お知らせ

2023年2月10日
訃報

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2017年2月4日(土)14:10 港区北青山にて白梅と紅梅を撮影
白梅の花言葉:「気品」 紅梅の花言葉:「優美」

 

 

第22回雇用の未来(3)
(2009年2月2日)

 

 

日本人の長寿化は進む一方である。平均寿命の推移を辿ると、1900年頃‥男性43・97歳、女性44・85歳→1950年頃‥男性59・57歳、女性62・97歳→2000年‥男性77・72歳、女性84・60歳→2007年‥男性79・19歳、女性85・99歳(厚労省生命表参照)であり長寿化に比例して勤労年数も長くなっていることは容易に推測できる。

 

キャリアこそ「資産」に

しかし、人間の寿命の伸びとは反対に、企業の寿命は短くなっているという現実がある。「日経ビジネス」誌は1983年9月19日号掲載の調査で、売上高や総資産を元に日本企業の寿命を「30年」と発表して話題となったが、同誌1999年10月4日号掲載の調査では、株式時価総額をもとに日本の企業が大きな影響力を持つ盛期は7年以下で、米国企業は5年以下と発表した。社会・経済の変化のスピードが加速度的に速まり企業環境が激変している現在では、この期間はさらに一層短くなっているだろう。企業の寿命が急速に短縮化する一方で、人間の寿命は伸び続けている現実は、企業・組織で働く労働者は、自ら絶えざるキャリアアップを期さなければ人生をまっとうできないことを示している。

ここにこそ、長寿社会における雇用の未来の変化の原点があり、「キャリア権」概念思想が生まれる所以でもある。

法政大学大学院の諏訪康雄教授が10年以上前から提唱されている「キャリア権」については、本紙2008年1月21日~2月4日号掲載の拙稿「注目すべき『キャリア権』」(上・中・下)で論じたとおりであり詳述しないが、「キャリア権」概念とは、今の時代は職業キャリアこそが働く者にとっての資産であり自己実現の重要な手だてであるという発想から、これを権利概念にまでに高めて雇用関係を見直そうとする考え方である。法文上は「職業生活」「職業生活設計」等の文言が職業キャリアを念頭に置いたものであり、個々の労働者の能力の向上なくして企業の成長も実現し得ないという点において、雇用の未来には人材教育の重要性と同様に「キャリア権」の視点がなお一層注目を浴びるようになるだろう。

さらに言えば、時代の変化に応じて人はキャリアを変えなければならない事態も起こる。ドラッカーは自らをマネジメントする必要性を説く中で、次の5項目をチェックポイントとして掲げている。即ち①自分は何か、強みは何か、②自分は所を得ているか、③果たすべき貢献は何か、④他との関係において責任は何か、⑤第2の人生は何か(P・F・ドラッカー著「明日を支配するもの」1999年)。

これらを常に念頭に置き能力・技術・技能を磨き続ける者であれば、今のような世界同時不況においても有為の人材として組織から必要とされ、活躍の場が得られるのである。

なお、キャリア開発や方向転換に当たっては、進路指導を行うキャリアカウンセラー等の専門家が必要となってくるが、その際に留意すべきは、前提条件として、本人自身が努力し勉強する資質と「学び方を学ぶ(Learning To Learn)」スキル・能力を身に付け、幅広の情報を身に付けたり的確な判断をなし得る資質に優れていることが必要となろう。そうした向上心あふれた人材を対象として、今後の人事部門においては職務能力開発室等の部署が重要な役割を担っていく。キャリア開発支援は優秀人材の囲い込み・リテンション策でもあるのだ。

職業キャリアの問題を考えるに当たっては、今後、急速に進むデジタル情報化・グローバル化の流れをも念頭に置かなければならない。私が言いたいのは、各人がIT技能や語学能力の向上に励むべきという当たり前のことではない。ここで強調したいのは、さらに高次元の問題として(私の造語であり恐縮だが)「ヒューマンワーク」を意識すべきだということである。

デジタル化の進行によって職場ではハートや人間関係のぬくもりが失われ始め、「お早うございます」の挨拶さえできない者が増えつつあり、また信じ難いことに、傍らの上司にさえ口頭ではなくメールで報告を済ませて何ら疑問を抱かない者もいる。その背景には、ハートを反映した口頭による報告の重要性等を教える上司も、温かくて厳しい上司も減っていることがある。人間の温かさや優しさが職場から失われ人との関わりを拒み、パソコンが我が唯一の部下となるような状況では、人は孤独でストレスも上手に解消できず、うつ状態に陥るであろう。

笑いはストレス解消につながり免疫力を高め病症の軽減にも資することが、医学的にも実証されてきているという(日本医科大学リウマチ科HP参照)、九段坂病院副院長の山岡昌之先生(心療内科)が、職場の誰もがよい関係でいるための3カ条として「挨拶」「雑談」「冗談」を挙げられるのも、人間のコミュニケーションにとって笑いの効能がいかに大きいかを指摘されていると思われる。

 

ヒューマンワーク時代

こういう時代であるからこそ、全人格・全人間性をかけて労を惜しまずに尽くすべきは尽くし、「血と汗と涙の結晶」としての労働=「ヒューマンワーク」をなし遂げることによって、相手の心を和らげるとともに自分自身の人間性をも豊かにすることが一層求められると言ってよい。

また、グローバル化が進むことで、労働の評価には、国籍や民族や文化の違いを超えて納得できる基準が必要となってくる。その場合にも、「ヒューマンワーク」は多様な価値観を超えて万人の旨に届く評価基準として重要になってくるだろう。

常に相手のことを思いやり全力を尽くし「本気」で「熱意」「情熱」を以って仕事をしている人にとっては、「ヒューマンワーク」は敢えて強調するまでもない至極当然のことと思えるかもしれない。しかし実際にはごく一部の限られた者しか「ヒューマンワーク」を実行できていないのであり、雇用の未来には、このことを日々為し得る者しか生き残ることはできない。その意味で、これからは「ヒューマンワーク」の時代と言っても過言ではない。そして今のような不況・大恐慌の時代には人の差別化や企業の差別化が求められるから、「ヒューマンワーク」はそこでも確固たる評価基準として機能することになるだろう。

2008年4月に施行された改正「パートタイム労働法」は、正社員とパートタイマーとの処遇等の均衡をめざすものであるが、「ヒューマンワーク」の概念は正規・非正規の身分とは全く関連しないことに注目して頂きたい。「ヒューマンワーク」を実行した者は、労働の身分と関係なく正当な評価を受けるべきなのである。全身全霊をかけて労働の成果を上げた者は、雇用の場において人間性の創出・発揮をしたことに対し正規・非正規の差異なく取り扱うことこそが均衡概念にもつながる。

「不患寡而患不均(貧しきを憂えず、均しからざるを憂う)」とはかの毛沢東の言葉であったともいうが、雇用の未来では、正規・非正規の区別なく労働の成果が均しく評価されなければならないのは言うまでもない。

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2017年1月29日(日)8:13 千代田区大手町1にて寒桜を撮影
花言葉:「気まぐれ」

 

 

朝日新聞記者 高橋美佐子さんと小生のご縁

 

朝日新聞の夕刊紙面で2016年12月12日から28日まで全12回にわたり連載されていた「人生の贈りもの~わたしの半生 作家落合恵子氏」の記事を拝読していて、担当者欄に高橋美佐子さんの名前を見つけた。

この連載は、落合恵子さんが高橋さんに対して心を開いている様子が感じられる見事な内容であった。高橋さんを知る者のひとりとしてうれしかった。

事務所の記録をみると、小生が高橋さんと初めてお目にかかったのは、2006年5月のことである。

 

小生は株式会社ABCCookingStudioの法律顧問をしているが、おそらく2006年5月に、同社の創始者である志村なるみさんが朝日新聞から取材を受けられ、その担当記者であった高橋美佐子さんを志村さんからご紹介いただいたのであろう。高橋さんは溌剌とした爽やかなお人柄であり、そして、読者に何を伝えるべきか真摯に取材対象となる方に向き合い、使命感をもって仕事をしておられるという印象を受けた。

高橋さんは、朝日新聞入社後、長野支局、横浜支局を経験し、2000年から東京本社の社会部へ配属され、その頃、首都圏で働く20代~30代のOLをターゲットにした連載企画「口紅のささやき」などを担当しておられたそうだ。小生が初めてお会いした2006年ごろは、朝日労組本部広報部長も務めておられた。その後、名古屋本社報道センター社会グループ、東京本社文化くらし報道センターで生活面キャップを務められた。

(なお、2008年4月に小生が立ち上げた勉強会「キャリア権研究会」に、小生から高橋さんにお願いして、2年間にわたりご参加いただいたということもあった。)

2009年10月~11月にかけて、当時の夕刊一面の連載「にっぽん人脈記」に、「排泄と尊厳」というタイトルで署名入りの連載記事を書かれたことも、大変印象深いお仕事として記憶に残っている。介護問題とも密接に関連し、人間にとっての根源的かつ重要なテーマに正面から挑んだ力作であったと思う。また、取材班のひとりとして参画された2010年末の朝刊一面などの年間連載「孤族の国」では、単身世帯が急増する日本社会の実情に迫っておられた。高橋さんは、社会で弱い立場にある人の抱える問題を、独自の視点で丁寧に取材して読者に伝えることを、自らの信条とされているのではないだろうか。

2012年には東京本社デジタル編集局デスクに異動され、テレビ朝日CS2「ニュースの深層」でキャスターを務められ、2013年4月には、『週刊朝日』副編集長として朝日新聞出版へ出向された。異動のご連絡を受けた際には、放送や雑誌という新分野に果敢に挑戦される高橋さんを頼もしく思った。朝日新聞出版時代には、2年連続で東京大学情報学環境部「メディア論」(後期)にて講義を担当されるなど、活躍の場を拡げ、2015年に古巣ともいえる東京本社文化くらし報道部に異動され、現在は再び記者として活躍しておられる。

 

高橋さんは、同じく朝日新聞で記者をされている上野創(はじめ)さんと、上野さんが26歳でがんを発症された1997年に結婚された。高橋さんのご紹介で、小生は上野さんにお会いしたことがあるが、柔和な優しい雰囲気の好青年であった。再発や4度の手術を経て社会復帰を立派に果たされるまでには大変なご苦労があったことは、ご著書『がんと向き合って』にも綴られている。上野さんとともに歩み、上野さんを勇気づけた高橋さん。すばらしいおふたりだと思う。民間療法だといわれるかもしれないが、小生から、真夏に裸足で海岸の砂地を歩くこと、特に熱い砂地を歩くと良いとアドバイスをしたこともある。

高橋さんの妹さんは、ソプラノ歌手の高橋美千子さんである。高橋さんにご紹介いただき、2011年12月2日に開催した弊所年末講演会のコンサートでは、美千子さんに素晴らしい歌声を披露していただいた。アメージング・グレイスやアヴェ・マリアを歌い上げる美千子さんの美声がコンサート会場内に響き渡り、圧巻であった。

 

高橋美佐子さんは、現在は朝日新聞文化くらし報道部生活グループで記者をされている。様々な経験を経た彼女がこれから何をどのように伝えていくのか、今後も応援していきたいと思っている。

 

以上

 

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2017年1月21日(土)10:17 北区豊島8にてモミジハグマを撮影

 

 

第20回 働き方改革(1)誰のために働くのか
(平成28年8月29日) 

 


東京帝国大学において、1920(大正9)年に日本で初めての労働法の講義をされた末広厳太郎(すえひろ・いずたろう)博士は、1947年(昭和22)年、労働組合関係者、使用者側の者、学生等を対象とした労働法ゼミナールという講話をされ、速記録をもとにした本を出された。私は10年ほど前になじみの本郷の古書店でこれを入手したが、内容は濃く、活字もしっかりと組まれており、戦火が止み勉強できるようになったことへの人々の喜びを感じずにはいられない。

この講話の導入部分の「労働法の史的概観」には、「マルクスは、現代資本主義社会の労働者を賃銀(ママ)奴隷と呼んだが、歴史的にみると今日の労働者の職能上の祖先は奴隷である。かくの如く古代の奴隷と今日の労働者とは一貫して一つのものとして理解される共通の要素がある。」(末広厳太郎述『労働法のはなし』一洋社1947年11月刊)というくだりがある。戦後間もない時期のこの指摘は、いまを生きる私たちにも響くものがあるのではないか。従属労働の担い手である限りは、働く者の本質は、自立・自律し得ない存在である奴隷と同じものなのだ。

時代の変遷とともに人の労働観は「国家のため」から「企業のため」に変わり、近年は「個人のため」「自分のため」へと変わりつつある。こうした潮流は立法にも反映され、2007年11月には労働契約法が成立した。同法は、雇用形態が多様化し個別的な人事管理が進展してきた社会の実情のもと、労働関係は基本的に労働者と使用者との個別的な合意(約束)によって成立、展開、終了することを法文上明らかにしたものである(弘文堂『詳説労働契約法』等参照)。

労働契約関係は一般の債権契約とは異なり、人格的結合性と組織性に特色が求められるとしても、「個人のため」「自分のため」に働くという考え方が主流になってきた以上、企業は個人の多種多様な生き方を尊重していかざるを得ないのであって、様ざまな雇用形態を採用し、働く者の選択肢を増やす努力が求められる。統一的かつ画一的な雇用では魅力に欠け、優秀な人材は集まらず、組織の充実はあり得ない。企業は多種多様な働き方を希望する従業員に対して、マッチングする制度を採用していかなければ、真の働き方改革たり得ない。自分のために働くという目的意識に配慮し、労働者側からみた理想の働き方概念を打ち立てなくてはならない。いうまでもなく、いまや優秀人材は国境を越えて移動する時代である。彼ら彼女らにとっては、好きなこと得意なことについて、好きな時間に好きな人と働き、自分が納得できる報酬を得られることが理想であり、人種、性別、学歴、宗教、キャリア等に関係なく、こうした動きは世界レベルで進行している。企業はこれらの事象を念頭に、新たな人事制度、雇用制度を確立しなくてはならないと思うのである。

そして、働く者を賃金奴隷の労働から解放すべく従属労働から自立労働へと促し、自己責任に基づく自己実現を果たし得る労働法体系を構築することが、厚生労働省のいまの役割なのである。個人のために働くとなれば、雇用契約は必然的に請負契約的な働き方に転換され、労働の成果による格差は広がっていくであろうが、やむを得ない。財源問題はあるにせよ、救済策としてのベーシックインカム等のシステムの導入も、真剣に議論されるべきときなのである。

  • 今、話題のテーマについて各界で活躍している方々と対談をする一問一答形式のブログの第9回目です。
  • 第9回目は メルコスール観光局 池谷光代様です。

 


 

■ ■ ■ ■ 時流を探る~高井伸夫の一問一答 (第9回)■ ■ ■ 

メルコスール観光局 池谷光代  様

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【池谷光代様プロフィール・ご紹介】池谷光代様お写真

東洋大学短期大学にて、観光学を学び、卒業後一貫して、観光業に従事。全日空商事株式会社を経て、サンフランシスコにて日系旅行会社に勤務。1997年に、ある偶然の出会いがきっかけで、アルゼンチンに渡る。その後、約10年間、アルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在し、旅行会社勤務を経て、ブエノスアイレス市公認観光ガイド、各種コーディネーター等の仕事に携わる。

アルゼンチン観光省との縁より、現職であるメルコスール観光局〔※説明はブログ本文ご参照ください〕にて、メルコスール加盟国の観光のプロモーション業務の為、2007年に帰国。

現在、南米とひとくくりには出来ない、国柄も文化も違う5カ国の観光省とのコーディネート、観光PRイベントの企画、手配、運営、観光セミナー講師等を担い、2012年には、一般社団法人日本旅行業協会より、4カ国(当時)観光省とのコーディネート力、日本の旅行業界への貢献を評価され、「ツーリズム大賞2012観光局部門」を受賞。

日本、米国、アルゼンチンと国内外の民間企業勤務の経験と、現在アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ5カ国の観光省という外国公的機関とのコーディネート経験、国柄も文化も違う5カ国をコーディネートするコーディネート力、そのユニークなキャリアが業界から評価されている。

日本と海外の旅行社勤務の経験を経て、現在観光局で観光PR に従事するという、観光を学ぶ学生から憧れられるキャリアを持つ女性として、またユニークな経験談が評価され、大学や専門学校から、観光学科学生向けの講義依頼等も受けている。

【今回の同席者は以下の通りです】

  • 久佐賀義光様
  • 三井物産株式会社(1955年4月-1992年6月)にてアルゼンチン(ブエノスアイレス)化学品課長、ドイツ(デュッセルドルフ)化学品部長、中国(北京):初代中国総代表を歴任。アルゼンチン勤務は1962年12月~1968年1月の5年に亘る。

  • 高井伸夫

今回は、アルゼンチン勤務経験のある久佐賀義光様をもお招きして、お話をお伺いいたしました。
(取材日:2016年12月1日(木)中国飯店市ヶ谷店)

 

 

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高井

南米とかかわるようになって何年ですか?

 

池谷様

来年(2017年)で20年になります。

 

高井

南米に関するお仕事ですが、19年間どのようなことをされてきているのですか?

 

池谷様

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで旅行会社に勤務したのをきっかけに、一般旅行業務、ブエノスアイレス市公認ガイド、イベントのコーディネーター等をしていました。その後、アルゼンチン観光省と縁に恵まれ、現職の観光局に関わるようになりました。ずっと、観光業に携わっています。

 

高井

池谷様が日本に戻られてまもなく10年ですが、日本に戻られてから他の南米の国とも関わるようになったのですね?それが、メルコスールの国々だったのですね?

 

池谷様

そうですね。メルコスールというのは、日本では聞きなれない言葉かと思いますが、アルゼンチンとブラジルとパラグアイ、ウルグアイとベネズエラの関税同盟の名称です。

それまでは、アルゼンチンの観光だけに関わっていましたが、日本に帰国後、その周辺諸国にも関わることになりました。日本では南米というとまるで同じ国のようにひとくくりで見られる方が多いように感じますが、日本とその周辺のアジア諸国が異なるように、南米大陸の各国はそれぞれ異なります。それぞれに独自の文化があり、異なる面もありますが、お隣通しの国が手を組んで一緒に観光促進をするプロジェクトは、とても興味深いと思います。

 

高井

アルゼンチンの魅力は何ですか。

 

池谷様ペリトモレノ氷河

まず、アルゼンチンの最大の魅力は大自然ですね。アルゼンチンの国土は日本の約7.5倍です。

観光で特に人気なのは、南部のパタゴニア地方にある世界自然遺産ロス・グラシアレス国立公園の「ペリト・モレノ氷河」です。

アンデス山脈から30KMの距離を、氷河の名の通り、氷の河が湖に流れていて圧巻です。そして、遊歩道からその氷河を目の前に見ることができます。もし、東京の中心部にそれがあったとしたら、その氷の壁は、日本橋から浜松町まで続き、上を見上げるとその高さはビルの20階ぐらいと同じ。

そんな大きな真っ青な巨大な氷河があるんです。すごいと思いませんか?

(写真;ペリト・モレノ氷河・手前に遊歩道あり)

また北東部にいくとアルゼンチンとブラジルの国境に、イグアスの滝と呼ばれる世界遺産に登録されている滝があります。この滝は、なんと275本の滝が連なって、幅が2.7KMにもなるんです。日本橋から新橋ぐらいの距離!(笑)イグアスというのは、この辺りに住んでいた先住民グアラニー族の言葉で、「大いなる水」という意味ですが、訪れた人はその言葉の意味を、思う存分体感することができると思います。日本にはない景色です。

北部に行きますと、190KM続くウマワカ渓谷のある村に7色の丘を持つ村があったりします。

 

高井

丘の色が7色なのですか?

 

池谷様

ウマワカ渓谷

そうです。地層の色が7色です。この丘は、世界遺産ウマワカ渓谷のプルママルカ村というところにあります。自然の作った素晴らしいグラデーションです。さらにアルゼンチンの自然の魅力を語りだしたら、今のこのお時間では足りないぐらいです。

他にもちろん、まだまだたくさんありますが、お時間もありますし、もしもうひとつしか選べなかったら、それは間違いなく「人の温かさ」と言いたいです。例えば、地下鉄に乗っていて、妊婦さんやお年寄りが乗ってくると、どなたか一瞬で席を立ちます。日本のように寝たふりをしている人なんて皆無です。そして、家族や友人をとても大切にするアルゼンチン人。例えば、もし、あなたが年末年始などの人が集まる季節に一人だったら?そんな時は、こんな声が聞こえます。「ひとりでいるもんじゃない、うちに来なさい!一緒に楽しもう!」日本では、家族の集まりに他人が加わるといった習慣は、あまりないかもしれませんが、アルゼンチンの人達は、あなたが誰だからというわけでなく、ただ人とのつながりをとても大事にしてくれる人々だと思います。

(写真;ウマワカ渓谷7色の丘)

 

高井

治安はどうなのでしょうか。

 

池谷様

南米の中では、比較的良いと思います。首都のブエノスアイレスには、東京にもあるような、バス停で乗り降りできる2階建て観光バスが走っています。治安が悪いところでは、バス車内強盗などがあったりしますが、乗り降り自由な観光バスが運行しているということは、比較的治安がいいといえるかと思います。

また、治安が悪い国ではお勧めできない長距離バスも、アルゼンチンでは全く問題ございません。

 

久佐賀様

アルゼンチンは南米で一番安全な国ではないでしょうか。私がいた当時は夜中の1時2時に町の中を1人で歩いていても、全然怖さを感じませんでした。

 

高井

観光業のお仕事で一番のやりがい、醍醐味は何ですか。

 

池谷様

やりがいは、仕事に限界、リミットがないことです。

 

久佐賀様

何でもできるということでしょうか。

 

池谷様

例えば、今観光地でないところがあったとします。その場所は、未来にはお客さんが来てくれるような場所に、育てることができます。創造性には、リミットはありません。

観光業は、代金を支払う時は、商品を手に取って品定めして買える商品でなく、その観光地にいる時、もしくは家に戻ってきてから、その価値がわかるものです。

同じ代金でも、同じ観光地でも、まあまあだったという人もいれば、一生忘れない思い出になる人もいればさまざまです。そんなひとりひとりの違う人生の一部に関われると思うと、ロマンを感じます。多様性があり、そういった面にもくくり(リミット)がありません。

また、お勧めしたところへ行ったお客さんに「楽しかった!いい思い出になった。」と言われること、その方の喜びが私の喜びになるときは、観光業に携わって、本当に良かったなと思います。

 

高井

池谷様が開発された観光地はありますか?

 

池谷様

テレレ茶器

そんな大それたものはありませんが、アイディアを採用していただいたことはあります。パラグアイでの話ですが、テレレというマテ茶を冷たくしたものを、飲む習慣があります。このテレレは(アイスマテ茶)、ポットに注いで飲むのではなくて、特別な容器に入ったお茶を、銀のストローのようなもので飲むという、独特の飲み方をします。パラグアイでは家庭で飲むもので喫茶店等では飲むことが出来ません。しかし、街中では小脇にポットを抱え、日本人には見たこともない専用容器で飲んでいるのを見かけるのです。そんな姿をみたら、観光客は益々味わってみたいものです。でも、喫茶店やレストランでは飲めない。そこで、こんな提案をしてみました。旅行会社のツアーでは、お客さんに1日1本ミネラルウォーターを付けていたりします。パラグアイ滞在中は、ミネラルウォーターの代わりにテレレセットを用意し、テレレ体験をしていただき、その入れ物はお土産として持って帰れることにすればお客さんが喜ぶのではないでしょうか?ということを提案しました。現地の旅行社は、灯台下暗しとでもいいましょうか、自分たちの毎日の当たり前のような習慣が観光客にはとても興味深いということに、今までは気が付かなかったそうです。そして、思った通りそれを実行したら、お客さんにとても喜んでもらえたという例がありました。

(写真:パラグアイ、テレレの茶器)

 

高井

観光業のお仕事で一番苦労されるのはどのようなことですか。また、日本人がアルゼンチンに観光で行って一番苦労することは何ですか?

 

池谷様

現職では、文化の違いから価値観の違いもあることを、理解するよう心がけています。

日本人がアルゼンチン観光に行って一番苦労すること?なんでしょう?(考え込む)スペイン語の文字が飛び込んでくることでしょうか?(笑)観光地は、英語は通じますし、身振り手振りでも相手を理解しようという人がたくさんいるし、食事も素材を使ったお料理ばかりで日本人の口に合うし、苦労ではなく逆にたくさんの楽しみが待っているはずです。

 

高井

価値観とおっしゃいましたが、どのような価値観ですか。

 

池谷様

例えば、簡単な例だと、日本ではメールを受けとったら、それに対しての回答がすぐ出せなくても、受け取りましたという受信メールを返信する方が多いかと思いますが、私が一緒に仕事をしている人たちは、回答が出てから連絡がくることが多いです。ですから、数日間は、メールを受け取ったのか受け取っていないか分からない時間があります。

彼らたちにとっては、聞かれたことの回答がわからないから、確認してから書こうとただ思ったということだそうです。自分の価値観だけで考えてしまうと、その数日間はイライラするかもしれません。しかし、どちらがいいか悪いかではなく、お互いのやり方を尊重し、確認しながらミスコミュニケーションがないようにしています。また、各国間とは、メールのみで、ほぼやり取りするのですが、些細なことでも全てをちゃんとシェアしていくことを心がけています。これをとても大切にしています。5か国で仕事のリズム、文化が違うので、アルゼンチンもブラジルもウルグアイもパラグアイもベネズエラも南米大陸にありますが、国が違うわけです。日本だってアジアの1つだけども、お隣の中国とも違うし、韓国とも違う。それと同じです。

南米は、大陸でつながっているけれど、違う国同士、考え方の違いも生まれますし、そういうことを理解しながら、バランスを取りながら仕事を進めるというのが、一番、難しいと言うか、気を付けていることです。

 

 

高井

ところで池谷様はボランティア活動も積極的に行っていらっしゃると伺いました。どのような活動をされていますか?

 

池谷様

最近は行っていませんが、東日本大震災と広島の土砂災害でのボランティアの経験が印象に残っています。東日本大震災では、震災後に岩手の釜石と宮古へ行きました。

 

高井

ボランティアに行って、感じたことを教えて下さい。

 

池谷様

災害の現場に際して一番感じたことは、自分がテレビを見た時の想像と、実際の被害の大きさの違い、自然災害の恐ろしさは、テレビだけでは表現できないと感じました。そして、被災された方について、東北の場合は、何もなくなってしまって、更地になってしまっていて、平地になってしまって、それでも人は立ち直ろうとする、東北の人の強さを感じました。何にもない道を釜石から宮古まで走った時に、ただの更地といっても、平原ではありません。アルゼンチンの大自然の平原とは違います。町があった場所です。全く何もなくなってしまった、こんな状態になっても、立ち直ろうとする人のすごさを肌で感じました。

広島の土砂災害は、「横の家は大丈夫だったけど、うちはダメだった、というように、間一髪の差で全てがなくなっている、それを認めるまでは時間がかかったけれども、これからがんばっていく、復興していく」とお話を伺い、人間の強さというのは、すごいなと本当に思いました。

 

高井

本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

以上

 

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2016年12月31日(土)8:12 中央区築地にてリナリアを撮影
花言葉:「幻想」

 

 

第1回「試練はきついが損ではない」

 

1.ご挨拶

はじめまして。

株式会社日本総合研究所で人事コンサルタントをしている青木昌一と申します。この「無用の用 ~高井伸夫の交友万華鏡」で今月から毎月1回、1年間執筆させていただくことになりました。

このコラムにはこれまでも何人かの方が寄稿をされてらっしゃいます。皆さん本当にすごい方ばかりです。したがって、自分自身がここに文章を書かせて頂いている事実がどうにも信じられません。

そんなこともあり、まずは凡庸な一介のコンサルタントである私がどのようにして高井先生とのお付き合いが始まったについてお話をさせていただき、以降、高井先生とのお付き合いを通じて、学んだこと、驚いたこと、そして高井先生が企業、とりわけ経営危機に瀕してあえいでいる企業に対してどのような携わり方をされているかなど、織り交ぜながら話しをさせていただきたいと思います。

1年間はいささか長い気もいたしますが、最後までお付き合いいただければ幸甚です。

 

2.西洋環境開発

今は三井住友フィナンシャルグループの(株)日本総合研究所(日本総研)で企業の人事制度設計や労務問題などのアドバイス、いわゆる人事コンサルタントをしていますが、以前は故堤清二代表が率いておられたセゾングループの基幹会社のひとつでデベロッパーの「西洋環境開発」という会社に約13年間在籍していました。

この西洋環境開発という会社は今ではご存知の方は少ないと思いますが、かつてはサホロリゾートやプロゴルフのトーナメント会場として有名な美浦ゴルフ倶楽部、桂ゴルフ倶楽部等のゴルフ場、横浜インターコンチネンタルホテルなど多くのリゾート施設の開発・運営や兵庫県尼崎市の「つかしん」などの都市開発で知られ、不動産会社の中では大手に準じて学生の就職希望ランキングの上位に位置する会社でした。

しかし、本業、すなわち収益事業の柱は宅地開発やマンション開発の住関連の事業でした。それが身の丈以上の事業領域に手を出してしまったことで、会社の経営がおかしくなってしまいます。世間がバブルに沸いた頃、飛ぶ鳥を落とす勢いで事業拡大を続け、バブルの崩壊とともに経営危機に瀕し、その後の経営再建の努力も結果としては実ることなく、「特別清算」という形でこの世から姿を消してしまった次第です。

 

3.西洋環境開発での仕事

私自身はこの西洋環境開発で1987年の入社から10年間人事部に所属し、その後3年間は関連事業部という再建の推進のための部署で、遊休不動産の処理、ペーパーカンパニーも含め約100社にも及ぶ関連会社の売却や清算の業務にあたっていました。

入社から7年間ほどは人事部で給与業務を手始めに新卒・中途採用、三重、広島の新規ホテルの立ち上げ、人事異動の事務局など、極めて前向きな業務を担当していました。ところが93年頃から会社の様子がおかしくなります。

経営層ではメインバンク等と会社再建に向けての協議が始まっていたようですが、我々末端の社員はそんなことは知る由もなし。私にとっての経営危機の最初の兆候はリゾート事業を行っている小さな関連会社の撤退の話が持ち上がったところからだったと記憶しています。

 

4.高井先生との出会い

10名程度とはいえ社員を抱えた東京から遠く離れた場所にあったリゾート会社。いきなり撤退と言われても、途方にくれるばかり。会社を撤退する場合に社員の方々にどう対処すれば良いのかわかりません。場所が場所だけに社員の再就職もままならない。ただ、民法や労働基準法で定めることだけをやっていては、実際はダメなんだということだけはぼんやりとわかっている程度。

何をどうすればよいのか分からず途方に暮れる私宛に懇意にしていた西武百貨店の人事部の課長で後に私の上司になる方から「〇日の●時に市ヶ谷の法曹会館にある高井伸夫法律事務所に高井先生という弁護士さんを訪ねなさい。アポイントは既に入れてある。」という電話がかかってきました。

指定された日時は関係会社の役員研修を飯田橋にある当時関係会社のひとつであったホテル・エドモントで行っている最中。私もそこにお手伝いとしてアテンドする予定でした。今から思えば研修などをやっていられるような状況ではなかったのですが、当時はそんな危機感はありません。

その日、当時の直属上司の課長とふたりで飯田橋からタクシーで市ヶ谷法曹会館に向かいました。

高井伸夫法律事務所を訪ねると私たち二人は会議室に通され、ほどなくして穏やかな笑みをたたえた高井先生が入ってこられました。

我々は挨拶もそこそこにその対象となる関係会社の状況や撤退スケジュールなどを一気にお話しし、先生のコメントをお待ちしました。

まず、先生から言われたこと。

「通常の退職金に加え、会社の事情で労働契約を解除しなければならないのだから少なくとも月給の三か月分は割り増しして払ってあげなければダメだ。」「3カ月というのは解雇予告手当相当1カ月、賞与の期間経過分1カ月、有給休暇の残り相当1カ月なんだ。」

この一言がその後シリーズのごとく続く会社閉鎖や移管の際に、我々にとってのベースになります。思えばこれが私のこれまでの人生でもっともきつい試練の6年間の日々とそこに寄り添って下さり、今も見守ってくださっている高井先生とのお付き合いの幕開けでした。

 

以上

 

青山俊董先生「泥があるから花は咲く」(幻冬舎)出版に寄せて

 

曹洞宗の大教師である青山俊董先生が、『泥があるから花は咲く』という本を出版されたことを12月9日の東京新聞の広告で知った。泥があるから花は咲く画像

私は、青山先生に何度かお会いしたことがある。初めてお会いしたのは、過去に弊所に在籍していた手塚成章氏が出家して、青山俊董先生の元でご指導をいただいたということから、2000年(平成12年)12月1日、弊所の年末講演会で青山先生にご講演いただくことになりご挨拶させていただいた。同講演会では、「いかに生きるべきか」と題してご講演いただいたのである。その後、年末講演会の御礼もかねて、名古屋の愛知尼僧堂にご挨拶に伺った。長野県塩尻市片丘の無量寺へは、2度ほどご挨拶にお伺いしたが2011年(平成23年)9月27日にお訪ねした際には無量寺から車で15分ほどのところにある、塩尻駅前のホテル中村屋で食事をご一緒させていただいた。

 

青山先生は日本の古代史についても博識で、色々なお話をしていただいたが、一番印象に残っているのは、邪馬台国と大和は同じ言葉だという話だ。邪馬台国は新羅語で、大和は百済語だったという話であった。そしてまた、無量寺にお邪魔した際に、非常に草木を愛しておられる印象も受けた。その他にも、お弟子さんが沢山お見えになることに驚いたのを覚えている。瀬戸内寂聴氏よりも位が上だとお聞きしていたが、まさにそれに相応しく、懐が深く広い人で、日本で最初に女性として大教師として迎らえたのも当然であろう。

 

冒頭の『泥があるから花は咲く』は、そんな青山先生が人生の意味について先生らしい言葉で語っているとのことなので、早速購入を手配した。青山先生の著作はたくさんあるが、その集大成として今から読むのを楽しみにしている。

 

以上

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2016年12月28日(水)11:20 東京工業大学周辺にてプリムラを撮影
花言葉:「青春のはじまりと悲しみ」


 

第21回雇用の未来(2)
(2009年2月2日転載) 

 

 

 これからの雇用は労働の成果に着目して捉え直さなければならない。つまり、労働の価値は拘束される時間の長短によって評価されるのではなく、人間性の発揚如何によって労働の定義を構築し、報酬もまたそれにそって支払わなければならないのである。

 

主体的働き方を促進へ

報酬についてさらに言えば、奴隷制の時代には、まさに人間としての生存本能だけを満足させるに足りるかどうかが問題であった。しかし、それだけでは人間として遇したことにならないから、人間としての存在価値を認めるに足る第一歩として、自由時間を設定することを意図し、労働時間の長さと能力を報酬の基準として採用したのである。

それは、人たるに値する生活を維持する賃金ということになる。このことは、最低賃金法(1959年成立)第1条が、「労働者の生活の安定」と「労働力の質的向上」を満足させる報酬・賃金であるべきと定めていることからも分かる。

しかし、未来はそれだけでは不十分である。つまり、人生をかけた本人の「熱血・入魂・本気」の仕事への取組み如何に呼応して、どのような報酬を与えるかということである。そうなると、金銭といった物的な報酬だけではなく、労働を提供する者の心をも満足させ、充足させる対価を与える必要が生じてくるのではないか。そして、経営者には、労働の提供に対して人間性をもって応えることで、まさに人間の尊厳を守ることが迫られていることになる。これこそが、次回以降論じる“ヒューマンワーク”の時代に相応しいだろう。

雇用関係については、近い将来、主体的な労働に転換しなければならないことは既に述べた。その第一歩として、請負的契約を更に推進しなければならない。即ち働く者それぞれが技術・技能を蓄え、その発揮による成果報酬で毎日生活していくという姿勢でなければならないのである。現在の契約概念では、雇用契約(民法第623条)とは「労働に従事すること」と「報酬を与えること」が雇用者と被用者との間でなされるべきことであるが、労働者が主体性をもって働くということになれば、雇用契約は限りなく請負契約的にならざるを得ないのではないか。

この点、カール・マルクスはすでに19世紀後半に、出来高賃金(=請負賃金)は、個性に対してより大きな裁量の余地を与えるため、一方では労働者の個性、自由の精神、独立、克己等を発達させる傾向があると同時に、他方では労働者同士の競争を強化する傾向があるという趣旨のことを述べている(『資本論』第1巻第6篇「労働賃金」第19章「出来高賃金」参照)。

また、この資本論では、少数のますます富んだ資本家が生み出され、一方で多くの貧しい労働者が拡大再生産されることを明らかにして、貧富の差、即ち所得格差が生み出される社会メカニズムを指摘している。2008年にノーベル経済学賞を受賞したポール・R・クルーグマン(プリンストン大学教授)は、「所得格差、これこそアメリカにおける大問題の一つである」と近著『クルーグマンの視座』で述べている。

ソ連が崩壊し、共産主義は瓦解したが、マルクスが指摘した問題は今日においても、そして今後においても克服されないであろう。

 

定年は50歳に引き下げ

雇用の未来において、労務の提供のあり方が請負的な契約に変わることは、正社員を理由に優遇されることがなくなるということも意味する。

雇用調整に当たっては、まず「含み損社員」であるかどうかが判断基準であるべきであり、これは正規・非正規を問わないものである。自分の給料の3倍の粗利を稼ぐのが優秀な社員、3・5倍を稼ぐのが超優秀な社員、そして2倍以下の者は含み損社員であると私は規定している。

正社員といえども、それこそ真剣に働かなければ生き残ることはできない時代となり、身分は意味を持たなくなるだろう。特に、高い賃金を受けているにもかかわらずそれに見合う仕事をしない中高年役職者は、典型的な含み損社員であると言ってよい。これらの者を退かせ、その分の人件費で優秀な若年労働者を多く採用することが、企業組織の活性化と好業績につながる。

そのためには、定年年齢を50歳前後に引き下げるという思い切った施策も、①若年労働者の雇用の場を確保し、②優秀な労働者の海外への流出を阻止するために必要となってくるだろう。即ち、第2の人生を公式に認めることが、それぞれの労働者の若年からの技術と技能を蓄えることにつながる。

そして、この第2の人生には厳しい峻別が待ち構えており、さらには第3の人生を構想する社会が切り拓かれていくであろう。しかし残念ながら、ここに到達できる者は極めて少なく、まさに切磋琢磨がものをいう狭き門となるのである。第3の人生に入れない者はまともな職業に就けず、いわば日雇い的な仕事に甘んぜざるを得なくなるだろう。

公務員についてもこのことは当然あてはまり、そのためには行政サービスをしっかり評価するシステムを構築すべきである。そのシステムができたとすると、果たして何人の公務員が含み損にならず生き残ることができるだろうか。現在においては、ほとんど全員が含み損人材と評価されても仕方ない状態であろう。

 

「派遣切り」の要因とは

雇用契約が請負契約的になればなるほど個々の労働者は自らの技能・技術を磨き研鑽することが何よりも重要になる。これは言ってみれば、労働が人間を創るという基本精神に立ち帰るべきであることを意味している。雇用の未来においては、この基本精神こそが何より重要なのである。

一時もてはやされたような、好きなときに働いてそれ相当の報酬を受け取るという生き方は人間本来の働き方ではない。こうした片手間の労働という誤った思想を増殖させた時代は、昨年秋以降の悲惨な「派遣切り」の状況を生み出した誘因のひとつだったのである。格差問題の根本は、職業能力開発・育成格差であるとも言える。

そして、雇用契約の請負契約化が進んでいくことは、個々の職業能力がいよいよ問われる時代になるということを意味している。

また、現下の厳しい経済状況においては賃金ダウンも当然のことになるから、知識・技能・技術を日々向上させるとともに、経済的に少しでも余裕を持てるように誰しも「蓄える思想」を持つことも今後重要になってくる。これは、「恒産なきものは恒心なし」(定まった財産や職業がなければ、正しい心を持つことができない。物質面での安定がないと精神面で不安定にあるという意味。「孟子」)の言葉につながるものであろう。

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2017年1月7日(土)8:48 港区六本木5にて梅を撮影
花言葉:「高潔、忠実、忍耐」

 

 

平成28年9月22日から同月24日まで、私と弊所亀梨伸夫参与、山下靖典氏の3名で北京を訪れました。訪問の際の出来事を山下氏にまとめていただきましたので、今回はその旅行記を掲載致します。

 

平成28年9月22日~24日「北京訪問記」

 

2016年9月22日から24日までの二泊三日で北京を訪問された高井・岡芹法律事務所の会長の高井伸夫先生(弁護士)に同行した。山下は北京に一人残り28日の帰国となった。この間、久々の北京とあって友人たちと会うためであった。

22日午前、日航機で羽田を出発した。同行は山下と同法律事務所参与の亀梨伸夫さん。合計3人のツアーである。

山下はこれまで高井先生のお供をして二度海外に出かけている。最初は北朝鮮、二度目は中国の東北地区の延辺朝鮮族自治州であった。今回も含めいずれも北東アジア地域である。

ほぼ満席の飛行機はそれこそ一眠りする間もなく、北京首都空港に到着。

空港では高井先生と大変懇意な律師(弁護士)の王建寧先生がドライバー付きの自動車共々出迎えて下さっていた。

旅行前に来日された王先生に山下は高井先生のご紹介でお会いしたが、日本語が大変お上手なのに感心した。王先生が滞在中色々ご案内くださるとあって誠にこころ強い限りであった。

到着後の最初の日程は、横井裕駐中国大使への表敬である。この春大使が北京に赴任される際高井先生と山下は祝意を表させていただくため外務省にお伺いしている。その際、高井先生は「北京に行ったら必ず大使館を訪問します」と約束されており、それを果たすという意味合いもあった。

日本大使館の警備は、当然のことながら大変厳重である。旅券、携帯電話、カメラは受付で預け、帰りに受け取るという仕組みである。

横井大使は昭和54年外務省入省、中国課長、上海総領事、北京の大使館公使など対中国外交の枢要ポストを務めたいわゆるチャイナスクールだ。無論中国語研修組なので中国語は相当な力量と承っている。

大使表敬の後は、高井・岡芹事務所の北京事務所を訪問した。中心部の高層ビルの中にある。事務所が北京に進出したのは2006年10月、今年は進出10周年の節目の年である。事務所では、所長の五十嵐充弁護士、上級顧問の包香玉さん、秘書の何雲さんが出迎えてくださった。

五十嵐さんは慶応大学法学部卒。山下は同学部での先輩にあたるが、法律はさっぱりダメで、出来の悪い先輩で申し訳ない気がするほどである。包さんは内モンゴル出身で、京都大学に留学した経歴の持ち主。包さん、何さんともに日本語はとても上手だ。

事務所は主に中国に進出した日本企業から、労務問題などについての相談に乗ったり、関係する役所と交渉したりするのが主な業務だ。

夕食は市内のレストランで、みんなで頂いた。

その後、車で約一時間ほど離れた所にあるリゾートホテルに宿泊した。

翌朝朝食をホテルのレストランでいただいた後、このリゾート施設の社長、甘蓮舫さんに施設を見学させていただき、概要を説明していただいた。

実は甘社長は、王弁護士の親戚にあたられる方だという。

ホテルの最上階のバルコニーから見える土地はすべてこのリゾートのものだそうである。それほど広大な敷地に、ホテル、老人ホーム、スパ、プール、ゴルフ場、スキー場、大学、分譲別荘などが立ち並んでいる。ちなみに別荘は二階建てが多かったが、一軒あたり400-500平方メートルの広さだという。

敷地が、無論、上から全てが見えるわけではない。とにかく広い。経営上の問題は習近平政権の反腐敗運動による規律引き締めで役所、企業の接待が激減、利用者数が落ち込んでいることだという社長の話である。

その対策の一つとして、日本からのツアー客を呼び込むアイデアも高井先生から提案された。

蓮舫というのは民進党の代表と同じ名前、それを話題にさせて頂いていかなる意味かと質問したが、よくわからないとのお答えであった。甘社長は元々はビリヤード台のメーカーの社長だった。ブランド名を「星牌」といい、世界的なビリヤードの選手権大会でも使用されるほどの名品だったという。

それが成功し、次には不動産事業でも当てて、このリゾートの開発に取り組んでいるとのことである。

北京2日目は、関係先の企業の団体回り。顧問先に挨拶すると共に、最近の状況を掴んでおくことも重要だ。

ランチは日本航空のご招待にあずかった。日本の経済団体の訪中ミッションの一員として北京滞在中の大西賢会長もご多忙の中加わって頂いた。

大西会長は東大工学部卒業のエンジニアで、元々は整備畑だが、お話しは分かりやすく面白い。

筆者が「ジャンボ機の整備マニュアルを全部覚えこむのは大変ですね」と素人質問をしたところ、返って来たのは、「いえ、あれを全部覚えようとしてはいけないのです。うろ覚えでやると間違ったりしたら大変なことになるかもしれない。問題、疑問が出てきたらその都度該当のページを開いてきちんと読んで、確認、理解することが大切です」とのことであった。なるほど、うーんと唸らされる思いである。膨大な整備マニュアルを全て暗記できるはずもないし、中途半端な記憶こそ危険である―という考えは全ての安全工学に通じそうにも聞こえた。

この日の夕食は有名な全聚徳の北京ダックを頂いた。

肉、皮、薬味共に山盛り。また、北京ダックの骨からとったスープがコクがあるさっぱりして美味しい。

二日間高井先生、亀梨参与と行動を共にさせて頂いたが、感心したのは高井先生の訪問先へのお土産の心配りであった。

あらかじめ日本で相手先を想定して仕入れたお土産は大きなトランクにまるまる一杯となった。相当な重さだと思われるが、運び役の亀梨さんは軽々と運んで行く。それもそのはず、亀梨さんは栃木県黒磯高校~城西大学の野球部で名選手だった方。体格も大柄で、筋肉質である。黒磯高校は同県の野球の名門校である。

お土産は訪問先の代表者のみならず、その夫人、家族といった人にもわたるように、きめ細かく組み立てられている。お土産の中身も相手の好みなどを考慮されている。極めて行き届いた配慮がなされているのには感心した。

24日朝、高井先生、亀梨参与は午前の日航機で帰国。

山下は一人北京に残り、28日までの日程を友人との面談、食事などで楽しみ28日午後日航機で帰国した。

 

山下靖典様記

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2016年12月31日(土)12:27 新宿区山吹町で山茶花を撮影
花言葉:「困難に打ち克つ、ひたむきさ」


 

第20回雇用の未来(1)
(2009年1月26日) 

 

 

高井伸夫弁護士は、世界恐慌が深刻化するなか、「雇用の未来」を改めて問い直すべきであると提言している。柔軟な解雇法制と雇用の確保という、一見して相容れない要素を両立させる新しい労働概念の構築が待たれるという。

 

現下の厳しい経済情勢の中で、雇用の確保が最も重要かつ喫緊の政治的・社会的課題であることは言うまでもない。そこで、こうした状況を踏まえつつ雇用の未来を考えたい。

米国のサブプライムローン問題に端を発した金融不況は、瞬く間に100年に1度ともいわれるほどの世界恐慌に至ってしまった。これを単なる不況だと主張する者もいるが、物が売れず、ほとんどの企業が恒常的に赤字経営の状態に陥り、工場生産がストップし、人員削減が猛烈なスピードで進み、消費がさらに委縮するという悪循環に陥っている世界的状況を、恐慌と呼ばずして何というのか。

恐慌(panic)とは、経済用語ではなく、本来は心理学用語である。猛烈な不況の中で、社会全体が言いようのない不安や閉塞状態に陥り、先の見えない恐怖と闘う心理状態に追い込まれてしまうことである。私はこれまで経済を専門に勉強したことはないが、人事労務を専門とする弁護士として多くの企業経営の実態について現場の目から経済の動向を見続けてきた。だから雇用の問題を通してではあるが、恐慌についても私なりの見解を持っている。

恐慌とは、すなわち社会的に物やサービスが売れなくなる状態であると定義するのが最も妥当であろう。これは企業において固定費をまかなう収入すら得られない状態が広がり、赤字経営が一般化するという状況である。この状況に陥ると、消費が落ち込み、物が売れず、企業が在庫を抱え、在庫の保管場所さえなくなり生産を止めざるを得なくなる。そうすると従業員は解雇され、物を買う金もなくなり、悪循環が始まる。あちこちの企業から端を発して、全国的にかかる状態になると、国内恐慌といえる。さらに全世界的に物が売れなくなる状態を世界恐慌という。現在はその真っ只中に向かいつつある状態のなのである。

 

正規・非正規基準の行方

実体経済を支える製造業があっという間に前代未聞の著しい不振に陥った。例えば、自動車もデジタル機器も工場の操縦が大幅にセーブされたり工場建設が延期されたりしている。こうした実体経済に表れている事象こそが、経済を考えるに当たり、最も重要である。アメリカの自動車会社は「経済破綻しないよう金融支援をせよ」「資金繰りを助けよ」「救済法を制定せよ」という趣旨のことを言っているが、そういうことが世界的に広がると、日本においては単に自動車産業だけでなく電機産業等々すべての輸出関連企業に伝播し、貿易立国の日本は破産する。

すでに各企業はこうした経営不振に耐えきれず、人員削減を余儀なくされている。今は非正規社員が先にリストラの対象にされるのが普通であるが、次回以降に詳述するとおり、近未来においてはこの正規・非正規の判断基準はなくなると言ってよい。

そして、これまでは2年ほどのタイムスパンで雇用調整が行われてきたが、今は6カ月ぐらいで行われている。しかし、さらに迅速に3カ月ぐらいで瞬時に雇用調整を行わなければ、経営は大変な事態を迎えることになる。

この状況が現実となったことで、経営者や人事労務に携わる者すべてにとって、雇用の未来について考え、適切な施策を講じなければ生き残れない様相を呈してきた。

社会・経済が激変しているからこそ、未来への方向性をしっかりと踏まえた人事労務施策が求められるのである。即ち、施策をこれからの事業戦略の実現に貢献し得るものにするためには、未来を透視した先見性に富んだものでなければならない。私は、本紙でも機会あるごとに「事業戦略は人事政策に宿る」と述べてきたが、同様の言い方をすれば、「雇用戦略は企業の未来展望力に宿る」といえるのである。

 

「ユニークネス」追求を

いったい人事労務の未来について考えることは何のために必要かと言えば、人事労務は法律より少し先行して進めなければならないからである。法律が定められ、運用・適用されるのは、実は既に起こった事象を追認するという形で展開されていくのが実態である。人事労務の未来を見つめるのは、未来の方向性を推認するということであるが、そのことは実は法律を先取りして事態を改める手続きを進めるということになる。

企業の進歩は競争であるがゆえに、あるべき未来を明確に想定して、「戦略」の立案つまりユニークネス(独自性)を追求することが少しでも早ければ、企業間競争に勝ち抜くことができる。

未来を予測することは、今起きたことを確認する手続きではない。様ざまな兆候の中から、未来のあり方を透視して、それに基づいて施策を実施していくことであり、必要なのは、ユニークネスを追求するために、未来を予測したうえで「やるべきこと」を明確に定めると同時に「決してやらないこと」を明確に定めること、つまり「トレード・オフ」を実行することが求められるのであり、このことが企業戦線において勝利するために肝要と言ってよいのである。

先陣で走れば走るほど抵抗が強く、困難が多いものの、収穫も多いということになる。そのことから、何と言っても正しい展望をもって未来を見つめることが必要である。誤った方向で未来を見てしまったら、先陣を切って走ることが、後塵を拝することにつながることは言うまでもない。

雇用の未来は何であるかと言えば、労務提供のあり方の変化、あるいは報酬のあり方の変化、さらには雇用関係、能力強化のあり方を見極めることである。

そもそも、労働の世界は奴隷制から始まったが、やがて、労働時間制が採用され、労働のあり方が規制されることになった。そして、その先が何かと言えば、労働時間の規制を超えて、新しい労働の概念を構築することが必要であるということである。

その際には、フレキシキュリティー(flexicurity)という新しい政策目標も検討課題となるべきであろう。フレキシキュリティーとは、「flexibility=柔軟性。柔軟な解雇法制」と「security=安全を保障すること」をつないで作られた造語である。これは労働市場の柔軟性を維持することと雇用を確保するという矛盾しがちな2つの目標の両立の方向性を目指す言葉であり、近年EUで注目されているという(日本総研「Business & Economic Review」2007年6月号・藤井英彦氏「OPINION」等参照)。

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2016年12月25日(日)8:15 須賀神社にて撮影


 

 

第18回「評価の真髄」
(平成28年6月20日)

 

 

かつて大宅壮一が一億層評論家時代と揶揄したように、当事者意識に欠ける第三者的発言をする者を「彼は所詮、評論家にすぎない」という場面は、よくみられるものだ。これらは評論家を名乗る人には失礼な言辞だろうが、一面の真理である。自分自身には経験も技量もないのに上から物をいうように論評を展開しても、説得力はなく、概ね共感を得られない。

あらゆる分野に評論家はたくさん存在する。しかし、実際に経験した者でなければ物事の真髄は分からない。プロ野球の例でいえば、野村克也氏は自分自身が秀でた捕手であり監督であったからこそ、優れた野球評論ができ、視聴者や読者を唸らせるのである。また野村氏は、愛のある非難・叱責であれば選手に愛が伝わるという発言をしているが、選手の成長を旨とするこうした視点も、評論に深みを与えているに違いない。

評論と似て非なる概念に、「評価」がある。私なりの理解では、評論とは対象物の世界を研究して丹念に論じながら本質に迫る努力であるのに対し、評価は一定の理由付け・基準の下に対象物の価値を相対的に定める行為である。いずれも、対象物の成長と社会の進歩に裨益するものでなければならないという使命を負う点では共通である。つまり、評論・評価される側が、第三者の見解を受け入れ、克服し、挑戦する意気込みを持ち得る内容であることが求められているのである。

企業における人事考課は、「評価」の代表例の1つである。成果主義人事制度・賃金制度は、従前の終身雇用に基づく年功給を見直し、仕事の「成果」をいかに評価して賃金に反映させるかに腐心してきた。裁判例は大要、基本的には使用者の総合的裁量的判断が尊重されるとして、当該制度の手続き・基準等が合理的であるか、これら手続き・基準による評価が適切に行われているかを判断している。つまり、公明・公正・公平が保たれ、恣意性が排除されているかということになるだろう。評価者は一定基準の下で判断するという点において裁量が認められ、また、格付けが念頭に置かれる以上、多かれ少なかれ評価は主観に基づかざるを得ない。

そもそも人間社会における「評価」の起源は、原始の動物としての人間の営みに求められるのではないか。生きるか死ぬかの食料をめぐる生存競争を繰り広げていた人間が、独力では勝てないときに信頼できる者・能力のある者を選んで仲間を形成し始めた。その過程で、協力し合えるか、信頼できるか、能力があるか等について判断し、「主観」による真剣な選別がなされた。ここに人間社会での「評価」が始まり、私たちのDNAに刷り込まれているのではないか。しかし、仲間が増えると、評価について皆を納得させる客観性も必要になってくる。そこで評価の「基準」が生まれたのではないか。つまり、組織を秩序立てるために評価という手法が生まれ、主観に加えて客観性を担保する基準が採用されたのであろう。

近未来はAIの発達もあって一層無機質なハイテクの時代になる。評価システムにもAIが活用されるだろう。だからこそ、私たちは、相手を尊重し愛情をもって互いに見つめ合い、謙虚な姿勢でハイタッチで評価することの意義を重視しなければならない。血の通った評価こそが、人間味のある付き合いを活性化させ、社会に落ち着きをもたらす。これこそが、これからの評価の真髄なのである。

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