です。法律にはこのような原理的条件があるので、裁判所が個別ケースを審議して裁定するような仕組みになっていると思います。その裁定も過去の判例にとらわれすぎると今の社会には合わない結果になるのも当然だと思います。

時の流れのパラパラ漫画で例えれば過去のとある時点の一枚の中で作られたのでしょうから、現在の世の中に必ずしもうまく整合しないのは明らかです。変化する国民の価値観と倫理感に対応しスピードをあげて常に見直し修正が不可欠です。議員には任期中はこれらメンテナンス作業にも、さらには、立法プロセスの無駄の排除にも没頭してもらいたいものです。子や孫の代に真の法治国家を引き継げるように法曹に関わる人達にお願いしたいと思います。

 

 心のバランスをとるためにちょっと明るい話題で締めくくりたいと思います。

 

 探査機「はやぶさ2」が地球から約2億キロと遠く離れた小惑星「リュウグウ」に二度目の着地に成功しました。関係者の輝くような笑顔と喜びようはTVを通じても伝わってきました。あとは地球に無事帰還するばかりです。

 小惑星への着地に向けては、あらゆるケースを想定したシミュレーションは10万回やったので自信はあった、と聞いて改めて感銘を受けました。プロジェクトチームやサポートチームの人達は計画段階から何年もそれこそ寝食を忘れて没頭されてきたことと思います。

一般世間では「働き方改革」で残業削減が叫ばれている中、彼らにはこの探査プロジェクトに参画する喜びと成功にむけての苦労をいとわない気概と努力があったと思います。きっと苦しみも喜びに替える強い達成指向性があったのでしょう。

私の想像ですが、もし労働時間に縛られていればプロジェクトの成功可能性は少なかったのではないかと思っています。

人は大きな目標をもてば好奇心と達成にむけての挑戦意識が活発になり時間を忘れて没頭するものです。平たく言えば楽しくて仕方がない状態です。

そういう意味で一律の残業削減では人間の特性からみて近視眼的なところがあり、それでうまく解決するとは思えません。さらには自由な時間が生まれることで別の問題を引き起こすかもしれません。働き方改革の目玉のひとつではあるでしょうが、状況をみながら多様な方法を見つけ出す必要があると思います。

 「はやぶさ2」の難しい着地成功と同時にその裏にあるメンバーのご苦労や働き方に少し思いを巡らせて、この回を終わりとします。

終わり

 

第6回 人の記憶はパラパラ漫画

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

このところ高齢者による悲惨な自動車事故が多発しています。こうした不幸に巻き込まれた人達の無念さを思うと心が痛みます。

高齢者の中には自動車がまだ一般に普及していない20才前後に早々と運転免許を取得した人も多いのではないでしょうか。当時はオートマではなくクラッチ付きのマニュアル車ばかりでした。私も18才になると廃車で引き取られたダットサンを貰い、車の整備士になっていた中学時代の友人達とで油まみれになりながら「解体・再生」して車検を取った楽しくも懐かしい想い出があります。あの頃は自動車学校も少なく運転免許を取るのも大変な時代でした。ですので高齢を理由に大事な免許を自主的に返納することには裏にある思い出の消去でもあり、相当な決断力と覚悟がいると思います。

しかし、高齢者は個人差が大きいので年齢基準で返納というのではなく安全運転ができる場所、健康、判断力、瞬発力そして技量があるかどうかで合否を判定する厳しい審査の導入が合理的ではないでしょうか。人の命がかかっているので多少のお金と面倒臭さはやむを得ないと思います。さらには審査結果の程度によって運転支援機能がついた車のみ可とかに限定したり、都市部は時間制限や運転禁止エリアを設けるなどの処置が考えられます。インフラ面でも高齢運転者の車の増加を前提に道路状況の改良やフェイルセーフの考え方にたっての安全対策などへの投資も併行してやってほしいものです。高齢者になっても生活に必要なかぎり安全運転がつづけられるように社会の配慮や工夫が求められているように思います。

 

  先月末、50年ぶりに大学の教養課程の同級生15人ほどの一泊二日のクラス会に初めて参加しました。幹事さんから「皆んな、何時お迎えが来てもおかしくない年になったんで、その前に一度みんなで母校に集まろう」と連絡があって気が向いた訳です。卒業後一度も母校に行ったことがなかったこともあり、ほぼすべて忘却の彼方にあったのですがみんなに会えば何か思い出すかな、という気持ちで行きました。いざ集合してみると、ほぼ全員の名前も顔もほぼ覚えていないのに我ながら驚きました。昼食時に自己紹介したあと、みんなで近くの寺社へと散策しながら話をしている裡に驚くほど記憶が戻ってきたのです。しかし共通の出来事の記憶でも人によって違っていることも多く、何が真実かわからなくなっているのを改めて皆んなで実感しました。宿での夕食時には一層打ち解け、遅くまで酒を飲みながら語り合い半世紀もの時間を巻き戻したように感じました。

 世間でも同窓会が盛んになってきているそうです。「おい、お前」で通じる同窓会特有の平等さを再現し、横一線だった社会へのスタートライン時代を懐かしく思い起こせるからではないでしょうか。「バック・ツー・ザ・パースト」も現役を卒業したものにとっては特にいいものです。

 

 では、改めて過去ってなんでしょうか。当たり前に言えば過ぎ去った時間といえますが、どこに行ったのでしょうか。前回までに述べてきた歴史と関連しますのでちょっと考えてみたいと思います。

 

 あるアメリカの人口問題研究機関の推計では、今現在、人類として生きているのは数百万年の間に人類として生まれた総計(約1000億人)の約7%ということです。あくまで推定の域を出ないでしょうが産業革命の頃から人口爆発が起きていて、それが加速度的にますます激しくなっているので、今後ますますこの比率が高くなることでしょう。平均寿命も急速に伸びているので、この先、文明社会は持ちこたえられるかどうかというレベルになっていくそうです。

 

 子供の頃、人は昔の誰かの生まれかわりである、というようなことを言われた記憶があります。悪いことをしていたら動物に生まれかわってくるので、良い子になりなさい、これが輪廻転生ということだと教わりました。勿論こんな単純なことではないでしょうが子供心にはなんとか分かったようでした。しかしその後「ボーっと生きて」大人になったために今もって本来の意味は良く解りません。

 

 最近、過去というのは、遙か昔のことでも、ついさっきのことでも同じではないかと思うようになりました。つまりこの世は「パラパラ漫画」みたいに瞬間の連続でできていて、そのごく一部が脳に記憶されていると言うわけです。時間が経つとそれらがトランプをシャッフルしたように前後も徐々に曖昧になっていきます。昨日おとといはまだしも、数ヶ月前位になると手帳か何かを参照しないと前後すら分からないほどディテールは消えていきます。

日頃みる映画、TV、動画などは一コマ一コマの静止画の連続でできているのですが、パラパラ記憶説にたつと、人間は周りの世界は連続したものと思い込んで錯覚をしているだけで脳のトリックから来ているのかもしれません。周りの情景の一コマ数コマが脳に記録され記憶になっているとすれば記憶の操作もなんとかできそうです。自分にとって都合の良いことだけを取捨選択して記憶ができれば悩みごとも減るのではないでしょうか。勿論反対側に行けば大変なことになりますが。

 

パラパラ画像の一コマは自分の五感をとおして作成記憶されたものですから、たとえ家族でも記憶されたコマの絵が異なるのは自然です。自分が蓄えたコマを基に家族や人に何かをアドバイスするとしても100%通じる保証はありません。ただ共通のコマを多数もっていることで通じ合う可能性がたかまるのは間違いないでしょうけど。

 

抽象的に思考でき、記憶と読み出しが高度にできるようになった人類だからこそ一人一人違う個性を持っているのでしょう。できるだけストレスをためずに現世でうまく生きていくためには過去の一コマ一コマを編集して、いらないものを忘却の彼方におくったり、良いものは記憶を強化したりすれば効果的です。そして、これから巡ってくる未来のコマをあらかじめうまく選択して記憶できるようになっていくと思います。信じるか信じないかですが楽天的で成功者になった人達は割と自然にこれができていて「成功例や失敗例から学ぶ」が身に付いている証明であり結果ではないでしょうか。

 

人口爆発がつづく現代、科学の加速度的進歩により膨大なデータが集められるようになりました。やがて人の人生を通じて心の奥まで覗けるようになっていくかもしれません。すべてを順序良く何でも記録・記憶ができるITにAIが取り込まれると、人のパラパラ記憶が太刀打ちできないのは明白です。人間にとって果たして良い時代がくるのかそうではないのか分かりませんが人間らしさの特性をどの辺に残していくのか考えどころです。輪廻転生でこの次は人口知能に生まれかわらないよう願いたいものです。

終わり

 

第5回 平成から令和に、歴史の見方を再考する

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 5月1日に令和の時代が始まりました。陛下の即位の儀など宮中の行事のほか、史上初の10連休中のTVは観光地や渋滞情報など、お定まりの画像を流し続けていました。空陸交通機関の混雑に巻き込まれたけど連休を楽しんだという人達にとっては、素晴らしい連休だったでしょう。

 

 昔、航空会社にいた私や当時の仲間にとって、連休はいつもよりも忙しい時期であり休む間もなく汗を流していたことを思い出します。あの頃は自分達の家族旅行を後回しにしたので、皆、家では肩身の狭い思いをしたものです。今の時代はさらに、いわゆるサービス業の人達が増えているので長い連休にもかかわらず休めなかった人も格段に多かったと思います。人手不足の中ではあるものの代わりの連休がとれてリフレッシュできる人が増えるような世の中であればいいと思います。

 

 そこで祝日の数は世界ではどうなっているか、興味を持ちました。先進国では日本が16日とダントツに多く、英国は8日、ドイツ9日、アメリカ10日、フランス11日というのが分かりました。それぞれの国の事情で多少の増減があるとしても、日本よりはかなり少ないです。欧米ではキリスト教や建国に関係する祝日が多く古くから続いているようです。祝日は祈りを主にした過ごし方が伝統的に設けられていたのでしょう。

 ですので、バカンスは長期有休の活用で楽しむという習慣が定着しています。年初に有休取得の年間計画をたて、周りとの調整を経て決定します。皆そうするので遠慮なく「お互い様」で長期旅行に出かけます。ドイツ時代、この経験から計画的取得の一面の合理性を実感しました。日本でも有休の計画的取得を職場全体でしない限りうまく拡がらないと思います。

 有休に関わるエピソードですが、長らく病欠を取っていた人が復帰してきた時のこと、計画通り取れなかった有休を年度内に残りをすべて取ったことでした。その根拠は、病欠は病欠、有休は有休として取るというものでした。日本では急な病気に備えて有休を残しておこうとしていることを言うと現地の人達は信じてくれませんでした。その時、祝日、病欠、有休の意味づけはドイツ流の方が理にかなっていると思いましたが、帰国したら直ぐ日本流に馴染んでしまい以来、有休を十分消化しなかったのは現役時代の心残りです。

 

 今、日本では労働政策の一環として有休日数をもっととりましょう、という方向に向っています。今後70才まで現役でという流れにあって働く人や家族の心身の健康維持からも良いことと思います。学校も含めて世の中全体で計画的取得が習慣化すれば、混雑や渋滞の緩和や、旅費などの低価格化など、好循環をもたらすメリットが大きいと思います。そうなれば祝日の在り方も考え直す機会になることでしょう。

 

 有休取得にまつわる現実は期中に転勤や異動などがあってなかなか計画通りに行かないという声が出そうです。本気で有休取得を進めるなら人事運用上の攪乱要素の方を改めて行くほうが早道かもしれません。

 休暇の半分を休養と家族のために、半分をキャリアアップ、専門能力アップのために使うことができます。 「計画的に」ということは現役だけではなく「毎日が(ほぼ)日曜日?」のリタイヤ組にとってもサミュエル・ウルマンの「青春」を実行していくのにも有効なのは間違いありません。

 

  さて、連休中のTV特集のお陰で私は古くは神話の時代からの日本の歴史に思いを馳せることができました。 考えてみれば、歴史上の史実は時代を遡るにつれて「一次資料」(その頃の当事者が関与したもの)が少なくなっていくため、史実の殆どが後に記されたもの(二次資料、伝聞資料)に基づいています。真実かどうか良く解らないものも何度も引用されるうちに史実とされ歴史になっていきます。 

 英語で歴史はヒストリーですが、物語のストーリーと同じ語源だそうです。昔の人は物語と歴史はほぼ同じと思っていたのでしょうか。つまるところ、一つの歴史は一部の真実をきっかけにして、誰かが想像力豊かに創作した物語ということではないでしょうか。ですので、どこかの蔵や地中から貴重な一次資料が発見されれば、それを基に新たな物語が生まれ、やがて歴史の一部になっていきます。

 近年、聖徳太子は存在しなかった、鎌倉時代は1192年から1185年からに修正、江戸時代に国内安寧のため一部の国との交易に制限したものの貿易はつづいていた、などと常に教科書も修正されている訳です。

 現在、誰一人生存していない「近過去」の事柄は史実を含むノンフィクションになり、そして、その前の過去はノンフィクションを含むフィクションになる宿命を持っています。私はこの事から歴史を色んな説や作家の見方として楽しむようにしています。邪馬台国はどこにあったのかなど論争がありますが、新発見でもない限り当面は水掛論でしょう。ちなみに私は邪馬台国は大和国、卑弥呼は姫子のことと単純に思っていますが、勿論、確たる根拠はありません。それでも論争を楽しみつつ歴史のロマンに思いを馳せています。ついでに言えば、あらゆる事象は各々何処かの場所で起こったので、そこの地形や植生など地理的環境状況、時刻や、天候、など事象にまつわる環境をもイメージするようにして楽しんでいます。高井先生がTVドラマの作品を書くつもりでビジュアルに証拠書類を書きなさい、と言っておられるのも同じ発想だと思います。時代考証は画像構成上、避けられないからでしょう。

 

 歴史は節目を見つけて時代区分されています。日本の歴史は遺物の多い縄文時代から始めるようです。とても地味な時代と思いますが、なぜか古代にロマンを感じるいわゆる「縄文女子」が増えているそうです。50年ほど前の学生時代には発掘実習もやりましたが、女子には振り向きもされませんでした。隔世の感が否めません。さて、縄文時代は何年続いていたかというと答えはなんと1万年以上です。普通の人が300回以上の世代を重ねる、生物として進化がおきるような長い時間です。後の弥生時代は1300年程つづきますが、弥生の後期が西暦元年にあたります。感覚的には西洋よりも日本での時間は極めてゆっくりと平和の裡に過ぎていたように思います。氷河期が終わったあとも厳しい寒暖サイクルあった時代生活の糧の農耕を維持する上で集落の協力と平和が大事だったのでしょう。

 

 私ら昭和世代は時代の長さよりも特異な事象のことに重きを置いた教育を受けてきました。明治から大正・昭和・平成併せて約150年、鎌倉時代の150年とほぼ同じですし、平安400年、室町と江戸はそれぞれ260年、安土桃山は30年で平成と同じくらいです。歴史小説や映画、TVドラマでは、やたら戦さものが多いので、血なまぐさい歴史が続いていたように感じますが、こうやって改めて時代区分の長さを考えると日本は想像以上に戦さが少なく平和が長くつづいていたように思えます。

 

 令和の時代、日本はもとより世界の紛争が人の叡智で終息していき、平和な事象が歴史に記録されるようになれば嬉しいのですが・・。

終わり

 

第4回 意志あるところに道あり

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 4月1日に新元号「令和」の政府発表がありました。報道によると、多くの国民が新しい時代を迎えるという感慨をもったようです。一方で、国際化、情報化時代にあって日本独自の元号をつかうことは時代にそぐわない、といった意見も紹介されていました。しかし、大方は新元号を歓迎していて節目の重みを大事にする日本人の心理性向の根強さを感じました。昭和、平成、これからの令和と三代に亘って生きる私世代も令和時代をどのようにしてすごそうかという思いでいるところです。

 

 4月に宇宙関係の大ニュースもありました。

 小惑星探査実用機「はやぶさ2号」は現在まで順調な飛行をつづけているとのことです。JAXAの人達はもとより、膨大な精密部品づくりに貢献されてきた中小企業の方々はヒヤヒヤしながらも自信を深められたことと思います。まだまだ続くミッションを完全に成功させて、2020年末に予定されている無事帰還が期待されます。

 もう一つのビッグニュースは宇宙の神秘の一つ、ブラックホールの写真が公開されたことです。時間と空間の物理の常識が通じないブラックホールの写真は撮影することができないといわれていたので驚きでした。ブラックホール自体は真っ黒になっている実際の写真をみると、いままで理論に基づいてCGで作られた画像とそっくりだったので、人の想像力の素晴らしさにも驚きました。

 南極を含む世界各地の電波望遠鏡を原子時計で極めて正確に同期させ、地球規模の仮想電波望遠鏡(電波干渉計)の膨大なデータを2年かけて国際チームで処理した結果だ、という顛末を知り、改めて天文物理学者達のすさまじい執念、好奇心、智慧、国際協力など彼らの功績に感嘆しているところです。

 直径一万キロに相当するこの電波干渉計は、人間なら「視力300万」の解像力に相当し、月面においたテニスボールを識別できる位と聞いて科学技術のすさまじさを感じた次第です。まさに宇宙の神秘をなんとか知りたい、という学者達の共通意志がひとつ実ったわけです。

 高井先生もよく引用される言葉「意志あるところに道あり」、この言葉はリンカーンが言い出したとされ、あのアインシュタインも1922年の来日時、帝国ホテルのベルボーイにお礼の意味でこれを書いたメモを渡したという逸話を思い出しました。やはりスーパー天才も自分に言い聞かせながら業績を積み重ねていったのかもしれません。

 

 桜が満開になり気分も上向く4月はまた新年度をむかえる児童や学生、新入社員にとっては新しい道に踏み出す月でもあります。新入社員を迎える側でも期待を込めて待っている頃でしょうか。採用の場では良い人材を求めて売り手市場になった昔風にいえばこの「金の卵」をどのように確保していくかに知恵を絞っていたことでしょう。

 就職サービス関連会社のデータでは、キャリアアップをするために4割程度が将来転職を考えながら入社している、といわれ、また早期退職率では学歴にかかわらず新入社員の3割程度が3年以内に実際に会社を辞めているということです。

 

 新しい環境や仕事につくと誰でも不安な気持ちになり適応できるかどうかで悩みます。それを乗り越えて新たな展望を開く人と、辛抱ができずに適応努力をしない人とに分かれていきますが、職業人生航路の第一歩として選んだ仕事や会社になじめないとすればそれは多分不幸なことだと思います。昔から「石の上にも三年」という諺もありますので兎も角、初めての仕事に全力で取り組んでいくのが大事と思っています。自分に合うか合わないかはその後に、つまり3年経った後くらいに決めても遅くないのではないでしょうか。

 

 働き方改革の中で、AI(人口知能)やICT(情報通信技術)の著しい進展の先には、今は花形の仕事もいずれAIに取って代わられるなどといわれています。そのために今のうちに副業や複業をして、時代の流れに耐える能力を身につけておいた方がよいなどとの意見もかなりでてきています。

 その背景には「終身雇用」が徐々に崩れてきている事実があるのでしょう。しかしながら、現実には身近に迫っていると実感している人は少ないのではないでしょうか。有名会社が副業を認める制度をいれたなどとの報道を見かけますが、みんなが副業を始めたら、それこそ新たな社会問題を起こさないか、よく考える必要があると思っています。

 

 欧米では一般に終身雇用ではないのが普通ですが、(だいぶ昔のことですが)私の通算10年ほどのドイツ・アメリカでの経験では現地の同僚達はできるだけ今の仕事をつづけて安定した生活を送りたいというのが普通でした。勿論、高みを求める人達はキャリアアップと収入アップを求めて転職していったのも事実ですが、欧米の文化の中では自己責任で生きていくというのが基本なので多様な価値観が併存は当然で、どちらでも良かったのかもしれません。

 

 日本では終身雇用が続けられる会社ではそれを続けて人々の安定生活を支える努力が今後も求められるでしょうし、会社生命が比較的短い浮き沈みの多い業界にいる人については、自分が進んで行きたいキャリアパスとそのキャリアラダーを想定してそれに必要は能力アップをしていくのが大事です。そのためには自分の性格、行動特性、得意分野、好奇心を持続できるエリア・楽しさ、粘着力、語学力、教養の程度、などなど冷徹に自分についての棚卸しが求められます。これを怠ると、自分向きと思って転職したとしてもそこで困難に直面すると又々転職を考えるという、いわゆるジョブホッパーになって人生の大事な時期を無駄に過ごすことになってしまいかねません。日本では転職が狙い通りうまくいく人はまだ少数だと思いますのでこの事実をよく見つめておくべきでしょう。

 

 最近、外資系に入社するのが就職を控えた優秀な学生さんの間で人気だそうです。確かに日本の会社に入る「就社」というより、はじめから専門分野を決めた採用方式をとる外資系は魅力的に見えるのでしょう。外資系では、おおむね能力・成果主義に基づく企業文化ですので、それを理解して厳しい状態に自分を置いて自らを磨きながら挑戦していくという若者には適しています。例えばアメリカに生まれ育ったつもりで就職し、自ら主体的にキャリアを築いていくのと同じことですので格別難しいことではないかもしれません。外資系にいた私の経験では、論理がすべてと考える人は成功していないように思いましたし、教養が豊かで喜怒哀楽といった人間そのものを理解する人でないと成功しないと思います。やはり人間の基盤は世界共通だという証かもしれません。また、日本の受験競争を勝ちぬいた実績そのものは実社会ではあまり役立たないでしょう。仕事では答えのない課題が多いので、事にあたっては「論理的に考え」、且つ、高井先生が言われる「ハートで考え」、そのバランスに立って最善の案をみちびきだして実行しなければなりません。

 外資系の門をくぐった人は、このところを良くわかって活躍してほしいものです。

 

 4月という春の心あらたまる頃にあって、今年のトピックスをもとに、新入社員に対して、あるいは迎える側としての思いを、「意志あるところに道あり」に込めてみました。

 そして5月からの「令和」時代が、文字通り美しく平和であることを願いつつ。

終わり

 

 

第3回 歴史・地理学の役割とホモサピエンスの責任

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 かつて、詩人サミュエル・ウルマンの「青春」という詩が経営者の間で流行ったことがあります。松下幸之助さんが座右の銘にしていた、というので脚光をあびたようです。

 それは「青春とは、人生のある期間をいうのではなく心の持ち方を表す。優れた創造力(想像力)、逞しい意志、燃えるような情熱、勇猛心、冒険心、・・・ 年を重ねただけで人は老いない、理想を失うときに初めて老いが来る。・・・」というものです。

 私がこの詩を知ったのは20才代後半と思います。当時、定年は60才というのが主流でしたので、定年退職者表彰式の記事を読むと、多くの社長さんがこの詩を引用し、退職者を送り出されたようです。今、世の中は年を追って高齢者が増加していますが、元気に「青春」を実行されている人も多く見かけるようになりました。高井先生はこの言葉どおり青春まっただ中で活躍されていますが、私はじめ周りにいる仲間の多くは少々くたびれて「半分青い」くらいか、あるいは「白秋」を迎えているのが現状です。高井先生を見習って「青春」に返ることを目指して過ごしていきたいものです。

 

 ところで、私は初回で、歴史地理を学んできたことを書きました。その頃の気分に戻って、本当の「青春」時代を少し振り返りながら、実老人の「青春」の思いについて書きたいと思います。

  私の地理学の恩師は考古学と地理学を極め、独自の歴史地理学を築き、教えていた人だったですが、とりわけ野外での巡検(フィールドワーク)を大事にしておられました。

 この学問はその場所に行かないと真の研究にならないという信念から地理学教室の面々を恩師の巡検に同行させ指導するスタイルでした。今の時代でいう率先垂範、現場主義ということでしょうか。いまその時を思い返すと結構その後の旅行の仕方に影響していると感じます。景色を眺めながらその地に暮らす人々や歴史を想像する癖となって残っています。

 

 歴史地理学の研究では、対象地域の名士のお宅を訪れて古記録や古地図など資料を収集したり、古老の話をうかがったりしながら調査と解読、解釈をしていきます。正直、古文書を読むのが大変で苦労した思い出があります。この過程で好奇心と探究心、忍耐力、粘着力、推理力などが身に付き始めたように思いますし、誰もよく知らない庶民や農民漁民の知恵や工夫の歴史を垣間見て、高校で習う権力者の歴史だけが歴史ではないと考えるようになりました。尤もこれはマニアックかつ地味すぎて世間受けはしないですが。

 

 義務教育や高校では他に学ぶべき多くの事柄があるために「主な歴史的事象」とその年号などを主に学ぶようです。大学受験でも歴史や地理はあまり重視されていないので、大学生か社会人になって興味があれば歴史書や小説、旅行、映画、TVなどで勉強してください、といったことになっていて残念です。日本は地震、火山など災害の多い国で歴史的、地理的要素が防災、減災に大きく関連するのでもう少し重視した方がいいのではないでしょうか。歴史に造詣が深い経営者も多くおられるので社員の採用の際には、その人の思考過程に歴史が含まれているかどうかを考慮していただきたいものです。

 

 さて、地理学ですが人間の歩みを研究する歴史学と重なるところもありますが、自然環境とのかかわりにおいて、地形や気象条件の違いからくる多様な地域社会の姿、独特の文化を研究する分野です。古くはドイツの地理学者が唱えた決定論「人間の活動は環境とりわけ自然環境によって支配されている」、フランスの地理学者が唱えた可能論「人間は自然に干渉し、自然に服従することはない。人間の叡智・技術による限りない未来への可能性」と両論のせめぎ合いがありました。

 要は人間と自然環境のどちらに重きを置くかであって単純に割り切れない問題であるものの、色んな分野で派生的に研究されています。例えばダーウィンの進化論は適者生存が幹にあるので決定論に寄っていると思いますし、さらに昨今の自然災害を考えると地形、気象など圧倒的な自然力に対して人間の文明が太刀打ちできないのをみると決定論が優勢と言えます。どうでもいいように思われるかも知れませんが、原発立地などの報道をみていると議論は可能論と決定論の戦いであり、両論での整理をして落としどころを探ればより建設的な議論ができるのではないかと思います。

 

 この3月11日で東日本大震災から丸8年が経ちました。すさまじい地震と津波は地球の巨大なプレートの動きに因るものでした。

 日本列島は2千万年前あたりから大陸の一部が離れてゆっくりと作られ、現在の形にだいたい落ち着いたのは2万年前くらいといわれています。この変動は、止まることなく少しずつ進行しています。そうなっていることは頭ではわかってはいるのに今日明日に大きな変動は起こらないだろうと楽観しがちですが、人間は「茹でカエル」状態が心地よく感じていられるほど短命だからでしょう。

 

 近所の団地造成現場をみると、小高い丘を削って谷間を埋めて一面平らにする工事が進んでいます。いずれこの地に家が建つでしょうが、大きな地震がくると谷間だった部分は崩壊リスクが高いでしょう。地理的特性・個性を考慮しないで経済効率優先で地表の細工をつづけているわけです。福島第一原発も元々高さ30mあった場所を炉冷却用海水循環の効率化のためか、わざわざ大幅に「嵩下げ」して建設したことが基本問題と考えられます。 仮に標高を下げたら補助電源とその燃料を頑丈な高所に複数置くとかのトレードオフ対策をしておく必要がありました。発電所なので自然災害時であっても冷却電力を失うことはない、と考えてメルトダウン絶対阻止の二重三重の対策をしていなかったのでしょうか、残念です。何せ相手はなにが起こるかわからない自然の営み、しかも千年万年単位のスパンで起こることですから、可能論ではなく決定論にたって考えておくべきだったと思います。

 

 私達は太陽という巨大な核融合炉からあまたの恩恵を受けています。太陽エネルギーが太古の昔から植物や動物にその形を変え、その蓄積された石炭、石油や天然ガスなどのエネルギー資源を急速に消費していることを人はあまり意識しません。今や、超巨大な石油タンカーやLNG船が日常的に航海しています。万一の重大事故に備えてフェールセーフ策がとられているのは当然ですが、設備の劣化、システムの欠陥、人的ミス、さらにはテロなど人間起源のリスクがあるのも昨今の姿です。こうしたことから地球規模の災害につながりかねない時代ですので、歴史的地理的視点も取り入れ、広い視野と長い時間スパンから文明社会の諸問題を考えるようにしたいものです。

 

 われわれホモサピエンスの最大の責任は、あらゆる動植物の運命を左右する地球の環境保全に尽きるのではないでしょうか。 

                                       終わり

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