お知らせ

2023年2月10日
訃報

さらに表示

20180223IMG_3890.JPG

2018年12月30日(土)7:28 芝公園にて山茶花を撮影
花言葉:「困難に打ち克つ、ひたむきさ」

 

 

第2回 対談

 

 

皆様こんにちは。

2度目の登場、株式会社新規開拓の朝倉千恵子です。

 

前回のブログでご紹介させていただいた、

あの衝撃的なコメントをいただいてから2年…

 

(※参考:前回ブログ

/weblog/2018/01/post-323.html

 

2007年8月、雑誌「ザッツ営業」で高井先生と対談をさせていただく機会がありました。

 

高井先生は既にそのときで27冊の著書を出されていました。

弁護士さんの書く本というのは、難しいイメージがありましたが、

高井先生の本はどれを読んでもわかりやすく、私も興味を惹かれる内容ばかり。

 

「本に書いてあることを、直接ライブで伺える!」

 

高井先生から沢山勉強させていただきたい、色んなお話しをお聴きしたいと、

この日を心待ちにして対談に臨みました。

 

(とはいえ、また厳しいお言葉が飛んでくるかなぁ。

今回は、どんなことを言われるかなぁ。と緊張していたのも事実ですが、、、)

 

今日はその対談の日ことを振り返って、

皆さまにお伝えさせていただきたいと思います。

 

高井先生はとても質問上手です。

 

「まさかそんなことを!」と予想もしていなかった質問が飛んできたり、

雑談かのようにサラッと聞かれることが、実は本質を突く重要な情報を得るものだったり、気づいたときには、今の現状のありのままを引き出されてしまっている、

なんていうことも少なくありません。

高井先生の質問には、こちらも一生懸命お話させていただきたい、

という気持ちにさせる不思議な力があるのです。

 

その理由は

真剣な顔と温かみを感じさせる笑顔の使い方が非常にお上手なのです。

 

優しい笑顔・しかしながら眼鏡の内側に時折見せられる鋭い目線…

 

このメリハリがとっても大事であることを

私自身も営業の世界を通して学ばせて頂きました。

 

まさにそれを実践してらっしゃる。

だからこそ、本当の意味で深い話ができるのだと思います。

 

その日、直接対談を取材してくださった方々も、とっても緊張されていたことを

今も鮮明に覚えています。

 

実はこのときの対談で、

印象に残った言葉をメモに書き留めていました。

 

何しろ共感・共鳴出来る事は一杯あります。

その中の一部をご紹介させていただきます。

 

「感動は気配り・・・」

「自分の会社の営業だけをしていては駄目・・・」

「利己・自分だけを考える営業では駄目・・・」

 

「無用の用・・・が重要」

~自分にとっては意味がないが、相手の為になる事をする~

 

「人格を磨く事。多芸 多趣味・・・」

「社会貢献を考える。文化的事業へのかかわりを持つ・・・」

「単線営業ではなく、複線営業をしかけていかなくてはならない・・・」

 

「クロージングの持つ意味」

~決断力、ここでふられても、しかたがない・・・という覚悟。

「勇気があるかないかが、営業マンの決め手!」

ここで言わなくてはならない事を勇気を持って伝える。

「折衝力・営業力がもっとも求められる」

「IT時代は、デジタル能力が大事だった。

これからはアナログ能力・営業力が求められる」

 

「アナログ能力を磨く」

~デジタルに偏ってはいけない。

 

「アナログ営業・・・合意点をみつける努力」

~1点の合意点をみつける、 そしてそれを拡大する。

小さな合意点をみつけてそれを拡大していく営業

 

などなど。

生意気ながら、高井先生のお言葉に私も全く同感でした。

 

今回、当時の高井先生のお話を振り返ってみて、

改めてこの2つのキーワードがとても大切だと感じました。

それは「クロージング」と「アナログ能力」。

 

まず、「クロージング」について。

クロージングが出来ない営業は売れません。

「買って下さい!」を言って初めてお客様から断りの言葉が出てきます。

相手の本音が口からこぼれるのです。

 

お客様から断られたら、

そのまま落ち込んで引き下がってしまう営業マンは少なくありません。

しかし、営業の仕事の真骨頂は、クロージングの先、お客様に断られてからがスタートだと言っても過言ではありません。

 

断り文句・反論は買い信号・・・

お客様の反論に恐れる必要は全くありません。

そこからいかに相手を怒らせず、切り返していくのかが営業の技術。

 

実はこの技術は営業職にだけ通用するものではありません。

自分も傷つかず、相手も怒らせない・・・

そんなコミュニケーションスキルをマスターすることで、

敵を作りにくくなり、対人関係が非常に良好になります。

 

私は営業という仕事を通して、

人間関係を良好に維持継続する秘訣を学びました。

結果として、物凄く貴重な出会いをたくさん得ることができました。

 

人生そのものが、

「自分を売る!」という点では営業だと言えますね。

 

そしてもう1つのキーワード

「アナログ能力」について。

 

高井先生の教えというのは、今も昔もとてもアナログ的な要素が強いと思います。

 

この対談は今から11年前。

IT時代は、デジタル能力が大事だった。これからはアナログ能力・営業力が求められる―

 

2018年になった今、AIとの共存時代がやってくるとしきりに言われています。

 

11年前に高井先生がおっしゃっていたことが、

今の時代だからこそ、大いに共感できます。

 

「人」を大事に、「心」を大事に、「出逢い」を大事に。

この部分だけはAIが担うことができない(と、私は思っています)。

 

高井先生はずっと、不変的なことを教えてくださっています。

時代がどんなに変化しようとも変えてはならない大切な事がありますね。

 

株式会社新規開拓
代表取締役社長 朝倉千恵子

 

次回に続く…

<イッピン> たてしなップル


<イッピン> たてしなップル

 

 

20180215DSC00183.JPG

 

 

昨年12月9日、NPO法人信州まちづくり研究会 副理事長の安江高亮氏に案内していただき、長野県北佐久郡立科町を訪れた。

 

そこで、カフェandワイナリー「たてしなップル」に伺ったところ、人生で初めてシードル(りんご酒)をいただき、その味に大変感動したので、本ブログで皆様にもご紹介したいと思う。

 

立科町は、日本百名山のひとつ蓼科山の麓に位置し、白樺湖、女神湖という二つの湖を要する標高700mの丘陵地である。年間の平均気温は10.0度と冷涼で、1日の温度差や1年の温度差が大きく、また、全国屈指の寡雨の町でもあるため、りんごの栽培に非常に適した土地といえる。

 

シードルには辛口と甘口があるということで、小生は辛口をいただいた。

製造に当たっては、完熟りんごの中から特に高糖度のものを選ぶなど品質にこだわっているというだけあり、口に含むとりんごの芳醇な香りにまず圧倒された。その中にピリリとした辛さが際立つが、それだけに料理にはぴったり合うだろう。全国的に名品として高い評価を受けているというのも頷ける。

 

ワイナリー「たてしなップル」の方々は、りんご産業を地場産業とするために、質の高い加工品を製造販売することを決意し、商品開発に果敢に取り組まれているという。

シードル以外にも、すりおろしりんごジュース、ワイン、ブランデー、栄養ドリンク「林檎美人」など、りんごという一つの素材から多彩な商品を生産している様子からもその高い意欲が窺える。

 

立科の豊かな自然と生産者の方々の果敢な挑戦心が生んだシードル「たてしなップル」、これぞイッピンである。

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第30回目です。
  • 第30回目は、フランス料理菓子研究家・大森由紀子様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第30回)■ ■ ■ 
フランス料理菓子研究家
大森 由紀子様 
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[フランス料理菓子研究家大森由紀子様プロフィール]

フランス菓子・料理研究家。フランス料理・菓子教室エートル・パティス・キュイジーヌ主宰。http://www.yukiko-omori-etre.com
学習院大学フランス文学科卒。
パリ国立銀行東京支店勤務後、パリの料理学校で料理とお菓子を学ぶ。
フランスの伝統菓子、地方菓子など、ストーリーのあるお菓子や、 田舎や日常でつくられるダシをとらないフランスのお惣菜を雑誌、本、テレビ などを通して紹介している。

大森由紀子様

  • 「わたしのフランス地方菓子」(柴田書店)
  • 「フランス地方のおそうざい」(柴田書店)
  • 「パリスイーツ」(料理王国社)「物語のあるお菓子」(NHK出版)
  • 「ママンの味、マミーのおやつ」(文藝春秋)
  • 「フランス菓子図鑑」(世界文化社)
  • 「ベーシック・フレンチ」(世界文化社)など著書30冊以上。

フランスの伝統&地方菓子を伝える「ル・クラブ・ド・ラ・ガレット・デ・ロワ」 の理事、スイーツ甲子園審査員&コーディネーターを務める。 毎年夏、フランスの地方へのツアーも企画。 フランスのガストロノミー文化を日本につたえる架け橋になりたいといつも思い ながら、点が線になる仕事をめざしている。
2016年、フランス共和国より農事功労賞シュバリエ勲章授与。

 

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 

取材日 2017年12月6日(水) 於:レストランラッセ

 


高井

大森様は、フランス料理・菓子教室「エートル・パティス・キュイジーヌ」を主宰され、執筆や、フランスの食文化を紹介するツアーを企画するほか、昨年「農事功労賞シュバリエ勲章」を受章されるなど、幅広く活躍しておられますが、大森様の最近の活動について教えてください。

 

大森様

主軸となる活動は、週末に開催しております、フランス菓子、フランス地方菓子、フランス地方料理、フランス家庭お惣菜教室です。その他、元生徒、現生徒を対象にした「エテルネル会」というものを設立し、その生徒たちを対象にしたイベント(著名シェフや著名人を教室にお呼びし、料理、菓子デモンストレーションやトークを行っていただく企画)などをしております。最近は、楠田枝里子さんや元レカンの高良シェフなどにいらしていただきました。

その他、企業のアドバイザー、雑誌執筆、本出版、フランス伝統菓子を守る会「クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ」の理事、高校生のスイーツコンクール「貝印スイーツ甲子園」の総合アドバイザー、お菓子のコンクールの審査員などをしています。

 

高井

今年(注:2017年)は、フランスにはどのくらい行かれたんですか。

 

大森様

直近では10月にサロン・ド・ショコラへ行きました。今年(注:2017年)は、1月と3月にも行っています。(2017年)1月には、リヨンで2年に1度開催されるお菓子の世界大会「クープ・デュ・モンド」と「ボキューズ・ドール」という料理大会の取材をしました。この大会は、リヨンで開催される、国際外食産業見本市(SIRHA)会場の一角で開催されるんです。「クープ・デュ・モンド」では、各国の代表者3名が1チームを組んで、チョコレートの装飾のピエス、氷の彫刻、アントルメント(飴)、それぞれを担当して競技するんですよ。

 

高井

日本も出場しているんですか。

 

大森様

日本は常連です。直近では、「ボキューズ・ドール」の2013年コンクールで、星のやの浜田統之(はまだのりゆき)シェフが3位に入賞しています。この大会では、24か国24人の審査員が審査をしますが、この時は審査の順番が24番目ということが事前にわかっていました。最後だったんです。最後ですから、審査員の舌が麻痺しているだろうからどうしたものか、ということで、事前に星野リゾートさんから相談を受けました。出品予定のお菓子は、審査が最後だからということで、色々と際立たせようとしてスパイスが効いたり、趣向を凝らしすぎていたんです。それを、シェフらと一緒に試行錯誤して1か月で立て直したんです。本番はお料理だけでなくて、プレゼンテーションも素晴らしかったです。燕三条のナイフとフォークを審査員全員に一人ずつ配って、お料理もお弁当箱で出して、お弁当箱を開けると煙みたいなものがうぁーと出てくるという演出でした。それでも3位でした。

 

高井

コンクールというよりも、まるでショーのようですね。

 

大森様

各国が色んな工夫をしているので、ショーとしての魅力もあり、すごく面白いですよ。まだまだ知名度が低いせいか、あまり報道されませんが、業界全体で盛り上げたいと思っています。この大会は地区予選があって、シンガポールや中国なども出ているアジア予選もとても面白いです。

 

高井

来年(注:2018年)はいつ行くのですか。

 

大森様

来年(注:2018年)の3月末から、パリのホテル リッツ内にある、リッツエスコフィエ料理学校でお菓子を学ぶツアーを企画しています。

 

高井

何人くらいのツアーですか。

 

大森様

だいたい10名程度です。厨房に入れる数に限りがありますのでそのくらいがちょうどいいんです。

 

高井

大森様はフランス地方を旅するツアーも企画しておられますが、食文化を肌で感じてもらうために、ツアーで大切にしていることは何ですか。

 

大森様

なるべく本物に出合うということでしょうか。現地の人、現地の食文化、現地の言葉。そのために農家を訪ねたり、ワイン醸造家やチーズ工房にもお邪魔します。また、厨房でのデモンストレーションも依頼し、本場の素材、作り方を実際に目にしてもらいます。そして、そんな食文化を育んできた、土地の歴史や背景を知ってもらうために、もちろん、歴史的建造物や遺跡を訪ねることも欠かせません。

 

高井

お菓子のルーツをめぐる旅、フランス以外で大森様が行ってみたいところはありますか。

 

大森様

世界は行ったことがないところの方がもちろん多くて、まだ行ったことがなくて行ってみたいのはトルコですね。ヨーロッパでお菓子の原料を辿るとトルコに行きつくものが結構多いんです。この間、ウィーンに行ってきたんですが、アップルシュトルーデルというお菓子があって、これは薄い生地でできていますが、トルコから来ているんです。トルコ軍が攻めてきた時に置いていったそうです。トルコ料理は世界三大料理の一つでもありますから、トルコはぜひ行ってみたいですね。

 

高井

大森様はフランスに留学されていますが、最初にお菓子の修行をされたのはどちらですか。

 

大森様

フランスのといル・コルドン・ブルーという料理学校です。そこに通いながら、パリの美味しいお菓子を食べ歩きました。このお店は美味しいとか、ここは面白いとか感じたら何度もお店に通ってシェフに「働かせてほしい」と直談判したんです。そうやって働かせてもらって、経験を積みました。

過去に働いていたお店が今になって3つ星レストランになってたりしているんですよ。“アルページュ”なんかもそうです。ピエール・エルメさんは、当時すでにフランス一の舌を持つと言われていましたが彼のもとでも働いたこともありますし、そのほかにも、10年ほど前に日本にも出店されたジャン・ポール・エヴァンさんも、当時から30年来のお付き合いをさせていただいております。

 

高井

すごいですよね。大森様が当時関わってた方がみんなメジャーになっている。先見の明があるんですね。

 

大森様

当時から、彼らが作った料理はとっても美味しくて、また他の人とは一味も二味も違いました。斬新さ、今までにない新しさ、味も見た目も、それからも食感も違ったんです。この人は!と思ったシェフはみんな普通じゃない。言動、行動もどこか飛んでいるといいますか、こんなのありえない、という天才肌の方たちでした。例えば、ピエール・エルメさんは、今では50歳を過ぎて、柔らかい物腰しで、始終にこやかにしていますけれど、20代でパリの「フォション」のシェフを任されていた時などは、笑ったところを見たことはありませんね。仕事に対しては、完璧主義者で、作ったものが規格に合わないとどんどん捨てられちゃうんですよ。私も、「これ誰がつくったの」と聞かれ「はい」と答えたら、目の前でシュッと捨てられちゃうということを経験しました。

 

高井

当時は、エルメ氏もまだ若いですよね。若くても人がついてきていたんですね。

 

大森様

そうですね。エルメさんも当時はまだ若干26歳とか、そのくらいでしょうね。フランスでは中学卒業のころから将来のことを考え始めますし、16歳くらいから修行を始めます。26歳でも、すでに自分の立場に責任を持ち、さらに「フォション」というお店に対しても、忠実にそのブランドを守るという意識がありましたので、私たちも絶対に逆らえない雰囲気がありましたね。

 

高井

今でいうカリスマ性をもっていたんでしょうね。ところで、フランスでは今どのようなお菓子が人気なのでしょうか。日本でもヒットしそうなお菓子はありますか。フランス菓子にトレンドはありますか。

 

大森様

フランスのお菓子の流れは、パリから始まりますが、パリではフランス菓子も行きつくところまで行きついて、今は単一商品ばかり売る店が増えています。エクレアならエクレアだけ。マドレーヌならマドレーヌだけ。そういうお店は“パティスリー”(小麦粉でつくる菓子を販売する店)と言えず、“mono-produitモノ・プロデュイ屋”(アイテムのみ扱う店)というそうです。ビジネス優先ですね。生き残るかどうかは時間の問題だと感じます。唯一生き残りそうなのは、メレンゲ菓子専門店です。フランス人は、メレンゲが大好きのようですから。あとは、キュービックを真似たお菓子ですとか、ちょっとオブジェ化したスタイルのインスタ映えするお菓子を若手が作っています。

 

高井

パリに美味しいものが集まっているように思いますが、フランスの食文化の魅力は何ですか。

 

大森様

パリのお料理も素晴らしいですが、結局は地方の集大成です。日本でもそうですよね。様々な郷土料理がある。私の主人は愛媛なんですが、お正月の御雑煮のお餅が丸かったんです。私は東京の出身で、お餅に丸いお餅があることを知らなかったんです。地方によっては、お餅にアンコが入っている。お雑煮一つとっても地方によって違いますが、フランスでも同じです。パリの人は意外と地方を知らない人もいました。当時、私が「アルザス(注)に行った」なんて言うと、「ブレッツェルの作り方はどんなだった?」なんて聞かれたんです。そうそう、でも、ピエール・エルメさんは知っていたんです。彼はものすごい勉強家なんです。私がさりげなく「ラモット・ブーヴロン(注2)に行ったんだよ」なんていう話をすると、「じゃあタルトタタンは食べた?」ってすぐに反応するんですよ。

  • 注:アルザス フランスの北東部、スイスとドイツの国境沿いに位置する
  • 注2:ラモット・ブーヴロン パリ南方のソローニュ地方にある町

パリに美味しいお料理が集まっていますが、それぞれのお菓子に地方の文化や背景があります。歴史をさかのぼると、中世の十字軍の動き以降、素材がフランスに集まるようになりました。お菓子の原料を遡ると本当に各地から集まっていて、さきほどのアップルシュトルーデルのように、トルコにまで行きつくものもあります。そういった各地から集まった素材を、フランス人は独自の食文化に昇華させています。その素材をさらに極みにもっていこうとする食いしん坊魂といいますか、それをアートに発展させたパッション。そこに各地方で脈々と伝わる郷土料理、菓子が交差し、多様な食文化を生み出しているため、フランスの食文化は研究してもしつくせない魅力があります。

以上

 

20180125IMG_3898.JPG

2017年12月30日(土)7:32 芝公園にてカワラナデシコを撮影
花言葉:「大胆、可憐」

 

 

第1回 高井先生との出逢い

 

 

「お宅の社員は無能・・・」

 

高井先生からそう言われたときは、一瞬かたまりました。

まさに雷が落ちたような衝撃を受けました。

 

高井先生とご縁を頂き、早13年、、

 

いつも私たちを見守ってくださる高井先生からは、

ときに耳を疑うような厳しいお言葉も飛び出します。

 

皆様、こんにちは。

株式会社新規開拓 朝倉千恵子と申します。

 

企業研修をはじめとした教育事業を行っている会社の代表を務めております。

 

「(株)新規開拓という社名は分かりやすい、直ぐに覚えられる」

と、よく言っていただけます。

 

この機会に是非とも社名を覚えていただければ幸いです。

 

高井先生との出逢いは、会社を設立してまもない2004年

岐阜県にある企業様から講演のご依頼をいただいたときのことです。

 

私は午後の部の担当講師

会場に到着すると既にどなたかがお話をされていました。

それが、高井伸夫先生でした。

 

高井先生が午前の部を担当されていると知ったのは、

その日会場に着いてから。

 

そして、高井先生とお話ができたのは、講演と講演の間での昼食会の40分間

 

そこでご挨拶をさせていただき、

その後お礼状をお送りし、ご縁がスタートしました。

それからこれまでの13年以上一度もご縁が切れず

ずっと続いている奇跡に心から感謝申し上げます。

 

今回のブログには高井先生から教わった大事なこと

 

「えっ?!」と耳を疑うような厳しいご指摘含め、

その時々のエピソードを交えながらお届けできれば幸いです。

 

ご縁を頂いた頃を遡ってみます。

 

初めてお会いしたとき、高井先生はかんき出版様から同時に二冊書籍を出版され、

その本がベストセラーとなっていたタイミング

 

一方私は待望の1冊を出したばかり

そんな私から見て、高井先生は「超有名人」です。

 

そんな先生とダブル講師として講演をつとめさせて頂き、とても光栄だと思い、ウキウキ・ドキドキ。

 

(わ~~

超有名な先生、ベストセラー作家様と一緒に

ランチをさせていただけるなんてとっても嬉しい。私はツイてる!!)

 

と、40分間のランチタイムでは

とってもワクワクした気持ちになったことを

今も鮮明に覚えています。

 

その後、高井先生と再会させていただいたのは、仕事の依頼でした。

2005年に弊社が人材派遣・紹介ビジネスを立ち上げました。

そのタイミングで顧問弁護士として高井先生にビジネスサポートを依頼させていただきました。

 

それ以来、弊社の顧問弁護士として側面からご協力ご支援を頂いております。

 

当時弊社は、帝国ホテルタワーの15Fにあります「リージャス」というイギリスのレンタルオフィスに事務所を構えていました。

 

「有限会社朝倉千恵子事務所」から「株式会社新規開拓」へ。

 

スタッフは私を含めわずか4名。

生まれたばかりの小さな会社でした。

 

高井先生はそんな頃から私たちのことをずっと見守ってくださっています。

 

優しい励ましの言葉、

そしてときには厳しいお言葉も添えながら、、、

 

ある日、こんなことを言われました。

「朝倉さんがいなくなったら、この会社は終わりじゃないの?

 

お宅の社員は無能・・・

あなた以外はダメなんじゃないの?」

 

当時は、私と副社長、そして女性スタッフが2名。

たった4名ばかりの社員で、講師は私1人しかいませんでした

 

全ての研修依頼を一人でこなしていました。

ほぼ毎日研修や講演が入っており、全国を飛び回っていました。

 

私が倒れたら終わってしまう、代わりはいない―

 

冷静に考えれば、

高井先生がおっしゃる通りだったと思います。

 

しかしそう言われても

「はい、そうですね」とは到底言えるわけもありません。

 

なにより、自分が好きで採用した人材ばかりですから、

「無能」呼ばわりされて受け入れられるはずもありません。

 

ストレートに歯に衣着せぬ言い方をされる高井先生のお話しは、

決して気分のいいものではありませんでした。

 

その際、高井先生の言葉に対しても意地になって

「大丈夫です!やっていけます!」

とお答えしたと思います。

 

正直社員を無能と言われ、カチンときたことは事実で

「今に見てろ!!」と

私のなかでメラメラと闘志が湧いたことを覚えています。

 

失礼ながら「いつか絶対に認めさせてやる!」というような生意気な思いです。

 

それから数年が経ち、社員も少しづつですが増えてきました。

 

私以外の講師も生まれ、社員たちは全員研修ができるようになりました。

 

「全員営業・全員講師!」を掲げ、

スタッフ全員が営業にも講師業にも全力投球で取り組み、

情熱と一生懸命さは絶対にどこにも負けない強い誇りを持った社員たちが育ち始めました。

 

当時は、副社長を除く全員が女性社員。

こんなにパワフルな女性集団は他にはないだろうと自負していました。

 

そんなある日、高井先生に言われました。

 

「だんだん会社らしくなってきたね」

「社員も育ってきたね」

 

正直、とても嬉しかったです。

 

「朝倉さんがいなくなったら、この会社は終わりじゃないの?」―

 

高井先生のこの言葉に奮起して、

「今にみてろ!」と必死でやってきた甲斐があったのだと、

あのときの悔しさが、倍以上の喜びとなって返ってきました。

 

高井先生は私の父と同じ昭和12年生まれ

 

人生の大先輩から率直な言葉で叱咤激励を頂けるというのは、

大変ありがたいことだと思います。

 

もしかしたら当時、

高井先生と同じことを他の人生の大先輩方で思っていた方もいるかもしれません。

 

しかし、面と向かってそのことを私に伝えてくれたのは、 高井先生おひとりでした。

 

それ以来、高井先生と時間共有させていただく中で、沢山のことを教えていただきました。

 

驚きの「ハイスピード仕事術」も目の前で見せてくださいました。

 

高井先生からたくさんのことを教えて頂いたことへの感謝の気持ちを込めて、ここで書かせていただきたいと思います。

 

株式会社新規開拓
代表取締役社長 朝倉千恵子

 

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第29回目です。
  • 第29回目は上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第29回)■ ■ ■ 

上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 
 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 

[上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師 劉 佳(Liu Jia)先生 プロフィール]

生年月日: 1969年9月8日

出身地: 中国吉林省長春市

略歴等

  • 中国吉林大学大学院歯学部 学士及びマスター学位(1997年)
  • 日本東京歯科大学大学院博士学位
  • 1999年~国際歯科研究協会(IADR)日本分部及び中国部 会員
  • 日本歯科理工学会 青年研究奨励賞 2001年会
  • 1992年~中華口腔医学会 会員歯科医師
  • 2000年~米国歯科医師会 会員歯科医師
  • 2011年~上海口腔医学会民営専門委員会 副主任委員、上海口腔医学会基礎専門委員会 常務委員
  • 上海恒佳歯科医院・恒洋歯科医院 院長 歯科医師
  • 上海Open Dental 健康管理株式会社 創立者 社長

 

劉先生

(写真は、劉佳先生)

 

[今回のインタビュアー・同席者は以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 小松茂生様
  • 五十嵐充(弊所上海代表処首席代表弁護士) 

取材日 2017年9月14日(木) 於:老吉士(上海市)

 


 

劉先生

私は中国吉林大学大学院歯学部で学士とマスター学位を取得し、1992年から5年間ほど中国で歯科医をしていました。臨床をやっていたんです。

1997年に日本へ留学し、日本語を学んでから東京歯科大学大学院に入学しました。日本で大学院に通っていた当時は、臨床の講座のOBの先生や開業医の先生の歯科医院へ行き、アシスタントをしていました。当時、自由が丘で開業している講座のOBの先生の歯科医院に通って、毎週1日、3~4年くらいアシスタントとして患者を診ていました。その他にも、インプラントの勉強をしている横須賀の先生や、銀座の先生、麹町、千葉にある先生等々、いろいろな先生のところでアシスタントをしました。その先生たちとは、今でも連絡を取っていますよ。

 

高井

場数を踏んで勉強されたんですね。東京歯科大学に留学されていましたが、日本で勉強したことで役に立っていることは何ですか。

 

劉先生

1998年から2003年まで日本に留学していましたが、東京歯科大学で一年目は「第一専修生」、その後の四年は大学院「博士コース甲」でした。留学中は得るものが非常に多かったです。専門的な研究と臨床実践を重ね、その他に歯科医の患者に対するサービスや理念なども習得しました。何よりも、多くの立派な日本人歯科医と出会うことができました。先生たちの高明な医術、職業倫理及び職業に対する信念と追求は、私にとって生涯の糧となっています。

 

高井

ざっくばらんに言って、現在の中国の歯科と日本の歯科とは、どちらが進んでいますか。

 

劉先生

進んでいるか、という言葉は難しいですが、中国では医療モードが進化しています。医療モード、医療の“仕方”といえばよいでしょうか。例えば中国では、歯科医が一人で、患者さんに向き合うのではなく、歯科医と歯科衛生士の2人で一人の患者を診ています。歯科衛生士が必ず付きます。その他にも歯科医、歯科衛生士以外で、中国ではコンサルタントがいますが、これは日本とは異なる点だと思います。中国では、患者さんとコミュニケーションをする際に、歯科医と患者さんの間に入るコンサルタントがいます。

 

高井

そのコンサルタントはどんな役割をしているのでしょうか。

 

劉先生

歯科医と患者さんの間に入って歯科治療を円滑に進める手助けをしています。患者さんには、歯科医に対してのイメージ、歯の治療に対してのイメージ、疑問などがあります。それらを聞き取り歯科医に伝える。一方で、歯科医は治療に関する説明の時間が足りなかったり、あるいは説明してもなかなか患者さんに納得してもらえない場合に時間をかけて説明する必要がありますが、その説明をコンサルタントが代わりに行っています。歯科医の“助手”ではなく、治療の計画を説明する、相互に話をする、そういった役割を担うコンサルタントが中国では登場しています。

また、中国では、医療においてもインターネット分野で日本より進んでいます。

上海という一つの都市にいる各分野の有名なドクターの情報が、全て掲載されているアプリやホームページがあり、患者さんは、評判などをインターネットで見ることができます。そういったアプリケーションやホームページは日本より進んでいるように思います。日本ではもともと国民皆保険制度があって、歯科医の数も多いですが、中国ではもともと歯科医の数が少ない。遠くにある歯医者さんの、どこの先生がいいのか分からなかった。そういった背景もあり、インターネットでは平等に情報を取得することができますから、インターネットが日本よりも浸透したんだと思いますよ。

 

高井

保険制度の話が出ましたが、中国では、保険制度は機能しているのでしょうか。歯科治療における保険制度について教えてください。

 

劉先生

中国では、「社会保険」という日本の国民保険のような保険があります。社会保険は基本的に公立や国立の医療機関で利用できます。私立の歯科クリニックではまだ利用できません。保険の範囲としては、まだ歯の治療のみです。一部の薬や、入れ歯をする、矯正、(歯の)インプラント、美観などは保険の範囲ではありません。自由診療になります。

 

高井

自由診療を受ける患者さんは富裕層が多いのでしょうか。

 

劉先生

治療に一定の費用がかかることを考えると、どうしても、富裕層の方々が対象になっています。自由診療は、富裕層の方たちにとっては、コンサルタント担当者が時間をかけて1対1で対応してくれ、安心感を得たり、プライベートのサービスを受けられることに魅力を感じているんだと思います。それと、富裕層は公立病院のサービスシステムに不満がある人が多く、保険適用外の民間の自由診療を受けている人が多いです。

 

高井

劉先生のクリニックでは、患者さんは日本人が多いのですか。

 

劉先生

日本から中国に帰った当初、2003年から2007年くらいまでは、患者さんの8割が日本人でした。今は、日本人の患者さんは2~3割です。日本人の患者さんは、どうしても帰国してしまうと来てくれなくなってしまう。そういった事情もあり、現地、ローカルの患者さんを増やすことが大切だと考えて、徐々に現地の患者さんを増やしていきました。

日本語も話せますから日本人の患者さんに対応することもできますが、私のような歯科医は上海でも少ないと思うのです。いまは、現地の患者さんを10年、20年かけて診ていきたいと思っています。チームのため、スタッフのためにも、ローカルの患者さんを診るほうが、クリニックにとっていいのではと考えています。

 

高井

先生は人柄がいいから、患者さんが集まるでしょうね。だけど、患者さん、中国人が8割というのは、驚きました。それだけ富裕層になったということですね。

 

小松様

先生のところは、いわゆる治療が多いんですか。それとも予防が多いんですか。

 

劉先生

まだ治療の方が多いです。少しずつ予防をメインにした、予防も大事にした運営にしていきたいと思っています。歯科医としても、患者さんと長く、頻繁的にコンタクトを取れるので、予防も大事だと思っています。

ただ、予防は保険が使えず、完全自由診療ですので、比率はまだまだ少ないです。治療をした後に患者さんに対して、予防も含めて計画を立てています。今、上海の歯科医にも予防歯科が認識され始めています。初めは、患者さんも痛みがあるから歯医者さんに行く、最初は治療からですが、最近は、予防歯科が少しずつ認知され始めています。これからは予防の時代に入ると思いますので、予防をアピールし始めているところです。

 

高井

ところで、先生は、上海の歯科医師会の副会長をされているそうですが、どんな活動をしているんですか。

 

劉先生

歯科医師会は、日本の医師会のような団体です。そこで副会長をしていますが、歯科医の勉強会や講演会を作ったり、上海で歯科医のグループを作っています。

 

高井

どんなグループを作っているのですか。

 

劉先生

開業医のグループです。開業している歯科医には、それぞれ得意分野があります。10年、15年と時間をかけて、ハイレベルの技術を身に付けている。例えば、インプラントが得意だけれど矯正については分からない、とか、歯周病が得意、小児歯科が得意、というように、歯科医にも専門分野があるんです。そういった専門を持つ歯科医が集まって、マーケティングをする。そうすることで、僕の患者さんに対して、専門外については、それぞれ専門の歯科医を紹介することができるわけです。マーケティングを1軒1軒するよりも、何十軒も一緒にした方が、歯科のブランド力があがります。患者さんも満足度が高い治療を受けられる。口コミもよくなる。

もう一つ、僕の目的は、グループができて、いい歯科医、素晴らしい治療を行っている歯科医が集まれば、技量が不足している歯科医にもその評判が届き、意識改善を促すことができると考えています。そうやって歯科医全体のレベルを上げたいと考えています。

 

高井

中国の歯科界のレベルの底上げですね。ところで、日本では歯科医は供給過多になっています。上海の歯科医の数は毎年増えているそうですが、状況について教えてください。

 

劉先生

中国では、上海のように比較的、医師と病院の資源が豊富な都市であっても、歯科医はまだまだ足りません。上海の正式な歯科医資格を持つ人はおおよそ800人です。上海に戸籍がある人は1500万人で、上海に住んでいると言われている常駐人口は2400万人です。つまり有資格の歯科医は12万人当たり1人の割合しかいないのです。また、歯科衛生士もまだまだ貴重な存在です。歯科衛生士に対する教育機構や専門学校、短期大学の数はまだ少ないし、正規人材はまだまだ足りません。当然、上海では、定期的に歯の検診を受ける人はまだ少ないです。口腔疾病を患い、歯を抜いた人の殆どは積極的に治療に行かないのが現状です。将来、歯科の患者が増え、歯科医学専門人員の不足という社会問題が現在より深刻化することが予想されます。

 

今、一番必要なのは、予防歯科関係に従事する歯科衛生士。人材が足りません。そのためにも、歯科衛生士に対する勉強会や教育を行って、人材を育てていく必要があると考えています。歯科衛生士が、予防歯科等について継続的に勉強できるような、短期間のセミナーなどが必要です。私は上海で、そういった歯科衛生士を対象にした予防に重点をおいた教育機関を作りたいとも考えています。

また、私が日本に留学していたため、今も日本の先生とお付き合いがあるので、日中歯科医師交流会を立ち上げて、日本のノウハウを取り入れたいと思っています。

今後、中国では予防歯科のニーズがどんどん出ていますので、日本の進んでいる部分はどんどん取り入れていき、対応できる歯科医、歯科衛生士を増やし中国全体の歯科のレベルアップを図りたいと考えています。

以上

2017年10月20「馬路村訪問記」


2017年10月20日 馬路村訪問記

 

 

2018011901.jpg

2017年10月20日(土)、高知県安芸郡馬路村を訪問しました。高知県を訪れたのは2年ぶりです。

当事務所の亀梨伸夫参与と有限会社コマ・コーポレーションの成采準代表取締役に案内をしていただき、馬路村農協の事務所にお邪魔して、東谷望史組合長にお話を伺ってきました。

 

村の成り立ち

馬路村は高知県の東部に位置しており、山々に囲まれて木の香りが豊かに香る気持ちの良い土地でした。

昭和・平成の数回の合併を拒否して現在までやってきたこともあり、人口はわずか898人(2017年3月時点)で、その4割程度が65歳以上の高齢者であるとのことです。

 

馬路村は、もともとは林業が盛んな村でしたが、それが衰退したことから柚子の栽培に転じ、今では柚子の生産地として有名になりました。

現在、馬路村では、柚子を使用した様々な商品を開発・販売しています。その売り上げはピーク時には33億円にも上ったそうですが、昨今は競合相手が全国各地に多数出てきたため、若干減少し、29億円程度の売り上げとなっているそうです。

有名な商品として、「ごっくん馬路村」(清涼飲料水)や「ぽん酢しょうゆ」があります。ぽん酢しょうゆは31年前に発売され、今では東京の高級スーパーにも並べられるようになりました。

最近では、メタボ抑制作用効果もあるという柚子種子油を使用したサプリメントを高知大学医学部と共同で開発し、販売を始めるなど、新たな試みを続けています。

 

2018011904.JPGのサムネール画像

 

2018011902.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、近年、馬路村には、日本全国のみならず海外からも1年で300組余りの観光客が訪れるそうです。けっしてアクセスが良いとはいえない、この山奥の村に来るのにはかなりの手間がかかりますが、それだけ馬路村が魅力溢れる土地であるということでしょう。

 

地域の再興を目指して

安倍内閣は、第二次政権以降、東京一極集中の是正を日本経済活性化の柱の一つとして挙げ、新たに地方創生を担当する国務大臣を設置するなど、地方の活性化に力を入れてきました。

これを受けて、多数の地方自治体や地方振興団体がコンサルタントを雇い活性化を目指しましたが、馬路村は農協組合長の東谷氏の先導のもと、行政と協力をして自力で再興を図って、見事に成功を収めたのです。

民間の企業が村に参入しようとしたこともあったそうですが、それを跳ね除けて村の人々だけで頑張ってきたとのことで、これは本当に素晴らしいことだと思います。

東谷氏は、馬路村で生まれ育ち、それ故、村への愛着も人一倍あるという方ですが、東谷氏の元に集まった人たちもやはり同じように馬路村に愛着を持っている人ばかりなのでしょう。

馬路村の成功例を見て、外部の人間に頼るのではなく、村を知り尽くして、村への愛情を持っている住人が自らの力で乗り越えていという強い決意を持ってこそ、地方創生は為し得るのだと思いました。

 

2018011903.JPG

さて、今回の滞在で私も「ごっくん馬路村」やその他の商品をいくつか購入しましたが、これが大変美味しく、商品の開発から商品名の考案までほとんど全てを自力で行ったという馬路村の皆さんの努力に改めて敬服しました。

近日中に再度訪問する予定ですので、また村の皆さんにお会いできることを楽しみにしています。

<イッピン>
映画 「ラストレシピ -麒麟の舌の記憶-」

 

 

20180115lastrecipe.JPGのサムネール画像

 

 

見終わってしばらく、大きな感動とともに遠い日のことを思い出していた。

 

弁護士となって1年が過ぎた昭和39年頃、ちょうど佐久間良子と三田佳子がニューフェイスとして登場した時代だったと思う。小生は、縁あって東映株式会社・太秦撮影所の担当をしていた。その後、アメリカ映画のメジャー会社13社も担当することとなったが、これはなかなかの難事業で、会社の小さな試写室で仮眠をとりながら、徹夜での交渉事も珍しいことではなかった。

試写が続く側で眠り、映画の山場で聞こえてくる音楽に目を覚まして仕事に向かう、という日々が5年間続いた。

一方撮影は午前2時頃から始まる。まさに草木も眠る丑三つどき、みな、口々に「おはようございます!」と現場入りするのだ。今ならブラック企業などと一刀両断されそうな世界かもしれぬが、それで映画ができ、世に送られ、人々を楽しませた。

仕事とはいえ、映画製作の現場を間近で見聞きした体験は、小生に映画づくりの並々ならぬ大変さと、そうしてつくられた映画がいかに人に感動を与えるものかを知らしめてくれた。

 

「ラストレシピ」の物語は、究極の料理を求めて過去と未来を行き来する。その中で描き出された人生の哀感とともに、人生の哲理を知る、ということを改めて身に染みて感じた。

何事も成そうとすれば何かを犠牲にしなければならない、しかし、そうやって生きた証は時代を超えて誰かの力となり、助けとなることもある――。

時代を別の角度から見ることによって輝きを増すこの物語に、身体じゅうから何かの思いが湧き出るような気持ちで観入った。

「理動・知動はなくして感動あるのみ」とは、小生の信条でもある。まさに理屈ではないものに深く心を揺さぶられた。

 

昭和39年のあの頃、ただただ仕事に、寝食を忘れて心血を注いだ。それはまさに全人格で心を尽くし、人に、仕事にぶつかることで得た感動をエネルギーに換え、生きようとすることだったように思う。

 

「ラストレシピ」は、そんなことを思い出させてもくれた。人間のリアリティーのようなもの、人として大切なことをも描き出した「イッピン」であった。

 

追記:いつもは映画の音声に過剰に反応してしまう耳の故障が全く気にならなかった。

それほどに心動かされたということであろう。

「ラストレシピ」は、その評判を事務所の若い人たちから側聞し、足を運んでみる気持ちになった。

感謝したい。

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第28回目です。
  • 第28回目は、カオハガン島 オーナー崎山克彦様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第28回)■ ■ ■ 
カオハガン島
オーナー 崎山 克彦 様 
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


[崎山克彦様 プロフィール]

崎山様

1935年福岡県生まれ。慶應義塾大学卒業。米国カリフォルニア大学バークレイ校の大学院でジャーナリズムを専攻。講談社、講談社インターナショナル取締役、マグロウヒル出版ジャパン社長など、30年のサラリーマン生活を送る。1987年、フィリピン、セブ島の沖合い10キロに浮かぶ、周囲2キロの小島、カオハガン島と出会う。島を買い、1991年、移り住む。2017年の6月まで、島の暮らしの改善、島の小さな宿泊施設「カオハガン・ハウス」の運営などに携わる。著書に『何もなくて豊かな島』(新潮社)、『小さな南の島のくらし』(絵本。福音館)他。著書の数冊が、台湾、中国、韓国で翻訳出版されている。

(写真は崎山克彦様 取材日撮影)

[今回のインタビュアーは以下の通りです]

  • 高井伸夫 
  • 大河実業株式会社 代表取締役社長 何軍 様
  • 高島さつき(書記役として)

取材日 2017年10月12日(木)於 日本工業倶楽部会館2階ラウンジ

 


高井

崎山様は、カオハガン島での生活は何年になりますか。

 

崎山様

島に出会ったのは1987年、住み始めたのが1991年です。ですからカオハガン島での暮らしはもう27年になります。

 

高井

カオハガン島を購入された経緯を教えてください。

 

崎山様

私は出版社に勤め、英文で、日本の文化を海外に紹介する出版物の作成を仕事としていました。世界中を舞台にした、非常に楽しい、意義を感じた仕事だったのですが、私はある考え方を持っていたので、52歳になった1987年に仕事を辞めました。少し、のんびりとしてみよう。そして海が好きだったので、昔からやっていたダイビングをもう一度はじめたのです。

家の近くのダイビング・ショップが、海外でダイビングをしたい人をフィリピンのセブ島周辺の海に連れて行っていたので、私も、一緒にセブ島にダイビングに訪れるようになりました。そして、セブ島での、ダイビングの親玉のようなドドン・ペニャさんととても親しくなりました。ある日二人で海に出ているときに、ドドンさんは遠くに霞んで見える島を指差して、「私はこの辺の海域を知り尽くしているけれど、あの島が一番美しい島なんだ。行ってみないか」と言われたのです。それがカオハガン島でした。私は仕事で世界中を回っており、合間にたくさんの島々にも訪れていましたが、カオハガン島はほんとうに胸が躍るような美しい島でした。しばらく魅せられて呆然としていると、ドドンさんが「この島は今売りに出ているんだよ」と言ったのです。驚いてしまいました。しばらくして「いくらですか」と聞いたら、当時の日本円で一千万円くらいということでした。私も退職金をもらったばかりだったので、「じゃあ、お願いします」と言って、その場で、購入を決めてしまったのです。 美しい女性と出会って恋に落ちてしまった、そんな感覚でした。

カオハガン島

(写真は海に浮かぶカオハガン島)

高井

崎山様がカオハガン島のオーナーになった当時は、島民はどういう生活をしていたのですか。 

 

崎山様

当時、約30年前の島の人口は、330人くらいでした。潮が引いたときに家族総出で海に出て、魚や貝をその日に食べる分だけ採っていました。農業はやっていなかったので、辺りに生えている、食べられる草の葉っぱを採ってきて、スープや煮物などをつくって食べていました。主食はトウモロコシを挽いたものを食べていましたが、トウモロコシはカオハガン島にはありません。少し離れた大きなボホール島のひなびた港に、金曜の朝に交換の市が立つのです。そこへ付近の島々の人たちは魚を持っていって、野菜や果物や材木などと交換していました。ですから、狩漁と交換で、必要なものをすべて集めていたのです。

驚いたことに、フィリピンの第二の都会のセブから一時間も離れていないカオハガン島で、当時は、現金が使われていなかったのです。でも、皆がほんとうに幸せそうに暮らしていました。

 

高井

崎山様がオーナーとなり、島民と暮らすようになって、どういった変化がありましたか。

 

崎山様

はじめは、大きな自然の中で、島民と同じようにゆったりと暮らそうと思っていました。ところが島に来てくれた大学生のNGOの方と話をしていたら、人間はいくら幸せそうに暮らしていても、生活に最低限必要なもの「ニーズ」が満たされていなければならない。具体的には、教育、医療をきちんとしなければと言われたのです。学生さんに言われたんですが、なぜかその言葉が心に残りました。そうして実際に島で、教育と医療の援助をはじめたのです。

当時カオハガン島では、小学校の2年までの教育しか行われていなかったのです。そして3年になると、隣の島の小学校に行くことになっていました。しかし、当時は皆が教育にはあまり興味がなくて、ほとんどの人が教育を受けていなかったのです。それではまずいだろうと、政府に働きかけ、私たちも校舎を建てたりして協力し、6年制の小学校を創りました。今では年齢に達した子どもたち全員が小学校に通っています。

また、成績が優秀でやる気のある子どもたちに我々(NGO「南の島から」)が奨学金を出して、ハイスクール、大学で学ばせるようにしました。今では、20人以上の人が大学を卒業しています。 

医療は、島には、「マナナンバル」と呼ばれている民間のお医者さんのような人がいて、病気になると診てもらっていました。セブまで行けば良いお医者さんがたくさんいますが、現金がないのでかかれなかったのです。マナナンバルに診てもらってかなりの病気が治っていましたが、治せない病気も多く、当時は生まれた子どもの三分の一が3歳になるまでに亡くなっていたと言われていました。

それではまずいだろうと、島民が大きな病気にかかると、我々がセブの病院に連れて行って治療を受けさせることを始めました。費用は我々が負担していました。 

今では、奨学金でセブの大学を卒業し、医療関係の「ミド・ワイフ」という助産婦のような資格を取った島民が3人います。この3人が中心になり、政府からお薬をいただいて、島に「ヘルス・センター」をつくりました。また、島民全員が、国の健康保険、「フィルヘルス」に加盟し、大きな病気にかかっても、セブの公立の病院に行けば、ほとんど無料で、治療が受けられようになっています。

 

高井

島民の生活レベルは上がっているのでしょうか。現金収入は増えているのでしょうか。

 

崎山様

魚や貝を採り、足りないものは交換で得て、シンプルな暮らしを楽しんでいた島民たちの日々に、少しずついろいろな情報が入ってくるようになり、島民たちの欲望もだんだんと膨らんできたようです。良いかたちでの現金の収入の道を考えてあげなければ。 

私が島で暮らしはじめ、数年が経って、『何もなくて豊かな島』という本を出版し、それを読んで、ぜひカオハガンに行ってみたいという人が増えてきました。そして、その人たちを受け入れる、「カオハガン・ハウス」という宿泊の施設を創り、今では50人くらいの島民たちが働いて収入を得ています。その他にも、お客様相手にマッサージをしたり、島で採れる素材を使って、ココナツ・オイル、食塩、木工のお皿などを創ったり、「珊瑚礁保護区」をつくりその保全と、案内をしたりと、全部で120人くらいの人が現金の収入を得ています。

もう一つは、キルトです。日本でキルトの先生をしていた私の妻の順子が島民にキルト創りを教え、今ではユニークなアート「カオハガン・キルト」として、世界的な評判を得るまでになっています。100人以上の人がキルトの製作に携わっていて、けっこうな収入を得ています。 

今から6年ほど前に、カオハガン島民の一家族(平均7~8人)の月の平均収入を調べたのですが、4,000ペソ、そのときの日本円で約9、500円くらいだったのです。20数年前にはゼロだったので、私はずいぶん増えたなと思いました。

ところが調べてみると、世界銀行や国際連合では、世界の最も少ない収入のレベルの地域というのを公表していて、それによると、カオハガンの収入は、世界で最も少ない収入レベルの地域の、更に三分の一くらいだったのです。驚いてしまいました。

カオハガン島の海辺

(写真はカオハガン島の海で貝を捕る親子)

高井

カオハガン島の平均現金収入が、世界で最も収入が少ない地域の三分の一なのですか。

 

崎山様

そうです。現金の収入だけから見れば、カオハガンの暮らしは、世界で最も貧しい暮らしの、更に三分の一くらいの、最貧困の暮らしだったのです。ところが、島民たちは皆が、ほんとうに幸せそうに暮らしているのです。

なぜなのだろうか、島民を含めて皆で話し合いました。そしてその結論が、次のようなことだったのです。

カオハガン島は、ほんとうに手付かずの自然に囲まれていて、島民たちはそこからいろいろな恵みをいただいています。海からは、魚や貝。葉っぱを摘んで食べたり、薬になる草や木。島には水道はありませんから、飲み水以外の生活用水にすべて雨水を使っています。それから、太陽の光、爽やかな風。そのようなたくさんの自然の恵みをいただいて、その恵みに対して、島民は心からの感謝をしているのです。

私たち日本人が、ほしいものを買って手に入れたとしても、感謝の気持ちはありません。自分でお金を払って買ったのですから。でも、カオハガン島の皆はほんとうに感謝をしているのです。だからでしょう、それを皆で分けて暮らしています。例えば、潮の引いた海に出て自分の家族がその日に食べる分の魚や貝を採ってくるのですが、周囲に病気か何かで採りに行けなかった人がいれば、すぐにあげてしまう。年寄りの人にもあげてしまう。皆がシェアをして生きているのです。

ほんとうに大きな自然に包まれて、そこからたくさんの恵みをいただいて、それに心からの感謝をして、皆で分け合って暮らしている。これが、現金収入としては最低レベルなのだけれど、皆が心から幸せを感じて生きている秘密なのだということを理解しました。

それを今、私たちは、カオハガンの「誇るべき文化」なのだと思っているのです。

 

高井

恵みをシェアして幸せに生きる。それがカオハガンの文化ですね。 ところが、崎山様は、今年2017年の6月1日の誕生日に82歳になって、カオハガンの日常の運営から引退されたそうですね。今後は、どういった活動をされるのでしょうか。


崎山様

私は、まだ定年前の52歳のときに会社を辞めました。人生は四つの「期」から成っているという考え方が、インドには昔からあるようなのですが、その思想に影響を受けていたようです。

その四つの期。最初は「学生期」で、学ぶ時期。次が「家住期」で、働いて収入を得て、結婚をし家族を持つ。そして社会に貢献する。日本では、この二つの期を終えて、定年に達した後は何もすることがない。私は、そんなふうに感じていました。

しかし、インドの考え方では、この後に、まだ二つ期があるのです。次が「林住期」。昔の話ですから家族から少し離れて林に入って、また違う考え方で生きて、そこで学んだことを「家住期」に還元するというような考え方です。私にとっては、カオハガンの暮らしが、その三つ目の「林住期」だったのです。それが今終わって、これから、最後の期の「遊行期」に入るのです。 

現実には、「林住期」を終わってから、また「家住期」に戻ってしまう人が多いそうですが、少数の人だけが「遊行期」に入れるのだそうです。まだ私は「遊行期」の詳しい意味を理解していないのですが、完全に現実社会から離れて、解脱や涅槃といった悟りの生活に入るようなのです。

私は、これから、自分の「遊行期」の生き方をゆっくり、じっくりと考えていきます。 自然の中でできるだけ本を読んで、次の世代を平和で、すばらしいものにするためにはどうしたら良いのかを、しっかりと考えたいと思います。また、本を書いて、多くの方に伝えたいと考えています。 

カオハガンで、これから私の後を引き継いでくれる日本人女性、嘉恵さんと佑子さん。二人とも島の男性と結ばれて1歳前後の子どもがいます。彼女たちは、ほんとうに忙しく、しっかりと働いてくれています。その二人を見ていて強く感じたのですが、二人が子どもを連れて仕事をしていて、子どもが泣き出したりすると、すぐに、周りにいる島民の女の子たちが助けてくれるのです。カオハガン島では、家でも、家族や、親戚、周りの皆で助け合って子育てをしているようですね。ぜんぜん、たいへんではないようなのです。

今、日本では、皆が助け合って子育てをすることが少なくなって、一つの大きな社会問題になってきているようですね。カオハガンでのこの動きを、いろいろなかたちで広げていってみたいと考えています。家族や、親戚や、周りの人たちが皆で助け合って生きていくということが、すごく大切なことではないかと思うのです。

今では、いろいろな方々が考え、実践されているようですが、大都会から離れて、自然と共に暮らしていく、そこで、皆が助け合って、自然から得たもので生きていく。そういう暮らしが、世界中に広まって、それが結びついて、新しい平和を創造していけるのではないか。そんなことを考えています。そのようなコミュニティをカオハガンに創りたい。カオハガンを一つのモデルにできればと考えています。

カオハガン島の森

(写真はカオハガン島)

以上

 

20180109DSC00155.JPG

2017年12月2日(土)9:16 西新井大師で菊を撮影

 

 

~アメリカ留学生活の所感②~ 公私混同とサービス業について

 

日向小夏

 

初めて会うタクシーの運転手と下の名前で呼び合い、好きな音楽の話などで談話したことがあるだろうか。長い間アメリカに住んでいると慣れてしまったが、日本ではありえない光景だ。日本でタクシーに乗ると同時に「気軽にブライアンと呼んでくれ」などと運転手が話しかけたら恐らく客を失うだろう。日本人にアメリカ人の特徴をあげてもらう時によく「フランク」という言葉が使われる。フランク(frank)とは率直な、気取らないさまという意味である。この国の人々は客と対等に接している。初めて会う客をまるで自分の友達か親戚のように接する彼らをみていると、誰とでも無邪気に話しかけられて友好関係を作る子供を思い出させる。日本人のサービスは律儀で紳士だ。「お客様は神様」という言葉があるように上下関係もはっきりとしている。客との会話は最低限の社交辞令に留め、物やサービスを売ることよりも「お客様」としてもてなされる経験を提供している。サービスのあり方なんて其々でどれが正しいかなんてない。以下ではこの両国のサービスの違いから見られる文化的な背景について語ろうと思う。

 

アメリカ人が客を友として扱うのは決して彼らに礼儀がないわけではない。彼らは文化的に公と私の使い分けというものがないのだ。世間体を気にする日本人は仕事上の付き合いなど場面によって人との接し方を変える。敬語の中にも謙譲語や尊敬語があるように場面や関係によって人との接し方を変える文化は我々の言語にも深く根付いている。それとは反面にアメリカではそもそも公用の顔というものがない。仕事もプライベートの一部だと思っているのだろう。タクシーの例に戻るがお客さんの送迎中、常に友達や家族と電話している運転手だってよくみる。世間体を気にせず素のままで接しているからこそ客と従業員の間にもあまり距離を感じられない。

 

しかし、文化に多面性を持つアメリカ人を一括りに皆公私混同していると結論づけてはいけない。中にはアップル社のようにサービスに徹底して力を入れている企業もいる。アメリカは特殊でまとまった文化がなく、様々な文化が点在している国だ。この文に記述したのは私がその中でも感じた大きな流れであるだけであって、あまりアメリカ人に対しての先入観を持って欲しくない。アメリカ人のみならず、どんな国、色、宗教の人でも人の考えに捉われず自分の目で確かめてほしい。

 

201712292DSC00171.JPG

2018年12月2日(土)9:26 西新井大師にて紅葉を撮影

 

 

第12回 人事の役割

 

株式会社日本総合研究所
リサーチ・コンサルティング部門
青木 昌一

 

1.経営の中での人事の位置づけ

私は今年の12月で人事コンサルタントになって18年になります。

その18年の間で「人事部」、「総務部」、「人材開発部」、「労務部」等々。名称は違っていても「人事部」の存在していない会社にお目にかかったことはありません。

業種や規模を問わずどんな会社にも人事部は存在しています。

このことは人事という機能が企業にとって必要で欠くことのできない重要な機能だということを表しています。

一方で「人事部」の機能には性質の異なるさまざまな機能が集約されています。

例えば、各組織と調整しながら人員の配置を決める機能。

給料を計算して社員に支払う機能。そもそもそのためには給与を決定する評価の仕組みを作らなければなりません。もちろんそれも人事の機能です。

また、人的な問題が発生したときにその解決にあたる機能。

社員の福利厚生を考え、実施する機能。

そして社員を採用し、戦力として高い能力を着けさせるために教育を行う機能などなど。

これらの目的は個々にはいろいろとありますが、究極的には世の中のコンペティターとの競争に勝ち、会社が未来永劫継続するために必要な機能だと言えます。

ゴーイングコンサーンと言われますが、企業の寿命が30年と言われる中で、経営としては何としても生き残っていくための取り組みが必須です。

したがって、どの会社においても人事部というのは経営に極めて近い組織だと言っても過言ではありません。人事部に所属する人たちには単に給与の専門家だとか社員のことをよく知っているということだけではなく、自社がどのようなリソースを持ち、それをどう活用して商売をしているのかを熟知し、同時に同業他社のみならず世の中の様々な企業の動向、世の中の状況を吸収するアンテナを備えていることが求められます。そのうえで、それらの知識や情報を駆使して難しい判断を下すことが求められる場面も多いといえます。

 

2.生産性の向上

昨今、働き方改革が各企業において大きなテーマとして取り組みが行われています。政府の「働き方改革実現会議」では19の対応策が提示されましたが、それら対応策の多くに共通する課題が「生産性の向上」です。

最近ICT(Information and Communication Technology/情報通信技術)やAI(Artificial Intelligence/人工知能)、RPA(Robotic Process Automation/ロボットによる自動化)などこれまであまり聞きなれなかった言葉をしばしば耳にするようになりました。

これらはすべて生産性の向上のために最近研究が進み、さまざまな企業で導入が進んでいるシステムの話です。少子高齢化の問題が取りざたされて久しいですが、これから各企業は本格的に労働人口減少の問題に直面することになります。これまで10人でやっていた仕事を3人でこなさなければならなくなる。そのためには今までと同じやり方では到底やり切れません。

このような状況に対処するために生産性向上に向けての取り組みをしなければならなくなっています。この問題は当然人事部も無縁では済まされません。まず、優秀な人材を採用をしなければなりません。その優秀な人材をさらに磨くために教育していかなければなりません。これは何も研修を施すだけでなく、スキル向上に役立つ仕事に配置することも重要です。その配置は生産性向上をしていくためにこれまでとは全く異なる論理で行う必要に駆られることが予想されます。

人事部ではこのようなシステムの配置と人の配置に関して経営企画や情報システムの担当者そして勿論様々な部署の人とすり合わせを行って決めていく必要がありますし、これらのシステムを使いこなす人材の採用・育成を進めていく必要が出てくるでしょう。

人事部の仕事も劇的に変化する可能性があります。先日も新卒採用においてAIを活用した書類選考を行う企業がニュースで紹介されていました。さらに在宅勤務やそのための就業管理もこれまでとは変わり始めています。これらに対応するために人事部がルール作りをする必要もあります。

生産性の向上は経営としても喫緊の重要課題になっています。企業においてその根幹を担う組織のひとつが人事部であることは間違いありません。

人事部はそういう意味でも企業の中でも極めて経営に近い組織だと言えます。

 

3.終わりに

高井先生はご案内の通り、人事・労務分野の弁護士として活躍されていらっしゃいます。その先生に若い頃にご縁をいただき、今日に至っている私はとても幸せな人間だと思っています。

私は日本総合研究所のコンサルタントとして、主にクライアントの人事制度の設計を中心とする人事施策策定のお手伝いをさせていただいていますが、自分自身が人事コンサルタントとしてさほど秀でているとは思えません。それでも多くのクライアントさんから声をかけていただけるのは企業の人事部や経営が抱える多くの課題を高井先生を通じて学ばせていただいたからに他なりません。さらに様々な企業の経営者の方々や今回述べてきたような経営に極めて近い組織である人事部の方々との取り組みが、コンサルタントにしては現場が分かると認識をいただきクライアントの方々から信用いただけるという循環ができているのだろうと考えています。

 

ここまで一年間連載させていただいたブログも本稿が最終回になります。

この連載のお話をいただいたときに高井先生から「最後はどう締めるのかね?」と尋ねられ、「特に考えていないので、成り行きに任せます。」とお話ししたことを覚えています。

結局、当時お話ししたままの成り行き任せで最終回を迎えることになりました。

これも私らしいかなと思います。

ここまでこのブログにお付き合いいただいた読者の方々と、今回の機会を与えてくださった高井先生に感謝をして筆を置きたいと思います。

ありがとうございました。

 

以上

ご利用案内

内容につきましては、私の雑感等も含まれますので、真実性や正確性を保証するものではない旨ご了解下さい。

→ リンクポリシー・著作権

カレンダー

2025年1月
« 1月    
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の投稿

カテゴリー

月別アーカイブ

プロフィール

高井・岡芹法律事務所会長
弁護士 高井伸夫
https://www.law-pro.jp/

Nobuo Takai

バナーを作成