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2023年2月10日
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「自己研鑽」(その3)


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2012年7月25日(水)午前7:30
東京都千代田区三番町付近にてミニバラを撮影
花言葉:「無意識の美」

 

 今回も引き続き、「自己研鑽」をテーマにお話ししたいと思います。

  さて、前々回のブログ記事で、勉強のひとつの方法として、私が取り組んできた継続的な執筆活動について述べましたが、文章を書く際になによりも大切なことは、「推敲」を重ねて文章を練り上げることであると思います。

 

 推敲とは、「詩文を作るのに字句をさまざまに考え練ること」(広辞苑〔第5版〕)ですが、これは中国唐代の詩人賈島(779年~843年)が、「僧推月下門」という句を思いついた際、門を「推(おす)」ではなく「敲(たたく)」にするべきかどうか迷い、韓愈(768年~824年)に問い、「敲」の字に決めた、というよく知られた故事に由来します(『唐詩紀事』巻四十)。賈島のような詩人や作家に限らず、文章を書く人はみな、推敲に重きを置きます。

 

 一度書いた文章は、推敲することで輝きを増していきます。まさに、「玉磨かざれば光なし」であるということです。なお、校閲(文書・原稿などに目をとおして正誤・適否を確かめること)、校正(文字の誤りをくらべ正すこと)も、推敲と似ています。どちらも推敲とあわせて行うべきです。

 

 推敲してみると分かることですが、これで完璧と思っていた文章でも、完璧どころか間違っていることはよくあります。間違いを修正するために辞書を引いたり、文章表現を工夫したりしているうちに、文章が上手になると同時に多角的な思考をするようになり、国語力を身につけることができますから、自分の成長に繋がります。これこそが、推敲がもたらす一番の効用であると思います。

 

 自分の思い・感じ・考えたことを文章化し、文字にしてそれらを検証し、推敲を重ね表現の的確さの確認をするという一連の作業を経て初めて、自分の思いや考えは、形となって自分のなかに定着すると思います。そして、ビジネスに限らずどんなシーンにおいても、自分の思いや考えを、的確な言葉を使い、論理的な文章を書く力を身につけることは、基本です。幸いにも、いまはメールのやりとりが増え、文章を書く機会が増えていますから、書きっぱなしにせずに、推敲の習慣をつけて、研鑽を重ね、文章力を向上させていただきたいと思います。

 

(リライト 宮本・加藤)

自己研鑽(その2)


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2012年7月14日(土)午後12:05
東京都千代田区麹町一丁目にて西洋風蝶草(クレオメ)を撮影
花言葉:「秘密のひととき」

 

 先週7月13日付けブログ記事にて、「充実した人生を過ごすには、生涯勉強し、研鑽しなければ結果が得られにくい」と述べ、勉強の一つの方法として執筆活動についてお話しいたしました。今回も引き続き、「自己研鑽」をテーマにお話ししたいと思います。

 

 私たちが勉強を開始するときに端緒となるのは、多くの場合、さまざまな書籍や雑誌に触れることです。しかし、あれこれ忙殺されていると、読書はなかなかできません。

 

本来、読書の醍醐味は、作者あるいは執筆者の作り出した世界をじっくり味わうことにあると思います。しかし、限られた時間のなかでこれを実行するのは容易ではありませんから、そもそもどの書籍、雑誌を読めばよいか、判断・選別する工夫が必要になってくるでしょう。私は、時間のないときには、まず目次をみて、記事毎のリード文に惹かれるかどうかをひとつの基準にしています。読書によって多角的・多面的な視野をもつためには、1冊に時間をかけて読むよりも、より多くのジャンル、より多くの文章に触れることが重要である場合もあるのです。

 

 読書の時間ができたとしても、結局は自分の仕事に関係するテーマの本を選んでしまうことが多いかもしれません。

 

この点、私の読書歴を振り返りますと、ブログのテーマでもある「無用の用」を大切にして、さまざまなジャンルの書籍を読んできたように思います。そのなかでも、時代小説、たとえば吉川英治(1892年~1962年)、藤沢周平(1927年~1997年)、山本一力(1948年~)、宇江佐真理(1949年~)などの作品を好んで読みました。一見、仕事に関係がないようにみえますが、名作と呼ばれる小説は、人間の洞察、描写が出色であり、これが大いに勉強になるのです。書籍や雑誌を読むことは、それを執筆した人の魂に触れることと同義であると思います。

 

 たとえば、吉川英治著『宮本武蔵』の最終章は「魚歌水心」と題され、次のような文章で締めくくられています。

 

「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」(吉川英治歴史時代文庫21『宮本武蔵(八)』、講談社、1990年、369頁)

 

「魚歌水心」という言葉は、出典を探してみてもわからなかったので、あるいは吉川の造語かもしれません。私は、『宮本武蔵』の最後の文章とあいまってこの言葉に感銘を受け、書家にお願いして書いていただいたという思い出があります(詳しくは2011年12月6日付ブログ記事をご覧ください)。

 

 書籍や雑誌を読むと、執筆者の魂に触れることによって自分の魂も揺り動かされ、さらには、執筆者の考えに同意したり、もしくは抵抗したりして、あれこれ思考を巡らす過程を経ることができます。そして、それによって、自分自身の心・魂が練られていき、成長に繋がるものであると思います。

 

 このように、読書はいつの時代も変わらない自己啓発手段です。読書の 時間を持てずにいる方は、この機会に是非、読書をする時間を一日に少しでも設けていただきたいと思います。

 

(リライト 加藤・宮本)

自己研鑽(その1)


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2012年7月11日(水)朝7:30
東京都千代田区九段南三丁目にてランタナ(和名・七変化)を撮影
花言葉:「協力」「厳格」「心変わり」等

 

 前回7月6日(金)付のブログ記事で、私が当事務所報「Management Law Letter」1997年5月号に書いた巻頭言「いかに企業構成員に上昇感を与えるかの課題に取り組む」をご紹介いたしました。そのなかで、「変化の時代を迎えて、誰しも勉強しなければそれに対応しきれない、また、萎縮し続ける社会の中でそれを乗り切ることはできない」と述べ、勉強のひとつの方法として、私が取り組んできた継続的な執筆活動をあげました。

 

 本の出版や雑誌への寄稿などは、自分には縁のない別世界の話だと思う人も多いかもしれませんが、いまの時代はブログなど、無料で自分の意見を社会に発信できる便利なツールがあります。書籍の出版でも、ブログでも、しっかりと資料にあたり、根気よく勉強をしたうえで原稿をまとめ、そしてなにより、継続して書き続けることが大切です。そうすれば、思いもしなかったような新しい着想が浮かぶこともありますから、自分の成長につながります。また、あなたが今執筆を行える場がブログだけであったとしても、自分の思い・感じ・考えたことを日々まとめた集積は、いつの日か大いに役に立つでしょう。まさに、継続は力なりです。

 

 さて、継続性の大敵は、なんといっても「怠け心」です。人は本能的に楽なことを求め、苦しいことやつらいことは避けようとするものです。これが怠け心の正体なのです。

 

 この怠け心を克服するには、試練をゲームのように楽しむ気構えが効果的です。ゲームにはルールがありますが、ルールを守る経緯で生じる試練を克服することこそが、ゲームの醍醐味であると思います。つまり、ルールとは、試練が姿を変えたものであるといえるのではないでしょうか。このように、ゲーム感覚を、実生活に取り入れてみることも一つの手立てです。

 

 執筆活動に限らず、どんなかたちでも、勉強を継続的におこない、新しい知識、能力を身につけ、優れた人材となるという強い意志がなければ、これからに時代は到底生き残ることはできないでしょう。私は、江戸時代の儒学者佐藤一斎(1772年~1859年)の「少(しょう)にして学べば、すなわち壮にして為すことあり。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず。」(少年のときに学んでおけば、壮年になってから役に立ち、何事かを為すことができる。壮年のときに学んでおけば、老年になっても気力が衰えることはない)という言葉を大切にしてまいりました(「言志晩録」第60条:岬龍一郎編訳 佐藤一斎『〔現代語抄訳〕言志晩録』PHP出版より)。

 

充実した人生を過ごすには、生涯勉強し、研鑽しなければ結果が得られにくいということを、改めて、皆さんに伝えたいと思います。

 

(リライト 加藤・宮本)

これまで高井先生の国内外の出張、会食、会合に同行し、

学ばせて頂いたことは本当にたくさんあります。

 

今日はその中でも、時間に対する意識という面で

私が強い影響を受けたことをお伝えしたいと思います。

 

それは、

 

「会合、会食にあたって『けじめ』をつける」

 

ことの大切さ。

 

 

高井先生は決して会合、会食の時間をだらだら延長させる

ことはされません。

 

特に会食の場において特徴的だと感じるのですが、

スタートから終了までの時間が短くて物足りないということなく、

反対に必要以上に長い時間をかけ、冗長になるということもなく、

 

「ちょうど、このくらいで終われば良い余韻が残る」

 

と思われる絶妙のタイミングで、

 

「それでは今日はありがとうございました」

 

と締めの挨拶をされるのです。

 

その場に居合わせたことのある方は皆さん感じられる

ことでしょうが、それはそれは潔く、かつ鮮やかです。

 

私などは、ともするとひと通りのテーマについて話し終えた後も

だらだらと居残ってしまう、ということを行いがちでしたが、

 

自身の時間の使い方を振り返り、もっとしっかり「けじめ」を

つけたほうが良いな、と思ったものでした。

 

 

そんな高井先生のスタイルから私は2つのことを学び、

今も実践しています。

 

 

一つは上にも記しましたが、

 

「会合や会食に意義を持たせるために、必要にして十分な時間を

 見計らい、そのタイミングで終了することを習慣とする」

 

こと。

 

ずるずると時間を延長しない。

キリの良いところでさっと終了する。

 

これにより、参加者全員が心地良い余情を残しつつ、

その場を退出することができようになるのではないか、

 

そんな風に感じています。

 

 

そしてもう一つ大切だと思われたことは、

 

 「周囲に『そういう人(=長居しない人)』だと

  理解してもらう」

 

こと。

 

案外、これは見過ごされがちなことかもしれません。

 

どういうことかというと、高井先生ご本人が

周りにいる人たちから、

 

「そういう人(=時間を大切にし、けじめをつける人)」

 

なのだと既に認識されているから、打ち合わせや会食の時間を

キリのよいところでパっと切り上げられても、

それが当たり前だと思われるし、

 

そこに一貫性を感じ、かえって驚嘆されさえするように

なるのではないか、

 

また、そういったスタイルであることが分かっているがゆえに

多忙な人であっても、安心してお誘いに乗ることができるのでは

ないか、

 

そんな風にも思われたのです。

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2012年6月30日(土)朝7:31
東京都千代田区北の丸公園にてタイサンボク(泰山木)を撮影
花言葉:「前途洋洋」「壮麗」

 

6月22日(金)・29日(金)の2週に分けて、私が当事務所報「Management Law Letter」2009年新緑号に書いた巻頭言「存続こそ企業の社会的責任」を紹介しました。この内容を受けて、今回は、1997年5月号に書いた巻頭言「いかに企業構成員に上昇感を与えるかの課題に取り組む」をご紹介します。

これは15年前のものですが、企業が存続に向けて努力した具体例が書かれており、いまの時代にも十分あてはまる普遍性があると思われます。

 

 

<当事務所報「Management Law Letter  1997年5月号の巻頭言より転載>

 

 

【いかに企業構成員に上昇感を与えるかの課題に取り組む】

 

まさに変化の時代を迎えて、誰しも勉強しなければそれに対応しきれない、また、萎縮し続ける社会の中でそれを乗り切ることはできないと痛感する毎日である。私はその勉強のひとつの方法として、執筆活動を続けている。最近最も力を入れてきたものは『揺らぐ終身雇用制』(労働新聞連載)であって、これはこの3月末をもって2年半に及ぶ連載を閉じたばかりである。

 

 こうした連載にあっては、統計を読み、資料を漁るという作業を根気よく続けながら絶えず新しい世界を構築していかなければならない。常に新しいもの、核心をついたものを書き続けたいという思いに駆られながら執筆活動に取り組むが、その結果、思いのほか新しい着想が浮かび、新しい真実に近づくことができる。

 

それにつけても、人間の発想や理念は無限大の拡がりと深さを持つことに思いが至り、頭脳活動の神秘さに改めて感じ入るのである。

 

昭和52年、私は倒産間際にあった一部上場企業「ニチバン」の再建の一端を担当した。これにはいろいろ経緯はあるが、大鵬薬品工業株式会社の社長である小林幸雄氏が「ニチバン」の再建を引き受けることとなり、人件費を圧縮するという方策だけでなく、年間労働時間を1865時間から2136時間に延長するという抜本的施策を採用するということに始まった。私はこの関係の裁判を引き受け、裁判では負け続けたが、結局会社再建に成功した。

 

成功の原因は、従業員の大半が労働時間の延長策等々の施策が会社再建にとって必要不可欠な処置であるという理解に達したことによる。東京地方裁判所(渡邊壮裁判官)も昭和54年6月7日の決定において「もとより、当裁判所は、債務者の積極的な経営政策をそれ自体として批判するものではなく、また、本件勤務時間延長実施の前後を通じて相当数の従業員が債務者の経営方針の転換、経営政策の積極化に協力的な気運を醸成していた、との債務者の主張を否定し去るものではない」と認定した。会社が従業員に満足感・幸福感・充実感を与えることに成功したのである。その根源は何かと言えば、企業には浮揚感を、また従業員個々には上昇感・燃焼感を与えることを企て、かつこれを実現したことに他ならない。

 

ところで、当時の合化労連ニチバン労働組合の佐藤功一委員長に対する反対尋問は、数年間にわたって30回以上に及んだ。この間同じ命題をめぐって、私が質問し彼が答えるというやりとりの中で、人間の頭脳の緻密さや深さといったものを体感した。同じことを質問しながらも自分が絶えず新しく構想し、また委員長の答弁も、次第にそれにふさわしい深みと意義を持ったものとなっていったからである。それはもとより虚偽を語るものではなく、真実を次々と新しく発掘する経過であった。

 

今後の勉強の課題も、この時代にいかに企業を浮揚させ、従業員に上昇感・燃焼感を与えることができるかの一点にあるが、それには現実的困難を克服する気構えが必要であると自覚している。

存続こそ企業の社会的責任(後半)


 

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2012年6月26日(火)朝7:10
東京都千代田区北の丸公園にてガーデニアを撮影
花言葉:「わたしは幸せもの」 

 

 

(前回6月22日[金]付記事「存続こそ企業の社会的責任(前半)」の続きです。前回の記事からご覧ください。)

 

<当事務所報「Management Law Letter 2009新緑号」
(2009年4月発行)の巻頭言よりほぼそのまま転載>

 

 

【存続こそ企業の社会的責任】

では、企業の最大の社会的責任とは何か。それは極めて単純であるが、前述のとおり「企業の存続を図る」ことにこそ根本があると言ってよい。

近時、企業の社会的責任論・社会貢献論において華やかに取り上げられる環境問題や企業倫理の問題などよりも、まず企業に期待される根本は、存続すること自体なのである。企業は、存続できなければ営利活動・慈善活動等いかなる活動もなし得ないばかりか、雇用の場たり得なくなってしまう。

特に、現在のような出口の見えない長びく不況のときには、企業の存続を維持し、社会的存在としての責務を果たし続けるために、生き残りと再興を掛けてリストラ・雇用調整・賃金ダウン等を断行することこそが、最も重要な経営課題として浮上する。経営が悪化した企業がリストラを行なうとき、あたかも人員削減が非道な行為であり社会的責任に反するかのように報道する向きもあるが、それは偏った見方である。企業が存続しなければ、より多くの雇用の場が喪失されてしまうことに気付かなければならない。

業績の悪化した企業はほとんどの場合労働力の過剰に陥っているので、原則として人員削減の方法でしか生き残ることはできない。迅速で果敢なリストラ・人員削減策の実行こそが、企業の存続を保障するといってよいだろう。働く者に冷たい言辞に聞こえるかもしれないが、実はこれが厳然たる事実であることを自覚して経営者はこの難局に取り組まなければ、企業の存続という社会的責任を果たせなくなる。企業の存続が雇用の維持に繋がり、雇用の維持こそが働く者の生計を支え、人間の尊厳を保持することに資することを経営者は改めて肝に銘じなければならない。

 

 

【「大義名分」の重要性】

私は1963年に弁護士になって間もなくの頃から企業のリストラ問題に取り組んできており、正確な数は不明だが既に1000件以上担当したと言う者もいる。こうした中で、私が必要に迫られ独自に編み出した知恵と工夫の産物が、リストラにあたっての「大義名分」を確立するという手法である。

裁判所は、整理解雇が解雇権の濫用とならないか判断する基準のひとつとして「人員削減の必要性」を挙げるが、私が考案した「大義名分」は、必要性のみならず企業の存続と再興をも重視する点において一段と質が高く、オリジナリティがあると言ってよいだろう。なぜなら、「必要性」は単に現下の人員削減の必要性を示せば済むが、「大義名分」とは、リストラをしても従業員らの士気を極力損なわないよう、具体的に企業の再生・再興を図るにはリストラしかないことを強調し、そのうえで未来志向の理念を確立することだからである。

そこで、「大義名分書」の作成にあたっては、リストラの断行が経営者としての義務であるという強い意識を持ちながら、人員削減の必要性をデジタルな資料により説得的に論じたうえで、加えて企業が「未来に生きる」ための目的意識をも明示し、リストラによって社会的ニーズに応える企業として存続・再興し得ることを明らかすることに重点を置く。このように、「大義名分」はリストラが企業の未来を切り拓く手法であることを明らかにし、大方の従業員の納得を得る手続を進めることであるから、「大義名分」を構築できない経営者では企業再建は不可能と断じても過言ではない。

理想を言えば、企業の将来を考えるこうした作業は経営悪化に陥って初めて行うのではなく、折に触れ経営に関する情報公開を行い、従業員の意識の中に埋め込んでおく必要がある。具体的には、事業の発展のため何をすべきか、仕事の仕方を変えることで売上げを伸ばせるのではないか、自らの技能・技術を磨くために何をすべきか等々について常に上司と部下がコミュニケーションを取り続ける手法を編み出すのである。

明けない夜はない。朝が来ると信じるからこそ、我々は苦境を切り抜けるための努力ができる。経営者は、夜の深さの中にこそ朝日のきらめきの予兆があることを、自らの言葉で語れるように日頃から心掛けなければならないのである。

存続こそ企業の社会的責任(前半)


 

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2012年6月17日(日)12:35
東京都千代田区 千鳥ヶ淵交差点付近にて紫陽花を撮影

 

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<当事務所報「Management Law Letter 2009新緑号」
(2009年4月発行)の巻頭言よりほぼそのまま転載>

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【企業という存在】

 

企業とは、物の生産・商品の販売・サービスの提供等によって利益を上げることを目的とする組織であり、消費者・需要者は商品やサービスに満足すれば契約に基づいて企業等に対価を支払う。こうした一連の企業活動は日常的なことであり、会社法や商法が規定されていることからも所与の事実と認識されているだろうが、経済の担い手としての企業の存在が社会で許されている根本的な所以について、最高裁は憲法との関係で次のように述べている。

 

すなわち、「会社は…自然人とひとしく、国家、地方公共団体、地域社会その他(以下社会等という。)の構成単位たる社会的実存なのである」「憲法第3章に定める国民の権利および義務の各条項は、性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである」(「八幡製鉄事件」最大判昭45・6・24)とし、法人たる私企業も憲法上の権利義務の主体であることを明言し、さらに「憲法は…22条、29条等において、財産権の行使、営業その他広く経済活動の自由をも基本的人権として保障している。それゆえ、企業者は、かような経済活動の一環としてする契約締結の自由を有し…」(「三菱樹脂本採用拒否事件」最大判昭48・12・12)とし、企業の経済活動が憲法上保障されていることを指摘しているのである。

 

 

【企業の存続】

 

企業一般は、おしなべて多数の人間によって構成される協働体であり、大きな組織である。そのため、企業には株主・取引先・消費者のみならず労働者等の多数の利害関係人がいるのであり、企業は社会において単なる個人を超えた存在であって、私的存在とは言えないほどの意義を持っている(鈴木竹雄・竹内昭夫著『会社法』(有斐閣、1982年刊)参照)。そして、今では全就業者に占める雇用者の割合は86.5%に達し(総務省2009年1月発表統計※)、その比率が30年連続で上昇し続けている“雇用社会”であることからすれば、企業が存続し続けること自体が雇用の場の確保となり、人心を安定させることにもつながると言えるのである。

※なお、総務省2012年1月発表統計では、全就業者に占める雇用者の割合は87.7%にまで達している(岩手県、宮城県及び福島県を除く全国・9地域別結果)。

 

【企業の社会的責任】

 

このように、企業は憲法上も社会的実存として存在が認められ、また実際上も人心および社会の安定のために存続することが大いに期待されている。

そして、企業は社会的実存であるがゆえに社会的責任を負う。なぜなら、個人は社会の一員として当然に社会的な責任を負うし、憲法の条文上も、憲法で保障されている自由および権利は「濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」(憲法12条)と規定していることから、多数の人間の協働体として活動している法人たる企業となれば大組織であり、社会に対する影響力も大きく、個人よりも格段大きな社会的責任を負うからである。ましてや、企業には経営の自由があるだけに、その責任は一層重大であり、「公共の福祉」についてもより真剣に考えなければならないことになる。

これについてはドラッカーも、「企業と社会は、企業の経営の健全性について共通の利害を有する。企業の経営の失敗は国民経済を害し、ひいては社会の安定を害する。社会は、優れた経営陣だけが実現することのできる価格政策、雇用、人事、マネジメントを必要とする」とし、企業が社会の安定と発展にいかに大きな役割を担っているか強く指摘している(『企業とは何か』第10章参照)。

 

(次回に続く)

仕事(その10)


 

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2012年6月7日(木)朝7:06
東京都千代田区北の丸公園にてヒペリカムの花を撮影
花言葉「きらめき」「悲しみはつづかない」

 

 

 

4月13日(金)付記事より、「仕事」をテーマにした連載を掲載しております。仕事をとおして本当の意味で成長するにはどうすればよいのか、仕事をうまく運ぶコツとは何かなどについてのヒントとなれば幸いです。

 

【経営者感覚】

 

事業規模の程度の差異はあっても、経営者は、利益を上げること、雇用を守ること、税金を払うこと…等々を常に意識しながら仕事をしています。あなたが、仕事において成長したいと思っているのならば、経営者的な意識を持とうと努力して仕事に臨むことが必要です。これは、あなたが、まだ下積みの非管理職のビジネスパーソンであればあるほど、これからの成長に不可欠なポイントとなるでしょう。

 

経営者の目で仕事を見るようになると、どのような業務に対しても、取り組み方・姿勢を大きく変えることができます。雇われ根性で仕事をしているうちは、実力はつきませんし、自分の成長にも繋がりません。

 

成長とは、自分自身の成長はもちろん、周囲の関係者の成長をも促し、向上心をもたせ、それぞれの自己実現への欲求に満足感を与えることであると思います。経営者感覚をもって仕事に取り組み、自分自身と、自分の所属する組織・企業の成長に寄与できるように意識する姿勢が、いまの時代の激しい競争を勝ち抜くために必要不可欠です。そして、組織への貢献度・寄与度は、その人に対する評価の欠かせない要素の一つですから、経営者感覚をもって仕事に取り組むことは、あなたのキャリアアップに大いに繋がるでしょう。

 

経営者的な意識で仕事をとらえるための具体的な方途の一例として、「ヒト・モノ・カネ・信用・情報・組織」という項目を常に念頭に置いて、順次検討を加えることが挙げられます。さらに、これらの項目に「財源」「規定類」「法制度」等の横軸をも重ねると、ヌケやモレがなく思考を整理整頓できるばかりか、より精緻で質の高い仕事を成し遂げることが可能になると思います。

 

仕事は、単に生活の糧を得るための手段ではありません。人間は、労働・仕事を通じて、はじめて人間たり得るといっても過言ではないと思います。若い読者の皆さんには、仕事のうえで苦しく悩ましいことも少なくないと思います。しかし、それを自己鍛錬の良い機会であると受け止め、仕事の困難さや納期厳守の重要性などを学んでください。そうして、それらを克服する喜びを体験することは何にも替えがたいものになるでしょう。仕事を通じて、成長し、能力を磨き、優れた人材となり、これからの日本社会を牽引していくという強い意志をもって、仕事に取り組んでいただきたいと切に願います。

 

(リライト 加藤・宮本)

 

<4月13日から、「仕事」をテーマに連載をしてまいりましたが、今回の「その10」をもって一旦終了いたします。来週は、当事務所報「Management Law Letter 2009新緑号」(2009年4月発行)の巻頭言に私が発表した『存続こそ企業の社会的責任』を2回にわたってご紹介する予定です。>

 

仕事(その9)


 

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2012年6月2日(土)朝7:37
東京都港区赤坂 檜町公園にて紫陽花を撮影
花言葉:「移り気」

 

 

4月13日(金)付記事より、「仕事」をテーマにした連載を掲載しております。仕事をとおして本当の意味で成長するにはどうすればよいのか、仕事をうまく運ぶコツとは何かなどについてのヒントとなれば幸いです。

 

【得意分野】

 

一流と呼ばれる人たちは、その人が一番得意なことを仕事にしています。絶対に自信があること、絶対に他人より秀でていると確信できる分野で勝負をし、優れた結果を出しています。たとえば、一流のサッカー選手ならば、すべてのスポーツに秀でているわけではなく、サッカーという一つの分野に打ち込み、突出した活躍をみせているのです。

 

ソフト化の時代は、頭を使える人、つまり知識・情報を駆使し、智恵を使える人が高く評価されます。だからこそ、自らを見極め、天分を知ることに注力することが、将来の評価に繋がります。P.F.ドラッカーも述べていることではありますが、自らの強み、仕事の仕方、価値観を知ることが、卓越した仕事を行えるようになる鍵となるのです。

 

若い読者のなかには、自分の得意分野、強みが何であるかがわからない人もいるかもしれません。それならば、いま携わっている仕事を得意分野にしてしまうのが一番手っ取り早い方法でしょう。そのために、がむしゃらに仕事に取り組む努力をしてください。いま、一流と呼ばれるスポーツ選手も、生まれたときからそのスポーツに秀でていたわけではありません。スポーツ選手に限らず、一流と呼ばれる人たちは、目標を定め、ひたすらに努力を重ねた時期を経たことで、自分の得意分野を確立したのです。

 

以前、分子生物学者の福岡伸一氏が「10000時間」という興味深いテーマについて、ラジオ番組で語っているのを私は偶然聴いたことがあります。同じ内容は、2008年8月21日付 日本経済新聞(夕刊)1面「あすへの話題」でも書かれていましたので、読まれた方も多いと思います(文末に転記しました)。

 

ある調査によれば(福岡氏の文章には出典は紹介されていませんが、インターネットで調べてみたところ、もともとは米国での調査のようです)、ひとつのことに10000時間集中して努力を継続した者が、プロフェッショナルとしての秀でた成果を出しているというのです。DNA研究者としての福岡氏が、天賦の才能よりも長期にわたるたゆまぬ努力こそがプロフェッショナルを作る基本であると指摘していることに、私たちは大いに勇気づけられましょう。

 

読者のなかには、仕事において、言われたことを漫然とただこなしている姿勢でいる人もいるでしょう。上司から指示をされなかったからと、受身の姿勢を改めず、無駄な時間の過ごし方をしてしまっている人もいるかもしれません。もし、あなたに、これらに思い当たるふしがあるならば、これからは、一流人に一歩でも近づくために、「自分はこの分野で一流レベルになる」という確固たる目標を定め、理想と気概をもって仕事に取り組み、それに近づくまでにひたすらに努力することが肝要です。そして自分の仕事を得意分野にできたならば、携わっていてより楽しく、より意欲的に取り組むことができるでしょうし、それゆえ成果も上がり易くなります。

 

取り組み始めの頃は、しばらくは努力が報われないこともあるかもしれません。しかし、時間がかかっても、評価は後から必然的についてくるものですから、途中で投げ出さない姿勢がなによりも大切です。まさに「継続は力なり」なのです。

 

(リライト 加藤・宮本)

 

 

(ご参考)
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 『10000時間』  分子生物学者 福岡伸一氏
2008年8月21日  日本経済新聞(夕刊)「あすへの話題」より転記

 

こんな調査がある。スポーツ、芸術、技能、どのような分野でもよい。圧倒的な力量を誇示するプロフェッショナルというものが存在する世界がある。そんじょそこらのアマチュアなど全くよせつけないプロフェッショナルたち。そのような人たちがいかにして形成されたのか。それを調査したものである。

 

世界的コンクールで優勝するピアニスト、囲碁や将棋の名人たち、トップアスリート。彼ら彼女らについて、ふつう私たちは半ばため息をつきつつ、次のように感じている。あのような人たちは天賦の才能の持ち主なのだ。われわれ凡人とはそもそもの出来が全く異なるのだと。

 

ところがプロフェッショナルたちの多くは皆、ある特殊な時間を共有しているのである。10000時間。いずれの世界でも彼ら彼女らは、幼少時を起点として少なくとも10000時間、例外なくそのことだけに集中し専心したゆまぬ努力をしているのだ。10000時間といえば、一日3時間練習をしたりレッスンを受けるとして、一年に10000時間、それを10年にわたってやすまず継続するということである。その上に初めてプロフェッショナルが成り立つ。

 

DNAの中には、ピアニストの遺伝子も将棋の遺伝子も存在してはいない。DNAには、人を活かすための仕組みが書かれてはいるが、いかに活かすかについては一切記載はない。プロの子弟はしばしば同じ道を進むことが多く、それは一見、遺伝のように見える。けれどもおそらくそうではない。親はDNAではなく環境を与えているのだ。やはり氏より育ち。DNA研究者の偽らざる感慨である。

 

前回は高井先生が長年にわたって発行・送付されている
「事務所報」という定期的な情報発信について書かせていただきましたが、
今日はそれの別な側面について書いてみたいと思います。
高井先生(高井・岡芹法律事務所)は過去にご縁を結ばれた方に対して、
四半期に一度、紙媒体の「事務所報」を継続的にお送りされています。
一人の方に対して年間に4通、翌年も、その次の年も、と続いていきますので、
これまでにお送りした分を合計するとかなりの数にのぼりそうです。
私も小さいながらも会社を経営している身として、この「事務所報」を
実現させるために必要となるであろう様々なコスト(時間や労力、金銭面)
について考えてしまいます。
それらについて直接お伺いしたわけではありませんので、あくまで私の想像では
ありますが、あれだけ幅広く充実した内容を準備されるのはそうたやすいことでは
ないでしょう。
さらにその内容を印刷し、郵送するところまでを考えると、全体では相当の
(有形無形の)コストがかかっていることと拝察いたします。
それは言葉を変えると、人のご縁を繋ぎ続けるために、
それだけのコストをかけられているということになりますし、
裏を返せば、それくらいのことをしてでも人とのお付き合いを
維持、継続させることには価値がある、ということでもありましょう。
高井先生からお話をお聞きすると、ありとあらゆる分野、年代の方と
お付き合いが続いていらっしゃることに驚かされるばかりですが、
以前、出張にご一緒させていただいた際に
長年にわたって関係性を維持している秘訣をお聞きしたとき、
まさに「事務所報のおかげだよ」といわれたことが深く印象に残っています。
そのお話を伺ったときに「去るものは日々に疎し」という言葉が思い出されました。
「親しかった者も遠く離れてしまうと、日に日に交情が薄れて
疎遠となってしまう」という意味ですが、この言葉が生まれた当時
(一説では南北朝時代の詩文集にあった句からとられたものだそうです)でさえ、
そうなのだとしたら、
これだけ情報流通のインフラが発達した現在では、
本人にそのつもりはなくても気がつけば「去るものは日々に疎し」となっていた
ということも日々、起こっていそうです。
毎日、たくさんの人と会い、電話、メール等のやり取りをし、
次々と新しい情報が入ってくるわけですから、
ほんの数日前の出来事であっても、油断するとすぐに記憶が曖昧に、
あやふやになってしまうことは、誰しも経験があるのではないでしょうか。
それは逆に考えると、私たち自身も他者から忘れ去られてしまいやすい
ということにつながります。
せっかく生まれたご縁を未来に繋ぎ、相手の方から忘れられないようにし、
さらには関係性を深めていくためにも、高井先生のように定期的な情報発信を
継続して行うことは、一つの方法論として参考にさせていただけるのではと
考える次第です。

前回は高井先生が長年にわたって発行・送付されている

「事務所報」という定期的な情報発信について書かせていただきましたが、

今日はそれの別な側面について書いてみたいと思います。

 

高井先生(高井・岡芹法律事務所)は過去にご縁を結ばれた方に対して、

四半期に一度、紙媒体の「事務所報」を継続的にお送りされています。

 

一人の方に対して年間に4通、翌年も、その次の年も、と続いていきますので、

これまでにお送りした分を合計するとかなりの数にのぼりそうです。

 

 

私も小さいながらも会社を経営している身として、この「事務所報」を

実現させるために必要となるであろう様々なコスト(時間や労力、金銭面)

について考えてしまいます。

 

それらについて直接お伺いしたわけではありませんので、あくまで私の想像では

ありますが、あれだけ幅広く充実した内容を準備されるのはそうたやすいことでは

ないでしょう。

 

さらにその内容を印刷し、郵送するところまでを考えると、全体では相当の

(有形無形の)コストがかかっていることと拝察いたします。

 

それは言葉を変えると、人のご縁を繋ぎ続けるために、

それだけのコストをかけられているということになりますし、

 

裏を返せば、それくらいのことをしてでも人とのお付き合いを

維持、継続させることには価値がある、ということでもありましょう。

 

 

高井先生からお話をお聞きすると、ありとあらゆる分野、年代の方と

お付き合いが続いていらっしゃることに驚かされるばかりですが、

 

以前、出張にご一緒させていただいた際に

長年にわたって関係性を維持している秘訣をお聞きしたとき、

まさに「事務所報のおかげだよ」といわれたことが深く印象に残っています。

 

そのお話を伺ったときに「去るものは日々に疎し」という言葉が思い出されました。

 

「親しかった者も遠く離れてしまうと、日に日に交情が薄れて

疎遠となってしまう」という意味ですが、この言葉が生まれた当時

(一説では南北朝時代の詩文集にあった句からとられたものだそうです)でさえ、

そうなのだとしたら、

 

これだけ情報流通のインフラが発達した現在では、

本人にそのつもりはなくても気がつけば「去るものは日々に疎し」となっていた

ということも日々、起こっていそうです。

 

毎日、たくさんの人と会い、電話、メール等のやり取りをし、

次々と新しい情報が入ってくるわけですから、

ほんの数日前の出来事であっても、油断するとすぐに記憶が曖昧に、

あやふやになってしまうことは、誰しも経験があるのではないでしょうか。

 

それは逆に考えると、私たち自身も他者から忘れ去られてしまいやすい

ということにつながります。

 

せっかく生まれたご縁を未来に繋ぎ、相手の方から忘れられないようにし、

さらには関係性を深めていくためにも、高井先生のように定期的な情報発信を

継続して行うことは、一つの方法論として参考にさせていただけるのではと

考える次第です。

 

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