『日本経済新聞』仕事人のための接待学の最近のブログ記事

 

「仕事人のための接待学」 高井伸夫

第10回 節度知り気後れなく

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年6月14日掲載

 

 日産自動車が行った「仕事上での接待を辞退する」などの「接待禁止」宣伝に対して、ソニーの大賀典雄会長(当時)やトヨタ自動車の奥田碩社長(当時)は「続ける」と言明している。

 大賀会長は「企業としては、景気に水をかけて冷やすような行為の決定は、厳禁だと思っています」(雑誌『財界』1998年5月19日号)。また奥田社長は「日本の慣習として必要不可欠で、トヨタとして全廃する考えはない」(日本経済新聞1998年5月21日付)と述べたという。

 すべての接待を拒否することは、人間が社会的動物である、すなわち意思疎通、心の交流を図って生きる存在であることを看過した見解であり、手厳しいシッペ返しを受けるだろう。

 これについては「経費削減なら分かる。接待はすべて後ろめたいとなると過剰反応ではないか。接待で疑似的な仲間関係を作るのは欧米でも同じ。要は節度、規律の問題だ」(日本経済新聞1998年5月21日付「春秋」欄)という指摘もあった。もとより妥当な評論であろう。

 節度といえば、民・官の贈収賄などと同様、民・民にも涜職(とくしょく)罪があることは、ほとんど知られていない。

 商法第493条(現・会社法第967条)は、取締役等が職務に関し不正の請託を受け財産上の利益を収受・要求・約束したときは5年以下の懲役または5百万円以下の罰金(1項)、利益の供与・申し込み・約束を為した側の者は懲役3年以下の懲役または3百万円以下の罰金(2項)に処せられる旨規定している。

 この条文は現在、事実上死文化している。だが、競争の時代となり、ルールの適用が日々厳格になるにつれて、この条文が生命力を持つ時代が間もなくやってくるだろう。接待がこれに該当するとされる時代も見込まなければならない。

 さて、「接待は社会性を持つ」と言ったが、そのことを学ぶに好適な書物がある。西川恵氏著『エリゼ宮の食卓』(新潮社刊)である。

 社会主義者であったミッテラン前フランス大統領がいかにその「饗宴(きょうえん)と美食外交」を尊び、実践してきたかを活写し、同大統領の教養とフランス文化を体現する行為として接待が行われていることを語っている。

 接待を否定することは、教養の披露と文化の交流を否定することにもなる。接待は、その意図を昇華せしめる人間性を必要とするという大前提で、気後れなく取り組めば、何の恐れを持つ必要もない。(終)

 

※編注:2019年3月現在の事情に合わせ、一部加筆いたしました。

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「仕事人のための接待学」第9回 高井伸夫

官とは「淡交」基本に

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年6月8日掲載

 

 「君子の交わりは淡き水の若(ごと)し」(荘子)とあるが、先般の大蔵省や日銀の職員への過剰接待事件は、この「淡」の精神を忘れた結果、起きた事件である。大蔵省の局長が国会でこの問題に関し「民間との一般的な交際はある程度やむを得ない」と弁解したが、実態は「ノーパン○○」をねだる、せがむなど、およそむちゃくちゃが日常化したものであったようだ。

 「淡交」こそ接待、特に官の接待の基本になる。

 民が官との関係において猥雑(わいざつ)な接待に陥る根本的な原因は、官が権限・権益を独占し、ほとんど情報を公示・公開しないこと、何人もそれに介入できないところにある。

 民間が激しく競争をすることが国民的福利につながる以上、民が情報に近付く努力をすることは、極めて自然な行動である。官の独占と民の競争との間に整合性を得るためには、官の情報の公開が急務なのだ。

 そうすれば、いびつな接待の意義は大いに消失するであろう。しかし、官もまた民情に通じるためとして民の接待を受けたがるのが現状であるのは、前記の局長の弁解の通りである。

 ところで、力のない、許認可に縛られた業界・人物ほど盛んに接待をする。我が国の代表的国際企業がそうでない企業より接待の頻度が激しいとは聞かない。逆である。商売に自信のある企業ほど、倫理観が発達しているともいえる。

 さて、仕事ができて、人間味もあるといった役人は残念ながら多くない。だから、キーマンにターゲットを定め、人間関係を構築すべく接待しなければ意味がないという。キーマンとは一般職員、係長、課長、幹部の各階層をそれぞれ取り仕切っている人である。難しい質問に答えてくれる人、あるいは仕事の再に発言している人である。

 新しい情報、ざん新な情報、得がたい情報を得るには彼らとのコミュニケーションしかない。信頼関係を形成するためにはなおさらである。贈答品に始まる様々な接待のチャンスを生かしてコミュニケーションを図ることは必要不可欠である。

 ただし、それを公然と行う。まずは役所が主催する歓送迎会に差し入れすることだ。役人を接待するポイントは、要するに「その機関を接待するのであって、個人を接待するわけではない」というスタイルをとることである。

 もっとも、物の授受にあまり効き目はない。一番重要なのは、相手に対してさわやかでひとかどの人物であると印象づけること、評価を受けることである。

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「仕事人のための接待学」第8回 高井伸夫

ゲストの居心地配慮

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年6月1日掲載

 

 女性を接待するくらい難しいものはない。なんといっても、ゲストである女性に居心地の悪い思いをさせないことが必要である。

 女性の接待は、相手を褒(ほ)めて相手の気分を良くさせるような雰囲気があったほうがいいだろう。相手に苦言を呈したり、何らかの関係がある事項について批評するような言葉は禁句だ。繁盛している店の大将や女将(おかみ)に聞けば、その営業の秘けつは女性に好かれることだと必ず答える。

 実際の接待では、まず、メンバーの組み合わせが重要である。一対一での夜の席は気まずい。三、四人となれば、お互いに気楽である。時間帯も、夕食時より昼食時の方がよいだろう。昼食時の方が仕事の一部というイメージがあり、女性に好ましい印象を与えるからである。

 やむを得ず夜の会食となった場合も、会社の終わる時間、会社からの距離、自宅への道程といったことを念頭に置く必要がある。

 また、お酒が入ると仕事の話をしにくい雰囲気になりがちである。仕事の話がある場合は、食事前の三十分くらいをそれにあてることが望ましい。店の選び方も、靴を脱ぐ場所を避けるなど、配慮が必要だ。

 女性だけ、または男性だけに通じるような話題は避けた方がよい。また、女性の身上について質問するのは、セクハラとして嫌われる可能性さえある。

 例えば、男性がよく用いる「お若いですね」という言葉があるが、それは決して褒め言葉ではない。「お若いですね」と言われると「いいえ、若作りなんですよ」と答える女性が多い。本当に若い人には言わない言葉なのだということを分かっていない男性が実は多いのである。

 砕けた話になる場だからこそ、話題の選択には心しなければならない。こうした場面ではやはり、企業の問題、公の問題が無難だ。

 女性の接待にあたって用意する効果的なプレゼントとしては、花、ワイン、ケーキなどがある。例えば花を贈る時にメッセージを添えるなど、いずれもセンスがあってお洒落(しゃれ)なものである。

 しかし、女性への接待は男性以上に効果があるものではない。女性は正直なのである。このスピードの時代に接待してもらって、単におだてられてよい気持ちになるだけに時間を費やす女性は少なくなった。

 女性にとって意味ある接待は用件があってのものだという。単に「飲んで・食べて・騒いで」という接待は好まれず、違和感を抱かれるケースすら多い。

 

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「仕事人のための接待学」第7回 高井伸夫

ホームパーティー一番

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年5月25日掲載


外国人の接待について、特に気をつけなければならないのは、好みがはっきりしていることだ。

かつて日本が輝いていた時代、銀座松坂屋の近くに超高級クラブ「アポロン」があった。ジョージ川口氏が毎日のように出演し、バンド演奏の幕あいにバイオリン弾きが登場するなど、しゃれた趣向が凝らされていた。

そのクラブでは、ロンドン、ニューヨークから欧米人が数多く楽しんでいた。彼らは日本に出張するに際し、「アポロン」を指定し、そこで接待を受けることを半ば目的にしていた。「アポロン」社長の清水昭氏から「外国人は極めてはっきりしている」というお話をうかがったことがある。

また、新橋「京味」の大将、西健一郎氏からも同じようなことを聞いた。花柄プリントで著名なブランド「レオナール」社長のダニエル・トリニアール氏は日本へ出発するに先立って、わざわざ「京味で食事を」と指定してくるという。

いずれにしろ、外国人はそれぞれ固有の価値観を持ち、価値判断が明確なのである。日本の社会では、接待先に「どこで接待申し上げましょうか」とお伺いをたてると、大抵「おたくに任せた」とか「どこでもいいよ」といったあいまいな答えが返ってくる。これもまさに国民性を物語っている。外国人の接待の前には必ず相手側の意向を確認して臨まなければ、満足してもらえず、百の準備も無意味になってしまう。

さて、例えば私が外国人を接待するときは、日本精神の神髄に触れることのできる神社仏閣に案内する。歌舞伎、相撲にはもう慣れている外国人が多いから、西芳寺(苔寺=こけでら)に案内して写経してもらうのが一番。

それが時間的に無理なら明治神宮に案内し、さらには浅草寺にお連れして、その隣で蕎麦(そば)屋十和田のママであり、かつ「浅草かみさん会」理事長の富永照子さんにお願いして「振りそでさん」を配置してもらう。これがことのほか評判がよい。

外国人の接待で最も有効なのはホームパーティーである。私は、八年前、モスクワ大学で講演したことがあるが、そのお礼にログノフ総長を自宅に招待した。ログノフ総長持参のウオッカと我が家で用意した日本酒を酌み交わしながら談笑したが、それ以来極めて親しくさせていただいた。

要するに、自宅に招いてアルコールをいただきながら談笑することは、言語の障壁を超え、民族を超えて親近感を抱く最たる術と言ってよい。

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「仕事人のための接待学」第6回 高井伸夫

 まず「捨て石」を置く

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年5月18日掲載

 

よほど親しくない限り、いきなり「○月×日にお食事はいかがですか」とお誘いするのは、少し品がないばかりか、時に相手に戸惑いを与える。上手な誘い方は、「捨て石」を置くことから始めることだ。

捨て石とは、何かのお話し合いの別れ際に「いつかご懇談の機会を……」といったご挨拶(あいさつ)をし、あるいはお会いした後の礼状に「改めて夜分にでもご懇談の機会をいただければ幸いです」という一節を付け加えることなどをいう。

しばらくたってから、電話などで懇談を正式に申し入れるのである。直近の日を希望するのはあまりよくない。一般に、急いでいるという雰囲気を与えるのは適切ではないからである。

捨て石を置いたまま、放置してはならない。懇談、すなわち接待を期待している人もいるから、それを裏切ることになる。リップサービスで「いずれご懇談の機会を」などと言うのも控えるべきである。

「おいしいお店があるので、今度お連れ致します」といった誘い方もある。それには、まず相手の趣味・趣向を知ることが大切である。人間だれしも好きなものに誘われれば、興味・関心を持つものである。

そして、「折り入ってご相談申し上げたいことがございます」と続けることになるが、この種の口上を述べると、何かオブリゲーションが生ずるのではないかと不安がる相手もいよう。

そのとき「もちろんあなた様にご迷惑をお掛けするようなことは致しません」と安心させることを忘れてはならない。内容については「あなた様にはあまり負担にならないところで参考意見をお聞かせ頂きたい」とするのもよかろう。

接待の設営もクロージング(商談の最終場面で商談そのものをまとめあげること)の一つである。営業力というのは、結局のところクロージングにかかっているが、接待の場の設営すらできないようでは、営業力があるとは言えない。

この忙しく、またとかく接待が色眼鏡で見られる時代には、大義名分が極めて大切である。それは勉強させていただく、教えていただくという姿勢である。例えば私は様々なテーマで執筆するが、「取材をお願いしたい、教えて頂きたい」とお話をすれば、ほとんどの方が懇談、すなわち接待にも快く応じて下さる。

執筆するとは、社会に問うことであり、それが公益性につながるから、皆様も協力して下さるのである。接待の目的をいかに社会性ないしは公益性につなげることができるかが肝要なのである。

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「仕事人のための接待学」第5回 高井伸夫

 「残心」表す土産・礼状

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年5月11日掲載

 

接待は通常、レストランや料理屋で行われる。

このような接待の場でも、お別れ、すなわち接待が終了する時間が来る。その時に一番大切なことは、「見送り」であろう。

見送りを欠かす接待はまずないと言ってよい。それは「残念」という世界である。

残心とは、“貴方様とお別れするのはいささか寂しゅうございます、残念でございます、引き続きよろしくお願いします”ということを意味する。それをより嫌味なく、さわやかに演出することが必要なのである。

最初に思い付くのはお土産をお渡しすることである。本当に気持ちばかりのものにとどまることが多いが、そのお土産を持って自宅へ帰っていただくというプロセスにおいて、接待の効果、要するにコミュニケーションといったものが継続していくのである。

このような接待におけるお土産の重要性は言うまでもない。接待される側もお土産を用意していくケースが多いが、それは“貴方との心の交わりを大切にしていきたい”という意思表示であると言ってよい。

さて、私は実はこの接待する、されるいかんにかかわらず、翌日ファクスなり郵便でお礼状を出すことにしている。

接待の機会を得たこと、あるいは受けたことに対するお礼を申し上げるだけではない。接待の場で話題となったこと、お約束したことについて少しばかり触れて“お忘れしていません”と述べるのである。

それによってコミュニケーションはより強固なものとなる。なぜならば、「詞は飛び書は残る」というローマ時代からの法諺(ほうげん)がある通り、書面にしたものは心に刻み込まれるからである。

我々は、耳で聞くという認識方法と物を読むという認識方法の二つを持っている。そのうちどちらがより効果があるかといえば、言うまでもなく文字を読むという認識方法である。

鳥でも獣でも耳で聞くことはできるが、物を読むことができるのは人間だけである。すなわち物を読むことは耳で聞くよりも努力を要するが、より理性的であるだけに、より定着性が高い。お土産と手紙は接待の場の状況を再現するだけでなく、より深く持続的に浸透させるのである。

そして、接待の場では、とかく軽い約束をしがちであるが、約束したことを実行することがもちろん大切である。本当に実行してくれたかということによって、信頼性が高まる。信頼関係は有言不実行ということではあり得ない。

※この記事は当時の内容のまま掲載しています。

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「仕事人のための接待学」第4回 高井伸夫

 「飲食」の本質とは

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年5月4日掲載

 

結婚披露宴では、一通りのあいさつと乾杯が済んだ後は宴席となる。これには一体、どんな意味があるのだろうか。

結婚は三三九度の杯で始まるが、それは同じ杯でお酒を酌み交わし、終生を誓い合うという象徴的な儀式だ。披露宴も招かれた客が待合室でお茶を飲んだり、アルコール類を飲んだりすることから始まる。お茶を飲むことがどんな意味を持っているのか。

聖書の有名な場面に「最後の晩餐(ばんさん)」がある。キリストと十二人の弟子たちが、共にワインを飲み、共に食する。ここでもまた、飲食の場を信頼関係を確認する儀式としており、飲食を共にすることが人間関係、信頼関係の基礎であることを暗示しているのである。

古(いにしえ)においては、毒味をして、同じものを飲んで、お互いに信頼し合う関係を確認していたのであろう。

中国の宴席では、まず、主・客の杯になみなみと酒が満たされ、主が底の一滴まで飲み干し、再び注がれた酒を一同で「乾杯」し、これの繰り返しで宴いよいよたけなわとなるが、これも「この酒には毒など入っておりません。安心して召上がり下さい」といった意味がこめられていると思われる。

このような接待の意味するところからすると、例えばゴルフ接待の場合、ゴルフだけを共にして別れたのでは、接待の意味が半減してしまう。ゴルフの後、飲食を共にすることで、感動も接待の効果も倍加し、心を許し合うことに近付く。感動を共にする。すなわち共感こそが接待の本当の目的であると言ってよい。

さて、決定的な共感・共振を得るには、人間味という醍醐味(だいごみ)を味わうこと、味わわせることが必要である。それは自分をさらけだしてより本音で語り合うということであろう。そして談笑するに至ることが必要だ。それには接待を予習してかからなければならない。

接待に先立ち、相手方企業または本人の業績・経歴・当面の関心事・趣味・嗜好(しこう)について情報を仕入れ、接待の場を盛り上げる焦点合わせをすることがまず肝要である。

統一ある刺激は、数少なくとも、散漫な数多い刺激に勝るという原理原則が接待でも機能する。この予習の成果をTPO、アドリブで生かしていけば、より多くの本当の感動を相手に与えることができる。接待の場においても「理動」「智動」ではなく「感動」という熟語あるのみであることを忘れてはならない。

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「仕事人のための接待学」第3回 高井伸夫

 歓談を演出するコツ

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年4月27日掲載

 

接待の場では、おのずから会話があり、話が弾み、まさに歓談とならなければならない。そのためには、事前の情報収集が大切である。

NEC常務取締役の大森義夫氏がこのたび、97年7月から12月にかけて日本経済新聞夕刊「あすへの話題」に寄稿したエッセーを取りまとめた小冊子を発表された。その中に「パワーステーション」という標題の文章がある。

そこでこう語っている。「情報は、時に大いに集め、大いに散ずるのがよい、その方がよく集まる」「他人の情報は熱心に“収奪”するが自分の知っている情報は全くしゃべらない人物がいた。面白くないと感じていたが、周辺もそうだったらしく彼にはだれも情報を話さなくなった」

然りである。

寡黙な人の接待は、時にシーンとなって、話がとぎれ、違和感すら生じる。そしてお互いに疲れを感じるようになる。時を忘れて談笑しストレスを解消するには、胸襟を開いて己を語ることが必要である。

また接待の場において最も大事なことは、寡黙にならないこととともに、自慢話をあまり露骨にしないことである。大森氏のエッセー集の最後に「露骨はいやだね 小粋がいいね」との一節があるが、まさにその通りである。

問題はここからである。

接待の場では、相手が自慢したがっていることに触れ、そして相手が自然と自慢話ができるような状況設定をしていくことである。そうするとおのずから会話が弾む。

この情報の交換という世界は極めて楽しい。私はこれを接待における一つの実践目標にしている。その結果、様々なことを学ぶ。

例えば、接待は営業のために行なうのが大半であるが、営業の本質について思い付いたのも、この語り合いの中だった。『営業は偶然と奇跡の連続だ』『営業力とは、偶然を必然にし、奇跡を平常にする努力をいう』といった私のテーマの一つが生まれたのも、接待の場においてだった。

それには、彼・彼女に語ってもらうだけでなく、自分も一緒にその場に参加して語り合いの焦点を合わせる努力をすることである。

そして談笑する時に大切なことは、相手の人にお会いできたことに感謝する気持ちを持つことである。これがなければ、談笑には余韻が残らない。

一期一会の精神というが、まさに偶然と奇跡によってその人と会うことになったことを、大げさに言えば神に感謝するほどの気持ちがなければ、談笑は空虚なものになってしまう。

 

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「仕事人のための接待学」第2回 高井伸夫

 思い付きメモの効用

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年4月20日掲載

 

私はほとんど毎日のように、時には昼休みにも、接待を受けたり、接待をしている。職業上の必要性からだ、と言ってしまうと身もふたもないが、まずは人間関係の構築、すなわち信頼関係を築くことなしに、事実の解決への道も開けないからである。

それでは初対面の人、あるいは心配事を抱えた人との間に、どうしたら信頼関係を築けるのだろうか。

まず相手から学ぶ、教えていただくという気持ちを持つとともに、相手に安ど感を与えるために、晴れやかな顔、自信のある顔で対することである。不安げな顔、おぼつかなげな表情では相手の気持ちを落ち込ませる。

また、相手が話したいことや、こちらの質問に対する答えを最後まで話してもらう(途中で話の腰を折らない)ことも大事だ。そして、相手の関心事に対して的確な応答をすることである。

私の本業は企業の人事労務に関与することだから当然ながら、社長、人事部長など企業の幹部との会合が圧倒的に多い。そこで、相手が持っている悩みなりストレスなりにいかに近付くか、すなわち、共感していかに的確にアドバイスするかに腐心する。

さて、私はそのような会食・接待の場にいつもメモを持って行くことにしている。

それは相手の話の中で琴線に触れたところや、引き受けた用件、関連あるいは類似する案件、人物などをメモするだけではない。話の途中で、本当に唐突に思い付いた言葉、他の用件、あるいはひらめきといったものを、わずか五文字か十文字くらいでチョッチョッとメモしておくのだ。

話題豊富な人と面談すると、これが二十や三十の項目となる。

このような少し仕事から距離を置いたフランクな場で思い付くことは実に豊富だ。会議で真剣に討論している時より幅広い項目に及ぶことは言うまでもない。

それらをメモしておかないと、忘れてしまうだけでない。忘れまいとする気持ちから、現に歓談している相手との話がはずまなくなる。メモをすれば、まさにその瞬間から忘れてよいことになるから、ストレスにもならない。そして私は遅くとも翌朝午前中には、その項目を処理している。

接待とは実は相手のためにするのではない。自分自身のために行っているのだということが、このことでもわかるだろう。だからこそ接待相手への礼を失することがないように、いっそうの気配りを改めて心しなければならない。

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「仕事人のための接待学」高井伸夫

「原点」はパーティー

日本経済新聞(夕刊)連載 1998年4月12日掲載


企業の接待の中で一番大掛かりなのは、社長就任、新社屋披露などの各種パーティーだろう。

 

そしてほとんどの場合、冒頭に企業の代表者の挨拶(あいさつ)がある。この挨拶の内容で、その企業の実力が判然となる。接待する、接待を受けるということによって、それぞれの企業の力量があからさまになるのである。

この3月21日、東京で「21世紀にのぞむデュポンのグローバルディレクション」の集いがあった。その冒頭の米国デュポン社社長兼最高経営責任者(CEO)のホリデー氏の挨拶は、極めて素晴らしいものだった。49歳で世界企業デュポンのCEOになるとは、よほどの人格・識見・手腕・力量がある人物だろうと思って臨んだが、まさにその通りだった。

まず、話が極めて手短でありながら多岐にわたり、しかも現代経営全般の核心をつくものだった。ある実力経営者がかつて語った「社長挨拶は紙に書いたものを読むものでは駄目だ。その挨拶文を作る人こそ社長になるべきで、それを読み上げる人は社長たる資格はない」との言葉が脳裏に浮かんだ。

ホリデー氏の挨拶は、まさに原稿なしで当意即妙。その内容も経営の課題だけでなく、学ぶ心、感謝の心を絶えず表している素晴らしい表現力だった。

さて、接待とは、今述べたとおり、その企業の訴えたいところを明らかにする一つの場でもある。企業を代表して接待する側の人格・識見・手腕・力量があからさまになることも知っておかなければならない。

接待にわざわざ時間とお金を費やす以上、自分自身をいかに売り込むかが課題になるからである。

ソフト化社会を迎えまさに頭脳労働時代となった。企業の能力格差は、足腰・手足・口先が武器だった農業・工業・商業・サービス業の時代の経営体以上に広がる。それにふさわしいまさに有能な人物が社長にならなければならない時代となったことを、接待の場であるパーティーでも知るのである。

社長の挨拶・話の内容が貧相で情熱がないものであれば、企業も貧相で情熱を欠いた存在であるとイメージされてしまう。

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