第7回 「真善美」のバランスと働き方改革に思うこと 

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 7月になって去年の猛暑を覚悟していたところ梅雨寒がつづいているようで、わりと過ごしやすいので「ホット」しています。一方で農家にとっては日照不足による作物の被害が出ているので大変だそうです。さらに欧州の猛暑など地球規模で異常な気象にみまわれているのも心配です。日本列島はこれから昨年並みの猛暑になるとの予報がでているので身構えているところです。この拙文が高井先生のブログに載るころは果たしてどうなっているのか、気象庁のAIの実力の程が判明していることでしょう。

 

 さて、本職のコンサルに関連することですが、このところ優れた実績を上げている経営者はアートの心を重要視しているとクライアント先でも話題になるようになりました。 コーン・フェリー・ヘイグループ(8月からヘイの名が消えるそうです、一OBとしては少々さみしいですが)に所属し作家でもある山口周さんの好著 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』にも書かれていますが、「真善美」のバランスのとれた感性とリーダー能力がこれからの経営者に求められるということです。

 「真善美」と言えば、高井先生が昔から強調されてきたワードでもあり、いつの世でもどの地でもあてはまる不変の真理なのでトップリーダー達の訓示などにも再三とりあげられています。そんな中で昨今のITの進展の影響か論理や合理性、効率性、数値偏重に傾いた世の中にあって、人の倫理観と感性と共にバランスを取る必要性が再認識されてきているのでしょう。学歴偏重や没個性を過度に重視する社会の同調圧力から脱皮して、アートの世界のような個性あふれるマルチな価値観を尊重したいという現代のルネサンス運動が起こっているのかもしれません。

 

 この「美」について、高井先生はかつて数十年前にニューヨークで美術の仕事にも関わっておられたと伺ったことがあります。当時のJALのニューヨーク支配人室の駐在員と美術の関係で親しくされていて、偶々私の知人でもあった彼の話題で盛り上がったことを思い出しました。先生は昔から多方面に興味をもち果敢に人の輪を拡げておられたので、そうした縁が縁を呼ぶ姿に感嘆し続けています。

 法曹界の人は論理性を追い求めるので堅くて近づきにくい人達だと昔の私は固定観念をもっていました。しかし意外にも人の感性にも重きをおき芸術に造詣深い人も多い、ということを高井先生から教わりました。子供時代から美術には縁の遠かった私も西ドイツのフランクフルトに駐在していた折りに日本からのお客様の求めで同行した有名な「シュテーデル美術館」のコレクションをみて名画のパワーに目覚めたことを思い出します。今調べるとフェルメールの「地理学者」というのが当時もそこにあったようですが。全く記憶になくとても残念です。時間に余裕ができた今は上野界隈や、旅先、出張先の美術館や博物館に時折いくのですが、その端緒がドイツ時代にあるような気がしています。若い時からもっと真善美のバランスをとって美術や芸術にも親しんでいれば「優れた経営者」の一員になれていたのではないか、と自嘲的な言い訳を考えているところです。

 

 まもなく、参議院選挙です。(この拙文が高井先生のブログにアップされる頃には結果が判明していますが)世界はそれぞれの既存の価値観や固有の文化の大転換期を迎えているようであり、かつその変革スピードが衝撃波を伴う「超音速」レベルになっていると感じます。

 そんな中、政党や立候補者の主張を見聞きすると厳しい時代にイノベーションで挑む迫力と新鮮味に欠けるものや、現実離れした主張もみられ政治家志望者の資質に疑問を感じています。政治は現実対応的なところが目立つのですが、その中に深い先見性から来る方向が含まれているかどうかを見て判断していきたいと思っています。単なる理想理屈だけでは多くの人は動かされないことを選挙で示されればいいのですが。

 

 日本は法治国家と言われていますが果たしてどうでしょうか。元々国民の行為のすべてのケースをもとに法律として文章化するなんてことはできないのは自明です。法律にはこのような原理的条件があるので、裁判所が個別ケースを審議して裁定するような仕組みになっていると思います。その裁定も過去の判例にとらわれすぎると今の社会には合わない結果になるのも当然だと思います。

時の流れのパラパラ漫画で例えれば過去のとある時点の一枚の中で作られたのでしょうから、現在の世の中に必ずしもうまく整合しないのは明らかです。変化する国民の価値観と倫理感に対応しスピードをあげて常に見直し修正が不可欠です。議員には任期中はこれらメンテナンス作業にも、さらには、立法プロセスの無駄の排除にも没頭してもらいたいものです。子や孫の代に真の法治国家を引き継げるように法曹に関わる人達にお願いしたいと思います。

 

 心のバランスをとるためにちょっと明るい話題で締めくくりたいと思います。

 

 探査機「はやぶさ2」が地球から約2億キロと遠く離れた小惑星「リュウグウ」に二度目の着地に成功しました。関係者の輝くような笑顔と喜びようはTVを通じても伝わってきました。あとは地球に無事帰還するばかりです。

 小惑星への着地に向けては、あらゆるケースを想定したシミュレーションは10万回やったので自信はあった、と聞いて改めて感銘を受けました。プロジェクトチームやサポートチームの人達は計画段階から何年もそれこそ寝食を忘れて没頭されてきたことと思います。

一般世間では「働き方改革」で残業削減が叫ばれている中、彼らにはこの探査プロジェクトに参画する喜びと成功にむけての苦労をいとわない気概と努力があったと思います。きっと苦しみも喜びに替える強い達成指向性があったのでしょう。

私の想像ですが、もし労働時間に縛られていればプロジェクトの成功可能性は少なかったのではないかと思っています。

人は大きな目標をもてば好奇心と達成にむけての挑戦意識が活発になり時間を忘れて没頭するものです。平たく言えば楽しくて仕方がない状態です。

そういう意味で一律の残業削減では人間の特性からみて近視眼的なところがあり、それでうまく解決するとは思えません。さらには自由な時間が生まれることで別の問題を引き起こすかもしれません。働き方改革の目玉のひとつではあるでしょうが、状況をみながら多様な方法を見つけ出す必要があると思います。

 「はやぶさ2」の難しい着地成功と同時にその裏にあるメンバーのご苦労や働き方に少し思いを巡らせて、この回を終わりとします。

終わり

 

「明るい高齢者雇用」

第4回 絶えず向上心を―ボランティアの道も―

(「週刊 労働新聞」第2150号・1997年4月28日掲載)

※当時の文章に一部加筆補正の上掲載しております。

 

 南フロリダ日本協会専務理事の遠藤安岐子さんのインタビューを前回に引き続きご紹介する。

 

  Q、高齢者雇用は一般にはどのような傾向でしょうか。

  A、高齢者雇用に関しては政府が年齢差別を禁止していることもあり、仕事をしたい人は誰でも出来ますが、歳をとってもまだ上下関係の激しい企業で「使われること」を好みませんし、企業ではあまり雇用を考えません。40歳を過ぎて移民してきた人達は、年金も少ないので定職を探し生活をたてることを考えるようになります。この場合、年齢より移民に対する差別が有り、職探しは難しいのです。

 

 いまイギリスでは雇用における年齢差別禁止法制定につき活発に論議されており*、労働党では政権についた場合これを制定すると公約している。日本においても定年制が違法とされる余地があるか否かが一つの課題である。

*その後、1999年に「雇用における多様な年齢層に関する行動規範」を発表するも法的強制力はなかった。2000年11月のEU理事会における一般雇用均等指令採択を受け、2006年10月1日に「雇用均等(年齢)規則(Employment Equality (Age) Regulations 2006)」が施行された。

 

  Q、やりがいのある仕事とは何でしょう。

  A、高齢者で企業の社長まで務めた人の「やりがいのある職」は、非営利団体のためのボランティアです。例えばSmall Business Administrationという全国的な団体には何万人という「元…」が登録し、中小企業の若手の人の訓練、相談に当たっています。元コカコーラの副社長を務めた人に会ったこともありますが、この方は無給で創業したばかりの中小企業をまわり、相談に乗って歩いていました。彼によると、年金生活が始まった場合、「給料」としての収入があると年金から差し引かれる上、税金がややこしくなるからボランティアの方が有利なのだといっていました。そして「やりがいがある」とも…。

 

 収入はやりがいの1つではあるが、「人はパンのみに生きるに非ず」、人生の後半を迎えた高齢者だからこそ、仕事内容に心の時代のキーワード“やりがい”が重要な要素となる。ボランティアやコンサルタントの仕事には、「お世話する」「教える」「導く」といった心の要素が満ち溢れているのである。

 

  Q、高齢者のボランタリーの実像を紹介して頂けますか。

  A、ある高齢者の施設での話ですが、そこへ動けない人達の手伝いにボランティアで出掛けます。彼等曰く「これから年寄りの世話にいかなければ…」。その人自身が84歳と聞くと異様ですが、年寄り=動けない、の感覚です。動けなくなるまで皆「若い」のです。

 

 肉体的に80歳の者が20歳の青春を持ち続けることは不可能であるが、“若さ”即ち良心を核に自立心・連帯心・向上心がなお生命力を持ち続けている状態を絶えず意識することが必要である。サミュエル・ウルマンは若さの要素として、美・希望・喜悦・勇気・力を挙げるが、「本人が希望を持って満足感を得る」などは高齢者雇用に置いてことの外意識されるべきであろう。

 

 

高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~

【第7回】「とりあえず3連勝」で勝ち癖をつける(1994年2月2日)

 

 私がある会社の建て直しを手掛けたときのこと。「気がかりなことは何か」と聞いたら、「これだけ人数が減ったら、再建に必要な売上が達成できないのではないか」ということだった。倒産寸前会社だから、皆の士気が萎えているわけだ。挑戦への意欲を鼓舞するためには、まず勝つことの喜びを味合わないといけないと判断した。

 そこで「3連勝主義」というのを掲げた。勝てる目標だけ3つ立てて毎日3連勝、あるいは毎週3連勝する。期間はどのように設定してもいい。とにかく勝ち癖をつける。どこかで負けたら、その時点でまた3連勝3連勝、とつづける。

 目標は個人ではなく、チーム単位で立てて実践する。一番最初に3連勝した部・課・チームを賞賛するシステムをつくる。

 弁護士はクライアントに「難しい」と言うのが常で、私のように「大丈夫、大丈夫」と言っていたらありがた味がなくなるように思われる。しかし、それによって結局は元気が出て、競争相手を凌駕し、難局を克服していく。

 私は「大丈夫、大丈夫」とことさらに言う。クライアントが大丈夫と思っているときには言う必要はない。クライアントが、心配だ、危ないかもしれないと思っているときに言うわけだ。そう言われると出来るかもしれないな、と錯覚に陥る。それでいいのだ。だんだん本気になり、錯覚にとどまらないわけだ。

 兵は勢いなり、「勝ってますます強くなる。」まさに孫子の兵法にある通りだ。とりあえず3連勝。その勢いをもって本丸攻撃に移る。

 

「AIと私たち」 第9回

AIの責任能力~自動運転車

 

 AIが人と安全に共存していくためには一定のルールが必要である。しかしながらAIの発達の速度や規模に対し、AI周辺の法的課題の検討は遅れがちであり、新たな技術の導入の壁や足枷になっていることも少なくない。

 

■自動運転車による事故責任の所在

 身近な問題としてよく議論されているのが、AIによって自律稼働するロボット、機械、コンピューターが、人間や物に被害を与えた場合の責任は誰が負うのか、という問題である。たとえば、協調型ロボットが隣で働く人間の従業員を怪我させた場合や、自動運転車が事故を起こした場合、法的責任は誰が負うのか。自動運転技術の現状と共に取り上げてみる。

 

 現在、我が国では、東京五輪が開かれる2020年に向け、緊急時などシステムが対応できないときだけ運転者が操作する、「レベル3」の自動運転車の実用化をメーカー各社が急いでいる。

 2018年3月、限られた条件で運転を自動化するレベル(レベル4まで)においては一般自動車と同様に所有者に賠償責任を負わせ(参考:自動車損害賠償保障法3条)、メーカーの責任は車のシステムに明確な欠陥がある場合のみとする政府方針が示された(ハッキングによる事故の賠償は、盗難車による事故被害と同様に政府の救済制度を使用)。レベル5の「完全自動運転車」に達しない限りは「自動車の所有者、自動車運送事業者等に運行支配及び運行利益を認めることができ、運行供用に係る責任は変わらない」ことを理由として挙げている。この政府方針によってメーカーが過大な責任を負う懸念が薄れ、自動運転車の事業化の動きが加速したといえよう。

 

 レベル3以上の自動運転では運転主体が人間ではなくシステムになるため、これまでの道路交通法では想定外であるとして議論されてきたが、2019年5月、安全基準を定める改正道路運送車両法と、自動運転車の公道走行を可能にする改正道路交通法が可決、成立した。ただし、日本が批准している道路交通に関する条約、「ジュネーブ条約」は未だレベル3の自動運転は認めておらず、この改正に向け世界各国が主導権争いをしている状況にある。また、自動車の国際的な認証について話し合う国連欧州経済委員会(UN-ECE)の自動車基準調和世界フォーラム(WP29)もレベル3について認めていない。しかしこちらも2019年後半までにレベル3の国際基準案策定を目標としており、世界基準でレベル3が認められる日は近いと思われる。

 

■AIの判断に対する予見可能性

 こうしてみると自動運転周りの法改正や基準の策定は確実に進んでいるのだが、実は刑事責任についての議論は宙に浮いている。運転者は危険運転致死傷罪あるいは過失運転致死傷罪(自動車運転死傷行為処罰法2条3条5条)、メーカーは業務上過失致死傷罪(刑法第211条)に問われる可能性があるが、運転主体がシステムである状態で、運転者に予見可能性や結果回避義務はどこまで認められるのだろうか。

 

 事故原因がAI等の「故障」にあれば、メーカーが製造物責任を問われる。しかし、AIの「判断ミス」が原因である場合、どこまで製造物責任といえるか。すなわち、「AIの判断」のうちどこまでを「人間による製造物」と看做すのか、という問題だ。AIが人間を超えるシンギュラリティが訪れれば、人間の予測の限界を超える事象や問題が必ずや生じる。予見可能性のない事象に対して人間に責任が課せないとなれば、AIが責任を負えるのか、AIの責任の取り方とは、刑罰とは、といった点まで議論が及ぶことになるかもしれない。技術はあるのに運用できないということのないよう、先手先手で検討を進めなければならない。

 

 まとめ

 ・2020年を目処にシステム主体の自動運転車が実用化

 ・自動運転の事故賠償責任は原則、所有者にある

 ・刑事責任については検討が薄く、今後の課題である

 

(第9回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)

 

 

 

 

第6回 人の記憶はパラパラ漫画

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

このところ高齢者による悲惨な自動車事故が多発しています。こうした不幸に巻き込まれた人達の無念さを思うと心が痛みます。

高齢者の中には自動車がまだ一般に普及していない20才前後に早々と運転免許を取得した人も多いのではないでしょうか。当時はオートマではなくクラッチ付きのマニュアル車ばかりでした。私も18才になると廃車で引き取られたダットサンを貰い、車の整備士になっていた中学時代の友人達とで油まみれになりながら「解体・再生」して車検を取った楽しくも懐かしい想い出があります。あの頃は自動車学校も少なく運転免許を取るのも大変な時代でした。ですので高齢を理由に大事な免許を自主的に返納することには裏にある思い出の消去でもあり、相当な決断力と覚悟がいると思います。

しかし、高齢者は個人差が大きいので年齢基準で返納というのではなく安全運転ができる場所、健康、判断力、瞬発力そして技量があるかどうかで合否を判定する厳しい審査の導入が合理的ではないでしょうか。人の命がかかっているので多少のお金と面倒臭さはやむを得ないと思います。さらには審査結果の程度によって運転支援機能がついた車のみ可とかに限定したり、都市部は時間制限や運転禁止エリアを設けるなどの処置が考えられます。インフラ面でも高齢運転者の車の増加を前提に道路状況の改良やフェイルセーフの考え方にたっての安全対策などへの投資も併行してやってほしいものです。高齢者になっても生活に必要なかぎり安全運転がつづけられるように社会の配慮や工夫が求められているように思います。

 

  先月末、50年ぶりに大学の教養課程の同級生15人ほどの一泊二日のクラス会に初めて参加しました。幹事さんから「皆んな、何時お迎えが来てもおかしくない年になったんで、その前に一度みんなで母校に集まろう」と連絡があって気が向いた訳です。卒業後一度も母校に行ったことがなかったこともあり、ほぼすべて忘却の彼方にあったのですがみんなに会えば何か思い出すかな、という気持ちで行きました。いざ集合してみると、ほぼ全員の名前も顔もほぼ覚えていないのに我ながら驚きました。昼食時に自己紹介したあと、みんなで近くの寺社へと散策しながら話をしている裡に驚くほど記憶が戻ってきたのです。しかし共通の出来事の記憶でも人によって違っていることも多く、何が真実かわからなくなっているのを改めて皆んなで実感しました。宿での夕食時には一層打ち解け、遅くまで酒を飲みながら語り合い半世紀もの時間を巻き戻したように感じました。

 世間でも同窓会が盛んになってきているそうです。「おい、お前」で通じる同窓会特有の平等さを再現し、横一線だった社会へのスタートライン時代を懐かしく思い起こせるからではないでしょうか。「バック・ツー・ザ・パースト」も現役を卒業したものにとっては特にいいものです。

 

 では、改めて過去ってなんでしょうか。当たり前に言えば過ぎ去った時間といえますが、どこに行ったのでしょうか。前回までに述べてきた歴史と関連しますのでちょっと考えてみたいと思います。

 

 あるアメリカの人口問題研究機関の推計では、今現在、人類として生きているのは数百万年の間に人類として生まれた総計(約1000億人)の約7%ということです。あくまで推定の域を出ないでしょうが産業革命の頃から人口爆発が起きていて、それが加速度的にますます激しくなっているので、今後ますますこの比率が高くなることでしょう。平均寿命も急速に伸びているので、この先、文明社会は持ちこたえられるかどうかというレベルになっていくそうです。

 

 子供の頃、人は昔の誰かの生まれかわりである、というようなことを言われた記憶があります。悪いことをしていたら動物に生まれかわってくるので、良い子になりなさい、これが輪廻転生ということだと教わりました。勿論こんな単純なことではないでしょうが子供心にはなんとか分かったようでした。しかしその後「ボーっと生きて」大人になったために今もって本来の意味は良く解りません。

 

 最近、過去というのは、遙か昔のことでも、ついさっきのことでも同じではないかと思うようになりました。つまりこの世は「パラパラ漫画」みたいに瞬間の連続でできていて、そのごく一部が脳に記憶されていると言うわけです。時間が経つとそれらがトランプをシャッフルしたように前後も徐々に曖昧になっていきます。昨日おとといはまだしも、数ヶ月前位になると手帳か何かを参照しないと前後すら分からないほどディテールは消えていきます。

日頃みる映画、TV、動画などは一コマ一コマの静止画の連続でできているのですが、パラパラ記憶説にたつと、人間は周りの世界は連続したものと思い込んで錯覚をしているだけで脳のトリックから来ているのかもしれません。周りの情景の一コマ数コマが脳に記録され記憶になっているとすれば記憶の操作もなんとかできそうです。自分にとって都合の良いことだけを取捨選択して記憶ができれば悩みごとも減るのではないでしょうか。勿論反対側に行けば大変なことになりますが。

 

パラパラ画像の一コマは自分の五感をとおして作成記憶されたものですから、たとえ家族でも記憶されたコマの絵が異なるのは自然です。自分が蓄えたコマを基に家族や人に何かをアドバイスするとしても100%通じる保証はありません。ただ共通のコマを多数もっていることで通じ合う可能性がたかまるのは間違いないでしょうけど。

 

抽象的に思考でき、記憶と読み出しが高度にできるようになった人類だからこそ一人一人違う個性を持っているのでしょう。できるだけストレスをためずに現世でうまく生きていくためには過去の一コマ一コマを編集して、いらないものを忘却の彼方におくったり、良いものは記憶を強化したりすれば効果的です。そして、これから巡ってくる未来のコマをあらかじめうまく選択して記憶できるようになっていくと思います。信じるか信じないかですが楽天的で成功者になった人達は割と自然にこれができていて「成功例や失敗例から学ぶ」が身に付いている証明であり結果ではないでしょうか。

 

人口爆発がつづく現代、科学の加速度的進歩により膨大なデータが集められるようになりました。やがて人の人生を通じて心の奥まで覗けるようになっていくかもしれません。すべてを順序良く何でも記録・記憶ができるITにAIが取り込まれると、人のパラパラ記憶が太刀打ちできないのは明白です。人間にとって果たして良い時代がくるのかそうではないのか分かりませんが人間らしさの特性をどの辺に残していくのか考えどころです。輪廻転生でこの次は人口知能に生まれかわらないよう願いたいものです。

終わり

 

「明るい高齢者雇用」

第3回 包容力ある社会へ―企業にも重い責任―

(「週刊 労働新聞」第2149号・1997年4月21日掲載)

※当時の文章のまま掲載しております。

 

 アメリカ南フロリダ日本協会(非営利団体)専務理事をなさっている遠藤岐子さんにこのほどお話しをおうかがいする機会があった。

 南フロリダは避寒地としても有名であるが、マイアミの中心としてカリブ圏・中米・南米の経済の中心として位置付けられている。マイアミから車で約1時間のところにある“ボカラトン”という地域が著名であるが、南フロリダにはボカラトンを始めとする多数の「ハッピー・リタイアメント リゾート地」がある。

 遠藤さんはアメリカに移住され既に28年になるが、南フロリダ・マイアミには24年間にわたって生活されている。最初の17年間は個人で事業をなさり、1989年には商工会議所兼文化教育団体であるアメリカ南フロリダ日本協会を創立された方である。

 協会の仕事の一環で、種々の現地団体、企業との付き合いもあり、日本からの視察団や新聞記者を案内して回っているので、高齢者、アメリカの社会問題等とも日頃接しておられる。

 

Q、アメリカは高齢者であるとか、年齢を意識する社会ですか。

A、アメリカに来て指摘されたのが、歳を気にすることでした。日本のように、「△△歳のくせに」という表現は一切聞きませんし、「言うな」と言われたほどです。要は、“出来るか”“出来ないか”の違いだけなのです。言い換えれば“自分は自由に動けない・独立生活が出来ない”人は世間で別扱いを受けます。ですから、身障者も、年寄りで動けない人も同じ恩恵があり、同じに扱われます。

 

Q、そうするとアメリカでは高襟者も明るく生活していますか。

A、「明るい」「明るくない」の問題は、雇用問題ではなく、年齢を気にする社会かどうかではないでしょうか。

 日本の駅や公共施設を見ても、階段が多く歩く距離も長く、若者本位の国のように受け取れます。年寄りでも若者と同じように生活が楽しめる公共施設があるのがアメリカです。ニューヨークの市バスは老人が乗ろうとすると油圧で車体を下げて乗りやすくします。“ニーリング(ひざまずく)バス”というのですが、まさに老人に公共の乗り物であるバスがひざまずくのです。

 「若くない」と痛感させるようにできている社会と、年齢差を関係なく同じことができる社会。ここに何か重要な観点があるように感じます。

 

 高齢者になれば肉体的老化は避け難い。それゆえ力仕事ができなくなり、また敏捷さに欠けることになるが、それを包容してこそ今後は健全な社会が維持されるということであろう。

 企業の諸施設もそのようなものでなければならないということにつながる。モスクワの地下鉄のエスカレーターのスピードの早さに驚き、そこでは高齢者に対する思いやりがないと強く感じたこともあったが、アメリカから見れば日本社会も同様であろう。

 

 

高井伸夫の社長フォーラム100講座記念~1講1話・語録100選~

【第6回】時短反対~労務管理のコツは忙しくすること(1993年11月17日)

 

 労働時間の短縮が正しいなら、労働時間ゼロが正義となる。人は労働によってつくられる、というのが私の考え方の基調だ。だから労働時間の短縮は間違いだ。

 人間が人間である所以の、手、足、口、頭を使って一番充実している時間は働いている時だ。働いている時間が一番人間的に機能しているわけだ。だから「責任ある仕事、厳しい仕事に耐えてきた人の顔は美しい」とか、同窓会で「各人の面貌に人生の軌跡を見る」などと言うのは、そのことに起因している。

 労働時間の短縮は人間的劣化を招く施策であると言ってよい。

 労務管理のコツは、忙しくすること。「小人閑居して不善を為す」というが、ヒマはろくなことがない。忙しく働くことによって、生産性向上という側面ばかりではなく、人間的な充実感を味あわせることが大切だ。

 企業としての適正な労働時間とは何か。これは、競争力を保持できることを原則として、各企業で考えなければならない。私は「中小企業では年間2,000時間」と言っている。再建会社だと2,400時間。

 私は、ある会社の再建の過程で社長代行を経験した。そのとき朝礼は朝7時からにした。労働時間の延長であるが、その努力を裁判所も認めてくれた。

 ほとんどの企業では土曜日・日曜日は休みが慣例化しているが、社長、幹部は土・日も働かなくてはいけない。また、有能な人材は早く管理職にして労働時間の拘束から解放する方向をとらないといけない。

 働くことは人間をつくるのだから、働き過ぎは悪いことではない。

 

 

「AIと私たち」 第8回

AIがAIをつくる未来

 

 AIは幾度かの「冬」を超えつつ(当連載第1回参照)も、着実に研究・発達・進化を遂げ続けている。四半世紀後に迫る「2045年問題」は現実となるのだろうか。

 

■2045年問題とは

 コンピューターチップの性能は18ヶ月(1.5年)毎に2倍になる、と予測した「ムーアの法則(1965年発表)」に基づいて計算すると、2045年にはコンピューターの性能が人間の脳を超える。これが2045年問題である。

 実際に、これまでコンピューターは「ムーアの法則」並みの速さで進化を続けており、「学習」が可能となったAIを備えればその進化は加速度的に進む。人類の知能を超えたAIが、更に自分よりも優秀な「AI」を開発すれば、AIは爆発的スピードでテクノロジーを自己進化させ、人間の頭脳ではもはや予測・解読が不可能な未来が訪れると予測されているのだ。文字認識や画像認識、フィンテックなど、既に特定の分野では人間を超えたAIが多々活躍しており、機械が独自の進化に踏み出す可能性を大いに感じさせる。

 コンピューターが人間を超え、人間にとって予測のつく限界の時点は「技術的特異点」と呼ばれており、これ以降の世界についてNASAとGoogleが協働で研究機関を作って議論しているが、コンピューター対人間の戦争が起きるとする説、私たちが現在いる宇宙とワームホールで行き来することができるもう一つの宇宙をコンピューターが創るとする説など、まるで映画や小説のような仮説ばかりである。この仮説こそが人間の脳の限界を示しているのかもしれない。

 

■AIは自発的な意思を抱くか

 AIが感情や意思を持つ可能性について、今のところ有識者の意見はまったく統一されていない。

 「人間の脳をそのまま再現できれば、AIも感情を持ち得る」との声や、「意識が生成されるカラクリが分かっていないのだから、AIが設計者の思惑を超えて原始的な意識を創発する可能性は0ではない」という声もある。

 一方で、「生命を持たないAIには生存本能がない。したがって、生存や増殖といった目的を自発的に持つこともない」として、それに伴う感情や意志も持ちえない、という声もある。肉体があるからこそ備わる感覚もあり、ロボットにセンサーを付けて感覚器を作っても完全に補えるとは言い難い。たとえば人間は赤ん坊でも「空腹になったら食べる」とか「動いているものに注目する」ということを知っている。これは人間が生物進化の長い歴史の中で、いわば遺伝子で獲得した常識である。生命があるがゆえのそういった基礎を持たないAIには、それを知識として学習することはできても本質的に身に付けることは難しいように思われる。

 しかし、冒頭で述べたとおり、AI技術は加速度的に進化しており、今日できなかったのだから明日もできない、というスタンスでの議論には意味がない。「人間がAIを作る」という固定観念を離れ、人間ならではの自由かつ豊かな発想で未来を描かねばならない。

 2019年時点において、生命の有無は人間とAIの最大にして決定的な違いである。しかし、「生命」あるいは「肉体」の定義は、50年後、100年後も変わらないだろうか。「生命」や「肉体」があるからこそ生まれ出るとされる目的を、AIが持つことはないと言い切れるだろうか。人間の意思によるものか、あるいはそうでないかは分からないが、「AIがAIを作る」とき、人間の推し量れないAIが生まれる可能性は否定のしようがない。

 誰かが課題を指摘し、解決したいという需要が出てくれば、その技術的限界はなくなっていく傾向にある。人間がより進化したAIを求め続ける限り、AIが、創造力・感情・本能といったものを備える可能性はあるといえよう。それを念頭に置いた上で、人間とAIとの共存を考えなければならないのである。

 

まとめ

・2045年にAIが人間を超えると予測されている

・AIが意思を持つ可能性は否定できない

・あらゆる可能性を視野にAIとの共存を検討せよ

(第8回ここまで/担当 高井・團迫・宇津野)

 

 

 

 

第5回 平成から令和に、歴史の見方を再考する

 

あすか人事コンサルティング
代表 太田 正孝

 

 5月1日に令和の時代が始まりました。陛下の即位の儀など宮中の行事のほか、史上初の10連休中のTVは観光地や渋滞情報など、お定まりの画像を流し続けていました。空陸交通機関の混雑に巻き込まれたけど連休を楽しんだという人達にとっては、素晴らしい連休だったでしょう。

 

 昔、航空会社にいた私や当時の仲間にとって、連休はいつもよりも忙しい時期であり休む間もなく汗を流していたことを思い出します。あの頃は自分達の家族旅行を後回しにしたので、皆、家では肩身の狭い思いをしたものです。今の時代はさらに、いわゆるサービス業の人達が増えているので長い連休にもかかわらず休めなかった人も格段に多かったと思います。人手不足の中ではあるものの代わりの連休がとれてリフレッシュできる人が増えるような世の中であればいいと思います。

 

 そこで祝日の数は世界ではどうなっているか、興味を持ちました。先進国では日本が16日とダントツに多く、英国は8日、ドイツ9日、アメリカ10日、フランス11日というのが分かりました。それぞれの国の事情で多少の増減があるとしても、日本よりはかなり少ないです。欧米ではキリスト教や建国に関係する祝日が多く古くから続いているようです。祝日は祈りを主にした過ごし方が伝統的に設けられていたのでしょう。

 ですので、バカンスは長期有休の活用で楽しむという習慣が定着しています。年初に有休取得の年間計画をたて、周りとの調整を経て決定します。皆そうするので遠慮なく「お互い様」で長期旅行に出かけます。ドイツ時代、この経験から計画的取得の一面の合理性を実感しました。日本でも有休の計画的取得を職場全体でしない限りうまく拡がらないと思います。

 有休に関わるエピソードですが、長らく病欠を取っていた人が復帰してきた時のこと、計画通り取れなかった有休を年度内に残りをすべて取ったことでした。その根拠は、病欠は病欠、有休は有休として取るというものでした。日本では急な病気に備えて有休を残しておこうとしていることを言うと現地の人達は信じてくれませんでした。その時、祝日、病欠、有休の意味づけはドイツ流の方が理にかなっていると思いましたが、帰国したら直ぐ日本流に馴染んでしまい以来、有休を十分消化しなかったのは現役時代の心残りです。

 

 今、日本では労働政策の一環として有休日数をもっととりましょう、という方向に向っています。今後70才まで現役でという流れにあって働く人や家族の心身の健康維持からも良いことと思います。学校も含めて世の中全体で計画的取得が習慣化すれば、混雑や渋滞の緩和や、旅費などの低価格化など、好循環をもたらすメリットが大きいと思います。そうなれば祝日の在り方も考え直す機会になることでしょう。

 

 有休取得にまつわる現実は期中に転勤や異動などがあってなかなか計画通りに行かないという声が出そうです。本気で有休取得を進めるなら人事運用上の攪乱要素の方を改めて行くほうが早道かもしれません。

 休暇の半分を休養と家族のために、半分をキャリアアップ、専門能力アップのために使うことができます。 「計画的に」ということは現役だけではなく「毎日が(ほぼ)日曜日?」のリタイヤ組にとってもサミュエル・ウルマンの「青春」を実行していくのにも有効なのは間違いありません。

 

  さて、連休中のTV特集のお陰で私は古くは神話の時代からの日本の歴史に思いを馳せることができました。 考えてみれば、歴史上の史実は時代を遡るにつれて「一次資料」(その頃の当事者が関与したもの)が少なくなっていくため、史実の殆どが後に記されたもの(二次資料、伝聞資料)に基づいています。真実かどうか良く解らないものも何度も引用されるうちに史実とされ歴史になっていきます。 

 英語で歴史はヒストリーですが、物語のストーリーと同じ語源だそうです。昔の人は物語と歴史はほぼ同じと思っていたのでしょうか。つまるところ、一つの歴史は一部の真実をきっかけにして、誰かが想像力豊かに創作した物語ということではないでしょうか。ですので、どこかの蔵や地中から貴重な一次資料が発見されれば、それを基に新たな物語が生まれ、やがて歴史の一部になっていきます。

 近年、聖徳太子は存在しなかった、鎌倉時代は1192年から1185年からに修正、江戸時代に国内安寧のため一部の国との交易に制限したものの貿易はつづいていた、などと常に教科書も修正されている訳です。

 現在、誰一人生存していない「近過去」の事柄は史実を含むノンフィクションになり、そして、その前の過去はノンフィクションを含むフィクションになる宿命を持っています。私はこの事から歴史を色んな説や作家の見方として楽しむようにしています。邪馬台国はどこにあったのかなど論争がありますが、新発見でもない限り当面は水掛論でしょう。ちなみに私は邪馬台国は大和国、卑弥呼は姫子のことと単純に思っていますが、勿論、確たる根拠はありません。それでも論争を楽しみつつ歴史のロマンに思いを馳せています。ついでに言えば、あらゆる事象は各々何処かの場所で起こったので、そこの地形や植生など地理的環境状況、時刻や、天候、など事象にまつわる環境をもイメージするようにして楽しんでいます。高井先生がTVドラマの作品を書くつもりでビジュアルに証拠書類を書きなさい、と言っておられるのも同じ発想だと思います。時代考証は画像構成上、避けられないからでしょう。

 

 歴史は節目を見つけて時代区分されています。日本の歴史は遺物の多い縄文時代から始めるようです。とても地味な時代と思いますが、なぜか古代にロマンを感じるいわゆる「縄文女子」が増えているそうです。50年ほど前の学生時代には発掘実習もやりましたが、女子には振り向きもされませんでした。隔世の感が否めません。さて、縄文時代は何年続いていたかというと答えはなんと1万年以上です。普通の人が300回以上の世代を重ねる、生物として進化がおきるような長い時間です。後の弥生時代は1300年程つづきますが、弥生の後期が西暦元年にあたります。感覚的には西洋よりも日本での時間は極めてゆっくりと平和の裡に過ぎていたように思います。氷河期が終わったあとも厳しい寒暖サイクルあった時代生活の糧の農耕を維持する上で集落の協力と平和が大事だったのでしょう。

 

 私ら昭和世代は時代の長さよりも特異な事象のことに重きを置いた教育を受けてきました。明治から大正・昭和・平成併せて約150年、鎌倉時代の150年とほぼ同じですし、平安400年、室町と江戸はそれぞれ260年、安土桃山は30年で平成と同じくらいです。歴史小説や映画、TVドラマでは、やたら戦さものが多いので、血なまぐさい歴史が続いていたように感じますが、こうやって改めて時代区分の長さを考えると日本は想像以上に戦さが少なく平和が長くつづいていたように思えます。

 

 令和の時代、日本はもとより世界の紛争が人の叡智で終息していき、平和な事象が歴史に記録されるようになれば嬉しいのですが・・。

終わり

 

「明るい高齢者雇用」

第2回 65歳定年の可能性―社会保障にもメスを―

(「週刊 労働新聞」第2148号・1997年4月14日掲載)

※当時の文章のまま掲載しております。

 

 

 定年問題に関しては次の2つに注意しなければならない。1つは中国にも好況感に陰りが生じていることである。例えば、昨年の成長率は9.7%と報道されているが、一時の明るさを失った。中国ですら好況でないという事実のゆえんは、エネルギー資源問題との関わりにある。資源、とりわけエネルギー資源の枯渇という不安・恐怖に、人類は無言の調整作用としてエネルギー等の資源が生産される程度に消費を抑えようとする。環境問題もその1つだが、実はそれが市場経済の進展にブレーキをかけている。

 「行け行けドンドン」、拡大再生産とは資本主義経済の合言葉、市場経済の原則だったが、いま萎縮しがちである。これこそ世界経済が減速経済、不況感を脱却し得ない理由である。先進国成熟社会・日本は更新国以上に資源を消費し、それだけに資源問題を意識せざるを得ない。従って中国以上に日本の高齢者雇用は今後ますます困難となる要因がある。

 第二の注目点は、中国でも(“でも”という表現が適切か否かは別として)退職年齢が年金問題と関わっていることである。日本ではいま65歳への年金受給年齢の引き上げが議論されているが、その背景は以下の通りである。

 今年1月厚生省人口問題研究所から発表された「日本の将来推計人口」によれば、日本の総人口はわずかあと10年間しか増えない。2007年1億2,778万人でピークを抑えた後は減少の一途を辿る。しかもただ減るのみならず若年者の急減と高齢者の急増とが同時進行する。既に日本の高齢化率は欧米先進国並だが、2000年には世界一の高齢国となる。現在1人の高齢者を65歳未満の国民5.8人で支えているが、高齢化率のピーク2049年(32.3%)にわずか2人で支えていかねばならない。年金・医療といった社会保障全体の枠組みに大きくメスを入れない限り、日本経済は破局のシナリオへと向う。未だかつて人口が減って豊かさを維持した国はない。この歴史的事実を厳粛に受け止めねばならない。

 厚生省の試算でも、国民負担率(税と社会保険料が国民所得に占める割合)を高齢化ピーク時でも50%以下に抑えるには“年金・医療の給付を2割以上削減しなければならない”としており、また経企庁の別の試算では、社会保障、国家財政とも無策のまま改革されずに推移したとすると、潜在的国民負担率は2025年73%に達する。もはや「高齢者が社会的に扶養されるだけの存在」という前提では、社会の安定維持が不可能なのである。

 高齢者雇用が促進されれば年金財政は大きく改善され個人や企業の負担も軽減する。高齢者がその人に会った就業形態を選択でき長く現役にとどまれば、年金給付者が減り年金拠出者が増える。これこそ退職年齢と年金問題が不可分で65歳への定年延長が今叫ばれている本質的意味である。

 若年労働力の減少により再び人手が不足し、女性も高齢者も雇用が活況を呈すという楽観論もあるが、はたしてもう陽が昇らない日本経済の下で65歳への定年延長は可能なのか、さらにはそれを可能にする条件を模索してゆくことも課題の1つであることを、中国の例からもうかがい知れる。

 

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