(2011年7月11日 朝7時07分 東京都渋谷区 代々木公園にて撮影)
【「気を入れて仕事をする」とは?】
「気を入れて仕事をしなさい」などとよく言いますが、この「気を入れて」とは、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。「気乗り」がしない状態(即ち「気」のエネルギーが弱い状態)で仕事をしても良い結果はでませんが、「よし、やるぞ!」という気持ちを持って仕事をすると、「気」のエネルギーが高まり、おのずと良い結果がでるのではないかと思います。ですから、「気を入れる」ということは、「気」の波動を活発にさせ、エネルギーを費やさせるということではないかと考えます。
「気を入れる」に共通する概念として「気合」というものがあります。「気合が入る」「気合を入れる」という言葉は、普段皆さんも頻繁に使う言葉だと思います。週刊文春の2011年7月14日号のグラビア記事のインタビューで、アテネ・北京オリンピック競泳金メダリストの北島康介選手は、「まずは練習で体と泳ぎをしっかり作り上げるのが先。気合を入れるのは、世界水泳の開幕直前」と、「気合」という言葉を使っています。
気合を入れて勝負時に相手を圧倒するということは、「気」はエネルギーであり、つまるところ「気」の効果であると思います。まさしく「気を引くこと」(それとはなしに相手の心を探ること、相手の関心をこちらに向けさせること)にもなるのです。
弁護士である私も、例えば、講演を行う時、「気合を入れて」つまり「気を入れて」行うと、それまでザワザワしていた状況が静かになるということがよくあります。その場の雰囲気に合ったお話をすること、焦点がはっきりしたお話をすること、あるいは熱意をもってお話をすることによって、自ずから静かになり、ザワザワした状況は勿論雰囲気も消えてしまうのです。
仕事をする上では、「気は持つことができる」「気を入れることができる」、「気持ちをこめることができる」ということに気づかなければならないと思います。「気を持つことができる」というのは、「気を維持することができる」、すなわち形のない「気」を、人間は持続的に保持することができるということでしょう。「気を入れる」とは、持っている「気」を相手に伝え、相手にそれを受け取ってもらえるということでしょう。具体的に言えば、真摯に話をすれば、その「気」は相手に伝わって、真摯な話として聞いてもらえるということです。
このように、「気」は、方向性のあるもの、しかも全ての方向へと作用しているものであります。そして、「気」を発信した人と、その「気」を受け取った受信者との間において双方向になるものです。つまり、「気」は単に個人の体内のみに留まるのではなくて、体外に全方向へと発信されるエネルギーであり、また受信者との関係において双方向にも作用するものであるがゆえに、コミュニケーションという世界において、大変意味のあることになるということに気がつかなくてはならないと思います。「気をいれて仕事をしなさい」、という言葉には、「コミュニケーションをしっかりとって仕事をしなさい」という意味をも含むのだと考えます。
【「気を入れて仕事を行う」具体例】
「気を入れて」仕事を行うということに関連して、私が親しい知人からお聞きした興味深い話をご紹介したいと思います。
私と1996年以来面識のある伊東豊雄先生という日本を代表する建築家の方がいらっしゃいます。最近では、「子ども建築塾」という、10歳~12歳くらいの子どもを対象としたワークショップも行われているそうです。(文芸春秋2011年7月号81頁)
さて、伊東先生は、「一本の線を手書きで書くということは、『気持ちが出る』」とおっしゃっています。そして、「若い人は『気持ちが出る』ことを怖がり、恐ろしがります。」とおっしゃっています。それ故に、伊東先生の事務所の入所試験は、手書きで一本の線等の図面を書いてもらい、それを持ってくることがまずは条件だそうです。その一本の線から湧き出る「気」から、入所希望者の人となりや、意欲等といった「気」を判断したいため、CADなどコンピューターに頼った図面は入所試験の前提として採用していないそうです。
設計図は、その図を書いた建築士だけのものではなく、また単なる紙きれではなく、その図を見る人、つまり建築を依頼した人や、実際にビルや家を建築する現場の人等沢山の関係者の気持ちを伝え、その関係者の気持ちに応えることができる大事なツールだからです。ですから、伊東先生のお話しの通り、コンピューターではなく、手書きでの設計図を入所試験に用いるということは、「気」のコミュニケーションで展開する設計という場面においても、重要なことだと思います。
【気配を伝えるべく「気を入れる」ことが芸術家の仕事】
7月2日、私が20年ほど前からささやかに支援している成田禎介先生とともに、東山魁夷先生の処女作とも言うべき『道』の現地に赴くため、青森県八戸市の種差海岸を訪ねました。種差海岸では、写真も何枚か撮影しました。『道』の現地は、まさに典型的リアス式海岸に面していましたが、『道』では、これは描かれず、これにまさに隣接していた道が描かれたものです。東山先生は、この道を歩み続けることがご自分の画業だと悟り、この作品を発表されたのではないでしょうか。要するに、美しく変化に富んだ海岸縁ではなく、それに隣接した一本の道を描いたことで、東山先生が生涯をかけて画業に生きるというご自分の決意を表明されたのでしょう。
さて、成田先生は、美術の大学に入学せず、勿論卒業歴もなく、言わば独学で風景画の大家になった方です。「絵は現場で描くよりも、アトリエで描いた方が良い」とおっしゃっていました。現場で描くと現場の風景の美しさに引き付けられすぎて、のめりこんでしまい、酔ってしまうからだそうです。成田先生は、現場でのデッサンを基に、心に抱いた美意識を発酵させた上で、アトリエで描くというのです。それによって、絵に自分自身の個性が映し出されることになるのです。「発酵」とは、私は「気」の働きだろうと思います。
「発酵」とは、科学的には「酵母などの微生物が嫌気条件下でエネルギーを得るために有機化合物を酸化して、アルコール、有機酸、二酸化炭素などを生成する過程」のことだそうですが、「発酵」についてインターネットで検索してみたところ、「イヤシロチでは、発酵が進み、ケガレチでは腐敗が進むといったことが起こる」という記事を見つけました。
「イヤシロチ(弥盛地)」とは、最近では小生の知人である船井幸雄先生のご著作で言葉としても一般的にも普及してきたそうですが、「生命力が盛んになる土地」のことだそうです。また、「ケガレチ(気枯地)」とは、「気」が枯れた土地のことだそうです。つまり、発酵には「気」が必要で、「気」がないと発酵ではなく腐敗してしまうということだそうです。こういったことから、美意識を発酵させ作品を作るためには、「気」というエネルギーが非常に重要であるのではないでしょうか。
【参考】
http://www.yajimaminoru.com/article/13825026.html
http://www.igakutogo.com/narasaki.html
成田先生は、「自然は、人間を乗り越えて創造されているものだ」という気配を感じて、それを発酵・熟成させることが絵の魅力に繋がるというお話をしてくださいました。絵を見る人が、その気配(明確ではないけれど何となくそのような感じがすること)を感ずることができるような作品にこそ魅力があるということです。
私は、ある日本画の大家と言われていた作家について、物故になれば、まったく画料だけのものになって事実上無価値になるというお話をしてきました。それは、その作家の絵には「気配」がなかったからです。この話は、私の社長フォーラム(1993年5月~2007年7月、計127回にわたって開催)に出席していた多くの方が聞いておられますが、その作家をヨイショしていた画商は、本心良心のない画商だといえるでしょう。勿論、その画商も本物の絵でもないのに本物の絵として売り込んだ、すなわち美でないものを美として売り込んだ責任があり、それは地獄にいくに値するものであろうと思っています。地獄にいくということは、宇宙との絆を生きている間にどこかで切ってしまっている方であるということです。
これらのエピソードには通ずるところがあると思います。図面にしろ、絵画にしろ、「気を入れて」「気持ちを入れて」「思いを込めて」美意識という気配を伝えるべく書き、または描き、その「気」や「思い」等が作品に込められ、それを見た人に感動・感銘を与えることが出来るのだと思います。「気は心」という所以ではないでしょうか。
【弁護士として「気を入れて」仕事するために私が注意していること】
弁護士も「気を入れて」仕事をしなければならないのは言うまでもありません。「気を入れて仕事をする」というのはどういうことかと言えば、裁判官に当方の「気」が乗り移ること、そして相手方の依頼者と相手方の「気」を削ぐことが目的です。削ぐ為には、当方が良心に従って「気を入れて」仕事に励む必要があります。
「良心」については、当ブログ内ですでに繰り返し述べてきましたが、憲法にある良心の意味として、「真・善・美」・「夢・愛・誠」であると述べました(詳しくは、『地震』の第10回(5月13日付)及び第12回(5月20日付))。しかし、実はそれだけではなく、「義理」・「人情」に生きて、(自己)規律を負うという姿勢も良心には必要でしょう。
弁護士はとかく責任転嫁ということに走りやすいですが、それでは、良心に従ったことにはならない、と言うことを肝に銘ずるべきです。要するに、「気」が乗り移る、相手の「気」を削ぐということは、当方の良心が相手を負かすということです。これは、裁判官が「なるほどな」と思うことであり、相手方が当方の言い分も「もっともだな」とほんの一部でも感じ入りさせるということです。
このためには、「気を入れて」書面を作る、「気を入れて」弁論(発言)をする「気を入れて」交渉をするということが大変大切であり、それには何と言っても、単眼で行うだけではだめで、複眼で事態を飲み込み、当方の有利なルート・チャネルを開発していくことが必要です。
弁護士たる者は、単眼でなくて複眼であるべきで、すなわち、人間としての広く深い幅と洞察力、あるいは見通し、さらに弱々しく言えば予測を意識して対処しなければならないのです。
かかることは弁護士だけではなく、およそ仕事をする者は、「気を入れて」仕事をしなければならないのは言うまでもありませんが、人間としてのより広く深い幅等を、自ら築き上げることに努めることが必要でしょう。
次回以降も「気」をテーマとした記事を投稿していく予定です。
高井・岡芹法律事務所
会長弁護士 高井伸夫
(次回に続く)