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「花」第4回:季節を彩る花々(2)


IMGP3379.JPG2013年2月23日(土)13:55
東京都文京区小石川3丁目付近にて撮影
花言葉:愛、美

 

 2月1日(金)付記事より、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。花といえば、「花鳥風月」という言葉があるとおり、日本では、古来より、花のある美しい自然の風景や風情を重んじてきました。今回は、前回に引き続き、私の好きな花の香りと、花についての和歌、俳句も少し織り交ぜながら、季節ごとにお話します。

 

 真っ先に春を呼ぶ梅の花については、前回の記事でお話しましたが、梅の花に続いて、桃の花、杏子(あんず)の花、桜の花がつぎつぎにほころび、麗しい春の訪れを私たちに告げてくれます。

 

 関東では桜よりも少し早く咲く桃の花には、ほとんど香りがありません。桃の香りというと、桃の果実の甘く瑞々しい香りを思い浮かべてしまいますが、実際には全くしないとのことです。桃の鮮やかなピンク色を目にすると、かつて、地方に出張に赴く際によく通った、中央自動車道等の車窓からみえる山梨県南アルプス市の桃源郷の、富士山を背景に、桃の花々がのどかな春の空に映えた風景が懐かしく思い出されます。桃の花の控えめな美しさは「桃李不言下自成蹊」(桃李もの言わざれども下おのずから蹊を成す:桃や李〔すもも〕は言葉を発することはないが、美しい花と美味しい実の魅力にひかれて人々が集まるから、その下に自然と道ができる。桃や李は、徳のある者のたとえで、優れた人格を備えた人のまわりには、その人を慕って自然と人が集まってくる、という意味)の言葉があるとおりです。なお、この言葉は、成蹊大学の学名の由来となっていると聞きます。

 

 このように、君子を説くひとつの象徴となる桃の花は、同時に、女性らしい花でもあります。桃の花、実、葉について、その瑞々しさを女性にたとえた詩「桃夭」(若々しい桃、という意味)が中国最古の詩集『詩経』に収録され、古来中国から結婚式の席上好んで詠われてきたそうですし、日本でも、上巳(「桃の節句」)が、女の子の厄除けと健康祈願のならわしとして広く親しまれています。2月22日(金)に、今年12月6日(金)ホテルグランドパレスで開催を予定している当事務所の年末講演会の打ち合わせをホテルオークラ東京で行いましたが、本館ロビーでは雛祭りのお雛さまが飾られ、桃の花も活けられていました。私の娘や、孫の初節句を懐かしく思いだしました。

 

 ※ 「桃夭」(『漢詩名句辞典』鎌田正・米山寅太郎著、1980、大修館書店より抜粋)
   桃之夭夭 灼灼其華(桃の夭夭たる灼灼たり其の花)
   
~ 若々しい桃の木には、色あざやかに花が咲き乱れている
   
之子于帰 宜其室家(之の子 于に帰〔とつ〕ぐ 其の室家に宜しからん)
   
~ そのように美しい適齢期のこの娘がお嫁に行ったら、
      その家庭に調和して、立派にやってゆくことであろう。

 

ホテルオークラの桃の花.JPG2013年2月22日(金)15:30 ホテルオークラ東京本館にて撮影
左から株式会社クレース・プランナーズ代表取締役 正門律子様、私、
コントラバス奏者 大槻健太郎様

 

 

 ところで、私は、少年時代からロマンあふれる古代史に大いに関心を持ちつづけてきました。古代史にまつわる文献をよんでいると、花と人とのいにしえからの深いつながりを実感することがあります。たとえば、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された大型建物跡から、2000個を超す桃の種が見つかったそうです。桃は、古代中国の神仙思想(道教思想の基礎となった思想)で、不老長寿や秩序を象徴する女神、西王母(せいおうぼ)の食べ物とされ、邪気を祓う神聖な植物とされてきたそうです。日本には弥生時代に伝わり、弥生時代の遺跡で、祭祀に用いられたとみられる桃の種が広く出土されているそうです(参考:2010年9月17日付日本経済新聞)。花と古代史については、いつかまたブログで書きたいと考えています。なお、この思想にもとづいて、邪気の象徴である「鬼」を、桃から生まれた桃太郎が退治する「桃太郎」のおとぎ話ができたといわれているそうです。

 

 また、杏子の花といえば、「日本一のあんずの里」として世に名を馳せてきた長野県千曲市の倉科・森地区が有名です。例年4月上旬頃に開花し、遠くから見ても里全体がうっすらと色づいているのがわかるほどだそうです。今春には、できれば山梨県南アルプス市、長野県千曲市どちらも訪問したいと願っています。杏子の種は、種の中の核(仁)にせき止め、のどの痛み等の薬効があるとされ、「杏仁」と呼ばれ、漢方で用いられているそうです。中華料理のデザートである杏仁豆腐も、薬用の杏仁とは少し違うものの、同じように薬効があるとされているそうです。

 

 また、杏子の林を杏林(きょうりん)といい、「杏林」には医者という意味があります。これは、三国時代の呉(222年~280年)に生きた董奉(とうほう)という名医が、治療代をとらない代わりに、病気が治った人には、杏子の苗を植えさせたところ、いつしか杏子の木が茂る大きな林ができたという中国の故事「神仙伝」(西晋・東晋時代〔265年~420年〕に著されたとされています)に由来するもので、杏林大学の学名、杏林製薬の社名の由来になっていると聞きます。

 

 また、桜の花については、日本では「花」といえば特に桜の花を指すほど、日本を代表する花です。桜については、また別の機会に詳しく述べたいと思います。

 

 晩春の花としては、4月頃から咲き始める山吹の花が好きです。山吹といえば、太田道灌(1432年~1486年)の山吹にまつわる伝説が有名です。ある日道灌が鷹狩りに出かけた帰りに蓑を貸りるために貧しい民家に立ち寄りました。しかし、その家に住む少女が、蓑ではなく山吹の花を差し出したので、道灌は怒って帰りました。後日、家来から「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞあやしき」(兼明親王、後拾遺集)という歌になぞらえたのではないか、との話があり、道灌は己の不知を恥じ、この日から歌道に精進するようになったそうです。この歌のとおり、山吹は、明るい黄色からオレンジの中間の色(これを山吹色と呼ぶそうです)の花を七重、八重に折り重なるように咲かせ、春の終わりをはなやかに彩ります。

 

 そして、春の宵は過ぎ逝き、惜別の感傷にひたりつつも、次の季節、夏がめぐりきます。夏の花でいえば、まず、5月頃に開花する橘(たちばな)の花は、「さつきまつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(よみびとしらず・古今和歌集)という有名な和歌があるとおり、爽やかで清々しい柑橘類(シトラス)の香りがします。橘は、昔から日本に自生していた日本固有の木ですが、いまや自生地は少なくなり、絶滅危惧種となっているそうです。

 

 梅雨時、つまり旧暦の五月雨の頃の花でいえば、白から黄色に変化する花を咲かせる梔子(くちなし)の香りに魅力を感じます。梔子の学名の種名「jasminoides」は「ジャスミンのような」という意味があるそうで、その名のとおり、甘いジャスミンの香りよりも一層甘く、やや、ふくらみを持たせたような深い香りが印象的です。梔子の花言葉はいくつかあるようですが、そのなかのひとつである「喜びを運ぶ」という言葉がぴたりと合う素晴らしい芳香です。雨上がりには特に香りが増すそうで、「薄月夜 花くちなしの 匂いけり」という正岡子規の歌がありますが、雨続きで気持ちがふさぎがちな梅雨も、このような情景に出逢える季節と思えば、とても楽しみで待ち遠しい気分になるものです。

 

梔子.JPG

2012年6月26日(水)東京都千代田区北の丸公園にて
雨上がりの梔子を撮影

 

 また、梅雨を代表する花として、忘れてはならないのが紫陽花です。私にとってもっとも忘れがたい紫陽花の思い出は、箱根登山鉄道沿線に咲く見事な景色です。私は、1973年(昭和48年)1月に事務所を開設してからしばらく後、数年間、休日に、たびたび強羅に勉強に訪れていました。その行き帰りの箱根湯本から強羅にむかう車窓からは、左右の線路わきに寄り添うように咲き、五月雨に鮮やかに映える愛らしい姿を眺めることができました。その鮮やかな花景色は、穏やかなリズムで進む登山列車と一対になって、いまも瞼に焼き付いています。

 あじさい.JPG

2012年6月17日(日)東京都千代田区千鳥ヶ淵交差点付近にて撮影

 

 夏の茶事で茶花としてよく用いられる木槿(むくげ)の花も魅力的です。

夏7月頃から秋10月頃までの長い間、白、紫、赤などの美しい花をつけます。「デリケートな美」という花言葉にもあるように、一輪摘んで生けたとき、その花の姿はとても繊細な美しさで見る者を魅了します。そして一夜でしおれてしまう儚さに、「もののあはれ」の美を感じます。

 

槿.JPGのサムネール画像

2012年8月5日(木)東京都千代田区清水谷公園にて撮影

 

このブログでも、私が撮影した木槿の写真を何度か掲載しましたが、なかでも、2011年9月23日(金)から25日(日)にかけての高知での旅の道中で、9月24日(土)に大方町上川口にある「朝鮮国女の墓」を訪ねた際に咲いていた白とピンクの木槿は格別です(木槿は、韓国の国花であるそうです。詳しくは2011年10月4日付「歴訪記」記事をご覧ください)。

 

掲載用 坂高麗ザエモン.jpg また、この3月9日に、小生の10年来の知人が結婚されます。私は、東洋古美術の専門美術商「浦上蒼穹堂」で、結婚祝いにふさわしいものを浦上満様に手配していただき購入し、その知人にお贈りしました。茶の湯には、「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。その作品は、萩焼の坂高麗左衛門(先代〔12代〕坂倉新兵衛氏〔1949年~2011年〕)のもので、木槿の花が描かれています。文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際、朝鮮半島から毛利輝元によって萩に連れてこられ、兄の李勺光と共に萩焼を創始した朝鮮人陶工の李敬(1586年~1643年)を初代とする坂高麗左衛門の作品に、朝鮮半島ゆかりの木槿が描かれていることに胸を打たれる想いがいたしました。

 

 木槿のほかにも、暑い夏の日には、1958年頃、武蔵野の奥の平屋建ての家の庭で百日紅(さるすべり)が鮮やかに咲き誇っていた光景が懐かしく思いだされます。夏のうだるような暑さのなかでも懸命に花を咲かせる姿が、青年であった私を勇気づけてくれたことを憶えています。「散れば咲き 散れば咲きして 百日紅」(加賀千代女)、「杉垣に 昼をこぼれて 百日紅」(夏目漱石)、「炎天の 地上花あり 百日紅」(高浜虚子)など、晩夏の季語として、多くの俳人、歌人に詠まれています。

 

 百日紅.JPG

2012年9月16日(日)東京都港区芝公園にて撮影
残暑厳しいなか咲く白い百日紅

 

 次回の記事では、秋、冬の花についてお話ししたいと思います。

 

~ 今回の記事執筆にあたり、川口彩子様、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、草月流師範 栗生世津子様株式会社エール 代表取締役社長 丹澤直紀様、株式会社光彩工芸 取締役 深沢信夫様、ランドブリーズ 渡辺憲司様にいろいろとご教授をいただきました。ありがとうございました。

「花」第3回:季節を彩る花々(1)


IMGP3363.JPG2013年2月20日(水)15:11
静岡県伊東市岡広町付近にてブルーデイジーを撮影
花言葉:純粋

 

 2月1日(金)付記事から、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。今回の記事から2回に分けて、四季折々の花々を思うとき、よみがえる私の懐かしい思い出話も織り交ぜながら、季節ごとの花々を紹介します。

 

 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 冷(すず)しかりけり」   (道元禅師)

 

 これは、川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演「美しい日本の私」の冒頭で紹介した、あまりにも有名な歌です。日本の自然、四季の移り変わりの美しさを、世界に向けて端的に表現した名歌であると思います。なお、旧暦の春夏秋冬を新暦に直すと、春は2月~4月、夏は5月~7月、秋は8月~10月、冬は11月~1月頃となります。

 

 花鳥風月という言葉があるとおり、日本では、古来より花がある美しい自然の風情を重んじてきました。また、いけばなの世界では、たとえば桜の花であれば、開花前に生産者が枝を切り、温室に入れて温め、桜に春が来たと思わせて咲かせて、年明け早々の新春にその桜を活ける等、季節を少し先取りするそうです。これは、四季のある日本だからこその美意識でしょう。

 

 四季折々に、それぞれの魅力的な香りを放つ花々が咲きますが、なかでも厳しい冬を乗り越え、春、美しさを競うかのように匂い立たせながら咲く花々は、人々の心を躍らせるという点で格別でしょう。これは、数々の和歌にも詠まれており、たとえば、「霞立つ 春の山辺は 遠けれど 吹きくる風は 花の香ぞする(在原元方・古今和歌集103)」「冬ながら 空より花の ちりくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ(清原深養父・古今和歌集330)」などがあります。

 

 前回の記事のとおり、早春に咲く淡紅色の沈丁花の強い香りには、私は愛着と懐かしさを感じます。私が幼いころ、敗戦を迎え、翌年に疎開先の三重県から名古屋に戻ったとき、庭に植えられていたのが沈丁花でした。戦争が終わって社会の様子が大きく変化するなかで、幼心にも不安と喜びが交錯する複雑な思いがありました。春先、街角でふとその沈丁花の匂いに出逢うとき、当時の遠い記憶が瞬時によみがえることがあります。

 

 そして、春の花といえば、梅の花でしょう。桃、杏子、桜などの花々に先駆けて、凛とした美しい花と、かぐわしい香をただよわせる梅の花は、いにしえより「花の兄」と称され、尊ばれてきました。

 

小石原植物園の梅.JPG

2013年2月11日(月)東京都文京区 
小石川後楽園にて撮影

 

梅は、よく知られているように中国原産で、奈良時代の遣唐使が中国から持ち帰ったのだそうです。「花見」といえば、いまは桜の花を愛でるものですが、奈良時代には中国から伝来したばかりの梅が観賞されていたそうです。

 

平安京の頃より御所の紫宸殿前に「右近の橘」と「左近の桜」が左右対称に植え置かれていることは広く知られているところです。しかし、実は当初、「左近」には「桜」ではなく「梅」が植えられ、当時は「花」といえば「梅の花」を指したのです。あらゆる面で国造りの手本としていた唐(中国)から伝わった、ぽうっと咲いて、ほのかに匂う梅のその楚々とした佇まいと香りを、大宮人はどれほど愛でたことでしょう。「万葉集」や「古今和歌集」の中で、「花」の和歌として「梅の花」が多く詠まれていることからも、そのことがうかがえます。

 

その後時代は移り、平安時代末期から鎌倉時代になると、「左近」には「梅」に変わり「桜」が植えられ、「花」イコール「桜」となっていき、「新古今和歌集」の頃には、王朝貴族たちは競って桜の花を詠みはじめました。そして、仁明天皇(810年~850年)が、御所には左近の桜と命じて以降、都人の間では桜が花の主座を占めるようになります。

  IMGP3359.JPG

2013年2月20日(水)15:01
静岡県伊東市岡広町付近にて撮影

 

 さて、梅の花の香りについては、「馥郁(ふくいく)たる梅の香り」という言葉があるとおり(馥郁とは「とてもよい香り」の意味)、ほんのりとしたその香りは多くの和歌で詠まれています。「大空は 梅のにほひに かすみつゝ 曇りも果てぬ 春の夜の月」(藤原定家・新古今集・40)等があります。梅の花の香りはほのかで淡いですが、菅原道真の有名な、「こちふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ(拾遺・1006)」という歌が、そのかぐわしさをよくあらわしています。「梅の花よ、東風が吹いたら、その匂いを配所〔罪を得た人が流された土地の意〕の私のもとまで届けてください。主人がいないからといって、春であることを忘れないで。」といった意味の歌ですが、これは、菅原道真が、901年に大宰府へ左遷され、出立時に詠んだ歌であるとされています。私がこの歌を知ったのは中学校に入学した1950年(昭和25年)の古文の授業でしたが、自らの不遇を嘆く思いが、梅の香という優美さを主役として控えめに表現されているからこそ、品のある余韻があり、詠み手の心中にあるものが強く伝わってくるように感じます。詩歌の才に恵まれた道真ならではの作品だと思います。

 

 また、「鶯宿梅」という故事があるとおり、昔から梅花と鶯はよい取り合わせのたとえ、仲のよい間柄のたとえとして対のようにいわれています。

 

 ※ 「鴬宿梅」:『大鏡』によれば、村上天皇(926年~967年)の御代に御所の清涼殿の梅が枯死したため、村上天皇が代わりの梅を探されていたところ、西ノ京の紀貫之の娘(むすめ)・紀内侍(きのないし)の屋敷の庭に名梅が植えられていることを知り、村上天皇はその梅を所望しました。勅命により梅は御所に移されることとなり、紀内侍はその梅との別れを惜しみながら、「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答へむ」と詠みしたため、梅の枝に結びました。その和歌が村上天皇の目にとまり、紀内侍を憐れまれた村上天皇はその梅を元の庭にお返しになられました。この故事、あるいは、この梅のことを「鶯宿梅」と称するようになりました。

 

 なぜ鶯かというと、梅の開花と同じ早春に人里で鳴き始める習性があるからであり、鶯には、春告鳥という別名もあるそうです(鶯は、春の深まりとともに山へ帰って、巣造りを行うそうです)。また、「雪月花」と並称される、月の美しい夜に、まっ白い雪が紅梅や白梅の枝に降り積もった姿も、実に美しいものです。冒頭の川端康成がノーベル文学賞の受賞記念講演で、彼が、中唐の詩人 白居易(772年~846年)の歌「雪月花時最憶君」をもじった「雪月花の時、最も友を思う」という言葉を紹介しましたが、森羅万象、自然のすべての表情に感動を抱く日本人の美意識を表わした麗しい表現であると思います。

 

 雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも  (大伴家持、万葉集)

 芝東照宮.JPG

2013年2月16日(土)8:16 東京都港区芝公園
芝東照宮にて撮影

 さて、梅は、花の観賞を目的とする「花梅」と、実の採取を目的とする「実梅」に分類されるそうですが、白、濃淡色のピンク、赤など色とりどりの梅の花の愛らしさ、美しさは、人々に憧れを抱かせます。

 

 熱海梅園の梅.JPG

2013年2月7日(木)12:48 静岡県熱海市
熱海梅園にて撮影

 

梅といえば、日本一早咲きといわれる熱海の梅花が思い出されます。私が1971年(昭和41年)の春に亡妻孝子との新婚旅行の旅先に選んだのが熱海の伊豆山温泉の「桃李境」でした。桃李境は、赤坂御所の設計で知られる建築家谷口吉郎氏による純和風建築で、1月中旬頃から梅が咲き誇り、その後も数種の桜が3月下頃まで楽しめる一万坪ほどのある広大な庭園で著名な老舗旅館でしたが、2007年でその歴史に幕を閉じ、跡地は、今年から東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山に生まれ変わるそうです。私は、2月10日(日)に、完成前のハーヴェストクラブを下見しました。熱海では、すでに梅は満開で、桜もちらほらとほころび始めていました。梅と桜の花びらの影に、亡き妻の姿をそっと重ねました。

 

東急ハーヴェスト.JPG 2013年2月10日(日)11:50 静岡県熱海市
東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山付近で撮影

 だるま.JPG

 2013年2月10日(日)12:31 神奈川県小田原市本町
小田原だるま料理店にて撮影

 

 梅のほかにも、桃の花、杏子の花、桜の花は、春を告げる代表的な花です。これらについては、次回以降のブログで書きたいと思います。

 ~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、草月流師範 栗生世津子様、ランドブリーズ 渡辺憲司様にいろいろとご教授をいただきました。ありがとうございました。 

IMGP3263.JPG

2013年2月8日(日)7:11 高井伸夫撮影「水仙」
(東京都目黒区中目黒 中目黒公園にて)
花言葉:自惚れ

 

長らく私(鮒谷)が患ってきた病があります。
それは「先送り病」という名の一筋縄ではいかない病。

毎時、毎分、毎秒、私を苦しめ続けてきました。

この病気には程度の差こそあれ、多くの人が罹患しているのでは
ないかと思われますが、特に私は重篤な症状に苦しめられてきたのです。
 (そして今も)

お恥ずかしい話ですが、

 「本当にギリギリの、ギリギリの、ギリギリのところ」

までいって、

「これ以上放置すると人生や、仕事や、日常生活に
 重大な支障をきたしてしまう」

寸前まで、重い腰がなかなか上がらないのです。

さらに告白すると、

「重大な支障が起こってから慌てふためく」

ことも往々にしてあります。

そんな性格を逆手に取って、これまでの人生戦略では
受験も、仕事も、起業も、経営も、すべて

「ギリギリまで放置&エネルギー爆発戦略」

を取り、そこそこうまく機能させてきましたが、さすがに
こんな戦略をいつまでも繰り返すわけにはいきません。

そのようなわけで、あの手この手を用いて、この強大な敵と
戦って来ましたが、いまだに打ち倒すことができません。

とはいえ、徐々に寛解に向かっているのでは、と思える節がないこともないのです。

それは、

「一切の先送りを拒絶し続ける
 圧倒的なパワーを持たれた方」

と身近に接するところから始まりました。

「すべての行動を前倒し、前倒し、前倒し」

「今日できることは今日する、
 明日やればいいことも今日する、
 明後日やればいいことも今日する」

と、限界ギリギリまで前倒す。

そんな習慣を持たれている人と御縁を頂く
ところから変化が生まれたように思えるのです。

私の接してきた人の中で、
そんな圧倒的なパワーを身につけられている方、

それは、いわずもがなの高井伸夫先生です。

その前倒し性?の強烈さは著書のタイトルにも
あらわれていました。

<朝10時までに仕事は片づける~モーニング・マネジメントのすすめ>
 http://www.law-pro.jp/2002/12/10-1.html

とはいえ、いくら前倒しの人生が良い、といわれ、
それがいいことだと分かっても、

分かっていることと実行できることとは 
まるで別物。

「百聞は一見に如かず」

で、実際に圧倒的なレベルで実践されている方と間近に接することに
よって、初めてその薫陶を受ける、躾けられる、ということもあるようです。

などと書きながら、このブログ原稿も入稿期限を
大幅に過ぎ、ご担当者様にご迷惑をお掛けしております。

朝10時までに仕事を片付けるどころか、
午前3時(執筆時現在)になっても仕事が片付いておりません。

それでもなお、午前3時になってもまだ仕事をしている、
という時点で、これはかつての私にはありえないことで、

「先送り癖が大きく改善されている」

なによりの証左なのです。

高井先生に出会う前の私の座右の銘など、それこそ、

「人生、諦めが肝心」

という情けないもので、
今日中にやり遂げなければならない仕事があっても、

「今日は諦めて寝よう。
 明日の早朝に起きて頑張ろう」

となっていたわけです。

(お察しの通り、当然、翌朝、起きられないのですが)

そんな私でも生まれ変わることができました。
もとい、生まれ変わりつつあります。

それはひとえに、高井伸夫先生という、
すべてを強烈に前倒しし続けられる方と御縁を頂いたから。

だからこそ、高井伸夫先生には本当に感謝しても
しきれないものがあるのです。

(それでもなお、ブログ原稿をなかなか入稿期日に
 入れられないのですが)

「花」第2回:蓮・睡蓮


IMGP3215.JPG

2013年2月3日(日)7:52
東京都渋谷区神宮前 表参道「にいがたチューリップロード」にてチューリップを撮影
花言葉:博愛、名声

 

前回の記事から、私が撮影してきた花の写真とともに、花について私が思い・感じ・考えてきたさまざまなことをつづっています。

 

不忍池.jpg

 東京都台東区上野恩賜公園不忍池にて撮影
2011年8月23日付ブログ記事に掲載)

 

 さて、私は、花のなかでも、とくに、静謐な美しさをたたえた蓮の花が好きです。蓮は、水底の泥中の根茎から柄をのばし、水の面(おも)に大きく浮葉(うきは)をひろげると朝露を玉のように転がし、暑い夏の盛りには花の香匂う薄紅色や紅白に色づいた多弁花を咲かせます。蓮といえば、上野の不忍池の蓮が、私にとって一番馴染みあるものですが、蓮は、原産地がインド亜大陸(インド半島)とその周辺で、インド、スリランカ、ベトナムの国花でもあるとのことです。

 

 私は1991年5月、94年12月、96年4月、2000年11月、2008年2月の計5回、ベトナムを訪問したことがあります。1991年5月に初めてベトナムを訪れたときのエピソードをひとつ、後に述べます。

 

インド蓮.jpgこれは、私の親しい友人である日本画家 山田真巳画伯がインドで撮影された蓮の写真です。山田真巳画伯は、1996年から2002年までインド ニューデリーで過ごされた方です。私が2011年11月にインドを訪問した際(これは私の2度目の渡印で、1度目は2005年2月でした)、デリーのチャーナキャプリーにある日本大使館に、彼の大きな屏風作品が飾られていました。なお、山田画伯によれば、インドの国花は蓮ですが、一般的にインドでよく見られるのは睡蓮のほうであるそうです(蓮と睡蓮の違いについては、後に述べます)。蓮の可憐で清楚な姿を見ると、かつて何度も訪れたベトナムやインドでの楽しく心温まる時間が思いだされます。

 

バリ蓮.JPGインドネシア・バリ島 Nikko Bali Resort & Spaの門前の池にて撮影

 

また、2007年12月~2008年1月の年末年始休暇でインドネシア・バリ島を訪れた際に滞在したNikko Bali Resort & Spa(JAL HOTEL系列)の門前の池に咲いていた蓮の花も印象的です。バリ島には、インド仏教とヒンドゥー教が習合したバリ・ヒンドゥーを信仰している人が多く住んでいます。Wikipediaによると、ヒンドゥー教では、美しく、清浄な蓮の花は、気高く凛としたその立ち姿とともに、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴とされており、またこのイメージはのちの仏教にも継承され、仏の智慧や慈悲の象徴として、極楽浄土の象徴花『蓮華(れんげ)』と呼称されてきたそうです。また、蓮は、古来より和歌の世界でも『はちす(蓮)』の古名で詠み親しまれてきました。

小夜ふけて 蓮(はちす)の浮葉の 露のうへに 玉とみるまで やどる月影

 『金槐和歌集』源実朝

 

 また、蓮とよく似た植物に睡蓮があります(植物学上では蓮は「ヤマモガシ目ハス科ハス属ハス」、睡蓮は「スイレン目スイレン科スイレン属」)。蓮は水面より上に茎葉(けいよう)を伸ばし、花も水面より伸びたところで開花しますが、睡蓮は、葉が水面に浮かび、花も同じように水面に浮かぶという違いがあるそうです。睡蓮の品種のひとつである夜咲睡蓮は、エジプトの国花であり、インターネットで調べたところ、この睡蓮の香りは酔いに効果があるとして、古代エジプトで夜毎に開かれるパーティーで、女性の髪飾りとして使われていたそうです。パーティーに睡蓮を準備するために広大な睡蓮畑を所有しなければなりませんでしたので、睡蓮が富の象徴とされていたとのことです。

 

 睡蓮には、未(羊)の刻、午後2時頃開花し、午後6時頃眠るように花弁を閉じることから「ひつじ草」と名付けられたとされる品種もあります(実際には朝から夕方まで花を咲かせるそうです)。ひつじ草は、今上天皇第一皇女である紀宮清子内親王殿下(現黒田清子様)の皇室でのお印で、清子様の婚礼の際、引き出物として用意された有田焼の磁器製ボンボニエール(お菓子入れ)の側面には、ひつじ草のデザインがあしらわれたそうです(2005年11月16日読売新聞)。

 

 さて、睡蓮といえば、印象派を代表するフランスの画家、クロード・モネ( 1840年~1926年)も睡蓮に憧れ、その連作は、彼の代名詞ともなっています。彼は、自宅の日本風庭園にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上の作品を残しました。上野の国立西洋美術館にある1916年作の睡蓮は、晩年のモネの睡蓮のなかでももっともすぐれたもののひとつとされています。また、静岡県熱海市にあるMOA美術館にも、1918年に描かれたモネの睡蓮の作品が展示されています。

◎ 国立西洋美術館蔵 1916年作「睡蓮」
◎ MOA美術館蔵 1918年作「睡蓮」

 

東大寺別当の北河原公敬氏は、蓮について、「泥の中で育ちながら、気品ある、香り高い花を咲かせます。…『どうせ汚れた世の中だから』と開き直って、成功のみを求めて貪るように生きるより、…一輪でもいいから美しく、かぐわしい自分の花を咲かせてほしい。」と述べられています(2012年10月22日付日本経済新聞夕刊)。

 

北京蓮.JPG

中国 北京市郊外 北京語言大学キャンパスにて撮影

(北京語言大学は、当事務所の中国業務グループ総代表兼北京代表処首席代表である萩原大吾弁護士が、2011年6月中旬より8月末まで中国語を習熟するべく勉学に励んだ大学です。私は、萩原君が在学中であった2011年8月24日(水)に同大学を訪問しました。詳しくは、2011年8月30日付ブログ記事をご覧ください。)

 

蓮も、睡蓮も、泥の中から成長し凛とした花を咲かせる清々しい姿が、いにしえから、世界各地で、人の心に心地よい風をそよがせてきました。蓮・睡蓮は、言葉を発しませんが、その姿を眺めていると、たしかに私たちに人間のあり方や生き方を問いかけてきているような気がします。

  

※ 先に書いたとおり、ベトナムの国花は、蓮の花です。

私が、1991年5月にベトナムを初めて訪れたときは、当時のハノイ国際空港は、国際空港とは名ばかりの貧相な空港でした。イミグレーションでは国際共通語である英語は使われておらずベトナム語・フランス語・ロシア語のみであり書類に書き込むにも戸惑いました。また、空港の設備が非常に粗雑な造りで、果ては空港内で使われているバスが日本で使われていた中古バスで、おそらく神戸市バスであったものと記憶しています。

ハノイ国際空港からハノイ市内のホテルに向かう小一時間、ハノイ国際空港があまりにも粗雑な造りであったことに落胆していた私の目に、車窓からたくさんの池に美しい蓮の花がいたるところに咲いているのが映り、そののどかな風景に感激しました。

その後、ハノイ工科大学にお邪魔して、副学長先生らとお会いした際に、池に蓮の花が咲く街道筋の風景についてお話したところ、副学長が、私が見たのは池ではなく爆弾の跡であるとおっしゃるので、とても驚きました。

私は、池だと思っていたものが爆弾の跡であると知り、30年にわたる戦争の痕跡をありありと見て、この状況に心が痛んだとお話ししました。すると、ベトナムの戦争の歴史は30年ではなく、「1030年です」との言葉が返ってきました。

30年にわたる戦争とは、1946年から1979年までに勃発した3つの戦争、インドシナ戦争(対フランス:1946年12月~1954年8月)、ベトナム戦争(対アメリカ:1960年12月~1975年4月)、中越戦争(対中国:1979年2月~同年3月)のことです。ベトナムはこれらの戦争にすべて勝利しています。そして、1000年の戦争は、中国との関係のものだそうです。

なお、ベトナムを越南といいますが、三国志に出てくる「呉・蜀・越」の「越」の南にいた人たちが、現在のベトナムに追いやられた後も、自分たちの国を越南と呼んだとする説もあるそうです。

私は、ベトナムの1030年というながきにわたる戦いを知り、ベトナムが、戦争という泥沼から生え、気高く咲く蓮の花そのものであることを思い知ったのです。

 

~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、弊所上海代表処 元統括秘書 李国麗様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、株式会社サンフローリスト 藤澤旭様山田真巳画伯草月流師範 栗生世津子様、ランドブリーズ 渡辺憲司様、株式会社ぷらう 代表取締役社長石川裕一様にいろいろとご教授をいただきました。ありがとうございました。

「花」第1回:はじめに


20130201.JPGのサムネール画像2013年1月27日(日)14:03
東京都八王子市南浅川町 うかい竹亭にてサザンカを撮影
花言葉:困難に打ち勝つ、ひたむきさ

 

 ここに一輪の花があります。物言わぬ花ですが、ただ存在するだけでまわりがぽおっと明るくなり、気持ちがやわらぐのを感じます。花とはそういうものです。

 

私が花の写真を撮るようになったのは、2011年4月にブログを始めるにあたり、文章だけではいかにも殺風景だろうから何か写真でも載せようかという軽い動機からでした。試しに花を撮ってみたところ、それまで日々忙殺されて忘れかけていた花の美しさ、愛おしさ、可憐さに改めてひかれるようになり、毎日の朝の散歩で花を撮り続けることが日課となったのです。そして、少しずつ花についての勉強も始めました。日々撮影した花の写真を一年をとおして見返すと、春夏秋冬の移り変わりを自然と感じ取ることができます。今回のブログから、十数回にわたって、私が撮影してきた花の写真を中心として、花について私が感じ・思い・考えてきたさまざまなことをつづります。

 

 『種の起源』で著名なイギリスの自然科学者のチャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年~1882年)は、1879年に友人に宛てた手紙の中で、「花を咲かせる植物の化石が、なぜある時期に突然、登場するのか、わたしにはその理由がわかりません。…この謎がすっきり解明される日が待ち遠しく思えます」と綴っています。花を咲かせる植物を顕花植物と呼ぶそうですが、顕花植物がいつ地上に登場したのかは、現時点では正確には判明していないとのことです。ただ、1億3000万年前の地層で発見されたものが現時点で最古の化石であり、これ以前に花が地上に存在した証拠はみつかっていないそうです。顕花植物が誕生した時期は、現在でも謎に包まれているそうですが、赤や黄、オレンジ、ピンク、紫や白といった色彩や、それぞれの花のもつ香りは、地上に艶やかさをもたらしたに違いありません(参考:『137億年の物語』クリストファー・ロイド著、文芸春秋)。なお、花は植物の進化の過程であり、花の各器官は葉が変形したものであるそうです。この考えを最初に示したのは意外にもドイツの詩人、文学者のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年~1832年)であり、彼は自然科学にも造詣が深く、1790年に著した『植物変態論』のなかでこの考えを展開していたそうです。

 

 さて、現代の遺伝学によれば、チンパンジーからヒトが枝分かれしたのは、700万年前から400万年前であるといわれています。顕花植物は、遅くとも1億3000万年前には存在していたとすると、ヒトが誕生したときには、すでに地球上では花が咲いていたことになります。なお、インターネットで調べたところ、ネアンデルタール人(約20万年前に出現し、2万数千年前に絶滅)の埋葬跡の周辺の土には、少なくとも8種類の花の花粉や花弁が含まれており、これがネアンデルタール人が死者に手向けた花であるとすれば(異論もあるようです)、これが最も古い花と人とのかかわりの記録ということになるそうです。

 

 IMGP2848.JPG

(2012年12月2日
神奈川県横須賀市佐島「地魚料理 はまゆう」にて彼岸花を撮影)

 

 このように、遠い祖先の時代から、花に囲まれて生活をしている私たちは、花がもつ美しさ、香り、花の四季折々の色鮮やかな彩りに、癒されています。春に咲く淡紅色の沈丁花、夏に咲く淡い桃色の蓮の花、秋に咲く赤・白・黄の色とりどりの彼岸花(秋の彼岸ごろから開花することが名前の由来だそうです。また、彼岸花の有毒性から、食べた後は「彼岸(死)」しかない、という由来であるとする別説もあるそうです)、冬に咲く真綿・薄紅・薄紫のシクラメンに至るまで、花はいつでも、見るたびに、ホッと安らぎを与えてくれます。布施明の「シクラメンのかほり」(作詞・作曲 小椋 佳)という歌が、私は好きです。実際にはシクラメンは、ほとんど香りがしないでしょうが、そんな指摘はヤボというものです。清楚なシクラメンの姿に、美しい恋の匂い立つような思い出を重ねる主人公には、ほのかな香りが確かに感じられたのではないでしょうか。

 

CIMG0527.JPG

(2011年4月2日 東京都千代田区国立劇場前にて桜を撮影)

 

 さて、私がいつごろから花に興味をもつようになったかは、定かではありません。戦前、小学2年生のときに、三重県桑名郡古浜村に疎開した時に目に映った、田園の鮮やかな紅紫色のレンゲや、川原に紫色のアザミが咲く原風景が、私の一番古い花の記憶です。そして、敗戦を迎え、疎開先から名古屋市へ戻ったとき、家の庭に植えられていた沈丁花の香りに愛着をもったのを覚えています。その後、1958年頃、武蔵野の奥の平屋建ての家に住み、小さな庭ではありましたが花木等を植え、夏に咲く百日紅(さるすべり)や、白い大手毬、小手毬、黄色い連翹(レンギョウ)、黄色や橙黄色のキレンゲツツジの花に目を楽しませたものでした。1985年7月に、今の住まいである東京都港区に引っ越した折には、庭に一本の桜を植えました。この桜は堂々と育ち、毎年、春の訪れとともに、私の人生の盛りを彩ってくれているかのように咲き満ちて、春の霞の大空を桜花(さくらばな)に染めています。こうして振り返ってみると、無趣味な私にとっても、花は生来の憧れであり続けたのです。

 

 ~ 今回の記事執筆にあたり、石草流生け花 家元後継 奥平清祥様、冷泉流歌壇玉緒会 伊藤幸子様、フラワーショップ華曜日 荒川智彦様に、ご教授をいただきました。ありがとうございました。

IMGP3125.JPG2013年1月20日(日)14:52
東京都墨田区東向島 向島百花園にて牡丹の花を撮影
花言葉:恥じらい、富貴

 

 昨年10月5日(金)付記事より、計11回にわたって「リーダーについて」をテーマに連載してまいりましたが、前回1月11日(金)の記事をもって一旦終了いたしました。なお、来週2月1日(金)付記事からは、十数回にわたって、私が撮影してきた花の写真を中心にして、花について私が感じ・思い・考えることをつづります。

 

 本連載へのご感想を、有限会社セカンドステージ 代表取締役 鮒谷周史様にお寄せいただきましたので、ご紹介いたします。

 

 

 


 

3ヶ月に渡ってのブログでのリーダー論のご執筆、お疲れ様でございました。そして、ありがとうございました。
あらためて拝読させていただき、非常に含蓄に富む内容であると感嘆いたしました。
一言で感想を述べるならば「骨太のリーダーシップ論に打たれた思い」とでも言えばよいのでしょうか。 

これは以前より感じていたことですが、高井先生のリーダーシップ論は、初めてお目にかかって以来、一貫しているように思われます。
ひとつには、いつも引き合いに出されていらっしゃるニーチェの『偉大とは方向性を指し示すこと』という言葉のとおり、リーダーの資質として先見性と大局観を持つことが大切であるということ、そして、その上で自らを厳しく躾けることが大切であることの二点であります。

自らを厳しく躾けるとは深い教養、幅広い体験に裏打ちされた実力を身につけ、背中で語れるような存在になれ、ということであると理解しております。
要は人間性を高めよ、人格を磨き、人間としての深みを持て、ということをご指導いただいてきたように思われます。

そして、高井先生はまさにみずからその実践者でありつづけてこられた方なのだとあらためて思わずにはおれませんでした。

 

IMGP3117.JPG

1月16日(水)13:28 高井伸夫撮影「菜の花」
(静岡県熱海市 熱海赤尾ハーブガーデン付近)
花言葉:活発、快活

 

高井先生と接していると、その記憶力の良さに驚かされることがしばしばです。

数十年、あるいは十数年前からお付き合いされている方との会食や面談に
同席させていただいていても、最初の出会いから、その方とのやりとりの履歴、
取り巻く人間関係など、本当によく憶えられています。

日常的にやりとりがあるならまだ分かりますが、
久しぶりに会う方とであっても、ついこの間会ったばかりのように、

「○○さんは元気ですか?」
とか
「あのときの件はどうなりました?」
とか、具体的な人名や、相当に突っ込んだ話がぽんぽん飛び出します。

普通、そこまでのことを憶えていることはないだろうという程度のところまで、
詳細に記憶されているのです。

※ いつぞやのときには、10年以上前に訪問したお宅の庭の、
 「灯籠の位置」が変わっていることを話題に載せられたことまであり、
 さすがに驚きました。

私などは、情けないことにお会いしたそばから記憶が失われていくので
彼我の違いはどこから来るのだろう、と真剣に考えたものでした。

そして(もちろん、もともとの記憶力の差はあるのはいうまでもないにせよ)、

なによりも接する相手に対する興味・関心の度合いの
違いから生まれてくるのだろう、という結論に至ったわけなのです。

まず何より「相手の役に立とう」という思いがあるから、先方の置かれている状況を
理解をしようと努めることになるし、理解しようと思ったら、相手の話をよく聞かなければなりません。

これを長年、実践していくうちに、その習慣が血肉化され、強烈な記憶力へと
昇華されていったのであろう、そんな風に思わずにおれません。

ここまで書いてきて改めて思ったことですが、高井先生は人の話に
本当によく耳を傾けられます。

そしてその話に絡めて「その場で必ず」相手の参考になりそうな
知識や情報を伝え、あるいは人を紹介されます。

(当然のことながら、相手は喜びます)

さらに継続してお会いしていくことになった場合には

「最近のニュースは?」
とか
「近頃、いいことはあった?」
とか
「今は何に取り組んでいるの?」
とか、最新の状況を常に気にされるのです。

そしてその取り組みが一段落した頃を見計らったように

「あの件はどうなった?」

というところまで。

(尋常でない程、たくさんの人と会いながら、
ここまでのことを記憶にとどめることは普通できないように思われるのですが…)

こうしたやり取りを経て、先方についての詳細な記憶が
深いご縁、関係性へと転換されていくのです。

このように書きながらも、これを完全に実践するのは
なかなか難しいものではありますが、

上に記したようなプロセスを目の当たりにすることにより、
ご縁を結び、深めていくためには、まず相手のことを
第一に考え、それをきっかけとして形に変える(行動する)ことが大切、

と高井先生の姿を拝見し、学ばせて頂いてきたように思います。

「リーダーについて」その11


20130110.JPG2013年1月9日(水)17:32
東京都港区虎ノ門ホテルオークラ東京にて撮影

 

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 10月5日(金)付記事より、「リーダーについて」をテーマに連載を開始しております。本連載は、私が、50年間にわたる経営側の人事・労務問題の専門弁護士としての経験もふまえ、感じ・考えたことの一部です。ブログ読者の皆さまに、リーダーのあり方について考えていただくための一助になれば幸いです。

 

 さて、リーダーの最大かつ重要な役割は、これまでも繰り返し述べてきたとおり、その組織に属する者たちにヴィジョン・方向性を指し示すことです。リーダーは、組織全体が一丸となって、迅速に、かつ的確にこれを実現できるように指示しなければなりません。それゆえ、沈思黙考だけではリーダーは務まらず、反対意見を表明する者も含めて関係者全体を粘り強く説得し、物事を推進する力が求められます。

 

 異なる価値観をもつ多様な人材が集まる組織においては、リーダーに抵抗する者も少なからず現れるのが現実です。組織のさまざまな対立や軋轢を超えて合意形成にこぎ着けるためには、リーダーには、たとえどんなに小さな合意点であってもそれを見つけて絶えず拡大する努力が求められます。リーダーは、仕事が進まないことを反対勢力のせいにしてはならないのです。これらの者を諦めずに粘り強く説得することがリーダーの務めですから、この点は常に自戒しなければなりません。

 

 相手を説得するためには、その言わんとするところにも一定の共感を示しながら、自らの主張を堂々と粘り強く伝え、良い関係を構築するコミュニケーション能力が必要です。つまり、「人を見て法を説け」ということです。また、説得にあたっては、ときに数字の裏づけも含めて十分論理的でなければなりませんが、もちろん論理だけでは説得力は生まれません。論理によって納得感をもたらしたうえで、情や感性、ムードなどで相手の腑に落ちる「解」を与える能力がリーダーに求められます。

 

 この点、私が実務の経験の中から編み出した重要な方途の一つに「大義名分書」(物事の大義名分を書面化したもの)があります。大義名分書において、相手に、いま取り組んでいる仕事は、本人のためになることはもとより、それだけでなく、同僚のため、組織全体のため、ひいては、世のため人のため、社会全体に貢献するものであるという将来に向けての意義、大義名分を明らかにするのです。さらには、「想定状況」「想定問答」「スケジューリング」等々の資料も精緻に作成することも肝要です。こうした努力によってはじめて説得力が生じ、反対勢力との軋轢やしがらみのなかでも組織をまとめあげるリーダーシップを発揮し、ミッションを成し遂げることができます。

 

 このように、リーダーは、組織の多様な人材の主義・主張、傾向、性向を的確に把握してそれを活かし、組織の目的を実現するという困難な課題に挑戦し続けなければならないのです。

 

(リライト 加藤・宮本)

 

※ 「リーダーについて」をテーマに、10月5日(金)付記事より計11回連載をしてまいりましたが、本記事をもっていったん終了いたします。

「リーダーについて」その10


IMGP2993.JPG2012年12月26日(水)午前11:38
静岡県熱海市上多賀 アカオハーブ&ローズガーデンにて
バラ(フェアリー)を撮影
花言葉:上品、温かい心、美しい少女 等

 

 10月5日(金)付記事より、「リーダーについて」をテーマに連載を開始しております。本年の締めくくりとして、高井・岡芹法律事務所が年4回発行している事務所報『Management Law Letter』2012年 新緑号(NO.94)に掲載した、弊所の客員弁護士であられた吉村德則先生への追悼文を転載します。

 

 吉村先生は、昨年よりご療養中であられましたが、本年3月7日に永眠されました。私は、11月11日(日)に、先生のお墓にお参りし、ご生前の先生のご指導に心より感謝申し上げた次第です。

 

 このブログでも度々述べていますように、リーダーに求められる最たるものは、人間としての深みです。それは、人格・識見・手腕・力量に加えて、多芸・多趣味からなるものですが、吉村先生はこれらの要素をすべて備えていらっしゃいました。追悼文中にもございますとおり、先生は、専門外のありとあらゆる分野にも精通された、まさに博覧強記の方でした。また、検事時代には、リーダー教育にも熱心に取り組まれたとうかがっております。このブログ読者のみなさまにも、吉村先生の素晴らしさをお伝えできればと思います。

 


事務所報『Management Law Letter』2012年 新緑号(NO.94)

「博覧強記の人 逝く ~吉村德則先生の御逝去を悼んで~」

弁護士 髙井 伸夫


 

 私どもの事務所の客員弁護士である吉村德則先生が、この3月7日に永眠されました。客員弁護士押してのご在任期間は、2004年3月26日より2012年2月29日のほぼ8年間でした。

 

 吉村先生は昨年より病気ご療養中であられましたところ、一日も早いご快癒とご復帰をお祈りしていた私どもの願いは叶わず、突然の訃報に、所員一同悲しみにくれるばかりでございます。吉村先生は、最愛の奥様はじめご家族の皆様方に見守られながら、息を引き取られたとうかがっております。享年74歳でした。

 

 ここに深く哀悼の意を表しますとともに、ご生前の吉村先生のご指導に心より感謝申し上げます。

 

 吉村先生は、1964年に任官され、2000年に名古屋高等検察庁検事長で退官されるまで、検察官として要職を歴任され、活躍されました。またその間、先生は法務省等でも多くの重要なお仕事を担われました。退官後は、内閣府情報公開審査会の会長代理をつとめられましたが、2004年に弁護士登録されると同時に、私からお願いして当事務所の客員弁護士にご就任いただきました。私は、先生の幅広い教養と豊かな人間性が、良き法曹を目指す若い弁護士たちにとって、何よりのお手本であると考えたからです。先生には、週2日、勤務弁護士全体へのご指導をお願いしておりました。

 

 先生と私との出会いは、先生が法務大臣官房人事課付、総理府(当時)人事局付検事として任務にあたられていた昭和40年代後半の頃であったと記憶しております。若手官僚を対象とした講演を私にご依頼いただいたことや、総理府からの仕事で、日本に復帰して間もない沖縄を共に訪問したことがご縁の始まりでした。先生も私も、まだ30代の働き盛りの時代でした。

 

 私は、先生の豪快にして爽やかで繊細なお人柄にひかれ、また生まれ年が同じであったこともあり、大いに意気投合しました。長身でひときわ目立つ体躯でありながら、笑顔の優しい先生のお姿は、優秀で大変ご立派な検察官として、私の脳裏に深く刻み込まれたのです。

 

 先生は、在任中から後進の指導にも存分にお力を発揮されました。リーダー論について書かれた随想は見事なもので、私どもの事務所でもテキストにさせていただきましたし、また、検察官にとっての大切な心得として、「謙虚」「研鑽」「健康」の「三ケン主義」を徹底指導されたというお話も、強く印象に残っております。

 

 吉村先生は、このように優秀な検察官であられましたが、それと同時に、専門外のありとあらゆる分野にも精通された、まさに博覧強記の方でした。話題が豊富で、とにかくお話が楽しいのです。

 

 先生は、法律家の自己研鑽のひとつとして、世の中の動きや考え方などあらゆることを日頃からデータとして頭に取り込んでおくことの重要性を指摘されていましたから、専門とは一見無関係の事柄でも、形を変えてお仕事に役だっていたと思います。そして、万般にわたる幅広い知識と体験が、お仕事にも一種の深みを与えていたのではないでしょうか。

 

 先生が特に詳しかった分野を思い起こしますと、私が存じ上げているだけでも、米国本場のアメリカンフットボール・メジャーリーグベースボールを中心としたスポーツ観戦、海釣り、南北朝を除く日本の古代史~近世の歴史、和洋中を問わない料理の腕前、奥様とご一緒に知床から石垣島まで全都道府県を制覇された国内小旅行、ロシア出身のオペラ歌手シャリアピンの声に魅せられ、また盲目のイタリア人テノール歌手アンドレア・ボチェッリの歌を滂沱の涙で聞かれたという音楽への造詣の深さ、テレビドラマの監修(頼まれ仕事のボランティア)等々、枚挙にいとまがありません。これら以外のあらゆる分野についても、先生は驚くほど何でもよくご存じでした。

 

 先生はマスコミに登場されることを全く好まれませんでしたが、私から無理をおしてお願いして、昨年、雑誌『月刊公論』の2011年4月号・5月号に掲載された「リレー対談」に「歴史のなかで『if』を想定する愉しみ」等のタイトルでご登場いただいたことが、つい昨日の出来事のように思い出されます。

 

 吉村先生とのお別れは痛惜の極みです。先生のお心のこもったご指導は、先生の後輩検察官や、私どもの事務所の若い弁護士たちに確かに受け継がれておりますが、稀にみる人間性豊かな法曹として、先生にはさらなるご活躍と若手弁護士の指導をお願いしたかったという思いが、こみ上げてまいります。

 

 吉村先生は、私どもの中にいつまでも生き続けてくださいます。悲嘆にくれながら、今はただ、衷心より先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 先生、やすらかにお眠りください。

合掌

 

IMGP2942.JPG2012年12月16日(日)12:57
高井伸夫撮影「ユリ(ルレーブ)と南天の実」
(千葉県山武郡九十九里町片貝 九十九里ハーブガーデン
ユリ(ルレーブ)の花言葉:「貴重な・希少」
南天の花言葉:「私の愛は増すばかり」

 

高井先生と間近に接していると、
打ち合わせ中、会食中や移動の車の中など、あらゆる場面でメモを取る、
あるいはボイスレコーダーへの吹き込みを行われていることに
気づきます。

「常にその場で記録する」ことを習慣化されているようです。

会話の中で話題に出たこと、それをきっかけとして
閃いたこと、あるいは本や雑誌を読んでいて思いついたこと、

たとえば
▼◯◯を購入する
とか
▼◯◯を調べる
とか
▼◯◯の情報を誰々さんにお伝えする
とか
▼◯◯さんと◯◯さんを引き合わせる
とか
▼◯◯さんに◯◯をお送りする
とか
▼会いたい人に連絡を入れる

などなどなど、多岐にわたります。

そうやってメモされたことをその日中に、
秘書の方々に連絡を入れ、決して先送りせずに形に変えて
いかれる姿は圧巻です。

その姿を目の当たりにして「一つやれば、一つ進む」ことを
教えていただきました。

高井先生はこの「一つやれば一つ進む」のスピードを
秘書の皆さんの力を借りながら、普通の人の10倍速、20倍速、
あるいはそれ以上の速さで進めていかれます。

高井先生の日常に初めて触れたとき、
その尋常ならざるスピード感に驚きました。

注意して観察していると、高井先生においては記録と行動が
常に一体化されているように感じます。

人間の脳が短期間に保持できる記憶の量は限りがあると
言われますが、都度、思いついたことをメモして、
外部に残しては消去、を繰り返さないと、あっという間に
容量オーバーで意識から流れ去ってしまいます。

そんなことを意識されてのことなのか、あるいは
経験則から学び、身につけられてのことなのか、いずれにせよ、

記録してはすぐに忘れる、
記録してはすぐに忘れる、

ということで常時、頭の中の雑多なアイディアを
吐き出しては空にしていく、そんな感じを受けるのです。

頭の中を空にしているから、その真空状態めがけて
新しい思考の泉が湧き上がってくるものなのかもしれません。

と書きつつ、高井先生は頭の中で一時に保持できる
思考の総量は明らかに常人よりも多いように感じますが。

けれども、こちらは真似をしたいけれども真似はできません。

ただ、せめて気づいたことや思いついたことを即座に記録に残し、
常に脳内を空にし、思考するための(脳内)スペースを確保する
習慣だけでも真似をさせていただこう、
そんな風に考えている次第なのです。

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